2009年2月20日金曜日

[速報]カシュガル(中国)いり

現在、中国の新疆ウイグル自治区のカシュガルことカーシーにいます。

2月15日に列車で中国入りし、翌日の午前中に新疆ウイグル自治区の区(州?)都ウルムチについたのですが、ウルムチで唯一見つけることのできたネット屋ではなぜか入力ページが開かず、更新できませんでした。

ウルムチは想像していたよりもずっと大都会でそれまでの中央アジア各地の首都と比べても、ぼくの印象では圧倒的に都市的で、物があふれ、人があふれていました。何より食堂がいたるところにあるのが、イラン以降(あるいはトルコ以降)ではまったく違う点ですね。そして外食が安い。餃子は10個で45円程度。ウイグル料理のラグマン(中央アジア各地にもあった料理。うどんのような麺料理)はどこでも75円程度、高い料理も150円は超えないという感じです。宿は500円(30元)程度はするのでたいして安くありませんね。150円(10元)くらいのところもあるようですが、ここらでは泊めてもらえませんでした。

一昨日そのウルムチを出て、カシュガルに23時間かけて来たのですが、ウルムチでは毎日日中もマイナス前後と冷えていましたが、ここカシュガルはまったく寒くありません。今日はちょっと冷えていますが、マイナスにはなっていませんし、雪もまったくありませんね。

ウイグル語はキルギスやウズベキスタン、カザフスタンで話されている言葉とほとんど同じ言葉ですが、文字にアラビア文字を使っているためまったく読めません。ウイグル人が多い地区では店も看板はアラビア文字だけというところもあります。

ここカシュガルではビザの延長をしようと思って来たのですが、どうも延長はビザが切れる前にしかできないようで、これからどうしようか迷っているところです。というのもノービザでの入国の場合15日間までは滞在できるのですが、すでに5日が過ぎ、残り10日となっています。ここから北京に移動するだけでもバスと特急列車で3日かかるというこの国では、残り10日では厳選したとしても見て回るのはかなり厳しいわけです。

ビザの延長をしてくれる公安の人はビザが切れる前の3月2日に来るよう言われたのですが、カシュガル以外でノービザ延長ができるまちはほとんどないようなので、ここらで10日過ごすが、思い切ってベトナムやラオス国境まで行って中国に入国しなおすか迷っているところです。

というわけで、では。

2009.2.20
新疆维吾尔自治区Kashi,中国


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2009年2月12日木曜日

[速報]アルマティ(カザフスタン)いり

昨日2月11日の午前にキルギスのビシュケクを出て、カザフスタンのここアルマティに来ました。資源大国の経済の中心地ということでなかなか栄えてますが、やっぱりまちはソ連的で退屈です。

気温はキルギスと比べ10度ほど低く日中で2度ほど。路面は凍っています。雪はほとんどないですが。

カザフスタンも警察が無知らしく面倒なため、国内数カ所を回ろうと思っていた予定を変更し、明後日には国際列車で中国に行くことにしました。夜中23時すぎ発でウルムチには月曜の朝くらいにつくようです。運賃は11540テンゲ(約8000円)。高いです。バスもあるようですが、冬場はあまりあてにならないようなので、列車にした次第。

なお、上記の警察が無知だということについて詳述すると、カザフスタンは5日以上滞在する外国人に対し、滞在登録をすることを強制しており、もししていないと2万円近くの罰金が課せられるようです。しかし、近年は空港からの入国についてはその場でその手続きをすることになり、空港からの入国については面倒がなくなりました。ただ陸路については別のようです。

陸路については近隣の国でビザを取ればビザ入手の際に滞在登録も済んだ状態になっているらしいのですが、ビザなどにそうした手続きをしたという印(空港からの入国の場合は2つスタンプが押される)が記載されないため、ビザを見ただけでは手続きをしたかどうかわからないらしいのです。また、アルマティの警察もそうした制度をほとんどが知らないため、こちらが説明したとしても難癖をつけてくるのは確実だろうというのが、今日日本大使館に確認をしに行った際の説明でした。なので、念のため滞在登録をしてはというのが日本大使館の言い分でしたが、滞在登録するにも時間がかかるし、何よりカネがかかる(700円くらい)のがネックなのです。

というわけで、無知な警察を相手にするほど馬鹿らしい時間はないし、本来払わなくていいカネを払うのもで馬鹿らしいので、さっさとカザフを出るというわけです。

いよいよ中国。飯が楽しみですね。

2009.2.12
Almati,Kazakhstan

2009年2月10日火曜日

[diary]ルサカからカピリ・ムポシへ、タンザン鉄道1日目

[diary]ルサカからカピリ・ムポシへ、タンザン鉄道1日目

08/09/12(金) 晴れ
[Lusaka:Zanbia→Tanzania]

・ビザ問題
・カピリへバスで移動、車窓から
・順調な滑り出しータンザン鉄道

4時頃、目が覚める。同室のアフリカ人と思われる人たちも間もなく目を覚まし、がたがたと動き出す。ぼくはまだ起きるつもりはなかったのだが、同室のおじさんたちが音を立てて動く上に普通の音量でおしゃべりまで始め、さらには新聞をがさがさ広げ出す人までいて、あまりにやかましいので完全に目が覚める。あんたら何時だと思ってんだ!といらいら。

しょうがないので起きだす。部屋の外にあるソファで、昨日買ったレモンを搾り、お手製のレモンジュースを作る。酸味がそれほど強くないから、それだけでもおいしく飲めるのだが、蜂蜜があればもっとうまいだろう。

それからこれも昨日買った1kg近い大きさのパパイヤを朝飯がわりに食べる。ナイフで縦に半分に切り、スプーンで種を取り除き、やはりスプーンで果肉をすくいながら食べる。あまりうまくない。熟れていないのが一つの原因ではあるが、それにしてもこれまで食べてきたものよりもイマイチ味が良くない。がっかりだ。パパイヤもうまい品種などがあるのだろうか。

パパイヤを食べながらタンザン鉄道のことを考えていたら、ふとビザのことが気になり始めた。国境で簡単にビザは取れるのだろうか? 列車は国境で停車し、みなの出入国手続きが終わるまで待つようなかたちになるのか? それとも係員が車内をまわってパンパンとスタンプを押して回るのか? ネットで探せば情報はあるだろうが、チェックしていなかった。それにビザ関係はいつどう変わるかがわからない。鉄道で国境を越えるのはこの旅初めて。2003年に、ポーランドからドイツに鉄道で行ったことはあるもののビザは不要だったので、今回とはちょっとケースが違う。

気になってガイドブックの『ロンプラ』を見ると、鉄道や船でタンザニアに入る人は事前に大使館で国境でビザ取得の可否を確認しましょうとある。

常識的に考えれば、誰もがタンザニア大使館があるルサカから鉄道に乗るわけじゃないので、その人たちのことを考えれば国境でビザを取れるようにしておくのが普通だろう。だが、”ここはアフリカ”。日本人的常識が通じない事は多々ある。

取れない場合もありえるので、とりあえずタンザン鉄道のオフィスに行ってもしビザが取れないとなれば切符の払い戻しをし、バスで移動するしかない。

そういうわけで8時頃宿を出て、バスターミナル近くのタンザン鉄道のオフィスに行く。行ってみると窓口の人はいなかった。しばらく待つ。15分ほど待って、チケットを買ったときと同じおじさんがやってきた。彼にビザのことを聞くと列車内で取れると言う。

一安心して、バスターミナルに行く。ダルエスサラーム行きのタンザン鉄道に乗るにはルサカから北に200kmほど行ったところにあるカピリ・ムポシまで行かなければならない。なので、そこまでバスで行くのだが、ここの客引きがまたうっとおしい。それぞれ別のバス会社らしい5~6人の男がワァッと周りに集まってきて、俺について来い、ノープロブレムとか言う。だいたいノープロブレムと言う奴ほど信用できない。それに目的地の近くまでしか行かないのに、そこに行くと言って乗せたりすることがあるから、こういうふうに競争が起きている場合の交通機関に携わるアフリカ人はあまり信用できない、とぼくは思っている。

値段を聞いてもどこも同じようなもの。発車時間を聞いてもみんな返答は10分程度で発車すると言う(しかし、もちろん当てにならない)。選ぶ際の決定打がない。

しょうがないのでバスの埋まり具合を見て決めることにする。バスは大型バス。あと数席ほどで埋まりそうなバスで行くことにする。乗る前に運賃を徴収される。運賃は50000クワチャ(約1400円)。高い!だいたい1時間100~200円というのが一般的なので、その計算でいくと3~4時間ほどの移動だから30000を越えることはないと思っていたのに。さらに荷物代を10000クワチャ徴収しようとする。カネがないと言うと一発で半額になる。こんなに簡単に半額になるなら断ることができたっぽい。

バスの座席は奥の数席しか空いていなかった。通路を歩くときにはみなの視線を感じる。一番奥の席に座って発車を待つ。

10時すぎ。
30分ほど待ってバスは発車。車内正面にあるテレビではミュージックビデオが流れる。音楽はヒップホップ系。誰かが口づさんでいるのが聞こえる。

窓が開くので風を受けながら外を眺めていると眠たくなり、いつの間にか寝てしまう。

起きたのがだいたい1時間後。まわりは平べったい景色が広がっていた。サバンナ的な風景。草地にポツポツと木が茂っている。火で焼いたらしく、あちこちが黒く焦げている。スワジランド以降、ルサカに着くまで山がちな景色が多かったから、こうした広々とした景色を見るのは久しぶりだ。

しばらくすると広大な畑が見える。麦畑のよう。見渡す限りが麦畑でその中に農薬あるいは水を散布するためらしい機械が見える。企業名らしい名前を書いた小さな看板が柵に貼られていた。

そうした大農場を進行方向左側の車窓からだけで2カ所ほど見る。南米と違うのは放牧場らしきところが見えない点。

『アフリカを知る事典』によればアフリカ農業の特色として、家畜の利用度が低いとあった。たとえば土地を耕すときに鋤をひかせたりとか、家畜の糞尿を肥料として使うとか、そういうことがあまりなされていないという。この旅の中では西アフリカで何度か牛に鋤をひかせているのを見たが、糞尿は確かに使われていなさそう。

ときどき見える集落はレンガ造りに藁葺きというところが多い。モザンビークやジンバブエでよく見た円形の家は少ないように感じる。

13時過ぎ。
2つほどのまちで停車しただけで、カピリ・ムポシに到着。駅前に到着してくれるのかと思いきや道ばたの空き地っぽい駐車場に止まる。周りの看板にカピリ・ムポシとあったので、それを見てここがカピリ・ムポシだとわかった。隣のおばさんにカピリ・ムポシであることを確認し、バスを降りる。降りた人は5~6人ほどと少なかった。

バスを降りるとタクシーの運転手が何人か声をかけてくる。バス代が予想以上に高かったためタクシーはおろかご飯を食べるに足るお金(クワチャ)も残っていない。なので無視。

バスの運転手にタンザン鉄道の駅を尋ねると、まっすぐ行って右と歩いていけるような雰囲気で言うので、そちらに向かって歩く。

舗装されている道沿いを歩くが、線路らしきものは前方に見えないし、駅を示す看板らしきものの見えない。適当に聞きながら歩くしかないなと思っていたところ、うしろからプシューという人の声がする。人を呼ぶときに使う音。振り向くと両手に荷物を持ったおばちゃんが、こっちと指さす。彼女もタザラの駅に行くらしい。おばちゃんはルサカ在住のザンビア人でダルエスサラームまでちょっとしたビジネスで行くらしい。会話は英語にて。

ありがたいと思い、ついていく。家々の間の砂地の道を歩く。やがて車も通る道に出る。どうやらここまでは近道を使って来たよう。その道路に沿って歩いていくと正面奥左手に貨物車が見え、その右に大きな建物が見える。

13時半過ぎ。
結局、バスを降りた地点から20分ほど歩いて駅舎に到着。駅舎に入るとすぐが待合い所になっていて、なかに店らしきものはない。おばちゃんは何か食べたいならあっちに店があるからと駅舎と道路を挟んで反対側の方を指さす。

駅舎は必要以上にでかかった。階数があるわけではなく、ただ天井が高いだけ。待合所の天井は10m以上あった。

待合い所には壁に沿って四角くベンチが設置されている。そこは列車を待つ人でほぼ埋まっている。が、階段を数段あがったところにファーストクラスとセカンドクラス用の待合い所があって、そこは半分くらいしか埋まっていなかった。そこはベンチもプラチックの椅子ではなく、革張りの椅子があったりする。

チケットを買ったときオフィスのおじさんが、出発は16時だけど14~15時に行ってパスポートとチケットを駅で見せなければならないと言っていた。来てみればわかるかと思っていたが、チェックしに来る人はいないし、あのおばちゃんもベンチに腰をおろしたままでそういったことはしていない。

しばらく様子をみることにして、ベンチで本を読みながら待つ。隣のベンチに座っていた7~8歳くらいの男のが、珍しげにじっとこっちを見ている。

15時近くになってもパスポートのチェックなどはない。乗車時に改札の人に見せるということだったのかと思うが、飛行機のチェックインのように事前に見せないといけないということもありえる。

インフォメーションボックスに、ラフな格好をした一見駅の職員とは思えないにいちゃんがいたので、念のため、その人に英語でいつパスポートを見せればいいのだと聞いてみる。するとチケットを販売していた窓口の方に案内され、そこで見せるよう言う。

チケット売場には窓口が3つあり、そのうちの2つはずっと行列ができていた。その人たちの様子を見ていたらチケットを買っているだけだったので、まさかそこでそのような手続きをしているとは思わなかった。その2つの窓口は確かにチケットの販売所だったのだが、列があまりできていない左端の一つの窓口がチェックイン的な手続きをする窓口だった。

窓口の女性にチケットとパスポートを差し出すと、彼女は受け取り、紙にパスポートの情報などを書き写す。手続きはそれだけ。

またベンチに戻り、本を読みながら16時を待つ。

15時半頃、改札の所に数人の駅員が出てくる。それを見た人たちが一斉に改札に集まり、列を作る。3等などは6人掛けの椅子席らしいから場所を取るためには早く並ばないといけない。

ファーストクラスやセカンドクラスは一応部屋は決まっているようでチケットにそれらしき数字が手書きで書かれている。

列が消えた頃に改札を通る。チケットを見せるだけ。

さてホームに入ったものの列車には車両番号らしきものがない。チケットと照らし合わせてみてもチケットに書かれてあるアルファベットや数字に合致しそうな文字が見えない。

しょうがないので車両の入り口に立っていた係員らしき年輩の細身の男性にチケットを見せて聞いてみる。向こうの車両だと言われ、そっちに行き、また別の係員のおじさんに聞くとあっちだと言って、今聞いたおじさんがいる方を指さす。そして、そのおじさんを呼び、なにやら言う。

すると最初のおじさんが4番の部屋にと言うので、車両に乗り込み、4番の部屋に入る。6人の寝台室。ドアを横にひいて入ると両脇にベッドがある。一番下と一番上のベッドは横になっているが、真ん中のベッドは壁に垂れ下がった状態。真ん中のベッドを固定してベッドとして使えるようにしてみるとそれぞれのベッドの間はけっこう狭い。座ってもさらに身を屈(かが)めないといけないくらいの高さしかない。これはけっこう窮屈だなと思う。

しかし、前日にチケットが取れたということは、2等は全部は埋まっていないということだろう。つまりは一部屋6人にはならない可能性がある。今までのところ誰もこの部屋には入ってきていない。さっきの係員の様子では、部屋もどうやらきっちり決まっているわけではなさそうだから、うまくいけば満室にならずに済むかもしれない。

他に人が入ってくる気配もないから、とりあえずドアを閉めてしまえば、心理的には入って来にくくなるだろうとドアを閉める。

誰も来なければいいなと願いつつ列車の発車を待っていたところ、ガチャガチャと音がして部屋のドアが開く。40代くらいのおじさんが一人入ってくる。身なりからビジネスマンか何かの人のように見えた。挨拶を交わしてから、おじさんはぼくの向かいのベッドに座った。会話は英語にて。

2人して発車を待っているとまた入り口のドアがガチャガチャ言う。ドアが開いて顔を見せたのは列車の乗務員らしき制服を着たおじさん。同室のおじさんと地元の言葉で何をか話し、おじさんは荷物を持って部屋を出る準備をしだす。ぼくにも部屋を出るよう言うので、ぼくも荷物を持って部屋を出てその乗務員とおじさんの後をついていく。

隣の車両まで移動し、そこの一室をあてがわれる。おじさんの話ではさっきの車両は途中下車や途中乗車する人向けの車両で、こっちの車両は終点のダルエスサラームまで行く人用の車両らしい。乗客の出入りがある車両は物盗りなどの被害に遭う可能性があって危険なためこうして移動させられたらしい。だったら最初からここの車両を指定しろよな、と思うのだが・・・。

16時、驚いたことに列車は発車予定時刻通りに走り出す。この列車はずるずる遅れるのが普通だと聞いていたが、今回はもしかしたら時刻表通りに走ってくれるかもしれないと淡い期待を抱く。

列車に乗るのは、久しぶり。モロッコでカサブランカからラバトに行ったときに使って以来。寝台の長距離列車となるとこの旅では初めて。予定では2泊3日だからこれだけの距離を列車の中で過ごすのは2001年にシベリア鉄道に乗って以来。

残念なのはぼくが座ったベッドは進行方向とは逆だったこと。おじさんに進行方向を向いたベッドを取られたのが残念。

おじさんは落ち着いた雰囲気の人で少しずつ話しかけてくる。どこから来たのか、何をしているのか、これからどこに行くのかなど。聞くとおじさんはザンビアのルサカにある教会の説教師らしい。その仕事の関係でダルエスサラームに向かっているという。ダルエスサラームにはしばしば行くようだが、たいてい飛行機を使うらしい。が、今回は飛行機のチケットが取れなかったため、列車にしたという。列車はしばしば遅れるので嫌いだと言っていた。以前、乗ったときは到着予定時刻から9時間も遅れて到着したこともあったらしい。

車窓からはこんもりした林や雑草地、農地、ときおり集落が見える。全体的に平たい。大規模な集落はほとんど見ることはなく、数戸から20戸程度の集落が多いように見える。

おじさんは本とノートとペンを取り出し、窓際の固定テーブルで何か書き物をしている。ぼくはひたすら外を眺め続ける。

途中、いくつかの駅に止まる。新たに乗客が乗り込んでくる。部屋はドアをしめていたら開けにくいからか、何度か開けようとガチャガチャする音を聞いたものの中に入ってくることはなかった。ぼくはおじさんが教会関係者だというから、きっとこういうときは自らドアを開けて新たな客を迎えるのではと思っていたが、ドアがガチャガチャ音を立てたときには息を殺し、まったく動かず。誰も入ってこないように願っているかのようだった。

実際におじさんはぼくに、人が増えるのは安全じゃないと言った。2人が一番いいと。ぼくについてはおそらく日本人でかつ旅行者だからと安心していたのだろう。まぁ、ぼくにしても教会関係者ならちょっと魔が差して物をとったりするというような可能性は低いだろうと勝手に見込んでいるので、安全面で言えばおじさんと利害は一致する。なので、あえてドアを開けようとする音がしても動かず。

そうした駅に止まると、駅には乗客を目当てに集まっている物売りの人たちがいて、飲み物からバナナ、アボカドなどの果物からナッツからご飯の類まであれこれ買うことができる。が、ぼくはザンビアのクワチャがほとんど底をつきかけていたため、買い物できず。加えて多くの物売りの人たちは前の方の座席車両の方にばかり行って、ぼくが乗っている後方の寝台車両まで回ってくる人がなかなかいない。これは誤算だった。

日が暮れると乗務員が晩飯はいらないかと注文をとってまわる。聞くと値段は500円ほどするので、ぼくは断念。おじさんは注文。メニューはウガリとビーフシチューだった。

暗くなってしまうとおじさんは窓を閉めてしまったため、車内の光がガラスに映って外がうまく見えず。なので、スワヒリ語の会話帳をめくったりして時間を過ごす。

冷暖房はついていないようで、夜になるとやや冷えてくる。毛布などは配布されているので、それをかぶって寝る。

Fin

[diary]あてにならないバス会社、ルサカの巨大市場

[diary]あてにならないバス会社、ルサカの巨大市場

08/09/11(木) 晴れ
[Lusaka:Zambia]
1米ドル=3500クワチャ(ルサカにて)

・あてにならないバス会社
・予定を変更
・鉄道のチケットを購入
・ルサカの巨大市場

6時過ぎに起床。外は明るい。ベッドに蚊帳はあったものの2段ベッドの上から吊っているから下のベッドに寝ていたぼくのところまで丈が届かず、意味がなかった。おかげで2カ所ほど蚊にやられる。

しばらく日記書きをする。

荷造りをしてから8時過ぎに宿を出る。まずは郵便局に行き、はがきを出す。切手代は日本まで4000クワチャ(約130円)。

それからバスターミナルに行く。昨日、マラウイ行きのバスを出している会社の窓口にチケットを買いに行ったときには予約は受け付けていないから明日9時に来るように言われていた。

9時にはまだなっていなかったが、多少早くても受け付けてくれるだろうと思っていたら、窓口には人影がない。他の会社はすべて窓口に人がいて、チケットを売ったりしているのにぼくが乗ろうとしていた会社だけいない。

9時まで待つ。が、窓口には誰も現れない。窓口の前で待っていたらやや年輩の男性が声をかけてきて、マラウイに行くのかと聞いてくる。そうだと言うと、ついて来いと言う。その人に着いていくと、ぼくが乗ろうとしていたバス会社の名前の入ったシャツを着たおじさんとなにやら話している。一通り話した後、今日のバスは満席だと言われる。おいおい!昨日は予約は受け付けていないと言ったのに、なんで出発時刻(正午)の3時間前なのにバスが埋まってんだ!

しかも、そのおじさんは次のバスは日曜だと言う。昨日、最初に窓口で聞いたときはマラウイ行きのバスは月曜と木曜と言っていた。なのに日曜って、まったくわけがわからない。信用できない。

この時点で、マラウイに直で行く予定は崩れる。国境のまちまでミニバスを乗り継いで行く方法もあったのだが、これから出ると暗くなる頃に国境に着くため、結局1泊しなくてはいけなくなる。なんだか面倒だし、カネがかかる。

というわけで当初の予定の可能性を調べるべくタンザン鉄道のオフィスに行く。当初の予定ではザンビアから鉄道でタンザニアに行こうと考えていた。しかし、出発日が明日(金曜日)だったので、それならここに2泊もせずにマラウイに行こうかと思っていた。ちょうどマラウイ行きのバスもあったし。それがこういう事態になったので、元の予定に戻してみる。

タンザン鉄道(こちらではタザラと呼ばれている)のオフィスはバスターミナルから50mほど離れたところにある。そこのブッキングオフィスに行って明日のチケットが取れるか尋ねる。明日なので満席だろうなと予想していたが、2等は空いているとのこと。できれば4人乗りの1等の方が荷物を取られるの心配が減って良かったのだが、空いていないのならしょうがない。10米ドルくらい安いし。

列車は明日の16時、ルサカの北200kmほどのところにあるカピリ・ムポシから出るそうで、14~15時には行って駅でパスポートなどを見せる必要があるという。

運賃は2等寝台は19万8000クワチャ(約6000円)。ダルエスサラームに着くのは日曜の昼。ちなみに1等寝台は23万7600クワチャ(約7000円)。その場で切符をもらう。国際列車だから豪華な切符かと思いきや、日本の自動券売機で買う切符にそっくり。小さくてなくしそう。

これでマラウイ行きはなし。そのぶん出費は抑えられた(マラウイの首都に行くバスは約5000円だった)。ただ、ここにもう1泊することに。

宿に戻って延泊することを伝え、一泊ぶんの宿代を払う。

宿に戻ったら部屋を移動してほしいと言われたので、荷物を新しい部屋に移す。こちらも8人部屋のドミトリー。

それから宿を出て市街地に歩いて向かう。地図を見ていたら、メインストリートの西側に市場があるようだったので、そちらに行ってみる。

商店が並ぶ通りを西に向かって行くとだんだんと人口密度が上がってくる。道のあちこちに物売りの人たちを見る。やがて左手に巨大な倉庫風の平屋の建物が見える。脇を通り過ぎて裏側にまわりそちらの入り口からこの建物に入ってみる。

中にはいると服屋から電気屋、肉屋、カフェ、靴屋、アイス屋などがひしめいており、二人がすれ違うのがやっとという通路をひっきりなしに人が行き交う。一部の通路はタイピング屋が並んでおり、パソコンを使って文書を作成している様子が通路からも見える。

ぐるぐると歩き回り、適当なカフェで昼食。

それからその建物を出る。その建物の西側(中心市街とは反対方向)には、バラックが集まってできたような市場があったので、こちらも見て回る。CD/DVD屋からは大音量で音楽が流れてくる。暇そうに突っ立っている若い男たち多数。

歩いていたらまた2~3人の若い男たちがチャイナがどうとか言っていたので、その声がする方に目を向けたが、誰も目を合わせようとしない。

さっきのこちらの市場はさっきの屋内型の市場よりもはるかにでかく、ごちゃごちゃ入り組んでいた。売っている物は果物や野菜などの食べ物が多い。なかでも目立つのが干し魚やシラスのような小さな魚の干したもの。海がない国なのでこんなに魚を売っていることに驚く。

こちらの市場はもちろん舗装などはされておらず、道は一部どろどろになっていたりする。が、人の数はこちらの方が圧倒的に多い。歩いていても見られることはあっても話しかけられるようなことはなかった。

しばらく歩き回ってから市場を後にする。

それからまたショッピングセンターに行く。昨日、行ったところとは違うショッピングセンターで、これも中心部からマイクロバスで20分ほど行ったところにあった。こうして市場とショッピングセンターを行き来すると、まったく違う世界が併存しているのだなと感じる。市場では白人の姿を見ることはまずないのだが、ショッピングセンターに行くとこんなにいたんだというくらいの密度で白人を見たりする。

その帰り道交差点でパパイヤを売っていたおじさんからパパイヤを買う。また電車用にペットボトルの水も買って帰る。

日が暮れて以降は宿にて過ごす。

Fin

[diary]ザンビア入国、ルサカのまち

[diary]ザンビア入国、ルサカのまち

08/09/10(水)
[Harare:Zimbabwe→Lusaka:Zambia]
※レート
1米ドル=3400~3500クワチャ(国境及びルサカにて)
1米ドル=345ジンバブエドル(国境にて)

・国境で待つ
・ビザを簡単にゲット
・ルサカ着
・市場
・ショッピングセンター

バスが止まったのを感じ、目を覚ます。客が何人か外に降りているので国境かと思い、起き出し、ぼくも外に出てみる。あたりは真っ暗。時計を見ると夜中の1時。

バスの前には別のバスが、その前にはトラックが止まっていた。まったく動く気配がないからなんだろうと思っていたら、そもそも国境が閉まっていた。つまり、国境があくまでここで待つらしい。

なので、バスに戻り、また寝る。

うっすらと明るくなり始めた6時頃、バスが動き出す。国境の門が開いたよう。前に並んでいたトラックやバスなどが開いた入り口からどんどんと中に入っていく。

入ったらすぐに右手に立派な建物があって、そこにバスは停車する。乗客はバスから降り、建物内にあるイミグレの窓口に向かう。

が、建物入り口自体がまだ開いておらず、ドアの前に行列ができる。入り口前はちょっとした広場みたいになっていて、一角に水道があった。一部の人たちはそこに行き、顔を洗ったりしている。そこへ体長1mはある猿たちがやってくる。子連れもいる。全部で7~10頭ほど。人間からえさをもらえることを期待しているのか、それともただの通り道なのかはわからない。人間に近づく様子はほとんどなかったけれども、ずいぶん意識しているようではあった。誰も食い物をやったりはしない。

30分ほど待ってやっと入り口のドアが開く。出国の手続きはスムースでポンとスタンプが押されただけ。

バスに戻り、乗客全員がそろうまでしばらく待つ。

全員の出国手続きが終わってからまたバスで移動。国境地帯を移動し、今度はザンビアの入国手続き。

こちらの手続きもスムース。ザンビア入国にもビザが必要なのだが、通常ビザを申請するために書く書類もここではなく、窓口でビザが欲しいというと”50米ドル”と言われ、それを払うとポンとスタンプが押されておしまい。ここまで簡単なところは初めて。荷物のチェックもなし。

朝早いのに国境地帯にはすでにジュースなどの飲み物売りやお菓子売り、両替屋などの人たちが来ていた。水が欲しかったので水を買うのに必要なぶんだけ両替し、500mlの水を買う。1本2500クワチャ(約80円)。ハラレではそもそも水がほとんど売られていなく、しかもあっても高かったりして、ここ数日は水を買うのに苦労していたが、国境を越えるとこうして簡単に手に入る。なんだか少しほっとする。そして不思議に思う。さっきまでいた向こう側では、ハイパーインフレでオカネはあっと言う間に紙切れになり(硬貨はもはや流通していないと言っていいような状態だった)、食べ物なども十分な量が流通していないというのに、こちらに来たら水も食べ物も少なくとも見た目では十分にあるように見える。しかも安く(外国人にとっては)買える。

乗客全員の入国手続きが終わるとまたバスは走り出す。舗装された片道1車線の道路。下り坂。緑が多いように感じる。

しばし眠りこんで、気がついたら平坦な土地をバスは走っていた。そのうち正面にビル群が見え、ルサカが近いことを知る。

ルサカは予想していたよりも大きかった。ハラレほどではないが、近代的なビルも数えられるほどだがあるし、道路もよく整備されている。

10時頃、線路近くにあるバスターミナルにバスは到着。立派な屋根付きのターミナルでバスが所狭しと並び、客引きが鬱陶しいくらいにあふれている。バスからリュックをおろし、とりあえず喧噪から離れ、バスのチケット売場の方に移動する。ここの後はマラウイに行くつもりだったので、マラウイ行きのバスについて聞くと、明日マラウイ行きのバスがあるという。ただ毎日はなく、明日を逃すと3日後くらいになるらしい。ここには2泊くらいしようかと思っていたので、即決できず、とりあえず情報だけもらって窓口を離れる。

ガイドブックで現在地と宿の位置を確認してターミナルを出る。ターミナルを出るとタクシーの運転手が数人声をかけてくるが、適当にいらないと答えてそのまま歩く。

ターミナルを10mも離れると人通りは少なく、店もない閑散とした雰囲気になる。線路に並行して走る道を北にしばらく行き、広いとおりにぶつかったところで右に行き、100mほど歩いたところで、左に曲がる。その道を100mほど行くと右に入る袋小路があり、その行き止まりのところに宿はあった。

門をくぐるとそこが屋外のカフェになっており、建物はなかなかきれいでこじゃれている。フロントのスタッフに声をかけ、チェックイン。部屋を案内してもらう。

ドミトリーは2段ベッドが4つある部屋で鍵がかけられないタイプ。荷物だけおいて貴重品はフロントに言って預かってもらう。

まずは両替をしに行く。歩いて銀行などが並ぶメインストリートに向かう。メインストリートは予想外に店が多かった。道ばたで新聞を売ったり、ピーナッツを売ったりしている人もいる。

両替のレートを表に張り出している銀行や両替を見てから適当なところで両替する。

それからぶらぶらとメインストリートを見て回る。日本の肉屋と同じようなスタイルの肉屋やハンバーガーなどのファストフード店、インド料理屋、インターネットカフェ、文具店、服屋、銀行などが空き店舗なしでずらずらと並んでいる。ファストフード店には客が大勢入ってにぎわっている。

新聞も英語と地元の言葉のものとが売られており、雑誌も英語の雑誌が複数売られている。

ぼくは久々に牛乳でも飲んでみようと肉屋でビニールパックの牛乳500mlを買う。お値段は2300クワチャ(約70円)。久々に飲んだからか、それとも本当に味がいいからか、これがかなりおいしい。正直、驚く。牛乳ってこんな味だったっけ?って思うほど。

メインストリートはだいたい300mほどあり、その他にも市場がある。昼飯がてらその市場に行ってみる。

最近立て直されたのかコンクリートの倉庫群のようなところが市場で店舗だけでなく、道ばたで物売りしているたちも多数いた。アイスをクーラーボックスに入れて売っているおじさんがいたので、アイスを一本買う。値段は3000クワチャ(約90円)なかなか高い。

アイスを食べながら歩いていたら、ぼく見てこそこそ言い笑う若い男が2名ほどいた。なので、向きを変えそっちの方に歩いていこうとすると、彼らは逃げる。やっぱり良からぬことを言っていたようだ。

市場の中に入ると細い道が入り組むごちゃごちゃした作りになっていてなかなかおもしろい。野菜や果物は丁寧に積み上げられ、服などもきれいに陳列されている。

服屋の隣にあった食堂に入る。おばちゃんが一人でやっているようで、英語で注文を取りにくる。メニューがないので、何があるか聞くとジンバブエと同じようにサザ(ザンビアでは別の言葉だったが忘れた)と肉や魚のシチューというのが定番のよう。なので、サザとビーフシチューを頼む。

ジンバブエのサザ(トウモロコシの粉をお湯で練ったもの)は、どこで食べても手が火傷するんじゃないかというくらい熱かったが、ここのはそうでもなかった。なので、安心して手で食べられる。シチューの具は少ない。肉は固い。どちらかというとジンバブエのサザの方が甘みがあっておいしかったように思う。このセットでお値段8000クワチャ(約250円)。ちと高い。

それから市場をまたふらつき、レモンを買う。5個くらいのつもりだったが、その店に残っていたレモンは11個で全部で5500クワチャ(約180円)というので、まとめて買う。

それからネット屋に寄って、1時間ほどネットをする。ここの値段のシステムは1分100クワチャ。なので、1時間は約190円程度になる。

今後のルートについてしばし考えた結果、明日のマラウイ行きのバスに乗ってしまおうと思い、再びバスターミナルに行く。途中、道ばたピーナッツを売っていたおばちゃんからピーナッツを買う。500クワチャ(約15円)。またオレンジも1個500クワチャで買う。

てくてく歩いてバスターミナルに行ったところマラウイ行きのバスチケットを売っている窓口の人は、さっきと変わっていた。さっき聞いたときは窓口の人はおじさんだったが、今は若い女性になっている。彼女に明日のマラウイ行きのチケットを買いたいんだけどと英語で伝えると、今日は売っていないから明日買いに来てとぶっきらぼうに言う。おじさんのときはすぐにでも売ってくれそうだったので、おかしいなぁ、と思うが、聞き返しても明日来いと言うばかりなので何時に来ればいいかを聞いてから、そこを後にする。

地図にはちょっと離れたところにショッピングセンターがあるとあった。もう夕方だったが、絵はがきが欲しかったこともあり、マイクロバスタイプのルートバスに乗ってショッピングセンターに向かう。

ほかの国でも見たように、交差点には物売りの人たちが10人ほど集まっていて、赤信号で止まった車の間を売り歩いている。売っているのはパパイヤや子どものおもちゃ、車関係の道具など。

15分ほどでショッピングセンターに到着。これまたぼくが予想していたよりもでかいところだった。日本でも郊外によくあるタイプのショッピングセンターで、ファストフード店やバー、本屋、服屋などの専門店などと南アフリカ資本のスーパーが一つの敷地内に集まっている。

本屋で絵はがきを買う。それからスーパーを見る。お隣のジンバブエの状況とはまったく違って物がこれでもかというくらいあふれている。店内の様子は日本のスーパーと同じ。ジンバブエの後に来ると、こうした景色がなんだか不思議に思える。

水が2リットル2850クワチャ(約80円)と安かったので、1本買う。

そうこうしているうちに店は閉店の時間になった。まだ19時なのに。

外はすっかり暗くなっていた。またマイクロバスに乗って戻る。宿近くでおり、その近くのガソリンスタンドに併設されているコンビニで夜食用にスナック菓子などを買う。

買い物をして店を出ると13~15歳くらいの少年が寄ってきて、カネを乞う。なので、小銭だがいくばくかのカンパをする。

暗い道をてくてく歩き、宿に戻る。

宿に戻って屋外のテーブルに座って夜食。また買ってきたレモンを搾ってレモン100%のジュースを作り、飲み干す。これがなかなかよろしい。あとはガイドブックを眺めながら今後のルートを考える。

シャワーは水のみ。夜は寒くもなく、暑くもなくそこそこ快適だった。

Fin

2009年2月3日火曜日

[速報]ビシュケク(キルギスタン)入り

1月28日にタシケントから車を乗り継ぎ、キルギスのオシュに入り、一昨日オシュから首都のビシュケクに来ました。

物盗りが多いということだけでなく、その警察の腐敗ぶりから中央アジアでもっとも注意すべきまちと聞いていたのですが、まったくその通りで昨日、警察にイチャモンをつけられ、カネを抜き取られました。

今回の旅では各地で警察に尋問されましたが、これまで実害なく来ていました。ですが、ここは本当に腐っていますね。そういうわけで今日は先程日本大使館に相談しにいき、これからあるいは明日警察に申し入れに行く予定です。

被害届を出すという方法もあるのですが、被害者が捜査に付き合わなくてはならず、しかもその捜査も長時間(起訴まで平均3カ月)かかるらしいので、それはやめ、大使館の人と一緒に申し入れに行くことになった次第。さて、どうなることやら。


またカザフスタンのビザを現在申請中で木曜日にもらえるらしいので、金曜あたりにはカザフスタンに移動する予定です。いよいよ中国が近くなってきましたね。

以上。

2009.2.3
Bishkek,Kurgstan

2009年2月2日月曜日

[雑記]日本でも使ってみたい言葉たち

[雑記]日本でも使ってみたい言葉たち

旅行中、各地で覚えた簡単な言葉の中から日本でも友達同士の会話などで使ったらおもしろそうと感じた言葉を集めてみました。

※表示できない文字があるため音をカタカナで表記している。
※●●語と便宜上分類しているが、実際は当地でしか使われていない言葉も含んでいるかもしれない。

1.スペイン語(中南米で)
①ウンポコ=少し。ちょっと。
②ポキート=少し。ちょっと。
③ペロー=しかし。じゃけれども。・・・じゃが。
④ケ・ボニート=なんと美しい。なんてきれいなんだ。
⑤ドンデ?=どこ?
⑥アキ/アイ=ここ。
⑦バーモス=行きましょう。行こうぜ。

2.ポルトガル語(ブラジルで)
①ムイト・ボン=美味い!。とてもおいしい。

3、フランス語(西アフリカで)
①セ・ボン=いいね。

4.スワヒリ語(タンザニアで)
①モジャ=1。(何かを買うときに個数を聞かれたときなどに使っていた)
②ワピ?=どこ?
③ニニ?=何?
④ナニ?=誰?
⑤ミミ=私。
⑥ウェウェ=あなた。
⑦カリブ=どうぞ。どういたしまして。
⑧ジャンボ=こんにちは。

5.アラビア語(中東諸国で)
①ラー=いいえ。
②アイワ=ハイ。
③タマーム=よろしい。グッド。オッケー。
④シュクラン=ありがとう。
⑤サラーム(・アレイクム)=こんにちは。(この言葉は中央アジアでも使える。要はイスラム圏での挨拶言葉)

6.スウェーデン語、アイスランド語
①タック=ありがとう。

7.グルジア語
①カンマルジョバ=こんにちは。
②ロゴラハル?=ごきげんいかが?

8.イラン語=ペルシャ語
①コジャー?=どこ?
②チャンデ?=いくら?

9.ロシア語(中央アジア、カフカスで)
①チュチュ=ちょっと。少し(ロシア語はしゃべれるかと聞かれたときなどに使っていた)。
②ハラショー=オッケー。いいよ。すばらしい。
③パカー=バイバイ。
④シトゥー?=何?
⑤ダー=はい。うん。(Yes)
⑥ニェート=いいえ。うんにゃ。(No)
⑦ポニャ=わかった。(語尾を上げると疑問文になる)

今回の旅ではないけど
10.インドネシア語(マレー語)
①キラキラ=おおよそ。だいたい。
②アパ?=何?
③ジャランジャラン=旅
④バニャック=たくさん
⑤ナシ=ご飯
⑥イカン=魚
⑦クエ=ケーキ
⑧スダチュクップ=腹一杯です。

11.ドイツ語
①チュース=バイバイ。
②ナイン=いいえ。
③ノイン=9
④アーバー=けれども。じゃが。じゃけれど。
⑤ヌルヌルズィーベン=007

2009.1.22 記

[雑記]寒さと言葉には関係がある?---んだ、ダー、タック考

[雑記]寒さと言葉には関係がある?ーんだ、ダー、タック考

2001年にロシアに旅行をしたときから気になっていことがあるのだが、結局、今までそれについてなんら調べたりすることなく時間が経ってしまった。

以下は経験に基づいた想像上の試論であり、帰国後調べることを忘れないためのメモでもある。

1.山形での経験
日本の東北地方では「はい」ではなく、「んだ」という言葉が使われていることは、多くの人が知るところだろう。

「んだ」を使う東北地方としてぼくが具体的にイメージしているのは青森、秋田、岩手、山形、宮城、新潟の各県で、ぼくはそれぞれで実際に使われているのを聞いたことがある。福島でも使っていたような気がするが今ははっきりとはわからない。もちろん同一県内でも使う地域と使わない地域があるだろうし、年齢によっても使用頻度は違うだろう。「んだ」を使う地域がどれくらいあるのかという点はそれとして確認してみたいことの1つ。

それはさておき、山形県のあるまちにしばらく住んでいたとき、南の島(と言っても日本の中じゃけっこう大きいけど)生まれのぼくにとって、「んだ」という言葉は非常にエネルギー効率の良い言葉であるように思えた。なぜか? 理由は単純、寒いからだ。

山形の冬は長い。年によって変動はあるものの、11月半ばから4月半ばくらいまでを冬と言っていいだろう。つまり、半年近くが寒い冬だ。

寒い期間が長ければ、自ずと暮らしのあちこちで工夫をするようになる。現代のように便利な暮らしになる前は、厳しい冬をどう乗り越えるか、あるいは冬自体を乗り越えることができるかといったことは、冬ではない時期の大きな問題だったろう。

そうした寒さを乗り越える様々な暮らしの工夫の中から「んだ」は生まれた、と思う。

「はい」と「いいえ」がそもそもどこで使われていた言葉で、いつから〈標準語(※1)〉になったのかは知らないが、「はい」と比べるとき「んだ」のエネルギー効率の良さが明らかになる。
※1 標準語という呼び方には言いたいことが山ほどあるが、便宜上これを使う。が、違和感を表現するために括弧(〈〉)付きで記載する。

「はい」と「んだ」を言い比べてみると、きっと誰もが「はい」と言うときの方がより多くの息を吐いていることを認めるだろう。もしかしたら腹式呼吸を使っている人はたいしてその違いを感じないかもしれない。しかしそうでなければ、「はい」と「んだ」を交互に何度か言ってみればおそらく多くの人が、それとわかると思う。

ある言葉を発するときにどれだけの量の息を吐くかを調べた人がいるかどうか知らないけど、きっと調査をしてみれば「んだ」よりも「はい」と言うときの方がより多くの息を吐いているという結果が出るだろう。

これまた科学的に証明されているのかは知らないけれども、ある言葉を発するときに、より多くの息を吐くということは、より多くの体内の熱を外に排出していることでもある、と想像する。

だとすれば、「はい」と言わずに「んだ」と言うことは、それだけ体内の熱が外に出ていくことを防いでいるということになるだろう。

つまり、「んだ」は体温を下げることなく効率よく返事をする言葉として、「はい」よりも優れてる。そう言えるのではないか。

2.ロシアの「ダー」、ポーランド、デンマーク、スウェーデンの「タック」
上記のように「んだ」が寒い地域の人々にとって効率的な言葉であるということは、他の寒い地域で使われている基本的な言葉を見ても証明できるように思える。

例えばロシア語。ロシア語で「んだ」は「ダー」である。またポーランド語で「んだ」は「タック」である。デンマークやスウェーデン、ノルウェーなどでも「んだ」という意味ではないものの、「タック」という言葉を使う。こちらの意味は「ありがとう」。これも日常的によく使う言葉という点では、「んだ」に近い。が、使用頻度をこの2つで比べればかなり「ありがとう」の方が低いだろう。なお、アイスランドでも「ありがとう」を意味する言葉として「タック フィリール」という言葉を使っている。

3.おわりに
上記の仮説を証明するには、言葉とそれを発する際に吐く息の連動性(?)を調べなければならないし、また言葉(音)によって消耗するエネルギー量の違いも調べなければならないだろう。

また、世界各地での「んだ」と音が似た「はい」レベル日常用語の分布も調べなければならないだろう。例えばアイヌ語や極寒に生きる人たちの言葉では「んだ」をなんと言うのかを調べなければならない。

あと言語地理学なんてのもありそうだなぁ。

以上、とりあえずのメモはおしまい。

2009年1月23日から24日にかけての深夜に記。
ウズベキスタンのブハラにて。

[雑記]日本人と現地人の狭間で

1.はじめに
旅も終わりが近づいてきて、中南米にいるころに書こうかと思いながら今日まで延ばしてきたことがあるので、それを書くことにする。

2.きっかけは日本人
ぼくの見た目、要は顔がいくらか日本人離れしているらしいということは、今回の旅行でも何度も思い知らされた。それもたいていは日本人によって。

メキシコのカンクンの日本人宿(文字通り日本人旅行者しか泊まっていなかった)に泊まっていたときのこと。宿からまちへと向かっている途中、一人の日本人女性とすれ違った。宿のすぐ近くですれ違ったことや彼女の外見や服装からぼくの方はすぐに彼女を日本人だと判断した。

すれ違ったときはまだ面識がなかったので、特に挨拶なども交わすことなく、ただすれ違っただけだったが、問題はその後に起こる。

夕方になって宿に戻ってみると、案の定、彼女はいた。他に旅行者がたくさんいたこともあり、そのときもぼくは「どうもどうも」と言う程度で、特に彼女と言葉を交わすようなことはしなかったのだが、夕食時だったかに機会があり、少し話をすることとなった。

そのとき彼女から聞いたのだが、ぼくが宿に戻って来たときに、彼女はぼくを見て「えっ?なんでこの人がここにいるの?」と思ったらしい。なぜか? 彼女は外でぼくとすれ違ったときに、彼はメキシカンだと一発で判断していたから。

これ以前にも一度日本で外国人に間違われたことはあった。インドネシアに夏に1か月ほどいて帰国し、当時通っていた大学の事務室に行ったとき事(こと)は起こった。「すみませーん」と流暢な日本語で事務員に声をかけたにもかかわらず、彼女の第一声は「留学生の方ですか?」だった。これが外国人に間違われた初めての経験。まぁ、1ヶ月ほど赤道直下にいたから日焼けもしていたのでしょう。

ともあれ、メキシコ以後も日本人に日本人に見られなかったことが数度あった。その中の1つがペルーのナスカでのこと。

その日、ナスカで地上絵を見るために飛行場の待合いスペースで自分の番が来るのを待っていた。ぼく以外にも観光客がいたのだが、それがあいにく日本人のツアー客。

飛行機を待っている間ぼくはツアー客の日本人たち(6人ほど)のすぐ近くにいたのだが、特に話しかけることはせず黙って座っていた。自分の順番が来て、飛行機のスタッフから名前を呼ばれたとき、ツアー客の一人が「日本人だったんですか?!」と驚いたように話しかけてきた。ツアーのガイドをしていた日本人も「日本人だったんですねぇ」と感心するような物言いでつぶやいていた。

さすがに途中であった日本人旅行者(男)のように日本人から「日本語が上手ですね」と言われるようなことはなかったが、上記のようなことは特に中南米にいるときには時折あった。

2.現地の人からは・・・
上記のような話を旅行中に会った人にしてみると、たまにこう言う人がいる。「いいじゃないですか、現地の人に見られればそれだけ安全だし、ぼられることもないし」。たしかにそういう面はあるかもしれない。しかし、それは現地の人に現地の人だと思われる、という条件をクリアしなければいけない。ぼくの場合、その条件をクリアできていなかった。

基本はチーノ(中国人)、コレア(韓国人)、ハポン(日本人)と言われ、時にフィリピーノかと聞かれる程度。中南米のネイティブやメスティソなどと呼ばれる人はモンゴロイド系のため日本の友達によく似た人もたまにいたりして、ぼくの方は「近いなぁ」という近親感を持っていたが、地元の人は確実に見分けていた。

要するに、ぼくは日本人からは現地の人と見られ、同時に現地の人からは異国人と見られていた。よって、現地の人に見られたから得したとかということもない。

そういうことがあったからか、南米のある国で日本人ばかりが泊まっている日本人宿に着いたとき、そこに並ぶ顔にこちらが違和感を覚えたこともあった。”なんかこの人たちぼくと違う”ってな感じで。

一方で、これははっきりと覚えているけど、アフリカのジプチのジプチシティでネット屋に行ったとき、そこにフィリピン人の男たちが大勢(と言っても10人ほどだが、店内が狭いため印象としては大勢だった)いて、彼らの顔を見たとき”あっ、仲間じゃん”と思ったこともあった。もちろん相手はこちらをフィリピン人とは見ていないので話しかけてくることもなかったし、こちらに視線を向けることもなかったけど。

ちなみにウズベキスタンで会った台湾人女性は、ぼくがあちこちでチーノ(スペイン語で中国人)だとかシヌワー(フランス語で中国人)だとか言われたという話をすると、あなたは中国人には見えないとはっきりと言った。

3.日本人的な顔ってどんな顔?
旅行中は日本人とは違う顔立ちの人たちばかり見ているからか、最近は日本人の顔が以前よりもはっきり見えるようになったように思う。前はもっとぼやけていた。

ありきたりに言えば、日本人の顔っていろいろだなと思うようになった。

そこで不思議に思うのが、日本人はどうやって日本人を見分けているのだろうかということ。少なくともぼくの顔の系統は、日本人的な顔立ちとして一般的に(?)認識されている顔の系統からは外れている。おそらく九州生まれの一部の人は、ぼくと同様外れている。アイヌや沖縄の人も外れているだろう。しかし在日コリアンは見た目ではおそらく日本人と判断されている。

もちろんどの顔が日本人でどの顔がそうでないかを判断する機会は日本では基本的にないと思うので(と書きつつ、ぼく自身が「日本で外国人に間違われたんだけど・・・」とツッコミを入れないといけない)、これは外国で日本人同士が出会ったときを想定しての話にすぎない。

なお、ぼくは純粋な日本人顔を追求したいとか、日本人顔なるものがあって、それを基準にいろんな顔の系統を分類してみたいとかそういうことに関心があるのではなくて、一般的に(?)どういうふうな顔が日本人的な顔として認識されているのか、またその識別基準を自分を含めみんながどうやって身につけたのかといったことに興味がある。身の回りにいる人が基準になっているのかもしれないし、テレビや雑誌などメディアを通してよく見る系統の顔立ちの人が基準になっているのかもしれない。

最後に何度も「日本人」という言葉を使っているが、ここでは日本列島に住んでいる人で、他の人から東アジア人(国でいうと中国・台湾人、韓国・朝鮮人、日本人)と見られるような外見をしている人という程度の意味合いでこの言葉を使っているということを補足しておく。

2009年1月23日から24日にかけての深夜から明朝にかけて記。
ウズベキスタンのブハラにて。