2011年3月7日月曜日

[diary]列車でカシュガルからウルムチへ(1日目)

列車でカシュガルからウルムチへ(1日目)

2009/03/01(日) 晴れ
[Kashgar→Urmuqi:China]
レート:1米ドル=6.8元=97円

※時間は新彊ウイグル自治区の時間

・早起き
・メーターを倒さないタクシー
・駅の待合室
・列車の中で

カシュガルの宿。

目覚ましよりも早く目覚める。時刻は4時すぎ。
同じ列車に乗る同室の旅行者を起こす。

5時前、荷支度をしてフロントに降りる。スタッフはベンチで布団をかぶって寝ていた。足音に気づいた警備員がスタッフを起こす。フロントでカードキーを返却し、デポジットの100元を返してもらう。

ホテルの前の通りに立ち、タクシーを捕まえる。

乗ってしばらくしてSさんがメーターがうごいてないんじゃないかと言う。確かに動いていない。なので運転手に言うと何やらごちゃごちゃという。なので勝手にメーターを倒すが、運転手はまた何かという。じゃあ、運賃はいくらだと聞くと20元だという。仕草から早朝割り増しの運賃らしい。確かめると2人で20元と言うので、まぁそれくらいならいいかと許可する。

さすがにこの時間なので車も人通りもほとんどない。

タクシーは駅の駐車場の入り口で止まる。中に入るとお金を取られるらしい。なのでそこで降りて歩いて駅に向かう。見上げれば星空。星の量はたいしたことはない。

駅の入り口にはすでにひとだかりが出来ていた。周辺の売店で低糖のお茶を買う。中国でもペットボトルのお茶は売っているが、甘いものばかり。

駅構内に入る前にチケットのチェックがある。中に人がなだれ込まないように手すりなどで1列になるよう誘導され、係員が一人ずつチケットを確認する。

中に入ったら機械に荷物を通し、その後、待合室に入る。待合室はすでに大きな荷物を持った人たちであふれ返っていた。バスケットコートが1面取れるくらいの広さの待合室がすでにいっぱい。待合室に行くとじろじろ見られる。

発車予定時刻の30分ほど前、乗車が始まる。向かい合っているベンチの列が5本ほどあったのだが、奥の方の列
から順々にホームへと入っていく。我先にとみなが動く。ホームに入ると駆け足で車両に向かう人もいる。

車両は2階建てだった。

車両に乗り込む前に入り口でまたチケットのチェックがある。無座でも車両は指定されいるためその車両の入り口からでないと乗り込むことが出来ない。よってまた列を作って並ぶことになる。適当に並んでいたら駅員らが1列に並ぶよう指導してくる。

車内に乗り込む。みなあんなに急いでいるならさぞかし車内は込んでいるのだろうと思っていたが、意外にもたいして混雑していなかった。座席はないが荷物だけはどこかに置こうと思い、置き場所を探していると乗務員の女性が声をかけてきて、ここに置くように言う。そこは向かい掛けで4人座れる座席だったのだが、荷物置き場にするらしい。椅子の上にリュックを乗せると、その上に、さらにその上にと荷物が積み上げられていく。

通路には荷物を置かせないようで、通路に荷物を下ろしていた人を乗務員は注意し、荷を別のところに移動するように言う。そもそもいくつかの席は乗客が座る席としてではなく荷物置きとして使うことを想定していたようで、あるボックス席に座っていた人を乗務員はどかし、床に置かれていた荷物をそこへ置くように指導する。

リュックを置いてからSさんがいる車両に行ってみる。座席は埋まっているもののこちらの車両もわりと空いていた。他の旅行者から聞いていた話と他の国での体験などからてっきり足の踏み場もないくらいにごちゃごちゃしているのだろうと予想していたのだが、それが杞憂となったので気が楽になる。

列車は予定通り新彊時間の6時40分に発車。外はまだ暗い。

列車が走り出すとすぐに各ボックス席にトレイが1枚ずつ配られる。これがゴミ箱代わりらしい。とりあえずここにゴミを集めておいて、トレイがいっぱいになったら車両に備え付けられているゴミ箱に捨てる、という仕組みになっているらしい。

しばらくするとでかいやかんとバケツを持った乗務員の女性(10代後半~20代前半?)が車両をまわってくる。やかんにはお湯が入っていて、それを乗客に配って回っている。ある人は茶葉を入れたマイカップに、またある人はカップラーメンにお湯を注いでもらっている。車両に給湯器がついているというのはあったが、乗務員がお湯を注いでまわるというのは初めて見た。まさか中国でこんなサービスがあるとはと驚く。なお、このお湯を注いでまわるサービスは発車直後だけのようで、以後は各自が給湯器まで行ってお湯を補給していた。

一方、40代くらいに見える別の女性=車掌は、客席や車両の接ぎ目でたばこを吸っている男たちを注意して回る。中国語の音がただそうなだけかもしれないけれども、それにしても彼女の口調はかなりきつい。本当に親が子どもを叱るような口調で注意している。男たちは特に言い返すことはせず、黙ってたばこを消す。そして、彼女がいなくなるとまた吸い始める。

車内には音楽が流れる。歌なしのトランペットか何かの管楽器による独奏。いろいろな曲が流れるが、そのなかにランバダとKIROROのベストフレンドもあった。

壁にもたれて手帳にメモ書きをしていたら、通りすがりの男たちがわざわざのぞき込んでくる。無視してそのままメモ書きを続けていると、適当に気が済んだところで黙って去っていく。

Sさんはこっちに来てトランプを買ったようで、それを取り出し、マジックを見せてあげようと言う。彼女はトランプを手に扇子のように並べ持ち、マークをこちらに見せ、好きなカードを一枚決めてと言う。ボックス席に座っているウイグル人のおじさんやおばさんはぼくらのやり取りを適当に見ている。彼女は一定の手順を踏んでぼくが選んだカードを当てる。

そうしてデモンストレーションをした上で、彼女は隣に座っていたウイグル人のおじさんに同じマジックをしてみせようとする。おじさんに好きなカードを選んでもらい、一定の手順を踏むのだが、おじさんは何をしているのか理解できていなかったのか、あるいは意図的だったのか、彼女の質問に対して嘘をつく。つまり、この中に自分の選んだカードはあるかと聞く彼女に、実際はその中にあるにも関わらず”ない”と答える。というわけでマジックは成立せず。

彼女は気晴らしに(かどうかはわからないけど、そう見えた)席をたつ。すると彼女の席には山高帽に長い髭を蓄えた長身のおじいさんが座りこむ。そして、動かなくなってしまった。彼女が席の近くに行ってもまったく動じず。どけとも言えない彼女は、無座状態になってしまった。

座席は基本的に2人掛けなのだが、若い男たちは3人で座ったりしている。イスラムの人たちは他人同士でも関係が近いので、端(はた)から見ているとどこからどこまでが旧知の人でどこからどこまでが列車内で知り合った人なのかわからない。

新彊時間の8時を過ぎるとすっかりあたりは明るくなる。車窓から見える景色は一面の土漠。緑がない。

どういうきっかけだったか、隣の車両に座っていた絵描きの若い男がぼくらが話をしているところに入ってくる。彼の左脇には画板。彼は片言英語で話しかけてくる。そして絵を描かせてほしいというようなことを言う。そう言われたのは彼女の方で、そういうわけで彼女はそこでモデルとなる。

しかし、通路では人通りが多くて落ち着かないため彼の席へ移動。彼と同じボックスに座っている誰かが席を空け、そこにSさんが座る。彼はその向かいに座って彼女の肖像画を描き始める。すぐにまわりに人だかりができる。

その様子を見ていたら、彼の仲間らしい別の絵描きの男が声をかけてくる。というわけで、ぼくもモデルに変身。

彼が描き始めると通路を挟んで向かいの席に座っていたやはり彼らの仲間らしい女性の絵描きが画板を持ってぼくたちのボックスに移動してくる。というわけで、ぼくはそれからしばらくの間、二人に見つめられることになった。

こちらにも人だかりができる。だから絵を描いている2人以外の人からもじろじろと見つめられることとなる。

Sさんの方が先にモデル終了。出来上がった絵を見せてもらう。一筆書き的な描き方の絵で、まるっきりそっくりというわけではないが、けっこう似ている。

ぼくは見られる役が続く。

同じ車両の反対側の方からウイグルギターをかきならす音が聞こえてくる。それに合わせて歌う男の声も聞こえてくる。Sさんはそちらに行って音楽に合わせ踊ったりしていたらしい。

男の絵描きさんの方は、鉛筆の消費が早い。4Bだからというのもあるのだろうが、30分程度で研いだ芯を使い果たしてしまう。やじ馬のおじさんは絵を描いている彼の顔の前に携帯電話をかざし、絵の写真を撮ろうとする。彼は邪魔そうな顔をするが、特に文句は言わず。

先にあがったのは男の絵描きさん。出来上がるまで1時間ほどかかった。そこへさっきSさんの絵を描いた別の男の絵描きさんがやってきて、今度は彼がぼくを描きはじめる。女の絵描きさんはまだ進行中。

結局、モデルの仕事は1時間半ほど続いた。三人三様の仕上がり具合でどれも力作。最後に絵と一緒に記念撮影。

一仕事終えてまた通路に戻る。Sさんの席には相変わらずおじいさん(実は60代前半?)が座っている。

車内を見回して目に付くのはトランプゲームをしている人たち。けっこうな数の人たちがトランプゲームに興じている。やっているのは日本で言う大富豪というゲームのよう。

車内には定期的に車内販売が回ってくる。食堂車で作ったばかりらしい、本格的な弁当や麺料理もまわってくる。飲み物やお菓子やつまみを売って回っている若い男の添乗員は、どこに行っても通路に人だかりができているからいちいち退(ど)くよう言いながら売り歩いている。しかも車両は2階建てだから1つの車両で2車両ぶんの仕事がある。なかなか大変。

定期的にと言えば、床掃除も頻繁になされる。お湯を注いで回っていた乗務員の女性は、ほとんど1時間おきくらいのペースで床を掃いたり、モップで拭いたりしている。そして、その度にけっこうな量のゴミを集めてくる。

昼時になるとカップラーメンなどのにおいが車内に充満する。

洗面所では2歳くらいの子どものうんこの手伝いをしているお母さんあり。うんこは洗面所の床に直接発射。床の端には穴が開いているので、した後でそこに流しているっぽい。

アク・スーという駅で絵描きさんたちは降りていった。

新たに乗り込んできた子連れのおばさんは、ぼくが立っている近くに荷物を持ったままやってきて落ち着く。が、そこへ車掌の女性がやってきて、荷物を移動せよと注意する。車掌さんはまたボックス席をつぶして荷物置き場にする。おばさんはボストンバッグの他に荷物でパンパンになっている肥料袋を持っていた。おばさんは先にボストンバッグを移動させる。おばさんの子どもは残された肥料袋を運ぼうするが、背が低いこともあり持つことができない。

そうした様子を見ていたので、荷物を動かすの手伝おうと男の子に近づくと、男の子はぼくが近づいてくるのを見た瞬間、見事と言いたくなるくらいに驚いて、目をふるわせ大声で何をか叫び、母親の方へ駆け出す。この旅では見つめただけ、あるいは近づいただけで子どもを泣かすということを何度かしてきたが、ここまで驚かれたのは初めて。

駆けてきた息子を見て母親は何が起こったかわかっていなかったが、Sさんと同じボックスに座っていたおばさんが事の成り行きをウイグル語で母親に説明する。母親はそれを聞いて微笑む。男の子はすぐに落ち着き、苦笑いしている。Sさんも現場をしっかり見ていたようで、またいいネタができたと言って笑っていた。

ぼくは男の子の機嫌取りに手裏剣を作る。適当な紙で折っていると例のごとく通りがかりの人がのぞき込んでくる。

出来上がったものをSさん経由で男の子にプレゼントすると嬉しそうに受け取ってくれる。通りがかりの女の子が手裏剣を羨ましそうに見ていたので彼女のためにと今度は箱を折る。折っていたらすぐに通りがかりの人等に取り囲まれる。さっきの男の子もやってきて、折る様子を見ている。あげようと思っていた女の子はその男の子の後ろにいた。出来上がった箱を彼女に渡そうとすると男の子は自分へのプレゼントだと思ったらしく、男の子が取ってしまった。

男の子は嬉しそうに紙箱を手にする。そして、それを頭に乗せて”??(ウイグル語でムスリムの人がかぶる帽子のこと)”と言う。ぼくは箱を作ったのだが、彼にはイスラム帽子に見えたらしい。

Sさんが座っているボックス席の通路を挟んで向かいには、若い大学生くらいの男たちが座っていたのだが、その中の一人がぼくに今作った箱=帽子を自分にも作ってほしいと言ってくる。なのでまた作ってプレゼント。そしたら彼の友達たちはそれを解体して、その紙を使って別のものを作り出す。彼の仲間の一人がチューリップの折り紙を知っていて、それを作っていた。

ちなみにそのウイグル人の若い男はウルムチの大学に通う学生だった。外国語が専門らしい。中国語の他にロシア語がほんの少しできる。彼はテレビで覚えたらしい日本語を連発する。彼が知っている日本語は”よし”だけのようで、「よぉーし、よし、よし」などと言う。野次馬で集まっていた別のウイグル人のおじさんは”バガ”と言う。なんのことかと思ったらSさんが”バカ”って言っているのだと解説してくれる。

ぼくは中国語はまったくと言っていいほどわからないし、Sさんもぼくよりわかるもののそれほどわからないので、ときどき紙に字を書くよう頼むのだが、大学で外国語を専攻しているという彼以外には中国語をきちんと書ける人はあまりいなかった。

彼が日本語はどんな文字だと言うので、Sさんが漢字とひらがなを書いてみせるのだが、漢字を見てこれは日本語ではなくて中国語だと彼は言う。

まぁ、そんなことをしながら時間をつぶす。途中の駅で人が降りたとき適当に車内をふらついていたら空いている席をすすめてくれるおじさんがいたので、そこに座ってしばし寝たりもする。

新彊時間の21時過ぎ、Sさんが座っていたボックスに座っていたおばちゃんたちが席を移動する。なので、ぼくはようやく席にありつくことができる。やっぱり心おきなく座れるのは気分がいい。

しかし、ぼくらが何かしようとするとすぐに人だかりができたりするので、だんだんぼくは相手にするのが億劫になってくる。動物園の檻の中にいる動物たちの気持ちがわかった感じ。幸いSさんが彼らの相手をしてくれるので、ぼくは彼女に彼らの相手を任せ、本を読んだり、ボーとしたりする。

深夜をすぎると眠りにつく人たちが増えたのだが、一方で、そんなのお構いなしにギターをかきならし、歌う人々もあり。やれやれ。なんでそんなに元気なんだ?

Fin

[diary]おばさんところに遊びに行く

おばさんところに遊びに行く

2009/02/28(土) 晴れ 日中10~15℃
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=96円

※時間は新彊自治区の時間

・化粧待ち
・おばさんところへ
・書斎拝見
・ティータイム
・チケットを買いに
・失くしもの
・りーちゃんの電話


明るくなり始めた7時過ぎに起床。しばらく書きものをする。

今日はこの間会ったウイグル人のおばちゃんの家に同室の日本人旅行者たちと行くことになっていた。

おばちゃんは一日中家にいるから都合のいい時間に電話をくれるよう言っていたが、パロウ(ウイグル風ピラフ)を作ってくれると言っていたから昼前には行かなければいけない。

が、同室の人たちの動きを待たないといけないのでしばらく部屋でぶらぶら。同室の人たちが起きて準備ができるまで待つ。

11時を過ぎて宿の敷地内にある電話屋からおばさんの家に電話をする。これから向かうと伝えると了解とのこと。

3人でおばさんの家に向かう。前回お邪魔したときにおばさんが通ったのと同じルートで行くことにする。が、これがあえなく失敗。どこからどう入っていったのかわからなくなる。やっぱり人に連れられていったのでは、このように入り組んだ住宅街を一回で把握するのは難しい。

しょうがないので近くにいた若い女性(ウイグル人)に聞く。中国語で書かれた住所を見せるとこっちだと案内してくれる。しかし、しばらく行くと細かいところがわからないらしく、電話番号を教えてほしいというようなことを言う。なのでSさんのノートを見せるとそこにアラビア文字で書いてあった住所を見て、わかった!というような笑顔をしてまたすぐに歩き出す。

歩きだして100mほど行ったところにあった門の前で彼女は立ち止まり、ここだ、とニコニコしながら指さす。どこの門も似たようなものなので、ぼくは本当にここなのか確信がなかったのだが、それはいらぬお世話で、確かにおばさんの家はここだった。なかからおばさんが出てきて「遅かったですね。ずっとずっと待っていました。」と言う。時計を見ると電話をしてから1時間ちょっと経っている。迷わなければ30分足らずで来れる距離なのだが・・・。

おばさんはちょっと疲れ気味とのことでパロウ作りはやめて外食しようと言う。なのでおばさんの家族と日本人3人で近くの食堂に行き、ラグメンをご馳走になる。この間来たときもそうだったが、相変わらずここの店は繁盛していて、席はいっぱいだった。

食事後、おばさんに連れられておばさんの親戚の家に行く。

親戚の家は改装したのかタイル張りの比較的新しい家だった。母屋に通されたがちょうどおばさんのおばさんがお祈りの最中だった。

母屋は日本の古い民家のように土間のような部分があって、そこまでは靴で入り、いわゆる座敷には靴を脱いであがる。座敷の床には絨毯が敷かれていて、さらにお客が来たからと座布団に似たものが口の字型に敷かれ、真ん中にアーモンドやレーズン、クッキーなどのお菓子が置かれた。

”これがウイグル式だ”と言われ、まず一人ずつ手を洗う。洗い方は、この家のお嫁さんらしい女性が、水が入ったアラビアンナイトに出てくるような金属製のジョウロ型の容器を持ってきて、手を差し出すと2~3度水がかけられ、それで手をすすぐ。もちろん受け皿も用意されており、それもジョウロと同じく金属製の専用の容器だった。

アーモンドなどをつまみながらしばらく団欒。

その後、2階にあるおばさんのおじさん(だったっけな?いとこか?)の書斎を見てもらう。5畳程度の広さの書斎で3方の壁はすべて本棚になっていて、さらに本棚の前に台があり、そこにも本が積まれている。書籍の数は1000冊は裕にある。書籍のほとんどはアラビア文字で書かれたものだからウイグル語の本なのだろう。壁の柱にはレーニンやマルクス、エンゲルス、スターリンなどの肖像(ポスターみたいなの)が貼られている。このおじさんはウイグル語で物語を書くのが仕事のようで、今はトルコだったかの大学で先生をしているらしい。

蔵書の前でみんなで記念写真。

ごはんをごちそうになる

駅に切符を買いに

おばさんの家に。家でゲーム。自作の音楽映像。

[diary]ビザ受領、おじさんたちの正体判明

ビザ受領、おじさんたちの正体判明

2009/02/27(金) 晴れ 日中10~15℃
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=96円

※時間は自治区の時間

和田から戻ってきてカシュガル5日目。

昨日の酒のせいか、暗いうちに目が覚める。

しばらく書き物。

新彊時間の9時頃から支度をして、同室の旅行者とともに3人で公安に向かう。外はやや冷えている。気温は3~5℃くらいか。

公安に行くと昨日も会った日本語を話す女性が既に来ていた。挨拶をした瞬間「今、何時? 昨日何時に出来るって言った? 日本人は時間を守るでしょ」と軽く怒られる。昨日の話では9時に来るように言われていたのだが、すでに9時半を過ぎていたのだった。

彼女は彼女自身の手続きのことで男の職員とあれこれと話している。ぼくらは椅子にかけて待つ。

別の職員が10分もせずにパスポートを手渡してくれる。ビザのシールを確認。1ヶ月のビザが貼られてあった。デザインは中央アジアと比べるとやや地味。ここでビザ代160元(約2500円)を払う。

彼女の手続きが終わるまでしばらく待つ。ぼくは壁に貼られていた各種手続きの名前とその代金が書かれている板を眺める。台湾への渡航1次(シングルエントリー)ビザは20元、多次(マルチエントリー)ビザが100元とあった。

彼女の手続き後、事務所を出たところで少し話す。彼女が話しかけるのはぼくではなく、もっぱら同室の日本人女性旅行者の方。明日、うちに来ないかと誘われる。なので、明日行くことを約束する。料理をご馳走してくれるというので、その料理などの手伝いも兼ねてお邪魔することに。

そこで彼女とは別れ、ぼくらはアトシュバスターミナルに向かう。その途中のウイグル料理屋で朝飯。メニュー板の漢字を見て適当に注文。出てきたのは鶏肉の入ったカレー風味の汁と白飯だった。メニューに大小とあったので安い小の方を頼んだのに、結局伝わっていなかったらしく、大の値段8元取られる。

ぼくはこれに加えてマントゥ(包子:肉まんみたいなの)を注文。てっきり1個1元かと思い、2元ぶん頼んだら6個ぶんが皿に乗って出てきた。肉は羊肉。ミンチにはなっておらず、細かく切られた肉片とタマネギなどが入っている。油がなかなかすごい。

食事後、再び歩いてアトシュバスターミナルへ。

途中、たまたまアトシュに行くというタクシーが声をかけてきたので、ぼくはそこで彼女らと別れる。彼女らはアトシュへ。ぼくは国際バスターミナルに行く。

そこから歩いて20分足らずで国際バスターミナルに到着。この間、ここを使ったのでだいたいわかっていたが、改めて眺めてみるとあたりは昔ながららしい土壁の家がやはり多い。路面は舗装されていないのか、舗装されていたアスファルトが剥がれてしまったらしく、バイクや車やバイクの後ろに荷台をくっつけた馬車型バイクタクシーが土ぼこりをあげて走っていく。

その土ぼこりの巻き立つ道沿いにはパン屋が3軒ほど並んでいて、釜で焼いたパンを店の前の台に並べて売っている。ぼくがその近くの路地を写真に撮ったら、それを見ていたおばちゃんがこの子どもの写真を撮ってと仕草で伝えて来る。3~4歳くらいの男の子で、カメラを向けるとぎこちなく固まる。写した写真を見せるとその子は顔を崩して笑った。

国際バスターミナルではコルラ行きのバスを確認したかったのだが、ただの空き地みたいなこのターミナルにはそれらしきチケット売場が見あたらず収穫はゼロ。トイレとかの管理をしている女性に聞いたがぼくの中国語が伝わらず、結局何もわからないまま帰ることに。

帰り道さっきのパン屋でピザ生地のような平たい円形のナンを2枚買う。1枚1元(約15円)。直径は40cmくらいある。

それから大きな通りに出てバスに乗って人民広場へ。お金を両替市内と行けないので、中国銀行に行ったところすでに昼休みに入り、閉まっていた。

なので、近くのネット屋に行って時間つぶし。いくつかのメールに返信したり、東南アジアのビザ情報や飛行機情報を検索したり、中国の山峡ダム情報などを集めたり、膵臓炎について調べたりなどなど。円が1米ドル=90円から98円まで急激に安くなっているのに驚く。ネット代は1時間2元(約30円)。日本語のIMEはインストールされているようで、表示もされるのだが、いざ中国語から変更しようとするとなぜか使えない。

ちなみに他の人の画面をちらっと見てみるとチャットや映画を見ている人、ゲームしている人が多い。

2時間後、再び銀行へ。ここで両替する。

それからバスに乗って鉄道駅へ。このルートは運賃1.5元(約25円)。

20分ほどで駅に到着。駅の周りは閑散としていて、いくつかの食堂や商店があるだけ。本当であとから取って付けたような雰囲気の場所だった。

しかし駅舎はなかなか立派。手持ちの荷物を荷物検査の機械に通してから中に入ると正面に電光掲示板があり、1週間先くらいまでの各地へのチケットの販売状況が映し出されている。ここからウルムチだけでなく、ウルムチから上海や北京、西安などへの列車についても残りの座席数が、座席の種類ごとに表示されるのでわかりやすい。壁には各地への時刻表とそれぞれの運賃が整理されたものが張り出されている。

窓口は5つほどあったのだが、開いているのは左端の1つだけ。そこに20人くらい人が並んでいる。

ぼくは残りの座席数を示す電光掲示板を眺める。同室の日本人旅行者の話では、彼女がチケットを買った昨日の時点で今週末のぶんはだいぶ少なくなっていたと言っていたので、もう座席はほとんどないのではと思っていたのだが、土曜発は売り切れていたものの日曜発はまだ十分に空きがあった。座席の種類は無座(座席なし※なお”無”の字は日本では使っていない漢字)、硬座(日本で言う普通の座席)、硬臥(ベッドが堅い3段寝台)、軟座(ベッドがそれらしい2段寝台)とあり、硬座も無座も200席以上空きがあった。

窓口は完全に電子化されており、ここの窓口で国内各都市への列車のチケットも買えるよう。

ウルムチ方面に戻って西安に行くか成都に行くか、それとも重慶に行くか。まだ次の目的地が絞れていなかった。バスを乗り継いであちこち行こうかと思っていたが、バスが予想以上に高かったので、列車の硬座で移動した方がはるかに安い。お金を考えれば一気に列車で移動する方が安く済む。

電光掲示板を見ていると西安や成都方面の列車もまだだいぶ空きがあるようだったので、とりあえず今日はチケットは買わず、宿に戻ってからまた考えることにする。

駅近くのウイグル食堂で遅めの昼飯。料理名を知らないので適当に頼んだら前にも食べたことがある料理だった。麺ではなくラザニアに使われているような各辺が3cmほどの平たいもの。だが、上にかかるソースはラグメンと同じ。5元(約75円)。

ぼくが料理を待っている間手帳を開いてあれこれ書いていると店の女性がのぞき込んでくる。手帳を渡すと文字が珍しいようで、ページをぺらぺらめくりながら微笑む。

食事後、バスに乗って中心部に戻る。写真屋に行き、現像を頼んでいた写真を受け取る。現像代は1枚1元(約15円)。日本で言うLサイズなので、現像代は日本よりも高い。

宿に戻り、しばらく今後のルートを考えたり、書き物をしたり。

そのうち同室の日本人旅行者2人の1人が帰ってくる。聞くとこちらに戻ってきてからはぐれてしまったらしい。そのうちもう一人も帰ってくる。

同室のSさんのベッドの横にキリル文字で書き置きされた紙があった。彼女が「何これ?」と言うので読んでみると、ロシア語で”明日、バスでウルムチ。電話する”とある。主はハキムおじさん。記されていた部屋番号が昨日の部屋と違ったので、部屋を変えたのかと思い、その部屋番号の部屋に行ってみたが違う人たちがいた。

なので、フロントに行って聞いてみると、彼らはチェックアウトしたらしい。

そういえばさっき部屋の電話が鳴ったのは、おじさんからかもしれぬと思い、紙にあった電話番号にかけることにする。ロシア語での電話には自信がなかったので、同室の中国語がそこそこできる日本人を連れて、ホテルの敷地内にある電話屋に行く。

電話するとおじさんが出た。声は相変わらずハイテンション。予想通り一部の言葉しかわからず。しかもわからないまま切れる。昨日、こちらから火鍋が食べたいと言ったのでそのことだろうと思い、もう一度かけ直して宿で待っていればいいのかと言うと、そうそうと言うので部屋で待つことにする。

するとしばらくしてからドアをノックする音がして、ハキムおじさんが登場する。そして挨拶代わりに同室の日本人女性の名前を呼ぶ。相変わらずぼくの名前は覚えていないようで、ぼくの名前は呼ばれず。

おじさんはりーちゃんに電話する。彼もまた登場するらしい。りーちゃんが来るまでしばらく部屋で待つ。

各々書きものをしたりしていたため、おじさんは手持ち無沙汰。加えて部屋の照明が暗いことをあれこれ言う。確かにここの部屋は3つある部屋のうち2つの部屋の照明がダメ。暗すぎる。

しばらくしてりーちゃんが到着。フロントに降り、そこでりーちゃんと合流。りーちゃんはこの宿は良くない(不好)と言う。鼻をつまんで臭いというような仕草をする。

てっきり火鍋に連れていってくれるのかと思いきや、ハキムおじさんは腹の調子が悪いらしく、火鍋はウルムチで食べればいいと言う。ウルムチにおじさんの妹がレストランを持っているからそこで食べればいいというわけ。

飯を食ったのかとロシア語で聞くので、食べていないと言うと近くのウイグル料理店に連れていってくれる。今日は質素に定食のようなものをごちになる。一人12元(約200円)。

りーちゃんはすでに食事を済ませていたらしく、何も食べない。タバコを吸おうとするが、店内は禁煙。なので、外でタバコを吸ってくると途中で退席。

ハキムおじさんは昨日、一昨日の勢いがない。腹の調子のせいなのかりーちゃんのせいなのか。

食事後、タクシーに5人ぎゅうぎゅうで乗る。

りーちゃんの会社に行く。最初の話ではぼくらの部屋のシャワーがダメ(お湯が出ない)なので、ハキムおじさんの部屋のシャワーを借りることになっていたのだが、それが急遽変更になり、りーちゃんち(家)へとなった。後にハキムおじさんは自分の部屋は小さいからと言っていたが、タクシーに乗った後で行き先を争っているふうがあったので、おじさんたちの間で何かあったよう。

ハキムおじさんはウイグル語が多少わかるから運転手とはそちらの言葉で静かに話す。が、りーちゃんは例の勢いで行き先などを告げる。

りーちゃんはハルピンの出身のため、こちらの人の中国語と比べるとずいぶん勢いが違う。こちらの人の中国語はやさしいが、りーちゃんの中国語はいかにも中国語という感じでひとつひとつの音が強くはっきりしている。

りーちゃんにすれば普通に話しているのだろうが、こちらの中国語になれた日本人にすると、そもそもが日本語よりも勢いが強いので、さらに口調が強いように感じる。おそらくウイグル人にとっても、他の国の人にとってもそうなのでは、と思えてしまう。

言葉の勢いということで言えば、ぼくは中国語と大阪弁は似ているように思う。一度日本で電車に乗っているとき、おばちゃんが二人で話している声を聞いて中国語かなと思い、注意深く聞いてみたところ、まったくの大阪弁だった。自分でも、なぜあのときおばちゃんたちの声を聞いた瞬間に中国語と判断したのか不思議なのだが、確かにそう聞こえたのだった(なお、その時点では中国語はまったく勉強したことがなかった)。おそらく大阪弁のイントネーションと中国語のピンイン(声調)、それから大阪弁特有のはっきりした発音がそれっぽく聞こえた原因だったのだろう。日頃、大阪弁を聞き慣れている人にとってはそんなことないだろうが、そうでない人にとっては、それは中国語のように聞こえるときもあるのでは。

夜の通りはえらく派手だった。一部の通りはライトアップされているのだが、その色合いが日本で言うとパチンコ屋的。人民広場も毛沢東像も観覧車もライトアップされていた。

タクシーで走ること15分ほど。到着したのは、昼間に鉄道駅に行く途中に見たどでかい商業施設だった。ここがりーちゃんの会社だと聞いて驚く。

奥行きはわからないが、道路に面しているぶんだけでも全長100m以上ある。建物は数棟にわかれていて、一番立派なのは中心部方面にある建物。日本で言えば会館のような建物がどどんとあり、その並びに四角い4階建てくらいのコンクリートの建物が並んでいる。見た目はちょっと公営アパートっぽい。その1階部分には商店などが入っており、タクシーはその商店の前で止まる。

商店でビールやつまみなどをりーちゃんが買う。

表に並ぶ建物の裏手に従業員寮みたいなのがあり、その1室がりーちゃんの部屋だった。鉄製のドアを開けるとすぐ右手にシャワー兼トイレルームがある。床も壁もコンクリートそのまま。部屋は12畳ほどの広さであるのは机とベッドが2つとけっこう大きめのテレビだけ。本棚やタンスがないので、広い。端の方には野菜と小さなまな板、電気コンロ、炊飯器があった。聞くとここで自分で料理しているらしい。

社長だと言うからもっと豪勢な部屋かと予想していたが、田舎から出てきたばかりの学生の部屋のような雰囲気。一時期滞在するだけの部屋などにはお金をかけずに節約するというのが、慣習なのだろうか。

女性陣はシャワーをここで借りる。お湯の温度も湯量も申し分ないとうれしそうだった。りーちゃんは毎日朝と夜にシャワーを浴びていると言う。

聞くとりーちゃんも結婚しているらしく、家族はハルピンにいるらしい。だから日本で言う単身赴任のよう。3月の後半にはキルギスのオシュに行くという。

そんな話をしながらりーちゃんが大量のパスポートを出してきて見せる。数は30ほどある。それを見てようやくりーちゃんとハキムおじさんの関係が判明する。つまり、ハキムおじさんはりーちゃんの会社の従業員たちのキルギスビザの手配を代行しているということだった。

りーちゃんはウルムチには行かないと言っていたので、ハキムおじさんだけ明日ウルムチに行って、ウルムチのキルギス領事館でビザの受給手続きをし、またここに戻ってくるっぽい。

この間、一緒に食事をしたキルギスの大統領のいとこもとりーちゃんのキルギスでの仕事を円滑にするための会食だったということのよう。そもそもキルギスの大統領はオシュ出身だし、あのおじさんはジャララバード近辺のボスだと言っていたから、キルギスのいろんな面倒なことを彼らに抑えてもらうのだろう。

りーちゃんは窓辺に行って、外を指さし、あれを見ろと言う。行ってみると外には大型トラックが並んでいる。このトラックで商品を運んでいると言う。行き先はパキスタン、タジキスタン、キルギス、ウズベク、カザフなどらしい。

そういえばさっきりーちゃんの部屋に来る途中に見た建物には中国語でパキスタンなんちゃらとあったから意外と国家レベルのプロジェクトにも関係しているのかもしれない。

テレビではジャッキーチェンのコミカル映画が流れ、その後にはチベットの旅行番組が流れた。

りーちゃんたちがビールを勧めるのでいただく。ウルムチ産のビールらしい。瓶ビールは1本620ml。女性陣の一人は腹がいっぱいで飲めないと言うのだが、けっこうしつこく飲むように勧める。というか、何度も乾杯(かんべい)と言ってくるので、飲まざるを得ないような状況を作られる。

ハキムおじさんはかなり無口。りーちゃんのことが嫌いだみたいなことはこの間から仕草等々で語っていたので、腹の調子が悪いだけでなく、こういう場にいることが面白くないのかもしれない。一方のりーちゃんは上機嫌。

中国語のわからないぼくにもいろいろ話しかけてくる。中国と日本は昔戦争をしたが、今は「友好(※この言葉だけわかった)」だと仕草を交えながら言う。

こちらが言葉が不十分な人間ばかりなので、いろいろ会話を楽しむというよりも、ノリでこの場を楽しむという雰囲気。ぼく自身はそうしたノリがないから、こうしたときに他の人がいるのは助かる。

ウルムチではただビザを入手するために時間を潰さないといけないと当初は思っていて、この1週間は毎日部屋にこもってたまっている日記の始末をするんだなと思っていたが、まさかこんな展開になるとは。これもたまたま同室になった人のおかげ。どう贔屓目(ひいきめ)に見ても彼女らがいなければ、ぼくはこういう場に出会うことはなかっただろう。だいたい始まりはハキムおじさんのナンパだったのだから。

そういうことからすると、男性旅行者よりも女性旅行者の方がこうした予想外の展開に出会う確率はずっと高いのだろうと思う。もちろんそうした誘いには常に危険性がつきまとっている。日本人であることが吉と出ることもあれば、凶と出ることもある。ただ、運が良ければそれによってとても楽しい旅となる。

今回は人数がいたので、お互いにとってメリットがあった。彼女は一人では行かなかったと言うし、ぼくはそもそもそのきっかけ自体が得られなかっただろう。

新彊時間の23時頃、りーちゃんの部屋を出る。ハキムおじさんは自分のホテル前で降り、その後、ぼくらのホテルまで行く。タクシー代の5元(3人で)は自腹だった。きっと連日ぼくらのために酒を買ったりしているので、ハキムおじさんの懐もだいぶ厳しくなってきたのだろう。

宿に着く頃には、ぼくの頭はギンギンに痛み、何もできなくなる。やはり酒など飲むものではない。

部屋に戻ると電話が鳴る。出るとハキムおじさんだった。「フショー ノルマーリナ?」とだけ聞いて、電話を切る。

さらに夜中、電話の音がなる。これはSさんが対応。翌日聞いたところによるとりーちゃんからの電話だったらしい。

Fin

[diary]ビザの延長手続き、日本語を話す女性と出会う、白酒

ビザの延長手続き、日本語を話す女性と出会う、白酒

2009/02/26(木) 晴れ 日中10~15℃
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=96円

※時間は自治区の時間

和田から戻ってきてカシュガル4日目。

・Sさん再びのチェックイン
・二人で公安へビザの延長へ
・日本人男性を夫に持つウイグル人女性と遭遇
・彼女の家に招かれる
・彼女から聞いた話
・食事をごちそうになる
・本屋へ
・バスターミナルへ
・プリクラ
・写真の現像
・新たな日本人客
・3夜連続でおじさんたちと飲み会

カシュガルの色満賓館のドミトリー室。1泊30元。

まだ暗いうちに目が覚める。昨日の火鍋の会で調子に乗って辛い方のを食べたせいか、それとも鍋に入っていたニンニクを10粒ほど食べたせいか、腹の具合がおかしい。

新彊時間の7時頃、同室のSさんも起床。バタバタと支度をして彼女は宿を出ていった。

ぼくは大量にたまっている日記の始末をしなければならなかったのだが、旅にでる前に友達が贈ってくれた『文明の生態史観』に逃げる。前半部分だけだが、読んでて面白かったのが、著者が日本の人口問題を憂いていることだった。本書が書かれたのは1950年代半ばだから、後に団塊の世代と呼ばれる人たちが生まれてちょっとした頃。今や人口減少期に入っているので人口問題も増えることを憂えるよりもその逆になってしまった。そのことがなんだか面白い。

その他、日本には英語看板が少ないことに気づいたという話などは今もけっこう変わらないだろうなと思う。同じルートを通っていないので、なんとも言えないが、おそらく著者がパキスタンやインドで見た光景の中には今はだいぶ見られなくなっているだろう。洗濯物を二人で持って乾くまで待つというような仕事をしている人は今でもインドにいるのか?

と、本を読んでいたら部屋のノブがガチャガチャ言う。新たな客かと思いやさっき出ていったばかりのSさんが再びのチェックインですとか言ってやってくる。

聞くと、宿の下にはソレットおじさんはいず、自力でキルギス行きのバスが出ているバスターミナルに行ったものの国境までしか行かないと言っているのにオシュまでの運賃450元を払えと言われ、値切ったところ100元まで落ちたが、結局高くつくのでやめて戻ってきたらしい。

というわけで彼女もここでビザの延長をするというので、一緒に公安に行くことにする。前回行ったときはビザが切れる来週の月曜日に来いということだったが、週末が近いからなんとかなるかなと見込んでいた。

公安に行く前に申請に必要な宿の領収書のコピーを近くのコピー屋で取る。コピーは1枚0.3元(=3角)。

で、歩いて1本向こうの公安がある通りへ行く。

公安の入り口のすぐ手前にあるビザ延長事務所に入る。先客が2人。地元の人っぽい女性とやや地元の人にしては彫りの深い男性が一人。いずれも40~50代。

書類を取り出し、カウンターにいた女性に見せる。そこへ隣にいたおばさんから声がかかる。「日本人ですか?」と日本語でおばさんは聞いてくる。二人して驚く。こんなところで日本語を話す人に出会うとは。

おばさんが言うには、旦那さんが日本人で、日本では神戸に住んでいるらしい。

カウンターの職員は、ぼくらに中国の入国スタンプがあるページもコピーして来るように言う。こちらではパスポートの写真があるページのコピー1枚と宿のレシートのコピー1枚、それにパスポートサイズの証明写真2枚を用意していたのだが、それだけでは足りなかったよう。

おばさんは、ぼくらがコピー屋に行こうとするとすぐ近くにあるから案内してすると言って、道路を渡った向かいにあるコピー屋までついてきてくれる。そして、そこの店主にウイグル語で注文を伝えてくれる。コピーは1枚にパスポートの写真があるページと入国スタンプがあるページをコピーして、料金1元。

再び事務所へ。

先客の書類をさばくのに時間がかかっていたので、ぼくはちょっとトイレ休憩。同じ通りにあるシャワー屋も兼ねているらしい有料公衆便所で用を足す。料金0.5元(約7円)。大の方は、大人がしゃがむと頭が見えるか見えない程度の高さのしきりがあり、ドアもちゃんとついていた。ウズベクやキルギスのように各便所のしきりはあるが入り口のドアがないというタイプではない。10年近く前に聞いた話では、中国の公衆便所は、各個別の便所の入り口のドアはおろかしきりもないと聞いていたのだが、こういう大きなまちではそういう状態は改善(?)されたということか? 

一方で旅行者に聞いた話では、しゃがんだら尻に付きそうなほど糞が山盛りになっていたり、女性用便所では使用済みの生理用品が踏み場もないほど足下に散らかっていたりすると言うから、地域や便所によるのかもしれない。

事務所に戻る。Sさんの書類はすでに処理されたようで、すぐにぼくの番になった。まずは申請書に記入。名前や生年月日や国籍その他いろいろ記入欄はあったもののぼくが書くのは名前とサインの欄だけで良いと言う。他の欄は職員がぼくのパスポートを見ながら必要な情報を書き込む。職業などパスポートには記載されていない事柄についても記入する欄があったが、そこは空欄でいいらしく、特に質問されることもなかった。なお、申請用紙は漢字と英語の併記。

その書類を書いた後に写真撮影。カウンターの椅子に座って、パソコンに接続されている小型カメラで写真を撮られる。

これで手続きは終わり。受け取りは明日だという。パスポートを預けたままになるので、その引換証みたいなものをくれるのかと思ったが、それはなし。まぁ、まちでパスポートの提示を求められることはないからたいして問題ではないが。

おばさんは、自分の家に来ないかと誘ってくれる。というわけで、2日連続で二人してウイグル人の家におじゃますることにする。

おばさんの家は、ガイドブックでは旧市街と呼ばれているところにあった。一帯はウイグルの伝統的な家が並ぶところで、家々の間をくねくねと石畳の道が通っている。各家の敷地は壁で隔ていられているものの道に面した部分は一枚の壁のようにして続いている。

ときおり玄関のドアが開いているところがあるが、ドアが開いていても布生地がカーテンのようにしてぶら下がっているので、中の様子は見れなかったりする。それでも隙間などから、ドアを入るとすぐ家の中ではなく、まず中庭のようなものがあり、そこを通ってからまた家本体の玄関のドアを開けるという二段階方式になっているのが一般的であるらしいとわかる。

おばさんの家もその方式で、道に面した壁に埋め込まれているドアを開けると、まず中庭があった。中庭の広さは5m四方ほどで、一角には中央アジアなどではたまに食堂などでで見かけるベッドのような形をした家具(食堂ではベッドの上にちゃぶ台が乗っており、客は靴を脱いであがり、飯を食う。日本で言えば、食堂の座敷部屋に相当するような感じ)が置かれている。中庭と便宜上書いているが、地面は石畳なので植物などが栽培されているわけではない。こういうスペースのことを何というのだろうか?

家の本体は2階立てで、2階には中庭から階段を登ってあがる。階段も石製。昨日聞いた話では2階や3階で鶏を飼っている家もあると言っていたが、ここはそうではないよう。

ぼくらはまず家本体の居間に案内される。靴を脱ぎあがる。床にはじゅうたんが敷かれ、壁にも飾りとしてか大きな絨毯が架けられている。Sさんに言われてなるほどと思ったが、こうして壁に絨毯を架けることで部屋を暖かくする機能もありそう。なお、この家は父親がたが代々使ってきた家らしい。

座布団代わりに細長い布団がコの字型に敷かれ、座ってくださいと勧められる。間もなくして平たく円いナンとベーグルのようなナンが山盛りになって出てくる。それと一緒に薄緑色のレーズン、殻付きアーモンド、ナツメヤシが出る。ヤシの木をここらで見たことがなかったので、ナツメヤシがどこから来たものなのか聞くと、サウジアラビアからの輸入品だと言う。

彼女は自分でナンや

ちゃぶ台を置いてバザールの食堂などこと。

2階にあがる階段があり、藁などが塗り込まれた黄土色の土壁が一帯にあった。

[diary]郵便を出す、ウイグルの家を見せてもらう

郵便を出す、ウイグルの家を見せてもらう

2009/02/25(水) 晴れ 日中10~15℃
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=96円

※時間は自治区の時間

和田から戻ってきてカシュガル3日目。

午前中 8時におじさんたちと朝食(ポロウ)。新しい店の開店。太鼓とラッパ。
その後、書き物、おしゃべり、パッキング、おじさんが来るも断る
12:30 郵便局へ、カスタム担当不在
モスク周辺へ、1時間ネット、便所 腹の具合悪い
14:40 再び郵便局へ、執拗な検査、新聞送れず
15:30? ウイグル地区へ、路上の子どもたち、石炭、立ちはだかるおじさん、女性旅行者との違い、ソーミンを食べる。セリカさんがウルムチの友人に電話。タクシーでホテルに戻る。しばらく待つ。1月23日の英字新聞はアンゴラ特集、部屋で待つ。
部屋に英語を話す若い男が登場。そのすぐ後に日本語がわかるヌルブさん登場。モンゴル系のウイグル人。旧市街を案内してもらう。

彼女の経歴:ウルムチで育ち、西安師範学校で日本語を勉強。その時日本人の教員に習う。同級生は全部中国人。中国語もうまくできなかったので、中国語も同時並行で勉強する。日本語を勉強したのは2年間。現在はカシュガルの大学で教員になるための勉強中、中学・高校の政治の教員になりたいらしい。なお、卒業までには5年かかるらしい。

中国は高校までは学費無料。大学は有料。お金が払えないときは政府などからもらったり、借りたりする。同級生には路上でものを売って稼いでいる人もいる。

中華料理は基本的に食べない。理由は味が合わないから。外食するのはわりと一般的らしい。

スカーフは若い人になるとつけないのが多いらしい。つけないからと言って親と喧嘩になることはない。小さい頃はスカーフをかぶっているが、高校生ぐらいになると脱ぐという。

男も若い人では髭を生やす人は少ないらしい。男の長い髪は「ダメ」と即答。

18:00頃 宿に戻る。おじさんたちがこれから食事に行くところに出くわす。そのまま一緒に食事へ。今日は火鍋。

中国人の社長が現れる。中国語の発音が違う。ハキム、ソレット、バトル、李強(リーチャン)、Sさん、ぼく。

手元のティッシュペーパー、ビニールでパッキングされた食器、こぼしても何も言わない店員、箸をうまく使えないソレット、


タマダ

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カーシーで暇つぶしと思いきや予想外の展開

2009/02/24(火) 晴れ
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=93円

※時間は自治区の時間

・書き物
・郵便局下調べ
・ウイグル地区で食事
・同室の人と同宿のおじさんたちとお食事会

和田から戻ってきてカシュガル2日目。

ちょっと橋本龍太郎系の顔をしているハキムおじさんの話から
現在年齢は40代後半。中国人の母親(回族)とアラブ人の父親との間に生まれる。本人は自分は回族だと言う。しかし、酒好き。タバコは吸わない。生まれは中国だが、1962年に戦争(※おじさんは鉄砲を撃つ格好をしてドゥドゥドゥドゥドゥと言った。要確認)が勃発したため、家族でキルギスに移る。

その後はビシュケクにいた模様(※細かくは確認していない)。22歳前後の2年間は兵役でモスクワに行っていた。アフガン戦争に行ったらしいことも言う。そして、”たくさんのことを見てきた”とも。右のわき腹には弾痕があると言ってSさんに触らせてみせる。彼女によれば確かにくぼみみたいなものがあったらしい。それまでは酒を飲まなかったが、その負傷がきっかけで酒を飲むようになったらしい。

おじさんは中国の警官は「ハローシィ(よい)」と言う。だが、キルギスとカザフスタン、ウズベクスタンはダメだと言う。

おじさんが言うには、自分はロシア語は95%程度、中国語は70%程度、ウイグル語やキルギス語はそれらよりも劣る程度に理解できるらしい。

カシュガルにはコンダクターの仕事で来ているらしい。中国人のパスポートをたくさん持っていたため、そのビザ申請(おそらくキルギスへの。でも、カシュガルに領事館みたいなのがあるかどうかは不明)か何かの仕事のよう。しかし、これはあくまでも想像にすぎない。

[diary]和田からカーシーへ逆戻り

和田からカーシーへ逆戻り

2009/02/23(月) 晴れ
[和田→Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

※時間は自治区の時間

・行き先変更
・バスでカシュガルに戻る

朝方、まだ暗い頃、バンバンと板に何かを叩きつけるような音がして目が覚める。そういえばすぐ向かいに料理屋の調理場があったから、そこで麺か何かを打っているのかもしれないとぼーっとした頭で思いつつ、布団に入り続ける。

布団をかぶっていないと朝は肌寒いくらいだった。暖房器具(お湯を常時通しているやつ)を触ると冷たかったので、どうも暖房が機能していなかったよう。

新彊時間の7時過ぎに起きる。ルートをどうするのかの結論が出ていなかったので、ガイドブックの地図を眺めながらまたしばらく考える。そして8時前に荷物はおいたまま宿を出て近くのバスターミナルに行く。

そして、クルム行きのバスチケットを買う。160元(約2500円)。結局、クルムまで行ってウルムチかトゥルパンに行き、そこから西寧を目指すことにした。そちらの方がバスの本数が多く、時間的なロスが少ないし、途中泊まることになっても宿が多いだろうから安く済むだろうと考えてのことだった。

チケットを買った後、宿近くの食堂で朝飯。食堂にはいるとストーブの上で温められている黄色いお粥のようなものがあったので、それを指さして頼む。見た目からはかぼちゃのお粥かなと想像していたところ、味は肉の出汁がかなり効いていた。牛肉らしい。ニンニクをあげたものも入っているらしい。お粥というよりも米の粉をお湯で溶いたような触感だった。どんぶりに1杯で2元(30円)。

それから両替をしに中国銀行に行く。中国に入って以降、両替する頻度が高くなった。バスに1日乗るとすぐに3000円くらい飛ぶので、あっという間に1万円がなくなってしまう。この点についてはイランが恋しい。イランでは12時間の移動でもせいぜい600円程度だったが、ここはその2.5倍はする。

中国銀行はまちの中心部にあった。まだ朝が早いということで人通りも少ないし、店も開いていないが、ここの中心部もウルムチやカシュガルと似た雰囲気。広い車道に広い歩道、目立つ看板、四角い店並び。この地は玉(石)が名産ということでその玉屋さんがずらっと並ぶ通りもあった。

中国銀行でのレートは1米ドル=8.67元だった。ここの窓口の人も丁寧で感じはよい。横から割り込みしそうなおじさんがいたが、ちゃんとぼくの方を先に受け付けてくれたし。

両替してからまた宿に戻る。歩きながらルートのことを考えていたが、クルムルートでも西寧に金曜日までに着くかやや不安になってきた。クルムまで20時間かかるから、火曜日にクルム着で、その日のうちに行けてもウルムチ、トゥルパンまで、水曜日に列車がとれればいいが、取れなかったらバスを乗り継いで西寧まで行かないといけない。特に面倒なのはバスで移動する場合甘粛省では保険料を払わないといけないらしいこと。甘粛省ではバスのチケットを買う際には保険の加入を確認されるらしく、加入していないとチケットを売ってくれないらしい。しかもその保険が30元(約450円)もするというからバカらしい。鉄道で移動できればいいが、途中駅から乗るのは至難の業だったりすることもあるらしいし・・・ということを考え出したら、結局、カシュガルで待った方が安く、確実だという結論になる。

というわけで、行き先をカシュガルに変更。宿が安かったら今日もここに泊まっても良かったが50元(約750円)じゃ高い。

バスターミナルに行ってチケットの変更を頼むとなんと変更手数料に30元(約450円)かかると言う。1泊の宿代ほどもするとは予想外だった。高すぎる。あんたら変更って言ったってパソコンのキーボードを押すだけだろうが。それに発車直前でもないだし。まったくがめつい。とそんなふうに、30元という値段を聞いて一瞬ひるむが、ビザは安全第一というわけで涙を飲んで変更手数料を払う。やれやれ判断ミスは高くつく。

宿が許せば夕方のバスに乗ろうかと思ったが、宿のチェックアウトは新彊時間の10時というので、午前中のバスに乗ることにする。1時間後の発車。

なので気になっていたことがあったので、20分ほどネット屋に寄ってから、宿に戻って荷物をまとめてチェックアウト。バスターミナルに行く。

ゆるい荷物チェックを受け(というかスルーだったんだけど)、駐車場に泊まっていたバスに乗り込む。今回は荷物代を請求してくる輩はいなかった。

しかし、バスに乗り込んでから何か足りないことを思い出す。手荷物を確認するとガイドブックを入れた袋がない。あっ!と思い、バスを降り、さっきのネット屋に行く。ネット屋の受付に行くと受付のにいちゃんがすぐに気づき、ぼくの袋を取り出し手渡してくれる。

それから再びバスに戻ったところ、今度はMP3プレーヤーがないことに気づく。あっ!と思い、ホテルに戻る。幸い部屋は掃除中でドアが開け放たれていた。朝方でかけるときに枕の下に隠しておいたMP3プレーヤーを無事発見し、バスに戻る。

まったくカシュガルに来て腹をこわして以降、忘れ物、紛失ものばかりだ。しょうもないことで時間とカネを失う。

バスは予定通りに新彊時間の10時40分頃、発車。今回は中頃の席だった。ただ通路側だったので、後ろの方の席で空いているところに移動。

これで運転手のタバコの煙を吸わなくて済むと思っていたら、今度は後ろの客が吸い出す。頻度は少ないもののいらつく。中南米やアフリカではタバコを吸う人自体が少なかったから煙を気にすることもなかったけど、中東以降がひどい。特にイスラム圏がひどい。男の喫煙率は少なく見積もっても8割くらいはいってるんじゃなかろうか。ただ、カフカスは気にならなかったな。

今日も空は曇っているのでヒマラヤがある方を眺めてみても山の形すら見えない。

当然ながら昨日と同じく砂漠時々まち。波間をかき分けて走るボートのようにバスは上下に揺れる。今日の運転手の方がスピードを出すので、たまに腰が座席から浮くほど。そんなときには、客の一部が「おぅ!」と驚きとも非難とも聞こえるような声を出す。

砂漠の脇でトイレ休憩あり。トイレはもちろんないので、男も女も広い空の下、しゃがんで用を足す。幸い砂漠の起伏で隠れることができるので、直接見る/見られることはない。

今回は昨日よりも1時間早く10時間でカシュガルに着く。新彊時間の21時過ぎにカシュガルのまちに到着。この間も泊まった宿にバスと歩きで向かう。

ドミはまた一人で使えるだろうなと思っていたら、意外にも日本人女性旅行者が一人泊まっていた。

宿に戻った後、近くのウイグル人の店で食事。これまで食べたことのないものをと思っていたが、時間が遅いためかラグマンと餃子しかなかった。なのでラグマンと餃子を注文。ラグマンは大で4元(約60円)、餃子は10粒ほどで2元(約30円)だった。どちらも味は良い。

腹が膨れたところで宿に戻る。

宿で同室の日本人とおしゃべり。日本語でおしゃべりをするのはキルギスのビシュケク以来、約20日ぶりだ。

彼女は中国4回目らしい。聞くとあまりの物価の変動についていけない、と言う。以前来たときよりもたとえば北京の地下鉄の値段が2倍になっていたり、宿代も高くなっていたりと本当に高くなったらしい。中央アジアから来たぼくとしては食い物が特に安いなという印象だったので、そうなのだと感心する。

また人民のマナーもずいぶん良くなったらしい。以前であれば列車やバスの中では、通路で子どもは小便したり寝ころんだりするし、タバコは普通に吸っているし、ひまわりの種の食べかす(殻)などは床中にあふれているしと、まぁ、噂通りの汚さだったらしい。しかし、それが今回来てみると列車の中でタバコは数人はいないし、ひまわりの種の殻も床に捨てたりしなくなっていたという。それを聞いて、やはりオリンピック前に一度でも中国に来ておくべきだったと思う。

そんな話をべちゃべちゃして、夜中すぎに就寝。

Fin

[diary]カーシーから和田へ

カーシーから和田へ

2009/02/22(日) 晴れ
[Kashgar→和田:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

※時間は自治区の時間

・バスで和田へ
・砂漠ときどきまち
・たばこ臭いバス
・でこぼこ道
・ヒマラヤ見えず
・和田着

暗いうちに目覚めてしばらく書き物。

新彊時間の7時過ぎ、明るくなってきた頃に宿をでる。外はひんやりとしていた。まだ人通りは少ない。

歩いて近くのバス停に行く。そこから10番のバスに乗る。運賃1元。

バスターミナル近くで降りて、100mほど歩いてバスターミナルへ。

和田行きのチケットを買おうと窓口に行ったら、次の和田行きは新彊時間の11時発だと言う。てっきり1時間ごとくらいにあるかと思っていたし、それらしきことを書いている看板があったので、前日に時刻表を調べていなかったのが裏目に出た。しかも8時発のバスがあったものの、つい10分ほど前に発車した模様。3時間も待たねばならぬことになる。

しょうがないので11時発のチケットを買う。バスのチケット代は89.5元(約1500円)。けっこう高い。100元札を渡すと釣りが足りない。釣りが足りないと仕草で伝えると、窓口の女性はチケットを指さす。チケットを見ると2枚紙があって、1枚はバスのチケットだが、1枚は保険などと書かれてあった。その保険が3元するらしい。保険なんていらないんだけど、と思いつつ、そういう決まりになっているのかと思い、とりあえず納得する。

3時間もあるので、時間つぶしに本でも読むことにする。ビシュケクの宿で入手した『列子』を読む。漢文と書き下し文と日本語訳が書かれているためページ数のわりに内容は少ない。日本語訳だけ読んでいくとあっと言う間にページが進む。

これを読んでいると、今更ながら日本語で漢文と読んでいるものは、つまりは中国語なんだと改めて思う。だったら書き下し文なんて面倒なことを勉強させるよりも中国語を勉強させた方がすらすら読めていいんじゃないかとも。発音さえクリアできれば中国語の文法なんて英語なんかと比べればだいぶ楽だし、中国語と日本語の漢字を比較したりするだけでもなかなか楽しめたりする。漢文の授業を廃止して、中国語を!なんて思う。

『列子』の中に朝三暮四の話があったのが意外だった。その他、子どもに聞かせたりするのにちょうどいいような話も多々ある。なかなか面白い。

待合室で読んでいたらだんだんと体が冷えてきて寒くなったので、バスに移動できないか駐車場を見てみる。するとすでにバスは止まっていて乗客も数人乗り込んでいる。近くにいたおじさんにチケットを見せると間違いないようだったので、荷物を持ってバスに移動。

荷物を荷台に積むとき、その作業を手伝ってくれた男が、5元くれ、というようなことを言ってくる。そんなもんやるか、と無視したら、それ以上要求はしてこなかった。

バスのチケットには座席番号があったものの、乗り込んでみるとぼくの座席に他の人が座っていたので、関係ないのかと思い、適当なところに座る。

バスの中は暖かいかと思っていたらそうでもなかった。

しばらく本を読みながら待っていたら、新たに乗り込んできた客が自分の座席のことでなんだかんだと言い出す。そんでバス会社の人らしい人を呼んできて、その人が客のチケットをチェックし始める。こうしてみな座席を移動。ぼくは1番だったので1番前の席に行くが、窓際のはずの1番の席には2番のおじさんが座っていてぜんぜん動きそうにない。窓際がよかったが、おじさんをどかすのも面倒なので、そのまま通路側の席に座る。

バスのエンジンがかかる。

そろそろ発車かと思っていたら通路を挟んで隣に座っているわかめの男と運転手らしいおじさんが大声で言い合いを始める。言葉がわからないので、もちろんなんで言い合っているかわからず。しかし、5分ほどずっと言い合いをしていた。

そのうち収まり、バスは発車する。運転手のおじさんはたばこをくわえながらの運転。それを見た隣の若い男もたばこを吸い始めるが、客はたばこを吸ったらいけないらしく、運転手のおじさんが猛烈にその男を怒る。自分は吸いながら客にだけ注意をするという神経がわからない。運転手は交代要員でもう一人乗っていて、その人もたばこを吸うからこっちは臭くてたまらない。一応、窓を開けて吸っているが臭いが鼻につく。やれやれ、高い金払ってバスに乗っているのになんでたばこの煙を吸わされないかんのじゃ。

バスは舗装された道をとろとろ走る。なんでこんなにとろいんだというくらいとろい。検問というかチェックポイントがいくつもあり、公安と書いたボックスがあるところでいちいちバスは止まり、運転手の一人がそこに行って何やら書類を書いたりしている。

そのうちまちを過ぎて砂漠地帯にでる。砂漠の一本道。ここまで来ると多少スピードがあがるが、だがそれでもたいして速くない。

加えて舗装はされているものの表面がでこぼこしているようで、並みに向かって進むボートのようにかなり上下に揺れる。

砂漠はさらさらした砂の砂漠ではなく、どちらかと言えば土漠的。カタい。

がたがた揺れる区間があったかと思えば今度はスラッ~としたまったく平たい区間になったりする。

ヒマラヤ山脈が右手に見えるかと思っていたが、やや曇っているためか山らしきものはまったく見えず。夏だったら見えるのかな。

そうした砂漠を通った後に集落が現れる。集落といっても見える範囲の家の数からしても数千人は住んでいそうなかなり大きい集落。こうした集落に入って目立つのがロバ車とバイクと荷台をくっつけた乗り物。特にロバ車の数がぐっと増える。一方で客を乗せて走る馬車もある。ロバ車は見た感じ荷物運搬用らしいが、人を乗せて走っているのもある。

そうしたロバ車が前を走っていると、バスの運転手はそこまで鳴らさなくていいじゃないかというくらいクラクションを鳴らす。

ある集落にはビニールハウスがたくさんあった。50mくらいの長さのハウスが目算でも50棟以上ある。ただハウスの形が変わっていた。その形を単純化して言うとおおむね90°と60°と30°の角を持つ直角三角形の形をしていて、一番長い片が底辺(地面)となっている。そして、一番短い片は土で作られていて、二番目に長い片がビニールになっている。だから見た目は、土の中にビニールが張られているような印象を受ける。中で何を栽培しているかは不明。

他にもカマボコ型の普通のビニールハウスもあった。

また集落内には畑もあり。細かく畦で区切った畑が見えるが、作物はほとんど植わっていない。リンゴらしき木々を見る。また棉花畑は白いものが見えたのでそれとわかった。

バスが走る道が舗装されている他はほとんど未舗装の土道。沿道に見える家もほとんどが煉瓦を積んだものか、土壁(内部はおそらく煉瓦で表面だけ土を塗っている)のものがほとんど。長い間回収されていないようで、これで人が住んでいなければ遺跡か何かと思うんじゃないかというような家もあり。

そういう集落ではこの道の沿道がまちの中心部になっていたりするため、その辺りに行くとロバ車とその他の乗り物で渋滞になる。

またそういう集落にさしかかる度にチェックポイントがある。

そうした集落をいくつか越える。

また時折、車を降りてメッカの方向を向いてお祈りしている人たちを見る。が、このバスがそのために止まることはなかった。

時折沿道にこの先のまちの地名などを書いた看板が現れる。ガイドブックでは5~8時間とあったので、8時間近くたった頃、看板に目的地の名前が出てきたとき、もう近いなと思ったがこれが外れ。そのしばらく後に目的地までの距離を書いた看板が現れる。そこにはまだ200km近くあるとあった。がっくり。

新彊時間の19時前には日が暮れるが、まだ着かない。

結局、和田の着いたのは新彊時間の22時近くだった。11時間もかかった。

和田のバスターミナルは既に営業を終わっていたが、なかに入って明日移動する先のバスがあるか壁の時刻表などで確認しようとしたところ、中にいた係員の女性に中には入れないというようなことを言われる。が、それを無視して彼女に話しかける。明日行きたいところを告げると、そこに行くバスはないと言われる。その途中までのバスもないらしい。中国語なのではっきりわからなかったが、どうもすんなりと行きたいところにはいけそうにない。

それから宿探し。バスターミナルの前の通りには招待所の看板がいくつもあった。なので、近くのところから当たってみたが、ことごとく宿泊拒否される。しょうがないのでガイドブックに載っていた宿に行ったが30元だったのが50元に値上げされていた。他に選択肢もなさそうなので、50元であきらめる。一人部屋ではあるものの施設はしょぼい。とても50元(約750円)の価値などない。

この時間でもまだやっている屋台や食堂はあった。腹の調子がまだ完全には回復していないので、晩飯代わりにバナナを買おうかと思ったらこれが高い。1本1元(約15円)。0.5元で包子(パオズ:肉まん)を食べられるこの国にすると高い。あとで気づいたらやっぱり輸入品。それもエクアドル産だった。

宿が高いことといい、バナナが高いことといい、バスの中のタバコといい、なんだかいらついてきたので、やっぱり食堂で飯をくうことにする。牛肉麺屋があったので、そこで牛肉麺の小を頼む。5元(約75円)。日本のラーメン的で手打ちの細麺に牛のチャーシューが入っているだけ。味はよし。麺はちょっとコシがない。

ここではお茶が出なかったので、帰りがけ商店で水のペットボトルを買う。600mlが1元(約15円)。安いが「配料」という欄に「純粋水」などと一緒に「硫酸●(漢字のフォントなし)」とあるのが気になる。

部屋に戻ってからはテレビでブンデスリーガを見ながらルートを考える。予定では木曜の夜までに西寧まで行くつもりだったが、当初予定していたルートではバスの乗り換えがけっこう多いようだし、ここみたいに安い宿に泊まれないとなると出費が嵩む。これで金曜日までに西寧に着かなかったら月曜日のビザの最終期限日に延長手続きをすることになり、それがもし数日かかるとなったらオーバーステイの罰金など面倒なことになる可能性もある。できれば金曜日に延長手続きをしに行って、ダメだったら一気に香港かベトナムかラオスまで行ってしまおうかと思っていたが、どうも当初のルートでは時間もカネもけっこうかかりそうだし、ややリスクが高い。どうするか・・・。

と考えているうちに寝る。

Fin

[diary]カーシーで静養、宿換え

カーシーで静養、宿換え

2009/02/21(土) 晴れ
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

※時間は自治区の時間

・腹痛
・バスの下見
・カネの紛失に気づく
・宿換え
・地図を購入

夜中腹痛で目覚める。どうも腹を下したらしい。中国に入って以降続いている食い放題路線に腹が反乱を起こしたのか、あるいは昨日食べた何かにあたったのか、それともいつか日本人旅行者から聞いたように中国の油にやられたのかはわからない。あるいはそれらの複合かもしれない。

そういうわけで夜中眠れず。部屋にはテレビがあったのでテレビをつけてみる。ちょうど映画をやっていたのでそれを見る。もちろん中国語なので会話はよくわからない。ただ中国語の字幕もついている(これはすべてのチャンネルの映画やドラマにも共通している)ので、それでわずかにわかるときがある程度。字幕の切り替えがぼくには早くてとても全部の漢字を読みとることができない。

映画を立て続けに2本見たが、服装や髪型からすると、80年代くらいに作られたよう。どっちも他愛もないストーリーでコメディ的だったが、その笑いも今となっては苦笑あるいは微笑ましいといったところがせいぜい。言葉がわかればもっと面白かったのかもしれないけど。でもミスタービーンの方が、言葉がわからなくても笑える。どっちも霊が出てくる点と学園ものである点、それから高校生くらいの女の子たちが主役というのが共通していた。

映画が終わるとそのチャンネルは夜中の休止時間に入ったので、ほかのチャンネルを見る。ヨーロッパのサッカーやNBAの試合をやっているチャンネルがあったので、それを眺める。そのうち寝る。

明るくなって目覚める。まだ腹の調子がおさまっていなかったので、またテレビを見ながらだらだらする。

チャンネルは中国のばかり20ほど(それ以上?)あるのだが、古い時代のドラマ(歴史ドラマ)をやっているチャンネルが5つ以上あった。中国ならいくらでも歴史ネタはあるのだろうが、誰がこうしたのを見ているのだろうかと不思議に思う。日本のような視聴率主義は中国にはあるのか?

新彊チャンネルでは定期的にウイグル語の番組が流れる。北京や上海の番組もあり。

チャンネルを回していたらちょっとしたお昼のバラエティ番組みたいなのがあったので、そこに固定する。「笑っていいとも」系の番組のようで、司会とその取り巻きの若い男たちはお笑い系。ちょうどチャンネルを止めたときは中国人男女のモデルたちに歩き方を習うというようなコーナーだった。身長190cm近い男のモデルや170cmは越えている女のモデルが6人ほど出ていた。女性の方は日本で言うと○○(○○には個人名を入れたいのだが、顔はわかるが名前が出てこない)系だが、男は日本人の一般的なモデル顔とはだいぶ違って切れ長の目をしたのが数名。劇団ひとり系も1人いる。驚いたのはファッション界の人間らしい解説者(もしかしたら服のデザイナーなのかもしれない)が、顔といい、背丈といい、髪型といい日本のテレビによく出ている落語家(名前がわからない。桂文珍とかそのあたり)にそっくりだったこと。もしや彼は日本と中国の両方で仕事をしているのかと思ってしまったくらい。

あと面白かったのが、そのモデルたちにモデル歩きをしてもらうる際にかかった曲の中にSMAPの曲があったこと(「明日からハレルヤー?」とかいう歌詞がある歌)。日本で中国のポップスなんて聴いたことがないが、流れることはあるのだろうか。それから出演している芸人っぽい人が、別のコーナーで谷村しんじ(漢字を忘れた)の「すばる」を歌っていたのも面白かった。そういえば彼は上海かどっかの大学に招かれていたとかいう話を思い出す。

そうこうしているうちに昼がすぎる。

ちょっとは腹が落ち着いたので、明日のためにバスターミナルにバスの下見に行く。歩いていける距離だが、試しにバスに乗って近くまで行く。バス代は1回1元(約15円)。

ここのバスターミナルもウルムチ同様、立派な建物だった。日本でいうと消防署に似ているかもしれない。中に電光掲示板があって行き先と出発予定時刻、座席数、運賃などが中国語とウイグル語で表示されている。

壁には鉄道の時刻表や運賃表もあった。滞在可能日数とビザ延長などのこともあり、しばしどういうルートで移動するか悩む。

30分ほど鉄道地図やガイドブックを見て考え、とりあえずの行き先を決めて、バスターミナルを後にする。

バスターミナル周辺には煮卵売りやナン売り、カバン売りの人たちが路上にいた。また周りには宿屋、風呂屋、食堂などがあったので、ぶらぶらと見て回る。

小さな食堂があったので、腹が落ち着いたばかりなのに入る。そして餃子と包子を頼む。ここも餃子10粒3元(約45円)、包子(具は青っ葉と卵の炒め物だった)は1個0.5元(約7円)。これに餃子のゆで汁らしきものがそば湯のようにして出てくる。これはタダ。

若い女性が2人でやっていて、一人の女の子は陽気にいろいろ話しかけてくる。当然こちらは一言もと言っていいほどわからず。なので紙に書いてと手帳を取り出して仕草で伝えるのだが、彼女は手帳に書かれてあるぼくの字をしげしげと見つめるだけで筆談にならない。彼女の上着にはハングルとカタカナがプリントされていたので、なんと書かれてあるか見せてもらおうと彼女の服を指さして、見せてくれと言うようなにわか中国語を言うが、意図がまったく伝わらず。これほどまでに通じない相手も珍しい。しかし、彼女はそれでも何度も話しかけてくる。そのたびにぼくは首を傾(かし)げる。言葉がわかれば・・・という思いがまた強くなる。

お金を払うと彼女らは「バイバイ(と中国でも言うらしい)」と言う。こちらも「バイバイ」と返し、店を出る。

そこから歩いて中国銀行に向かう。移動のルートを考えると今のうちにもうちょっと両替しておいた方がいいように思えてきた。が、宿を出てすぐに通ったときは開いていた支店はすでに閉店。

しかもこのときにカネを紛失したらしいことに気づく。残り金を頭で数えていたところ、昨日靴下の中に入れていたカネをどこにやったかわからなくなる。そして、おそらく靴下を脱いだときに落としたらしいことに思い至る。

あわててホテルに戻り、昨日靴下を脱いだあたりを探すが見あたらず。宿主にも相談するが、わからず。昨晩靴下を洗濯するため共同便所の洗面所に行ったとき、そこで靴下を脱いだためそこで落としたらしかったが、すでにそれらしきものは何もなかった。一見しただけじゃカネとはわからないだろうからごみと一緒に捨てられたのかもしれない。

カネがなくなってショックを受けているところへ、宿主がこの宿を出るように行ってくる。宿に泊まっていた人で2~3の日本語を知っている人が英語が多少出来る人がいて、その人がたまたまフロントを通りがかったので通訳してもらうと、どうもこの宿は中国人専用で外国人は泊めない(泊まれない)らしい。通りでチェックインの時パスポートの提示を求められなかったのだと合点する。でも、言葉が出来ないから外国人だということはわかっていたはず。つまりはカネの件で警察に相談されると困るようなことでもあるのか、と勘ぐる。

いずれにしても部屋から出ていくよう言われたので、荷物をまとめて宿を出る。

ガイドブックに載っていた宿まで移動。幸いなことにここの宿のドミはさっきまで泊まっていた宿とは比べものにならないくらいきれいでトイレ、シャワー付き。しかも他に客はいない。これで値段は同じ30元(約450円)なので、最初からこっちに泊まっておけばカネを紛失することもなかったと後悔。やれやれ。

それからネット屋に行ってメールの確認。そこからの帰りがけに1年前から中国に住んでいる知り合いに電話。国内電話は一律1分0。3元(約5円)なので助かる。しかも電話はあちこちの商店が店先においているので探す手間がかからないし、カードも買う必要がない。こういうところはスウェーデンなどよりも便利。

夕方、また餃子が恋しくなったので餃子を食べる。ここはウイグル風餃子のようでタレが、中国系の店では黒酢だが、ここでは唐辛子が効いた赤い色をした辛いタレだった。

その後は宿でゆっくりする。シャワーのお湯の温度が低いのが残念。あと指定されたベッドがある部屋があまりに暗いので勝手にベッドを変更。

結局、誰も相客はいず完全にシングルルームとして使える。すばらしい。

Fin

[diary]カーシーの金曜日

カーシーの金曜日

2009/02/20(金) 曇り
[Urumqi→Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

※時間は自治区の時間

・公安へビザの延長をしに
・ウイグル地区をまたぶらり
・金曜日の礼拝

夜中何度か目が覚める。外からやたらとクラクションを鳴らす音が聞こえる。これにはいらつく。

7時前に目が覚め、しばらく物書き。

10時半頃宿を出て、近くにある公安局の外事処に行く。公安の建物は10階以上ある白のコンクリートのビル。入り口にいた警備員に、日本人だがビザを延長したいと、事前に中国語で書いてきた文章を見せながら伝えると、入り口の手前の脇にある平屋の建物に行くよう促される。

そこが目的の場所だった。壁にはビザの延長や滞在許可などの項目名とそれぞれにかかる料金が張り出されている。

カウンターにいたウイグル系の女性は多少英語を解した。ビザを延長したいと書いた紙を見せると、英語ができるかと英語で尋ねてくる。それ以後は会話は英語。彼女はぼくのパスポートを見ると、”今日は20日、ビザの延長できない”などという。意味がわからず金曜日は受け付けていないのかと思い、月曜にくればいいのかと尋ねたところ3月2日と紙に書く。そして別の男性の職員を呼ぶ。

彼も英語を多少解した。つまりはノービザでは15日間滞在できるのだが、その滞在期限が迫った頃でないb座の延長は受け付けてくれないらしい。だから15日目の3月2日にホテルの領収書のコピーとパスポートのコピーと写真2枚、あと代金160元を持って来るように言われる。

ここの人の対応も予想外に柔らかだった。中央アジアの警察や店員などの態度に慣れていたからか、中国の方がずっと態度が気持ちよい。

滞在期限まであと10日もあるため、一気に問題が出てくる。ここらで10日間過ごしてからまた出直すか、それとも他のまちでのビザ延長に挑戦するか。ただ、ここで簡単に延長できるものだと思っていたので、他のまちの情報がない。まずはその情報を入手しなければと困ったときのネット屋頼みで、ネット屋を探しにウイグル地区(という名前はぼくが勝手につけた)に向かう。

泊まっている宿の近くにネット屋があったのだが、昨日行ったところ会員以外はお断りみたいなふうに拒否されたためそこは使えなかった。他にどこにあるか知らなかったので、探さなければならない。

幅3m足らずの土壁の住宅街の曲がりくねった道を歩く。路上ではぷらぷらと一人で遊んでいる男のがいたりする。その中には例のごとく股のところが縫われていないズボンを履いている子がいて、すごい子になると尻もちんちんも丸見えという子もいた。そういうのを見るとなんのためにズボンを履いているのかわからなくなる。

今日は金曜日、つまりはイスラムの休息日ということでか昨日よりも路上には人気がないし、露店も少ない。今日は曇っていて昨日よりもやや冷える。

昨日とは違う通りを歩いていたらモスクがある広場の脇にでる。あたりには土産物品などを売っている店あり。その並びにネット屋を偶然発見。ここでメールチェックなどをする。1時間2元(約30円)。これまでの中で最安だ。遅くもないしなかなかよろしい。ビザ関係の情報も検索。

モスク前の広場は人が多かった。モスクに向かって歩いている人(ほとんど男)多数。その人を相手にビニール袋みたいなのを売っている少年たちが5人ほど。下に敷くためのビニールなのか、靴を入れるための袋なのかはよくわからず。

また広場の一角には馬やラクダが遭わせて5頭ほどいた。どれも記念写真用らしくできあがった際の写真を貼りだしているおじさんもいた。

広場に連なるある通りがとても賑やかだったのでそこに行ってみる。メロンやスイカ売りのおじさんたちが、片手にメロンなどを持って客引きをしている。臓物系の料理を出す屋台やひよこ豆料理、涼麺、シャシリクなどの屋台多数。ナン屋もあり。普通の食堂も沿道に沿って何軒もあった。入り口近くではシャシリクを焼いていたり、プロフを炊いていたりする。

そのうち一軒の食堂の人が声をかけてきたので、そこに入ってみる。入り口付近の鍋にあった料理を頼む。中はウイグル人ばかりで、ぼくが入るとちと目立つ。

隣の席の人がちらちらとこちらを見ているので軽く挨拶。相手も挨拶を返してくれたがそれ以上に発展することはなかった。

出てきた料理はどんぶりに辛そうな色をしたスープだった。中をかき混ぜてみると羊の肉とじゃがいもがごろごろ入っている。スープの色はトマト色というか、ラー油いろなのだが、飲んでみるとたいして辛くはなかった。これが10元(約150円)もしたのには驚いたが。

こちらの一帯もくねくねした道に土壁の家が続く。路上で遊んでいる3~5歳くらいの子どもたちはぼくを見ると不思議そうな顔でこちらを見る。通り過ぎてもあとからしばらくついて来る子もいるが、近寄ろうとするとたいてい逃げる。

ぶらぶら歩いている昨日も通った広い道にでる。引き返す。住宅街を通っていると入り口の扉に「文明家族」とか「平安家族」と書かれたシールを貼っている家を多く見かける。

ちょうどお祈りタイムが終わったようで、多くの男たちがモスクから帰っていく途中だった。手にはお祈り時に下に敷く一人サイズの絨毯を持っている。

金曜日とは言え、たいていの店は開いている。食堂や屋台は人々で賑やか。路上の洋服売りのおばちゃんたち、DVD売りの若い男の人たち、ナッツ類売りなどもいる。またモスク周辺にはお祈りする人たちを当てにしてだろう物乞いの人たちがけっこう集まっていた。目算で20~30人ほどだろうか。女性が多いように感じる。

それから中国の地図を書おうかと思い、本屋に行く。ガイドブックはあるものの中古のため中国全体の地図は破れていて使えなかった。例のビザの関係で延長ができるまちの名前はわかったが、それがどこにあるのかがわからなかったり、どういうルートで行けばいいかを考えるには地図が必要かと思ってのことだったが、これが長引く。

市内には大きな本屋としては新華書店と新華教育書店があり、それぞれの間は400mほど離れている。片方にしかない本がけっこうあるためその両方をまず見て、売っている地図の類を見てみる。一枚の紙のものは3元(約45円)であったが、道路などの図が簡単にすぎるように感じる。手帳型の地図帳も複数ある。値段は10~20元。あれこれ迷う。さらに困ったことに中国国内の古いまちを紹介したガイドブックがあり、これがほしくなる。値段が38元(約550円)もするのがネック。しかも作りが粗い。

結局何度か本屋を行き来して財布とも相談しながら最終的にはガイドブックを買う。さらにたまたま立ち寄った料理本コーナーにウイグル料理本があり、それがカラーでなかなかよかったためそれも買ってしまう。こちらは1冊12元(約170円)。10種類近くあったが悩んだ末2種類だけ購入。予定外の出費にため息をつきつつ、また倹約しなきゃなと思う。

夕方前、昨日も行った屋台街に行って夕食。麻婆豆腐やカリフラワーの炒め物、トマトと卵の炒め物、煮豆みたいなもの、豚肉炒めみたいなのと5~6種類のおかずに白飯がついた定食のようなものが6元(約90円)。味はいかにも中華という味なので新しい発見はなかった。

それからまたネット屋に行って、写真のデータのアップロードなどをする。

暗くなり始めた頃に宿に戻る。

宿に戻ってからしばらくすると腹の調子がおかしくなる。今日もいろいろ食ったからそのせいか、ちょっと黴びたような味がしたナッツ類のせいか、道ばたで食べた自家製ヨーグルトのせいか、ただの食いすぎのせいかはわからない。

これまた金曜の夜ということでか近くからカラオケを歌う声が聞こえてくる。

夜はテレビを見ながら安静。

Fin

[diary]カーシー(カシュガル)到着

カーシー(カシュガル)到着

2009/02/19(木) 晴れ
[Urumqi→Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

※時間は自治区の時間

・23時間の移動でカーシー到着
・カーシーのまち
・人民広場
・ウイグル人地区

ウルムチからカーシー(カシュガル)に向かうバスの中。

布団があることもあり、夜は寒くなかった。

明るくなった頃、目が覚める。窓の外を眺めながらMP3プレイヤーで中国語を聞く。緑気がないのは相変わらず。

しばらくして沿道に煉瓦作りの家や土壁の家が見える。そして、バスは土ぼこりを上げながら駐車場らしきところに止まる。便所と休憩所があるだけの小さな駐車場で舗装もされていない。

乗客が次々と降りていくので休憩かと思い、ぼくも降りる。降りる間際にもしやと思い、運転手に「カーシー?」と聞くと「カーシー」と言ってうなづく。どうも着いたらしい。

ベッドに置いていた小型リュックを取りに行き、靴を履いてバスを降りる。リュックを荷台から取りだし背負う。

時刻は新彊時間の10時過ぎ。ウルムチを出てから23時間で着いた。

改めて降りて周りを見渡したが、ここまで素っ気ないバスターミナルも珍しい。ターミナルというよりもただの駐車場。それも未舗装だからバスが停まっていなければ、ぜったい空き地か何かと思って見逃すようなところだ。

駐車場にはタクシーなども乗り付けていて、一部の乗客はタクシーに乗り込んでいた。近くからバスがあるらしいことはガイドブックに載っていたのだが、少なくともこの駐車場内にそれらしき乗り物はない。

何人か歩いて出ていく人たちがいたので、その人達をまねてちょっと歩いてみることにする。

ターミナルを出ると1本道が左右に伸びていて、みな右の方に行っていたのでそちらに向けて歩く。ここで初めて見たのがバイクの後ろに金属製の荷台を付けた乗り物。8人ほどが乗れるように座席も作られていて、通り過ぎていくその乗り物はどれも満席状態。屋根はなし。

沿道にはナン屋が5軒ほど並んでいた。ぼくを見て声をかけてくるおじさんが1人。キルギスやカザフ、ウルムチでは道を歩いていて声をかけられることなどなかったので、久しぶりのことだ。

おじさんは中国語で何をかを言う。が、こちらはまったくわからない。適当に日本人だと言うと、”おー、ヤーポニャ”みたいなことを言う。おじさんは焼く前のパン生地に水をかける作業をしていて、他の二人はその生地を釜の内側にペタペタと貼る作業をしている。釜は中央アジアと同じく壷型でてっぺんが開いている。パンの生地は壷型の釜の内側の壁に貼られていく。釜の中では火がたかれているので、それで焼き上がるのを待つというスタイル。

その道をちょっと行くと舗装された片側2車線ほどある大きな通りにでる。どでかい病院の建物が左手に見え、沿道には食堂や各種商店が並んでいる。ここまで来てバスを発見。

8番のバスに乗る。バスはマイクロバスサイズ。適当に乗り込んでからバスの集金係らしい女性に行きたいホテルの名前を告げる。するとバスが違うようで別のバスに乗るようにというようなことを言われる。ガイドブックを見てみると予定していた宿に行くには9番がいいらしい。バス停でおろしてくれ、運賃も取られず。

9番のバスに乗り換える。乗り込む前にやはり集金係と見える女の子にガイドブックを見せてここの宿に行きたいのだがと伝えようとしたら、彼女は漢字が苦手なのか手を振って拒み、運転手に聞けと言う。なので、運転手に見せるとすぐに了解した。

この沿道にも店がたくさん並んでいてなかなか賑やか。招待所も1軒見かける。シャシリクを焼く炭火の煙がそちこちから上がっている。

よく整備されている通りを走ること15分ほど、目的の宿の前に到着。運賃1元(約15円)。

そこで降りたものの予定していた宿には行かず、あたりに招待所がないか探して歩く。しかし、見あたらず。結局、元来た道を戻るのも面倒なので、適当な宿に入って値段を聞いてみる。

1軒目に入った宿のカウンターには10代半ばくらいの女の子がいた。ここの宿の娘さんなのだろう。彼女に部屋はあるかとにわか中国語で聞くと、当然ながら中国語で返答される。それが想定外に長い返答だったので、何を言いたいのかわからず。とりあえず30元(約450円)の部屋はないかと聞いてみると、また何をか言う。首をひねっていると彼女は紙を取りだし、そこに書いてくれる。完全には意味がわからなかったが「公共的」とかと書いている単語からトイレやシャワーが共同なのだろうと思い、OKと言ってそこにする。

30元と10元のデポジットの計40元を払い、チェックイン。3階にあがるとそこにいた掃除係らしい女性が部屋を教えてくれる。部屋は5畳ほどの広さでタイル張り。ベッドが2つにテレビ、小さな細長い球型の蛍光灯が1つ。トイレ、シャワーなし。十分よろしい。

トイレの場所を教えてもらうと4階だと言われる。4階に行ってみるとこっちはなかなか年季の入ったトイレだった。ウルムチで泊まった招待所の方がはるかにきれい。

12時前だったので、荷物を置いて宿を出る。元が少なくなっていたのでまずは両替。

適当に歩いていたら中国銀行の支店を発見。だが、開いていない。シャッターに営業時間が書かれていてどうも昼休みを取るらしいことがわかる。ただその時間が北京時間なのか新彊時間なのかはわからず。どちらにしても今開いていないならここから少し離れているカーシー本店の方に行っても開いていないだろうと思い、適当にふらつくことにする。

人民西路を歩いていると奥の方に連なる横道があったので、そこに入る。両脇には鶏や豚の各部位を煮たものを売っている店や北京焼き栗を売っている店、くるみやアーモンド、干しぶどうなどを売っている屋台などがある。左手には大きな電化製品屋もあった。奥まで行くと右手に屋台街が登場。これがガイドブックにあった美食城らしい。

屋台街はアーケードの中にあり、100mにわたり通路の両側に店が計30軒ほど並ぶ。ウイグル料理から四川料理、重慶料理などと看板に書かれ、それを見ればどこの料理かがわかる。

一通り店を見て回る。各地の料理もうまそう(特に小さな鍋料理がうまそうだった)だったのだが、せっかく新彊にいるのでウイグル料理をと思い、ウイグル料理屋に入る。ウイグル料理屋の看板にはアラビア文字が併記されているから、それだけでそこがウイグル料理屋だということがわかる。

これまで食べたことがないものをと思ったのだが、どうもラグマン(うどんのトマトベースの羊肉野菜炒めかけ)とプロフ(炊き込みご飯みたいなの)しかないよう。ウルムチでラグマンは食べたからプロフにしようかと思ったら、なんと9元(約140円)ほどもするというので、5元(約75円)のものは何かと尋ねたらラグマンということになり、結局新彊で3度目のラグマンとなる。

麺は手打ちで店内で若いにいちゃんが麺を延ばしながら、バンバンと木製のまな板(?)に叩きつけている。味付けはウルムチと同じトマトベースの羊肉と野菜炒めをかけたもの。量はそこそこ多い。

麺を打っていたにいちゃんは、ぼくのことがすぐに日本人とわかったらしく、それと聞いてきて日本人と答えると「モシモシ」と言ってくる。同じ店員の女性は意外だったようで、日本人なんだと彼に確認していた。また隣の席に座っていた漢人らしき女性も中国語で日本人かと尋ねてくる。

店はウイグル人がやっているので店員同士のやりとりはウイグル語。

ラグマンを食べていたら学校のジャージを着たままの女の子(13~15歳)が二人やってきて、ラグマンを注文する。女の子のジャージには”カシュガル二中”の文字と彼女自身の名前が縫い込まれていた。それを見て、ウイグル人の人は名前を漢字とアラビア文字で書くのかと気づく。彼女らは漢人っぽかったが、きっとそうなのだろう。

ちょうど昼休みなのか、それとも学校が終わったのか、同じようにジャージ姿の子ども(小学生から中学生くらいに見える)たちが続々と屋台街にやってきて、各店に入り、飯を食っていた。

ラグマンを食べた後、同じ屋台街に饅頭専門店があったので、そこで饅頭を1個買う。日本で一般的に売っている肉まんよりも少し大きめのサイズで表面がぱっちりしていてうまそうだった。値段は1個0.5元。肉まんでこの大きさでこの値段は安いなあと思っていたら、肉まんではなかった。具は何も入っていない生地だけの饅頭で、ちょっとがっかり。まぁ、うまかったけど。

屋台街を出たところにも店や物売りの人たちが並んでいてタコ(あげて遊ぶやつ)や花などを売っていた。あと射的の屋台もあり。

そこからぶらぶら歩いて中国銀行の本店を目指す。店が切れることなく続いており、途中には大きなショッピングモールもあり。ただここは夕方になって言ったところ1階部分は店舗で埋まっているものの2~3階は空き店舗が多かった。

また途中に郵便局があったので、ここで葉書を出す。歩道は幅2mほどあってきれいに整備されている。歩道にも風呂敷の上に服などを並べて売っている人あり。また物乞いのおじさん、おばさんも5人ほど見る。

10分ほど歩いたら正面左手に一見して毛沢東とわかるでかい銅像が見えてきた。道路を挟んで向かいは人民広場でサッカーコートが十分取れるくらいの何もない広場がある。そこでは凧揚げに興じている子ども、おじさんらが数人。また凧売りのおじさんおばさんも5~6人いた。

広場の向こうに中国銀行の本店があったのだが、行ってみると開いていない。入り口近くにいたおじさんが、何かと言う。どうも開いていないらしい。

しょうがないので両替は後回しにして適当に歩く。すると中国農業銀行と書いたでかい建物が見えたので試しにそこで両替してみることにする。窓口の女性が多少英語を話したので彼女に聞いたが、今は両替できないから中国銀行に行ってくれと言う。

途中で会った旅人の話では銀行前に闇両替のおじさんたちがいると聞いていたのだが、ウルムチにはいたもののここでは見ない。

なので、もうしばらく時間を潰してから中国銀行に再度いくことにする。

人気(ひとけ)のある通りを適当に歩いていたら、えらくたくさんの人が集まっている一画に出る。近くには壷などを作成販売している店やナンの店、シャシリク屋などがある。

橋の向こうも人がぎょうさん見えたのでそちらに行く。どうもここらがウイグル人が多く住んでいる地区らしい。圧倒的にウイグル人率が高い。

道ばたにはシャシリクの屋台、メロンやスイカ売りのおじさん(切り身にしてその場で食べさせている)、アラビア文字の看板、羊肉がぶら下がっていたり、絨毯がどかーんと売られていたり、果物(りんご、ザクロ、ぶどう、なし、みかんなど)売りの屋台、大きな干し唐辛子が売られていたりととにかく賑やか。屋台も羊の内臓ものから米の腸詰め、ひよこ豆と千切り人参をゆでたものとゆで卵、羊の足部分を湯がいたもの、羊の唐揚げ、プロフ、幅広で黄色い麺の料理、ヨーグルトなどなどあちらの街角や屋台にはない料理がいっぱい。

ぶらぶら歩いているうちに住宅街に続く道があったのでそちらに行ってみる。幅2mほどの石畳の道の両脇には土壁の家が並ぶ。車は入れない細い横道が何本もある。中央アジアなどの家と同じような作り。

3歳くらいの子どもが一人でぼくの前を歩いていたので見ていたら、お尻がちらちらと見える。これが噂の中国式子ども(幼児)服らしい。聞いた話では簡単に小便等ができるように股のところが開いている(縫われていない)らしい。

路地を歩いていたら路地の一画でお祈りをしている男たちの集団を見る。

しばらく住宅街を歩き、適当なところに出る。出たところが小学校の入り口の門で、そこには午後の授業を待つ子どもたちが50人くらい集まっていた。ぼくに気づいた6歳くらいの男の二人が「ハロー」と声をかけてくる。学校のすぐ隣にはウイグル語専門の書店があり、中では女性が二人立ち読みしていた。ウイグル語の会話帳がないか探すがない。ウイグル語英語の辞書はあったもののアラビア文字が基本のため読めず。

歩いていたらさっきも通った通りに出る。そこでさっきは見落としていたヨーグルトを売っているおばちゃんたちを発見。歩道の端にヨーグルトの入った大きな容器と丸いパンとを並べていて、おじさんが一人、しゃがみ込んでパンでヨーグルトをすくいながら食べている。

おばさんに値段を聞くとお椀1杯1元だと言う。なので、ぼくも食べてみる。お椀にヨーグルトが盛られて手渡される。食べて(飲んで)みると酸味があまりなく、やや甘みがある。さらさらと飲める。

それからさっき素通りした国際市場というところに行く。ここは立派な屋根付きの市場で中に入ってみるとコーナーごとに何を売っているかを示すプラカードが天井からぶら下がっている。子ども服コーナーや男物・女物の服コーナー、靴、食器、洗剤や石鹸、化粧品、文房具、スカーフ、絨毯、ウイグル独特の帽子、民芸品などなどいろんなものが売ってある。

石鹸がほしかったので石鹸を見て回る。包装箱にきゅうりの写真があるものなどもあり。いくつか見て回った中で「Sheep Oil」と英語で書かれている石鹸があったので、それを買ってみる。お値段3元(約45円)。

一度そこを出て汚い川岸の方に行ってみると川辺の堤防兼駐車場の一画はビリヤード場になっていた。ビリヤードの台が10ほどあり、すべての台に客がついている。やっているのは男ばかり。年齢は10代くらいのから50代くらいの人まで幅広い。

それからまたあたりをぶらぶら。もうそろそろ銀行が開いた頃かと思い、銀行方面に向かう。

来た道とは違う通りを行ってみたら、ここが旧市街のメインストリートだった。土壁の家が並ぶ間の幅3mくらいの通りを荷台を付けたバイクが客を乗せて走る。沿道にはナン屋、鍛冶屋、板金屋、麺を伸ばす棒やパン作りに使う道具を作る木工屋などが並ぶ。なかなか面白い通り。

そこを抜けたら人民広場近くの交差点近くに出た。

改めて中国銀行に行ってみると今度は開いていた。窓口の若い男性は英語がわかり、ぼくを見ると英語で話しかけてくる。ここで両替。手数料を8元ほど取られる。

それから近くの携帯電話屋が集まる通りを抜け、ウルムチにもあった新華書店へ。ここは2階ぶんだけを使っているのみだった。ウルムチより規模は小さい。カーシーらしく1階のフロアにウイグル語の本が置かれていた。2階は中国語の文学や各種専門書。ウルムチで見ていいなと思った本を探していたのだが、ここでは見あたらず。

それからホテル方面に向かって歩く。途中、昼間は通り過ぎたショッピングセンターに寄る。洋服屋やパソコン機器屋、ゲームセンターなどが入っていた。PLAY BOYブランドの服屋もあり。目を引いたのがプリクラ屋らしき店。この店が3店舗ほどあって、表にプリクラ的な写真がべたべたと貼られている。

一通り見てからまたホテル方面に行く。美容室が何軒かあって、いずれの美容室も表にモデルの写真を貼りだしていた。その髪型がパーマをかけたものが多い。中国に入ってパーマをかけている女性が多いなと感じたのは、そういう理由があるらしい。

中国にいる知人に連絡を取るためネット屋を探すが、これがなかなか見つからない。宿の近くに電脳城という1階から4階までがパソコン屋のビルがあったので、そこに行ってみたがやはりネット屋はなかった。

晩飯でも食おうかと昼にも行った屋台街に行ったが、今やすっかり客はいなくなっていて、いくつかは既に店じまいしていた。

なので、ホテルの方に行く。明日行く予定の公安の位置を確認しに行く。その途中、小さな本屋があったので、そこに寄る。そこで探していた本を発見。『図説天下 中国最美的100風情小鎮(※漢字は日本式に変換)』という230ページほどの本を買う。お値段19.8元(約300円)。文章はもちろん中国語だが、写真がふんだんにあるので買ってみた。

そこから歩いて公安に向かう。途中、野菜市場に立ち寄るが規模が小さかった。魚が売っていたのは川か湖での養殖ものか?

公安の位置を確認。だんだん日が暮れ始める。

帰りにウイグル料理店で夕食。頼んだことのない料理をメニューを指さし注文。出てきたのはカレーうどんとも言うべきものだった。肉は鶏肉で味は完全にカレー。麺はラグマンと同じ手打ちのうどんみたいな麺。これはこれでうまい。8元(約120円)。

新彊時間の18時半頃、北京時間の20時半頃に日が暮れる。あとは宿にて過ごす。

Fin

[diary]ウルムチからカーシー(カシュガル)へ

ウルムチからカーシー(カシュガル)へ

2009/02/18(水) 晴れ
[Urumqi→Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

※時間は自治区の時間

外から聞こえてくる金属音が耳につき、まだ暗い5時過ぎ(新彊時間)に目が覚める。カンカンという高い音からするとスコップか何かで路面の氷を割る作業をしているらしい。

しばらく物書き。

明るくなった7時半頃、荷造りをしてチェックアウト。今朝は雪は降っていない。霧もかかっていず、どちらかと言えば晴れに近い。

宿のすぐ近くのバス停から44番のおんぼろバスに乗る。通勤時間なのかバスはほぼ満員。通路にもたくさんの人が立っていたので乗れるか危ぶんだが、無事乗り込むことが出来る。

15分ほどで長距離バスターミナルに到着。中に入り、チケット売場の窓口でカーシー(カシュガル)行きのチケットを1枚と頼むが”没有(メイヨウ;ない)”と言われる。どういうことだ?と思いながら、昨日の案内係のおばさんを探す。昨日言っていたとおり、確かに今日もいた。おばさんに声をかけると、ちゃんとぼくのことを覚えていてすぐに案内してくれる。チケット窓口とは違う方向に行くので、どこに行くのかと不思議に思っていたところ、おばさんは一人のおじさんに声をかける。そのおじさんはぼくの荷物を持ち、一緒に来るよう言う。中国語であれこれ話しかけられるが、まったくわからず。

構内にある荷物チェックの機械にリュックを通し、待合室を素通りしてバスが並ぶ駐車場に出る。そこから歩いて100mほどいったところに小さな小屋が並んでいるところがあって、そこに連れて行かれた。中に入るとバスを待っているらしいおじさんがいる。どうもここがカーシー(カシュガル)にバスを走らせている会社のオフィスらしい。そこでバス代を払う。235元(約3500円)。やっぱり高いなぁ。24時間ほどかかるにしてもこんなに高いのはトルコ以来かもしれない。

ザラ紙のチケットに出発時刻らしいものが記載されていた。「12:00」とあるので、これは北京時間かと聞くとその通りだと言う。現在、新彊時間の8時過ぎ、北京時間の10時過ぎ。まだ2時間ある。ガイドブックには1時間ごとにバスがあるとあったから昨日は時間をチェックしなかったのだが、こんなことならもうちょっと宿でのんびりしていてもよかった。

しばらく時間があるので、荷物をそこに置いてバスターミナルの外の店に買い出しに行く。まだ食べていなかった当地のナン屋に行ってナンを買う。ピザ生地のように平たい円形をしているのは中央アジアと同じ。それ以外に見た目あんパンのような形をしているものもあったので、それも買う。ナンは直径30cmほどのピザ生地タイプのナンが1枚1元(約15円)、あんパンタイプの小さいのは1個0.5元(約7円)。

近くに蒸かしたばかりの包子(パオズ)を売っている店がいくつもあったので、そのうち1軒で包子(パオズ)を2個買う。ミニ肉まんサイズで1個0.7元(約8円)。

飲み物はあえて買わず。

またさっきのオフィスに戻る。オフィス内の待合いスペースの壁には禁煙と中国語で書いた紙があり、そこには吸った者は罰金10元とあった。しかし、室内はたばこ臭い。バスを待っている客の一部が吸っているし、何よりバス会社のおじさん方が吸っている。さすが中国。

中国語の本などを見たりしながら待つ。

新彊時間の10時過ぎ、北京時間の12時過ぎ、バス会社のおじさんがカーシーに行く客に声をかけ、荷物を駐車場にある車に乗せるように言う。おじさんはぼくのところに来て、ぼくのリュックを軽く蹴り、外に持っていくよう言う。人の荷物を足蹴にするとはこのオヤジまったく躾がなってない。

荷物を持っていったら持っていったで、車にはすでに入りきらず、また待合いスペースに持って戻ることになる。すでに出発時刻なのにバスが現れない。

結局バスが現れたのは新彊時間の11時前だった。バスの荷台にリュックを詰め込み、バスに乗り込む。バスに乗り込む前にチケットは回収される。

バスは中国製の寝台バス。中国ならでは乗り物でこれが初体験だ。

車内にあがる前に運転席横で靴を脱ぐ。脱いだ靴を入れるビニール袋は用意されていたので、それに靴を入れて中に入る。

寝台バスの名前のとおり、車内には完全に横になって寝れるベッドが備え付けられている。それも2段ベッド。両側の窓沿いと通路を挟んで真ん中に1列ずつの計3列。バスの車体にあった数字によれば合計39人が乗れるらしい。

添乗員らしい男の人が、ぼくにここに座れ(寝ろ)というようなことを言う。指定された席(ベッド)は左手中程の窓側の2段目のベッド。

持ち込んだ小さなリュックと靴は、どこにも置く場所がないので、ベッドのどこかに置かざるを得ないことになった。他の人を見ると足下のスペースなどに置いている人が多い。

ベッドに上がると天井がすぐそこ。というより頭を上げて座れない。だから結局横になるのが一番楽な姿勢となる。

ベッドは幅70~80cmほど、長さ180cm程度。頭の部分は盛り上がっており、その下に後ろの人の足が入るような設計になっている。つまり、前の座席の頭の部分は後ろから見ると空洞の箱のようになっていて、そこに足を突っ込むようになっている。

アフリカのように長距離バスが多いところでもこのスタイルのバスがあればずいぶん楽になると思うのだが、問題はベッドのサイズが合わないであろうこと。横幅はぼくでもちょっと窮屈に感じるくらいしかない。腕を体の脇にくっつけた状態でやっと入るくらいしかないから、アフリカのおばさんたちでは確実にあふれ出る。北部ヨーロッパ人にすると今度は長さが足りない。要は完全にアジア人的体型を前提とした設計になっている。

またベッドにはちゃんとシーツが敷かれており、掛け布団も用意されている。なので、寒くはない。

一度寝てしまうと寝返り以外は身動きが取りにくいので、寝たきりになってしまう。

13時過ぎ、予定より1時間遅れでバスは発車。

車内前方には2つテレビが備え付けられていた。1つは1段目に寝ている人たち用、もう1つは2段目に寝ている人用で、上下の段それぞれの高さに合わせて設置されていた。

発車するとさっそく映画が上映される。ジャッキーチェンが主演の映画。

ウルムチのまちを外れるとあたりは緑のない景色になる。岩山の間をくねくねと走る。たまに平地が見えるが砂利状だったり、土漠状だったりする。緑はない。

ジャッキーチェン主演の映画が2本続けて流れる。いずれも吹き替えはウイグル語。3本目はジェットリー主演の映画。その途中、バスは食堂前に停車して休憩。緑気のない土地の中をまっすぐ走る道路の脇には車の修理屋や食堂、営業しているのかどうかわからない旅館などがポツポツある。

食堂に入る人は誰もいず、みなその裏に歩いていく。そこには便所があったが、男はみなその周りの大地の上で用を足している。座り込んで大きいのをしている人もあり。足下にはその残骸が多数有り。

雪はまったくなく、気温もそれほど低くない。10℃近くはありそう。

30分ほど休憩してまた発車。さっき途中で消えた映画はそれで終わりらしく、新たに別のDVDが始まる。ウイグル人の歌手や役者達による歌や芸で、どこかのホールで上演されたものを録画したもののようだっった。

ぼくは寝る。

夕食休憩はなかったよう。寝ている間にあったのかもしれないが、その場合は気づくと思うので、なかったということにする。

その後も寝る。

Fin

[diary]ウルムチの1日

ウルムチの1日

2009/02/17(火) 雪 日中-2℃
[Urumqi:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

※時間は自治区の時間

・雪の一日
・バスチェック
・市街地をぶらり

新彊時間の6時50分、北京時間の8時50分に起床。外はまだ暗い。この部屋はあいして暖房が効いていないが、温度はちょうどいい程度。

テレビを付けるとある番組では英語でニュースの報道をしていた。新彊と画面の左上に書かれているチャンネルではウイグル語でニュースの放送をしている。コマーシャルなどに使われる文字はアラビア文字。商品名はアラビア文字と漢字の併記だったりする。岩手でマグニチュード6程度の地震があったことをニュースの字幕で知る。

10時過ぎ、泊まっている招待所があるビルを出る。表の通りにはうっすらと雪が積もっていた。雪もちらちらと降っている。昨日のような霧は出ていないが、曇っているため薄暗い。

まずは明日の移動に備えてカシュガル行きのバスの下調べをしに長距離バスターミナルに行く。44番のおんぼろバスに乗って15分ほど。このターミナルも最近建てられたかのように立派。3階建てくらいの長方形の白い建物。向かいにはモスク的なデザインの寺(?)があった。

入り口から入るとすぐそこがチケット売場になっていて、窓口の上の方には大きな電光掲示板があり、どこ行きは何時発といった情報が流れている。それを眺めていたのだがカシュガル行きの文字が見えない。漢字を再確認しようとガイドブックを見ていたら制服を着た女性が話しかけてくる。首からIDカードのようなものをぶら下げていたので、ここの案内係の人らしい。中国語で何やら言われるので、にわか中国語で明日カシュガルに行きたい旨を告げると「有(よう)」と言う。そして、自分のIDカードを見せながら明日もここにいるからここで私に尋ねるように、というようなことを仕草混じりで言う。値段を確認すると230元程度(約2600円)。予想外に高かった。

出口の近くで新聞を売っているおばちゃんがいたので記念に新聞を2種類買う。1つは「○(王篇に不)球時報(GLOBAL TIMESと英語で併記)」、もう1つは「鳥魯木○(?)晩報」。前者の1面の記事は日本経済について「日本経済陥入”戦後最悪”・・・(※漢字は日本式に変換)」とあった。一方のウルムチの新聞はスポーツ新聞だったようで一面はNBAのオールスターゲームの結果だった。

バスターミナルの表では太鼓と独特のラッパで音楽を奏でている男が3人。なんのための音楽なのかはよくわからず。ただその近くには長机が10脚ほど並べられていた。机には求人情報を書いた紙が貼られている。給料が書かれているいくつかの紙を見ると、700~1500元(約1~2万円)くらいのものが多い。仕事内容はよくわからず。

バスターミナルを出てから辺りをぶらぶらする。この辺りにも食堂がいっぱい。道で羊の串焼きを焼いているウイグル料理店が3~4軒あった。また長征なんとかと書いたデパートというか小さなお店が集まったビルがあったので、中を覗く。服屋と布地屋、靴屋などばかりが集まっているビルだった。5本指ソックスを探すが見あたらず。

その後、近くのバス停から適当にバスに乗る。するとウルムチ駅に行ってしまった。ウルムチ駅で乗り換える。新彊ウイグル自治区博物館に行きたかったのでバス停で路線図を眺めていたら地図を持ったおじさんが近づいてきてウルムチの地図を書わないかと売り込んでくる。地図は昨日、本屋で見たものと同じ。試しに買おうと値段を聞くと3元(約45円)だった。その地図と路線図を見比べていると、そのおじさんがどこに行くのだというようなことを聞いてくる。地図にあった博物館という文字を指さすと向こうのバス乗り場だと教えてくれる。

30mほど離れていたそのバス乗り場に行く。そこから906番のバスに乗る。今、駅に着いたばかりらしい大荷物を持った人が続々と乗り込んできてぼくの足下はそれらの荷物に包囲されてしまう。バスの運賃は1元(約15円)。

バスに30分ほど揺られて博物館前に到着。小さな博物館かと思っていたらまたこれが立派な建物だった。道路を挟んだ向かいには科学学院とか書かれたこれまた20階建てくらいの巨大な近代的なビルがあって、これにも驚く。学校の施設がこんなにでかいのも中国らしい。

博物館に行ってみたらなぜか入れず。入り口で雪を掃いていたおじさんは「明天、明天(ミィティエン:明日)」と言うので、しょうがなく引き返す。バスに乗って中心部に戻る。

今度乗ったバスは新しめのバス。なぜか車内前方には薄型テレビが設置されていてアメリカの無声アニメやCMなどが流れる。

人通りの多い通りで適当に降りる。雪はますます勢いが強くなり、向かい風の中を歩くと雪が顔めがけて飛んでくるので非常に歩きにくい。

[diary]アルマティからウルムチへ 3日目

アルマティからウルムチへ 3日目

2009/02/16(月) 濃霧 日中-2℃
[Urumqi:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

・ウルムチに到着
・駅を出て驚く
・宿泊拒否
・牛肉麺
・中国銀行で両替
・招待所に泊まる
・ウルムチ食い倒れ
・新華書店に驚く
・時計の電池交換

ウルムチ行きの列車の中。

外がやや明るくなってきた頃、目覚める。が、昨晩寝るのが遅かったので眠い。しばらく寝ていたが、同室の人が起き出す音でまた目が覚める。みな身支度をし、荷物をまとめ、乗客に配布されていたシーツ等を畳んでどこかへ持っていったりし始めるので、もう到着が近いのかと思い、ぼくも起き出す。

窓から外を見るとまた一面の雪。

すぐに着くかと思っていたらなかなか着かない。車窓からは煉瓦やコンクリートブロックを積み上げた小さな家々が見える。あるところでは木のない小さな山(丘)の斜面に集落が出来ていた。どの家も小屋と呼んでいいくらいに小さく、だいぶ痛んでいるように見える。

ぼくも自分のベッドのシーツなどを片づけようと思ったのだが、同室のふとっちょのおじさんがぼくのベッドに寝ころび寝ているためできない。どうせ寝るなら自分のベッドで寝ろよな。

おじさんは自分の携帯電話がなったことでようやく目覚める。それを機にベッドのシーツなどを車掌室のおじさんところに持っていく。

しばらくして列車は立派なホームに入る。乗客が廊下に出て並び始める。

8時半、列車はウルムチ駅に到着。同室の人たちはさよならも言わずにバタバタと降りていった。ぼくもリュックを背負い、車両を降りる。ホームは日本の大きな駅と同じような作りになっていた。いくつもホームがあるため、駅を出るには地下道を通っていかないといけないよう。

地下へ降りる階段を下りる。駅自体が最近改装されたのか、ホームにしても地下道にしてもとてもきれい。地下道の壁にはいろんな会社や商品の広告看板が貼られている。

地下道をまっすぐ行くとそこが改札だった。すんなりと改札を通過すると、駅の外に出る。空港の出口と同じように、出口の所には柵が両脇に置かれていて、かつ警備員みたいな人がいて、外部の人がたかることができないようになっている。キリル文字や漢字で人の名前か何かを書き付けた紙を持って待っている人が数人いる。

出口を出て驚いたのが、駅周辺の様(さま)。ここしばらく通ってきた国々ではたいてい駅前は閑散としているのが相場だったのだが、ここは違う。日本の大きな都市の駅のように、駅前のロータリー周りにはビルが並び立っている。食堂やホテルも多く、たくさんの人が行き交っている。駅前のこの様子を見ただけでキルギスやウズベキスタン、カザフスタンなどとはまったく違うところ(国)に来たのだということを実感する。

どのビル、どの店にもでかでかと漢字が書かれている。使われている色も赤、黒、黄色などと目立つものが多い。日本の看板もけっこうなものだが、さすがに中国はもっと大胆だ。とにかく各看板が自分を主張している。

ガイドブックの地図を見て想像していたのは、閑散とした駅前だったので、そのギャップもあり、なかなか強烈な中国初上陸となった。ただ濃霧のため視界があまりよくなかったので、これがなければもっと強烈だったかもしれない。

辺りを見回すと招待所(安宿)と書いた看板がいくつも見えたので、この近くで宿を取ろうかと看板が出ているところに行く。ロシア語がちょっとは通じるかと思っていたがまったく通じず。最初に行った宿では部屋はないとのこと(”ない”という中国はわかった)。次に行ったところでも断られる。招待所は安い部屋(数人の相部屋)だったら15元(約200円)くらいで泊まれるのだが、新彊ウイグル自治区では外国人は宿泊を拒否されることが多いとガイドブックにあったので、たぶんそれなのだろう。

4軒くらいまわったが、どれもだめ。どうもこの辺の招待所はダメっぽいので4軒目のところで仕草でどこなら泊まれるかと聞くとフロントの人は道まで出て、指さして教えてくれる。

そちらは招待所ではなくホテル。フロント脇に料金表が貼られていて、それ見ると一番安い「普通部屋」というのが50元(約650円)。他は軒並み100元を越えている。フロントの若い女性に料金表を指さし、50元の部屋に泊まりたいと伝える。言葉がまったくわからないので、漢字を見ながら見せながらのコミュニケーション。相手に意図は通じたみたいでパスポートを見せてと言うので、パスポートを見せる。彼女は書類にあれこれを書き込む。

一通り手続きが終わったところで宿賃とデポジットを請求される。宿代が1泊50元でデポジットで100元。手元には40元しかなかったので、「没有(メイヨウ:ない)」と答えた上で会話帳を指さし両替所はどこかと聞いたのだが、どうも今カネを払わないといけないみたいで、彼女は書き終わったばかりの書類をビリビリと破ってしまう。他の国では両替してから夕方に払うことができたのに。

しょうがないので、先に両替をしに行くことにする。生憎なことにこの近くにはないようで町中まで行かないといけないらしい。当然バスに乗らないといけないのだが、ガイドブックにはバスは釣りをくれないことがあるとあったので、手元の10元札をこわすことも兼ねて飯を食うことにする。

ありがたいことにいくつかの食堂は玄関のところにメニューと料金表を貼りだしているので、それを見て適当な店に入る。隣が「旅館」だったので、食堂に入る前にそこに行ってみたがやはり断られる。ついでにそこのおかみさんに両替が出来るところを聞くと教えてくれるが、口頭では文字がわからないので文字を教えてもらう。「南門(実際は、門の字は中国では行書のような簡略体になっている)」に行けとのことらしい。

隣の食堂に入る。メニューを指さして「牛肉普通麺」を頼む。代金は5元(75円)。

入り口横の作業場ではまだ10代後半くらいに見える女の子が「包子(パオズ:饅頭)」用の生地になる小麦のダマ(玉)をこねている。

しばらくして牛肉麺が運ばれてくる。本当にシンプルで麺と肉少々とネギだけ。汁は澄んでいる。懐かしい味。日本でもどこかのラーメン屋で飲んだことのあるような汁だ。いや、ラーメンというよりもベトナムで食べたフォーの汁に似ている。

がっかりだったのは麺のコシのなさ。市販品っぽい。

あと気になったので「肉包子(肉まん)」を1個注文。他のテーブルではこの肉まんだけ5~6個食べている人がいるので、食事としてはそういうふうに食べるのが普通なのだろう。ぼくが1個だけ注文すると、”1個だけ?”と笑いながら女の子は聞いてきた。お値段は1個0.5元(約7円)。大きさは中くらい。日本で売られている一般的な肉まんより小さい。体積というと半分くらいか。味はやっぱり肉まんだった。

すっかり満足してバス乗り場に向かう。駅の前のロータリーは大きく2つに分かれていて、それぞれから違う番号のバスが出ている。乗り場には路線表があるので助かる。

道ばたではウルムチの地図などを売っているおじさんたちがいる。

ここらを歩いている人たちを見ていて感じたのが、来ている服や髪型にバラエティがあること。中央アジアでは冬と言うこともあって、男女ともほとんどが黒のコートを着ていたが、ここでは赤や青、黄色などが目立つ。髪型も女性ではパーマをかけている人が目につく。何よりメガネ率が高くなった。ロシア系の人はまったく見なくなる。

聞こえてくる言葉は中国語の方が多いが、ウイグル語もそれなりに聞こえてくる。ウイグル語はウズベク語やカザフ語とほとんど同じだから音はどんなものかわかる。

走っているバスはかなりぼろくなっているものもある。女性の運転手もちらほら見る。

バスの運転手に「南門」に行くバスを尋ねると44番と仕草も交え教えてくれる。

なので44番に乗る。運賃は前払い。0.5元(5角)かと思っていたら1元(約15円)だった。5角札はあったが1元札がなかったので5元札を渡すと渋い顔をして5角札でいいからとそれを運賃ボックスに入れるよう指さす。やっぱり釣りはくれないみたい。

20分ほどバス乗る。沿道にはぼろい3階建て程度の横長いビルや10階以上ある近代的なビルが続く。実感としてはトルクメニスタンを除いた中央アジア各国の各首都よりもずっと大きい。中央アジアの各首都は面的には広かったけれども高さを伴う密度がなかった。どでかい漢字、それも赤や黄色で書かれた漢字はまさしく中国的だ。

意外だったのが、バス乗り場にきちんとバス停の名前を書いたプレートがあることと、それぞれのバス停に路線図があること、それから市内の地図を書いた看板があったり、通りの名前がきちんと明示されていることだった。なので、バスから降りるにもバス停を見ていればわかるので安心。わかりやすい。

南門でおりる。中国銀行はすぐにわかった。路面には薄い、部分によっては2cmほどの氷の層が出来ているため滑らないようにのろのろ歩く。

リュックを担いだまま銀行に入ると入り口で止められるかと思ったが、これまた意外にすぐに案内兼警備係らしい制服姿の若いにいちゃんがやってきて、目的を聞いてくる。会話帳を見せて両替がしたい旨を伝えると、そのにいちゃんはすぐに番号札(紙)を機械からちぎり取ってきてぼくに渡す。そして店内にあるベンチを勧め、荷物を下ろすように促す。その態度がまた意外にも丁寧。旧ソ連圏だったらこんな対応はありえない。中国も各種情報から素っ気ないものだと想像していたが、少なくともこの銀行は違うらしい。

銀行の入り口付近には札束を持った闇両替のおじさんが、堂々と通りがかる人に声をかけていた。ぼくも声をかけられた。闇の方がレートがいいらしいが、偽札がかなり出回っているとのことなので、まずは本物を確認しなければいけないので、闇両替はパス。不思議なことに闇両替のおじさんたちは銀行の店内にもいてあからさまにぼくに声をかけてくる。銀行はこういう人らを放置している。

そのうち自分の番号が回ってくる。窓口の人は中国語で何か言うがわからず。「フーチャオ(パスポート)」という基本的な単語も聞き取れず。相手が「パスポート」と言って初めてわかった。両替にはパスポートが必要で、領収書にもサインをしなければいけない。レートは1米ドル=6.83元らしいが、1米ドルぶんくらいの手数料を取られるため手取りが少なくなる。これを考えるとやっぱり闇がいい。1米ドルあれば1.5食たべられるからね。

これでようやく元(げん)が手に入ったので、宿探し。駅周辺の宿に戻るのは面倒なので、適当にあたりをふらつく。宿はいくらでもある。赤い字ででかでかと招待所と書かれているところがあったので、そこに行ってみる。

ビルの4階。エレベーターであがり、ドアを出るとそこがフロントだった。漢人系の40代くらいの男性がフロントにいた。にわか中国語で部屋があるか尋ね、宿泊代を聞く。宿代は1泊68元らしい。40元(約600円)の部屋はないかと言うつもりで、電卓に40と打ち込んで見せたら、意外に簡単にうなづく。40元の部屋なのか、それともまけてくれたのかは不明。

パスポートを見せてチェックイン。さっきのホテルと同じくデポジット込みの前金制。50元札を渡したら10元がデポジットとなった。さっきのホテルはデポジットが100元だったことを考えると、デポジットの額は宿によってまちまちのようだ。

掃除係らしいおばちゃんが部屋を案内してくれる。このおばちゃんも愛想がいい。何人かというようなことを聞かれ、日本人だと答える。おばちゃんは終始にこにこ顔だった。

部屋は5畳ほどの小さめのシングルルーム。テレビ付き。トイレ・シャワーは共同。部屋は十分きれい。中央アジアの安ホテル(ゲストハウスは除く)と比べると格段にいい。

[diary]zアルマティからウルムチへ 2日目

アルマティからウルムチへ 2日目

2009/02/15(日) 曇り
[Almati:Kazakstan→Urumqi:China]
レート:1米ドル=148.5テンゲ=90円、1ユーロ=191.5テンゲ=118円

・雪原
・停車駅にて
・なが~い国境

明るくなったことに気づき、目が覚める。日が昇っているので8時はすぎているよう。外の景色を見ようと窓をのぞくが、窓の表面の水滴が凍り付いていて向こう側がよく見えない。そもそも窓自体が汚れていたから余計に見にくい。

しばらくして部屋の人たちが起きる。

10時くらいになると窓の氷は溶けたようでいくらか外が見えるようになる。外は右も左も雪原。真っ白な平たい大地の向こうに地平線が見える。

ぼくは持参していたMP3プレイヤーで中国語のお勉強。テキストを見ながら覚えようとするが、すぐ他のことを考え初めて、なかなか頭に残らない。

そのうち退屈になる。

10時半、列車はある駅で止まる。5分ほどたっても発車しないし、コートを着て廊下を歩いていく乗客が見えたので、ちょっと外をのぞいてみると、車両の入り口には地元の人が物売りに来ていた。ピロシキやペリメニ(水餃子みたいなの)、ペットボトルの水、ジュース、菓子、たばこ、薫製魚などなど。おばちゃん達が多いが、15歳くらいの女の子も薫製魚を売りに来ていた。

ペリメニが1粒20テンゲだったので、5粒買い、あとよくわからない揚げ物があったので、それを買う。

駅の周辺には民家がたくさんあった。どこも雪で埋もれているが、それほど雪は深くない。20~30cmといったところだろう。最近は雪が降っていないのか家々の屋根には雪はない。

20分ほどそこに停車した後、また列車は走り出す。

ベッドでごろごろしているうちに昼寝になる。

ドアがごんごん鳴る音で目覚める。勝手にドアが開く。見ると制服を着た人が立っている。どうもカザフの国境に来たらしい。外を見るとすっかり雪がなくなっている。

パスポートを見せろというので、みなパスポートを見せる。ぼくのパスポートとイミグレカードを見ると制服の男は何かがないというようなことを言い出す。どうも滞在登録の件らしい。なので、必要ないとロシア語で伝えると、ビザをどこで取ったのかと聞いてくる。イミグレカードやビザを見ればそこに書いてあるのに、なぜわざわざ聞いてくるんだと思いつつ、ビシュケクだと答える。彼はちょっと待っててとロシア語で言ってどっかに行く。上司にでも相談しに行くらしい。

しばらくして戻ってくる。別の係官も一緒。彼がビシュケクでビザを取ったのかと確認してくるのでそうだと答えると。例の制度のことを知っていたらしく、それ以上ごたごたすることはなく、パスポートは返ってきた。でも、この時点は出国スタンプはなし。

16時前、カザフ側の国境地点、ドストゥック駅に到着。列車は完全に止まる。

車両切り替え時に聞こえてくるようなガチャガチャといった音が聞こえてくる。ガイドブックによればカザフと中国では軌道の幅が違うから国境でその調整をするらしいから、その作業をしているよう。

一方、車内にはさっきとは別の制服を着た警官たちが回ってきて乗客のパスポートを集めて行く。

それから税関担当の警官がまわってきて、何か申告することがないかと聞かれる。何もないのでそのように答える。

停車してから2時間半後の18時半頃、列車が動き出す。だが10分も立たずにまた停車。今度は荷物チェックの係官がまわってきて乗客の荷物をかるくチェックしてまわる。そうした後にパスポートが戻ってくる。確認すると出国スタンプが押されていた。

これもかなり時間を食い、ようやく列車が発車したのは20時半だった。

しかし、また10分もしたら停車。また制服の人たちがまわってくる。今度は漢字が入った制服。中国側に入ったらしい。

また係官が各部屋をまわり、客の荷物をチェックする。カザフと違ってこちらのチェックはけっこう念が入っている。みなカバンを開けるよう言われ中身のチェックを受けている。

ぼくもリュックの中身をほとんど全部出すことになる。係りの女性は本を熱心にチェックする。中央アジアに関する日本語の文庫本をぺらぺらめくって、これはどこについての本なのだと片言英語で聞いてくる。

さらに別の男の係官はカメラを持っているか聞いてくる。持っていると言うと見せろと言うので見せると、これまで撮った写真を見始める。ちょっと見るだけかと思ったら、これがなかなか終わらない。電池がもったいないなぁと思っていたら、彼はあまりに写真が多いのに疲れたらしく、USBを持っているかと聞いてくる。どういうことかと思ったらパソコン上で写真を見たいとのことらしい。同室の女性がロシア語に訳してくれてそうしたことがわかる。

しょうがないのでカメラからデータカードを取り出し、彼に渡すとどっかに行ってしまう。

その間に別の係官がまわってきて入国カードに記入するように言ってくる。その彼はなぜか珍しいことに愛想がいい。彼から入国カードをもらい、記入。パスポートも集めていたので、記入したカードとともにパスポートを渡す。

それから20分ほどした頃、カメラのデータカードが戻ってくる。これまた珍しいことに返す際に彼は「Thank you」と言った。

こうしたなんだかんだでとにかく時間がかかる。

結局、パスポートが戻ってきたのは23時過ぎ。担当の彼は入国スタンプの欄をわざわざ見せた上でパスポートを返す。

23時20分、ようやく列車が走り出す。カザフ側から数えれば国境を越えるのに8時間ほどかかった。

さて寝るかと思っていたら、同室の男二人が酒盛りを始める。ぼくは端で寝ていたが、そんなことは気にもかけずに飲んでいる。こういうとき下のベッドだと面倒。

ちょっとばかし寝ていたが、しばらくして目が覚める。おじさんはウォッカを、もう一人の男はビールを飲んでいる。つまみはパンと既製品のサラミと何かの揚げ物。おじさんが酒を勧めてきたが1度断ったらそれ以上勧めてこなかった。

1時頃になってようやく酒盛りが終了。すぐにいびきをたてて眠り始めたので、ぼくはその隙に書き物をする。

そんで3時半頃に就寝。

今晩も部屋は暖房がきいており、暑い。

Fin

[diary]アルマティからウルムチへ 1日目

アルマティからウルムチへ 1日目

2009/02/14(土) 曇り 日中5℃程度
[Almati:Kazakstan]
レート:1米ドル=148.5テンゲ=90円、1ユーロ=191.5テンゲ=118円

・買い出し
・駅で待つ
・列車に乗車

まだ夜が明けない6時過ぎに起床。昨晩は誰も同じ部屋に泊まる人がいなかったので、気楽だった。しばらく書き物。

10時前、チェックアウトの時間を確認しに管理人室に行く。聞くと、チェックアウト時間は昼の12時だという。ウルムチ行きの列車は夜中の23時59分発なので、夕方5時くらいまで宿にいようかと思っていたのだが、夕方までいるなら500テンゲ(約350円)払わないといけないという。カネに余裕はないので、12時に出ることにする。

今日と列車内での食料や飲み物の買い出しをしにまちに行く。いつ出ても閑散としていて、歩いているとなんだかがっかりする。ネット屋に用事があったのでネット屋に寄ってからスーパーに行く。

スーパーで1.5リットルの水を買う。65テンゲ(約45円)。それから黒パンと白の角パンを買う。それぞれ60テンゲ(約40円)、29テンゲ(約20円)。

今日は昨日よりも暖かいようで、路面はそれほど凍っていなかった。

12時前に宿に戻り、出発の準備をして宿を出る。

近くのバス停まで歩いていく。リュックを背負って歩けばすぐに体が温まり、汗が出てくる。

看板を信じてアルマティ鉄道駅Ⅱ行きのバスが停まるはずのバス停でバスを待っていたのだが、いくらバスを見送っても目的地行きのバスが来ない。20分ほど待っていたところ、通りがかりのおじさんがわざわざ目の前に来て、握手を求めてくる。軽く握ると手がざらざらしている。いかにも酔っているふうだったので、手も汚れていたよう。おじさんはロシア語で国はどこだと聞いてくる。「キターイ(中国)?モンゴリア?、カザフスタン?」などと顔近づけながら聞いてくる。面倒なオヤジだと思って、ロシア語はわからないとロシア語で言ってもしつこく聞いてくる。けり倒したい衝動に駆られるが、それはおいといて適当に答えると、やっとどっか行く。なんなんだ、まったく。

いくら待っても目的のバスは来そうにないので、通りを変える。駅にまっすぐ延びている通りまで歩いていく。その通りまで行けば駅のすぐ前まで行くトロリーバスに乗れるはずだと思っていたのだが、これがまたなかなか来ない。通りを間違っているのかと思い、また別の通りに移動するがこちらではなさそう。なので、また戻ると反対方向行きだったものの乗りたいトロリーバスが通過していったので、これで安心する。

15分ほどバス停で待って、やっとトロリーバスに乗れる。トロリーバスの運転手はピンクのセーターを着た30代くらいの女性で、彼女の息子らしい3~5歳くらいの男の子も一緒に運転室に乗っていた。

車内は空いていたのですんなり乗れる。がたごと揺られて20分ほどでアルマティ鉄道駅Ⅱに到着。まっすぐに国際列車用の待合室に行く。

待合室に着いたのは13時半前だった。

朝から何も食べていなかったので、さっきスーパーで買った白パンをかじる。さすがに安いだけあってまずい。こんなまずいパンは珍しい。焼いてジャムでも付ければうまいのだろうが、そのまま食べるのには向いていない。

列車の出発まで11時間ほどあるので、『罪と罰』の続きを読む。途中、眠くなり居眠り。

夕方も読書。暗くなってわずかな電灯が点いてからも同じ。

待合室にはどう見てもこれから列車に乗るんじゃないだろうというようなおじさんたちもやってくる。酔っぱらっているのかなんなのか、一人で誰彼かまわず大声で話しかけているおじさんもいる。そうした人がいると警官が回ってきて待合室から追い出す。

19時頃だろうか、かつかつと大きな足音をたて、アメリカ映画に出てくるいかにもステレオタイプなヤクザ風に肩を揺らしながら歩いてくる男がいた。見た目は30代後半。身長150cm代。黒いジャンパーに黒いズボンという中央アジアでは男の制服とも言うべき格好をしている。そいつの後ろにはもうちょっと若い20代前半くらいの男がついている。

あまりに靴音が大きいのでそちらの方を見ると、こっちにやってくる。ああ、またバカな奴が来たよと思ったら、やっぱりバカだった。小さい方の男は、ぼくが座っている椅子の横まで来たらピタリと止まり、いきなり「クトー ヴィ?(あなたは誰?)」とロシア語で聞いてくる。まったく、なんじゃそりゃ! なんで今日はこうもバカな男たちにからまれるんだろうと憂鬱になる。

後ろの若いのがちっとはフォローするかと思い、彼の方を見るが、彼は何もフォローしない。自分のしている質問がわかってんのか、と思いながら、相手にするのもバカらしいから、ロシア語でロシア語はわからないと答えると、あっさりとどっか行く。まったく何がしたかったんだ!

その後は特にからまれることなく、本を読むことができる。

21時頃だったろうか、男の怒鳴る声がしたので、そちらを見ると、若い男が何やら怒鳴っていた。彼が怒鳴っている相手はさっきの小さい男。小さい男は特に言い返すようなこともしていない。そこへ怒鳴っている男が小さい男の腹に左の蹴りを入れる。それから顔面に左のストレート。小さい男はそれをもろに受けていたものの、男の攻撃は大した威力を持っていなかったようでなんともなさそうだった。

そこへ怒鳴っている男の友人らしい男が仲裁に入り、喧嘩はおしまい。さすがは中央アジア。そこに数日いれば必ず1回は大人の喧嘩を見ることができる。キルギスが一番多かったけれども、こうした喧嘩を見るのは中央アジアだけでも5~6回目かな。

出発前までになんとか『罪と罰』を読了。ロシア人はドイツ人やポーランド人が嫌いなんだということがわかる。

23時半になってもなんの案内もないので、ホームを見に行ってみるとそれらしき列車が止まっていて、すでに乗客も集まっていた。なので、荷物を持ってホームに出る。

ホームにいた制服を着ている人に聞いて自分の車両を確認。その車両に行くと車両の入り口でチケットとパスポートの確認がある。それをパスすると中に入れる。

ぼくの座席は1両目の7番。すべて寝台車両のよう。ぼくのコンパートメントは2段ベッドが向かい合っている4人部屋。ベッドの下のスペースにリュックをつめる。

同室にはカザフ系中国人のおじさん、それから30代半ばのカザフ人男性と20代半ばくらいのカザフ人女性。30代半ばの男性は日本の役者にいそうな顔をしている。女性の方は、お笑いの女二人組の背の高い方に似ている。

列車はほぼ予定通りに24時すぎに発車。部屋では3人がカザフ語でおしゃべり。中国人のおじさんは、ぼくの知っている中国人(漢民族)とはぜんぜん違う顔立ちをしている。おじさんがぼくにいくつ言葉を知っているかと言うから英語と日本語だけと答える。おじさんに聞くとおじさんは中国語、カザフ語、キルギス語、ウズベク語、ロシア語、アゼルバイジャン語と答える。カザフ語とキルギス語とウズベク語は似たようなもん(日本で言えば方言ほどの違いしかない)なので、実質は4言語使いのよう。なぜアゼルバイジャン語なのかはよくわからず。

ぼくは早く寝たかったのだが、3人はよくしゃべる。そのうちやっとこっちの状況を悟り、解散。それぞれのベッドに散ると、3人はそれぞれベッドで携帯電話を使っておしゃべりを始める。

車内は暖房が効いていて暑いくらい。他の部屋の人の中には半袖になっている人もいた。

Fin

[diary]アルマティでたらたら

アルマティでたらたら

2009/02/13(金) 曇り 日中0℃程度
[Almati:Kazakstan]
レート:1米ドル=148.5テンゲ=90円、1ユーロ=191.5テンゲ=118円

・『罪と罰』
・まちをぶらぶら
・バザールで巻きずしを買う

夜中、突然部屋のライトがつき、目が覚める。同室のバレーボーラーたちが通常の音量でおしゃべりを始める。なにかをボリボリ食っている。布団をかぶって光を遮断。それにしても夜中に何考えてんだ、こいつらは。

暖房の効きが良いために部屋が暑い。それもあり、しばらく眠れず。

日が昇ってから目が覚める。しばらく読書。バレーボーラーたちが出ていけば書き物でもしようかと思っていたが、なかなか出ていかないので、昼になってから出かける。

街路樹には今日も霜が張り付いている。

昨日、列車のチケットを買ったことでテンゲがやや足りなくなっていたので、まずは両替屋に行く。予想通りまたテンゲは下がっていた。昨日は平均1米ドル=147テンゲだったものが今日は148テンゲになっている。いくつか両替屋を回ってレートのいいところで両替。30米ドルぶんだけ両替しようと50米ドル札を出したら釣りがないと言われ、両替できず。なので20ユーロ札を出し、両替。ユーロは191.5テンゲだった。

同じ両替屋で中国元も多少入手しておこうかと思ったが、細かい元がないと言われできず。

なので、バザール近くの両替屋に行ってテンゲから元に両替。1元=24テンゲだった。

それからバザールで昼飯。適当なカフェに入る。珍しいことにここの店主らしき女性はロシア系だった。料理もロシア系っぽい。メニューを見て頼んだことのないものを頼む。ゴルブツィという名前のものを頼んだら、これはヒヴァでも食べたロールキャベツだった。米と挽き肉とタマネギなどが巻かれているロールキャベツが4つ。スープの味はなじみのある味。パンやチャイは別料金だったので頼まず。

ただあまり腹が膨れなかったし、テンゲに余裕があったので、もう1品頼む。ジャルコエという料理を頼んだら、これはじゃがいものがメインの料理だった。じゃがいもと鶏と人参を一緒に炊いたもので、大きなジャガイモ3個ぶんくらいのじゃがいもがドテッと皿を覆っている。鶏肉と人参は少々。スープの味はトマト系のよう。

どちらもお値段300テンゲ。これに5%のサービス料がつき、しめて630テンゲ(約400円)なり。高いなぁ。ちなみにこの店には電子レンジがあって、肉料理などはこれで温め直して出していた。電子レンジがある店なんて久しぶりに見たような気がする。

それから昨日買ったアップルパイがうまかったので、それを買いに行ったら品切れ状態だった。昨日は店の看板のサモサという名前を信じて中には肉が入っているものだと思って買ったところ、中身がリンゴだったので驚いたのだが、今日は買えず。

総菜屋をふらついていると昨日は見落としていたものに気づく。いくつかの店ではなんと巻きずしを売っていた。全長30cmほどの海苔巻きを売っている店が数軒ある。具は5種類ほど入っている。値段を聞くと300~400テンゲ(約200円)。高いので最初はスルーしたが、思い直し、ちょっと試しに食べてみることにする。

ある店で半分だけ売ってくれないかと聞くがダメ。しょうがないので1本買う。

それから靴下屋街を歩いていたら5本指ソックスを発見。ハングルの書かれた包装ビニールに包まれているから韓国製なのだろう。値段を聞くと1足350テンゲ(約230円)。高いのでパス。

あと子どものおもちゃを売っている店の前を通りが買ったときナルトグッズの他にドラゴンボールの悟空やセルなどのフィギュアなども売られているのを見る。

バザールを出て、シティバンクに向かう。そこのATMで中国滞在用の米ドルをおろす。

そうしてから宿に戻る。

宿に戻って、鍵をもらいに管理人室に行ったが鍵がかかっていて入れない。ノックをしても誰も出てこない。出かけているらしい。

なので、待つ。待っている間が暇なので、さっき買ってきた巻きずしを食べてみる。具は人参の千切りと春雨のサラダ、卵焼き、それに鮭に似た魚の薫製。食べてみるとぎこちない歯ごたえ。米が固い。米は日本と同じ短粒米だが、十分に炊けていない。芯が残っている。これさえなければもっと美味かったろうに。味はドレッシングの味がついていた。きっと総菜として売っているものの中から具を選んでいるので、こうなるのだろう。

20分ほど待ったころ管理人のおばさんが戻ってくる。今晩の宿代1000テンゲ(約800円)を払い、鍵をもらい、部屋に行く。部屋に行くとバレーボーラーたちはいなくなっていた。やっと一人部屋として使えるらしい。うれしいですなぁ。

ちょいと夕寝をしてから中国語を聞きながら書き物。中国語は本当に発音が難しい。

適当なところで寝る。

Fin

[diary]アルマティにて、ウルムチ行きチケットを買ったり

アルマティにて、ウルムチ行きチケットを買ったり

2009/02/12(木) 濃霧 日中2度程度
[Almati:Kazakstan]
レート:1米ドル=147テンゲ=90円、1ユーロ=188テンゲ=118円

・日本大使館で情報を確認
・鉄道のチケットを買いに
・まちをぶらぶら
・中央バザール

日が射し込んできた頃に起床。しばらくベッドの上でごろごろしていると同室のおじさん2人はいつの間にやら出ていっていた。

9時過ぎに部屋を出る。部屋には昨日ボクシングの試合があったという16歳の少年だけが残る。

まずは滞在登録について情報を確認するために日本大使館に向かう。外は今朝も霧に覆われていて視界は良くない。木の枝には霜が張り付き、足下の舗装路には見た目ではわからないくらいの薄い氷の膜ができている。最初はただ路面が濡れているだけかと思って普通に歩いていたら滑る。ぼくだけでなく、同じように歩いている人の中にも滑っている人をときどき見かける。特に宿から日本大使館までは下り道だから余計に滑りやすい。

9時半前に日本大使館着。入り口で荷物を預け、窓口の女性に滞在登録について聞く。窓口の女性は地元採用の人らしく、日本語がややたどたどしい。彼女は空路出来たか陸路で来たかと尋ねるので、陸路だと言うと、それだったら滞在登録が必要だという。ぼくは国境の職員に聞いたところ不要だと言われたことを伝えると、中に行って相談すると言う。

しばらく待った後、日本人の男性が窓口に出てくる。そして「少し長い説明なるんですが」と前置きして、現在の状況について説明する。彼の説明では制度としては、空路での入国の場合と近隣国でビザを取って陸路で入国する場合では、前者では空港での入国時に、後者ではビザを発給する時点で既に滞在登録も終わった状態になっているので、制度上は改めてここで滞在登録をする必要はないと言う。

ただし、空路入国の場合にはイミグレカードに滞在登録済みを示すスタンプが2つ押されるが、陸路入国の場合はそれがないため、まちで警官に呼び止められたときに滞在登録をしていないのではと言われる可能性がかなり高いと言う。また一般の警官自体がこうした制度になっていることを基本的に知らないため、あれこれといちゃもんを付けられる可能性が非常に高いという。

そういうわけで大使館としては、入国日から5日以内に念のためオヴィール(滞在登録をする機関)に行って滞在登録をした方がいいと言う。

もし滞在登録が必要なければ、カザフスタン国内を見て回ろうかと思っていたのだが、この話を聞いてやめる。本来必要のない滞在登録をするために時間を使うのがもったいないし、またカネもかかるため、この時点でさっさと中国に移動することを決定。

大使館には情報ノートとアルマティ案内という冊子があったので、それに目を通してから大使館を出る。

まずはテンゲがないので両替屋に行く。バザール近くにある両替屋ならばレートがいいかと期待して行ってみるがどこも1米ドル=147テンゲと平凡だった。もう少しいいところはないかとしばらく探してみるが、歩いた範囲では見あたらず、結局1米ドル=147テンゲで両替する。

それから近くのバス停からバスに乗ってアルマティの鉄道駅Ⅱに行く。バス代は1回50テンゲ。トロリーバスは自動券売機がついていたが、バスは客引き兼集金が係りの人(たいてい女性)が乗っているので、その人に自分が行きたいところを告げると降りるとことを教えてくれるし、運賃もその人に払う。バスの車両の中には韓国からのお下がりがあり、入り口のドアなどにハングルが書かれている。

アルマティ駅Ⅱから中国のウルムチ行きの列車が出ているので、そこでウルムチ行きの切符を買う。ガイドブックの情報からチケット代を8000~9000テンゲ(約6000円)くらいと見積もっていたのだが、窓口のおばさんが計算機に入力した数字は11530テンゲだった。予想外に高かったので、2等車なのかと確認したが、やはり2等車でこの値段らしい。列車は土曜と月曜しかないのはガイドブック通り。明後日の土曜日の23時59発のチケットを買う。座席がないことも想定していたのだが、その心配は杞憂だった。

駅前からトロリーバスに乗って中心部に向かう。適当なところで降りてネット屋を探す。ガイドブックを頼りに歩いていったら漢字が掲げられているネット屋があったので、そこでネットをする。日本語は読めるが打てない。中国人のおじさんはたばこを吸っている。1時間250テンゲ(約250円)。トルクメニスタン並みに高い。しかも大して速くない。

それから歩いて郵便局に行く。1軒目の郵便局で絵はがきがないか尋ねたが、1枚しかないと言われここはパス。それから中央郵便局の方に行く。ある窓口で絵はがきがないか聞いたところあると言うので、見せてほしいと言うと、何枚かと聞いてくる。何種類あるのかと尋ねるためのロシア語がわからずまごついていると、警備員のおじさんが来て、その人が察してくれ、別の窓口に連れていってくれる。言葉がわからない場合、勘の鈍い人が相手だとまったくと言っていいほどこちらの意図が通じない。今回は窓口の女性よりも警備員のおじさんの方が勘が良かった。

案内された窓口ではセット物の葉書しか売っていなかったので、ばら売りしている窓口を教えてもらう。絵はがきは7種類ほどしかなく、どれもつまらない建物を写したものばかり。2枚だけ葉書を買う。1枚25テンゲ(約15円)。葉書は安いのに切手となると150テンゲ(約100円)もした。キルギスやウズベキスタンはもっと安かったのに、なんでここはこんな高いんだ。

そこから歩いてツムというデパートがある所に行く。その辺りは歩行者天国になっている通りがあった。歩行者天国では絵を売っている人やコピーDVDを売っている人たちがいる。DVDの中には日本のアニメもあり、特に『NARUTO(ナルト)』が目に付く。ナルトはここで人気があるのか、他にもキャラクターグッズが売られていたり、ゲーム機かなんかの広告看板に使われているのを見たりした。

比較的新しいSilk Wayというショッピングモールもあり、中には貴金属店や洋服屋、ファーストフード店(ケンタッキー、キングバーガー)が入っていた。

店の中に入ればそこそこの人混みに出会うのだが、道を歩いている限りは閑散としていて、とても経済的な首都という雰囲気は感じない。また中心街も日本でイメージするような凝縮性がなく、オフィス街やマンション街を歩いているときと同じような印象しか受けない。これもソ連式のまちづくりのおかげだろう。

それから中央バザールに行く。ここは一応、それなりの建物が整備されているので、キルギスのように道がべちょべちょということもない。たくさんの店が密集しているが、規模自体はたいして大きくない。肉屋コーナーでは豚肉がたくさん売られている。ソーセージやハムなどもあり。また薫製の魚もあり。

野菜や果物の種類はそれほど多くない。干しぶどうやデーツ、アーモンドなどのナッツ類は種類が豊富。他の中央アジア諸国同様総菜屋も50軒ほどあり。目に付いたのが豆腐を売っていること。「トーフー」と言って店のおばちゃんにすすめられたが、買わず。

昼飯がまだだったので、適当な店で飯を食うことにする。バザール内にはいくつか食堂があったが、「新彊風」を掲げている店が見ただけでも3軒あった。そちらに気が引かれたが、どうせ近々行くところなので、ここではカザフ系らしい店に入る。メニューを見て注文するが、例のごとくメニューにあるほとんどの料理がない。なので適当にラグマンを頼む。

今回のラグマンは平皿に盛られて出てきた。これまで何度かラグマンは食べたが、どれもスープの中に麺が入っているスタイルだった。だが、ここは焼きそばというかパスタ風。かかっている具・ソースもトマト味なので、ちょっとトマトソースのパスタっぽい。これでお値段370テンゲ(約250円)。キルギスやウズベキスタンの約2倍の値段だ。

帰りがけ歩道にレーニンバッジや古本などを並べて売っている人たちがいる通りをぶらぶらする。

それから途中にあったスーパーを見学。まぁ、なんでもある。

また歩いていたら「Sushi Bar」という看板を掲げている店を見る。ここの他にも今日は何カ所かで寿司の写真を載せた看板を見た。そういえばさっき行ったスーパーでも寿司が売られていた。巻物16間ほどで1000円ほどの値段だった。

キルギス以降そうだが、ここアルマティでも人から話しかけられるということはなくなった。警察も想像していたよりも少ないため面倒がない。

夕方には宿に戻る。今日はボクシングの彼も部屋を移ったので、今日は一人で使えるかと思いきや、背の高い若い男達が入ってくる。そのうちの一人が話しかけてきて自分らはバレーボール選手だと言う。身長はみな185cmくらいか。一人のロシア系の男はぼくが日本人だと知ると近くに来て、右腕の袖をまくり見せてくる。彼の右腕を見ると「愛典隆」という入れ墨が入っていた。そして「愛」はラブと知っているが、他の2文字はどういう意味だと聞いてくる。この質問には困る。なので知らないと答える。ちなみに彼の腕に掘られていた「愛」という漢字は間違えていた。冠と”友”の間の”心”が欠けていた。見てすぐにわかったが指摘はせず。

その後はベッドの上で本読み。ビシュケクの宿で入手した『罪と罰』を読みながら寝る。

Fin

[diary]ビシュケクからアルマティへ

ビシュケクからアルマティへ

2009/02/11(水) アルマティは霧雨 2度程度
[Bishkek:Kyrgyzstan→Almati:Kazakstan]
レート:1米ドル=147テンゲ=90円、1ユーロ=180テンゲ=118円

・マルシュルートカで1時間待ち
・国境越え
・移動中にて
・マルマティ着
・日本大使館出張駐在館事務所閉館日

ビシュケクの宿,南旅館。

昨晩もやや夜更かししたため、やや寝坊。時計が動いていないから何時かわからない。

とにかく宿を出る支度をして、玄関前に荷物を移動させる。そして鍵を返そうと宿主の部屋をノックするが誰も出てこない。なので、別室で寝ている旅行者を起こして鍵を頼む。

歩いて近くのバス乗り場まで行き、そこで132番のマルシュルートカに乗る。通勤者などで満席になっていたら面倒だなと思っていたが、幸い空いていた。運賃8ソム(約20円)。

道の渋滞はいつも通り。距離のわりに時間がかかる。

30分ほどかかって終点の西バスターミナルに到着。すぐ近くのアルマティ行きのマルシュルートカ乗り場に移動する。20代前半くらいのロシア系男性が客引きをしていて、彼に運賃を確認してから荷物を後部に乗せてもらう。車はメルセデスベンツのスプリンターという大型ワゴン。助手席に2人、後部座席に15人ほど乗れる。また後部座席の正面上部にはソニーのテレビが備え付けられている。

彼に出発時刻を聞くと7~8人集まったら出ると言うので、両替と買い物に行く。バスターミナルの敷地内にある両替所で昨日オシュバザールの両替所で拒否された10米ドル札を使ってテンゲを入手する。ソムを間に挟むため1米ドル=135テンゲになる。

カザフスタンは物価が高いらしいので、ここで食料を少し買うことにする。残っているソムでパンを買う。1枚10ソム(約25円)。

それから車に乗り込み、書き物をしたりしながら発車を待つ。ぼくの次に乗り込んできたおばちゃん二人は待っている間、何度か運転手の彼を呼び、いつ出るのかと聞く。そのたびに彼はあと何人集まったらと答える。

車に乗車したのが9時40分頃。そして、ようやくそこそこの乗客が集まり、発車したのは10時35分頃だった。

運転手は東バスターミナルにも寄って、そこで数人の客を集めてくる。結局車内は8割程度埋まる。

テレビではバスターミナルで待っている間からすでに映画が流されていて、乗客の何人かはずっと画面を見続けている。ロシア映画(ロシア語)なのでぼくにはさっぱりセリフがわからないのだが、映像を見ているだけでもコメディ映画だということはわかる。

20分ほど走るとなだらかな平原が左右に広がる。雪がところどころに残っている。

11時半前、カザフスタンとの国境に到着。車からみな荷物をおろし、客は客でイミグレの方へ行き、車は車で車チェックの方へ行く。

カザフやキルギスの人はパスポートではなく、身分証だけで国境を行き来できるためさらさらと行ってしまう。ぼくは一人外国人用のボックスに行く。面倒くさいことがなければいいが、と思っていたが、杞憂に終わる。数秒でスタンプをもらい、さっさとキルギス出国。

そこから歩いて50mほど行くとカザフのイミグレがある。こっちはいくらか行列ができていた。パスポートコントロールの窓口の女性にパスポートを渡す。ロシア語はしゃべれるかとロシア語で言われ、少しだけと答える。カザフスタン入国の目的やこの後どこに行くかを聞かれる。最後に気になっていた滞在登録は必要かと彼女に聞くと必要ないとのことだった。

その後、荷物チェック。チェックの方法は機械に通すだけ。税関申告もしないといけないかと思っていたが、3000米ドル以上の現金などを持っていなければ必要ないらしい。言葉がわからなかったので、申告書を一通り書いたのだが、担当の人はぼくが書いた所持金額を見て申告は不要と言う。ただ、そこへ人相の悪い別の係官が来て、ここでカネを数えて見せろと言うようなことを言う。そんなことする必要はないと言うと、担当の係官も必要ないと彼に言う。彼もカネを抜き取ろうとでも考えていたのだろうが、まともな担当者のおかげでさっさと抜けることができる。

これで入国完了。イミグレを出たところには両替屋やガソリンスタンドがあり、タクシーの客引きなどもいた。

車のチェックの方が時間がかかり、ぼくらはしばらく待たされる。

12時過ぎようやく車がやってきて、再度乗り込む。

車窓からはうねうねと波打っている丘陵が見える。木はない。ときどきその丘陵を羊の群を連れて歩いている人たちを見る。

車内では1作目の映画が終わり、新たな映画が始まる。今度もちょっとしたコメディ映画。言葉がわからなくてもそこそこ楽しめる。

道路はきれいに整備されているため、車は上下に揺れたりすることはない。

2作目の映画が終わるともう映画は流されなかったので、暇になる。車窓からは白くなった木々や遠くに雪山を見る。その景色からビシュケクよりもずいぶん気温が低いことがわかる。車内は暖房が効いて十分暖かいためときどき寝る。休憩はなし。

だんだんとアパート的な建物が増える。ビルのてっぺんにアルマティとキリル文字で書かれている文字板を見る。車はそこをいったん素通りして、Uターンしてそのビルの下の駐車場に入る。そこが終点のサイランバスターミナルだった。

車から降りるとタクシーの客引きがやってくる。リュックを受け取り、運転手にトロリーバス乗り場を聞く。指さして教えてくれたので、そちらに行く。

さっきまで暖かい車内にいたためか外がやけに冷たく感じる。実際に気温もゼロ度前後なのかもしれない。手は外に出していたらすぐに冷えて動かなくなる。

ちょうどその乗り場に着こうというときに乗る予定の19番のトロリーバスに追い越され乗ることできず。すぐに来るかと待っていたが、これがなかなか来ない。

20分ほど待ってやっとやってきたトロリーバスに乗る。乗って驚いたのは、自動精算機が使われていたこと。しかも精算機は違う形のものが2台並んでいて、片方にオカネを入れると片方からお釣りが出てくる。なぜ二つに分かれているのか気になる。ちなみにお札は使えない。ちゃんとお釣りが出るのはすばらしい。乗客はみなこの機械で運賃50テンゲ(約30円)を払い込み、チケットを手に入れる。

無事に乗り込んだはいいものの、乗って10分もするとどうも中心部とは反対の方向に行くものに乗ったことに気づく。ただ、幸いなことに終点まで20分足らずだった。

先に出るトロリーバスに乗りかえ、出発を待つ。10分ほど待つと発車。

さっきも通った道を通って中心部に向かう。旧ソ連のまちらしく街路樹が多い。それから霧が深い。

ガイドブックではぼくが泊まる予定をしている宿の近くの交差点まで20分ほどとあったのだが、なかなかそれらしきところに着かない。いつまでたっても木立の多い幅広の道路。全体的に暗い。中心部に来たとわかるような明るさがなかなかやってこない。

と、突然、交差点にどでかい電光掲示板を見る。バレーボールコートの半面はあろうかというくらいでかい。電光掲示板には動画の広告が次々と流れる。その他にもここほどでかくはなかったが、いくつか広告用の電光掲示板を見る。

周りの建物に書かれている通り名を読みながら、地図で現在地を把握しようとするが、通り名が地図上に載っていなかったりしてよくわからない。

その様子を見ていたらしい初老の男性がロシア語で話しかけてくる。どこに行きたいのかと聞いてくるので目印の大学名を伝えるが、彼は知らないよう。そこへその男性の前に座っていたマラソンの有森裕子似の女性が英語でどこに行きたいのかと聞いてくる。それで目安の通り名を伝えると、そこに着いたら教えてくれると言う。

ホテルらしき建物などがいくつか見え、いくつかの交差点を越えた頃、女性が次だからと教えてくれる。停留所は目的の通り(今走っている通りとは交差している)を通り過ぎたところにあるらしく、彼女は一度戻らないといけないということまで教えてくれる。だが、ちょうど信号待ちのために目安の通りとの交差点でバスが止まったので、そこで運転手にお願いしてドアを開けてもらい、降りる。

外は霧。地図を見ながら宿を目指す。右手にエッフェル塔を模したらしい作りものが見える。高さは20mほどあり、材質も普通の鉄塔と同じだからただの見せ物なのか、それとも実際に電波塔かなんかで使っているのかよくわからない。ただ、それはホテルの入り口に建てられているので、おそらく作りものなのだろう。ホテルの入り口の軒とエッフェル塔の模造品はくっつくような距離にあるから、ごちゃごちゃしていてあまり見た目にはきれいではない。

歩いていても霧の水滴を感じるほど、霧は濃かった。地図からするとそろそろ着いていいような場所にきたのだが、それらしきところが見あたらない。なので、近くにいた若い男に聞く。ロシア語で話しかけたのに相手には通じておらず、英語はわからないと言われ、英語ができる友達を携帯電話で呼び出してくれる。その友達はすぐ近くにいたようで、すぐに現れた。彼に聞くとこの先を左に曲がったところにあるという。

だが、ぼくが行きたかった宿は隣の建物だった。入り口の看板を見て確認。2階の受付に行く。学生寮をホテルとしても解放しているところらしいことは聞いていた。2階にあがると確かに学生くらいの年齢の女の子たちが廊下にいて、ぼくの姿を見ると友達同士で何かを言い合う。どうせ髪が長いだの、髭がどうのだと言っているのだろう。

受付の女性は慣れたものでさっさと手続きをしてくれる。何泊するか聞かれ、とりあえず2泊と伝える。部屋は416号室。ドミトリーで1泊1000テンゲ(約700円)。部屋に誰かいるらしく鍵はもらわず。

階段を上り最上階へ。416号室のドアを開けると背の高い若い男が一人いた。「ズドラーストヴィチェ」とロシア語で挨拶すると、挨拶が返ってきた後で「ニホンジンデスカ?」と日本語で聞かれる。ビシュケクで会った日本人がこの宿で韓国人と一緒だったと言っていたのを思い出し、彼がそうかと合点する。

彼は日本語はほんの少しだけ知っているらしい。会話は英語。彼はお茶を淹れてくれる。ありがたくいただく。

聞くと彼はイギリスの大学に通う大学生で、専攻はロシア研究(特にロシア語)らしい。大学の制度上、在学中にロシアに1年滞在しなくてはいけないらしく、今は休みでカザフスタンを旅行していると言う。この後、ウズベキスタンなどにも行く予定らしい。

お茶を飲み干してからぼくは外に出る。滞在登録(レギストラーツィア)の件で日本大使館に確認したいことがあったので、まずは日本大使館に向かう。

日本大使館への道は緩やかな下り道。霧が濃くてあまり見通しは良くない。暗い。沿道には映画館、スーパーやしゃれたカフェなどを見る。それだけでもキルギスとの違いを感じる。HSBCというイギリス系の銀行があったりするのも違う。外資が入っているレベルが明らかに違う。それからATMもあちこちに見る。

通りを歩く人は少ない。日本大使館(正確には出張駐在館事務所)まで30分近く歩いたが、すれ違ったのは50人もいない程度。歩道も広いし、道路も広いが人口密度は低い。

1階はきれいにリニュウアルされているが、2階から上はボロボロという建物もある。

日本大使館が入っているビルに行き、1階にいた警備員のおじさんに聞くと、今日は休みだと言う。残念。同じビルにシティバンクがあったので、そこでドルをおろす。

テンゲに両替することも考えたが、今はどんどん落ちているらしいので、1日様子を見ることにして、今日は両替せず。

帰りがけ歩道にあるキオスクをのぞく。新聞が20種類ほどあるところもウズベクやキルギスと違う。トルクメやウズベクでは新聞はないに等しかったし、キルギスも少なかった。だが、ここのキオスクには多種類の新聞が並び、雑誌も豊富。なお、ビシュケクではキオスクで普通にヌード専門の雑誌がぶら下げられて売られていたが、ここではそうしたものは売られていない。

数ある新聞の中から英語のものを探す。1紙だけ「Central Asia Monitor」と英語でタイトルが書かれた新聞があったので、それを買う。お値段45テンゲ(約30円)。新聞は安い。

宿に戻ると同室のおじさんたちが部屋にいた。50歳は過ぎていそうなおじさんと40代前半くらいに見えるおじさんの二人。ロシア語で挨拶。

自分のベッドに座り、さっき買った新聞を広げてみると、なんと英語なのはタイトルのみで、記事は完全にロシア語だった。おじさんたちがロシア語が読めるのかと聞いてきたので、読めないと答える。それで片言ロシア語と仕草で英語かと思って買ってきたら違ったと言うと、言葉は不十分だったものの意図は伝わったらしく笑っていた。

そこへ韓国人の彼が戻ってくる。彼は同室の16歳の少年のボクシングの試合を見に行ってきたらしい。今、10代のボクシング大会が行われているらしく、その大会に出る選手がこの宿に多く泊まっているらしい。彼は今晩のバスでトルキスタンというまちに行くらしいが、バスは遅い時間のためしばらく部屋で待機のよう。

彼を加え4人で話ながら夕食。ぼくがビシュケクで買ったパンを取り出すとおじさんの一人がそれを取ってビリビリに裂いてみんなで食べようと提案する。おじさんたちは魚の缶詰やビスケットを供出。一緒に食べる。が、ビスケットはどうやったらここまで湿気るのかと聞きたくなるくらい湿気ていた。ビスケットの端を持って振るとしなるし、口に入れてみるとすでに誰かの口の中にしばらく入っていたんじゃないかと思えるくらい湿気ている。

韓国人が通訳となり、おじさんたちと話す。聞いてくるのは他と同じ。年齢はいくつだ、結婚しているのか、なぜ結婚していない、どこから来たのか、どこに行くのだ・・・といったような質問。本当にここらの人は、というよりも世界の人(いわゆる先進国をのぞく)は、結婚話が好きだ。中でもここらの人は必ず聞いてくる。もっとも話しかけてくるのはぼくより年輩の人が多いから、みなたいてい結婚している人で子どももいる人が多い。こちらとしてはなんで結婚したのかと聞きたいとところだが、あえて突っ込まず。

20時頃、韓国人が去る。同室のおじさんの一人が彼を見送りに出たので、そこで会話は終了。ぼくはベッドで『罪と罰』を読む。残ったおじさん(大学教授)はヒューレットパッカードのノートパソコンでなにやら作業を始める。

『罪と罰』を読み始めたものの寝ころんでいたら眠くなり50ページも読まないうちに寝てしまう。

Fin

[diary]ビシュケクでだらだら 再々々々

ビシュケクでだらだら 再々々々

2009/02/10(火) 曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円

昨晩もおしゃべりして夜更かし。朝の3時過ぎまでしゃべっていた。

よって朝は大幅に寝坊。腕時計が動かなくなったままなのは不便だ。

しばらく書き物をしてから出かける。同室の人に教えてもらった安い食堂に行ってみる。宿から歩いて5分ほど行ったところに小さな小さなバザールがあってその一角にあると聞いていたのだが、いまいちわからず。なので、適当にその一角にあったカフェに入る。先客が2組ほど。

メニューを眺めてこれまで注文したことのない名前を探す。それから値段を見て100円程度の料理かどうかを確認。なんだかわからなかったがアシュリャムフという料理を注文。が、これがないという。じゃあ何があるのだと尋ねたらメニューにあった30ほどの料理のうち10ほどしかないと言う。その中から食べたことがある気がするけどはっきりしないショルポという料理を注文。

しばらく待つ。台所の方を見ていたら自分のものらしい料理が出てきたのだが、ウェイトレスの女性がこっちに持ってこない。他の客としゃべっていて動く気配がないから自分で取りに行く。すると彼女はあわてて「イズヴィニーチェ」と謝る。彼女に声をかけて持ってきてもらう方法もあったのだが、ここも客から代金の他にサービス料を取るようだから、こうして自分で取りに行ったことで彼女はそれを請求しないだろうという読みそうしてみた。

料理は以前にも食べたことのあるものだった。トルクメニスタンでだったかな。肉の出汁が出ている透明のスープに羊のバラ肉の固まりと小さなじゃがいもが丸ごと2個。ただそれだけ。お茶やパンは別料金になるから頼まず。

あっと言う間に食べてしまう。会計を頼むとなんと彼女は恥ずかしげもなくサービス料を請求してくる。料理代40ソム(約90円)とサービス料3ソム(約8円)。額が小さいので素直に払ったが、なんのためのサービス料かわかってないなぁ。

それから写真のデータを整理するためにネット屋に行く。あれこれやってたら2時間ほど経過してしまった。1時間40ソムだから合計80ソム(約180円)。

それから明日のバス代のためのソムがなかったので、オシュバザールに両替に行く。バス(6ソム)に乗って1本。昨日も両替した両替屋で10米ドル札2枚を出し、両替してもらおうとしたところ、一方のお札にちょっとした破れ目(約1cmほど)があり、他にも破れそうな皺(しわ)があるため、こっちは両替できないと言い出す。そのくせしてこちらに渡すソム札はボロボロ。しわくちゃで一部破れているものはいくらでもある。やれやれ。ソムはボロボロでもいいが、米ドルはそうはいかないらしい。

オシュバザールでは通路でナン(円形のパン)を売っていたおばちゃんからナンを3枚買う。

またバスに乗って宿に戻る。

17時過ぎに宿に戻ってしばらくした頃、宿のチャイムが鳴る。また一人旅行者がやってきた。日本人男性。22歳の学生らしい。

ロシア語を勉強している別室の日本人男性(ぼくとほぼ同年代。以下、A君)と今来たばかりの彼(以下、B君)とでしばらくおしゃべり。なぜキルギスに来たのかとB君に聞く。彼はインドからカザフスタンに飛行機で行き、そこから南下してきたらしい。ちなみに中央アジアにはまったく来る気はなく、カザフスタンとかキルギスについてはどこにあるのかさえ知らなかったと言う。

ちなみに彼は日本の下関から韓国の釜山に船でわたり、その後韓国の仁川(インチョン)から中国のどこかだかにやはり船で行き、そこから陸路でラオス、ミャンマーなどに行き、飛行機だったかでインドに飛び、そしてここらしい。特に最終目的地はなく、カネが続くまで旅行すると言う。

ぼくとA君は、二人してキルギス、特にビシュケクのダメな部分についてあれこれ彼に説明する。これはもはやちょっとしたネガティブキャンペーン。一通り聞いた後、B君は「宿から出る気がしなくなったんですけど・・・」と言う。キャンペーン成功!

A君は、たとえばロシア革命時に日本に逃げてきた白系ロシア人のこと(具体的にはプロ野球の巨人軍で活躍したビクトル・スタルヒンのこと)や、チョコレートのモロゾフもその系統であることを知っているなど、ロシアや中央アジアのことについてけっこう詳しいので聞いたら、大学の卒論で中央アジアのことをやったらしい。彼は、ロシア・旧ソ連の歴史をもう一度詳しくやってみたいと言う。その理由として、たとえば、こんなところ(カザフやキルギス)にドイツ人がいたり、チェチェン人がいたり、タタール人がいたりと、わけのわからないことがけっこう多いから、といったことを彼は挙げる。

ぼくも彼同様、特にスターリン時代に何が起こったのかが気になる。滅茶苦茶なことをしたということは知っているが、具体的にどんなことをしたのかまでは知らない。

またソ連崩壊後の出来事についても同様。ぼくもA君もソ連崩壊については覚えているが、その後、たとえばタジキスタンで血で血を洗うような内戦があったことなどは、ぼくは今回ガイドブックで読むまで知らなかった。またアゼルバイジャンでもソ連崩壊後のどたばたの中で虐殺があったらしいことは、バクー市内にあったモニュメントを見て初めて知った。とにかくソ連及びその崩壊後の出来事については知らないことばかりだ。

話している中で面白かったのが、A君の友人のロシア人かキルギス人だかが、母親を連れて日本に行ったときの話。
その母親は日本に来て、日本のあるテレビ番組を見たとき腰を抜かしそうになるくらい驚いたことがあったらしい。何が母親をそれほど驚かせたのか? 母親を驚かせたもの、それは他でもない俳優(?)の岡田真澄だった。母親は岡田真澄を一目見たとき、完全にスターリンだと勘違いし、”生きていたんだ!”と驚いたらしい。

ちなみにぼくは腰を抜かすほどではなかったけれども、同じように驚いたことがある。ぼくの場合はその母親とはまったく逆でテレビで「映像の20世紀」というシリーズものを見ていたとき、その中でスターリンが出てきたときに、”あっ、岡田真澄じゃん!”と思って興奮したことがある。

彼の話を聞いてやはり旧ソ連人でも見間違えるのかと面白かった。ちなみに岡田真澄の父親だかはロシアからやってきた人だったはず。理由はロシア革命だったような気がしたが、うろ覚えで自信がない。

その他もろもろの話をしていたら眠くなる。いつの間にか日付が変わり、時間も1時を過ぎていたので解散。

明日の出発の準備をしてから寝る。

Fin

[diary]ビシュケクでだらだら 再々々

ビシュケクでだらだら 再々々

2009/02/09(月) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円

今日も曜日調整のためビシュケク滞在。

午前中は宿にて、書き物。

昼前に宿を出る。カザフスタンのアルマティ行きのバスの下見のため西バグザールに行く。宿近くの大きな通りで132番のマルシュルートカをつかまえ、終点まで行く。地図で見るとそんなに遠くないのだが、途中、渋滞していて結局バグザールに着くまで40分くらいかかる。

バグザールはメインの建物の周りに駐車場兼乗り場があり、各車のフロントには行き先を書いたプラカードが置かれている。すぐにアルマティ行きを発見。マルシュルートカを降りたところから20歩ほど。近いので安心する。客引きもいない。

この時間帯は客は少ないようで、待機している車に乗っている乗客は2~3人くらいしかいない。車の近くにいた運転手らしきおじさんにアルマティまでの運賃を聞く。300ソム(約750円)らしい。これで下見終了。バグザールだからちょっとしたバザールも併設しているかと期待していたが、それらしきものはなかった。あればここで昼飯を食うつもりだったのだが、周りには立派なカフェしかないので、帰り道に通るオシュバザールで昼飯を食うことにする。

またマルシュルートカに乗ってオシュバザールに行く。そこのカフェで昼食。ガンファンという料理を頼む。これは初挑戦。出てきたのは白いご飯(短粒米)にトマトベースの肉野菜炒めスープをかけた料理。ご飯がちょっと乾燥していたが、味は日本的でさらさら食える。あとシャシリクも頼む。適当に頼んだら鶏のシャシリクが出てきた。お代はサービス料のような税金のようなものも取られてしめて95ソム(約230円)。高い!

バザール内の肉売場でキルギス名産らしい腸詰めを買う。いくつか種類があったが、けっこう大きいものが多かったため一人で食べられそうなサイズのものを1本買う。直径3cmほどで長さ20cmの腸詰め。見た目では脂身がだいぶ練りこんでありそうな様子。

それからバザール内の両替屋で両替する。20米ドルほど両替したかったのだが、最初行った両替屋は少額のレートは1米ドル=35ソムだと言うので却下。表の看板には1米ドル=41.5ソムとあるのにぼりすぎだ。他の国でもあったけど、少額だとレートが悪いなんて意味がわからん。

近くの別の両替屋に行っても看板よりはレートが悪かった。が、1米ドル=40ソムというので、それで手を打つ。

それからバスに乗って宿近くのネット屋がある通りへ行く。バス代1回6ソム(約15円)。マルシュルートカより2ソム安いからだろう、バスは超満員。隣の人と身体がくっつくくらいの窮屈さ。

ネット屋でネットをする。1時間40ソム(約90円)。カザフスタンの滞在登録の現状を知りたかったのだが、在カザフスタン日本大使館のホームページを見ても、短期旅行者向けの使える情報がなく、失望。治安情報を見たらカザフスタンも警官がずいぶん活躍しているよう。なんだかんだといちゃもん付けて旅行者からカネを取り上げているのはここと変わらないようだ。

それから宿に戻る。宿でシャワー兼洗濯をした後は中国語を聞いたり、書き物したりなんたり。CNNやEURO NEWSではオーストラリアの大火事と大洪水、パレスチナのガザ、マダガスカルの騒乱?、日本の自動車会社の不振などのニュースが流れる。

この日は以上。

Fin

[diary]ビシュケクでだらだら 再々

ビシュケクでだらだら 再々

2009/02/08(日) 曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円

今日も曜日調整のためビシュケク滞在。

朝から昼過ぎまで書き物をしてから昼飯を食いに外出。同宿の人がウイグル人がやっているうまいカフェがあるバザール内にあると言うので、そこに行く。

マルシュートカ175番で行く。運賃は8ソム(約20円)。そこのバザールは他と違って絨毯や布地を売る店がメインのバザールだった。

いくつかカフェが並んでいたので、適当に入る。入ってまず目に付いたのがテーブルの上に箸があること。麺類を食っている客が多く、一部の人は箸で食っている。中華料理や以外で箸を使ってご飯を食べているのを見たのはこの旅初めてだ。なんか不思議な光景だった。

ラグマン(肉汁うどんみたいなの)を注文。値段を聞くと80ソム(約200円)というから高い!と思ったが、まぁいい。

スープはトマト色で肉の他にセロリやニンニクの芽などが入っている。辛くはない。嬉しかったのが麺にコシがあること。この旅行でこんなにコシがある麺を食べるのは初めて。ウズベキスタンやオシュなどで食べたラグマンは学校給食のうどんみたいに歯ごたえがない麺ばかりだったが、ここのは讃岐うどん並み。麺の太さは一般的なうどんよりも細いがスパゲッティよりはかなり太い。これがもっと安ければ2杯食べたいところだったが、200円もするとなるとそれは無理だ。

警官にからまれるのが面倒なので、バザールはちらっと見ただけ。食料品のバザールはないようだったので、パンだけ買って帰る。

15時頃、宿に戻り、あとは本を読んだり、おしゃべりしたり、書き物したり。

宿主の孫と話す。彼はサッカーが好きらしく、なかでもマンチェスターユナイテッドが好きらしい。テレビではスペインリーグをやっているチャンネル(でも、音声は中国語)があって、それを彼は楽しそうに見ていた。ヨーロッパのサッカーには関心がないので、彼にどのチームが好きかとかどの選手が好きかと聞かれて困る。知らないというしかない。

彼は自分がもしヨーロッパに暮らしていたならサッカーのクラブや学校に入りたかったと言う。キルギスにもサッカークラブはあるが、数は少ないらしい。

こうして外国のテレビが簡単に見れる環境があれば、この国の子どもも自分たちの国と他の国との違いを目の当たりにできる。その違いに気づいたときに彼/彼女らは何を思うのだろうか。

Fin

2011年3月4日金曜日

[diary]ビシュケクでだらだら 再び

ビシュケクでだらだら 再び

09/02/07(土) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円

・書き物
・近くのバザールへ
・警官につかまる

今日も時間調整というか、カザフでの曜日調整のためにビシュケクに滞在。

朝から外は晴れ渡っていたが、出かける気にならないのが、ここビシュケク。バカな警官が多いのは困ったものだ。

今日は完全に宿こもりしようかと朝から宿にいて書き物をしたり、おしゃべりをしたりで時間を費やす。

夕方前の15時になってちょっと散歩に出る気になる。歩いて10分ほどのところにバザールがあるというので、そこに行く。

先日降り積もった雪はここ3日ほど快晴が続いたおかげでだいぶ消えてしまった。

5~6階建てのアパートが立ち並ぶ地帯の一角にそのバザールはあった。もっと小さいかと思っていたが意外に大きかった。総面積はサッカーコート程度ある。ここもプレハブのようなあるいはまたコンテナのような店舗と屋根のみが整備されている販売コーナーがあり、その他に通路でパンやキムチやサラダやみかんやりんごを売っている人たちがいる。

写真を撮りながら歩いていたら警官3人の近くを通り過ぎる。しまったと思ったら案の定そのうちの1人が来て、パスポートを見せろと来た。もちろん警官はロシア語しかわからない。ぼくのパスポートを見て、ビザはどこだと聞いてくる。日本人は必要ないとロシア語で応えると、なぜだと聞いてくる。自分の国がそう決めているのに旅行者にそんなこと聞くな! またバカな警官かよ、とがっくり来る。だいたいビザが免除されている国の人間なんて限られているだろうに、それくらい覚えろってんだ。

バカには何を言ってもわからないわけで、ビザは不要だというのに詰め所に連れていくと言い出す。日本大使館に電話しろと言っても詰め所に電話があるからと言って聞かない。しょうがないのでついていき、途中通りがかった店で電話を貸してもらおうとしたら、警官が止める。なんでこういうバカな奴にぼくの時間をくれてやらなきゃいけないんだ。

詰め所に行く途中20代前半くらいの若者グループに出会う。警官は彼らにもドキュメントを見せろと言い、少しチェックしてから全員を詰め所に連れていく。こうした展開ならこの間のようなことはないかなと少し警戒を解く。

詰め所に行ったら私服のおじさんと制服のおじさんがいた。えらそうに座っている2人も日本人がビザが必要なのかどうかを知らない。先に若者たちにあれこれと質問を始め、ぼくにはしばらく待つように言う。なぜかわからないが、若者の一人は指紋を採られていた。

しばらく待っていると私服のおじさんがどこかに電話をかけ、ヤポンスキーがどうのと言っている。そうしてからパスポートを返してくれる。日本大使館の話ではパスポートを細かくチェックする権限さえ警官にはないのだが、当然そんなことは知らない。あるいは知っていても関係ないというのが、ここの警官。さらにもう1人20代半ば過ぎくらいの男が別の警官に連れてこられる。いったいここの警察なんなんだ!お前らが一番怪しいだろうが!

結局、何もないままぼくは解放される。連れてこられた若者のうちで早くに解放されていた人の一人が、ロシア語で”警官はなんて言っていた?”と聞いて来るが、当然わからないのでわからないと応えると、ぼくの肩をポンポンと叩き、じゃあまたというような仕草をする。ぜひとも彼らには政権をひっくり返して警察を正してもらいたいものだ。

何かうまそうなものがあったら晩飯用に買って帰ろうかと思っていたが、特に惹かれるものがなく、結局何も買わずに宿に戻る。

宿に戻ってからテレビをつけてみると「(邦題)戦場のピアニスト」のロシア語吹き替え版が放送されていたので見る。2003年に映画館で見て以来2度目。ポーランドのワルシャワが舞台でかつナチス占領下を生き延びたユダヤ人ピアニストがテーマなので、またイスラエルを思い出す。

宿のテレビはロシアの各種チャンネルの他、CNNやEURONEWS、中国の外国向け英語放送局CCTV、さらにドイツやフランス、韓国、インド、トルコのチャンネルも見ることができる。以前はNHKも見れたらしいが、受信料が高いためやめたらしい。ちなみにほとんどのチャンネルでロシア語吹き替えがされているので、ロシア語がわからないとほとんどの番組は見るだけになる。

ニュースを見ているとガザのことが相変わらず報道され、中国については記録的な干ばつのニュースや厳しい就職活動をしいられている学生たちのニュースなどが流れる。

夜は昨日買ったパンと一昨日買ったサラダで夕食。

あとは読み物と書き物をしておしまい。

Fin

[diary]ビシュケクでだらだら

ビシュケクでだらだら

2009/02/06(金) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円

つい2~3日前の予定では今日にでもカザフスタンに移動する予定だったのだが、予定を変更。カザフスタンには2週間くらいいようかと思っていたが、5日以上滞在する場合はレギストラーツィア(滞在許可の手続き)が必要であり、またそれをするとなるとその手続きで1日潰れるらしく、加えてカザフの警察もキルギス同様質(たち)が悪いとのことで、さらに宿代が安くても1500円以上するとのことだったので、5日以内でカザフを抜けることにした。ただ中国行きの列車が月曜と土曜しかないため、来週土曜の列車で中国入りということにして、宿代の安いここにもう少し延泊することにした。ちなみに宿代は1泊ドミトリー130ソム(約300円)。めざせ1日500円生活というわけだ。

そういうわけで午前中はたまりにたまっている書き物をして過ごす。

昼過ぎに宿を出てオシュバザールに行く。そこでベシュバルマックというキルギス料理を食べる。きしめん風の平べったい麺の上に角切りにされた羊の肉がこれでもかと乗っている。味は羊の肉か何かをゆでた塩味のスープでかなり薄目。テーブルにはコチュジャンと塩、胡椒があったので、コチュジャンを添加して食べる。なかなかうまい。55ソム(約130円)。

あと夕食用に直方体のパンを3つ(1斤9ソム)と、蜂蜜が売られていたので180ml程度の小さいのを1瓶25ソム(約60円)を買って帰る。

外出はこれだけ。

宿に帰ってからはしばらく読み物。宿にあった沢木耕太郎の本『不思議の果実 象が空をⅡ』(文春文庫)と江河海『こんなに違う中国人の面子』(祥伝社黄金文庫)を読む。中国人の面子話はなかなかおもしろい。日本の”恥”にも通じるものがあるように思うが、でも完全に重なってはいない。

夜はパンと昨日買った春雨サラダで夕食。その後、同宿の人とちょっとおしゃべりして、また書き物。

Fin

[diary]カザフビザ受け取り

カザフビザ受け取り

2009/02/05(木) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=90円

•夕方まで宿
•カザフビザの受け取り

今朝も7時過ぎには起床。今日も例のごとく歩き回る気にはならないので、宿にいることにする。

午前中から夕方近くまで書き物したり、おしゃべりしたり。

同じ部屋の人(以下、Aさん)の話がおもしろい。その人がビシュケクのまちを歩いていたときのこと、なにがきっかけだったか、キルギス人のおじさんとしゃべることになったという。おじさんはAさんに、”キルギスはどうだ?”と聞いてきたと言う。本心は言えないのでAさんは、”ビシュケクいいよ!”と答えたところ、おじさんはこう言ったという。”俺たちって愚かだろ”。この言葉にはさすがに困ったようで、適当に話をずらして、おじさんのその言葉については肯定も否定もしなかったという。

Aさんの話では4~5年前に来たときは、夜のまちにはけっこう人出が多かったらしい。最近では警察がうじゃうじゃいるためすっかり人がいなくなったらしいのだが、その頃は道ばたで殴り合いの喧嘩している人がいたり、女の子同士が喧嘩していて、片方が片方をぶん投げたり、といった光景を見ることがあったらしい。

またAさんが話したことのあるロシア系の女性の話によれば、彼女の旦那は喧嘩でこめかみにパンチを受け、それで命を落としたという。旦那は30歳。子どももいるという。ここでは稼げないため1ヶ月ほどしたらロシアに稼ぎに行くと話していたらしい。

昼過ぎ、この宿の孫が学校から帰ってくる。聞くと年齢は16歳。10年生だという。日本とは教育システムが違うようで、高校は2年間で、彼はその1年目らしい。彼の両親はビシュケクから60kmほど離れたまちに住んでいるが、彼は勉強のために今はおばあちゃんがいるこの家に住んで学校に通っているらしい。

彼は英語がぼくと同程度(あるいはそれ以上)にできたので、英語で会話。高校卒業後のことを聞くと、できれば外国の大学に行きたいと考えているらしい。外国の大学の方が、いろんな経験ができるし、より高い教育を受けられるからというのが、その理由らしい。

外国の大学に行きたいと考えている友達はけっこういるのかと尋ねると”一部(some)”と答える。でも、行けるかどうかは親の収入などに依ると付け加える。なお、高校の授業料は毎月650ソム(約1500円)らしい。

15時を過ぎた頃、カザフビザを受け取りに行くため外出。途中、ネット屋に寄ってカザフ情報を集める。1時間40ソム(約90円)。

また同宿の人から借りたロンプラ中央アジア版のカザフ部分をコピー。コピー代1枚2ソム(約5円)。

17時頃、カザフスタン大使館に到着。18時半に取りに来いと言われていたが、早く行ってももらえるだろうと見込み行ったところ、他にもビザを受け取りに来た人が入り口に並んでおり、しかもタイミングの良いことに今開いたところだった。

すんなりパスポートは受け取ることができ、一応、ビザを確認。

宿近くに行くマルシュートカが走っている通りまで歩いて戻る。途中、道ばたでサラダを売ってたおばちゃんからサラダを買う。今度のおばちゃんは正直者のようで、バザールのサラダ屋のおばちゃんの半値。だいたい200gくらいで20ソム(約50円)。

宿にもどって、サラダとパンで夕食。サラダは人参がふんだんに使われており、というか、人参ばかり。

本を貸してくれた別の部屋に泊まっている日本人男性とおしゃべり。彼はロシア語の勉強にキルギスに来ているようでもう半年くらいここにいるらしい。

彼に聞くと、やはりここではロシア系の人はキルギス人をバカにしているらしい。またキルギス人の方もロシア系に対してはなんらかの敵意を持っているらしい。彼が通っている語学学校には中国人や韓国人、トルコ人などが来ているらしい。また試験のシーズンになるとロシア語の試験対策のためにキルギス人学生も来たりするという。

彼の話でも中央アジアで言うと、キルギスが一番警官の質が悪いらしい。彼の中ではタジキスタンが一番良かったらしい。彼もキルギスで警官に250米ドル取られたりした経験があるという。3年ほど前にトルコからこの一帯を旅行したときは、ウズベキスタンでもタジキスタンでも警官がカネをせびってくるようなことがあったが、最近はそうしたことはなくなったらしい。だが、ここだけはなくなるどころか増える一方じゃないかと言う。

ウズベク人とキルギス人はとりわけ仲が悪いようで、あるウズベク人は”キルギス人は全部殺したいね”とまで言っていたという。また最近ウズベキスタンに行ったときには、キルギスに今住んでいると言ったところ、ウズベクの人から”なんで? なぜウズベキスタンに住まないのか?”と聞かれたらしい。

彼がキルギスでロシア語を勉強しているのは、ビザが不要でかつ物価が低く、衛生状態もそこそこいいからということらしい。ウズベキスタンはビザ面で厳しいし、タジキスタンは水の衛生状態が悪いらしい。またウズベキスタンについて言えば、言論の自由、とりわけ政治的な話は基本的にできない状態。そうしたことからキルギスを選んだらしい。

ソ連時代を懐かしむ人はいるかと尋ねたところ、中年以上の人は「みんな」ソ連時代が良かったと言うらしい。理由はやはり仕事らしい。仕事がみなにあって、生活もそれなりに良かったらしい。アパートももらえたりしたという。それが今は仕事がない。カネがない。以前は年寄りは無料だったバスも今では払わないといけない。そういったことでけっこうきついらしい。グルジアのトビリシのネリ・ダリ(ぼくも泊まった宿の主)もずっと”ソ連時代は良かった”と言っていたらしい。

ロシア語がしゃべれれば、ぼくもあちこち言ってソ連時代の話を聞いて回りたいのだが、そのためにはもっと勉強しなければならない。

互いの旅話になったときぼくがキューバの話をすると、彼はゲバラ関係の本はたいてい読んだがフィデルカストロについてはよく知らないと言う。

キルギスの腐った警官(おそらく政府も十分に腐っているだろう)などの話をさっきしたことから、ぼくが「今もしゲバラが生きていたらきっとキルギスに来るはず」なんて言うと、彼も「絶対に来ますね」と応える。

またここの宿のオーナーの話になったとき、聞いてみたらオーナーはしばらく前からアフガニスタンの米軍基地の売店に出稼ぎに言っているという。そこではキルギス人の他にフィリピン人や中国人、日本人も働いているらしい。給料は3000米ドルほどらしい。アフガニスタンまではここから米軍機に乗って行くという。ただ当然のことながら基地の外にはまったく出られない生活らしい。

そんな話をして23時前に部屋に戻り、あとは寝る。

Fin

[diary]オシュバザール

オシュバザール

2009/02/04(水) 曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.8(両替屋にて)

・午前中は宿にて
・オシュバザール

朝方まで同室の人とおしゃべりしていたものの明るくなった8時前には目が覚める。部屋には陽が入ってくるから健康的な朝を迎えることができる。

特に見て回ることもないし、腐れ警官も多いため、午前中は宿で過ごす。書き物をしたり、宿にあった『歩き方』の中国版を眺めて、中国でのルートを考えたり。

昼前に宿を出てビシュケクで一番大きいというオシュバザールにでかける。ビシュケクの町中にはカフェなどはあるが、高そうなのでここで昼食。同宿の話ではキルギスでは1本100円足らずで食べられるシャシリク(串焼き)がカザフスタンでは300円もするというので、食べ納めということで市場内の食堂でシャシリクを2本食べる。牛肉の串2本に小さなパンがついて60ソム(約150円)。でも、食事と言うよりも間食程度にしかならない量なので、店をまた探す。

別の食堂でキルギス独特の料理を食べようとしたが、今はないと言われる。なので、メニューの中から今まで頼んだことがない料理を注文。出てきたのは、半径40cmほどある円形の蒸しもの。餃子と同じ皮で具は千切りのジャガイモとタマネギ、それに挽き肉。円状になっていてなかなかの量。これが40ソム(約90円)。

それからバザール内をうろつく。警官がちょこちょこいるので、視界を広く持ち、すれ違わないようにしながら歩く。

バザール内には他と同じく、店舗がある人とない人がそれぞれいろんな物を売っている。特に珍しい物はなく、ウズベクなどと同じ。キムチやサラダを売っている通りがあったり、春雨や麺をあげたスナックを売っている通りがあったり。野菜もキャベツ、白菜、トマト、人参、じゃがいも、ナス(でかい)、ビート、緑大根などウズベクなどと同じ。

あまりぶらぶらすると警官とはち会いそうなので、晩飯用にサラダを買う。これが1袋50ソム(約110円)という。重さでいうと150gくらいか。そんなの日本並じゃねぇかと思い、やめるかどうか一瞬迷うが、まぁ、いいかと買う。外国人には2倍近くふっかけるようだ。

肉売場には大量の牛肉や羊肉がぶらさがっていて、生肉のにおいがプンプン。裏側の通りを歩いてみると、荷台に牛の頭を7頭ぶん積んで押し歩いているおじさんを見る。時計を直せるところがないか探すが、それらしきところは見つからず。

その後、通りでパンを売っているおばちゃんからパンを買う。1枚10ソム(約25円)なので、3枚買う。

そうしてからバスに乗り、宿に戻る。

宿に戻ってからは読み物、書き物。

Fin

[diary]宿変え、日本大使館へ、警察に申し入れ

宿変え、日本大使館へ、警察に申し入れ

2009/02/03(火) 曇りのち大雪
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.5(両替屋にて)

・宿変え
・日本大使館へ
・警察に申し入れ
・宿でおしゃべり

まだ薄暗い7時すぎに起床。夜間は停電しているため暖房が効いていないのだが、部屋内はたいして寒くない。

宿を出る準備をする。

宿の鍵はもらっていなかったので、同室のA君に頼んで玄関の鍵を開けてもらい、宿を出る。

まだ薄暗い中を歩き、最寄りのバス乗り場に行く。10分ほど待つとトロリーバスが来たので、それに乗り込む。

途中で新しい宿近くまで行くルートのトロリーバスに乗り換える。わりと空いているので、でかい荷物を持っていてもなんとか乗れる。

8時半過ぎ、新たな宿に到着。チェックインして、荷物をおろし、宿の情報ノートを眺めながら、一息つく。

そうしてから宿を出て日本大使館に向かう。外に出ると雪がちらちらと降り始めていた。

宿の近くの通りからマルシュルートカに乗り、日本大使館近くで下車。歩いて日本大使館に向かう。雪はだんだんと本降りになり、あっと言う間に路面が真っ白になる。頭や肩に雪が積もる。

10分ほど歩いて日本大使館に到着。ミニ御殿的な造りの建物で敷地は高さ3mほどある鉄格子で囲まれている。

表に警備員らしき男性がいたので、その人に英語で話しかけるが、英語は解さないようで、片言ロシア語で用事がある旨を伝える。名前を聞かれ、伝えると中の人と連絡をとってから中に入れてくれる。

館内に入るとすぐ右手が窓口だった。ここの窓口はテヘランのようにマジックミラーにはなっていない。中に座っている男性を見たときは二人とも日本人かなと思ったが、実際は地元採用の人だった。

窓口で用件を伝えると領事が窓口の一人と一緒に中から出てくる。挨拶を交わしてからテーブルに座って昨日の警察の所業を伝える。

一通りぼくの話を聞いてから、領事はキルギスの警察の現状、被害届けを出した場合の流れなどを説明してくれる。

警察が腐っているのは領事も当然知ってはいるものの、なかなかその対処は難しいらしい。被害届けを出すとすれば、まず受理されるまでに1週間なりの時間がかかり、また受理されたとしても担当の刑事(?)がどれだけ本気でやるかがわからないという問題がある。また担当の刑事がやる気がある人であっても、現場検証や事件当日の再現などのために被害者が彼らに協力しなければならず、しかもいつ警察からお呼びがかかるかわからないため、その間中、ビシュケクにいないといけないらしい。

加えて、そうした調査を経て起訴するまでには平均3ヶ月はかかるという。さらにロシア語がわからなければ、通訳を被害者自身で雇わなければならないので、時間だけでなくオカネもかなりかかるらしい。

こう言われると当然現地に住んでいない人間にとっては、被害届けは出さないという選択肢しかない。1ヶ月程度であれば滞在費も安いからやってもいいかと思ったが、3ヶ月となると無理。どうせ政府側も警察側も外国人旅行者がこうした被害に遭っても法的な手段は取ってこないと見越しているんだろう。

領事が被害届けを出さないなら申し入れに行くという手もあるがどうかと聞いてきたので、申し入れすることにする。大使館の方で警察の方にアポイントを取るから、14時に大使館に電話をくれるようにと言われ、いったん大使館を出る。

14時まで1時間弱あるので、電話屋併設のインターネット屋で時間をつぶす。外は相変わらず雪がずんずんと降り続いている。

14時過ぎに大使館に電話をすると警察署の副署長が会議中だったためまだアポが取れていないという。そのため16時過ぎにまた電話くれるようにと言われる。16時と聞いて申し入れは明日になるかなと思い、いったん宿に帰る。すっかり雪は積もってしまって、景色が朝とは変わってしまった。

宿で本を読んだりしていたら、15時半過ぎに宿の電話が鳴り、それに出た家主がぼくに電話だと教えてくれる。電話は大使館から。アポが取れたからすぐに大使館に来るようにと言われる。

雪が積もったので、ランニングシューズからブーツに履き代え、外に出る。またマルシュートカに乗って日本大使館に向かう。

30分ほどかかって日本大使館に到着。すでに出発の準備はできていて、領事らと一緒に大使館の車に乗り、警察署に向かう。

領事が本当の警察かどうかを確認するため現場を見たいというので、現場に赴く。ゴーインという中国系のスーパーに付属している小屋がその現場なのだが、大使館の人が確認したところ確かに本物の警察の詰め所らしい。スーパーの警備を警察が請け負っているという。

運転をしている大使館職員の話に寄れば同じ場所で2年前にも同じようなことがあったらしい。犯人はもちろん警察。

そこから10分足らずで警察署に到着。3人で警察署に乗り込む。

2階の副署長室に案内され、まずは領事と大使館職員が先に副署長と面会。遅れてぼくが中に呼ばれる。副署長は34歳。腹はパンパンに出ていて、一重瞼で目つきが鋭い。たとえて言えばアニマル浜口系の顔をしている。言葉は相手がキルギス語でこちらは日本語なので大使館職員が間に入って通訳。事情をかなり大ざっぱに話す。副署長はそれを黙って聞いていた。

本当に解決する気があるなら犯人を特定できる細かな部分を聞いてくると思うのだが、そういう質問はなし。服装を聞いてきた程度。

副署長の話ではまちをパトロールしている警官には内務省の軍警察と警察アカデミーの生徒、警察の3つがあるらしい。内務省では最近、こうした外国人に対する犯罪を防ぐために厳しく指導しているという。

被害届けは出さないと言うと、なぜ出さないのかと副署長は聞いてくる。時間がかかるからと言ったが、特に反応はなし。

副署長はこうしたことが起こらないように、今日からでもパトロールを強化するという。そして、犯人探しもできるだけやってみるという。犯人なんて昨日の詰め所の勤務表を見ればすぐにわかるっちゅうに。それにそいつらの写真を持ってこい、写真を!と言いたかったが、どうせ警察も腐ってるんだろうなと思い、神妙に副署長の言葉をありがたくいただく。だいたい警察の犯罪を防ぐために警察によるパトロールを強化するってなんだ? 

副署長は内務省に外国人課というような部署があって、そこが主に外国人関係を扱っているので、今度領事にその課長(に相当する人?)を紹介するという。そして金庫の鍵を開けて、中から500mlの「ビシュケク」と書いた未開封のコニャックを取り出し、領事にプレゼントだと言って渡す。

以上で申し入れは終了。

まぁ、腐ってるんだからカネが戻ってくることも犯人が捕まることも期待できないから、警察署を見物できたということをせめてもの収穫と思わないとなんだかバカらしい。きっとこれまでもこうしたことを何度もしているのだろう。正直に言えばこんな国になんか協力隊とかODAとかをつぎ込む必要はないと思う。キルギスの人は飢えているわけではないんだから、援助は止めて早く政府が潰れ、警察が刷新されるのを待った方がよほどこの国の人のためになるのでは。

あるいは被害に遭った外国人でネガティブキャンペーンを張って、キルギスの警察がどれだけひどいかをアピールし、かつ国内で警察に不満を持っている人たちを支援するなんてのもありか?

大使館の車で宿まで送ってもらい、そこでお別れ。宿に戻ったものの夜食がなかったので、バスで近くの商店まででかけ、人参などの総菜やパンを買って帰る。

夜は同部屋の人と明け方までしゃべる。同部屋の人は旧ソ連地域をほとんど回ったことがあるらしく、ロシア語も堪能。毎晩ビシュケクのまちに出かけているらしいのだが、ときにいたい目にあったこともあるらしい。なので、夜に出かけるのはすすめないと言う。しばらく前には夜、目の前でロシア系の若い女性が車に拉致されていくのを目撃したり、歩いていたら泣いている女の子がいたので聞いたところ、鞄などをひったくられたと言っていた人もいるらしい。

ここでもオカネがある人や勉強ができる人は次々と国から出ていっているらしい。特にロシア系の人はロシアに行く傾向が強いという。

またこのまちにカジノが多い(ぼくが確認しただけで5カ所ほどある)のは、カザフスタンで禁止されたため、それがこちらに流れてきてカザフ系の人が経営し、カザフ人が遊んでいるためだかららしい。ただ、中国人もずいぶん遊んでいるという。一度、見に行ったことがあるらしく、ビールが200ソム(約500円)くらいしたらしい。だから、カジノの中は別世界だと言う。

キルギスに初めて来たのは5~6年前らしく、そのときと比べると物価が物によっては倍以上になったという。以前は15ソムで食べられたラグマン(中央アジア風肉うどん?)が今では安くて40ソムなど。また当時と比べて中国人の数が圧倒的に増えたらしい。キルギス人の中国人に対する評価は悪く、一般的に嫌っているらしい。日本人は少ないためたいてい中国人か韓国人かと尋ねられるのだが、そのときに日本人だというと”へ~”とちょっと驚くような反応が返ってくるらしい。

ソ連時代が良かったと言っている人は、ここにもいるが、ハンガリーなどでも会ったらしい。理由はやっぱり仕事がみんなにあったということが大きいらしい。

また例えば以前なら年寄りは無料だったバスなどの公共交通機関が今では有料になったりと、そうした社会サービスの面での低下が旧ソ連時代を懐かしむ一因になっているらしい。

Fin

[diary]ビシュケクで警官にカネを取られる

ビシュケクで警官にカネを取られる

2009/02/02(月) 晴れのち曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.5(両替屋にて)

・宿のおばさんに怒られる
・両替をしに
・カザフビザを申請
・別の宿探し
・郵便局
・警官にやられる
・晩飯をごちになる

[diary]オシュからビシュケクへ

オシュからビシュケクへ

2009/02/01(日) 曇り
[Osh→Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)

・朝食はポロ
・乗り合いタクシーでビシュケクへ
・2度の山越え、チェーンの着脱
・真夜中にビシュケク着

ハチチャの家で4回目の朝を迎える。6時過ぎに目が覚め、さっそく出発の準備。今日はビシュケクに行くのである。バザール近くの乗り合いタクシー乗り場で聞いた話ではビシュケクまで10~15時間かかるという。そのため今日中に着くにはなるだけ早く宿を出ないといけない。

前日にハチチャのお母さんに7時前に家を出るから朝食はいらないと伝えていた。外は暗いもののさすがに家の人は起きているようで、隣の部屋から声がする。

出発の準備を済ませ、出ようと家主が出てくるのを待つ。家主のおじさんがこちらの部屋に顔を出したので、これから出ると言うとポロウ(パロウ:中央アジア風炊き込みご飯)を作っているから待てと言う。早く出たいぼくとしては、余計なお世話なのだが、3回ほど”いやもう出るのだから”と伝えるもまったく折れない。しょうがないので、こちらが折れ、朝飯ができるのを待つ。

ここが旅行者の対応に慣れている宿であれば、少しでも早く朝飯を準備して旅行者のスケジュールに合わせるようするのだろうが、まったくそんな雰囲気はなく、結局、朝ご飯が出てきたのは8時前だった。

初日と同じように直径が70cmほどもある平皿に山盛りになって出てくる。中華料理のようにそれぞれに小皿が用意されるわけでもなく、それぞれがその大皿から直接スプーンですくい取り、自分の口に運ぶ。緑大根の千切りが別の小皿に用意されているので、それをご飯にかけながら食べる。この家のポロウは食堂でよくあるような油ぎったポロウではないし、味付けもちょうどよい具合で美味い。米の炊き具合もベスト。

家主のおじさんは、ビシュケクには明日着くだろうと言う。ぼくもこの時点で既に今日中に着くのは諦めてしまった。

朝食を済ませると4歳のムスリマがぼくの元にやってきて、遊ぼうとねだる。なので、しばしお相手。昨日、一昨日と同じように手をつないで部屋の中でぼくを軸にしてぐるぐる回ってから、ぱちっと止まり、ウルトラマンセブンがなんとか光線を出すときの構えと同じような構えをして「ウトカ、ウトカ、ウトカ」(ウズベク語?意味不明)と言うのを2回繰り返した後、ムスリマは一人で両腕を横に広げ一回転する。

そしてぼくを部屋の端に行くよう押し、自分はドアの陰に隠れ、ちょっとした隠れん坊状態を数秒間続ける。そして、適当なタイミングで「ワー!」と大声を上げながらぼくの前に現れる。そして楽しそうに笑う。これら一連の流れを彼女は繰り返す。ぼくはそれに付き合う。

昨日までならしばらく彼女の遊びにつき合えたのだが、さすがに今日はそんなにつき合えない。3サイクルほど付き合ってからもう出るからと仕草で伝える。母親がムスリマに強い調子で何をか言い、彼女の動きは止まる。

ぼくはリュックを背負い、イランで買ったブーツを履き、外に出る。家主夫婦に見送られて家を出る。次男が国境のマルシュートカ乗り場まで送ってくれるというので、彼と一緒に水たまりばかりの未舗装の道を歩く。今日はわりと天気がいい。

10分足らずでハチチャがお菓子屋をしている国境に到着。マルシュートカに乗り込む。乗り込んだところへハチチャが来て、「ダスビダーニャ(さようなら)」と笑顔で言って、自分の店に戻っていく。

オシュの中心部まではマルシュートカで20分ほど。運賃7ソム(約20円)。

ビシュケク行きの乗り合いタクシーが出ている駐車場近くでマルシュートカから降り、駐車場に向かう。駐車場の入り口には運転手が数人客引きしていて、声をかけてくる。ビシュケクに行くと言うと、一人のおじさん(と言っても40歳前後)がこっちに来いと言うので後をついていく。おじさん車には既に客が乗り込んでいたし、運賃も1000ソム(約2500円)と地元料金だったので、促されるまま乗り込む。

トランクにリュックを乗せようとあけてみると、すでに荷物でいっぱい。大きな袋の一つを取り出し、代わりにぼくのリュックをトランクに詰め、その袋は後部座席に乗せる。

駐車場にあった有料トイレ(3ソム)で用を済ませ、車に乗り込むとすぐに車は発車した。乗客は助手席に1人と後部に2人。通常なら後部座席に3人だが、例の荷物がぼくの隣にあり、一人分の席を占めている。これで出発するとは意外だ。車はベンツだが、古いタイプのよう。

車内は音楽もかからず、かと言っておしゃべりもなく、とても静か。同乗者もぼくにはどこから来たのかといったことを聞いただけでそれ以上は話しかけて来なかった。

どういうわけかぼくは異常に眠く、というか自分でも眠気を感じなほど眠かったようで、さっさと寝てしまう。目が覚める度に、いやいや起きてまわりの様子を見ねばと思うのだが、またしばらくしたら寝ている、というのを繰り返す。

景色は基本的に単調で、木のない山々に挟まれた道をずっと走るだけ。時折、まちが現れる。

畑が広がっている地域もあり、意外なことにここも雪がない。悠然と馬に乗ってどこかへ移動している人たちも見るし、馬に荷車をひかせている人たちも見る。

民家は基本的に1階建ての平屋。一見する限りでは特に伝統的な造りとは思われないありきたりな造りのものが多い。壁はコンクリートブロックあるいは煉瓦を積み上げた後に、表面をコンクリートで塗り固めたようなものが多い。屋根はトタンとは材質が違うように見えるが、外観はトタンのように波打っているものが多い。日本の古い民家のように、屋根が交わる頂点は破風(はふ)が設けられているように見える。

12時頃、車はある食堂の前で停車。運転手に”食事は?”と聞かれたが、眠かったし、オカネをつかいたくなかったので、そのままぼくは車内で寝続ける。

休憩はその程度で、ひたすら車は走る。

徐々に高度が上がってきているようで、ぼくは耳に違和感を感じる。

そのうち雪山に挟まれた道路になり、路面はアイスバーンにこそなっていないものの、雪が踏み固められた状態のものになる。

路肩でチェーンを装着している車を何台も見る。乗用車同士がぶつかって話し合いらしきことをしている人たちも見る。

ぼくは乗る前にこの車がチェーンを持っているか確認しなかったなとちょっと不安になるが、そのうちこの車も路肩に止まり、チェーンを付け始める。ぼくの隣に座っている40歳というクルグズ人の男性が運転手の作業を手伝う。ぼくは見てるだけ。

改めて車のタイヤを確認すると、やっぱりノーマルのタイヤだった。チェーンの装着は20分ほどで終わる。不思議なことにチェーンを付けたのは左後部のタイヤのみ。そもそもチェーンが1つ分しかないよう。こんなんで大丈夫なのかと思ったが、意外にもこれで十分坂道を上る。

いったん下ると雪がなくなったので、チェーンを外す。

朝から曇っていたので、外の明るさからは何時かわからなかったが、すでに夕方近くになっていた。

しばらく走ると雪道になったので、またチェーンを付ける。
2度目の山越え。こっちはなかなか本格的な雪道だった。そのうち外は真っ暗になり、正面からは雪がヒューヒューと吹き付ける。窓の内側を曇らせていた水分は余すことなく凍ってしまった。

ビシュケクに近づくほど車の往来が増える。

雪道になって以降は目が冴える。下り坂になると、耳の痛みが激しくなり、飛行機で着陸するときと同じような状態になる。これで眠るどころではなくなる。ちなみにさっき越えたアラベル峠の標高は3184m。

しばらくして正面にトンネルが見えてくる。入り口近くには武装した警官などがいる。

運転手はトンネルの手前で右に曲がり、駐車スペースで車を止める。そして、チェーンを外す。

そうしてからトンネルに入る。ガイドブックによればこのトンネルは2kmほどあるらしい。

トンネル内は雪などはなく、トンネルを出てしまうとすっかり雪のない世界になってしまった。

オシュを出てすぐに運転手に何時くらいにビシュケクに着くか聞いたとき、2時か3時だろうと言っていたから、まだまだしばらくかかると思っていた。このころになるとようやく耳の痛みもおさまったので、また寝る。

目が覚めるとアパートが並ぶ住宅街にいて、10分ほど走った頃隣のおじさんは降りていった。

運転手はぼくにどこの宿に行くのだと聞くので、ガイドブックを見せながら説明。車の時計を見ると時刻は夜中の12時前。この時間では宿は閉まっているかもしれないと思いつつも、予定していた宿に行ってもらう。

宿はわかりにくい入り組んだ路地にあった。入り口のドアベルを鳴らすが反応なし。ドアを叩いて日本語で呼びかけるが、中からだれも出てこない。時刻は12時20分。

やっぱり寝てしまったかと思い、どうするかなと思っていたところへ、なかから足音がして宿主の人が現れる。現在停電中のようで灯りや何もかもが使えないらしい。

宿は現在改装工事中。ドミということでベッドが2つある部屋に案内される。そこには日本人男性の旅行者が1人。彼も寝ていたようで、そこを起こし、うちから鍵を開けてもらう。

こうして無事宿を確保。しばらく同じ部屋の日本人と話をしてから寝る。ここのところは毎日12時を過ぎると停電するらしい。

Fin