2008年11月27日木曜日

[速報]トラブロス/トリポリ(ルブナーン/レバノン)いり

久しぶりの更新です。

現在(2008.11.27、15時半)、通称ルブナーン(レバノン)のトラブロスことトリポリです。ちなみにレバノン(英語読み)の本名はアル=ジュムフーリーヤ・ッ=ルブナーニーヤだそうです。

イスラエルからヨルダンに戻ったのが1週間ほど前。翌日、シリアのダマスカスに移動したのですが、シリアに入って以降、なぜかこのブログのサイトをどこのまちのどのネット屋でもブロックがかかって開くことができませんでした。これがしばらく更新できなかった理由です。

今朝、シリアのハマというところを出て、ここに14時ころ着きました。北部の国境から入ると無料でビザが取れるという話を聞いていたのですが、それが有料(17米ドル程度)だったので、ビザをけちって48時間の無料のビザで入国したところです。さすがにしばらく前にイスラエルと交戦があったということで、ヨルダン、シリアと比べると軍人の警備が厳しいですね。

ぼくもさっそくこのまちに入って乗っていた乗り合いタクシーが信号待ちしていたときにやられました。たまたま隣に軍人のパトロールしているジープが止まり、目が合ったのが運の尽きだったようです。いきなり迷彩服にライフル銃を持った兵士たち5人くらいがタクシーにやってきて、ぼくに降りるよう言い、パスポートを見せろ、リュックの中を見せろと言ってくる始末。車から降りた瞬間腰の周りをチェックされ、中央分離帯で荷物などを開陳させられた次第。まぁ、言われたとおりにしたところ、すぐに解放されたのですが、いちいち疲れますね。

明日には首都のベイルートに行き、明後日にはシリアに戻ります。シリアからは更新できないので、次の更新はトルコになります。ではでは。

2008.11.27 15;40
Tripoli,Lebanon

2008年11月16日日曜日

[転載]イスラエルニュース

記録のためにここ数日報道されているイスラエルニュースを転載します。

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http://www.hokkaido-np.co.jp/news/international/129228.html
ガザの経済封鎖を強化 イスラエル ハマスと交戦激化(11/15 08:33)

 【カイロ14日鄭真】イスラエル軍と、パレスチナ自治区ガザを支配するイスラム原理主義組織ハマスの交戦が激化し、イスラエルはガザの経済封鎖を一段と強化している。物資の供給が途絶え、ガザ住民の日常生活への影響も出てきた。

 イスラエル軍は四日、領内への越境攻撃阻止を目的にガザを空爆。ハマスもイスラエル領へロケット弾を発射するなど交戦を続ける。イスラエル軍は十四日も空爆を続行、これまでにハマス戦闘員十人が死亡している。

 イスラエル政府は軍事行動について「ガザからのロケット弾発射への応戦のため」と説明するが、ハマス幹部は「攻撃が続くなら反撃を強化する」と反発。双方は六月に停戦合意していたが、なし崩し的に停戦が崩壊する可能性も出てきた。

 一方、イスラエルはガザへの主要検問所も閉鎖。ガザは燃料不足で停電が発生するなど日常生活に大きな障害が出た。燃料輸送は十一日に再開されたが、食料など生活物資の不足は続いており、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)はガザの人口の半数に当たる七十五万人分の食料配給ができなくなると警告している。イスラエルは、国連や援助団体のスタッフのガザ入りも制限している。
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http://www.cnn.co.jp/world/CNN200811140018.html
2008.11.14 Web posted at: 17:29 JST Updated - CNN
ワールド
イスラエル、ガザへの国連トラック通行を拒否

エルサレム(CNN) イスラエル軍は13日、パレスチナ自治区ガザからイスラエル領内へのロケット弾攻撃などを理由に、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)がガザに供給している燃料、食料などの搬入を拒否した。この影響で、ガザ唯一の発電所が稼動中止に追い込まれたとみられる。

支援物資を載せたUNRWAのトラック30台は同日朝、ガザに到着する予定だった。イスラエル国防省の報道官は、ガザ境界付近でテロの恐れがあるため、物資の輸送は今後も遅れる可能性があると話している。

イスラエルとガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマスとの間では、今年6月に停戦が成立した。しかしイスラエル軍は今月4日、ガザからイスラエルへ向かう地下トンネルを発見したとしてガザへ侵攻し、トンネルを爆破。ハマス部隊との間で、停戦後初の戦闘となった。ハマスは報復として、イスラエル側にロケット弾を撃ち込んだ。これに対し、イスラエルはガザ境界を封鎖したが、不可欠の人道支援物質については輸送を認めていた。

UNRWAは、ガザ住民が翌日から食料なしの生活を強いられるとして、イスラエルを非難。「物資の供給が止まれば過激派の活動をあおることになる」と警告している。
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http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2008111500291
「オバマ氏の親イスラエル化期待」=父親発言を次期補佐官謝罪-米

 【ワシントン15日時事】米メディアによると、オバマ次期大統領が新政権の首席補佐官に指名したユダヤ系のエマニュエル民主党下院議員は15日までに、自分の父親が息子の補佐官就任でオバマ氏が親イスラエル化することを期待するとの趣旨の発言をしたとして、在米アラブ人団体に謝罪した。
 父親はイスラエル紙マーリブに対し、「息子が首席補佐官に指名されたことはイスラエルにとって好ましい。もちろん彼は大統領が親イスラエルになるよう影響を与えるだろう」と述べた。(2008/11/15-16:18)
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http://mainichi.jp/select/world/news/20081028k0000m030074000c.html?inb=yt
イスラエル:リブニ外相が組閣断念、総選挙前倒し

 【エルサレム前田英司】イスラエルの最大与党カディマを率いるリブニ外相が26日、組閣期限を残しながら新政権の樹立を断念したのは、連立交渉に翻弄(ほんろう)されて政治手腕を問われる前に国会の解散・総選挙へと主導して、次期首相を狙う「指導者」の決断力を示したとの見方が強い。ただ、政治状況は有利でなく、展開は見えない。また、中東和平交渉やイランの核問題などの懸案を抱える中だけに、地域情勢の混迷にも拍車がかかりそうだ。

 「首相になるためにこの国の政治経済を危うくする『取引』には応じない」。リブニ外相は26日、ペレス大統領に組閣断念を報告した後の記者会見で、政争にあらがう強い指導者像を演出した。

 リブニ外相にとって、組閣の「失敗」は避けなければならなかった。組閣期限(来月3日)まで長引いた末に頓挫したり、少数与党政権を目指して「造反」に覆されたりする事態になれば、求心力の低下は必至だ。自ら組閣を「断念」するのが次善の策だった。

 だが、総選挙の前倒しは「賭け」でもある。

 27日付の最大紙イディオト・アハロノトの世論調査によると、現時点で選挙を実施した場合の獲得議席は、中道右派カディマ29(現有29)▽右派リクード26(12)▽中道左派・労働党11(19)▽宗教政党シャス11(12)--など。カディマは第1党を死守するものの、右派への支持は堅調だ。イスラエル紙ハーレツのアキバ・エルダー論説委員は、イランの核開発の脅威などで「世論は(潜在的に)右寄りになっている」と分析している。

 中東和平交渉でリブニ外相は、パレスチナとの「2国共存」を掲げ、聖地エルサレムの帰属を含めて包括的に協議する方針を示してきた。今回の組閣断念は、シャスが政権入りの条件としてエルサレム問題を議題にしないよう確約を求めたためとされる。次期政権の枠組み次第では、交渉がさらに足踏みする可能性も指摘されている。
【関連記事】

* イスラエル:連立断念、総選挙へ…中東和平交渉さらに停滞
* イスラエル:リブニ外相「組閣か選挙か、26日に判断」
* イスラエル:リブニ外相、あす組閣可否を判断 ぎりぎりの調整に

毎日新聞 2008年10月27日 21時31分
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http://mainichi.jp/select/world/stopcluster/news/20081007k0000m030059000c.html?inb=yt
クラスター爆弾:イスラエルが米国製止め自国「改良型」に

 【エルサレム前田英司】イスラエルは、不発弾の被害が国際問題になっているクラスター爆弾の調達・補充について、主に米国製を購入してきた従来の方針を転換し、今後は自国の軍事企業が開発した自爆装置付きの「改良型」に切り替えることを決めた。ロイター通信などが伝えた。

 自爆装置は、クラスター爆弾が着弾時に不発となっても、一定時間がたつと自動的に爆発して不発弾として残るのを防ぐ機能。国営軍事企業イスラエル・ミリタリー・インダストリーズ(IMI)が86年に開発していた。自爆装置のない「旧型」の不発率が30%超とも言われる中、IMI製は不発率1%未満の「改良型」とされ、同社は「不発弾問題の解決策になる」と強調している。

 イスラエルはこれまで、米国からの多額の「軍事援助金」を活用して、米国製のクラスター爆弾を調達してきた。イスラエル国防省筋はロイター通信に対し「(06年夏の第2次レバノン戦争で)不発弾が市民に強いる代償を認識した」と語り、自爆装置付きに切り替える理由を説明した。

 イスラエルは先の戦争で、レバノン南部一帯に大量のクラスター爆弾を使用。100万発ともいわれる不発弾をまき散らし、死傷する市民が相次いで国際的な非難を浴びた。

 戦後、クラスター爆弾の使用実態を精査したイスラエル軍の調査委員会は「使用は国際法にのっとり、軍事的にも必要だった」と正当化したが、今夏になって当時の国防省幹部が「軍は政府への報告なしにクラスター爆弾を使用した」と発言するなど、見解は揺れていた。

 クラスター爆弾を巡っては今年5月、軍縮交渉「オスロ・プロセス」の会議で日本を含む有志国が事実上の全面禁止条約案を採択したが、イスラエルは米国をはじめとする大量保有国の不参加などを理由に、同調していない。しかし、先の戦争を教訓に、自爆装置付きに切り替えることで、人道面に配慮する姿勢を示したい思惑があるようだ。

 ただ、自爆装置つきでも不発率は「10%近い」とのデータがあり、確実性を疑問視する見方も出ている。
【関連記事】

* STOPクラスター:大反響「クラスター爆弾なんてもういらない。」

毎日新聞 2008年10月6日 19時32分
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[diary]ロビン島ツアー、ウォーターフロント

ロビン島ツアー、ウォーターフロント

08/08/27(水) 快晴

[Cape Town:South Africa]

明るくなった7時頃起床。寒い。部屋は15度くらいか。

昨日の変わりやすい天気とは違って、今日は快晴。空泊も一つなく、澄み渡っている。絶好のチャリンコ日和だからできれば今日喜望峡に行きたいものだが、午後にマンデラが収監されていた刑務所跡地があるロビン島のツアーを予約しているから行けない。明日も同じような天気であればと願うばかり。

午前中は部屋で日記書き。

12時に宿をでる。フロントで今晩の宿代80ランド(約1100円)を払い、島に行く船が出ているウォーターフロント地区に行く。今朝はとても天気がよく、テーブルマウンテンが青空に映え、なかなかよろしい。

途中、商店で朝・昼飯用にパンを買う。揚げパンハンバーガーとでも言うべきもので、ハンバーガーに使うような形の揚げパンの間に炒めた挽き肉が挟んである。パンはでかい。ソフトボールよりもでかい。9ランド(約150円)。

ウォーターフロントまでは歩いて15分ほど。よく整備されている通りを歩いていく。途中、学校が終わったのか、制服を着た少年少女等とすれ違う。男の一人はプカプカとたばこを吸いながら歩いていた。

ウォーターフロントには貨物船や漁船が停泊していた。中国の船らしく、船体に漢字が刻まれている船を4隻ほど見る。ドックらしいところを抜け、ウォーターフロントの中心部に行くと、そこは一大商業地だった。レンガ造りの倉庫ふうの建物やガラス張りの近代的な建物にはレストランや土産物屋が並び、3階立てほどのショッピングモールがあり、ちょっとした広場では大道芸人が芸をしたり、音楽の演奏があったり、クルージングしながら食事をするという船があったり、ヘリコプターでの遊覧ツアーがあったりとなかなかすごい。なお、鮨を出しているレストランも数軒あり、うち1軒が日本人が握っている鮨やだった。スーパーでも鮨を売っており、4口ぶんくらいの小さなカリフォルニアロールが400円ほど。おそらく日本でここまでまとまって整備されている港はない。横浜よりも上。

客も多い。地元の人らしい人はもちろん、アラビア系や中国系の人も見る。

ツアーは3時からだったので、それまで一帯をふらつく。ショッピングモールの中にはブランド店がずらりと並ぶ。ナイキの専門ショップなどトレーニングマシンを売るスポーツ店もあり。また、オーガニック専門店や健康食品店もある。

南アフリカに来て登場したのが、ビーフジャーキーの専門店。部位ごとにガラスケースに入っていて量り売りされている。ビーフジャーキーは見慣れていないので、どうしても犬の餌に見えて仕方がない。

本屋も2軒ほどあったので、のぞいてみる。一軒ではディスカウントコーナーでアウサウンスーチーの本やスティグリッツの本が売られていた。ぼくはこれから行く、アラビア半島や中央アジアのガイドブックがないか探して回ったのだが、それだけがなかった。一方の店にはアフリカはもちろんアジアからヨーロッパまでほぼすべての国の『ロンリープラネット』があったのだが、探しているものだけなかった。また、その店の新刊コーナーに行ったところ、"My Life"というタイトルのカストロの自伝が棚の一番上の目立つところに並べられていた。フランスの新聞ル・モンド・ディプロマティークの編集者(だったっけ?)イグナシオ・ラモネがインタビューしたものをまとめたものなので、キューバで売っていた本の英語版かと思い、訳者あとがきを見てみるがスペイン語版のタイトルは違っていた。円換算で約2500円。5cmほどの厚さがある。買うべきか買わざるべきか迷う。

とりあえず本の購入は後回しにしてスーパーに行く。今晩の食料の下見。だちょうの肉を売っていないか探す。ここにはだちょうのいくつかの部位が売られていた。ステーキ用の部位は500g約1000円。もっといいステーキ用の部位は同g約1500円。バーベキュー用の安いのが同じ重さで約500円。帰りに買うことにする。

また、この店内にはTownship(いわゆる黒人居住区)で作製された買い物バッグが売られていた。材料はおそらくジュート(麻)でデザイナーの支援も受けているのだろう、デザインされたタウンシップのロゴも入っており、なかなかセンスのよいバッグに仕上がっている。小さいものから大きなものまであり、小さいのは400円ほど。大きいものは1000円ほどだった。商品のタグにはタウンシップの子どもが笑顔で写っている写真と商品の背景などが書かれていた。これも買うかどうか迷うが、とりあえずパス。

そんなことをしているうちに15時前になったので、とりあえず買い物は後回しにして、船乗り場のマンデラゲートウェイに行く。船乗り場の建物自体がミニ博物館になっており、ロビン島及び刑務所の歴史を写真とパネルを使って紹介している。残念ながら船の乗船が始まっていたので、これらをまじまじと見る時間はなかった。

船には150人まで乗れる。客はヨーロピアンらしき人たちが多い。半分は白髪の年輩者。アジア系は一人もいなかった。

15時ちょっと前に離岸し、一路島を目指す。港には日本の漁船も1隻見えた。船体に幸栄丸と書かれている。

海から眺めるテーブルマウンテンはまたいい。名前の通り頂上がテーブルのように見事に平たい。途中、アザラシかオットセイのような生き物の頭が海面にちらりと見える。

船は高速船のためけっこう揺れる。30分足らずで島に到着。島の港の壁には1片5mほどにひきのばされた当時の写真が描かれていた。

コンクリートで固められている岸を歩き、ゲートの前で乗客は2台のバスに分乗。それぞれのバスにガイドが付いており、島の中をガイドの話を聞きながらバスで回る。

ぼくが乗ったバスのガイドはインド系の50代くらいの男性。映画のナレーターのように強弱をつけて話す。ぼくはこういう形になるとは予想せずに一番後ろの右奥に座ったため、よく聞こえず。ときおり乗客が声を上げて笑うから、気の利いたジョークもけっこうはさんでいるよう。

バスではここで亡くなった人を葬ったらしい墓やペンギンがいる海岸、マンデラ等が強制労働をしていた石灰の採掘現場などを見て回る。もっと荒れ果てているのかと思ったが、住宅やテニスコートもあり、なかなかきれいだった。

最後に刑務所の見学。ここでガイドが変わる。今度のガイドはヨハネスブルグの黒人居住区ソウェト生まれの人で、実際に政治犯としてここに収容されていた男性。身長160cmほどで体格はよく、丸縁のめがねをしている。最初にベッドのある部屋に案内され、そこで彼自身の自己紹介とその部屋などの説明がなされる。毛布は4人に対し2枚しか配られず、しかも窓ガラスはなかったため冬は相当寒かったらしい。見学者の男性の一人が刑務所内で白人と有色人種で差別的な待遇があったのかと質問したところ、白人はカセットレコーダーなど身の回りのものを比較的自由に差し入れしてもらえたらしいが、有色人種にはそれがなかったらしい。しかし、同じ刑務所にいるということで連帯感が生まれたため、白人の方も特権的な振る舞いはせず、結局お互い同じような環境にいたような感じだったらしい。

また、ここに収容されていたのは南アフリカの人間だけでなく、今のナミビア(当時はまだ独立していなかった)やボツワナ、スワジランド、モザンビークなどの人も収容されていたらしい。

その後、Cellと呼ばれる独房を見学。広さは2畳ほどで床から2mくらいのところに換気用程度の小さな窓があるだけ。廊下に面したドアは鉄格子のドアだったため、その隙間を使って隣から隣へと情報交換をしていたという。具体的には情報を書いた紙などを紐にまきつけ、その紐を隣の独房のドアの鉄格子の隙間を狙って投げたりしていたらしい。

とにかく刑務所内にいるときは元気が出る情報を入手できるかどうかがポイントだったらしい。刑務所側からは悪いニュース(反アパルトヘイト運動が弱体化していっているといった話など)ばかりが知らされるため、そればかりを聞いているとだんだんと落ち込んでしまいそうになるらしい。そこで、面会の時などに例えば家族などの写真のアルバムに細工をして、外部からの情報を伝えるというようなことをしていたという。具体的には、写真を貼る台紙を2枚の紙を貼り合わせて作り、その貼り合わせた間に情報を書いた紙を忍ばせ(つまり袋とじのようなスタイル)、それで外部のニュースを知るという事をしていたらしい。

また、刑務所内では"Each one,Teach one"と言葉を合い言葉にお互いいろんなことを教えあうなど、精神的に参らないためにもいろんな工夫をしたらしい。

彼はいろんなことを話していたのだが、ぼくの英語力では3割ほどしかわからず。

夕方18時前に船に乗り、帰る。海上で日没を見て、対岸に着いたのは日が暮れてからだった。

それからスーパーに肉とパンを買いに行き、宿に戻って食事。肉は焼こうかと思っていたのだが、あいにく油がなかった。そのためスープにしたのだが、味はマトンとほぼ同じ。昨日、インドあるいはパキスタン系の人の店で食べたカレーに入っていた肉と同じ味だった。500g食べきるのはなかなか厳しい。

この宿には10人近く日本人が泊まっており、だいたい20代後半から30代前半。数人で今晩どこかに行くらしく女性陣は共同のキッチンがあるテーブルのところでお化粧をしていた。

食事後はベッドで過ごす。

Fin

[diary]ケープタウン到着、ぶらぶら

ケープタウン到着、ぶらぶら

08/08/26(火) 曇り、晴れ、ときどき小雨

[Cape Town:South Africa]

・整然とした町並み
・充実したインフォメーション
・ロビン島ツアー予約
・チェーン店ばかり

朝5時過ぎ。ケープタウンに向かうバスの中。うっすらと目が覚める。まだ外は暗い。

6時頃、ようやく空が明るくなり、周りの様子がわかる。チリやアルゼンチンと比べるとこのバスの寝心地はよくなかった。日は昇ったものの曇天模様。片道2車線の、日本で言えば高速道路の作りに似た通りを快調にバスは走る。

そのうち前方に高層ビル街が、右手に港とカーブのきつい海岸線が見える。高層ビル街が見え始めた頃から、渋滞のためバスはスピードを落とす。

南米であった日本人旅行者の人は、アフリカを来たから南下して南アフリカに行くと、それまでのアフリカとのギャップにびっくりすると言っていた。つまり、ケープタウンをはじめ南アフリカの都市はヨーロッパ並に整備されているから、それまでに想像していたアフリカ像や経験したアフリカとはまったく違って感じると。ここはアフリカなのか?!と思ってしまうと。近づいてくるケープタウンのまちはまさにそう感じさせるものだった。

日本系の企業や韓国系企業の大きな商業看板が見える。道行く人はスーツにコートを羽織っている人が多い。ヨハネス同様、走っている車の中に窓ガラスが割れているものやドアがへこんでいるものなどは見えない。信号がきちんと機能し、クラクションの音はほとんどせず、道ばたで物を売っている人や飯を食べさせる屋台もない。

右に港湾を見ながら幹線道路から左に入ってすぐ左手がバスターミナルだった。

バスから降り、リュックを受け取り、ガイドブックの地図で位置を確認。外はヨハネスよりもやや冷える。まだ朝だからかあたりはわりと静かだった。客引きしにきているタクシーの運転手もいない。

地図を見ながら宿に向けて歩く。どの建物も新しいのか、それともきちんと手入れされているのか、とてもきれい。道ばたにツーリストインフォメーションを示す看板があったので、とりあえずそれに従ってインフォメーションを目指して歩く。

10分足らずでインフォメーションに到着。ちょうど開いたばかり。マンデラ等が収容されていたロビン島へはツアーでしか行けず、かつ人気が高いので予約しておいた方がいいとのことだったため、インフォメーションで予約しようとするが、まだそうしたインフォメーションの予約業務とかは始まっていなかった。

9時くらいから始まるというので、そこではケープタウンの地図だけもらって、宿探しに行く。

バックパッカー向けの宿が集まっているLONGストリートは、英国的なカフェやゲバラカフェ、旅行代理店、本屋などが並ぶ商店街。チップス&フィッシュなどと書かれた看板も目に付く。

Cats&Mooseという日本語情報のある宿は300mほど内陸側で歩いていったところだった。途中、数軒の宿があり、宿泊費を書いた看板を出しているところもあった。だいたいどこも80ランド(約1200円)程度。

宿に着いて一泊いくらか聞くと、ガイドブックを持っているかと聞かれる。適当に持っていると答える。宿代がほんのちょっとだけ安くなる。

ドミとリーを案内してもらい、荷物をおいたらまたインフォメーションに向かう。途中、歩行者天国の通りでジュウジュウと焼き音を立てながらハンバーガーを売っているおばちゃんがいたので、そこで朝飯代わりにハンバーガーでも買うことにする。ハンバーグはパテを焼くだけだったようなので、ビーフというのを頼むとこっちも似たようなようなものだった。残念。西アフリカでは生の材料を調理したものばかり(調味料は市販品っぽかったけど)だったので、なんだかこうした食い物がグロテスクに見える。

それからインフォメーションに行ったが、担当セクションの人はまだ来ていなかった。しばらく待てば来るというので、しばらくインフォメーション内をぶらぶらする。

センター内にはカフェとネットができるパソコン数台も併設されており、全体的なレイアウトもそれなりにしゃれている。南アフリカ各地の多種多様な観光パンフが大量に整然と並べられており、それを見て回るだけでも面白い。レジカウンターのところにはイベント情報などを載せた無料の小さな冊子が置かれていて、最新号ではゲイ・レズビアンのことが大きく取り上げられていた。

しばらく待った後、ようやく担当者が到着。かばんひとつで客と同じように店内に入ってきて、そのままカウンターに座り、仕事を始める。

担当の女性にロビン島のツアーについて聞く。いつ行きたいのかというので、できれば今日か明日と伝える。調べてもらったところ今日はすでに予約がいっぱいでダメ。明日ならOKというわけで明日の午後のツアーを予約。

これで今日は一日空くことになる。まだケープの後のルートが確定していなかったので、バスの値段や所要時間などでルートを考えようとまずは中央バスターミナルに行って、バス会社数社をまわり、ヨハネスやダーバンなどに行くバスの運賃と発車時刻を調べて回る。それから同じ敷地内にある鉄道駅に行って時刻表と運賃を教えてもらう。鉄道は安いものの本数が少ないのがネック。

それからとにかくふらふらと歩く。バスターミナルの近くには地下街があり、たいした規模ではないものの服屋や時計屋などいろんな商店が並んでいる。こうした地下街なんて見るのはいつ以来か? ブエノス以来? ブエノスもたいしたことなかったけども。

テーブルマウンテンを正面にゆるやかな坂道を上っていく。小さな間口の商店がずっと並んでおり、その中にインド料理屋を発見。昼も近かったので、ここで食事。本当にシンプルなカレー。400円ほど。テイクアウトする客も多い。

そのうち右手にユダヤ博物館が現れ、すぐ近くにはユダヤ教と向け(?)らしい学校もあった。生徒を見る限りでは小・中学校っぽい。

そこを右に曲がると自然博物館(だったと思う)の方に出る。博物館の建物の周りは公園になっていて並木道があり、ベンチがあったりしてのんびり過ごせるようになっている。並木道を歩いているとリスを発見。おおっ!と思って近づくと逃げない。かなり人間慣れしているよう。視線を先の方にやるとリスは1~2匹ではなく、うじゃうじゃいる。木の根本や枝の付け根、路上などパッと見ただけでも10匹はいる。

市街地に戻り、歩行者天国などをふらついてみる。カフェはいくらでもあり、どれも内装がきれい。ハンバーガーやコーヒーショップ、チキン屋、ピザ屋などについては名の知れたチェーン店が一通りそろっている。充実した古本屋も2~3軒ある。歩行者天国の一部を除けば路上で物売りをしている人はいない。当然、飯が食える屋台もない。

観光客は多く、カメラをぶら下げてあるいている人もいる。観光客が多い通りのあちこちには警官と民間人なのかどうなのかよくわからないセキュリティの人間が立っている。

日本やヨーロッパのまちと同じように、総じて整然としており、まちを歩いていてもあまり刺激がない。

天気はころころと変わり、青空が見えたかと思えば曇って雨が降り出すというのを数度繰り返す。南アフリカの中でもケープタウンは、他の地域と天気が違うと聞いていたが、確かにその通りのよう。

中心街の規模もたいして広くなく、数時間で歩いて回れる程度。もう少し大きいかと思っていたが、高層ビルで縦に長いぶん面としての広がりはたいしたことないよう。

日が暮れる前に宿に戻ってからは宿にある日本語情報ノートを読んだり、今後のルートを考えたりなどしながら部屋で過ごす。本棚にアラビア語会話帳があったので自分の本と交換。西アフリカでは日本人にはほんの数人しかあわなかったが、ここには今晩だけでも10人ほど泊まっている模様。

Fin

2008年11月15日土曜日

[速報]エルサレム(イスラエル)いり

昨日11月13日にイスラエルいりしました。
現在、エルサレムは夕方6時前。日が落ちるのが早く17時半ですでに星が見えてます。

なにかと問題のイスラエルですが、その名の通りあれこれよくない話を聞きますね。まち自体は落ち着いた雰囲気ですが、イスラエル兵の武装はなかなかがっちりしていますね。

今日はヨルダン川西岸のパレスチナ自治区で行われている金曜定例のデモに行ってみたのですが、催涙弾などがイスラエル軍から撃たれ、初めてそれを味わいました。なかなか強烈なもんで、あんなにすぐに目が痛くなるとは思いませんでしたね。

イスラエルには1週間ほどいる予定です。

では

2008.11.14
エルサレム、イスラエル

2008年11月10日月曜日

[速報]アンマン(ヨルダン)いり

どうも、現在、ヨルダンの首都アンマン、午前9時15分です。
UAEは毎日30度を超える日々でしたが、ここは朝方の気温は10度台とずいぶん寒くなりました。

ここには昨晩の夜中の飛行機でUAEのシャルジャから移動してきました。移動時間は飛行機で3時間半ほど。時差が2時間あって、ここに着いたのはヨルダン時間の夜中の2時くらいでした。なので朝まで空港で寝て、移動してきたしだい。

今、泊まっているホテルはコーダホテルと言い、日本人旅行者が良く使っている宿です。今日は8人ほど日本人旅行者が泊まっているとか。中東以降のガイドブックを持っていないためここで情報を集めようかと来たところ。

コーダと聞いてピンと来た人がいるかもしれませんが、このコーダはイラクで殺害された香田証生さんからとられたものだそうです。ここのスタッフの一人が別のホテルに勤めていたとき(当時、そのホテルを日本人がよく使っていた)、香田さんがそこに来て、イラクへ行きたいとその手配を頼まれ、しぶしぶとその手配をしたところ(そのスタッフはずいぶん引き止めたらしい)、あのようなことが起こってしまい、そのスタッフはそのときの自分の判断をずいぶん後悔したようです。そして、彼の名前を残そうとホテルの名前にしたということです。

関連情報はネットに大量にあるので、関心があれば検索を。

ドバイには結局1週間ちょっといましたが、当初の目的の1つでもあったウズベキスタンのビザが無事取得できました。UAE滞在が長くなったのは、このビザ待ちをしていたからですが、いまやウズベキスタンビザはイスタンブールでも3週間待ちなどがざららしいので、1週間で取れてほっとしているところです。

結局、エジプトは行かず、ここからイスラエル、またヨルダン、そしてシリア、レバノン、トルコと北上します。2日後くらいにはイスラエルに行く予定です。

ではでは。

2008.11.10 9;30
Anman,Jordan

2008年11月1日土曜日

[速報]シャルージャ(アラブ首長国連邦)いり

イエメンでエアアラビアのチケットを買い、今朝までフライト待ちをしてようやくアラブ首長国連邦の一首長国であるシャルージャに入りました。目的のドバイは隣にあり、ここからバスで30分ほどでいけます。

ドバイ行きの飛行機はシャルージャ行きよりも高く、ドバイのユースホステルも相部屋で3000円近くするなど高いので、ドバイの建設労働者の居住地にもなっているシャルージャに来た次第。ちなみに飛行機代はサナアから片道175米ドルほど。宿のユースホステルは、会員証をもっていたおかげで55ディルハム(約1700円)程度に抑えられました。ちなみにサナアではほかの日本人旅行者と相部屋で1泊700リアル(約350円)だったので、一気に宿代は5倍になった計算です。


今いるネット屋は日本語が読めて打てて1時間4ディルハム(約160円)。イエメンの3倍ですが、まぁ思ったより安いですね。

ちかくの通りはパキスタン人街になっているようで、パキスタンスーパーマーケットと名前の書いた店やパキスタンを頭につけたレストランなどが5~6軒あります。インドあるいはパキスタン系の中年のおじさんたちばかりが乗ったマイクロバスが走っているのですが、どうもそれは建設労働者を運ぶためのバスのよう。

なお、ここで出されている英字新聞Gulf News(だったかな)の昨日付けの記事の中には、大阪のあいりん地区の話が載っていました。記者名は日本人でしたが。

ここには1週間ほどいる予定です。明日はちょっとドバイを見学しに行ってきます。

では。

2008.11.1 17;40
Sharjah,UAE


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