2011年3月4日金曜日

[diary]ブハラからサマルカンドへ

ブハラからサマルカンドへ

2009/01/24(土) 曇り、晴れ 日中10℃前後
[Buhkara→Samarqand:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1540スム(ブハラの闇両替で)

・鉄道でサマルカンドへ
・車両内で警官から賄賂要求
・歴史博物館で闇商売
・サマルカンドのマドラサ
・バザールで

1時頃に目が覚めたので、そのまま明け方まで書き物。

6時をすぎて宿を出る準備をして、6時半の朝食に備える。

時間通り6時半ちょっと前に宿の人が朝食を持ってぼくの部屋のドアをノックする。今日も一緒に移動する台湾人のYさんと同じ部屋で朝食。彼女は昨晩も部屋が暑すぎて何度も夜中に目が覚め、よく眠れなかったらしい。

7時に宿をでる。宿の人が鉄道駅行きのマルシュールトカ(乗り合いワゴンバス)乗り場まで連れていってくれる。外はまだまだ真っ暗。朝食時にチャイを飲んだおかげでたいして寒くないが、気温は4度程度のよう。

歩いて10分ほどでラビハウズ近くのマルシュールトカ乗り場に到着。予想通りまだこの時間ではマルシュールトカはほとんど走っていなかった。数台のマルシュールトカが止まっているが、すべて違うルート。宿の人に客待ちしているタクシーの運転手が話しかけ、客を自分によこせと言っている。

しばらく待つ。その間に宿の人にタクシーのことを聞く。こちらのタクシーはたいてい運転手が自分で車を購入し、国から許可をもらって営業を始めるらしい。ウズベキスタンでも自動車は生産していて、軽自動車が1500米ドルほどするらしい。自動車会社は韓国との合併企業で東部のアンディジャンあたりに工場があるらしい。

結局、7時20分になってもマルシュールトカが来なかったので、タクシーを使うことにする。マルシュールトカだと500スム(約35円)だか、タクシーでは1人2000スム(約130円)。これはローカルプライスらしい。言い値は二人で5000スム(約350円)ほどだったが、宿の人が交渉して現地料金になった。

タクシーに乗ること20分ほど、駅に到着。駅舎はわりと最近改装されたようで、なかなか立派な建物。ちょっとした宗教建築的雰囲気を醸し出している。

駅舎の構造は単純でトンネルのごとく、入り口から入るとその先がホームにでる出口になっている。ホームに入る前にチケットのチェックがある。

1番手前のホームに止まっていた列車の通路を跨いで、向こう側のホームに出て、その向こうに停まっている列車に乗り込む。車両はシリアで乗った鉄道と同じタイプ。車両の真ん中を境に座席が向き合っていて、その真ん中の天井にはテレビが設置されている。車内は薄暗い。天井の蛍光灯は3本しか点灯していない。通路を挟んだ隣の席にはヌクスで同じ部屋だったカナダ人がいた。

列車は8時過ぎにほぼ予定通りに発車。テレビではドラマが始まる。

外はようやく明るくなるが、霧がかかっていてあまり遠くまでは見渡せない。

寝る。

しばらくして目を覚ます。車窓から民家が見えたので、それを写真に撮ると車両にいた警官に呼ばれる。そして連結部分の一室に連れて行かれる。

警官はパスポートを見せろと言う。素直に見せるとそれを見ながらビザの番号などを紙ぺらに書き写す。それからカメラがどうのというので、ぼくは警官の前でさっき撮った写真のデータを消す。

データを消せばおしまいだろうと思っていたが、おかしなことに警官はなぜか席を外していたYさんも呼ぶ。彼女はぼくの隣に座っていたが、ぼくが窓から写真を撮ったときには席を外していて、その場にはいなかった。にもかかわらず、警官は彼女を呼び、パスポートを見せろと言う。明らかにおかしい。

警官は彼女のビザ番号みたいなものを同じく紙ぺらに書き写す。そしてロシア語でいくつか質問をする。彼女がサマルカンドに行くと伝えると、警官はロシア語と仕草でサマルカンドで降りずにタシュケントまで連れていくと言い出す。彼女はロシア語がまったくできないので、警官がそう言っても、その意味を解さず、「イエス、イエス」と言う。

それから警官は何かを書く仕草をして、”二人で20米ドル”と言ってくる。どうも何かの文書を作成するから20米ドルよこせと言っているらしい。なぜか?と尋ねるが、答えを聞いてもロシア語がわからないので、わからない。Yさんも英語で何が問題なのかと聞いたりする。すると、なぜか警官はYさんにだけパスポートを返し、出ていって良いぞというような仕草をする。

そして彼はぼくに10米ドルよこせと言ってくる。「ニェート、ニェート」と答えると警官は”米ドルを持っていないのか”と聞いてくるので、”そうだ”と答えると彼は笑う。ぼくが加えて”10米ドルは大金だ”と言うと、また彼はにやっと笑って、ようやく諦め、パスポートを返してくる。そうして最後は握手してお別れ。ぼくは昨日買ったクルミとレーズンの入ったビニール袋を手に持っていたので、それを出して彼に勧めると彼はクルミを1粒取る。こうして解放される。所要時間は30分ほどか。

席に戻るとYさんがオカネを払ったのかと尋ねてくるので、「ノーノー」と答え、警官とのやりとりの中で彼女がおそらく理解していなかった部分について解説。その後、サマルカンドに着くまでは何もなかった。

11時。すばらしいことに到着予定時刻通りにサマルカンドに到着。駅のホームに降り、出口の方向をきちんと確認せずにホームを歩いていると、さっきの警官が出口は逆方向だと教えてくれる。良い人なのか悪い人なのかよくわからん。

カナダ人も含めて3人で駅舎を出る。駅を出たところに韓国人っぽい若い女性がいたのだが、その人はカナダ人の友達だった。Yさんが彼女に”あなたはウズベキスタン人に見えないけどどこの人?”と英語で尋ねると”自分はコリアンだ”と答える。

彼女が先導する形で駅舎から歩いてマルシュールトカ乗り場まで行く。そこでコリアンの彼女とカナダ人とはお別れ。軽ワゴンのマルシュールトカに乗り込み、市街地に向かう。

駅前にもちょっとしたバザールがあった。沿道には四角いコンクリートの建物。舗装されている車道は片道2車線あり、歩道を歩く人の多さや沿道の建物群から、けっこう大きなまちであることがわかる。

いかつい造りの大学の建物の前を通り、遊歩道に沿って車は走る。

30分ほどで終着のレギスタン広場に到着。着いた途端にタクシー運転手らしきおじさんたちがホテルの名前を聞いてくるが、ブハラでのことがあるので適当にやりすごし歩き始める。

博物館の脇を通り、レギスタン広場を横切る。ここの最大の見所であるレギスタン広場のマドラサ(神学校)の建物はこれまで見たものよりさらに大きく、デザインも鮮やかだった。

歩いていたら広場でぶらぶらしていた物乞いの少女たちが寄ってくる。口に手をやりながら何か食べ物をちょうだいといった仕草をするので、昨日ブハラのバザールで買ったリンゴなどをやる。13~15歳くらいであろう少女にはりんご1kgを、12歳前後に見える少女にはみかんを2つ、10歳前後に見える少女にはトマトときゅうりのピクルスをあげると、受け取ったらすぐに走り去っていった。なかなか元気がいい。

渡した後歩きながら少し振り返り、彼女らの様子を見ると、彼女らの母親らしい女性の元に集まり、さっそくみんなでリンゴをかじっていた。

そんなことをしながら歩いていたが、どうも地図上で自分が認識している現在地と地図の表記が違っていることを感じる。改めて地図を確認すると方向を間違っていた。戻る。

レギスタン広場にまた戻るとさっきの少女がまたやってきて、困ったような表情をして「ボンボン、ボンボン」と言いながら手を差し出してくる。「シトゥー、ボンボン?」と聞くと、どうも飴玉のことらしい。飴は持っていないのでないよと言うと、諦めて離れていった。

こっちだろうと思っていた道もまたどうも違うように感じ、沿道の店の人に行きたい通りを尋ねると教えてくれる。

そうして30分以上さまよったあげく、目的の宿に到着。目的の宿はマルシュールトカを降りた地点から見える範囲(おそらく200m内)にあった。

部屋代は1泊朝食付きシングルで10米ドル。部屋に荷物を置いた後、ティールームに案内されそこでチャイとクッキーをごちそうになる。その間、宿の人はパスポートをぼくらから預かり、レギストラーツィアを作成。

ティールームには誰かが持ってきたらしい2008年12月25日付の『中日新聞』と『日刊スポーツ』があったので、ぼくはそれらをぺらぺらとめくる。『中日新聞』の大きな記事は麻生内閣の予算内容と派遣切り。また情報ノートもあったので、それをめくる。たいして新しい情報はない。

パスポートとレギストラーツィアの紙をもらってから外に出る。まずはすぐ近くのウズベキスタン文化歴史芸術博物館へ。

いかにもソ連的な造りの建物。屋外には遊牧民が使っていたらしい移動式住居(モンゴルで言うゲル)が展示されている。

館内に入って入場チケットを買う。外国人は4200スム(約250円)。現地の人は500スムほど。高い!

1階の壁にはサマルカンドにある歴史的な建築物それぞれの修復前と修復後の写真がかけられていたので、それを見る。白黒の写真とカラー写真を見比べてみると、やはり修復以前はそうとうガタがきていたことがわかる。とても使えるような状態ではなかった様子だ。

2階が本格的な展示室になっていたので、そちらに行く。石器時代の掘り出し物やアレキサンダー大王、アラブやモンゴルなど各年代にまつわるものが展示されている。具体的には建物のタイルの一部や壁画、コーランの写本やコイン、剣、陶器などなど。

ある展示室では監視の女性たち4人が机を囲んで食事をしていた。食べているものは持参したものばかりのようで、小さな鍋に入ったままのジャガイモ料理や深い大きな丼にトマトを使った料理が盛られていたりする。

その中の一人のおばちゃんがこっちに来いというので、近くに行くと「スーベニール」と言って、手作り刺繍の携帯電話入れケースを見せてくる。そういうものには興味がないのでいらないと断るが、料理の方には興味があったので、それらの料理について聞くと、名前を教えてくれ、さらにそこに座って食べてみろと言う。

聞いてみたらやはりみなおばさんたちが自宅で作って持ってきた料理ばかり。お茶も出してくれ、パンとともにそれぞれの料理をいただく。どれもパンと一緒に食べるのには合う。

食べているとおばちゃんがまたさっきの携帯ケースを取り出して買わないかと言うので、”レーニンはないか?”とぼくが尋ねると、おばさんは机の下からソビエト時代のオカネを取り出して見せる。用意がいい。どうもこうして外国人観光客を捕まえてはここで商売しているらしい。

お札は数種類あった。ぼろぼろの1ルーブル紙幣はくずみたいなものだが、50ルーブル紙幣と100ルーブル紙幣にはレーニンの横顔があり、またソビエト連邦内の各国の名前をそれぞれの文字で書いてあり、かつ印刷された年が1991年とあったので、ほしくなる。聞くと1枚2米ドル。高い。

50も100もどっちもけっこうしわが多かったので、もっときれいなお札はないか尋ねると、おばさんはきれいな新品物の10ルーブル紙幣を見せてくれる。デザインはほとんど一緒でこれにもレーニンの横顔とグルジア文字やアルメニア文字が記載されている。こっちの値段を聞くと1枚1米ドルと言う。おばさんはきれいな10ルーブル紙幣を大量に持っていたので、なぜそんなに持っているのかと聞くと、ソ連時代に10ルーブル紙幣の束を自分の家で保管していた(いわゆるタンス預金だろう)が、ソ連が崩壊してしまったので使えなくなったと仕草混じりで教えてくれる。

米ドルではなくスムで払えるかと聞くと、オッケーだと言う。で、どれくらい買おうかと悩んでいると、おばさんは10ルーブル札の束(50枚以上あった)を数えて見せて、全部で5万スム(約3300円)でどうかと言ってくる。さすがにそんなにいらないから断る。1000円分相当(約15000スム)だけ買おうと札を選ぶ。

50と100ルーブル札、あときれいな10ルーブル札を6枚ほどで1万スム(約800円)でどうかと聞くと、10ルーブル札を10枚と今は使えない古いスムのお札やコインを付けて2万スム(約1300円)でどうかと言ってくる。2万も払う気はないので、首を横に振るとおばさんはきれいな10ルーブル札を2枚、しわの入った同額の札を5枚加えて、これはプレゼントだから、2万スムで、と畳みかけてくる。

結局、2万スムを払い、きれいな10ルーブル札12枚、しわの多い同札5枚、1991年発行の50と100ルーブル札各1枚、ぼろい1ルーブル札1枚、ぼろきれのような1スム札1枚、わりときれいめの5スム札2枚、それからスムのコインとルーブルのコインを10枚程度を買う。

そうしてから見学を再開。展示を見ていたら、札を売ってくれたおばさんが横に来て、”博物館の他の職員や警官に尋ねられても、問題になるからここで買ったということは言わないように”と言ってくる。

歴史の展示を見た後は、各地域の伝統的な服の展示などを見る。どこでもそうだが、やはり近代以前の方が人々の服の色は鮮やかだったよう。

それからレギスタン広場に行く。3つのマドラサ(神学校)などを見ることができる入場券を買う。外国人料金で6500スム(約430円)。後で聞いたが地元の人は500スムらしい。地元の人の10倍なんて、取りすぎだろ!

ちょうど空が晴れてきたので、それぞれの建物がきれいに見える。アラビア的な曲線美が目を引く。遠目にはとてもきれいに見えるけど、近くで見ると一部のタイルは貼がれていたりするし、けっこうぼろくなっているのが見て取れる。

ティッラカーリー・マドラサ内にあるモスクは内装に金箔がふんだんと使われ、天井は万華鏡を覗いたかのような金ぴかのデザイン。とてもきれいなので、これらは修復されたものなのだろう。

小学生くらいの子たちも先生らしき大人に連れられて見学に来ている。男の子二人が一緒に写真に写ってもらえないかとロシア語で聞いてくるので、一緒に写真に写る。

マドラサの内側の中庭に面した小部屋は土産物屋になっていた。1つの土産物屋に入ると絵はがきやガイドブック(日本語もあり)、剣などとともにシークレットボックス(と店の人は言った)と言う、ちょっとした細工がされてある名刺入れや箸箱のようなものが売っていた。この細工がなかなかおもしろい。が、20ドル近くしたので買わず。

レギスタン広場にあるそれらの建物を見た後、新市街の方に行く。いかにもソ連時代に建てましたという一昔前の外観の高層ホテルや政府関係施設があり、道路がまた広い。歩道も広いので歩く分には安全でいいのだが、全体的に閑散としている印象を受ける。

新市街の方にはたぶんここ数年のうちにリニューアルされたらしい商店が建ち並ぶ通りがあったり、デパートがあったりする。しかし、中南米やアフリカにもあったようないわゆるスーパーやショッピングセンター的な店は見あたらない。古い言葉で言えば”西側”の資本が入ってないからだろう。

歩いていたらバザールに行き着いたので寄る。バスケットコート2面分程度の小さなバザールで屋根付きで、タイル張りの陳列台も整備されている。物売りの人はたくさんいるが、客は少ない。数えられる程度。売られている物はヒヴァやブハラのバザールと同じ。食べ物が中心。オレンジと黄色の人参やじゃがいも、かぼちゃ、日本で言う辛み大根に似た緑色の小さな大根、紫色のカブ、じゃがいも色のカブ、ほうれん草などの葉物、トマト、りんご、ぶどう、みかん、米(短粒米)、小麦粉、チムチなど手作りの総菜(サラダ系)、ピクルス、ナッツ類、各種香辛料などなど。

見ていたら声をかけられる。どこから来たのかと尋ねられ、ヤポーニャと答えると「ヤポーニャ」と言いながら、その人は米を売っていた別の若い男を指さす。最初、どういう意味かわからなかったが、彼が日本語で話しかけてきてようやくその意図がわかる。

日本語を話す彼(ニックネームはサシャ)は現在27歳で既婚、子どもが1人いる。聞くとほんの3ヶ月前に日本からウズベキスタンに帰ってきたらしい。彼は日本にいる間に独学で日本語を勉強したとのこと。日本には3年ほどいて群馬県の大泉町で缶コーヒーの缶を作る仕事をしていたらしい。彼の兄2人(だったか)も日本で働いていて、すでに10年暮らしているらしい。彼らは日本人女性と結婚し、子どももいるらしい。大泉町はブラジル人が多いことで知られているが、彼の話ではウズベキスタン人もそれなりにいるらしい。ただ、最近15人ほどのウズベキスタン人がオーバーステイで警察に捕まってしまったという。

ぼくは日本で働けるという話をどこから仕入れたのか知りたかったのだが、うまく言葉が通じず。ビザのことを聞いたらウズベキスタン人にとっては日本のビザの入手は非常に難しいらしい。

彼の隣にやはり市場で働いている同年代くらいの男が2人寄ってきて、彼に何事かを問いかける。彼が通訳するところによれば、ぼくに日本とウズベキスタンとどっちがいいかと聞きたいらしい。

ぼくは日本は忙しすぎると答えると、サシャは「そうですね。」と言ってから「ここ(ウズベキスタン)は毎日が遊びみたい」と言う。

そんな話をしばらくしてからお別れ。バザールにある有料(200スム)のトイレによってから、またプラプラ歩く。ネット屋があったので、ここに寄る。1時間1000スム(約70円)。日本語は読めなかったので、写真のデータのバックアップだけやる。スピードはそこそこ早いが、何かをダウンロードにするは遅い。

絵はがきを書いたかったのだが、売っている店が見あたらなかったため、またレギスタン広場のマドラサに行き、そこの土産物屋に行こうとしたが、マドラサ似着いた17時にはもう閉まっていた。

風がやや強くふくようになり、袖口から手を出しているとすぐに冷たくなる。しかし、気温は5度程度。

17時をすぎるとすっかり店も閉まってきていたので、宿に戻ることにする。途中、近くにある食料雑貨点による。店にはいるとドア近くにきょうだいらしい子どもが3人いた。背丈から判断するに女の子が一番年上らしい。おそらく12歳くらい。他は男の子でいずれも10歳に満たないように見える。彼女らの服はだいぶ着るしているようで、ぼくのウィンドブレーカー同様汚れている。ぼくを見ると3人でこちらを見ながら話を始める。彼女らの前を通ったときに「サラーム」と声をかけるとみな「サラーム」と返してくれる。

そのすぐ後、店の親父が彼女らに強い口調でなにをか言う。すると3人は店から出ていってしまった。おそらく店の人は出て行けと行ったのだろう。服の状態すればおそらく物乞いの子たち。親らしき人はいなかったが、ストリートチルドレンかどうかはわからない。

その店でちょっとした買い物をして外に出たときには、辺りを見回しても彼女らの姿は見えなかった。

18時近くになり、辺りは暗くなってきたので宿に戻る。

宿のティールームで宿の人が出してくれたチャイを飲みながら読み物をしていると、ヒヴァとブハラであった日本人旅行者(大学生)女二人組と、やはりブハラで会った日本人旅行者(大学生)男一人に再会。みなここに泊まっているという。

ぼくは晩飯を宿に頼んでいたので夕食。夕食はラグマン。これで3回目。ここのラグマンは麺の芯の部分が管のように穴が開いて歯ごたえもやわい。パスタか何かを使っているのかと思ったが、宿の人には確認せず。具は四角く切った人参などと角切りの牛肉。スープはあっさりしている。

飯を食いながら、また飯を食った後もそこでおしゃべり。フランス人カップルもいたので、彼らも含め7人(日本人4人、台湾人1人、フランス人2人)でのおしゃべりとなった。めいめい日本語、英語、ロシア語、中国語、仏語でのおしゃべり。

フランス人カップルもまたブハラで食事をしたレストランで見かけていたので、結局、ぼくにとってはすべての人が2度目、3度目だった。

フランス人カップルは1年程度の予定で旅行をしており、現在7ヶ月目。ロシアから始まり、カザフスタン、キルギスと来て、ここらしい。翌日聞いてわかったことだが、中国にも入ろうとしたが彼らが連れている犬2匹の入国を拒否されたためやめたらしい。

言葉の話になり、日本人側の3人がフランス人カップルに簡単なフランス語を学ぶ。日本人側は鼻音がなかなか発音できない。

また台湾人の彼女は、自分がフランスに行ったときの経験も交え、フランス人は英語を話さないと言われているが、本当かと尋ねる。彼はよくそういう質問をされるが、自分としては必ずしもそうではないと思っていると答える。自分のように英語で話しかけられれば英語で答える人はいる。ただ、たまにナショナリスティックな人に出会うとそういうことが起こるといったことを言う。

また彼と旅行に出る前何をしていたのかという話になる。互いに仕事を辞めて旅に出てきたという点は同じ。彼は、なぜ旅をするために仕事を辞めないといけないのか(辞めざるをえないのか)ということを旅行中に会った現地の人(おそらく入管などでのことも含まれていると思われる)に説明するのは難しいと言う。説明してもなかなか理解されないらしい。ぼくは学生で通しているので、彼と同じような経験はしていないが、そうであろうことは容易に想像できるし、そもそもそうした面倒を回避するために学生と称している。

彼はフランスでは高所(建築物の屋根や外壁、塔のような建物)での各種作業をする仕事をしていたらしい。しかし、いつ仕事が入り、どこでその仕事があるのかもわからず、使い回されるのであまりおもしろくなかったよう。彼はその生活を「stupid life」と言っていた。

日本人の女子学生らになぜウズベキスタンに来たのかと尋ねると、1人の方がデザインに関心があって、テレビでブハラやサマルカンドの映像を見て実物を自分の目で見たいとずっと思っていたらしい。そこで相方の彼女に3週間ほど前に一緒に行かないか尋ねたところ行くということになり、2人でやってきたということらしい。

卒業旅行はまた別にあるそうで、一人の方はこのたびから帰国後2日後に今度はフランスとドイツに行くらしい。

日本人男子学生旅行者は、日本の大学を休学して中国の新彊に留学していたのだが、それが終わったので、一緒に勉強していた中央アジア出身の友達などを頼り、こうして旅行していると言う。彼は帰国後就職活動に入るということで、彼女らから就活話を熱心に聞いている。ぼく自身もまともに就活をしたことがないので、彼女らの話は興味深い。基本的にぼくの卒業時と就活のやり方は変わっていないようだが、内定取り消しなどの話はあるが、やっぱり就職率はぼくのときと比べだいぶ良かったよう。

23時頃までそうしておしゃべりをしてから解散。あとは部屋で寝る。シャワーを浴びようと思ったがお湯が出ないので中止。室内は暖房がよく聞いているので、まったく寒くない。

Fin

0 件のコメント: