2011年3月4日金曜日

[diary]オシュ1日目

オシュ1日目

2009/01/29(木) 晴れ
[Osh:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)

・朝ご飯はスープマカロニ
・ネット屋、電話(保険延長)
・バザールをふらり
・ロシア語辞書探し
・レーニン像
・晩ご飯はポロ
・踊るムスリマ

7時頃目が覚める。同じ部屋には長男が寝ているのだが、彼はまったく起きる気配がない。窓はあるが小さいため陽もほとんど差してこない。だから部屋の中は暗い。

7時半くらいになってようやく長男が動き始め、隣の部屋から家主夫婦の声が聞こえてくる。

おじさんがこちらの部屋に顔を出し、ロシア語でなんとかと言いながら顔を洗う仕草をするので、「ダー、ダー」と言って顔を洗わせてもらうことにする。台所か洗面所にでも連れていってくれるのかと思いきや、おじさんはやかんとタオルを持って再び現れる。そして、外に出るよう促す。

身体が十分に暖まっているためか外はたいして寒くない。両手をそろえて水を受け取る構えをして、そこにお湯を注いでもらう。3~4回顔を洗い、タオルで拭う。

部屋に戻り壁にもたれて座る。なんだか腹の調子がおかしい。昨日ここで食べたヨーグルト玉(どうやって作ったのか知らないが勝手にこう名付けた。飴玉のように球形で味はヨーグルトの水分を抜き取って凝縮したような感じ。けっこう酸っぱい)があたったのかもしれない。

家主のおじさんはテーブルに湯呑みとお茶の入った急須、それにナン(円形のパン)を並べる。ナンは適当にちぎって適当にテーブルの上に並べる。皿の上には置かない。それで「クーシェ(食べて)」と言う。腹の調子が優れないので、会話帳を指さし腹がおかしいから朝飯はいらないと伝える。するとおじさんは薬は持っているのかと聞いてくる。持ってはいるけど、この程度なら薬を飲まずとも治るので適当に相づちをうって応える。

薬は持っていると言ったのにおばさんが錠剤の薬を持ってきて、一粒飲むよう言う。断ったが聞かないので一粒もらって飲む。それからやはり先ほど伝えたにもかかわらずぼくのぶんの朝食が運ばれてくる。お粥のようなものなら食えないこともないが、出てきたのはジャージャー麺のような赤とオレンジ色のスープにスパゲッティのような麺が入った丼。表面には油がいっぱい浮かんでいる。いらないとまた伝えるが、おじさんは食えというばかりでこちらの言い分を聞かない。やれやれ。

しょうがないので出てきた丼を食べる。味は意外にどぎつくない。

朝食後しばらく様子を見てから出かける。どこに行くのだとおじさんが聞くので適当に行こうかと思っている場所を伝えると紙に地図を書いてくれる。が、ガイドブックの地図の方がわかりやすかった。おじさんはどうも肝臓が悪いらしく、歩くことなど運動や身体を動かすを制限されているらしい。

宿のおばさんは、ぼくの合羽代わりの黄色のウィンドブレーカーを見て、洗濯するからよこすように言う。ケニアのナイロビのギコンバマーケットで50円くらいで買ったこのウィンドブレーカーは売られていたときから若干汚れていたが、グルジア以後、毎日着ていたのでさらに汚れていた。おばさんはその汚れがどうも気になるらしい。お言葉に甘えて洗ってもらうことにする。

長男がこれから出勤するから一緒に行くといいというので、一緒にでる。国境のマルシュートカ乗り場まで歩いていき、そこでマルシュートカに乗る。マルシュートカはベンツの古い型の大型ワゴン。運賃は一律7ソム(約15円)。

長男は途中で降りて職場に向かう。彼はぼくのぶんまで車代を払ってくれた。

オシュの中心部のバザール近くでマルシュートカを降りる。地図を見て想像していたよりもずっと小さな中心街だった。

降りた近くに中国語でどかんと文字が書かれている大型のプレハブ的ショッピングセンターがあったので、中を覗いてみる。まだ工事中なのかなんだか異様に隙間が多い。客引きなどは一切なし。このあたりには看板に中国語を記した店が数軒ある。

歩いていて目立つのかIP電話を使った電話屋。歩道から店の脇とあちこちに看板が出ている。

ネット屋があったので、そこでネットをしてみる。ダイアルアップの早いタイプといった感じ。料金体系がおもしろくて、データ量(2MBで30ソム)に料金を連動させている。こういうタイプは初めて。なお、日本語は読めず。

旅行保険が切れるので、日本に電話してその手続きを依頼。

それからバザールに行き、まずはバザール内の両替所で両替。ここのバザールもプレハブ的な建物を店舗としている店が多く、それに加え道ばたに商品を並べて売っている人たちがたくさんいる。

どの道がどこに出るのかよくわからないような作りになっているため、歩いていてなかなかおもしろい。雪解けのためか足下は泥と水たまりでぐちゃぐちゃ。

服屋、靴屋、本屋、帽子屋、電話屋、散髪屋、板金屋、鍵屋などいろいろな店がある。ある一角は穀物コーナーになっていて、その裏手のほうを歩いていたらパンを焼いている様子を見ることができた。焼き窯に円形にのばしたパン生地を入れていく。あたりはパンの香りが漂っていた。

バザールのある一角は、生きている鶏市と板金屋街になっていた。男たちがとんてんかんてんと金属を打ちならしている。

バザールの中心部は道はどろどろ。もっと寒ければ凍っているのだろうが、たいして寒くないため凍っていたものが解けたのだろう。ブーツを履いてきたので、靴がグシャグシャになることはなかったが、いちいち足下に注意しなければならない。

市場では10歳前後の少年たちも働いていて、例えばパンを売ったり、店番をしていたりする。少女もときおり見かける。

昼前バザール内の食堂で昼食。マンティ(大きなショウロンポウのようなもの)を食べる。1粒10ソム(25円)。けっこう高い。味はまぁまぁ。肉まんと味はにている。具の肉は角切りにした羊肉。歯ごたえがある。

ロシア語の辞書が欲しかったのでバザールをくまなく歩き、本屋を探す。いくつか本屋はあったものの良い作りのオックスフォードの露英・英露辞典は1500円ほどもした。他はロシア製で中を見てもいまいち使いやすそうに見えない。

一通りバザールを見てからレーニン通りを歩き、レーニンのモニュメントを見に行く。その途中、道ばたで物乞いをしている10歳前後の少女4人ほどに出くわす。ぼくの傍に来て、アッラーなんとかとお経みたいなのを唱えながらついてくるので、幾ばくかを寄付。すると彼女は最後にこちらの人がよくする顔を洗う動作(仏教の手を合わせる行為と同じような意味を持っているよう)に似たことをして感謝の意を表す。

歩いていると道ばたで風呂敷を広げ、そこに本を並べているおばあさんがいたので、おいてあった辞書の値段を聞いてみる。けっこうしわくちゃになっているロシア製の辞書だったのだが、それが300円ほどする。たぶんバザールで売っている新品の方が安い。割に合わないと思い、とりあえず見ただけで去る。

そこからしばらく歩くと本屋があったので本屋に立ち寄る。ここにはロシア語の本からアラビア語の本(コーランなど)、英語の本があり、辞書も複数あった。だが、値段と中身とに納得できるものがなく、ここも見ただけで去る。

そこから300mほど歩くと左手前方にレーニン像が見えてきた。トルクメニスタンのアシュガバードにもあったが、あそこのは意外なほどに小さかった。その点こちらはなかなかでかい。体長8mほどか。台座を合わせると20mくらいの高さになる。

そこからスレイマン山の方へ行き、交通量の多い通りを歩く。この通りには写真のプリント屋やインターネット屋、カフェ、病院などが並んでいた。

スレイマン山に上る予定をしていたが、夕方が近くなっていたことと、まだ辞書を買っていなかったので、またバザールに戻る。中央アジアに入って以降、バザールも16時や17時に閉まるのが普通になったので、ちょっと急ぎ足でバザールに戻る。

16時を少し過ぎた頃だったが、既にいくつかの店は店じまいを始めていた。本屋のいくつかも既に閉まっている。開いていた本屋で数種類の辞書を見比べ、一番安い辞書を購入。お値段100ソム(約200円)。後に宿で聞いた話では通常50ソム(約100円)らしい。

とりあえず今日の目的は果たしたので、バザール内の通りを走っているマルシュートカ乗り場に行く。道ばたでリンゴを売っているおじさん、おばさんがたくさんいたので、そのうちの一軒でりんごを買う。

138番のマルシュートカを待っていたら、昼間パン焼き窯を見せてくれた男の子がパンを売っていたので、彼からパン(ナン)を買う。1枚10ソム。同じ年頃(12歳くらい)の少年が3人並んでパンを売っていたので、記念撮影。彼は笑顔で写ってくれる。

マルシュートカに乗り込んだらなんだか眠くなり、寝てしまう。しばらくして目が覚めると目が開いている間に一度見た景色がまた見える。不思議に思ったが、また寝る。

そのうちようやく眠気が取れ、眠りから覚めると目的地の国境の近くだった。終点の駐車場に着き、7ソムを運転手に渡すと14ソム(約30円)だと言う。なんでか聞いたら2回往復したからだと言う。さっき同じ景色が見えたのはそういうことだったらしい。カネを払って降りる。

駐車場に隣接しているハチチャ(宿の長女)がやっている駄菓子屋に顔を出す。彼女は笑顔で迎えてくれ、お茶をいれてくれる。それにお菓子もつけてくれる。どこに行ってきたのかと聞くので、行ったところの名前を挙げて教える。

お茶を飲んでから家に戻る。家に戻るとちょうど家の長男等が車の修理をしていた。

部屋に入るとおじさんがすぐにお茶とパンを持ってやってくる。そして、どこに行ってきたのかと聞いてくる。買ってきた辞書をさっそく使い、わからない言葉があるとそれをひきひき話す。言葉がわからなくても気持ちは通じるなんて言うが、気持ちは通じても伝えたい事実(内容)は通じない。言葉を知っていなければ、会話はなりたたない。

おじさんは今日はテレビを見たり、寝ていたりして過ごしたという。おじさんは右のわき腹に手を当てて、そこが悪く、以前は点滴もしていたというようなことを動作混じりで言う。具体的にどこが悪いのかわからなかったが、辞書で調べてみたら肝臓が悪いとのことらしい。そのため、今は歩いたりする運動さえけっこう制限されていて働くのも無理らしい。

部屋にムスリマ(4歳女児)とおばさん(つまりは母親)も来て、おしゃべりをしたりムスリマが一人でワーワーキャーキャーやるのを眺めたりして時間を過ごす。

暗くなってからハチチャが戻ってくる。どうも彼女が夕食も作るようで、母親は部屋にずっと座ったまま。長男も帰ってくるが、すぐに牛小屋の方へ作業をしにいった。

20時頃、ようやく夕食がでる。隣の部屋(家主等の寝室)にはテレビがあって、ずっと付けっぱなしにされている。ただ音だけが聞こえてくる。

夕食はこの地域の常食と言っていいポロ(パロウ)。これを食べるのは中央アジアに入って5回目くらいか。直径70cmほどある平たい大皿に山盛りにされて出てきた。中華料理のように小皿に取って食べるのかと思ったが、小皿はない。おじさんたちはスプーンで直接その皿をつつき、そこからそのまま自分の口に運んでいる。なので、それに習う。

おもしろいのが千切りにした緑大根をかけて食べるところ。これはこれで大根のさっぱりした味がやや油っぽいご飯を中和してうまい。味付けもちょうどよく、飯の炊き具合もよい。米は日本と同じ短粒米。だが、粘度は日本の米ほどではない。

食事をしている間も隣の部屋からテレビの音が聞こえてくる。インドの映画をやっているのか、ときおりあの独特のインド音楽が聞こえてくる。その音楽が聞こえてきたとき、4歳のムスリマは隣の部屋にバタバタと駆け出し、少しテレビをのぞいてからまた部屋に戻ってくる。そして、音楽に合わせて踊り出す。踊り方はシリアなどでも見たアラブ圏では定番の型。両手を横に広げ、型をくねらしたり、腰に手を当て腰を振ったり、とても4歳の子とは思えないくらい動きがなめらか。

音楽が流れている間中ムスリマは踊り続け、それを母親などもにこにこ笑いながら見ていた。音楽が終わるとストッと踊りは収まる。

食事が終わったとき長男が母親に、ぼくがミニコンピューターを持っているということを告げる。朝方暗い中ちょっと使っていたのを見られていたよう。しまったなあと思ったところで後の祭り。案の定見せてくれと言い出す。しぶしぶ取り出して見せると次男がゲームはついているのかと家の携帯電話を見せながら言う。付いていると言ったのがまたそれに拍車をかけ、使わせろということになり、ぼくの携帯はしばらく次男にとられた状態になる。壊されるとかなわないので、使わせたくなかったのだが・・・。

ちょろちょとおしゃべりをしたり、ぼくの買ってきたりんごを向いてくれみんなで食べたりしているうちに時間が過ぎ、夜中近くになった頃、解散。ハチチャがシーツと上布団を持ってきてテーブルの脇に寝床を作ってくれる。今日も長男と同じ部屋で寝る。

Fin

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