2008年10月29日水曜日

[diary]キンバリーでダイアモンドざんまい?

キンバリーでダイアモンドざんまい?

08/08/25(月) 晴れ
[Kimberly→Cape Town:South Africa]

7時頃起床。やはり高級な宿は寝心地が違う、なんてことはない。やっぱりこの部屋は見るだけにして、ドミにすれば良かったなどと考える。

電気ポットに水をいれ、沸かす。ティーバッグを入れたカップにそのお湯を注ぐ。もしや朝飯付きだったりしてなどと突然思って、台所に行ったが、誰もいないし、そんな用意もされていない。昨日は宿で朝にスープを食い、電車の中でみかん2つとジャガイモ3個ほどを食っただけだったから腹が減ってきた。西アフリカではその辺の露店で飯が食えたから食い物には困らなかったのに、こっちに来てからは飯を食うにもスーパーに行ったりしないといけないから面倒だ。

さて、今日はケープタウン行きのバスをまず調べて、それから市内散策となる。ケープタウン行きのバスで今晩発のがあれば1泊ぶん浮くのでベストなのだが、あまり期待できない。

宿の人が起きてくるのを待って、部屋替えを頼む。ネットでドミがあるとみたので、もう1泊する可能性が高いため、そちらに部屋を変えたい旨を告げる。すると彼は、ドミは掃除されていないからすぐには移れないが、荷物は部屋から出してほしいと言う。なので、荷物を廊下に出すと別の部屋に荷物を置くよう案内された。

そうしてから9時頃宿を出る。宿で市内観光のパンフをもらい、それに地図が付いていたので、それを見ながらバスの予約ができるというインフォメーションに向かう。半袖シャツの上に長袖のシャツを1枚という格好で外に出てみると、けっこうひんやりしている。月曜なのに車の通りは少ない。かすかに風がふいていて、そのせいかだんだんと手が冷たくなってくる。

商店からはパンやリンゴを数個買った人が出てくる。ぼくもパンを買おうかと思い、その商店に入るが気に入るものがなく、別を探すことにする。なお、その商店の雑誌コーナーには『Farmer's Weekly』という雑誌があった。

インフォメーションまでは30分ほど。中心部ではないとは言え、予想に反しその間パン屋は一軒もなかった。途中、通った病院の前ではホットドッグを売っていたが、どうせ偽物ソーセージだから食べる気にならない。

えーっと思うような立派なCollege(大学?、中にいたのは中学生くらいだった)の敷地前を通る。建物はレンガ造りのどでかい教会のよう。敷地もサッカー場くらいはある。

歩いている歩道は舗装されていないものの幅が10mほどある。1階立ての平屋の家が並んでおり、どこも柵は低いし、有刺鉄線も防犯用の電流が流れている鉄線も張られていない。これらからするとやはりここは安全なまちのようだ。

教会がいくつかあり、Buptistだったりユダヤ教のものだったりする。

目的の通りに出るとインフォメーションはすぐにわかった。「i」と大きな文字が表の看板にある。建物はけっこう大きく小さな道の駅並。建物内に入ってみると、国内各地の観光パンフレットがそれぞれ地域別に並んでいる。インフォメーションの屋根続きでバスのチケットを扱っているエージェントがあり、そこで国内の主要なバス会社のチケットが買える。

窓口の若いでかい男性にケープタウン行きのチケットを聞くと、幸いなことに今晩発のバスがあった。値段は450ランド(約6500円)。電車であれば200ランド程度らしいからやっぱりバスは高い。しかし、それを頼む。男性が手続きをしている間に、もしやこれは高級なバスのチケットかもしれないと思い、それが一番やすいものか尋ねる。すると男性は一番安いのがいいのかと確認してくる。そうだと言って、安いのを頼むと、今度は350ランド(約4500円)のチケットが出てきた。それでも高いが、これが最安ならしょうがない。そのチケットを買う。チケット自体は330ランドほどだが、差額を手数料で取られる。

チケットは印刷機から出てくるのではなく、決まった用紙に窓口の人が必要事項を書き込むタイプ。この点は、地理やアルゼンチン、ブラジルの方が機械化が進んでいる。男性はチケットをぼくに見せながら、バス会社の名前と発射場所(インフォメーションの駐車場)、発車時刻、到着場所と到着時刻、運賃などを読み上げ確認する。非常に丁寧。

予感に反して今晩のチケットが取れたので、チェックアウトするために宿に戻る。歩くこと30分。途中、インフォメーションに行く途中に下見した商店で半斤の食パンを買う。4.2ランド(約60円)。パンは安い。

宿に戻ってチェックアウト。もしやドミトリーの掃除の最中ではないかと心配したが、朝食の後かたづけをしているところだった。男性にチェックアウトする旨を告げると、イヤな顔もせずそうかそうかと精算の手続きに入る。宿代1泊分350ランドとネット2時間分40ランドの合計390(約5000円)。バス代とあわせあっと言う間に1万円が消えていったのであった。

男性はバスの時間を尋ねてくる。夜7時と伝えると、じゃあ、荷物をここにおいて1日歩いて回ると良いと言う。ここはバスに乗るインフォメーションから遠いし、インフォメーションでも荷物を預かってくれる(これは特別サービスのよう)と言っていたので、インフォメーションまで荷物を持っていくつもりだったが、せっかくの提案なのでそうすることにする。

再びまちへ。さっき買ったパンをかじりつつ、中心部に向かう。このまちに来て驚いたのは、病院が充実していること。10階立ての比較的新しく見える病院の周りにはメディケア施設や保健センターのような建物もあり、さらにはホスピスまであった。どの建物も日本ではなかなか見ないくらいきれい。病院の入り口には道ばたでスナックや果物(青と赤の小さめのりんご、洋なし、バナナ、アボカド、みかん6種類ほど)やじゃがいもを売る人あり。小袋のポテトチップを買ってみると値段は3ランド(約40円)だった。

セシルローズの銅像の前を通り、その近くにあった酒屋に行く。水を探していたのだが、ここのは1.5リットルのペットボトルが9ランド(約150円)とやや高い。のでパス。

しばらく歩くとガソリンスタンド併設の店があったので、そこで水を買う。ここでは1.5リットルが7ランド(約90円)ほど。店主はインド系。

この辺りはCity Centerとあったので、しばらくうろつく。名前からただの官庁街を想像したのだが、違った。本当に中心街だった。ショッピングセンターが固まって3つほどあり、そこより東(鉄道駅より)に個店や銀行が並ぶ商店街がある。市庁舎の近くには郵便局があり。

またその近くにはMini Pakistanと書いたファストフード店があった。パンを食べただけでは物足りなかったので、その店に入ってみるとすでに20人ほど座れる客席はいっぱい。注文をするレジにも10人くらい並んでいる。メニューがカウンター上のプラスチックボードに書かれていたが、カレー&ライス以外は馴染みのない名前ばかりで中身が想像できない。人が多いのでここで食べるのはやめ、またぶらぶらする。

Bureau de Change(両替所)となぜかフランス語の看板を出している銀行があったので、ランドを米ドルに両替しようと行ってみたが、ここでも外国人には米ドルを売れないと言われ、断念。

そこから適当に歩いているとワゴンを改造したミニバス乗り場に出た。そこはそれまで歩いてきたところと違ってゴミが散乱し、汚れている。ワゴンは何台か止まっているものの客はほとんどいない。

その敷地内にはミニ商店街があったので、そこを見て回る。サロン(美容院)やファストフード店、八百屋などがあるが、閉まっている店の方が多い。黒人のおばちゃんがやっている食堂があったので、そこで飯を食うことにする。気が付けばもう11時を過ぎていた。

何が食べられるかと聞くとチキンとパンと言う。値段を聞くと14ランド(約200円)と言う。テーブルに座り料理を待つ。店は屋内に調理場があり、その表に客用のテーブルが3つほどあるだけの小さな店。なぜかコインゲーム機があって、それを見ると画面に日本語が流れていた。警部:う~ん、におうな。これは同じ人間の仕業かもしれない。部下:俺にはわからないですね。なぜですか? みたいな文がカチャカチャと流れる。これは1度でもここの人が遊んだことがあるのか不思議に思う。

15分ほど待って出てきた料理はなかなかのものだった。食パンの端5cmほどを器代わり(ミミの部分なので器代わりになる)にして、その中に具だくさんのチキンカレーが盛られ、その上にくり貫いたパンの白身(パンの白い部分)が蓋のように被さっている。なかなか豪快。カレーは日本で食べるカレーと味は変わらない。鶏肉は首から背骨にかての部分だったため肉があまり付いていない。紅茶が付いた。

けっこう腹一杯になり、そのミニバス乗り場を後にする。それからここキンバリーに来た目的であるダイアモンドの採掘跡地に行く。そこはThe Big Holeと呼ばれており、市内各所にある観光標識に従って行けばたどり着く。

中心部からゆっくり歩いて5~10分ほどでビッグホールに着く。ぼくはただその穴とダイアモンドに関する博物館があるだけかと思っていたが、違った。

入り口を入ると当時のまちを再現した1画があり、そこには当時使われていた建物が移築され、またさまざまな道具などもそれぞれの建物に展示されていた。ダイアモンド買い取り屋の建物からタイピング屋、散髪屋、教会、喫茶店(看板にはチョコレートやティーとあった)、図書室、食器屋、洗濯道具屋、金持ちの住宅や労働者の住宅まであった。その中にはぼくが泊まった宿の家主であったGreat Batchの設計事務所もあった。その事務所の壁には設計図が張られ、各種道具や古い本などもあった。ここまでは無料なのがすばらしい。ヨハネのゴールドリーフシティよりはるかに充実している。

博物館に入るときは入り口でセキュリティチェックを受ける。金属反応を探る棒で全身をチェックされ、さらに銃は持っていないかと聞かれる。

博物館の入り口はもう1つ先のゲート。そこから入らなければお金はとられない。建物内にはカフェとアフリカの彫り物や布地、服、本などを売っている土産物屋の他にもちろんダイアモンド屋(宝石屋)があった。

博物館の入り口で入場料を払い中に入る。料金60ランド(約900円)はちと高い。13時からガイドがビッグホールや坑道を案内してまわるというので、それまでは中の展示を見る。展示はダイアモンドが店に並ぶまでの過程を地球の活動の歴史から鉱脈(?)の探査、発掘の技術、研磨などあらゆることを紹介している。知らなかったのが、けっこう河口や海沿いでもダイヤがとれること。どこで見た地図だったか、ナミビアの南の海沿いがダイアモンド地区で立ち入り禁止となっていたのは、たぶんそのためなのだろう。

展示はもちろんキンバリーの歴史もある。またある壁には南アフリカとそれに関係するヨーロッパを中心とした世界の歴史が年表形式で紹介されている。

もちろん本物のダイアモンドの展示もあり、巨大な金庫のような中にキンバリーや各地の鉱山で取れたさまざまなダイアモンドが展示されている。掘り出されたときのままの岩石の1角となっているものもあれば、きれいにカットされたものもある。当然、警備員の見張り付き。ぼくは知らなかったが、ダイアモンドには茶色や緑、青、ピンク、オレンジ、黄色、たまに赤といったいろんな色があり、それぞれの色のダイヤも展示されている。ピンクは白とほとんど見分けが付かない。

ダイアモンドのかけらを見ているとどうしても角砂糖、あるいは金平糖(こんぺいとう)あるいはまた飴玉のかけらに見えて仕方がない。テーブルの上にこれが転がっていたらおそらく口に入れてしまうだろう。プラスチックのなかった当時ならダイアモンドは珍しいものだったかもしれないが、きれいな飴玉やプラスチックでダイアモンドもどきを作れる今となっては、それと言われなければダイアモンドなど素人には見分けが付かないだろう。そんなものが紛争の原因だったり、その資金源だったりになってしまっているのが、なんともアホらしい。

ダイアモンドの歴史ではインドで古くから王様が好んでいたことが意外だった。また、現代のダイアモンド産業が盛んな地域としてタイがあげられていたことも意外だった。また、ロスチャイルドがセシル・ローズに融資していたらしい記述もあり。あとティファニーというのがダイアモンドの名前、ひいてはそのダイアモンドを買い取った人の名前だったとは初めて知った。

13時からのツアーの参加者は、ぼくの他に白人の年輩夫婦2組のみ。まずダイアモンド発見から一大産業になるまでの過程を描いた映画を見る。驚いたのはスクリーンの大きさ。東京のミニシアターがかなわないのはもちろん、普通の映画館よりも大きい感じがした。真ん中あたりに座ったのだが、画面が大き過ぎてクラクラする。

映画で印象的だったのは地元のズールー族(だったと思う)の王もダイアモンド鉱山で働いて、作業中の事故から何人もの人を救い出したことがあったとあったこと。ただ、もちろん王だからといって特別扱いではなく、他の労働者と同じ扱いだったらしい。

その後、ビッグホールを見学。見学用のデッキというか通路から眺める。でかい! 30mほど下の水面の上をツバメに似た鳥が飛び回っている。

その後、エレベーターで10mほど潜った坑道に行く。中身はゴールドシティと似たようなものであまり新発見はなし。

最後にさっき見ていた展示コーナーに行って解散。

※The Big Hole,Kimberley
http://www.thebighole.co.za/index.html

ビッグホールを後にして、また街に行く。さっきは素通りしたショッピングセンターをそれぞれ見学。客はどこも多い。物はあふれている。茄子はしおれている。ショッピングセンターの一角には携帯電話屋、電化製品屋、スポーツ用品店などがあり、本屋もあったので見学。雑誌『Focus on Africa』というBBCが出している薄い雑誌を購入。27.95ランド(約400円)。表題は”Oil Boom-What's in it for you"だった。

それからぶらぶらしていたら古本屋があったので、そこも立ち寄る。英語とアフリカーン語それぞれの本がある。ここは見ただけ。

それからショッピングセンターの近くに図書館があったので、そこも見学。ワンフロアのみで児童用こーなーもあり。ここも英語とアフリカーン語の2言語の本が置かれている。CDやDVDの貸し出し、視聴もできる。高校生などが勉強するコーナーもあり、数人が勉強していた。

そんなこんなしているうちに17時に近くなったので宿に荷物を取りに行く。18時前にはインフォメーションに行き、そこで荷物を預けて、水を買いにスーパーに行く。18時を過ぎるともう暗くなる。その後はインフォメーション内のベンチでバスがくる時間を待つ。

バスは19時半過ぎに駐車場に入る。座席の指定は特になく、けっこう空いていたので二人ぶんの座席を確保。脚は伸ばせないものの、そこまで窮屈ではない。心配した暖房もちゃんときいていてボリビアのように寒い思いをすることはなかった。

まちなかを抜け、窓から空を見上げると文字通り満天の星。しかし、ガソリンスタンドに入ったときにバスから降りて見上げたときには車内から見えたほどは見えず。ガソリンスタンド程度の光でこれだけ見えなくなるとはと感心する。

ケツの痛みで目覚めつつもこつこつ寝る。

Fin

[diary]ヨハネからキンバリーへ

ヨハネからキンバリーへ

08/08/24(日) 晴れ
[Johannesburg→Kimberly:South Africa]

朝日がのぼった7時頃、起床。今朝もそこそこ冷えている。

昨日と同じように昨晩作ったスープを火にかけ、朝飯。ゆがいたじゃがいも1kg相当は食べきれなかったため、持参しているビニール袋に入れ、持っていくことにした。

電車は10時半発だったものの明日の電車のチケットを買うために早めに宿を出る。

車で20分程度の中央駅までの送迎代は140ランド(約2000円)。宿代は安いもののこういったカネがかかるから結局1泊3000円程度かかったことになる。

バスの中央ターミナルと鉄道の中央駅は屋根続き。同じ屋内にある。ガラス張りの鉄道のチケットオフィスに行って、明日のキンバリーからケープタウンに行くチケットを頼む。窓口の女性は出発地がキンバリーになっていることを不思議に思ったようで、何度かぼくに聞き返す。なのでここからキンバリーまでのチケットを彼女に見せ、旅程を説明すると大きくうなづいてパソコンに向かい出した。

その電車は夜19時頃キンバリーを出て、翌日の昼頃ケープタウンに着く。だから1泊分宿代が浮くし、移動費もバスより安く、しかも明日朝から夕方までキンバリーのまちを見て回れるからロスがない。完璧な旅程だなと思いつつ、彼女の返事を待つ。

パソコンを見ていた顔をこちらに向け、彼女は言った。”No space(空きがない)”。えー!やっぱり。しかも次の同じ電車は金曜発だという。それまで待てるわけがない。

というわけで電車のチケットは買えず。ここじゃ行きあたりばったりだと移動もできないし、余計にカネがかかってしまう。

1時間ほどベンチで待ち、ホームに入る。すべて屋内になっており、警備員もそこそこ張り付いているため、外部から自由に人が出入りすることはできない。ただ、屋内の電灯は少なく白熱灯のような色であるから薄暗く、そのためどこかかに悪い奴が隠れているんじゃないかと思わせ、やや気になる。

『歩き方』などに電車は危険ですすめられないとあったから、てっきり白人も乗らないような電車かと思っていたが、電車待ちしているのは白人の方が多かった。

ホームは2車線で通路を真ん中にして右と左に電車が止まっている。防犯のためなのだろう、どちらも高さ3mほどの柵が、日本で言う黄色い線の位置に設置されていて、何カ所かあるゲートは閉まっている。電車が線路に入るとゲートが開くよう。

ホームにはどちらの車線からどこに行く電車が出るのかが書かれていない。そのためどっちの電車に乗ればいいのかわからない。加えてチケットには、座席番号が書かれていない。

ホームに降りる階段をおりきったところに女性の警備員がいて、”Hello"と声をかけてくる。切符を見せてというような仕草をするから切符を見せるとそこのインフォメーションに行くよう言われる。

ホームには円柱形のインフォメーションがあった。そこのおじさんにどっちの電車かと聞く。するとおじさんは冊子をパラパラとめくり、ぼくのチケットに「5G」と書いて、まだ電車はホームに入っていないが右側の車線に入ってくると説明する。

しばらくベンチで待つ。

電車が入ってきたのは出発予定時刻の10分前。車体はピンクと緑の線でデザインされているが、あまりかっこよくない。寝台車両がほとんどで食堂車もついている。

荷物を背負い、高さ3mほどある柵の格子状の「5G」、つまり5両目のG室に行くとすでに白髪の男性が窓際に座っていた。ハロウーと挨拶をする。

部屋は日本で言うB寝台のようなスタイルで2段ベッドが2つ。窓際のベッドとベッドの間には60cm四方ほどのテーブルが備え付けられている。驚いたのはそのテーブルの下が小さな洗面所になっていたこと。こんなのは初めて見た。また、内側からは鍵がかけられるようになっている。車両の端にはトイレとシャワー室、冷水機があり。

ファーストクラスというので、てっきり1人部屋かと思っていたので当てが外れる。電車の中で書き物をしようと思っていたが、それはヤメにする。

予定時刻の10時半になったが、電車は出ない。おじいさんは、時計を指さしながらだいぶ遅れそうだと英語で言う。ぼくがおじいさんに行き先を尋ねるとケープタウンまで行くという。おじいさんはぼくにどこから来たのかと聞いてくる。日本からと言うと、おじいさんは広島と長崎の名前を出し、原爆の話をする。アメリカは原爆を実際にテストしてみたいということで、広島と長崎に落とした。なんてひどいことを("It's terrible")。アメリカは原爆を使用した唯一の国。まったく信じられない。というようなことを言う。

ぼくが今も原爆症で苦しんでいる年寄りがたくさんいると彼に言うと、”Still"とちょっと驚いたように言う。

それからおじいさんは、あなたは英語がよくできる、とぼくを褒める。しかしぼくからすれば、おじいさんの英語の発音が聞き取りやすく、話すスピードも遅いため、理解しやすかっただけのことだった。相変わらずしゃべるのはつっかかりながらだし。

おじいさんに南アフリカで生まれたのかと聞くと、自分は南アフリカで生まれたが、両親はイギリスから来たという。キンバリーとケープタウンの間にあるリッチモンドという地で生まれ育ち、その後、家族でケープタウンに移る。彼はその後、仕事のためにヨハネに行ったという。

おしゃべりしていたら隣のおじさんがおじいさんに話しかける。英語ではない。二人の会話が終わった後におじいさんに何語を話していたのかと尋ねると「アフリカーン」だと言う。一般にオランダ系移民=ボーア人が話す言葉だとアフリカーン。アパルトヘイト時代には突然、学校の授業がアフリカーンのみで行われることになり、それが中・高校生の反アパルトヘイト運動に火をつけた。

おじいさんにアフリカーンは学校で習ったのかと尋ねると、学校でも習ったし、まわりにしゃべる人がいたからと言う。

おじいさんにいくつの言語をしゃべれるのかと聞いたら、英語とアフリカーンの2つだという。日本語も話したいが難しいと言い、さらにユダヤの言葉であるヘブライ語も話したいと言う。

なぜヘブライなのかと聞くと、ヘブライ語で聖書を読みたいかららしい。おじいさんは、聖書を知っているかと聞いてくる。中身は知らないけど知っていると答えると、聖書は神が人間に与えたものだが、神が与えたのは1つ限り。しかし、人間はそれを2つに分けた。1つはキリスト教となり、もう一つはユダヤ教となった。そのことが今、いろいろな問題を引き起こしている。それぞれの聖書に書かれていることはほとんど同じだし、そもそもは一つのものだ。神の言葉は1つなのに、人間がそれを2つに分けた。それが問題。だから自分はすべての教会は窓から捨ててしまえばいいと思っている。

そういうこともあり、自分はヘブライ語で聖書を読んでみたいと思っている。なぜなら英語版のユダヤ教の聖書もあるが、きっと翻訳者が意味を変えているだろうから。

おじいさんはだいたいこのようなことを言った。まったく同感。だから宗教は当てにならないと思うと思うのだが、それは言えない。仏教も同じように大乗仏教だの小乗仏教だのとあれこれぐちゃぐちゃになって、スリランカではそれがひとつの問題になっているというようなことを言いたかったが、単語が思いつかず。

電車は11時前に発車。もっと遅れるかと思っていたので、ちょっと安心した。キンバリー着は18時半となっていたので、あんまり遅くなると現地での移動が面倒になるなと思っていたから。

走り出したら5分もせずに止まってしまう。しかし、それほど停車することなく、また走り始める。ヨハネのまちなかを抜ければ近代的な建物は何一つ見えなくなる。窓からはレンガづくりの1軒家が立ち並ぶ住宅街や黒人やカラード、アジアンの居住区として作られたらしい地区が見える。居住区の建物は、コンクリート造りの家もあるが、トタンを張り合わせて作った家も半分くらいある。

強制移住による居住地の隔離政策は、そこが暮らしの場になるだけに誰にでも見える形で残り、かつ容易にはなくならない。

1時間近く走るとあたり一面が平原になる。枯れて白くなった草地にポツポツと木が生えているだけ。右も左も地平線。起伏もほとんどない。

ときどきマインダンプ(鉱石を採掘するときに掘り出した土が山のようになっているところ)が現れる。

ぼくは眠くなり、うつらうつらと居眠り。

ずっとそんな調子で変わり映えのしない景色が最後まで続いた。

夕方18時前に、日が暮れる。キンバリーの宿は予約していないから歩いて探さないといけないのだが、暗くなっていく外を見ながらやはり予約をしておけば良かったなどと思う。

18時前、進行方向右手にオレンジ色の明かりがたくさん見える。おじいさんはあれがキンバリーだと言う。電車の速度が遅くなり、19時頃キンバリーの駅に到着。おじいさんによい旅をと言われ、握手をして別れる。

キンバリーの駅舎は小さかった。改札を出ると右側に待合室があり30人くらいが電車待ちをしている。電車待ちをしているのは黒人ばかり。

宿に直接行かずに電話して空きを確認した方がいいなと思い、公衆電話から宿に電話する。が、悪い予感のとおり満室だと言われる。ゲゲッと思い、その宿の人に安い宿を教えてもらう。

そんでその名前を元に表でタクシーを拾おうと思ったら、駅前にはタクシーは一台もなかった。迎えを待っているらしい女性にタクシーはどこで乗れるのだと聞くと、どこに行きたいのかと聞かれる。なので、宿の名前を言うが、電話番号がわかれば電話してくれるとのことで、それがわからないから事は進展せず。ただ、電話番号案内をしている電話番号は教えてくれたから、そこで宿の電話番号を尋ねることにする。

電話はコイン式とカード式があり、コインは大きなコインを入れると戻ってこない。さっき釣り銭が出てくるだろうと思って5ランド(約80円)のコインを使ったら出てこなかった。おかげで手持ちのコインがなくなったため駅の窓口で両替してもらう。

10ランド(約140円)札を2ランドコイン5枚にしてくれ、それを持って公衆電話に行く。電話がつながり、宿の名前Great Batch hotelの番号を知りたいというと2度ほど名前を聞き返された後に番号を教えてくれる。だが、声が聞き取りづらくその番号が正しいか自信がない。それで、その番号にかけてみたら通話中のような音になる。

3度ほど電話したが、同じ調子。つながらない。しょうがないので安宿はあきらめ、ロンプラに載っている40ドルほどするやや高めのホテルに電話する。すると今度はこの番号はMTN(電話会社の名前)ではカバーしていないと女性の機械的な声が告げる。

安宿の番号を番号案内で聞き直すのにまたお金を使う気にはなれず(正確に聞き取れると思えなかった)、直接ちょっと高めの宿に行くことにする。その宿はまちの中心にあり、誰でも知っているであろうからタクシーに乗りさえすればたどり着けると判断した。

それでまた駅舎の表に出て、迎えを待っているらしいさっきとは別の女性にサヴォイホテルまでタクシーで行きたいんだがと聞いてみる。するとその女性は、近いからタクシーに載る必要はないと言う。そこの道をまっすぐ行って(straight downと言った)、ロボット(と彼女は言った)が見えたら右に曲がり、それをまっすぐ行ってるとホテルが見えると言う。

暗い中、しかも店も車の交通量も少ない中、知らない街を荷物を背負って歩くのはちと不安ではあったが、本当に危険な街では地元の人は歩くのは危険と教えてくれるから、ここは大丈夫なのだろうと思い、おばさんに教えられた道を行く。

10分ほど歩くと1軒だけ開いている店があり、その店に入ろうとした男性がいたので、その人に道を確認。そのおじさんはまっすぐ行けとだけ言う。

街灯はあるもの暗い。車のショールームは昼間と同じくらい明るく、そこを通るときだけなんだか安心する。歩いているのを見たのはこれまでのところ2人だけ。

歩いていたら紹介された安宿の方向を示す看板があった。なので、急遽サヴォイホテルはやめ、そちらに行くことにする。方向を指示する看板に従って行くが、これがなかなか見あたらない。そのうち歩き方に載っていた高級ホテルの前に着いたので、そこの警備員の人に聞いてみる。するとその人は「Just two」と言って、2つ交差点を越えれば着くと仕草混じりで言う。

2つなら近いと思い、また歩く。しかし、その2つまで来たはずなのにそれらしき宿はない。看板もさっき見たっきり立っていない。駅からここまで30分は歩いただろう。空気はひんやりしているもののすでに背中は汗をだいぶかいている。その汗は歩いてきたからだけでなく、このままでは宿が見つけられないかもしれない、あるいは1万円以上するさっきのホテルに泊まるしかないかもしれないという焦りによるものででもあった。

人が出入りしている病院があったので、そこの入り口にいた黒人の警備員に聞く。すると彼は表でたばこを吸っていた白人の職員二人を指さしあっちに聞けというようなことを聞く。たばこを吸っていた男女に宿の名前を伝え、ここらにあるはずだがと聞くが、宿の名前を繰り返しつぶやくだけで、宿自体を知らないようだった。

男性の方が、来た道を戻ってどっかを曲がるとゲストハウスがあるからそこに行けばというようなことを言うが、ぼくには彼の英語が半分程度しかわからない。列車で一緒だったおじいさんとはだいぶ違い、別の言葉かと思うくらい訛がある。

なので、これは何度聞き返しても聞き取れないと思い、さっき看板があってこっちだと示したと言って、教えてくれたことは無視してとりあえず歩いてみる。するとホテルから10mほど行ったところに表がライトアップされた家があった。そこだけずいぶん明るく、看板を見るとB&B(Bed&Breskfast)とある。きれいな建物だったが、1階立てのこじんまりしたものだったのでここならB&Bだし安いだろうと思い、玄関まで行く。

なんだかんだで宿が見つかって良かったと思いながら玄関のブザーを押す。玄関のドアの上部のガラスから光が漏れているから中に人がいるはずなのだが、これが何度ブザーを鳴らしても中から人の気配がしない。ブザーが壊れているのかと思い、音が鳴っているかじっと耳をそばだてて聞いてみると、確かにブザーの音はしている。5分ほどブザーを鳴らしながら待ったが、誰も出てこない。夜の一定の時刻を過ぎるとブザーを鳴らされても対応しないという宿はけっこうあるので、その類かと思うがまだ時刻は20時前。

しょうがないので、そこは諦める。またさっきの宿探しを始める。近くの路上にちょうど来客を見送っている家族がいたので、そこのパパに聞いてみるが知らないと言われる。

大きな通り沿いには営業しているパブがあって、そのパブに来る客の車を警備しているおじさんが歩道にいた。なので、そのおじさんに行きたい宿の名前を伝える。が、やはり知らないよう。が、そこへ一人男性が歩いてくる。おじさんはその男性に宿の名前を言い、場所を聞く。やりとりは英語ではなくアフリカーンだから何をしゃべっているかはわからなかったが、その男性はすらすらと答えているから場所を知っているようだった。

おじさんがその男性と一緒に行けというので、彼と一緒に歩く。なぜか彼はそこそこ広い歩道があるのに、車道の端を堂々と歩く。何も話しかけてはこない。なので無言で彼の横に並んで歩く。

そして、そのパブから100mほど行った先の信号機を左に行ったところに目指していたGreat Batch Guest Houseはあった。煌々と看板が光っており、そこにその名前が書かれいて、ひげのおじさんの古い白黒写真も載っている。どうもGreat Batchというのは、そのおじさんの名前らしい。宿は発見したものの気になるのが、看板に星が3つあったこと。これは10米ドルや20米ドルじゃすまいなと思いつつ、しかしまた宿探しをする気にはなれないので、とりあえず表のブザーを鳴らす。10秒ほどして男性の声が下ので、部屋があるかを聞くとあると言う。

男性は中の建物から出てきて、リモコンで2mほどの高さの格子状の門を開ける。30代前半くらいの白人男性で身長は190cmほどある。彼はにこっとして「You are looking for single room?」と聞いてくる。そのときぼくはこの宿にドミがあることを知らず、西アフリカのノリ(西アフリカではドミはほとんどなく、安いのはシングルルームだった)で、「Yes」と答える。

建物は洋風の木造建築で、入り口のドアを開けると壁には100年くらい前のこのまちの白黒写真が額縁に入れられ飾られてあった。白い壁の廊下は香水の香りがする。

部屋に案内され、入るとこれまた驚く。大きめのベッドが二つあり、落ち着いた茶色の布団はつやつやとテカっている。そのベッドの上にはこれまた茶色のバスタオルと小瓶に入ったシャンプーとリンス、小型の石鹸があった。また、壁沿いの棚には電気ポットと水の入った1リットルほどの瓶、ティーカップ、瓶に入った紅茶のティーバッグ、ネスカフェの棒状のコーヒー粉、砂糖などもあった。あと小型冷蔵庫も空り、その中にはきちんとペットボトルや瓶の飲み物が入っていた。この時点で5000円はするなと悟る。

部屋に荷物を置くと風呂やその他宿内を案内してくれる。部屋の向かいに風呂があり、そこもまた驚く。9畳ほどの広さがあり、左奥にはガラスドアに仕切られたシャワールーム、右の壁沿いには180cmはある広い湯船、あと水洗トイレがあり、脚拭きようのタオルや香水のような小瓶などがおかれ、自分には縁遠い世界の雰囲気を醸し出している。

部屋の隣はテレビルームで大型テレビと革張りのソファ、木製の本棚があり、その隣はバーになっていて、ビリヤードの台と小さなバーカウンター、それからインターネットができるパソコンが1台あった。また、台所や食事をする部屋も案内されるが、どこも広い(9畳以上はある)。食堂なんかはどこかのちょっとしたレストランかと思えるくらいきれい。

あまりの豪華さ(と言ってもきらびやかと言うわけではなく、落ち着いたヨーロッパふうの豪華さ)に、ちょっと後悔しつつ、疎外感を感じつつ、まぁ、ここはダイアモンドのまちだし、記念にいいかと自分を納得させる。

料金は一泊350ランド(約4500円)。大幅な予算オーバー(予算は80~100ランド)。しかし、日本ではもちろんこんな値段で泊まれるところではない。日本でなら15000円は堅いだろう。というふうな計算を用いるとぼくの予算はあっと言う間になくなるのだが、こういうときに自分を納得させる論理としては使える。というか、そういうふうに納得するしかない。

一通り宿の施設を案内された後、ぼくはネットをする。てっきりネットはタダだろうと思っていたのだが、翌日料金を請求される。1時間20ランド(約250円)は、南アフリカではそこそこだが西アフリカと比べれば2.5~5倍の値段。せっかくなので、写真のデータのバックアップとネットへのアップロードもしようと思ったが、アップロードはバージョンが古いようでできず。スピードはADSLなどと変わらないくらい速い。日本語も読める。

ネットで宿のホームページを見て料金を見るとドミトリーがあることを発見。88ランド(約1200円)とある。本来ならこっちに泊まるはずなのだが、今更部屋を変えるのもなんだかなと思い、動かず。

しばらくネットをやって部屋に戻る。どうもぼく以外には客がいないようで、他の部屋はとても静か。部屋に戻ってベッドとベッドの間にある棚(ではないんだけど、なんて呼ぶのかわからないので便宜上棚と言うことにする)にあった数冊の雑誌をパラパラ見る。その中にファイルが一冊あったので、それを見るとこの部屋の名前になっている人に関する資料だった。長ったらしい名前のこの人は、建築家でなんだかんだの建物を設計したとかと書かれてある。英語なのであまり読む気になれず。それくらいしかわからなかったが、どうもこの宿はGreat Batchというこの地の建築家の家を改装したもので、壁に掛けられている白黒の写真は彼が設計した当地にある建物の数々で、各部屋の名前は書れと同じようにこの地で活躍した建築家から取られているらしいことがわかる。

テレビも部屋にはあったが、さっきネットを見たらオリンピックは終わったとあったので、特に見る気にもなれず、ふかふかのベッドでさっさと寝るのであった。

Fin

[diary]ゴールドリーフシティ、アパルトヘイトミュージアム

ゴールドリーフシティ、アパルトヘイトミュージアム

08/08/23(土) 曇り、晴れ
[Johannesburg:South Africa]

・両替できず
・金鉱山後のテーマパーク
・アパルトヘイトミュージアム

7時頃目覚める。昨晩は毛布等をかぶって寝たので寒くなかった。

昨日作ったスープを火にかけ、朝飯準備し、8時頃朝飯。

9時過ぎに昨日できなかった米ドルへの両替をしようとショッピングモールの両替屋に行く。ぼくが行ったショッピングモールには2軒の両替屋と1軒の銀行があるので、そこで両替をしようと思ったら・・・

1軒目の両替屋で米ドルを買いたいというと、パスポートと居住地の証明書(Proof of Residence)、航空券を見せろという。住んでいるところの証明書はないから他の2つを見せたら、ここでは両替できないと言う。両替したいなら空港へ行けとのこと。

店を変えてもう一つの両替屋に行くと、ここではパスポートのコピーをまず見せろと言われ、さらにここにはいつ来たかと聞かれる。初めて来たのでそう伝えるが、他の日本人と勘違いしているようで、なんか納得していない。両替する金額がでかいこともあってか、両替はできるが手元のランドを入手したときの証明書(ATMのレシートなど)を見せてもらわないとできないと言う。あいにくATMのレシートは宿に置いてきているし、いちいちプリントアウトしてもいない。そういうわけで、ここでも両替できず。

ここの両替屋の人にどこで両替できるかと聞くと、銀行でトライしてみたらと言う。なので、銀行に行き、両替と看板が出ている窓口に行き、米ドルを買いたいと言うと、コンサルタントに相談してくれと、奥の個室のようなところに案内される。土曜ということでか、コンサルタントは2人しかおらず、二人とも先客の対応中。20分ほど待ってやっと自分の順番になる。対応してくれたのは、台湾系の人。ここでもパスポートを見せろと言われたので、見せると知っている日本語を交ぜて説明してくれる。結論は、ここでも両替できないとのことで、理由は、外国人にドルを売るためには政府の許可を得ないといけないのだが、その許可をこの銀行は得ていないとのことだった。どこで両替できるか聞くとやはり空港だと言う。

結局、目的は果たせず、徒労感が漂う。こんなに南アフリカでの両替(ランドに両替するのはまだ楽なよう)が面倒だとは思っていなかった。

宿に戻り、10時過ぎにゴールドリーフシティまで送ってもらう。ゴールドリーフシティは金鉱山の跡地に作られたテーマパークで金鉱に入るツアーもあるというので行くことにしたところ。

※Gold Reef City
http://www.goldreefcity.co.za/

金やダイアモンドは南アフリカの歴史とは切り離せないし、アパルトヘイトにつながる背景ともなっている。たとえばヨハネスで言えば、文字通りの一攫千金を狙って南アフリカ中または世界各地から人がヨハネスに集まったことで、ヨハネスは急速に都市化し、人口増加が社会問題となり、そうした中で白人は黒人が白人よりも優勢になることをおそれ、まちから黒人を郊外の地域に強制移住させた。その移住地がこの間行ったソウェトなど。

こうした動機のほかに、ボリビアのポトシでもすず鉱山に入ってみて驚いたことがいろいろあったし、金の精製現場が見られるなんて話もどこかで読んだので、それも関心があった。

宿からゴールドリーフシティは車で30分ほど。宿からの送迎はもちろん有料で片道150ランド(約2300円)。高い! 公共交通機関はあることはあるが、宿からだとまちの中心部などで乗り換え、乗り換えしないと行けないよう。

ゴールドリーフシティは金鉱山に関するテーマパークの他に観覧車やジェットコースターなどいろんなアトラクションも兼ね備えた遊園地でもあった。土曜ということで10時半の開園時間直後に行ったが、すでに入り口には数十人が並んでいた。子ども連れの家族、高校生くらい子たちのグループが多い。白人から黒人から、アラビア系からインド系までいろんな人たちが遊びに来ている。ただ中国人の家族などは見ない。

金鉱に入るツアーは時間が決まっており、ツアーでないと中に入れないようになっている。ツアーは入場料込みで170ランド(約2500円)。高いねぇ。11時からのツアーに参加する。

最初に映画館で古い映像などを使ってゴールドリーフシティの歴史を紹介するビデオを見て、それから金鉱に入る。金を掘るときに使っていたらしい巨大な機械などが展示されているところでヘルメットをもらい、実際に作業用に使われていたエレベーターを使って地下へ。

ここの鉱山は最深部は約3500mもあるらしいが、ツアーでは安全な地下300mにある坑道を回る。女性のガイドがあれこれと坑道を歩きながら、観光ポイントで説明する。例えば、アルフレッドノーベルの名前が入ったダイナマイトの箱などが展示されているところでは、ダイナマイトをどう使うかといったことや坑道内の救急処置コーナーの役割、水を排出する機械の説明、崩壊した坑道(実際に崩れたままになっている)のの説明等々。英語なのでほとんど言葉が頭に残らない。が、ポトシと比べるとこちらの方がずっと近代的のように感じた。

その後、当時の家族が住んでいた家を復元しているところに行き、家内を見学。家具等は当時のものらしい。当たり前だが、いかにもヨーロッパ的なレトロ感があり、また家具類がえらく多いことからかなりの金持ちの家らしいことが感じられる。

最後に金の精製の実演を見る。ぼくはてっきり本物の精製過程が見られると思っていたのだが、見ることができたのは金を鋳型に入れるパフォーマンスだけ。二人の男性のスタッフが、釜の中から溶岩のようにどろどろになって真っ赤にたぎっている金を取り出し、それを金の延べ棒の鋳型にそそぎ込み、金らしく見えるまでしばらく冷やしておしまい。金があんなになるのかというのは驚きではあったが、期待はずれだった。完全に冷えている別の金の延べ棒は、触ることができて客が次々と手に持ったりしていた。

その後、硬貨の製造過程を紹介した銀行の博物館に行く。なぜか中国や日本の古いお金も展示されていた。また、ここでは金を売っていた。

あとは見るべき物はなし。いろんなアトラクションがあるだけなので、園を出る。ツアーに参加しただけだったが、2時間ちょっと園にいた。

その後、駐車場を挟んで向かいにあるアパルトヘイトミュージアムに行く。宿の人にここを見て回るのは3時間くらいかかると言われたのだが、確かにその通りだった。

展示はヨハネスの歴史からアパルトヘイトが生まれ、それに対する反対運動がおき、廃止されるまでを丹念に追っている。言葉は英語オンリー。実物(銃や装甲車、アパルトヘイト時代に黒人に外出時の携帯が義務づけられていたパス、ポスターなどなど)の展示から当時の映像や写真も多用されているので、当時の雰囲気がけっこうわかる。

※apartheidmuseum
http://www.apartheidmuseum.org/

アパルトヘイトに関する常設展のほかに、今は特別展としてアパルトヘイト廃止運動で大きな役割を果たしたスティーブ・ビコ(Steve Biko)展もやっていた。ビコが死んでから(殺されてからと言った方が妥当だろう)30周年ということで、それを記念しての展示らしい。その他にHome Afairsというタイトルで多様な家族のあり方(ゲイ、レズビアンのカップルを含む)を紹介する展示もあり。また、受付横にはアパルトヘイトの歴史をアニメで簡単にまとめた子ども向けの無料の冊子もあり。

これで入場料30ランド(約450円)は安い。これと比べるとゴールドリーフシティはカネを取りすぎだ。

ヨハネの歴史の展示から見る。壁紙が当時の写真を引き延ばしたものになっており、遠目から見ると当時のヨハネはほんとにタダの平原(草もたいして生えていない)で、そこに最初に入植してきた人(オランダ人やイギリス人など)はテントを張って暮らしていたことがわかる。

その壁には、ヨハネの発展の歴史の解説と、ヨハネに移住してきた一般の人たちの簡単な個人史が紹介されている。その中に中国人の人がおり、その人の部分を読むと顔写真が出ている人のおじいさんだかお父さんだかが中国から南アフリカにやってきたらしい。目的は金で一儲けすることだったらしいが、南アフリカに来てみると中国人は金鉱山では働いてはいけないという差別的な法律があり、そのため金の夢は諦め、他で仕事を見つける他なかったという。

その他、インド系の人の紹介もあり。

展示を見ているとヨハネは本当に金があったからこそできたまちだったということがわかる。

アパルトヘイト時代の展示については、写真や映像も豊富。有色人種(黒人、カラード、アジアン)を隔離するために書かれた住居地図やそれを正当化した法律などについて細かな説明があるが、とても全部は読み切れない。

映像では子どもたち(中学生くらい)や若者などを中心にデモ(英語ではmarchと表示されていた)をしている様子やそれに対して警察や軍が発砲し、捕まえた人を棒でさんざん叩いたりする様子を映したものも流れている。驚いたのは反対運動をしていた10歳前後の子どもまで警察は自宅まで行っていわゆる検挙し、強制的に連れていったことがあったということ。これも映像で流れていた。

それから目をひいたのが、そうした反対運動をする黒人を黒人の警官がさんざん殴り付けている場面。マンデラが刑務所に入っているときにその見張り役だった人が黒人で、その人はマンデラと接する中で、だんだんと白人政府のおかしさを理解するようになったという話をどこかで読んだが、こうした場面を見ると問題の複雑さを感じる。

また、マンデラと同じ黒人居住区で生まれ育ち、ノーベル賞を受賞したツツ大司教(最新のReader's Dugestの表紙を飾っていた)がお祈りをしている場面の映像も印象的。大ざっぱに言っていたことを訳(日本語訳と要約)すると、次のようなことを言っていた。”神よ、私たちは信じている。今、私たちが自由の道に向かって歩いていることを。しかし、なぜこんなにも多くの犠牲が必要なのか。”

アパルトヘイトの廃止に諸外国からの圧力があったことも展示ではふれられており、そうした中に日本もあるか探してみたが、ざっと見た限りでは見あたらず。誰かが書いていた話では、中国人などが差別されていたにもかかわらず、日本人はその経済力を背景に名誉白人扱いとなり、当時の南アフリカ政府と貿易をしていた富士通なんかは軍事技術の向上に一役かったとか。南アフリカに住む多くの人々にとってだけでなく、その他のアフリカ諸国にとっても黒人を差別する南アフリカ政府は敵でしかなかったのに、その南アフリカ政府を太らせるのに日本企業(その進出を止めなかった日本政府)が一役かったことは記憶しておく必要があるだろう。

結局は、国内及び国外のアパルトヘイト反対運動とヨーロッパやアメリカなどによる経済制裁・国交断絶などによって、アパルトヘイトは廃止される。が、それまでには50年ほどの年月がかかった(50年とは言うのは政府がアパルトヘイトという言葉を政治の場で正式に使った時点からのこと。アパルトヘイト的考え方はそれよりも前から存在していた)。

アパルトヘイトの経緯を見ていて思うのが、人が変わること、世代が変わることの影響の大きさ。アパルトヘイトが一気に廃止に向かったのは、政府側の変化として大統領をしていたボタが病気で倒れ、デクラークに大統領に変わったことがあった。これは冷戦の終結の過程と似ている。また、政府の圧力によって反対運動が停滞したときにはビコら若い世代による新たな論理を掲げた運動が、その流れを変える役目を果たした。また、展示では80年代には豊かな黒人の中間層が増えていたことが、運動にも変化を与えたというようなことが書かれていた。

当時の状況からすれば絶望するのも無理はないと思えるような中から、平等と自由を求めて動いた人たちはすごい。そうした人たちを動かし、支えたのは何だったのか? 精神的、経済的な支えとなったのは何か?

気になるのはマンデラが釈放されてから大統領になるまでの数年間の間、白人政府とマンデラ等のグループの間でどのような交渉がなされたのかという点。後半は、英語を読むのに疲れたので見逃したのかもしれないが、これについてはあまり展示もなかったように感じる。マンデラの自伝は日本語になっているので、帰国後要チェック。

ミュージアムの売店では、マンデラの本など数10種類の本やCD、DVDなどが売られていた。日本ではあまり手に入らなそうな本を3冊購入。これでまた荷物が1kgくらい増える。

夕方17時半に宿の人に迎えに来てもらう。宿には直行せず、途中の中央バスターミナルで宿泊客をピックアップするというので、ぼくもつきあうことに。バスターミナルはまちの中心部にあり、まわりは危険区域。鉄道駅も併設されていて、明日ここから電車に乗ることもあり、見ておきたかった。

バスのターミナルは屋内式になっていて、中はとてもきれい。10社ほどのバス会社がカウンターを構えており、ここからジンバブエなどにも行ける。人もそこそこ多い。ぼくは明後日の電車のチケットがほしかったので、鉄道のチケット売場に行くと、ほんの3分ほど前に終了したとのことでゲットできず。

ピックアップする客は30分後くらいにここに着くらしかったが、時間があったので宿の人と一緒に2階のバーでお茶しながら待つことに。大音量で音楽が流れ、客の9割9分が黒人。ぜんぶで客は100人以上いそうなのに、白人は2人ほどしかない。でも、雰囲気は特に悪くはない。表には警官もいるし。壁の大型スクリーンではイギリスのサッカー、プレミアリーグの試合を流していた。なので、ぼくは紅茶を飲みつつ、それを眺める。

当初の予定の時刻になっても客は現れず、結局、1時間ちょっとこのバーで待つことになった。

ヨハネスの夜景を左手に見ながら宿に戻る。中心部はほんとに人気がなかった。

宿に戻って、昨日までに買っていた野菜などで夕食づくり。今日もスープ。

食事後は荷造りと明日行く先の地図の読み込み、日記書きなど。夜は半袖では寒いほど冷える。

今日はぼくの寝ているドミトリーには3ヶ月ほど滞在しているという60代後半くらいのおじさんとぼくだけ。

FIn

[diary]イーストゲイトのショッピング街、チャイナタウン

イーストゲイトのショッピング街、チャイナタウン

08/08/22(金) 曇り、晴れ
[Johannesburg:South Africa]

・郵便局
・中国語のインターネット屋
・屋内型チャイナタウン
・ワールドマーケット
・両替

さすがに南アフリカの朝は冷えた。夜中にも寒さで数度目が覚める。気温は10℃前後くらいだろうか。

南アフリカまでは来たものの、まだこれからのルートが決まっていない。宿の情報ノートとガイドブックを見ながら、さて南アフリカをどう回ろうかとしばしのんびり考える。

10時頃、宿を出て近くの郵便局を目指す。歩いていたら道ばたで駐車の誘導のようなことをしていた男が寄ってきて、たばこをくれと突然言ってくる。たばこは吸わないと言うと、じゃあ100ランド(140円くらい)くれと言い出す。なんなんだいきなり。断ってさっさと歩く。

郵便局の入り口はショッピングセンターにある両替屋と同じような仕組みだった。中に入るには2つのドアを続けて通らないといけない。つまり、一つのドアを抜けるとまた目の前にドアがあるいう仕組みになっていて、しかも2つ目のドアは1つ目ののドアが完全に閉まらないと開かないという仕組みになっている。簡単に言えば、片方のドアが完全に閉まっていないともう片方のドアが開かないという仕掛け。

ドアとドアの間は大人が3人も立てば窮屈というくらいのスペースしかない。だから基本的には1人ずつしか入れない。ぼくはそれを知らず、先に入ったおばさんが2つ目のドアを開けて入るのを1つ目のドアを開けて待っていたところ、そのおばさんにそこを閉めてと注意されてしまった。これも安全上の対策の1つなのだろうが、こんなことが普通になっているところに、この地の治安の悪さが現れている。

この周辺は安全だと言われているものの歩道を歩いている人は少ない。辺りを見回しても5人程度。ほとんどの人が車を使っている。

それから近くにあるという中国人街を目指す。途中、ショッピングセンターを見学しながら2つ経由。改めてゆっくり回ってみても、やはり日本や中南米で見たショッピングセンターと遜色ない。ものの値段も日本と同じ程度かそれ以上。安いと思えるものはないなぁ。

ヨハネスの中心部に続く幹線道路を横切り、マクドナルドの看板などがある方面へ。あたりにあるのはショッピングセンターの他はホンダや他の自動車メーカーのショールーム、レストランが入った小型の複合ビルと道路だけ。整然としていて味気ない。

下り道を歩いていくと右手にアフリカの民芸品を一同に集めて売っているというワールドマーケットがあり、左手に体育館のような四角い大きな建物が見える。この建物には漢字の看板が踊っている。

ここに日本語のできるネット屋があったので、そこに行く。オーナーはもちろん中国人。英語はあまりわからないよう。パソコンは中国語表示が基本になっている。思えば中国語表示が基本になっているネット屋は初めて。スピードは期待したほどは早くなかった。

店内にはヨーロッパ系の女性客が二人。懐かしい音だなと思って聞き耳を立てると、彼女らはスペイン語を話していた。自分の持ってきたパソコンをつなごうとしているのだが、うまく接続できないようで、盛んに店主に向かって「チーノ」を連発し「プロブレム」と訴える。が、店主は「ノープロブレム」と言ってほとんど相手にしていない。なので、また「チーノ」が繰り返される。ここでもなぜスペイン語にはアミーゴという呼びかけの言葉があるのに、それを使わずにわざわざチーノというのか、と疑問に思う。

ネットで用事を済ませた後、隣の中国食料品店による。中国から輸入されたもろもろの食料品が並んでおり、なかにはポッキーの中国版もある。アイスの冷蔵庫をのぞくと北京オリンピックを記念した包装袋に入ったアイスがあったので、記念に買う。

レジにそのアイスを持っていくと、レジの中国人のおばさんは英語でこのアイスはベリーグッドだと言う。

それから本体である四角い建物に入る。この平屋の建物は中国系の資本が共同で作った中国製商品だけを扱っているショッピングモールのようで、別の入り口の脇には店内の見取り図とともにそれらしき説明を書いた板があった。

中国人の商店街らしく中は四角四面のつくりになっている。小さな個店が集まってできているショッピングモール(日本的にいうとミニ商店街に近い)で、壁で区切られた各店は小さいと3畳程度、広くても10畳くらいという大きさ。服などの衣料品から電化製品、アクセサリー、工芸品などいろんなものが入っている。店の数は200くらいだったか?

その中に食堂もあったので、そこで昼食を取ることにする。3つ並んでいて、それぞれ黒人の若い女の子が呼び込み役をしているようだったが、おしゃべりしていてぼくには声がかからず。

適当に良さそうな店で注文。店のおばさんが最近の新メニューと言ってカレー麺のようなものを薦めてくるのでそれを食べる。味は可もなく不可もなく、ちょっと物足りないかなという感じ。3店合わせても座席は50もなかったが、昼時になるとそれなりに客が入ってくる。白人系の人も多い。ぎこちなく箸を使って食べている。

その後、中国人街というのがわからなかったためワールドマーケットに行ってみる。土産物屋が集まっているところだったのだが、これがなんと入場料を取る仕組みになっていた。一瞬ためらうが100円程度だったので、記念に入る。

中には彫刻品やアクセサリー、服などいかにもアフリカという品々が並んでいる。一目見た印象ではどこも同じような品ぞろえ。歩いていると声がかかるが、買う気はまったくないので素通り。中にはインド系の人がやっている店もあり、音楽テープやビデオを売っていた。なんだかよくわからないところだ。

それから近くに野菜専門の店があったのでそこで野菜をいくつか購入。かぼちゃがでかい。直径50cmほどあり、重さは10kgくらいあるんじゃないかというカボチャが山積みにされている。店内の野菜は基本的に量り売り。品ぞろえが豊富で数10種類の野菜が売られていた。

その隣は肉屋。その隣の隣はポルトガル系のバーがあった。

宿に戻る途中、ショッピングセンターの両替屋に立ち寄る。ランドを大量に引き出したので、それをドルに替えようと思ったのだが、1軒目ではATMでおろしたときの領収書が必要と言われてできず(宿に置いたままだった)、別の店では外国人にはドルは売れないと言われ、結局両替できず。

宿に戻ってからは一休みした後、料理。夜は今日、新たに到着した日本人旅行者らとおしゃべり。マダガスカルのビザが空港で90米ドルしたという話に驚く。

Fin

[diary]ジョハネスバーグに到着、ソウェトツアー

ジョハネスバーグに到着、ソウェトツアー

08/08/21(木) 曇り
[Johannesburg:South Africa]

・ラクラク入国
・充実した空港の本屋
・広い道路
・ソウェトツアー

ガーナのアクラからジョハネスバーグに向かう飛行機の中。
ようやく眠りについたかと思ったところでバタバタする音に起こされる。着陸態勢に入った模様。

南アフリカ上空はすでに明るくなっていて、窓から外をのぞくときれいに地上が見える。他のアフリカの国と違う点は、おそらく空港の周辺に倉庫らしき建物がたくさんあることだろう。それだけでもどれだけ物資の行き来が盛んな国かがわかる。道路もきれいに整備されている。

アクラ時間の5時半に飛行機は、ジョハネスバーグの空港に着陸。南アフリカとガーナは時差が2時間あるので、時計を2時間早める。

機体を降りるとスゥッーとひんやりした空気に包まれる。夏の西アフリカから冬の南アフリカへ。気温は18度程度だろうか。

南アフリカに入るにあたって気になっていたのが、往復チケットの提示を求められるか否かということ。すでに往復チケットを買っているから、聞かれても別段問題はないのだが、少し気になっていた。

はたしてイミグレでは簡単な質問をされただけで、往復チケットの提示は求められず。全体でも5分もかからずにパスできた。

荷物を受け取りにベルトコンベアがまわる部屋に行く。辺りを見回してガーナの飛行場と比べ、変化したのが人。白人が多い。

リュックを受け取り、到着ゲートを出る。出たところに出発ロビーの階にあがるエレベーターがあったので、それに乗って出発ロビーにあがる。目的はお金をおろすこと。到着ゲートを出た右の方にもATMはあったもののまわりから丸見えなので、あまり安全なように思えなかった。そこで出発ロビーに行き、そこの一角にあったATMでカネをおろす。

それから宿に電話をするために電話屋を探す。到着ロビーの端に電話屋と公衆電話があった。公衆電話はコイン式のため、手持ちの札では使えず。電話屋で電話した方が、コインの減りとかも気にしなくて済むので、そちらで電話をする。

ヨハネスにはバックパッカー向けの宿がいくつかあって、だいたいどこも電話をすれば空港まで迎えに来てくれるような仕組みになっている。その理由はもちろん治安。ヨハネスの街では公共交通期間を乗り継いでまちなかまで行き、宿を探すなんて当たり前のことができない。

ぼくはEast Gate Backpacker'sという日本語の情報ノートがある宿に電話をする。英語での電話は苦手なのだが、まぁ、話は通じて迎えに来てくれることになった。しばらく電話屋周辺の空港施設を見学。けっこう充実した本屋があり、マンデラの本が数種類見えやすいところにレイアウトされている。ガーナをはじめ西アフリカでは本屋はほとんど見なかったから、これだけ充実した本棚を見るのは久しぶりだ。

電話屋の前で待っていると左手にコーヒーカップを持った細身の女性がやってきて、声をかけてくる。彼女が宿主らしい。サラという名の彼女は見た頃40代。彼女に付いて空港を出て、近くの駐車場まで行く。これが自分の車だと指さした車は、トヨタの古い型の車。おそらく80年代後半くらいのもののように思われる。

助手席に座ろうと右側のドアの前で待っていたら、逆側に回ってと言われる。車は日本と同じ右ハンドルだった。なんだか久しぶりの感覚。駐車場を出て、化片道3車線の幹線道路に入る。車は左側通行。これもなんだか懐かしい感じ。

沿道には大型のスーパーやホームセンターのような店が見える。道路はまったくきれいに整備され、走っている車も型は古くてもへこんだり、ドアがなかったり、ガラスが割れていたりすることもない。

聞くと彼女はイギリス出身で西アフリカを3ヶ月旅したりしたこともあるという。仕事でタイに暮らしたこともあり。南アフリカには10年ちょっと住んでいるとのこと。

彼女はヨハネスではどこに行くのかと聞いてくるので黒人居住区だったソウェトに行きたいと言うと、ちょうど今日、宿に泊まっている別の日本人がツアーで行くので、それに便乗してはと提案される。それならと今日、行くことを決定。

空港から20分ほどで宿があるイーストゲートという地区に入る。沿道には2m以上ある白い壁に有刺鉄線という住宅が並び、それぞれの邸宅の入り口の門の横には、セキュリティ会社のシールが貼られている。壁の向こうにちらちらと屋根が見えるが、中の建物がどういったものかは見えない。きっと豪勢な家なのだろう。

宿もがっちりとした門の中にあった。安全上なのだろう、入り口にはそこが宿だとわかるようなものは何もない。鉄のゲートを開けて、中に車ごと入る。敷地は30m×30mといったところか。かなり広い。使われていないテニスコートもある。建物はL字の平屋建て。ドミの部屋には2段ベッドが5つほどあり、その他にも個室が何部屋かあるよう。豪邸(ぼくから見れば)を宿として使っているようだった。

ちなみに宿代は1泊80ランド(約1200円)。荷物をおいて一息ついていると、サラがソウェトツアーの車が来たと伝えに来る。表に出ると通りに乗用車が一台。助手席に日本人1人。運転手兼ガイドの黒人男性が一人。

車に乗り込む。車はまずヨハネス中心街に向かう。高層ビルと古いヨーロッパ調の建物が並ぶ中心街は人通りが少なかった。まだ朝の10時だからか?それともやはり歩けないほど危険だからか? 基本的に歩いている人は黒人ばかり。白人は一人だけ。見た印象ではたいして危険そうではない。

運転手のおじさんは、この建物はどうだああだとガイドブックに載っているようなことを言う。

市街地は本当に通り抜けるだけでそのままソウェトに向かう。相変わらず幹線道路は2車線や3車線で広くきれい。市街地の東になると数百メートル向こうに小山が見える。自然にできた山ではなく、人工的に積み上げられたような山。おじさんはそうした山を指さしながら、ああいった山はどれもダイアモンドなどの鉱物を掘ったときにできた山だと解説する。

ソウェト地区の入り口らしいところ(ただの道ばただったけど)でいったん車を止め、外を眺める。中心市街からここまでの間に見えた家々は一軒家で日本の基準から言ってもそこそこの金持ちが住んでいそうな家ばかり。

ところが、そこからソウェトの中心部の方へ行くと、政府が作ったという労働者向けのアパート群が見える。車はある居住区の前で停車。ここにはこの居住区を案内するガイドがいるから、その人について見て回るといいと言う。

ガイドという青年は見たところ20歳前後。ガイドとは言ってもあれこれ説明してくれるわけではなく、その地区を一緒に歩いてくれるだけ。質問をすればもちろん答えてはくれるけど。

その地区は数百人の人が自分たちで資材を拾ってきて、自分たちで家を作って住み着いたという地区だった。幅2mほどの未舗装の道の両脇に住宅が建ち並んでいるのだが、どれも堀立て小屋レベル。壁などに使われているトタンはきれぎれ、バラバラ。なんとか隙間のないよう上手に貼られている。家の大きさは6畳からおそらく大きくても10畳程度。そこに家族で住んでいるよう。水道は何カ所かにあり、そこから水を汲んで自分の家で使うらしい。互いの敷地は有刺鉄線で仕切られていて、人によってはその敷地内に小さな畑を作っている。

歩いていると住民の人と目が合う。ハローというとにこやかにハローと返してくれる。

ガイドの青年によれば、ここに住んでいる人たちは仕事がなく、そのため収入もないため生活はかなり厳しいらしい。

20分ほどでそこをあとにする。

途中、運転手のおじさんは沿道に見えたこの地にある大学について説明した。なんでも南アフリカのいろんな問題がつまっているこの地で現場に関わりながら、そうした問題を解決していこうとする人を育成するために作られた大学らしい。

次に止まったのが教会。昼近くということでか、いわゆる炊き出しをもらいに来ている年輩者が数人教会の敷地内にいた。

この教会は反アパルトヘイト運動でとても重要な役割を担った教会だそうで、ここでは政府、つまり警察も横暴なことはできない、してはいけないというような互いの了解があった場所らしい。しかし、ここでも警官が発砲するようなことがあったらしく、そのときの弾痕が建物にはそれとわかるように残されていた。

それからまた車に乗って移動。次に行ったのは、世界で唯一ノーベル賞受賞者が2人ーその2人とはマンデラ元大統領とツツ大司教ーも出た通り。つまりマンデラとツツの生家がある通りで、ぼくとしてはマンデラハウスに行くことを楽しみにしていたのだが、これがなんと改装工事中。10月のリニューアルオープンまでまったく見学はできないとか。そういうわけで工事している脇を車で素通りしただけで終わる。

それからその通りから100mほどのところにあるヘクターピーターソン博物館(Hector Pieterson Museum)に行く。

※Hector Pieterson Museum
http://www.southafrica.info/about/history/hector-pieterson.htm

ヘクターピーターソンは、1976年のソウェト蜂起で警察からの発砲を受け、犠牲となった人の名前。当時彼はまだ12歳だった。

入場料をツアー代とは別に払い、博物館を見学。当時のビラや落書きの文句、ビデオ映像などを多用した情報量の多い博物館で、とても1時間や2時間では見切れない。例えばガラス窓にもその窓から見える風景の中のどこで何があったかという説明が付されている。

アパルトヘイトについては、概要程度しか知らなかったが、この博物館に来て初めて、10代の、日本で言えば中学生程度の子たちも半ば命がけでアパルトヘイトを撤廃させる運動をしていたことを知る。また当時の政府はそうした子どもさえも逮捕し、拘留するなどしていたとあり、そこまでひどい政府だったのかと驚く。

また、印象に残ったのが、ピーターヘクターソンの名前について。ピーターソンという苗字はそもそもの苗字ではなく、そもそもはPitsoという苗字だったらしい。しかし、アフリカネイティブのこの苗字では就業等に不利だったためヨーロッパ的なピーターソンという名前に変えたと言う。ふと在日外国人(特にコリアンや中国人ら)が日本社会で生き抜くために日本名を作り、名乗っていることを連想してしまう。その点だけで言えば、当時のアパルトヘイト下のアフリカネイティブの感覚とそうしたふうにして日本社会に生きる在日外国人の感覚は似ているのだろう。そういう意味では明文化こそしていないが、日本社会の差別的な圧力もアパルトヘイトに劣らず苛烈なものだった(である)と言えるかもしれない。

小学生や中学生、高校生たちも授業の一環で見学しに来ており、館内は盛況。ノートを片手に説明板に見入り、盛んにメモを取っている子もいる。

入り口横には売店があったので行ってみたところ、アパルトヘイトに関連した書籍や映像(DVDなど)資料がおそらく100点以上並べられていた。なかなかの量。

既に同行者と運転手は博物館を出ていたので、ぼくも1時間足らずで博物館をあとにする。

ツアーはこれでおしまいであとは宿へ。博物館代別でツアー代は約50米ドル。高いなぁ。

帰り道はすっかり寝てしまう。

宿に戻ったのは15時過ぎ。それから同宿の日本人旅行者と近くのショッピングセンターに買い出しに行く。近くにはショッピングセンター内をのぞき、食事ができるところがないので、自炊用の野菜などを買いに行く。

ここイーストゲートはショッピングセンターが集まっている地区ということで、ショッピングセンター周辺には大きな駐車場が整備されている。宿からは歩いて10分ほど。このあたりは歩いても安全らしい。

行ったのは複数あるショッピングセンターの1つだけ。3階建てで日本人の感覚からしてもなかなかでかい。中には銀行や両替屋、本屋、ネット屋、香辛料屋、高級スーパー、スポーツ用品店、電化製品店などがあり、たいていのものはここでそろう。

スーパーで夜食用の食材を探すが、品種は豊富ではあるものの値段が高い。これにもびっくりだ。自炊してもそこまで安く上げられそうにはない。

その後、センター内のネット屋に行ってみる。値段を聞くと1時間あたり400~500円。これまた驚く。当然、ネットはせず。

ショッピングセンターの近くの通りでは、路上で菓子を売っている人や交差点で新聞、果物(いちごやリンゴ)などを売っている人たちがいた。が、あまり売れている様子ではない。

明るいうちに宿に戻り、しばらくのんびりした後、調理をして夕食。ぼくは豚の肉を大量に投入したスープを作る。アクがすごかった。同宿の人は羊の肉のステーキを作る。互いにお裾分け。羊のステーキはなかなかうまかった。

夜は宿で旅話をしたりなんたりして過ごす。
シャワーはもちろんお湯が出て快適。トイレもきれい。
もう少し安ければいいんだけど、西アフリカの平均値と比べれば、圧倒的に心地よい。

Fin

2008年10月27日月曜日

[速報]サナアに戻りました

今、サナアです。
今朝、アデンを出て1日かけて戻ってきました。

報道をご覧になった方もいるかと思いますが、イエメン南東部では大雨、洪水、雷で60人を超える死者が出たようです。今朝、アデンからその南東部のまちムカッラに行こうとしていたところ、通りすがりのおじさん2人が英語で話しかけてきて、ムカッラはめちゃくちゃになっているから行かない方がいいと新聞の写真を見せながら教えてくれました。

アデンから乗ろうと思っていた乗り合いタクシーにも乗せてもらえず、バスもないとのことだったので、結局、ムカッラに行くのはやめ、サナアに戻ってきたしだい。陸路でオマーンに行くには南東部を通らないといけないのですが、橋なども寸断されているようなのでどうも当初予定していたルートでは無理のようです。なので、また飛行機に乗らざるを得ないかと。

明日はその飛行機探しですね。

では。

2008.10.26 11;03
Sana'a,Yemen

2008年10月25日土曜日

[速報]アデン(イエメン)いり

今朝、タイズを出てアラビア海に面する町アデンにきました。
乗り合いタクシーの運転手がぶっとばしてくれたおかげで2時間ちょっと、
午前中のうちにここに着きました。やはり海辺は暑いですね。

スエズ運河ができる前までは世界3大港の1つだったまちらしく
なかなか大きな町ですね。

ただ予算のこともあり、明日にはまたここを離れ、オマーンよりの
ムカッラというまちに向かいます。

ムカッラからはオマーンに国際バスが出ているらしいので、
うまく乗り継げれば、3日後くらいにはオマーンです。

では。

2008.10.25 13;40
Aden,Yemen



عرض خريطة بحجم أكبر

2008年10月23日木曜日

[速報]タイズいり(イエメン)

サナアで無事オマーンのビザと国内旅行に必要な警察からの許可証書を入手し、現在、イエメン第2の都市タイズというところにいます。ここも標高が1000m以上あるので多少涼しいです。一昨日はサナアから紅海沿岸の街ホデイダに行ったのですが、さすがに海沿いの街は暑かった。かるく40度近くあったように思います。

タイズには昨日移動してきて、今日はいちにちタイズをふらつき、明日はコーヒーモカマタリのモカに行き、明後日か明明後日には南のアデンというまちに行く予定です。

イスラムの国では旅人を大切にするという話は有名ですが(コーランに旅人を大切にせよと書いている)、イエメンがよかったのも数年前までと聞いていました。しかし、イエメンに入ってからまだ5日目ですが、すでにジュースを2杯、チャイを1杯、三角揚げを1個、そして今日はバス代をほとんど通りすがりの人に御馳走になってしまいました。コーランの教えは生きているようです。また日本人に対するイメージもいいみたいで、初めて日本人にあったという人が日本人はグッドだというほど。

ただ、まちの商店の中にはイラクのフセインの写真の切り抜きを張っている(といってもけっこう古くなっているけど)店もあり、イラクで日本が何をしているかイエメンの人が知ると、そうしたイメージも崩れるのではと思ったりも。ともかくも、今のところは日本人ということだけでよくしてもらえているようです。もちろん中にはジャッキーシャンだのなんだのとうっとおしいのはいるのですが、アフリカと比べればいないも等しいですね。

というわけで、また。

2008.10.22 17;50
Taiz,Yemen


عرض خريطة بحجم أكبر

2008年10月20日月曜日

[diary]いざ南アフリカへ

いざ南アフリカへ

08/08/20(水) 晴れ 24-30℃
[Accra:Ghana]

・日記書き
・空港で半日
・中国人との会話
・賄賂とくされ審査官

この日も夜中にオリンピックを見る。

7時頃に起きる。シャワールームで水が出るか蛇口をひねるとやっと水が出た。室内に干していた靴は、まだ完全には乾いていない。幸い昨日の天気予報ははずれて外ははれているから、廊下の壁の上に干す場所を変える。

それからシャワーを浴びる。

そんで日記書き。テレビをつけっぱなしにしていたのだが、この時間3つのうちの1つのチャンネルはCNNのニュースが流れている。ロシアのグルジア侵攻のニュースなどが流れる。ほかのチャンネルはガーナの討論番組のようなものをやっていて、学者か何かが2人ほど司会にふられるとしゃべっていた。

11時までそんなことをして、それから荷支度。すぐにチェックアウトできる状態にしてから、11時半に朝飯も兼ねた昼飯を食いに行く。店は宿の右向かいにある店。ここはいつも客が多い。例のごとく1セディ(約100円)ぶん頼む。ご飯はいっぱいだが、例のカレー汁はほんのちょっと。肉がひとかけとキャベツ、人参のマヨネーズ系ドレッシングがかかったサラダが一枚の皿に盛られる。

食べていると珍しいことに若い中国人2人が、入ってきて食事。商店以外では中国人をあまり見ないから新鮮だった。

宿に戻ってチェックアウトタイムの12時にチェックアウト。

空港行きのバスに乗るために、歩いてエンクルマサークル(エンクルマ交差点)まで行く。

途中、交差点でチョコ菓子(キットカットのようなもの)を売っている女性から菓子を買う。1袋(1本)0.1セディ。日の当たる中売り歩いているから当たり前なんだけど、あとで食べてみるとチョコレートはけっこう溶けてどろどろになっていた。原産地を見るとなんとスリランカだった。

宿から歩いていくと交差点の右側が広場のようになっていて、そこを横切る方がバス乗り場が近い。よって、横切って歩いていたら、5歳くらいの中東系の男の子が食べる仕草をして何かくれとせがんでくる。ちょうどいらなくなったレモン味のあめ玉1袋があったので、それをあげる。その子はそれを持ってぼくから離れていったのだが、どこに行くのか見ていると母親らしい女性たちが3~4人で木の下に座り込んでいる場所に向かっていた。

そこへやはり同じくらいの年の別の男の子2人が寄ってきて、腕をつかみ、何かくれとせがむ。ぼくはさっきの子にあげた飴をもらってと仕草で伝えようとするが、うまくは伝わらず。しかし、さっきの子が歩いていった先にいた母親らしい女性が何やら言い、その言葉を聞いて彼らはぼくから離れる。ぼくがあげた飴玉の袋を頭上にあげて何か言っているから、想像するに、これをもらったからこっちに戻っておいで、とでも言ったのだろう。

バス乗り場に行くと3台のバスが止まっていて、チケットを売っている人に聞いて空港行きのバスに乗り込む。バス代自体は0.2セディ(約20円)だが、荷物代として0.4セディとられる。しかし、タクシーに乗れば5セディ(約500円)はかかる距離だから、それを考えると10分の1で済んでいるので気分がいい。

このバスのチケットを売っている女性はお腹の大きな妊婦さん。バスの入り口には「ピュアウォーター」と言ってビニール袋(約200ml程度)入りの水を売り歩いている10歳くらいの少年が1人、立ったままずっと中をのぞいている。

20分ほどバス中で待ったあと、発車。20分ほどで空港の最寄りのバス停につく。バスから降り、空港方面に向けて歩く。ただ、その前に飛行機が出る夜までの腹の足しにするために交差点で物を売っている人からバナナチップを買う。一袋0.5セディ(約50円)を2袋。たぶんそれぞれ40g程度。

それから並木道の歩道でパパイヤを売ってる女性から小型パパイヤを1個買い、皮もむいてもらう。さらに空港よりの歩道でドーナツのようなものを売っている女性から0.5セディ(約50円)のドーナツを2個。

そんなこんなで15分ほど歩いて空港へ。空港の入り口付近には社会科見学らしい小学生から中学生くらいまでの子どもたちが50人くらいいて、その中のガキンチョがなんとかとわからない言葉で、呼びかけてくる。見ると手を振っているのでにこやかにこちらも手を振る。

この間空港に来たときは入り口で止められたが、リュックを持っているだけでノーチェックで空港内に入れる。

ガーナの国際空港ということでけっこう大きいのかと思っていたが、たいしたことはなかった。最近改装したのか屋内はきれい。インターネットカフェが2階にあったが1時間3セディ(約300円)と高い。市内の6倍くらい。

時間は13時すぎ。飛行機の出発予定時刻は23時。チェックインの時間は6時半ごろからなので、ずいぶん時間はある。

ベンチを探し、ベンチで本を読んだり、備え付けられているテレビでやっていたオリンピックを見たりしながら待つ。

『Fate of Africa』というロサンゼルスで買った本を辞書をひきひき読む。日本語で読んだ本の知識があるからある程度まではわかるが、細かなところはよくわからず。それでも、ブエノスで見たドキュメンタリー(キューバのアンゴラ支援に関するもの)の理解を深くする文章もあり、新しく知ることも多かった。が、やはり疲れる。日本語の本の20倍は疲れるなぁ。

うとうとと昼寝をしているうちに18時をすぎる。各フライトの状況を知らせる電光掲示板というかテレビにはほとんどのフライトがチェックインまたはボーディングとなっていた。しかし、ぼくが乗るフライトはまだ何も動きがない。

隣の席が開いたところへ中国人のおじさんが座る。40代くらいっぽい。英語でコリアンかと聞かれたのをきっかけにちょっとだけ英語で話す。そのおじさんは仕事でガーナに北らしくこれからケニアのナイロビに戻り、そこで用事を済ませたら中国に帰ると言う。何時のフライトかと聞くと、午前10時と言っていたのに、まだいつ出るかわからない状態だという。なかなか大変だ。

オリンピックの話題をふると、中国は前回大会を上回るメダルを獲得するだろうとのこと。

19時になってようやくチェックインのサインが出たので、チェックインカウンターに行く。電光掲示板で指定されていたチェックインカウンターに行ったのだが、カウンターの上の電光掲示板にはドイツの航空会社の名前が書かれてある。列を誘導している人にチケットを見せたら、ここに並べと言うのだが、South African Airwaysと電光掲示板に出ていないので不思議に思う。しかし、ここはアフリカ。看板に偽りありの国だ。間違ってドイツに荷物を送られないよな、と疑念を抱えつつ、チェックインカウンターに行くとちゃんとSouth African Airwaysのボーディングパス(チケット)をくれた。

なおリュックの重さは25kg。

2階のパスポートコントロールに移動する。出国カードとパスポートを審査官に渡すと、なにやら文句を付けられる。何かと思ったら超過滞在だという言う。2週間のビザを持っているというのだが、入国スタンプのところに書かれた7という数字を指さし、ぼくの滞在が7日間を越えているという。7という数字は入国審査時に、アクラにどれくらいいるのかと聞かれて1週間くらいと答えたところ審査官に書き込まれた数字。しかし、7日間有効などとは書かれていないし、そもそもその数字を書いたときにそれが何を意味するのか説明はなかった。ビザは15日間あるのに、なんでそんなことを書くのかと不思議に思ったのだが、適当に流したところ、こんな始末。

罰金で2セディ払え言うのだが、セディはすべて両替して手持ちがない。だいたい国際空港のくせに出国審査後のスペースには免税店はあっても両替屋ないというアホなつくりになっているから出国審査前に両替しないと、両替できなくなる。南アフリカでガーナのカネを両替はできないし。

そんで何を持っているかというのでドルだと言うと、仕草でそれを出せと言う。なので2セディ相当である2米ドルを出すと突き返される。2セディじゃないのかと聞くと、首を振る。

まぁ、2セディは罰金にしては軽いから20セディかと思い、20セディ渡すとそれでも足りないと言う。いくらだと言うと40米ドルと言うので、アホかと思いつつそんなの持っていないと言うと、手に持っていた1ドル紙幣を指さし、それを渡せと仕草をする。さっき35セディを両替して30米ドルになり、それをポケットに突っ込んでいて、丸々見られたのがまずかった。それで1ドル札を10枚渡すと、出国スタンプを押し、パスポートを返してくれた。

最初に2セディと聞こえたのは間違いないはずなのだが、尋ねる度に金額が上がるし、まわりの人に聞いてもグルになってかさ上げされるかもしれないので、言われるままにカネを渡したが、どう考えても高すぎる。そもそも、ビザよりも入国審査官が手書きで書いた数字の方が強いってのがおかしい。それだったら入国審査官は日数をえさをいくらでも外国人にたかることができる。入国時にはたかられなかったけども、そういう可能性のある制度はやめるべきだろう。こんなの初めて。

最後の最後でこんなことがあり、あまりよくない西アフリカの印象がさらに悪くなる。まぁ、こちらの常識で物事を考えずに徹底してあらゆることを疑い確認するようにすれば、こういうことは防げるのだろうが。

飛行機の方は22時頃から搭乗が始まり、予定の時刻には離陸する。

南アフリカ航空はすばらしく、機内はとてもきれいで、加えて全席に靴下と目隠し(寝るときに付けるヤツ)、歯ブラシが入ったポシェットが配布されている。航空会社からのプレゼントらしい。

離陸して30分ほどすると飲み物が運ばれてくる。これまた太っ腹なことに200mlほどのペットボトルの水は漏れなく全員に配られ、他に何を飲むかと聞かれ、自分の乗みたい物を注文するスタイル。こんなのも初めて。トマトジュースやフルーツジュースとともにワインもあったので、ぼくは白ワインをもらう。南アフリカと言えばワインの産地。おそらく現地では買うことがないので、ここで味見をしておこうというわけだ。

ワインは200mlほどの小さなボトル。驚いたことにボトルは瓶。

その後、ちょっとして食事が運ばれてくる。メインの肉料理(ぼくはよく聞き取れず適当に頼んだらチキンライスみたいなものだった。肉はチキンではなく、ラムかなにか)にパンを好きなだけ、あと生野菜のサラダとあまりおいしくないチョコレートケーキとチーズとクラッカー。

腹が膨れたところで時間も遅いので寝ようかと思うが、ワインのせいで脈があがり、なかなか眠れない。そのうち船酔いに近いような感じにもなり、あらためて酒は飲むもんじゃないと反省。ちなみに白ワインはちょっとふぬけた味だった。ぶどうジュースの方が断然おいしい。

んで、数時間眠れずに起きていて、その後やっと眠れる。やれやれ。

Fin

[diary]アクラにて p2

08/08/19(月) 晴れ 24-30℃
[Accra:Ghana]

・選挙特集番組
・英語以外の言語による放送


(未完)

[diary]アクラにて

アクラ

08/08/18(月) くもり、雨、くもり
[Accra:Ghana]

(未完)

[diary]クマシからアクラへ

クマシからアクラへ

08/08/17(日) くもり、雨、くもり
[Kumasi→Accra:Ghana]

・クマシからアクラへ移動
・横転しているトラックたち

8時前に起床。水が滴る音が聞こえる。雨が夜中降っていたらしい。

テレビを付けてみると3つのチャンネルすべてで説教をしている。キリスト教らしく、英語でずっと「Bible says・・・」などと一人の人間がしゃべり続けている。3つしか映らないチャンネルのすべてが、同じような説教をしていることには驚く。

そのうち近くの教会からミサらしい歌が聞こえてくる。厳かな賛美歌ではなく、ドラムなどを使った歌って踊れる明るい歌、アフリカンゴスペラ(?)。

当初の予定では、ここからさらに北に行き、出国する前日に北のまちからアクラに行こうかと思っていたが、昨日のニュースでどっかの道路が雨で寸断したとかやっていたし、車の故障で出発に遅れるのも嫌だし、安宿はまた埋まってそうだし、何より腹の調子がまたおかしくなってきたので、アクラに戻ることにする。

11時ごろまで日記書きをした後、チェックアウト。外に出てみるとどの店も完全に閉まっていた。やっているのは露店と市場のみ。

アクラ行きの車が出ている乗り場に行く。スピーカーから「アクラ、アクラ・・・」とがなりたてる声がずっと響いている。

6セディ(約600円)のチケットを買い、車の座席を確保。車は日産のマイクロバスで新品ぽい。外観も車内もきれい。モロッコ以後に乗った車(バスを含む)の中では一番きれいな車かもしれない。

待っていると車の人が、荷物代と言って2セディ(約200円)渡せと言ってくる。たいてい荷物代は1セディなので、1セディじゃないのかと聞くが、2セディと言う。なのでチケットを取り出し、乗る車を変えるから払い戻ししろと頼むと1セディでいいからと相手が折れる。

車に乗り込み、出発を待つ。車のすぐそばでクッキーを売っていたおばさんからクッキーを一袋買う。2セディ(約200円)。高い。安いのもあるが、今回は高いのを買ってみた。さっそく開けて食べてみると湿気ている。やっぱり回転の速い安いものを買うべきだったと反省。

車は1時間ほど待った後に発車。1つの座席に1人なのでわりと快適。今日も雨が降ったりやんだりの不安定な天気。

緑豊かな地帯を走る。今回の運転手もかなり飛ばす。道路脇の標識には50km/hとあるのだが、流れる景色のスピードと窓から入る風圧からすると100km近く出ている。

アクラに着くまでの間、横転しているトレーラーを4台ほど、故障で立ち止まっている車を5台ほど見る。幸いぼくの乗ったマイクロバスは故障も事故もなく、走る。

ケープコーストからクマシに行く道と違って、こちらは警察のチェックポイントが少なかった。路面の舗装具合もいい。

ある集落を通ったときには道路沿いに陶器のような器を陳列して販売していた。また、大人の拳よりもさらに大きな巨大なタニシのような、カタツムリのような生き物もあちこちで売られていた。

道はアクラに入って急に悪くなる。アクラ郊外の道は現在工事中のようで、道の端の舗装されていないがたがたの即席道路を車は通る。渋滞もあり、アクラ郊外から中心部の舗装された道に入るのに1時間近くかかる。

カネシという地区にあるターミナルに着いたのは16時半ごろ。

そこからタクシーに乗って宿に行こうとしたところ、5セディとぼってくるので無視。歩いていくことにする。安ければ乗ってやろうかと思ったのに、がめついタクシー運転手め。

地図で見た感覚よりも宿までは近かった。途中、椰子の実で喉を潤す。0.5セディ(約50円)。

30分ほど歩いて宿に到着。前に泊まった安いシングルの部屋を頼むとまたもや満室。しょうがないので高いダブルの部屋に1泊だけし、明日シングルに変えてもらうことにする。ダブルは1泊16.1セディ(約1600円)。ただこちらはテレビ、トイレ、シャワー、天井設置型扇風機、ブランケット付き。水もちゃんと出るし、水洗トイレもきちんと機能している。クマシの宿に比べれば値段相応だ。

宿に荷物を置いて、水とアイスを買いに近くのTotal石油のスタンドのコンビニに行く。

宿に戻ってから、せっかくシャワー付きの部屋に泊まることになったので、それを活用し、洗濯をする。ズボンを洗うのはブエノスアイレス以来。サハラの砂なども流れ出てくるのか、なかなかすごい。

部屋にロープを張り、扇風機を回す。

テレビを付けるとサッカーのイングランドリーグの試合をしていた。それを見ているうちに寝る。

ブランケットをかぶっていたものの、夜中、寒くて目が覚める。扇風機を止めたいところだが、それでは洗濯物が乾かないので、ブランケットをかぶり直し、また寝るのだった。

Fin

[diary]ケープコーストからクマシへ

ケープコーストからクマシへ

08/08/16(土) くもり、雨、くもり
[Cape Coast→Kumasi:Ghana]

夜が明けようとしている頃、鶏がギャーギャー鳴く声で目覚める。

手のひらがかゆい。また蚊にやられたよう。ベッドから起きると足下を飛んでいる蚊がいたので、踏みつける。殺した蚊の体積にしては大量の血が床につく。

荷造りをして宿を出る。7時半。

昨日確認したKumasi行きのトロトロが出るターミナルに歩いていく。途中、タクシーの運転手から声がかかるが、無視。ケープコーストの城前の通りを歩いていく。道ばたでは素っ裸になって体を洗っている少年が1人。露店はすでに出ていて、そこで朝食を取っている人もいる。

30分ほど歩いてターミナルに到着。敷地奥のチケット売場の建物でチケットを買う。4.5セディ(約450円)。ちょうどあと一人で出発という車が駐車場に待機していたので、それに乗ろうかと車まで行くが、荷物を屋根上に載せるというので、それに乗るのはやめ、次の車で行くことにする。屋根上には他にも荷物が載せられ、一応ビニールシートがかけられているのだが、すっぽり覆うようにはなっていない。空は今は晴れているが、ころころ変わるから雨に降られるとあとで後悔することになる。

リュックに腰掛け次の車を待っていると、さっき乗ろうとしていた車の男が、ぼくのところにいてチケットを次の車に変更するからぼくのチケットをくれという。ここのチケットには時刻や車の指定などは書かれていないから、おかしいなと思いつつ、チケットを渡すと彼はチケット売場の窓口の方に向かっていった。

それから10分ほどしても彼がチケットを渡しに来ないので、チケット売場に行くと、窓口のおじさんたちはなんとかと言い合った後で、新しいチケットをくれた。結局、あの男は再び現れることはなかった。これだから交通機関に関わっている男は信用できん。

次の車がやってきたので、荷物を積み込み、座席を確保する。車はメルセデスベンツの大型ワゴン。後部は4人掛け5列あり、運転手も入れれば23人乗り。客はすぐに7人ほど集まったが、満席になるには2時間半ほど必要だった。

車の中で発車を待っている間、車の周りにはパンや魚の薫製、水、クッキーなどを頭に乗せた物売りの人(子ども)がやってくる。ぼくは朝飯代わりにゆで卵売りの母親から2個の卵を買う。1個0.2セディ(約20円)。頼むと殻を剥いてくれ、さらに「ぺぺ?」と聞かれ、うなづくとゆで卵にナイフを入れ、そこにトマトと唐辛子とタマネギで作ったチリソースを入れ込んでくれる。ちょうどサンドイッチのようなかたちになる。

待っている間、女の人と男の人が別々に車の入り口にやってきて何やら宗教的な説教を始める。格好は洋服。だから取り立てて神父やなんかには見えないのだが、「Bible says・・・」と言って地元の言葉でしゃべり続け、ときどき歌を挟み、最後に「エイメン(アーメン)」と言って去って言った。様子を見ている限りでは、みなわりとそれらの話を聞いている。最後の「エイメン」には多くの人が唱和していた。

10時半ごろ、ようやく発車。空は予想通り曇ってきた。

ケープコーストのまちをすぐに抜け、木々が茂る間の道を走る。起伏は少ない。

走り出して10分ほどした頃、ぼくの右前に座っていた三田頃20代後半くらいの男がおもむろに立ち上がり、突然説教を始める。例のごとく「Bible says・・・」などと言っている。彼は英語で言っているようだが、ぼくのプアイングリンシュでは理解できず。車のエンジン音に負けないように大声で怒鳴るように説教するから、彼の前の列にいた赤ん坊が泣き始める。そんなことは気にするふうもなく、説教を続ける彼。ぼくにして見れば声がでかいだけにやかましいだけなのだが、誰も彼を止めない。だが、一番前に座っていた年輩の男性は、眉をひそめた顔で彼を一瞥した。

中南米でも思ったが、自分たちを”文明化”しようとし、植民地化の先兵ともなったキリスト教をなぜ彼/彼女らは信じるのか? まったく不思議な限りだ。聖書自体に非はないと言えばそうなのだろうが。

走り出して30分ほどした頃、坂道をなんとか上りきったところで車が止まる。同時に彼の長い長い説教も終わる。彼の額には汗。

車の方はエンジントラブルらしい。運転手が車を降りてフロントの蓋を開け、エンジンを眺めている。が、何がどうなっているのかわからないよう。なんの処置もできないようで、彼は携帯電話でどこかに電話をし、何やら話をしている。携帯電話がなかった頃、こういう事態になったときはどうしていたのだろうとふと思う。

停まってから10分ほどは車内にいたが、座席が狭く体勢がきつかったため外に出る。ほとんどの客はすでに外に出て小便するなり、道路脇に座り込むなりしていた。

牛を20頭ほど連れたおじさんが、通り過ぎる。

修理もせずに何を待っているのだろうかと思いつつ、しばらく待っていたら雨が強く降り出した。いっせいに車に戻る。その後10分ほどで別の車がやってきた。どうもその車に乗り換えるらしい。

ぼくはリュックを取り出し、車を乗り換える。運転手たちは屋根上の荷物を車から車へと移し変える。そうした作業が終わった後、運転手たちは客を待たせたまましばらくカネのやりとり。様子を見ていたら、どうも車が変わることで運転手も変わるらしく、それに伴いカネも最初に乗った車の運転手の手から新しい車の運転手の手へと移るよう。おんぼろな車を持っている人はこういうリスクもあるからなかなか不利だなと思う。それにしても事前にこういう場合の利益配分を決めてはいないのかと思う。最初から決めていれば、こんなに客を待たせることもないだろうに。

結局1時間ほど、停車し、ようやく新たな車で再発車。今度の運転手はなかなか飛ばす。

景色は両サイドともに緑の平原で、ときおり集落が現れる。集落の家々は土壁にトタン屋根やコンクリート壁に椰子葺き屋根など。マリなどでよく見たまったくの土づくりの家は見ない。

ときどり燃料用なのだろう、木々の枝や細い幹を頭に乗せて歩く人々とすれ違う。

また、警察のチェックポイントがたびたびあって、そのたびに車は止まり、物売りが車の窓にワッと寄ってくる。ぼくはあるところで焼きバナナを購入。0.2セディ(約20円)。焼き上がったばかりで熱くてほくほくしていてなかなかうまい。

雨は時折ふったり、またあがったりを繰り返す。リュックは自分の座席の下にあるから安心。

道路は基本的に舗装されているのだが、ときどき舗装がはがれているところがある。

目的地のクマシには夕方4時過ぎに到着。さすがに国内第二の都市、またアシャンティ王国時代の中心地ということで、それなりに大きい。

車が止まった通りのすぐ下は巨大なトロトロターミナル。サッカーグランドが丸々収まるくらいの大きさ。これには目を見張る。車と人と物売りとでごったがえしている。

ガイドブックを見てもどこに着いたかがわからず。しかし、タクシーに乗ると損する事が多いので、とりあえず歩き出す。ちょっと歩くとお菓子の問屋街がある。きょろきょろしながら歩いていたらトラックの運転手がどこに行くのかと聞いてきたので、ホテルを探しているというと、1本向こうの通りに安い宿があるからそこに行けばいいと教えてくれる。

お菓子の問屋街を視線を感じながら通りすぎると右手に泊まる予定をしていた宿の名前が見えた。ラッキーと思いながらそのホテルの受付に行ってみると、「フル」と言われる。シングル6.5セディ(約650円)と安いからぜひここに思っていたのに・・・。受付の人に聞いて別の宿を教えてもらう。

教えてもらった方向へ行くがこれが見つからない。別のホテルを見つけたが、シングル15.5セディ(約1600円)と高い。やっと1軒教えてもらった宿を発見したが、これも満室。車を降りてから、すでに1時間近くふらついていたの
で、安宿はあきらめさっきの高めの宿に泊まることにする。探している間は、例のごとく若い男等がチャイナだチュンチョンチャンだのとあれこれと声をかけてくる。まったくうっとうしい。どこに行っても中国人をまちで見かけることがないのは、こういううっとうしい奴らに絡まれないためじゃないかとさえ思う。

宿の近くに行くと数人でおしゃべりしていた男のひとりが「コンニハ」と声をかけてくる。

宿は高いだけあって部屋は広く、テレビ付き。だが、トイレは共同だし、水道からは水がでない。扇風機は他の宿と同じように5段階になっているものの調節できず、最強かゼロかでしか使えない。セネガルのダカールの宿といい、ここといい中途半端に高い宿ほどひどい。

荷物を置いてからまちを見に行く。その前に宿の前の路上の店で腹ごしらえ。白米に例のごとくのカレー汁、肉のかけらとスパゲッティの麺、それに少量の生野菜、1セディ(約100円)ぶん。ほんとにどこに行っても屋台料理は同じメニューだ。

まずは車を降りたところまで戻り、ターミナルの写真を撮る。途中、通った通りは電気屋街のようになっていて、携帯電話をはじめパソコンや大型家電の店がずらずら並んでいる。デジカメやiPodを売る店もあり。

それからターミナルまで階段で降りる。ターミナルは建物などはなく、バス停のように行き先ごとに屋根付きの乗り場がずらずらと並んでいるだけ。行き先の名前を書いた標識があるので、それを信じるならばあまり迷わずに目的の車にたどり着けるようになっている。路面にはビニールゴミが散乱している。

行こうかと思っていた北のまちの名前を探すが、見あたらない。

ターミナルは半分マーケットのようになっていて実際、並んでいる店を伝っていくと市場まで連なっている。

人とモノでごったがえす市場の道は、二人がすれ違うのもやっとというくらい。他と同じようにパッケージに漢字が書かれた商品が目に付く。服や文具、アイス、ジュース、野菜(キャベツ、人参、米ナス、ヤム芋、ヤマト芋、トマト、唐辛子などなど)、魚(薫製、生)、肉、椰子、パパイヤ、マンゴー、数種類のバナナ、みかん(夏みかん系)、穀類など日常生活に必要なものは一通りそろう。

使われていない線路内にも露店が立ち並ぶ。

適当にふらついて宿に戻る。

さっき通ったときは店が開いていて賑やかだった通りが、もう一度通ってみるとことごとく閉まっていた。時計を見ると18時前。19時まで開いていると看板にあったネットカフェに入ると、入り口近くの受付にいた若い女性は「close」と一言。やはり看板は当てにならない。ネット屋は他に3軒ほど見かけたが、17時を過ぎたからか他の店とともに一斉に閉まってしまったようだった。

しょうがないので宿に戻る。宿の前の露店でバナナを買う。買っていると若い男が近づいてきて、ジャパニーズかと聞いた後でちょっと来いというようなことを言うので、どうせまた何かを売りつけようというのだろうと思い、無視。

宿に戻ったモノの、なんだか空腹感があるので、晩飯を食いに外にでる。適当な道ばたにあった露店で食事。ここも同じ白米にカレー汁、肉の唐揚げ、スパゲッティの麺。米は炊き方がよく、ベナンやトーゴよりもうまい。香りはタイ米の香り。

暗くなって後は宿にいる。シャワーを浴びようと思ったが、水がでない。でかいポリバケツに水が蓄えられていたが、汚れてはいなかったもののいつ汲んだものかわからないので使う気になれず。

夜中、テレビでオリンピックのサッカーの試合をしていたので見る。ブラジル対カメルーン。カメルーンの選手はとにかく動きが早い。両方とも得点が取れないまま延長戦に突入し、延長戦の前半にブラジルが2得点して勝った。自分が行ったことのある国が増えたので、オリンピックもこれまでとはちょっと違って見える。ジャマイカンの100mの強さはずば抜けている(ジャマイカ航空の機内誌によると16歳だったかの10代最速男の記録は10秒2ほどだった)。水泳競技に出ている選手には黒人は少ない。出場国でいえば、アフリカは元イギリス植民地の国は多いが、フランス植民地だった国は少ない。また赤道直下のアジア、中南米の国もまた少ない。

陸上長距離ではケニヤ、エチオピアの選手が速い。選手を育成するシステムが整っているのか?

それにしてもやり投げや円盤投げなんていう世界中でやったことがある人はそれぞれ1万人もいないだろう(想像だけど)という競技がオリンピック競技になっているのが不思議だ。

Fin

[diary]エルミナへおでかけ

エルミナへおでかけ

08/08/15(金)
[Cape Coast,Elmna:Ghana]

夜中、雨の降る音がする。

長袖を着て寝ていたのに、蚊に刺される。起床後、この蚊を成敗。

空は薄暗い曇り空。雨が降りそうな天気だ。今日はここからタクシーで30分ほど行ったエルミナに行こうと思っていたのだが、デジカメの電池が切れていることに気づく。部屋にはコンセントがあるのだが、持参している各国対応のプラグをもってしても型が合わず夜の間に充電できなかった。

なので、フロントに降り、1時間ほど充電。その間、『豊かさの誕生』を再読。

9時過ぎに宿を出て、コトクラバという市場がある地帯に行く。その近くに乗合タクシー乗り場があり、そこからエルミナ行きに乗れるとのことだった。

歩いて15分ほど。途中あった学校のグランドではサッカーの試合が行われていた。10代半ばくらいの男子。小学生くらいの子らも観戦に集まっている。小さい子らの中の一人がぼくを見つけ、「チャイナ」と指さしてくる。それをきっかけにいろんな顔がこちらに向けられる。完全に見せ物状態。

やれやれと思いつつ、さっさと通り過ぎる。

ワガドゥグで買った4色ボールペンを昨日どこかで落としたようで、なくなっていた。そのため沿道にある小さな文具屋で4色を探すが、2色までしかなくここで買うのはパス。

文具屋の近くに屋台があったので、そこで朝食。授乳しながら店番をしていた女性は、ぼくが近づくと子どもを引き離して商売モードになる。例のごとくいくらぶん欲しいのかと聞かれたので1セディ(約90円)と答え盛りつけられるのを待つ。

今日の朝食は、白米に例のカレー汁と揚げ魚、それに珍しいことに生野菜(キャベツ、人参etc)のサラダ付き。大盛りのご飯に比べやはり汁の量は少ないが、何とかご飯全部に行き渡る程度の量はある。白米は炊いたご飯を冷凍して、解凍して、また冷凍して解凍したときのようにボロボロポロポロで歯ごたえがない。

ご飯の場合はフーフーなどと違ってスプーンで食べる。

腹が膨れたところでタクシー乗り場に行く。乗り場には行き先と次発車する車がわかるように、「Elmina Ready Car」と書かれた三角柱を横にしたものがその次でる車の屋根に置かれている。

ちょうど客が乗り込んでいた車があったので、ぼくが乗り込んだらすぐに出発できた。ベナンなどと違って、助手席には1人、後部座席には3人と正しい乗り方をしている。

まちを出ると、道の両サイドに椰子が立ち並ぶ通りに出る。左手には波立つ海が見え、右手には椰子の葉葺きの家々が見える。雨がぱらぱらと降ってはあがる。

エルミナには30分ちょっとで到着。海沿いの通りからはエルミナ城が見えた。

車はだんだん町中に入っていく。両脇に商店が並び、車の行き来が多くなる。

ツーリストインフォメーション近くで適当に降り、城に向かう。タクシーから降りた途端に30代くらいの男の物乞いが寄ってきて、カネをくれとつきまとう。10ペソのコインをプレゼント。

歩いていると視線がぼくに集まる。チャイナだのジャッキーだの、チンチョンチャンだのという声が聞こえる。まったくアフリカというところは、どこ行ってもこれだ。

ある穀物を売っている店の前で立ち止まる。売っている米はmade in Thailandばかり。隣の店が文具店だったのでのぞくと無くしたものと同じ4色ボールペンを売っていたので、ここで購入。お値段0.2セディ(約20円)。

片道1車線の狭い通りを城の方面に向かって歩く。両脇にはイギリス植民地時代に建てられたらしいレンガづくりの建物が目立つ。どれもぼろぼろ。廃墟のようになっているところもある。城の手前には橋があり、橋の付近から奥地に入っていく川のような水路沿いが一大マーケットになっている。水路にはセネガルのサンルイの海辺のように大量の舟が並べられていて、赤や青などでデザインされた舟の一群はなかなかの壮観。

橋の手前でスイカの切り身を売っていたので購入。0.2セディ(約20円)。やはり切り売りだとしおれている感じになっていてうまくない。歩いている間中、こちらに視線が集まり、じろじろ、なかにはにやにやしている輩もいる。

城がある敷地の入り口を入り、城につながる橋がある右手の少し高くなっている駐車場への坂を上る。駐車場でビニール袋入りの水を売っている少年(7歳)くらいが、「チャイナ」と言う。振り向くと水を買わないかというような仕草をする。一方でその坂道に彫り物のような土産物を並べ売っていた男性(20代?)が、おかしな日本語で「コンニチハ」と声をかけてくる。これも適当に答えて相手にはせず。

城へは堀を渡す橋を渡って入る。中に入ると左手に受付があり、そこで入場料7セディ(約700円)を払う。受付の女性は年輩の男性を呼び、ぼくを案内するように言う。その男性は、ぼくに一人で回るかガイドが必要かと聞いてくるので、一人で回ると答え、すらすらと中を見て回る。

規模はこちらの方が大きいが、中にある見所は基本的にはケープコーストにある城と同じ。奴隷が入れられていた部屋やcellと書かれた監獄、取引用の部屋など。展示物はほとんどなく、それぞれの部屋に説明板も何もないから、ガイドなしではそれぞれが本当になんなのかはよくわからない。しかし、ガイドと一緒にまわると時間がかかるし、だいたい人によって英語の発音が違うし、ぼくの英語もダメだから聞いてもほとんどわからない。

実際、どこかのグループなのか学生なのか同じシャツを着た20人くらいのグループや昨日ケープコーストで見たイギリス人団体客らしい一団がいたので、ちらっと混ざってみたりしたのだが、それが英語なのかいっとき聞かないとわからなかったりした。

ここでも地元の絵描きらしい人が書いた絵やその人がデザインしたTシャツが売られていた。

また、このエルミナ城はぼろぼろになっていたものをオランダだかイギリスの支援を受けて、ここまできれいにしたらしい。そのプロジェクトに関するパネルが20ほどあって、修繕前と修繕後の写真やプロジェクトの目標年である2015年までのプロジェクトの概要などが書かれてあった。プロジェクトの名前はElmina Heritage Projectというらしい。200万ユーロだかのお金をかけて取り組んでいるらしい。

ここでも思うが、ガイドはいらないから解説板を付けるか解説した冊子を配布なりしてほしいものだ。

城を出てからマーケットになっている一帯を見に行く。城を出ればすぐそこからマーケットになっている。まずは椰子で喉を潤し(0.5セディ:約50円)、それから見て回る。

魚はさばやあじのような魚から、赤鯛が小さくなったようなもの、太刀魚やヒラメのようなものもある。見て回っている中にどでかいアワビのようなものがあったので、その露店の女の子にこれは何かと聞くとSea snakeだという。海蛇? 形からすると貝類のように見えるのだが・・・。

市場は舗装されている道路と水路の間のスペースにあったのだが、とりあえず舗装された道路沿いを西にふらふら歩く。通り沿いにはポツポツと雑貨屋があり、しばらく歩くと船を造っている一帯が現れ、その隣に魚の薫製を作っている一帯が現れた。

薫製は土で作った窯と金属製の網(枠は木製)を使って作られていた。釜は巨大な四角い七輪のようなもので、土壁(レンガ色)で一片が1.2mほど、高さ80cmほどの四角い枠を作り、その上に網を乗せ、その網の上に魚を並べる。また網は幾重かになっている。土台となっている土づくりの釜には通気口があるので、そこから炭をくべたり、火の調整をしているようだった。

もくもくと白い煙をあげている釜もあれば、ちょうど魚を並べている釜もある。作業をしているのは女性ばかり。中には10代をちょっと過ぎたくらいの女の子もいた。

母親が仕事をしている傍らで遊んでいる3歳前後の子どもたちは、ぼくを見ると地元の言葉で何やら言いながら手を振る。ここでは英語ではないなんとかという言葉が一般に話されているので、子どもらがなんと言っているかは不明だが、ベナンと同じように白人を意味するようなことを言っているのだろう。

店が途切れるところもまで行って、引き返す。

途中、水路沿いの市場を見るために舟を作っている一帯を通り抜ける。舟はみなお手製で、釘やとんかち、カンナのような道具を使って組み立てている。舟の型自体は素人目からするとどこにでもある一般的な舟のように見える。

水路沿いに出ると人でごったがえしていた。魚を売る人の間にできた通路は、よけながらでしか歩けないほど狭く、しばしば何かにぶつかる。ここで驚いたのは、売られている魚はすべて冷凍されたものだったことといろんな魚がごっちゃにされていたこと。長方形の箱にでも入れて冷凍していたらしく、いろんな魚がごちゃごちゃにひっついて凍っていて全体では直方体の形をしている。そして、その直方体の個体を売り買いしていた。ちなみに直方体はだいたい縦30cm、横100cm、高さ10cmほど。両手でかかえないともてない。もっともこちらの人は頭に乗せているけど。

買い付けに来ている人は、その凍っている直方体を何体も買い、ライトバンの荷台にそのまま積み込んでいたりしていた。

そこからさらに橋(城)寄りでは今日あがったばかりらしい生の魚が売られていた。小さな子どもが水浴びできるくらいの盥(たらい)に鰺(あじ)のような魚が山盛りにされている。さっきも売っているのを見た細長い魚や平べったい魚もある。

そこへ海から舟が一双水路に帰ってきた。水路はすねくらいまでしかなく浅いのだが、数人がそこに入り、バケツを舟の人に渡し、魚を入れるよう頼んでいる。舟の人と陸の人の間で魚がどのように売り買いされているのかは、よくわからない。陸の方には同じようにバケツを持って準備している魚売りのおばさんあり。

たいして動きがなかったので、舟から目を離し、魚を売っているところをうろうろしていると、背後から怒号が聞こえる。振り向くと小さな鯖のような魚を一尾持った男を怒りでパンパンになった形相で追いかけている男が二人。魚を持っている男を捕まえると腕をはたき、魚を取り返す。どうも勝手に男が魚を持っていこうとしたらしい。しばらくあたりは騒然。周りにいた人が集まってきて、ああだこうだと怒鳴り声をあげ、言い合いをしている。

こうしたちょっとした喧嘩はアフリカに入って以降、しばしば見る。どの国に行っても乗合タクシーやバス乗り場、市場など人が多いところに行けば、怒鳴り合いの喧嘩は漏れなく見れる。

ぼくは最後までまで見届けることなく、市場を出る。途中、沖縄のサータアンダギーに似たボール型のドーナツを1個購入(0.2セディ:約20円)。これがなかなかうまいんだな。

ツーリストインフォメーションに行き、郵便局の位置を教えてもらう。スタッフの女性がその道をまっすぐと教えてくれる。で、その道を歩いていたのだが5分ほど歩いても見あたらないので、本屋の女の子に道を尋ねる。すると彼女は来た方向を指さし、ずっとまっすぐと言う。おかしいなと思いつつ、来た方向にはなかったからと、一本だけ右に入る大きな道があったので、そこを曲がる。

しかし、見えるのは民家のような建物ばかり。適当なところ
まで歩くと、パイナップル屋があったので、そこで丸ごと1個のパインを剥いてもらう(0.5セディ:約50円)。そして、郵便局の場所を教えてもらう。

そこから歩くこと20分ほどで郵便局に到着。結局、インフォメーションの人が教えてくれたのが正しく、本屋の女の子が教えてくれたのはまったく反対方向だった。

郵便局で城で買った葉書を買く。また郵便局のベンチでちょっと昼寝。寝ていたらおかしな英語が聞こえてくるので目を開けると中国人らしいおじさんがいた。ぼくがこれまで聞いた範囲で言うと中国人の英語は中国語なまりで音程があるから、すぐに中国人らしいということがわかる。反対にぼくの英語も中国人等には日本語なまりと聞こえているのだろうか。

郵便局から幹線道路まではすぐだったので、歩いて幹線道路まで行く。途中、道ばたでまた椰子を買う。ガーナに入って以降、椰子を買うときに「hard or soft?」と聞かれるようになった。果肉の厚さの違いを言っているものらしい。このときはソフトを頼む。すっきりしていてなかなかよろし。果肉は少ないけどプルプルしていてまたよろし。

幹線道路沿いで乗合タクシーを捕まえ、ケープコーストに帰る。朝からずっと曇っていたのに今頃晴れてきた。

ケープコーストに戻ってからSTCという会社のバスターミナルに行く。明日のバスの時間を調べようと思って行ったのだが、明日のバスは満席で、次は日曜と言われる。がーん! 窓口の人に他にバスはないか聞くと、近くの信号がある交差点に大型のバン(他でミニバスと呼ばれていたよな車)のバス乗り場があるからそこに行けばと言われる。

STCのターミナルにも乗客を当てにして物売りの人がちょろちょろいた。そこで発見したのが鮹(たこ)。揚げたものらしい。売っているおばさんに確認したところ確かにオクトパスと答える。

1セディ(約100円)ぶん頼むと手のひら位の大きさの切れ端をくれた。鮹なんて久しぶり。日本出国以後では初めてかもしれない。チリなどで売っているのは見たけども、こうして露店で売られているのは初めてだった。食べてみると確かに鮹。ただ油が悪いのかちょっとバターのような甘さがある。

歩いて教えてもらったミニバス(ガーナではトロトロと言う)乗り場に行くと、確かに看板には明日行く予定のKumasiという地名があったのだが、そこにいた人に聞くとここからは車は出ていないと言う。このように、とくにアフリカでは看板はまったく当てにならない。

なので、また乗合タクシーを拾い、ケープコーストの町中に向かう。コトクラバという市場があるところから出ているとさっき教えてもらったので、運転手にその旨伝えると、コトクラバからちょっと離れた乗り場まで連れていってくれた。

そこで聞いたところ、ようやくKumasi行きのトロトロを確認。運賃4.5セディ(約450円)。

客が集まったら発車するというスタイルなので、発車時刻は決まっていないとのこと。ここの乗り場でも鮹を売っていたのでまた鮹をちびちびやりながら、宿に向かう。

初めて通る道だったこともあるのか、やはり視線を感じる。ミシンで服を縫っている女性が「カム」と呼ぶので行ってみると、どこから来たのかなどと聞かれ、例のごとく「Do you like me?」などと聞いてくる。若い女の人(女の子)で声をかけてくるのはこの手が多い。そしていわゆる下ネタを展開する。さらにぼくの髪を触りながら「I like your hair」と言う。

横で一緒にあれこれと話しかけてくる女性は、今日はどこに行ったのかと聞いてきて、エルミナだと言うと、自分はまだ行ったことがないから連れていって、と言う。タクシー代は高くないだろ(0.6セディ:約60円、乗合タクシーの場合)、と言うが、そのお金もないという見え透いた嘘を言う。そして、明日ここに来いというようなことを言うので、明日はよそにでかけるなどと、15分ほどおしゃべりをしてバイバイと解放してくれる。

宿に戻ってから近くのネット屋に行くが、日本語が読めない上、回線が遅い最悪のパターン。1時間1セディ(約100円)。

それからアクラ行きのトロトロが出ている乗り場にある食堂でフーフー&カレースープを食べる。スプーンがなかったので、手で食う。やっぱりあまり気が進まない。途中から中に入っていた羊肉の骨を使って食う。スープにはやはり具は肉のみで何も入っていない。辛さは食べた後もちょっとひりひりするくらい。

宿に戻るとアクラの宿で一緒だったカップルがちょうど着いたところだった。男はヨーロッパ系なのだが、女の方が日本人系。そのためかアクラで合ったときは、彼女の方からHi!と声をかけられた。が、特に会話はしなかったので、日系なのかどうかはわからず。

18時過ぎには暗くなり、あとは宿で過ごす。

Fin

[diary]アクラからケープコーストへ

アクラからケープコーストへ

08/08/14(木)
[Accra→Cape Coast:Ghana]

(未完)

[diary]南アフリカへの飛行機のチケットを買いに

チケットを買いに

08/08/13(水)
[Accra:Ghana]
1米ドル=1.01セディ、1ユーロ=1.6セディ

・ATM
・チケット購入

4時頃、目が覚める。ロメの宿とは違ってきちんと回る扇風機のおかげで寝苦しくなく。外は部屋よりも涼しい。

昨日の何かが悪かったのか、腹の調子がおかしい。10日ぶりほど。

9時前に宿を出て、ガイドブックを参考にツーリストインフォメーションとATM、トラベルエージェントを探しに行く。

宿からすぐのKojo Thomson Roadを北に行き、Ring road Centralを右に曲がる。

Ring road Centralは片道2車線の幹線道路で、交通量が多い。通り沿いには銀行や飛行機会社、レストランなどが細々と並んでいる。最初に見つけた銀行でカードを試すが、だめ。また通り沿いに歩き、別の銀行を探す。

歩いていると左手にBusy Internetと書いたちょっとしたオフィスビルのようなところがあった。『ロンプラ』にもネット屋ということで紹介されていたところだったので、そこでアクラのATMについて調べてみようと入る。

入ると右手に100台ほどのパソコンが並んでいた。内装も日本のきれいなオフィスと同じ感じ。こんなきれいなネット屋はこの旅行では初めて。

画面は液晶。本体には触れられないようになっているからUSBは使えない。受付でカネを払って暗証番号をもらい、適当にパソコンを選んで使うような仕組みになっている。さすがというか、値段は普通の2倍ほどで30分で0.9セディ(約90円)、1時間が1.8セディ。(約180円)。

回線も早く日本語も読める。入力はダメ。ネットで調べたところぼくが持っているカードもアクラにあるATMで使えるとの情報をゲット。

30分で店を出て、また銀行を探す。途中、ツーリストインフォメーションのオフィスを発見。地図とはちょっと位置関係が違うように思ったのだが、まあいい。地図をもらえないかと思い、パソコンでゲーム(フリーセル)をしていた受付の女性に聞くと、有料だと言われる。とりあえず見せてもらう。折り畳み式の道路地図ほどの大きさで、アクラの地図は細かく道路名もしっかり書いてあって広い地域をカバーしていたので買おうかと思ったが、値段が7セディ(約700円)もするというのでやめる。なんでそんな高いんだ?

すぐに別の銀行が見つかる。これまでの国では基本的に使えるカードのマークがATM機に書かれてあったのだが、ここにはない。が、試しに使ってみるとちゃんとカネが出てきた。ただ、10セディ札のためかさむ。上限額が400セディでこれではチケットを買うには足りないので、銀行を変えてもう一度おろす。最初にカネを入手した銀行から100mほどで別の銀行が見つかる。こちらにはちゃんとマークが入っていた。

ATMの機械はどこも店舗の外壁(屋外)に設置されていて、誰が並んでいるか通りから丸見え。これがちょっといただけない。オープンなぶん誰からも見えやすくて安全とも言えるが、ただでさえ髪質と肌色が違うということで目立つのに、こんなおおっぴらなところでカネをおろしているのを悪いヤツに見られれば、つけ回される可能性も大いにある。あまり安全ではない。中南米ではショッピングセンター内のAtMは丸見えだったが、銀行のは屋内にあった。

今度の銀行のATMには数人が機械の前に並んでいたので、時間つぶしに隣にあったトラベルエージェントに行く。ここもきれいなオフィスでヨーロッパスタイル。

南アフリカのヨハネスブルグ行きの航空券について聞くと、パソコンで調べてくれ、663米ドルだと教えてくれた。これは昨日まわったエージェントを含めて最安(2ドルぶんだけど)。銀行も近いからここでチケットを買おうかと思い、いったんオフィスを出て、隣の銀行でカネをおろしてからまた来る。

20分ほど待って、ぼくの順番が来る。さっき対応してくれた人とは別の人。ブエノスアイレスでチケットを買ったときは、同じエージェントでも担当者によってチケットの値段が違ったので、今回も同じようにさっきより安いチケットが出てこないか期待するが見事にはずれる。チケット代は663米ドルと同じだったが、それに手数料か何かが加わって結局約690米ドル請求される。てっきりトータル金額が663米ドルと思ったので、キャンセル。昨日行ったエージェントの中にトータル675米ドルというのがあったからそっちの方が20米ドルも安い。

エージェントのオフィスを出て、駐車場を歩いていると日本人かと聞いてくる人がいた。ガーナ人らしい若い男で、彼の横には年輩の白人が一人、ガーナ人女性が一人いた。

日本人だと英語で答えると「コンニチハ」と言ってくる。それからまた英語で日本のどこから来たのかと聞かれたので、東京の近くと言うと、彼は自分は埼玉の飯能の会社で4年働いていたと言う。飯能は森がいっぱいでしょうというと、そうそうと言って、ぼくが知らない固有名詞を出して隣の二人に何か面白いことをしたらしいときの話を披露し、盛り上がる。

これからどこに行くのかというので、別のエージェントだと答え、悪いヤツではなさそうなので、どこか安いエージェントはないかと聞いてみる。するとエミレーツ航空とエジプト航空、ケニア航空がときに安かったりするので、そこをチェックしてはと言われる。エミレーツ航空は道路を挟んで向かいにあったので、早速行ってみると言い、分かれる。

エミレーツ航空のオフィスもまたきれいだった。入って番号札を取る。ゆったりと座れる椅子に腰をかけ、順番を待つ。待っていると”70番の方、3番デスクにどうぞ”といった具合の館内放送が英語で流れる。

20分ほど待った後、自分の番号が呼ばれ、窓口に行き、南アフリカ行きのチケットの値段を知りたいと言うと、当社には南アフリカ行きの飛行機はないから南アフリカ航空に行くように言われる。さっき聞いた航空会社はどれもネットでの検索ではひっかかってこなかった航空会社なので、これは堀出し物に巡り会えるかとちょっと期待したのだが、やはり当てにならなかった。

場所がわかる『ロンプラ』に載っているエージェントにもういくつか行ってみようと宿方面に戻る。

途中、食堂で昼飯。Banku with Okura soupというのを食べる。Bankuはここのローカルフードらしいので何かわからず頼んでみたのだが、見慣れたこねて団子上になったものが出てきた。食べてみると酸っぱい。ベナンやトーゴの屋台で食べたあの正体不明の酸っぱい主食がBANKUだった。

オクラスープはオクラでドロッとしたカレー味のスープで、これも今まで食べてきたものと変わらない。店内の人は手でつかんで食べていたが、ぼくは腹の具合もあるし、手を突っ込む気にもならなかったのでスプーンをもらい食べる。

ガーナに来て変わったのは、テーブルの上に食後の手荒い用の石鹸(固形や液体)が置かれていること。そんなもん使うならスプーンで食べた方が、手も汚れず余計な物を消費せずに済むのになぜ手で食べるかと不思議に思う。やはりそちらの方が食べやすいのだろうか?

食事後、またエージェントを探して歩く。適当に歩いていたのだが、エージェントはそこそこあって、途中4軒ほど見かける。うち2軒で聞いたらどちらも660米ドル代。うち1軒はトータルで663米ドルとのことだった。ここが今のところの最安値。

そこの人がそのチケットの航空会社は南アフリカ航空だと教えてくれたので、もしや南アフリカ航空に行けばエージェントがとる手数料ぶんの10~20ドルほど安く買えるかもしれないと思い、『ロンプラ』を見て南アフリカ航空のオフィスに向かう。地図によるとOSUという外国料理のレストランや高いホテルが集まっている地区にあるようだったので、そこに向かう。

歩くと1時間くらいかかりそうなところだったため、また腹の雲行きが怪しくなったため乗り合いタクシーに乗る。途中、どでかい政府関係の建物の近くやこアフリカで見た中では一番立派なサッカースタディアムの前を通っていくこと15分ほどで、OSU地区に到着。運賃0.5セディ(約50円)。安い!あとは歩いて探す。

『旅行人』にはこの地区は東京で言えば六本木なんて書かれてあったが、町並み自体はどこか町外れのような感じで統一観もないし、建物の高さも千差万別。高層ビルはない。意味のわからない漢字を彫った人が載っている入れ墨屋の看板やアクセサリー屋、ファーストフード店風のカフェなどがごたごたと並んでいる。

さて、目的の南アフリカ航空だが、これが見つからなかった。がっかり。エージェントがここにもいくつかあったので、ここで安ければここで買おうと3軒ほど回るとどこも760米ドル前後という。しかも同じ南アフリカ航空で。なんじゃこれはと思い、もしやこの1時間ほどで値上がりしたのかと不安になる。ブエノスアイレスでチケットを買ったときはチケットの値段を聞いてから4時間ほど後に、チケットを買いに行ったら燃料税がこの数時間の間に上がったと40米ドルほども最初に聞いていた値段から上がっていたことがあった。

ただ、それにしても100米ドルも上がるというのは考えにくく、金持ちが多そうな地区だから手数料をかなり取っていることも推測される。しかし、いくらかでも値段があがることはあり得るので、さっきの最安値だったエージェントに急いで戻ることにする。

乗り合いタクシーはルートが決まっているようなのだが、どの車にも行き先が書かれていないからどれに載っていいかわからない。さっき乗った乗り合いタクシーは運転手が「OSU、OSU、OSU」と大声で行き先を告げながら走ってきたのでわかったのだが、こうして待っているとそういう人はいない。

しょうがないので適当にタクシーを止める。2人客が乗っていたのだが、しばらくして2人とも降りる。運賃を聞くと40という。1セディ=100ペソ(名前未確認)だったかだったので、てっきりさっきと同じように0.4セディかと思う。

運転手は地図を見せても現在地と目的地の位置関係がわからないようで、途中、違う方向に行こうとするので、右だ左だとぼくが指示する。

無事、目的地に着き、1セディ札を出すと4セディだと言い出す。あんた40と言っただろうがと文句言うが、40000(forty thousand=4セディ)だと言う。そして、だから客を2人降ろし、その後誰も乗せなかったと言う。そんなこと頼んでもないし、だいたい外国人相手にデノミ前の単位を使うなボケとつっぱねようかと思うが、400円のために言い合いしている間に航空運賃が上がるのも嫌だったためさっさと4セディ払う。まったく!

エージェントのオフィスに入り、さっき対応してくれた女性にチケットを買う旨伝える。すると彼女は、ゲームでもしていたのだろうパソコンのマウスから手を離し、準備を領収書などの手続きを始める。オフィスのテレビではアメリカのドラマ「ホワイトハウス」が流れていた。

ぼくはATMでおろした札を数える。すべて10セディ札で800枚あるから数えるのも一苦労。100セディ札があるんだからATMに入れとけよな。

そんで彼女にカネを渡すと、彼女はバッグを用意して、戻ってくるから待っていてと行って、オフィスを出ていった。

喉が乾いていたので、オフィスに備え付けられていた冷水機(20リットルほどのでかく分厚いペットボトルがひっくり返って付けられているタイプ。外国ではよく見る)でコップ2杯の水を飲む。

オフィスには2人の女性スタッフがそれぞれの机に座り、パソコンの画面を眺めている。客は一人も入ってこない。きっと毎日こうなのだろう。これで給料がもらえるなら、なんともラクな仕事だ。

40分ほどして彼女が戻ってきた。そして買ってきたらしいチケットをぼくに見せ、名前と日付を確認する。チケットを見るとチケット代そのものは片道225米ドル(セディで払ったが、すべて米ドル表記)で往復450米ドルしかしない。なのに各種税金で200米ドル以上も上がり、結局663米ドルになっている。

とりあえずは、アクラでの一大事が終わり、宿に戻る。

宿でパイナップルを1個頬張り、それから今後のスケジュールについて考える。するとまたセディが足りなくなりそうだったため近くの銀行に行くことにする。バークレイという銀行で試したが、やはりこの近辺のATMではおろせず。

銀行の向かいの中学校のグランドでは、若い男たちがサッカーの試合をしており、それを見にやはり男たちがグランドの周りに集まっている。グランドはぼこぼこ、サッカーボールも皮ではなくゴムのように見えた。ゴールも木材で四角くかたどってあるだけ。端から端までは100mもないので試合展開が早い。一本蹴りあげればゴール前になる。南米ではこうしたサッカーの風景は見なかったが、アフリカではあちこちで見る。観客も熱心に見ている。

サッカーをちらりと見て、ほかに銀行がないか探すが見あたらず。結局、この日はあきらめることにする。

宿に戻る途中、ガソリンスタンドに併設されている店でガーナ産のチョコレートを買う。普通の80g程度のサイズのものと30g程度のサイズのものとがあり、赤いパッケージと青のパッケージの2種類があった。パッケージにはちゃんとmade in Ghanaとある。

ガーナのチョコレートはおいしくないと『旅行人』にあったので、用心して小さい方のを2種類買う。早速食べてみると、両方とも日本の普通のチョコレートとは違う味(でも、他国ではたまにある味)で、青のパッケージの方がまずい。もう1度食べたいとは思えない味。赤はまだ食べられるが、なんか余計なモノが混ざっている感じがして、甘さが口に合わない。

宿に戻ると、OSU地区に行ったときに飲んだビニール袋入りのカカオ飲料のせいか腹の調子がおかしくなる。あのとき飲んだカカオ飲料(つまりはココア)は、明らかに水がおかしいだろ!というような味だった。

よって、この日は晩飯を食えず。その後は宿で過ごす。

Fin

[diary]ロメからアクラ(ガーナ)へ

ロメからアクラ(ガーナ)へ

08/08/12(火)
[Lome:Togo→Accra:Ghana]

・ビザをゲット
・バイクで国境へ
・バスでアクラへ
・大都会?アクラ

(未完)

[diary]ガーナビザ申請、市場、カネを取られて

ガーナビザ申請、市場、カネを取られて

08/08/11(月)
[ロメ]

・ガーナビザ申請
・市場
・ビーチでカネを奪取されて


(未完)

[diary]コトヌーからロメ(トーゴ)へ

コトヌーからロメ(トーゴ)へ

08/08/10(日)
[コトヌー→ロメ]

・乗り合いタクシー
・国境でビザをゲット
・海鮮麺を食べる

(未完)

[diary]コトヌーで休息

コトヌーで休息

[Cotonou:Benin]

08/08/09(土) 晴れ

・両替
・港
・魚の薫製

7時前に起床。

ふとCFAが足りないことに気づく。明日トーゴの国境で取る予定のビザはたぶん10000CFA(約2500円)代が手元のCFAでは足りないことに気づき、両替に行くことにする。しかし、今日は土曜日。とりあえずホテルのフロントのおじさんに英語で聞くと、「市場にあるブラックマーケット」に行くしかないと言われる。もちろん、レートは悪いと。

昨日、両替しておけば良かったと思いつつ、ただ昨日は帰りが遅かったから無理立ったなと思い直し、だったら一昨日両替しておけば良かったなと反省。

ただ両替ができないことはないようなので、念のため両替屋の店舗が集まっていた通りを経由してから市場に行くことにする。

宿から東に数本行った広い通りBlvd Steinmetzにまずは向かう。するとWestern Unionの看板を出している銀行(?)のようなところが開店していたので、そこに入る。表の看板を見ると土曜は8時から14時まで営業しているとあった。中に入って窓口の人にフランス語で両替できるか聞くと、できないと言われる。Western Unionの看板を出していて両替できないというところはけっこうあるので、ここもその1つのよう。

窓口の人は親切にも両替屋があそこにあるから、そこで両替するよう教えてくれる。

言われた店に行く。入り口は開店扉。警備員が入り口付近にいる。中に入って窓口に50ユーロ札を出し、両替したい旨伝えると、すんなり両替できた。ベナンでは初の両替だったが、マリに比べるとレートがいい。

とりあえず今日やらねばならないことはこれで終わり。せっかっくなので市場近くを回って、明日乗る予定の乗り合いタクシー乗り場を確認することにする。

道を歩いていたらまた別の両替屋があった。その前を通り過ぎてから、今度はさっき両替したぶんだけだと明後日申請予定のガーナのビザ代ぶんが足りなくなるかもしれないと思い、また両替する。窓口の女性はフレンドリーな人で、英語で対応しながら、ユーロを持っているならここで全部両替したら?といったことをにこにこしながら言う。

これで当面のお金の問題は解決。

道ばたでパイナップルを売っているおばさんがいたので、朝飯代わりにパイナップルを1個食べることにする。例のごとく、包丁で皮を剥いて、黒いビニール袋に果肉だけ入れてくれる。

それを頬張りながら市場方面に向かう。土曜日だが、今日も人出は多い。

タクシー乗り場を確認。

それから予定を変更し、標識にPortとあったのでそちらに行くことにする。

ずずずっと歩いていくと港湾沿いには立派な政府の施設が建っていた。周りの建物とは比較にならないほど立派。けっこうカネがあるんだなと思ってしまう。


海岸沿いの道を歩いて宿の方面に向かっていると、右手(海の方)に畑が現れた。1ヘクタールほどの敷地でレタス、キャベツ、タマネギ、トマトなどを栽培している。土質は一見した感じでは砂浜のようなさらさらした砂地。スプリンクラーがまわり、20人くらいの人がそれぞれの野菜の区画で草取りのような作業をしている。

記念に畑の写真を撮っていたら、農場の若い男がきて、中に来るように言う。一瞬躊躇してから、行ってみることにする。彼に案内されてタマネギ畑の間の道を歩き、敷地の中央あたりにある椰子の葉葺きの休憩小屋のところまで行く。そこには5人ほど集まっていて、真ん中にふとっちょのおじさんが地面にどでんと座っていた。若い男がいうにはこの畑のボスらしい。

ボスはぼくを見て、片言英語で話しかけてくる。ぼくが写真を撮っていたのを見ていたようで「Photo no good」と言う。それからそのカメラを見せろと言うので、彼に渡すと「Expensive?」と聞いてくる。その後すぐにおじさんはかかってきた携帯電話に出ておしゃべりを始めたので、終わるのをまち、さっさと畑を後にする。

適当に歩いていたのだが、予想通りに郵便局近くの通りに出た。郵便局のあたりには旅行用のローラー付きのバッグを売っている露店や交差点でDVDプレイヤーを売る人、果物、野菜を売る人などわりと賑やかな地帯になっている。ぼくは一度ここで買った魚の薫製が気になっていたので、薫製を売っている人を捜す。

するとちょうど正面から15歳前後の少女2人が頭の上に魚をそのまま並べた箕あるいは大きな笊(ざる)を乗せて歩いてきた。呼び止めて値段を聞くと800CFA(約200円)。けっこう高いなと思ったが、それをもらうことに。少女は黒いビニール袋に手づかみで魚を入れる。魚は頭を落とした残りをしっぽと腹に2等分されている。その切り身が4つ入っている。たぶん2匹分の薫製だから約200円だったら安いか。
これをどうやって作っているかが気になる。

それからホテルに帰る。結局、両替のために宿を出てから3~4時間ほどふらついていた。

宿でさっき買った魚を食す。皮の油がすごい。見た目は醤油で似たようになっているのだが、食べてみるとやはり薫製。味は付いていないから、あまりバクバクと食べる気にはならず。半分は明日の朝にとっておくことにする。

その後は宿でゴロゴロ。特にでかけることなく終わる。

Fin

[diary]アボメーへおでかけ

アボメーへおでかけ

08/08/08(金) 曇り、アボメーは雨
[Cotonou,Abomey:Benin]

夜明けよりやや早く起床。6時半過ぎに夜が明ける。

8時過ぎに宿を出て、アボメーに向かう。まずは宿の近くからバイクタクシーに乗り(300CFA:約75円)、ちょっと離れた乗り合いタクシーの乗り場まで行く。

タクシーはあったものの乗客が1人もいないため、しばらく発車しそうにない。なので、すぐ近くにあった屋台で朝食。ごま豆腐のようなフーフー2個と揚げ魚の半身にツルムラサキのような葉を炒めたカレー汁をかけたもの。これも300CFA(約75円)。量が少なかったので、目の前を通りがかったパン売りの少女からクロワッサンを買う。意外に高く200CFA。丁寧にビニール袋に入れてくれようとするが、断り勝手によさそうなやつを手でつかみ、むしゃむしゃ食う。見た目はクロワッサンだが、サクサクとした歯ごたえではなく、しなっとしている。

クロワッサンを食べているとタクシーの運転手が呼びに来た。予想よりも早い。1時間は待つかもしれないと思っていたのだが、もう客が集まったらしい。

例のごとく乗り合いタクシーの中はすし詰め状態。助手席に男2人座り、後部には成人男性2人に、おばちゃん2人。ぼくは後部座席だったのだが、おばちゃん二人で座席の約6割の幅を占めているから窮屈でかなわない。すぐに圧迫されている左の脚の方がしびれてくる。バスの方が良かったなと後悔。

昨日も通った道をタクシーは走る。ガンビエの入り口の通りを抜けると、舗装されてはいるものの穴がボコボコ空いた道に出る。穴を避けながらタクシーは走るのだが、運転手がまたへたくそなヤツで、急ハンドルで急停車を繰り返す。さらに事故なのか、渋滞で前に進まなくなる。窮屈な姿勢のままいつ走り出すかわからないのを待つのはつらい。

30分ほどかけて渋滞を抜ける。沿道には集落が見える。家は四角で赤茶色の土壁で藁葺きと思われる屋根。マリやブルキナファソで見たような円形の建物は見ない。パイナップルの季節らしく、山積みにされたパイナップルが沿道で売られている。パパイヤやみかん畑も見える。煮炊き用なのか木の枝などを頭に乗せて運んでいる人もときどき見かける。

途中、荷崩れしたらしいトラックが道路脇にいた。積んでいるのは大量の炭で、路肩の方に袋に詰められた炭がごろごろと転がっている。

Bohiconという道の分かれ目にあるまちで3人が下車。これでだいぶラクになる。Bohiconには鉄道の駅があり、そのまわりは露店市のようになっていて、人がおおぜい通りに出ている。売られているのは、トマトや唐辛子、キャベツ、人参、小さな大根など野菜や果物、輸入品らしいお菓子、服、箒などなど。

そこから9kmほどで目的地のアボメー。雨がポツポツと降り出す。アボメーではだいぶ雨が降ったようで、道の脇には水たまりができている。未舗装の通りは抜かるんでぐちゃぐちゃ。運賃2000CFA(約500円)を払っておりる。

アボメーの地図はなかったものの、途中、見た標識が指していた方向に向かって歩く。目的は歴史博物館。ダホメー王国時代の中心地であったここアボメーにはその当時の宮殿が残っており、それが今博物館になっている。ユネスコの文化遺産にもなっているらしく、博物館入り口近くの看板にはユネスコのマークも出ていた。

レンガ色の土壁に囲まれた敷地内は、壁が4mほどあるため外から中を伺い知ることはできない。入り口付近は未舗装のため、ぬるぬる、どろどろで靴が濡れてしまう。

チケットを買う。2500CFA(約600円)。一般的には入場料は1000CFAなのに、高い。ユネスコに指定されているなら英語も併記されているかと思いきやそれもなし。すべてフランス語。しかもガイドについて回らないといけないと言われ、わからないフランス語を延々聞かされても時間の無駄なので、さっさと出る。

展示品は何のためなのかわからない作りものや、当時着られていた服、奴隷貿易で入手したらしい鉄砲など。宮殿といっても壁に囲まれた中に長方形の平屋の建物が何棟かあるだけで、敷地内はほとんどが庭というか草も生えていない更地。通路用の飛び石のようなものもないので、これまたドロドロになる。

客はフランス人らしい人らが4人ほどと、ベニンあるいは近隣の国の人が5人ほど。中学生くらいの少女はメモをとりながら話を聞いていた。

なお、敷地内にある建物壁には彫り物の絵が描かれていて、見た印象だと奴隷狩りを表したような絵だった。

奴隷貿易はヨーロッパが主導したことには間違いないのだろうが、こうしてアフリカ内部にも協力者(共犯者?)がいたことは大きかっただろう。メキシコのアステカやマヤにしても、それらをよく思っていなかった周辺の国(日本で言えば藩?)や民族が、ヨーロッパ勢力に協力しなければ、あのように滅ぼすことはできなかったと言うし、要はどこも同じような手法でヨーロッパにやられているのが、今から見ればなんとも惜しい。また、それだけ現地の事情は複雑だったということは考慮に入れる必要はある。

一方で、たとえばベナン人でこの国に以前奴隷貿易で儲けた王国があったなんて知っている人はどれくらいいるものか、と思う。どこかで見た話では、義務教育の就学率は5割を切っていたように思う。学校で教えられなければ、そういうことを知る機会はないのではないか。

アフリカから南北アメリカやカリブ海に、またアラビア半島などに人々が連れて行かれたということは、親や音楽から知ることはあろうが、ちょっと細かな話になるとなかなか活字やテレビなど教育媒体を通してでないと難しいように思える。

まぁ、しかしそういうことを知っていることが生活上で何か役に立つかというとたいして役に立つようには思えないし、日本でだって学校でならってもたいてい忘れ去られているから、そうした歴史を記憶することと教育環境が充実しているかどうかというのは、あまり関係がないかもしれない。

それにしてもユネスコに指定されているくらいなんだから、英語で書いた説明文(紙)を貸し出すくらいのことはしろよな、と思う。フランス語がわかる人間なんて、たいしていないだろうが。まったく。

いらいらしながら歩いていると、ニーハオだのジャッキーシェンだのとといった言葉が飛んでくる。まったくうっとうしい。東アジア人はみんな中国語をしゃべると思ってるんじゃないか。暇なんだからちっとは勉強しろ。

雨がだんだん強くなってきたので、雨宿りがてらネット屋にはいる。1時間500CFA(約120円)。なかなか早い。ガーナから南アフリカに行くチケットをまたチェック。1000米ドル代ばかりで安いのが見あたらない。腹がへったので、ここで売っていた見た目小さなマドレーヌのような菓子を買う。100CFA(約25円)。甘さが足りない。

雨があがったところで帰りのタクシーを探しつつ、まちを散策。メインの通りは舗装されているものの、ほとんどが未舗装。今し方降った雨のため、あちこちに水たまり及び小さな川ができている。

客の入っている食堂があったので、そこで昼飯。鍋の中を見せてもらい、4種類ほどあった料理の中から選び、トータル400CFA(約100円)でとお願いする。主食はキャッサバをふかしてぺったんぺったんとついたらしいもの。名前はわからない。色は白く、歯ごたえはそばがきに近い。それ自体にはあまり味はないがさっぱりとしていてうまい。

店内の白黒テレビ(というかカラーなんだけど、色が出ていない)は、北京オリンピックの入場式の様子を映している。アフリカの国々の代表選手の数は少ない。ベナンなどでもサッカー以外ではいわゆるスポーツをしたことがある人なんて少数だろう。

食事をしていたらちょうど店の前で細長い臼を使って、女の子二人が今食べていたものをついていた。店のおばちゃんが、臼に入っているもののかけらをくれたので、食べてみるとさっき食べたものと同じ。

もうしばらくぶらぶらしようと思っていたら、食堂の前の通りを挟んで向こう側にたむろしていた若い男たちがプシューとかいう音を立てて、こちらを呼ぶ。そして、そのうち一人がニーハオ、ニーハオと連発しながら手招きする。こういうヤツに禄なヤツはいないからそいつは無視。手招きするくらいなら自分から来いや、ボケ、と内心つぶやく。

別の男が呼ぶので行くと思った通りタクシー屋だった。コトヌーまで行くというので、ちょっと早いかと思ったが、車に乗り込んで車内で待つ。しばし昼寝。

1時間ほど待って、タクシーは発車。自然とシャコタンになっているこの車は、ちょっとしたでこぼこがあると車の腹をガリガリと削りながら走る。窓を開けるためのノブはついていない。

客は助手席におばさんとおじさんの2人、後部座席にぼくと若めの男2人と2人の子連れの母親1人。子どもは1歳に満たないくらいの子と3歳くらいの子。なので、運転手を入れれば、普通の乗用車に9人乗っていることになる。当然、坂道になると20kmくらいしか出ない。ただ、行きのようにはきつくなかったのが良かった。

帰りも途中、事故で渋滞したり、道の脇を葬儀の人たちが歩いていたりで、かなり時間がかかる。

途中、休憩がてら休んだポイントでは、ネズミのような格好をした丸焼きの肉を売っていた。固そうなので買わず。

後部座席に乗っている女性はときおり授乳している。道ばたで立ち小便をしていた小さな男の子は、ぼくを見つけると、小便している格好のままニョボ(白人という意味らしい)と言いながらこちらを指さす。

そうしてコトヌーに着いたのは日暮れ後だった。帰り道、水、フランスパンのサンド(アボカドペースト)やドラム缶で焼いている肉などを買って、部屋で夜食。

割れていた時計のガラスの破片が中に落ち込み、時計の針が動くのを邪魔するので、すっかり時計が狂ってしまう。また修理しなければならない。

Fin

[diary]

[diary]パスポートの受け取り、ガンビエへおでかけ

パスポートの受け取り、ガンビエへおでかけ

08/08/07(木) 曇り、ときどき雨
[Cotonou,Ganvie:Benin]

今日も夜明けとほぼ同時に起きる。6時半過ぎ。ベランダに出てみるとやはり曇っている。朝はいつもこんな調子だ。

10時まで部屋で日記書き。

それから宿を出て、郵便局を経由して、イミグレに向かう。これでコトヌーに来て3度目のイミグレ。10時40分ごろにイミグレ近くまで来たので、近くの屋台で朝飯。ぶっかけご飯。白飯にカレー汁。だんだんとわかってきたが、ここの屋台料理は種類が少ない。どこに行っても同じ味付け、同じ具(というか具はほとんどない)。おそらく3~5種類しかないのでは。

その後、イミグレに行く。窓口にビザ代支払い済みを照明する紙を出す。対応してくれた人は昨日と同じ女性。国籍を聞かれ、ジャポンと答えるとあっさりとパスポートが出てきた。昨日はなんだったんだ!

パスポートの受け取りが予想外に早く終わり、予定通り今日はガンビエに向かう。イミグレ前からバイクタクシーに乗り、ガンビエ方面に行くタクシー乗り場に連れていってもらう。

つづく(未完)

[diary]パスポートの受け取り延期、ウィダへおでかけ

パスポートの受け取り延期、ウィダへおでかけ

08/08/05(水) 朝は曇り、昼は晴れ
[Cotonou,Ouida:Benin]

・もらえなかったパスポート
・奴隷貿易の拠点ウィダへ

7時前に起床。しばらく日記書き。腹の調子は回復した模様。やはり食って治すというやり方の方がいいらしい。

しばらく日記書き。

10時過ぎ、イミグレへパスポートを取りに行くため、宿を出る。宿の周りの裁縫屋ではすでにミシンが動いている。

途中、屋台で朝飯兼昼飯。まわりの人が食べているものを適当に頼む。出てきたのは、黒豆のようなものと一緒に炊いたべちょべちょのご飯と少量のパスタの麺、揚げた魚の半身にカレーのような汁をかけたもの。ご飯の量はやたらと多いが、汁の量が少ない。500CFA(約120円)。

ご飯を写真に撮ると、その様子を見ていたわかいにいちゃんが、声をかけてきて一緒に写真に写ることはできないかというようなことを言う。フランス語でもないし、英語でもないから言葉はよくわからないのだが、どうも写真を撮ってもらいたい様子。リクエストに応えて、写真を撮る。というか、彼の友達がぼくのカメラを使ってぼくらを撮る。デジカメは見たことないようで、ぼくのカメラを渡すと彼はレンズがある方を自分の方に向けて構えていた。

近くの家の2歳くらいの男の子はさっきからぼくの方を見て、家の中に隠れたり、また見に来て、また隠れたりということを繰り返す。

ご飯も歯ごたえがないから噛む必要があまりなく、そのため早々に食べ終わる。

それからイミグレへ。着いたのは10時半前。一昨日、ビザの延長を申請したときには今日11時に来るように言われていたのだが、どうせアフリカのことだから多少はやく行っても大丈夫だろうと見込み、窓口に言うが、11時まで待つように言われる。

しょうがないので11時までベンチに座って待つ。ビザの申請窓口には30代後半から40代くらいの中国人男性が3人とインド系の男性が2人、ヨーロピアンが4人ほど。

11時前になって窓口に再度並ぶが、受け取りよりも申請者を先に通すため、なかなか受け取れない。列に並んで待つこと30分。そして、自分の順番になると裏から建物の中に入れと言う。だったら最初からそう言えよ、と思うのだが・・・。

建物の中に入り、さっきの窓口の人とは違う係官に申請したときにもらった紙を見せる。それを元に男の係官は、パスポートの束の中から探そうとするのだが、それぞれのパスポートの色を一見しただけで、ぼくのはないとわかる。しかし、ここにはないとフランス語でどう言うかわからなかったため、待つ。イミグレの職員のくせに英語を解さないから、面倒くさい。

係官は、他の職員とおしゃべりしながら、また途中親しい人が来ると手を止め、しばらくおしゃべりをするなど、マイペース。こんなペースで仕事ができて給料がもらえるなんて、天国だろうな、とつい思う。

結局、彼はぼくのパスポートを見つけることができず、明日また来いと言い出す。今日、取りに来いと言うから来たのにまた明日来いなんてバカじゃねぇかと思いつつも、どうせ待っていても時間の無駄だと思い、憮然としながらさっさと出る。

結局11時前に来て、12時過ぎまでかかってしまった。まったくビザは面倒だ。国境で出せばいいのに、国境ではトランジットしか出さず、みなここに来て延長手続きをするようなシステムになっているから、職員がさばけず、あるいは見落としたりしてこんなことになる。

予定では、このあとパスポートを持ってガーナ大使館に行って、ガーナのビザを申請し、明日は午前中から遠出しようと思っていたのに、それがパー。特にガーナのビザは中1日はかかるから今日申請しないと、土日が来るから受け取りが来週になってしまう。また、日程を考え直さないといけなくなり、いらいら。

イミグレの前からバイクタクシーに乗り、ウィダ行きの乗り合いタクシーが出ているところまで行く。

排気ガスで白く煙る広い通りを10分ほど走って、乗り合いタクシー乗り場に到着。ちょうど客がもう少しでいっぱいになるというタクシーがあったので運賃を聞いてから乗り込む。セネガルを出てからは大型バスで長距離は移動していたため、移動中きつい(狭い)思いをすることはあまりなかったのだが、さすがに乗り合いタクシーということで、助手席をあてがわれたものの、もう一人おじさんが乗ってくる。おじさんは、あまりこっちのことは考えずに幅を取るから、ぼくは助手席と運転席の間のわずかなスペースにまではみ出して座る。左太股のところにギアがあるので、運転手がギアを変えるときにはいちいち足をややずらさなければならない。

コトヌーを出ても、沿道には店がちょこちょこ並び、2カ所ほど大きなマーケットを見る。トウキビ畑やパパイヤがぶら下がっている木を見る。瓶にガソリンを詰めて、小売りしている人多数。

ウィダには1時間ほどで到着。運賃600CFA(約150円)を払う。

降りたところには広場があって、ポツポツと屋台や物売りの人がいた。のどが乾いたので、パイナップルを売っている若い女性からパイナップルを1玉(?)買う。ベニンでうれしいのは小型のパイナップルが50円程度で買え、しかもその場で皮を剥いてくれること。これはすばらしい商売だ。今回のお値段は175CFA(約40円)。

パイナップルを頬張りながら博物館を探して歩く。歩いているとやはりみんなの視線を感じる。小さい子どもの中には、異星人が来たかのような顔をして、親の陰に隠れながらこちらを見る子もいる。

ここはコトヌーと違ってバイクも少ないから、落ち着いていて日本で言えばさながら日曜日の雰囲気。なんだかいい。

広場から東へ200mほど歩くと、左手にわりとでかい教会が現れる。あとで聞いたところによるとベニン最初の教会らしい。その向かいにはちょっとした広場を挟んでブードゥー教の建物らしきものがある。ブードゥーでは蛇が神聖視されているらしく、その蛇を首からかけた女の人の像も建てられていた。

ロンプラの地図を見ながら、教会を右に曲がって歩くと、ブードゥーの建物の裏の広場で10歳前後の男の子たちがサッカーをしていた。だいたいみんな裸足。元気がいい。ぼくを見つけたある男の子が寄ってきて写真を撮ってというので、写真撮影。一枚撮るとすぐにサッカーに戻っていった。

その先を左に曲がってまた200mほど行った右手に目的の博物館はあった。ウィダ歴史博物館は、奴隷貿易が盛んだった時代に奴隷の収容施設のような形で使われていた建物を使っているらしい。入場料1000CFA(約200円)。

博物館の入り口の門をくぐると右手の建物に行くように言われ、階段を上って2階に行くと、なんと日本人が10にんほどいた。ツアー客のよう。ちょうどこれから解説員について展示を見て回るところだったらしく、ぼくも一緒に回ることになる。ツアーの添乗員が解説員の英語を日本語に訳してくれるのでラク。

展示されているのは、ダホメー王国最後の王の写真や対フランス戦争時の絵、奴隷貿易で稼いだヨーロッパ人の肖像画、壷のような形をしている楽器というか音を出す道具(法螺貝や鐘のような役割をしていたらしい)、アフリカで最初の貨幣(=貝殻)、ポルトガルから入ってきたパイプ、ブードゥー教に関する写真や楽器などなど。

興味深かったのが、ブードゥーがブラジルやキューバ、ハイチに根付いていて、そのハイチから持ってきたという太鼓があったこと。また奴隷貿易が廃止された後、ブラジルから帰ってきた人の料理がこちらでも一部取り入れられていることなど。

ブラジルやキューバ、ハイチで会った人の中に、もしかしたら先祖がここから連れて行かれた人たちがいたのかと思うと、なんだか不思議な感じだ。

展示品がある建物を出て、同じ敷地内の別のところに案内される。そこはスレイブパークとかなんとかと呼ばれていたところで、そこで奴隷は船に乗るまで拘束されていたらしい。そこには平屋の建物があるものの、それらは兵士用の部屋だったようで、奴隷は屋外で拘束されていた模様(はっきりとはわからない)。また、この敷地の外側には堀が掘られ、そこにクロコダイルがいたため、逃げようと思っても基本的に逃げられないような作りになっていたという。

ガイドのペースで進むので、あまりゆっくりできず、1時間ほどで出る。

日本人を案内しているこっちのエージェントのおじさんが、カーサ・ド・ブラジルという建物があるというので、そこに行ってみることにする。博物館を出ると待ってましたとばかりに一台のバイクタクシーが寄ってくる。若いあんちゃんが運転手で、カーサ・ド・ブラジルに行きたいというと、わかったようなわからないような様子だったが、とりあえず乗る。

ロンプラにはBrazilian Auberge de la Diasporaというのが載っていたので、そこだろうと思っていたのだが、バイクは途中で地図に書かれている方向とは反対に行こうとするので、運転手の背中を叩いてあっちと方向を示す。

運転手は、民族系の装飾がほどこされたバーのようなところまで行って停まり、そこの店の人に場所を聞いている。わかったようではあったが、こいつは当てにならんと確信。もしや本人はここまでのつもりで追加料金を取るつもりではないかと感じ、聞くと2000CFAがどうのという。言葉がわからないので、それが運賃なのかどうかははっきりとはわからなかったが、文脈からそうであろうと思えたので、バイクから勝手におり、ここまでの運賃500CFAを払ってバイクを追い払う。

ロンプラの地図ではまちから4kmとあったので、歩くと30分ちょいくらいかと思いながら歩き始める。道は砂浜のような砂地で、足をとられ歩きにくい。

集落と集落の間は、草ぼうぼう。15分ほど歩くと、左手に奴隷で連れて行かれた人たちを弔うための墓地のような施設があった。そこの前を通りさらに歩いていくと、前方に橋が見え、両脇には湖のような池のような、川のような水辺が広がっていた。水中にはマングローブのような木があったので汽水域(漢字が違うような・・・)になっているよう。

橋の袂から丸木舟が出ており、水上に作られているっぽい集落まで人を乗せていっている。

橋を渡って10分ほど行くと、海辺に到着。砂浜に奴隷が連れてた。

その近くには海の家のようなレストランがあり、道を挟んで向かいでは椰子の実を売っていた。のどが乾いていたため、椰子を1個注文。

180cmほどの身長の店のおにいさんは山刀(?)のようなナイフでサクサクっと飲み口を作ってくれる。一口飲んだところ、セネガルで買ったマンゴーのように、一瞬口の中がしびれるような感覚を覚える。発酵が始まっているためなのか? セボン(うまい)?とおにいさんが聞いてくるので、ダメと言いたかったが、そのフランス語がわからず、とりあえずウィと答える。まぁ、体に悪いものではないだろうとすべて飲み干す。量は400mlほどか?

飲み終わった椰子の実を渡すと、またザクザクと半分に切ってくれ、中の果肉をはぎ、食べやすいようにしてくれる。この椰子はだいぶ年をくっているのか、果肉が固い。これまで食べた物はどれもぷるぷるしていたのだが、今回のは薄く切った生の大根をかじっているような食感がする。あまりうまくない。

それでもほぼ完食して、捜し物を再開。海岸沿いを適当にふらついて歩くが、それらしきものは見つからず。その代わりでもないが、別の博物館を発見。2mほどの壁で仕切られているその博物館は、これまた不思議な作りをしていた。入り口の扉を入ると中はサッカー場ほどの広さがあって、右手すぐに人間を形どったモニュメントがあり、その後ろにはブランコや滑り台などの遊具が4点ほど。

30mほど行った左手に展示品をおさめている博物館があり、他はただの空き地というか広場というか・・・。まわりはぐるりと壁で覆われているから遊具で遊ぶ子どももいない。

係員のおばちゃんに案内されて、博物館の中に入るとまず奴隷貿易に関する展示があり、その奥には黒人解放運動の歴史に残る人々の紹介など。展示されているものは英語の本の見開き1ページだったり、ユネスコが2004年に作った奴隷貿易に関するパンフレットだったり、どれも英語のものばかり。さっき行った博物館はフランス語だけだったので、なんでここは英語なのかと不思議に思う。ちなみに係りのおばちゃんは英語がほとんどできない。

黒人解放運動で活躍したキング牧師やマーカスガーベイ、フレデリックダグラス、マルコムX、メアリー??のほか、アメリカ大リーグにおける黒人選手第1号のジャッキー・ロビンソンや、陸上100mのアメリカ代表だったジェシー・オーウェンスなども紹介されているから、もしやアメリカ人がお金を出して作った施設なのかとも思うが、言葉が通じないので聞くことができない。なお、南アフリカのマンデラ元大統領やツツ大司教の紹介もあった。

係りのおばちゃんがせかすので30分ほどでそこを出る。奴隷貿易に関する英語のパンフを1冊買う。2500CFA。

ここはそのおばちゃんが一人で管理しているので、そのおばちゃんに入場料の1000CFAとパンフ代2500CFAを払うため、5000CFA札を渡すと、釣りが1200CFAぶんしかないと言い、300CFAを私にといった仕草をする。しょうがないので300CFAはおばちゃんにプレゼントし、そこを後にする。

元来た道を戻る。途中、さっきとは違う人がやっている椰子屋で椰子の実をまた買う。ここも1玉100CFA(約25円)。さっきの椰子はかなりでかかったが、今回はちょっとこぶり。例のごとく飲み口を作ってくれる。飲んでみると今回はしびれるような感覚はなく、ぐいっと行ける。果肉もプルプルしていて良し。

例の捜し物のブラジリアンオーベルジュは結局、宿の名前だったようで、それがわかったところで海岸を後にする。帰りはラクしてバイクに乗る。500CFA。

ウィダの市場までバイクで行き、市場をぐるっと見る。野菜は小さなキャベツ、人参、ピーマンを小さくしたような唐辛子、赤とうがらし、トウモロコシ、米、レタス、つるむらさきのような葉ものなど。わりと種類は少ない。魚の薫製や小魚を揚げた物もあり。それから猿と思われる獣の頭やその他の獣の皮、角などを売っている人もいた。

その後、最初に着いた広場まで歩いていき、またパイナップルを買う。皮を剥いてもらっているときに、それらしいタクシーが通り、確認するとコトヌー行きだったので、パイナップルを受け取ってから乗り込む。

1時間ほどでコトヌーに到着。宿からだいぶ離れたところで降ろされたが、節約のためバイクは使わず歩いて帰る。歩いているとやけにビールの看板が目に付く。

宿近くまで来てキットカットのようなお菓子を売り歩いている少年から菓子を買う。ばら売りしており、1個50CFA(約10円)。この子は、5000CFA(約1200円)=100本ぶんのお菓子を売るのにどれだけ歩くのだろうかとふと思う。

宿近くの屋台で夕食。今回はこれもベニンの名物らしいウォという食べ物がお目当て。店のおばさんにウォ、ウォと5回ほど言ってやっと通じる。アクセントか発音が違ったよう。

ウォはタピオカ(キャッサバ)のでんぷんか何かを使って作った練り物状の主食で、見た目は湯がいたサツマイモをつぶしたような感じ。色は白っぽい。これに揚げた魚の半身がつき、カレーのような汁がかかる。あとオクラのソース(というか、オクラだけでかき混ぜてネバネバさせたようなもの)もついた。

カレー汁の味はなかなかいいのだが、予想外だったのが、目当てのウォの味。一口食べて”えっ?”と思う。なんと酸っぱいのだ。これは腐る過程で発生する酸味なのか、そもそも酸っぱいのかと考えるが、マリで会った旅行者がたしかこっちの方で酸っぱい食べ物があると言っていたから、このことかもしれないと思い、そのまま食べ続ける。やはり酸っぱさの原因がわからないとなんだか不安だし、実際にはあまりおいしいと思えない。酸っぱい物は主食ではなく、付け足しくらいがちょうどいいのかも。

腹が膨れたところで宿に帰る。宿の周りの裁縫屋さんは暗くなっても電気をつけて縫い物を続けている。なかなかよく働く。

Fin

[diary]たけし日本語学校、フェビを食す

たけし日本語学校、フェビを食す

08/08/05(火)
[Cotonou:Benin]

・たけし日本語学校
・キャッサバ揚げ
・フェビを食す

7時前に起床。扇風機のおかげで夜は涼しかった。ベランダに出てみると外はややひんやりしていて、室内よりも涼しい。

気が付くと右腕に蚊に刺されたらしい後が2カ所。昨日、部屋中見て回っても蚊は見あたらなかったし、蚊帳も念のため張って寝たから刺されることはないだろうと思っていたのに。もしかしたらダニか何かかもしれないが、腫れ方が蚊に似ているのが気になる。

午前中はのんびりたまった日記書き。丸1日バスで移動したりするとすぐに日記がたまる。

昼前、調べものがあって近くのネット屋に行く。1時間300CFA(約70円)。

それからバイクタクシーをつかまえ、たけし日本語学校に向かう。建物の名前はジャパンハウスらしいが、2人の運転手に聞いたところ二人とも知らず。ただ、うち一人が地区名を言ったらわかるというようなそぶりだったので、その人のケツに乗る。バイクの数はバマコよりも多く感じる。バマコではスクータータイプのバイクが多かったが、ここではまたがるタイプの、つまりは仮面ライダーなどが乗るようなタイプのバイクが多い。

ぶつかるんじゃないかと思ってしまうほどのバイクの荒波の中をすり抜けながら走ること15分ほど、通りにJapan Houseと書いた看板を発見。左に曲がり未舗装の砂地でぼこぼこしている道を100mほど行くと左手に目的の建物があった。入り口の扉に小さくカタカナと漢字で「ゾマホン」「象真翻」とある。

呼びベルを鳴らしても誰も出てこない。待っていると隣の家の3歳くらいの男の子が”コンニチハ”と声をかけてくる。そこへちょうど中に入ろうという人が来たので、その人と一緒に入る。日本語で見学したいというと、まだ初級者らしかったが、ぼくの意図はわかったようで、奥に先生がいますと日本語で教えてくれる。

その奥に行くと壁のない教室で、ちょうど日本語の授業をしていた。日本人の先生と目が合い、ちょっと待っててと合図される。

入り口付近にある椅子に座ってちょっと一服。教室の手前にあった建物ものぞいてみようと中をのぞくと、中にベニン人の女性が3人ほど、日本人の女性が1人いた。日本人の女性に声をかけると対応してくれ、訪問者ノートに名前を書くよう言われる。それからさっきのぞいた教室を案内してくれ、見学するなら後ろの椅子に座って見学できるがどうかと言われる。

せっかくなので授業を見学。教室は床がコンクリートの打ちっ放しで、屋根と左側の壁はあるものの右側の壁はない。後方と左手の壁にはいろんなものが張られている。たとえば生徒が書いた書道の文字や、ここで日本語を学び、現在日本に留学しているベニン人からの手紙、ビートたけしの写真、ゾマホンと国のお偉いさんかだれかが一緒に写っている写真など。

授業は黒板とチョークを使ってなされており、正面に先生が一人、向かい合って若い男ばかりの生徒が14人ほど。机は日本の学校のように前を向いて整然と並んではいない。生徒の机には基本的にノートと筆記用具があるだけ。中には50音表を広げている人もいるが、教科書らしきものは見えない。

このクラスは3ヶ月前に日本語の学習を始めたらしく、平仮名は読めるらしい。今日は自己紹介などがテーマのようで、「あなたは○○人ですか?」と聞かれたときの対応の仕方などを学んでいる。

授業はすべて日本語。先生である日本人はフランス語を解さない。生徒からの質問も基本的に日本語のみ。だから、生徒が質問しても、質問を的確な日本語で表現できないため、質問の意図がわからないことが多い。ぼくが聞いていても何を聞きたいのかわからなかったし、ある質問においては、ぼくと先生とでは質問の意図を違うふうに理解したりすることもあり。

なるほどそう理解するのかと興味深かったのが、「いいです」と「そうです」の使い分けについて。先生が「あなたはベニン人ですか?」とある生徒に聞くと、彼は「はい、いいです」と答えた。

先生はそれを訂正するのだが、その訂正の仕方が、”「いいです」はダメです、「そうです」はいいです”、といった具合。なぜダメなのかという点には触れない。ぼくはそこが気になるが、生徒の日本語の語彙が十分でないときに、言語論的に細かな説明をしても生徒にしてみればわからないことが余計に増えるだけで、あまり意味がないのかもしれない。だいたい日本人にとっても「そうです」と「いいです」の使い分けがどういう基準によってなされているのかについて、説明するのはけっこう難しいだろう。

この日の授業でやったのは、「あなたは○○ですか?」「はい、そうです」「いいえ、○○です」というやりとりと「この人、その人、あの人、この方、その方、あの方」、「あの人は誰ですか?」、「すみませんお名前は?」といった表現。

授業中何度も繰り返されたのが、普通の言い方と敬語の使い分けについて。たとえば「名前は?」ではなく、「お名前は?」、「ゾマホン」ではなく、「ゾマホンさん」など。先生は、先生から生徒に向かって「名前は?」と言うのはいいが、生徒から先生に向かってそういうのはダメだというふうに、先生と生徒との上下関係(?権力関係?)を使って説明する。ぼくはベニンでも先生と生徒の関係が日本と同じようであれば、その説明でわかるだろうが、もし日本とは違ってより友達感覚に近かったりしたら、この説明の仕方では理解されないのではと思ったりする。

また、日本語を日本人のように話すことの大変さ(これはどんな言語でもそうだろうが)について思う。また、それが本当に必要なのかとも。日本人のように話すためには、まず相手と自分の間の上下関係を知らねばならないし、日本人的な人との距離間のはかり方を知らねばならない。とりあえず敬語さえ覚えておけば、人の気を害するようなことはないだろうから、それを先に覚えるのがてっとり早いようにも思うが、そうなると敬語を使わない会話が理解できないということにもなるから、結局は両方ということになるのか・・・。

また、外国人が敬語を知らなくても外国人だからということで大目に見られることもあるだろうし、ある程度まではそれでもかまわないように思うのだが、”外国人だから”と見られることが嫌な人にとってみれば、そうもいかないかもしれない。

授業時間は90分。最後は、ぼくを使って一人一人自己紹介の練習をして終わる。

授業後、壁に貼られていた山形大学に留学しているというベニン人の手紙を読む。その中に、日本は技術的な面やいろんな面で進んだ国だから、発展途上の私たちの国が日本からいろんなことを学べばもっと国が発展する。そのための言語として日本語は重要な言語だというようなことが書かれていた。

生徒はだいたい仕事の合間などに来ている人が多いようで、授業が終わると早々にみな帰っていった。

授業後、ここで日本語教師をしている人としばらくおしゃべり。その人はアフリカは初めてらしいが、気候について言えば今のところ日本よりもしのぎやすいし、治安もいいからわりと暮らしやすいように感じている模様。

テレビではNHKが流れていて東京の集中豪雨や北京オリンピックまであと3日といった話題を取り上げている。

16時前に学校を後にし、歩いて宿に戻る。途中、キャッサバを道ばたで揚げて売っているおばさんがいたので、100CFA(約30円)ぶん購入。5切れほど。さつまいものような味がしてうまい。こうした揚げ物売りのおばちゃんは道ばたでしばしば見る。さっき食べたのがうまかったので、違うところでまた100CFAぶん買う。

こちらでは屋台で食事をするときも、いくらかと訪ねると、いくらぶん欲しいんだと聞かれる。つまり、買う方が値段を指定して買うスタイルになっている。200CFAぶんくれというと、それだけのぶん盛ってくれる。量はごまかされる可能性はあるが、値段がごまかされないからこのスタイルはなかなかいい。

バイクの排気ガスで白く煙る通りを30分ほど歩いて宿に戻り、一服して晩飯を食いに出る。18時くらいになると日がだいぶ傾いて、ずいぶん涼しくなる。

近くの端の袂にある市場はトタン張りの小さな商店と露店がひしめき合う一大商業地になっている。そこに安い飯屋があるとガイドブックにあったので探す。が、もう少し遅くなってからでないと始まらないのか、あるいは今日の営業は終わったのか、営業していない飯屋も多々あり。

たまたま客が入っていた飯屋を発見し、そこでフェビという料理を食べる。フェビとはオクラのことらしいが、それが料理名になっているよう。ここでも値段を言って盛ってもらう。2個のフーフーと揚げた魚の上にオクラ入りのスープをかけた食べ物。正確にはスープと言うよりは、オクラの粘りで中華料理のあんかけの”あん”のようになっている。スープの具はオクラと何かの葉物だけ。

これを手で食べるのだが、フーフーはすぐ崩れてしまうし、オクラのスープは粘っていてつかめるものじゃないから、うまく食えない。結局、フーフーの固まりをスプーン代わりにして、さらに口をつけ、流し込むようにして食べる。向かいで似たようなものを食べてたおじさんは、指先をすっかりスープにつけて食べていたが、ぼくは腹に自信がないので、そのようにはできず。

味は基本的にカレー味で、ピリッとした辛さがなかなかいい。味はいい。が、手で食べるには食べにくい。

テーブルにはカップに水がくまれ、それを使って最後に手を洗う。別に受け皿用のボールが用意されているので、ボールの上で食べ物を掴んだ右手に水をかけ、手を洗う。

腹が膨れたところで宿に戻る。シャワーを浴びてあとはのんびり。

Fin

[diary]コトヌーに到着、ビザ延長、ぶらぶら

コトヌーに到着、ビザ延長、ぶらぶら

08/08/04(月)
[Cotonou:Benin]
・故障
・4時に到着
・ビザ延長手続き
・フーフー
・縫い物工場

コトヌー行きのバスの中。昨日2度ほど聞いたガラガラと歯車が噛み合わないような音がして目が覚める。そしてバスが停まる。客の数人はアー!とあからさまに残念そうな声をあげる。

しばらく修理のため停車。ぼくはまた寝る。

バスはまた走り出す。ぼくは寝たまま。

バスがまた止まり、エンジンが止まるのを聞いてまた起きる。今度は終点のコトヌーに着いたのが理由だった。

寝ぼけた状態のままバスを降り、リュックを受け取る。いつものように到着時間は朝の4時。ワガドゥグを朝早くに出て、こんな時間に着くなら、向こうを昼に出れば昼前に着くだろうに、なんでこんな時間割で走るのか謎だ。

今回もまた朝までターミナルで待つ。幸いベンチの上が開いていたので、ベンチで寝る。

明るくなった頃に目覚める。時計は5時半をさしている。気が付くと右手の中指2カ所を蚊にやられていた。

ちょっと早いけどと思いつつ、ターミナルを出て宿に向かう。今回は『旅行人』に載っていた宿を目指す。ターミナルの前にはタクシーはなく、バイクタクシーばかり。黄色のビブス(って言ったけ、ゼッケンみたいなの。ところでゼッケンの語源は何だろう?)を着けたバイクがぎょうさん走っている。

自動車のタクシーをつかまえようと車道のわきで待っていたのだが、これが来ない。バイクタクシーもたいてい客が乗っていて空きがない。ターミナルの入り口で声をかけてきたときに無視したドライバーがまた寄ってきて、どこに行くのかというのでホテルの名前を言うと、それは友達のホテルだから大丈夫という。

運賃を聞くと1000CFA(約300円)。バイクだからもっと安いだろうと思ったが、許容範囲なので言い値で了解する。125ccクラスのバイクの後ろにリュックを背負ったまままたがる。

バイクは橋をわたり向こう側へ。橋からの風景は予想外のもので、川辺にびっしりとトタンを張り合わせたような家が並んでいた。中には水上に張り出している家もある。

道路上は四方八方がバイク。もうバイクだらけ。当然、排気ガスがすごい。朝靄のように白い煙が漂っている。

橋を渡ると銀行や両替屋が両脇に固まって通りに出て、その先ちょっと行ったところでバイクは左に曲がり、さらに3つ目の角でまた左に曲がる。他のまちと同様、舗装道路を1本入ると未舗装の通りで、ここの場合は砂浜のような砂地だった。バイクが走るには走りにくい。

目的の宿にはちゃんと着く。無事チェックイン。4階の部屋の鍵をもらい、階段を上る。

部屋はコンクリート打ちっ放しの床に水色に塗られた壁。広さは9畳ほどあり広い。ベッドもそこそこ大きいが蚊帳はない。部屋に入って右奥の角に壁で隔てられただけのシャワールームがある。その脇のドアを開けるとベランダがあり、あたりを一望できる。トイレットペーパー1ロールと石鹸もついて4000CFA(約1000円)は、西アフリカにしてはすばらしい。なお、中南米だったら半額だろう。

なにより気に入ったのが、ベッドの上に電気のボタンがあること。入り口とベッドの上にあるから、寝るときにいちいち入り口まで行って消す必要がない。こんな宿は初めてだ。

シャワーを浴びてしばし休憩。シャワーはもちろん水のみ。

イミグレにビザの延長に行かないといけないので、その位置をガイドブックで確認しようとしたところ、ロンプラがない!

あれっと思い、入れてたはずのカバンの中を探すが見あたらず。これはバスの中に忘れたなと思い、宿を出てバイクタクシーをつかまえるが、こいつが行きたいバス会社のターミナルがわからなそうだった。ただ乗れというから、乗ってからぼくがさっき通ってきた道を思い出し、方向を指示する。

バスターミナルに着き、乗ってきたバスの中に上がり込み、座っていたあたりを見ると、座っていた座席の前の座席の下に落ちていた。バスのドアには鍵がかかっていないから、こういうときに助かる。

無事、本を取り戻し、またバイクに乗って宿に戻る。フロントの前を通ったとき、時計に目をやると7時をまわっている。自分の時計はまだ6時台。そう言えば、ここは1時間早くなるのかと思い、宿の時計もあまり当てにならないのでガイドブックで時差を確認する。

もうすぐ8時になることがわかったので、ビザを延長するためにイミグレへ向かう。宿近くの通りに止まっていたバイクタクシーにイミグレに行きたいというと3人続けてわからないと言われ、4人目でわかる人をゲット。運賃を聞くと300CFAと言う。やっぱりターミナルから乗ったバイクは3倍くらいぼっていた。

イミグレに到着。8時には開くはずなのだが、まだ開いていない。8時半になってようやく開く。

"Visa"と書かれた窓口でビザ、ビザと言っていると申請用紙をくれる。ここの申請用紙はマリと違って英語とフランス語併記。だから、英語での記入でオッケー何だろうと思って記入したところ、あとでフランス語で書くよう訂正される。宿の住所や電話番号を書くように言われたが、覚えていなかったので、手元にあったガイドブックから適当に見繕って書く。親の名前や、もし仕事をしているのであれば、会社の住所なども書かないといけない様式になっていた。アフリカに入って以降は学生で通しているが、こういうときもやっぱり学生がラクだ。

なんとか記入が終わり提出する。この周辺の5カ国共通のビザがここで取れるとロンプラにあったので、ここで取れればニジェールにも行こうかと思っていたが、窓口の女性は取れないという。ベニンのビザのみらしい。一番短いものが1ヶ月だったので、それでお願いする。そのやりとりの際には、同じくビザを申請しに来ていた若いフランス人が、窓口の人のフランス語を英語に訳してくれる。ありがたや。

結局、ここでトランジットビザ代10000CFA(約2500円)も取られ、1ヶ月ビザの12000CFA(約3200円)とあわせ、約6000円の出費。

しかも今日発行してくれると思いこんでいたのに、明後日取りに来いといわれる。今日、取れればこのままガーナのビザも取りに行こうと思っていたのに、がっかりだ。

歩いて宿に向かう。途中、パパイヤをカットしてビニール袋に入れて売っていたので久々のパパイヤだと思い、とびつく。が、これがあまり熟れていないパパイヤで大根のようだった。それから椰子の実を売っていたので、それで喉を潤す。100CFA(約50円)。果肉がうまい。

それから露店で軽食。ここの名物のフーフーを食べている人がいたので、それに釣られてぼくも食べることにする。フーフーはトウモロコシの粉(だったと思う)をどうにかして、寒天のように固めたもので、ここ主食の1つ。

フーフーは水筒の蓋のようなプラスチックの容器に入れられて固められていて、それ1つが50CFA(約25円)のようだった。なのでフーフーを2つ頼み、それに汁をかけてもらう。汁はカレー汁。インドカレーのように水状でピリッと辛いのがうまい。フーフーの歯ごたえは胡麻豆腐に近い。一般的な豆腐よりも固く、しっかりしている。それ自体にはほとんど味はないので、カレー汁に浸けて食べる。カレー汁には具が入っていないので、ちと物足りないのだが、フーフーを食べられた感激でいっぱいになる、と書いてみる。計300CFA(約80円)。

また歩いて宿を目指す。途中、ホテル併設のネット屋があったので、そこでネット。スピードはまぁまぁだが、ブルキナ、マリと比べると遅い。1時間300CFA(約80円)。

宿に戻って休息。昼寝。

2時頃、また外に出る。一時期奴隷海岸と呼ばれていたこの地域の海辺に向かって歩く。

海近くには郵便局やオフィスビルのようなものもあり、ちょっとハイカラ。定食が1500CFA(約300円)ほどするレストランが10軒ほど並び、屋台や露店も多い。肩からベルトやジーパンを下げて売り歩いている人たちも多い。

露店の中にどうも燻したらしい魚を売っている店があったので、試しに魚を買う。歩きながら食べてみると、薫製の味。あまり塩気がないのでちょっと絞まらないが、まぁ、いける。小魚を揚げた物を売っている露店もあったので、そこでも100CFA(約20円)ぶん買う。こちらはチリソースがかかる。またこのチリソースが辛くてうまい。

郵便局前には手帳などの文具を売る露店が5店舗ほど並び、絵はがきも売っていたので久々に購入。マリ、ブルキナファソと絵はがきを見なかったので、しばらくぶりだ。郵便局では切手も購入。

海まで行って、ちらっと海を眺める。砂浜がずっと続いていたが、波は緑色に濁っていてあまり美しくない。暑さのせいか寝不足のせいか、腹の不調のせいか、なんだか足取りが重い。しかし、来た道を戻るのは面白くないので、別の道を通って宿に帰る。

途中、道ばたの果物屋で小玉スイカ1玉と夏みかんのような大きな柑橘を買う。スイカは500CFA(約120円)。みかんの方は10個ほど入って1000CFA(約240円)。ぜんぶで5kgほどの重さになり、どうせなら宿の近くで買うべきだったと後悔する。

宿に戻って、宿でペットボトルの水1.5リットル500CFA(約120円)を買い、部屋に戻ってベランダで外を眺めながらスイカを食べる。

旅の前に友達にもらったアーミーナイフで半分に切り、メキシコで買ったスプーンでくり貫きながら食べる。そこそこ甘いが、とびきりうまいってほどではない。ふと、こちらの人は冷たいスイカを食べたことがあるのだろうかと思う。北の山間部であれば、川にでも浸しておけば冷たくなりそうだが、その川の水も想像の範囲では冷たそうにない。こっちの海側になると切り身にして冷蔵庫に入れるしかないだろう。山形にいた頃なんか、山に近い田畑を耕していたから、脇を流れる水路にキュウリなどを浸けて、冷やして食べていたもんだったが、こちらではそういうのも難しいかもしれない。

小玉と言えど、水を飲んだ後に1玉完食するのは厳しかった。が、食いかけのまま置いておくわけにも行かないので、気合いを入れて完食する。その後、ベッドで休憩。

案の定というか、夜、やや腹の調子が悪くなる。まったくダメな腹だ。

夜は扇風機をつけて寝る。掛け布団のようなものが、シーツの一枚もないので、夜中、ちと寒くなり目が覚めるが、暑いよりいい。

Fin

[diary]ワガドゥグからコトヌーへ

ワガドゥグからコトヌーへ

08/08/03(日)
[Oagadougou:Burkina Faso→Cotonou:Benin]

・明朝のチェックアウト、満席
・雨の国境越え
・故障、また故障

夜は仮眠状態のような感じでしか眠れず。何度も目が覚める。4時に起き、荷造りをして宿を出る。

フロントの入り口で寝ていたホテルの人を起こし、チェックアウト。外は外灯の光があるから、道を歩くには不便はない。客は入っていないが、この時間でも開いている小さなレストランを見る。また、道ばたや店の軒先で寝ている人も10人ほど見る。

昨日、下見に行ったバス会社のターミナルまでは宿から歩いて20分ほど。2度曲がったあとはまっすぐの道を歩いていけばたどり着く。しかし、時間が時間ということで、物取りが現れないかやや緊張しつつ歩く。

無事、バスターミナルに到着。人と荷物でごったがえしている。窓口に行くと窓口が開いていない。しょうがないので、窓口の部屋に出入りしている人に聞くが、返事がフランス語なのでよくわからない。担当らしい女性に2度聞き、2度目に英語でフルだから乗れないと言われ、ガビーンと衝撃を受ける。

昨日、チケットを買っておけば良かったと思っても後の祭りなので、ターミナル前にいたタクシーの運転手にベニンの国境に行くミニバスが出ているターミナルに連れていくよう頼む。場所はよくわからないので、困ったときのタクシー頼み。運賃は1000CFA(約250円)。

運転手はぼくのリクエストを理解したようで、すぐに発射してくれる。時計をさして急ぐようなそぶりをするが、なぜそのような素振りをしたのかそのときはわからず。

タクシーは舗装された道を通った後、なぜか住宅地の未舗装のがたがたの道に入る。なんでこんなところを通るのかと不審に思っていたのだが、その先に別のバス会社のターミナルがあった。その前で降りると、ターミナルから若い男が出てきて、ぼくの荷物を持ってチケット売場まで案内してくれる。チケット売場の窓口の上の方には時刻表と値段が書いてあって、乗りたいコトヌー行きは4時半発で17000CFA(約4000円)だった。時計を見ると5時前。あれ、もう出たんじゃないかと思い、窓口のおじさんに聞くと、目の前に停まっているバスがそうだという。時間通りに発車しないという習慣は、こういうときに大いに助かる。

さっきのバス会社は14000CFAでバスもこっちとは比較にならないほど良かったから、やはり昨日チケットを買っておけば良かったと改めて思うが、まぁ、これから出るバスにありつけたということで良しとする。

チケットは容易に購入できた。木製のベンチに座って出発を待つ。

1時間ほど待ってようやくバスに荷物が積み込まれる。出発は結局6時半。西アフリカでは早起きの苦労が見事に水の泡となるという話はよく聞く話だが、こういう会社につきあわされている人々は実際にどう思っているのか、気になる。

走り出すとすぐに左斜めの向かいにあったガソリンスタンドに入って給油。

バスはボボデュラソからワガドゥグまでの間で乗ったバスと同じスタイル。通路はさんで左が三列シートで右が2列。珍しいことに座席番号が決められていた。

前の方で女の人が大きな声をあげて、隣の女性客を怒鳴り始める。言葉がわからないからなぜ怒っているのか不明。その声を聞いて、後ろに座っている客も立ち上がり、ぼくの隣に座っていたでかいおじさんは前まで歩いていって、けっこう強い口調で間に入り、調停している。

そういえば今日も出発前、荷物のことでバス側と客がもめていた。

ぼくの座席は後方左の窓際。窓は開くので風を浴びながら外を眺めたり、眠ったり。

景色はマリ以降とほとんど変わらない。平坦な景色。土壁の家やトウキビ畑など。

13時30分頃、ブルキナファソの国境に到着。ここにも物乞いをしている子どもが10人ほどいた。また小さい黄色い皮のメロンも売っている。すばらしいことにその場で皮を向いてくれるのだが、ぼくは腹のことが気になるので買わず。ちなみにメロン売りは10歳前後の女の子が多く4人ほど、母親くらいの女性が1人。皮の剥き方を見ていると、日本でいうりんごの皮むきのような剥き方ではなく、鉛筆削りと同じように外側に刃を向けてシャッシャッ向いていた。メロンは片手で持てるくらい小さいから女の子たちでも素早く上手に剥ける。

あと魚の素揚げを売っているおばちゃんもおり、数人の客が買って食べていた。これにも惹かれたのだが、とりあえず我慢。

今回も国境は雨だったが、荷物チェックはなかったため雨による被害はなし。

ベニンの国境前になるとバスの添乗員が乗客のパスポートとカネを集めて回る。パスポートは渡したが、カネはよくわからないので渡さず。また請求もされず。

ベニンの国境では乗客は警官に促され、入国審査所の建物から10mほど離れたところで固まって待たされる。ぼくはビザが気になったので、その固まりから抜け、審査所に行き、自分のパスポートを探し出し、係りの人にビザが必要だと伝える。すると係りの人は入国スタンプを押してくれ、コトヌーについたらイミグレに行くよう言う。

他の客のパスポートは全部手続きが終わったところで、警官から名前を呼ばれ、一人ずつ返してもらっていた。

ガイドブックに寄れば、ここの国境でトランジットビザをもらい、コトヌーで延長するとあったのだが、トランジットビザらしきものはパスポートに張られず。またビザ代も払わなかった。どういうことだろうと思いつつも、もしかしたらトランジットビザ代が浮くかもしれないと都合良く考え、そのままバスに乗り込む。
 
ベニンに入ると景色が変わった。これまでは平たい大地に草と木々が広がる景色ばかりだったが、ベニンにはいると山が見えた。思えばアフリカに入って以降、起伏のある道を通ったことがなかった。それがベニンに入ると前方に1000mもない低い山脈(または丘?)が横切るように走っており、一つを超えるとまた別の山が現れるという感じで、たいしたことはないが、それなりに起伏がある道を走る。

道路はずっと舗装されているので、全く快適。つらいのは3列シートが狭いのと、背もたれが倒れないことくらい。

国境などで食い物を買う機会はあったものの、まとまった食事休憩はなかった。17時ごろ、バスは沿道に商店がちょろちょろと並ぶまちで停車。そこで食事休憩となる。バスが停車する直前、車体裏でギアの歯車が噛み合っていないような音がする。バリバリバリと大きな音がしたところでバスは停車。やはり故障のようで休憩中、車体の下にもぐって修理していた。

1時間ほど修理、休憩。ぼくは腹が減ったので、丸い形のドーナツのような菓子と中国製の薄いクッキーを買って食べる。歩いているとジャッキーシャンとかシヌワーとかと声がかかる。

再び走り出したバスだったが、1時間もしないうちにさっきと同じ音がして停車。また修理。再度走り出すが、走り出した途端に乗客が騒ぎだす。なんだなんだと思ったら、客の何人かがどっか行って帰ってきていないよう。停車したところからちょっと先にあった商店などが集まっている地点までトロトロと客を捜しながらバスは走る。

そうして乗客が戻ったところでエンジン全開。

そうこうしているうちに日が暮れる。どうも今回も目的地には夜中に着くようだった。

Fin

[diary]ワガドゥグの一日

ワガドゥグの一日

08/08/02(土)
[Oagadougou:Burkina Faso]

ボボデュラソからのバスの中はわりと涼しかった。尻の痛みで何度か目覚めつつも、わりと眠ることができる。

バスが止まり、乗客が降り始める。バスに残っている人もいたので、ワガドゥグは終点だろうと思っていたぼくは、まだワガドゥグに着いていないと思い、しばらくバスにとどまる。ターミナルもやけにぼろいから、まさか首都のターミナルではないだろうと思ってみたものの、念のため降りていく人に確認したところ、ここがワガドゥグだった。

時計を見ると時間は夜中の2時。いつもどおりだ。

マリのバマコのようにバス会社がマットレスを貸してくれるのかと思ったら、そうではなかった。ベンチはあるがすでに先客でいっぱい。しょうがないので、端の方に新聞紙を敷き、そこで寝る。スペインの空港でタダだったフリーの新聞がここで役立つ。

蚊帳は張らずに足下から顔までかぶって寝る。幸い、蚊はあまりいなそうだった。

周りの人がごそごそ起き出す音で目が覚める。日はもう上っているが、時間はまだ6時前。

6時半まで待って、蚊帳を片づけ、ターミナルをでる。表にタクシーがいたので、それに乗る。運転手の言い値は1000CFA(約200円)。おそらくローカルプライスは200~500CFAだろうが、まぁ、許す。

なかなかのポンコツ車で5回ほどキー回してやっとエンジンがかかる。走っているとガソリンのにおいがしてくる。

ここもバマコと同じく、バイクに乗っている人が多い。バマコと違うのは自転車に乗っている人が多いこととヤギが道ばたにいないこと。

ガイドブックに載っていたミッションカトリックに連れていってもらう。アフリカでは旅行者を泊めてくれる教会があり、ここにもそうしたところがあった。タクシーを降りて、近くにいたおじさんに聞き、教会の担当らしい人に部屋があるか聞くと、フランス語でなにやら言われる。どうも泊まれないらしい。

がっかりして、眠気から覚めていない足を引きづりつつ、ガイドブックにあった近くの安宿に行く。探していたら、その様子を見ていたおじさんに声をかけられる。ブルキナファソは観光客が少ないから、観光擦れしている人は少ないだろう(=カネは要求されないだろう)と思い、聞くとそこだと教えてくれる。カネの要求はなし。

行ってみると確かにそこにあった。そこは宿というよりも個人宅の敷地内にドミトリーの部屋があり、個室は個人宅内の一室という感じだった。

それぞれの部屋を見せてもらう。ドミトリーは2段ベッドの4人部屋で、個室は扇風機付きの薄暗い部屋。値段はドミが2500CFA(約500円)、個室が4000CFA(約1000円)。ドミは格安だが、どちらも蚊がぶんぶん飛んでいて、またセキュリティがちと気になるので、却下。元気があれば、ここに泊まるのだが、そんな元気もない。

改めてガイドブックを見ながら歩く。

10分ほど歩いて、目的の宿に到着。今度はれっきとしたホテルだった。フロントに値段表があったので、一番安い5000CFA(約1400円)を頼む。2階の部屋まで案内される。部屋は蚊帳付き、扇風機付きで、トイレは廊下のものを共同使用だが、シャワーは部屋内にある。床のタイルははがれ、内装はあまりきれいではないが、泊まるには十分。

結局税込みで6250CFAほどする。

シャワーを浴び、しばしベッドに横になり、休憩。

9時過ぎに起き、宿を出る。今日は土曜日だから開いてはいないだろうと思ったが、もしかしたら午前中だけは開いてるかもしれないと思い、イミグレを探す。

宿の周りには商店が集まっていて、自転車やバイク、工具類などがぎょうさん売られている。歩いていると人々の視線がこちらに集まる。シヌワーと声をかけてくる者もいる。

立派なモスクを左に見ながら歩いていると、わりと新しいスーパーマルシェを発見。マリのバマコでは個人商店はあったもののスーパー形式の店は見なかった。

店や露店、歩きながら物を売っている人たちの中を通り、地図にある警察署をまず探す。適当に歩いていたら、警察ではなく軍の事務所のようなところにたどり着いたので、そこの入り口にいた人にイミグレの場所を聞く。フランス語なのですべてはわからなかったが、イミグレはちょっと離れたところにあるらしく、しかも今日はやはり閉まっているらしい。

なので、ビザの関係はあきらめる。ガソリンスタンド近くにあったネット屋でネット。ここもなかなか早い。1時間300CFA(約70円)というのも安い。

それから地図にあったグランドマルシェに向かう。地図を見た限りでは、その場所に来ているはずなのだが、たしかに露店はずらずらとあるものの市場というには規模が小さい。どこだどこだと歩いてみるものの、結局わからず。

ある一角は服屋ばかりで、その店の人が次々と声をかけてくる。また果物屋の露店が7軒ほど並んでいて、そこで何か買おうかと思ったが、すべてのみせのおばちゃんが次々と声をかけてきて、かつどの店も品ぞろえはほとんど一緒だったので、選ぶことができずパス。バナナとかスイカとか、グレープフルーツ、マンゴー、パパイヤがあったんだけど。

それからさっきあったスーパーに行ってみる。どこでもそうだが、スーパーに行くと白人比率がぐっと高くなる。ここはヨーロッパ系の白人も多いが、北アフリカ系の白人も多い。

お菓子や肉、トイレットペーパーや食器など日用品が一通りあり、2階に行くと、洗濯機や冷蔵庫などの大型家電、でかい机、それから驚くことにトレーニングマシーンまで売られていた。アイスを買おうかと冷凍庫の値段表を見ると、いやいや高い。一番安くて2000CFA(約400円)ほどする。びっくりですわ。まぁ、フランスからの輸入なんだろうけど。

ちなみにお菓子は適当に見た範囲ではほとんどがフランス産だった。マリのバマコではベトナム産やモロッコ産を見かけたが、そういう点でいうと、ここは高級スーパーということなのだろう。

スーパーの入り口にはテレフォンカードとかノートを持ち歩いて売っている人がいて、店をでるとそういう人から次々と声がかかる。

ぶらぶらと歩いていると、3色ボールペンをヤツにあげたことでなくなったことを思いだし、ちょうどすれ違おうとしていたボールペン売りの少年に声をかけ、4色ボールペンを購入。お値段400CFA(約80円)。試し書きもさせてくれ、確認したが、まったく問題はない。

それから宿に戻ってちょっと休憩。ここで取ろうと思っていた5カ国ビザを取るには月曜まで待たねばならないことになったため、しばしこの後のルートについて考える。

そして、またぶらっと外に出る。

腹の調子は相変わらずよくないので、道ばたの屋台にひかれるものの、我慢。

あるとおりに行くと、そこには銀行やホテルが立ち並んでおり、ボーリングと書かれた看板まで見えた。ボーリング場を見てみようと歩いてそこまで行く。中を覗いてみると、バーのカウンターの裏がボーリング場になっており、レーンは5つほどしかなかった。まだ準備中のようでスタッフの他は客なし。

この通りを歩いているとバマコよりもここの方が、都会的な雰囲気がする。でかいビールの宣伝看板もあるし、わりとしゃれたバーやレストランもある。

さっき宿で休息したのに、歩いていると1時間ほどで疲れを感じ、日陰で休憩。さっき交差点にあった気温計では37度とあったから、この暑さが効いているのか、それともここのところまともに飯を食っていないから、そっちから来る体力低下なのか。暑さについては、嫌になるような暑さではないので、それでそんなに疲れるとは思えないから、アフリカ入って以降の腹の不調による体力低下説の方が説得力がありそう。

これは何か食わねばならぬと道ばたで果物を売っていたおばさんからバナナ1kgを購入。ホテルなどが並んでいた通りを右に曲がる。

すると、そこはがたがたの空き地。さっきのホテルの裏が、こんな空き地になっているなんて、張りぼてのようだなと思う。

赤茶色の土ボコリを巻き上げながらバイクが横を通り抜けていく。しばらく行くと、蛇口が3つほどある水道所(?)があり、ドラム缶やプラスチックのポリタンクを持った人が数人そのまわりに集まり、給水している。

なんだかだるいので、また宿に戻り、一服。バナナを食う。

結局、明日ベニンに行くことにする。ガイドブックでベニン行きのバスを出しているバス会社のターミナルを探してみると、けっこう近くにあることが判明。また歩いて、そこまで行く。歩いて20分ほどで到着。人と荷物でごった返していた。

窓口で聞くとベニンのコトヌー行きは、明日の朝5時発で14000CFA(約3000円)。朝5時かぁ、と思いつつ、起きれないかもしれないのでチケットは買わずにターミナルを後にする。

腹の調子も回復していないし、また長時間の移動になるので、晩飯は抜き。

あとは宿で休息する。

Fin

[diary]セグーからワガドゥグへ

セグーからワガドゥグへ

08/08/01 曇り、雨
[Segou:Mali→Oagadougou:Burkina Faso]

昨晩のことが引き金になり、加えてフランス人旅行者が多いから、この後に行こうと思っていた観光地のジェンネでも安い宿がとれず、さらには不快な奴らも多かろうと思い(実際に多いという情報多数)、マリを出ることにする。

結局、夜は暑さと、夜中の3時頃に入り口の鉄の扉を開けて入ってくる音などで目覚めたりしたおかげで、ほとんど眠れなかった。

とにかく早くでようと夜が明けた6時頃、荷物を背負って部屋を出る。部屋のドアを開けると、そこに人が寝ていた。敷地の入り口のドアから部屋の入り口のドアまでの4畳半ほどの屋根のない踊り場のようなスペースに若い男が2人寝ている。ドアの前で寝ている人がどかないとドアが十分に開かず出られないので、邪魔だなと思いながら、その人を起こし、外に出る。

表の通りには柄のない箒で、家の前を掃いている女性や女の子が数人。

近くの舗装されている道路まで歩いていき、そこでタクシーをつかまえようかと思っていたが、タクシーが走っていなかった。しょうがないので、交通量がより多い交差点まで歩いていき、そこでタクシーを捕まえる。先客2人が乗っていたタクシーに乗り込む。運賃を聞くと500CFA。昨日のタクシーよりも安い。おそらくこっちがローカルプライスなのだろう。

バスターミナルで降ろしてもらう。ターミナルには20人ほどしか人がいなかった。それもみなターミナルで商売をしている人ばかりで、乗客はいない。タクシーは丁寧にもブルキナファソに行くバスを出している会社の前で降ろしてくれる。

タクシーを降りるとすぐにバス会社の人が寄ってきて、どこに行きたいのか聞いてくる。ワガドゥグというとチケットを発券してくれる。運賃は14000CFA(約3000円)。

しばらくベンチで待てというので、ベンチに行く。ベンチがある待合いスペースには落花生の殻やビニールゴミが散乱していて、ハエがぶんぶん飛び回っている。なので足でゴミをどかしていると、バス会社のおじさんが柄のないほうきを持ってきて掃除をはじめる。

ベンチで本を読んだり、横になってボケーとしたりして待っていたがなかなかバスがこない。2時間ほど待った8時過ぎに、バス会社のおじさんに聞くと10時15分頃、バスが来るという。まだ2時間ある。

ターミナルでは、フランスパンに肉などをはさんだサンドイッチやお粥のような食べ物を売っているおばちゃんたちがいて、次々と客がそれを求めて食べている。

ぼくは腹の心配があったのでフランスパンのみ食べる。ただこのフランスパンもかごにそのまま入れられ、カバーもされていないからハエがたかっていて、あまりよろしくない。

空はやや曇っていて、風が吹いてくるから日陰にいると涼しい。

バス会社の人が言ってた時間をあまり当てにはしていなかったのだが、驚いたことに本当に10時過ぎにバスが入ってきた。それなりに立派なバスなのだが、あいにくまた窓が開かないタイプ。

荷物代として1000CFAとられ、リュックが積み込まれるのを確認するため、それを待っていたのだが、バス会社の人とバスの運転手か何かが口論を始める。総勢5人ぐらいで大声で、また腕を大きく動かしたりしてしばらく口論。言葉がわからないのではっきりとはわからなかったが、どうも荷物代のことでもめているらしく、ぼくの荷物がそのきっかけだったよう。まったくよくわからん。

モーリタニア以後、長距離移動の際に、客とバス会社などが乗車前にもめる確率は40%程度。きっかけはどれも荷物のよう。

とにかく無事、ぼくのリュックが積まれたことを確認してバスに乗る。案の定、車内はくそ暑い。このバスも中古なのだろうが、どうせなら窓が開くタイプのバスを買えよな、と思う。だいたいこっちは暑いんだし、エアコンも使わない/使えないんだから。

走り出せば天窓から入ってくる風で、だいぶ涼しくなるが、停車したときにはどっと汗が出る。他の人はぼくほど汗はかいていなかったが、それでも停車した際には汗を拭う人多数だった。

バスはセネガル以降、見慣れた風景の中を走る。低い草が生い茂る中に木々がポツポツはえ、ときおり集落が現れる。その近くには畑が広がり、トウモロコシや豆類が植わっているのが見える。パンジーににたオクラの花も咲いているのが見えた。

集落内の家々は、土壁が多い。一つの敷地内には、たいてい直方体型の母屋(と思われる)の他に円柱型で屋根を藁か何かで葺いた小さな建物がある。この円柱型の建物は、人が住むには小さそうなので、倉庫か何かかもしれない。

そうした集落にいる子どもたちの衣服は、たいていボロボロで上半身は裸という子も多い。また裸足も一般的。

大人の格好は、まちの人とあまり変わらない。

こうして見る限りでは家もあり、農地もあり、十分豊かな生活ができそうに見えるのだが、実際のところはどうなのだろうか、と思う。

13時頃、どこかのまちのターミナルに到着。ここで昼飯休憩。ぼくはヤギと思われる肉を片手の手のひらいっぱい分(約120円)とフランスパン、ゴマを砂糖で煮て固めた菓子とゆで卵を食べる。

セネガルに入って以降、特にマリから顕著なのだが、こうしてバスが止まるところには必ず、物乞いしている子どもたちが10人ほどいる。ここでもそう。業務用の調味料が入ってたような空き缶を持って、大人たちをまわる。どの子も来ているTシャツはよれて破れており、黒ずんでいる。たいてい裸足。この子等はいわゆるストリートチルドレンなのか、それとも親に言われてやっているのか、外見からはよくわからない。なぜならこうした格好をした子は、まちを離れればけっこういるし、こんな都市でもないところにストリートチルドレンがいるとは信じがたい。

大人たちの中には、いくらかコインを渡している人もいる。もしこの子等がストリートチルドレンであるのなら、都市部でなくても、一部の人にとっては子どもを育てていくのは厳しいということか。

1時間ほど、そこで休憩し、バスは発車。

ブルキナファソに近づくに連れ、空が暗くなり、やがて雨が降り出す。

マリの国境には15時半頃、到着。一見するとただの検問のようだったが、みなが降りていくので同乗者の人に国境かどうかを確認してから降りる。

マリに入国したときと同様、外は雨。

進行方向左手にあった小さなコンクリートづくりの建物に行き、そこで出国スタンプを押してもらう。質問は職業とかなど簡単なことだけ。

それから国境間をしばらく走り、16時頃、ブルキナファソの国境に到着。バスを降りる。

バスの運転手(の控えの人)が、ビザを取る建物を教えてくれ、そこでビザの手続き。例のごとく申請書はフランス語オンリー。たまたまぼくの横で申請していた女性がアフリカ系アメリカ人で、親切にも自ら英語でどこに何を書くかを教えてくれる。これは無償。

1週間有効のビザ代10000CFA(約2000円)。

ビザをとって、バスのおじさんに促されるまま、ぐちゃぐちゃになっている道を歩き、入国検査。と言っても、傘を差して立っていた警官にパスポートを見せるだけ。

それからバスに乗って、ちょっと先に進んで、今度は荷物の検査。相変わらず雨は降り続いている。

バスの荷台からそれぞれの荷物を取り出し、コンクリートづくりのわりと立派な建物の前に1列に並ぶ。木製の台の上に荷物を載せ、チャックを開けて待つのだが、それを雨に濡れながらやっている。コンクリートづくりの建物には軒先があり、その下には幅2mほどの通路があるから、そこでやれば濡れないのに、なぜか外でやる。チェックする警官は傘をさしているが、たいていの客は何も持っていないし、荷物は当然濡れる。加えて木製の台には何カ所がくぼんでおり、水がたまっているから、そこに乗せるだけでかなり濡れる。

なんであの通路を使わないかなぁ、と思いつつ、みんなに並んでリュックを濡らし、チェックを受ける。ただ、最後だったからか、チェックらしきこともせず、通れと合図されただけだったが。

ブルキナファソに入ると、マリよりも水が豊かだった。水田があり、細い川もある。まとまったバナナの畑を見るのも久しぶり。牛を積んだトラックが走る。道の脇に横転した10トンはありそうなトラックを見る。

まだ明るい18時半前に、ボボデュラソというブルキナファソでも大きいまちに到着。ここでバスを降ろされる。てっきりワガドゥグまで、このバスで行くと思っていたのだが違うよう。

リュックを受け取り、他の3人ほどの客とバスの運転手に案内され、30mほど離れた別のターミナルに移動する。そこでチケットを交換し、ここボボからワガドゥグまで行くバスのチケットを入手する。この際の手続きは運転手がすべてしてくれ、もちろん追加料金はなし。この辺はボリビアよりしっかりしている。

日が暮れる。ターミナル前でトウキビを焼いて売っていたので、それを買う。マリでも焼きトウキビはあちこちで売っていた。西アフリカ式の七輪(金属製で網は使わない。形は日本のものと似ているが、こちらのほうは四角が基本)で炭の上にトウキビを直接乗せて焼いている。堅いが味はまあまぁいい。

待つこと3時間。21時過ぎにようやくバスが入ってくる。レトロなつくりのバスで通路を挟んで左に3席、右に2席。背もたれは一切倒れない。座席も固い。窓は開く。

21時半頃、バスは発車。今回もまた夜中に目的地に着くようだ。

Fin

[diary]バマコからセグーへ

08/07/31 晴れ
[Bamako→Segou:Mali]

6時半頃、自然と目が覚める。今宵も寝苦しかった。部屋が暑い。蚊の被害はなし。昨晩ひどかった雨もあがっている。

そろそろと荷支度をする。まだ7時だったが、同室の日本人2人も起きだしてくる。二人に見送られながら宿を出る。とその瞬間、タオルを忘れたことに気づく。今、別れを告げて背を向けたのをくるっと返し、部屋に戻る。

ベッドの蚊帳にぶら下げていたと思ったがない。おかしい。どうしたっけと2秒ほど考えたところで、首にタオルが巻き付いていることに気づく。

再度お別れをする。

タクシーをひろう。ぼくの姿を見て最初に駆け寄ってきた奴はソゴニゴというガールルティエール(バスターミナル)まで2000CFAとぬかす。なので、値段を聞いた瞬間に無視して別の方向へ歩き出す。

道を走っているタクシーを止めて値段を聞く。やはり2000CFAと言うが1500CFAでと言うと簡単に相手は折れた。

20分ほどでターミナルに到着。ターミナルと行っても各バス会社の建物が横に並んでいて、それぞれ駐車場を持っているスタイル。ターミナルに入ってタクシーがスピードを落とすと男たちが窓の所にやってきてどこに行くのか聞いてくる。ミニバスか何かの客引きのようで、これがけっこう面倒。適当に無視。

大型バスの他にトヨタのハイエースと思われる大型ワゴンのミニバスもあった。おそらくミニバスの方がやすいと思うが、荷物を屋根に乗せるので突然の雨のときには悲惨なことになる。一応、車主はシートをかけているが、大雨になれば耐えられそうにないような代物。

大型バスを走らせている会社はいくつかあって、見るからにオンボロで荷物も屋根に乗せるタイプのものから、チリやアルゼンチンで主流だった窓が開かない(窓が一枚ガラスになっている)タイプのそこそこ新しいタイプのバスもある。

ぼくは窓は開かないわりと新しいバスが止まっているバス会社に行き、チケットを買う。セグーまで3000CFA。荷物代なし。

しばらくベンチでバスの出発を待つ。待っている間、綿棒売りの少年が隣のおじいさんところに来た。しばらくしゃべって、ぼくのところに来て綿棒を買わないかと懇願するような目で見る。綿棒の袋には中国語。まだ手持ちがあるが、あってもいいかと買ってみる。試しに1本使ってみようとテープで留められていた袋を開けると、袋の口側の方の綿が赤茶けているもの多数。もしや手で詰め替えたのか? それとも長期間買い手がつかなったからこうなったのか? いずれにせよあまり使えない。

目の前の駐車場には1台バスが止まっていて乗客も乗り込んでいた。だから、ぼくが乗るバスはこれから来るのだろうと思っていたらチケット売場にいたおじさんがぼくに声をかけてきて、これだという。

時間は8時前。3時間程度は待たされるだろうと思っていたので、予想外の展開。ラッキー。

セネガルとの国境から乗ったバスと同じように、バスには勝手に乗り込めず、一人一人名前を呼び上げられたら乗れる。ただどこの席に座るかは勝手。

空いていた一番後ろの座席に座ると汗がにじみ出てくる。車内はムッとしていて外より暑い。かといって窓は開けられないから、耐えるしかない。

8時過ぎにバスは出発。車内は満席。冷房はつかない。天窓があり、そこから風が入ってきて涼しくなるが、停車するとまた汗が噴き出す。

トウモロコシ畑や落花生らしい畑、キャッサバ畑などが窓から見える。過ぎていく集落内の家は煉瓦と土塗り(?)でできている。畑には畝間の草刈りやロバや牛を使った耕うん、種まきなどをしている人が見える。

集落が切れるとサバンナのような景色が広がる。低木がポツポツと立っていて、全体が緑。山のようなものは見えない。

途中、何カ所かにバスは停車したのだが、そのたびにビニール袋に入った水やマンゴー、キャッサバ(生と湯がいたもの)、カップケーキ、パンなどを持った人たちがバスの入り口付近に殺到する。

セグーには12時半頃到着。リュックを受け取ろうと荷台の方に回ると、そちらは地面がドロドロになっていた。バスの添乗員が荷台のドアを開けた瞬間、ぼくのリュックが中から転がってきてビシャッと音を立てて地面に落ちる。ぼくはすぐに引き上げるが、リュックの背の所にはべったり泥が付いてる。このクソガキがとそいつを見るが、謝るどころか別の作業をし始める。そうだよな、客の荷物なんてこいつらにとってはどうでもいいんだよな、とため息。

近くに止まっていたタクシーが声をかけてくる。見回したところあたりに宿らしきものはないからタクシーで移動しないといけないなと思っていたところだったので、そちらに行き宿の名前を見せ、値段を聞く。すると3000CFA(約700円)というので、例のごとく無視してすたすた適当に歩き始める。この地の地図は持っていないからどこに何があるのかまったく見当はつかないのだが、まぁ、またタクシーを拾えばいい。

歩いていたらさっきのタクシーが後ろからやってきて、フランス語でいくらなら払うかと聞いてくるので1500と言うと、あっさり受け入れる。どうせ現地の値段は500くらいだろう。

予定した宿に行くが、満室。その宿に紹介された別の宿は11000CFA(約2500円)と予算オーバー。あたりにはフランス人が10人ほど。マリではやたらとフランス人旅行者に会う。モロッコの時からそうだが、この人等のおかげで安宿がかなりの確率で埋まっていて困る。

他にも宿はあったのだが、どこもそれなりの店構えをしているから似たような値段だろう。

11000CFAと聞いてぼくが別の所を探そうとしたとき、その値段を呈示してきた男が英語で宿代はどれくらいまで出せるのかというので6000CFAと言ったところ、民宿でもいいかと言ってくる。どこかで見た情報でこのあたりでは民宿ができるとあったので、記念にそれをしてみることにする。

男の横には二人の若い男がいて、彼らの家の一室らしい。男の話ではこれまでも何度か紹介している部屋だから大丈夫という。

道ばたで炊事をしていた立派な体格の母親からその男が鍵を受け取り、その部屋に行く。通りに面した鉄の扉を開けると左に便所、その右隣が物置、その隣が6畳ほどの部屋。もう一つ母屋のような入り口があってそこを入った奥がぼくが泊まる部屋だった。蚊帳はあるものの内装はあちこちはげ、ベッドはまったく掃除していないらしく誰が使った後のように汚れている。やっぱり薄汚いなぁと思いつつ、他を探すのも面倒なのでここでオッケーする。鍵を受け取り高いと思いつつ、家族の収入になるならと6000CFA払う。部屋の室から言えばせいぜい1000CFA(約200円)というところだが・・・。

改めて見ると水道はないし、シャワー室らしきところもない。便所はぼっとん便所。でも、そこそこきれいだから、まぁ許せる。便所の前にはでかいバケツがあって、これが水道代わりらしい。水を使いたければ本人の家かどこかに行ってくんでこいとのこと。まぁ、だいたいみな洗濯などはニジェール川でやったりするから、こうして家に水道がないのは普通なのかもしれない。

荷物を置いてふらついてみる。ここもバイクが多い。空気はバマコほど悪くはない。日差しが強いからタオルを頭に乗せる。子どもがこちらをじろじろ見る。自転車に乗った12~13歳くらいの男の子がすれ違いざまに”シヌワー(中国人)”と言って通り過ぎる。

一部の舗装道路を除けばすべて土の道路。ここも昨日雨が降ったのかあちこちに大きな水たまりができていて、その近くはどろどろになっている。舗装されている通りにはそれなりに店があり、日用品やちょっとした電化製品はそこでだいたいそろいそう。

舗装道路から一本川側のどろどろの道にも沿道に店が立っている。が、こちらはほっ建て小屋のような蹴れば倒れそうな簡単な作りの屋台。目立つのは服屋。

ニジェール川の方に行くと川辺で洗濯している人や水浴びしている子どもたち、緑の草を丸木舟に乗せている人等がいた。川幅はかなりある。200m近くありそうだ。水は茶色に濁っており、あまり入りたいとは思えない色をしている。

一部の通りは土産物屋が両脇に並んでおり、その店の男たちがあれこれと声をかけてくるが、軽く答えるだけで素通りする。

ある通りでは女性が細い臼でトウモロコシをついていて、トントンという音が一定の間隔であたりに響く。その近くでは安楽椅子のように寝そべることができる椅子に座って何をするともなくいる中年の男たちが4人ほど。他でも思ったが、男はまったくもって家事の類をしないよう。かと言って仕事もあるわけではないようで、一日中(かどうかはわからないが)、昼間っからずっと椅子に座ってぶらぶらしているのをよく見る。

道ばたでは子どもがじゃれあったりしていて、あちこちから子どもの歓声が聞こえてくる。

野菜市場のようなところもあったが、休みなのか終わったのか商品も人もいなかった。

最初に止まったバス停まで歩くとどれくらいかかるかと、舗装された通りを歩いてみたが、30分ほど歩いて引き返す。やはりタクシーに乗った方がいい距離。宿を出る前に水を一通り飲んだのに、もう喉が乾いた。

水を持って出てなかったため、水を買おうと店を探すが食料雑貨屋がバマコのようには見つからない。やっと1軒見つけ、そこで1.5リットルの水を買う。500CFA(約120円)。冷蔵庫に入れられていたやつだからきっちり冷えている。

1時間ほどだったが、歩いてみたら、なんだかもういいなという気になった。部屋に戻る。

すると部屋にあった新聞をかけてちょっと隠すように置いていたカバンがベッドの上にあり、前のポケットに入れてあった小型の辞書がベッドの上に飛び出している。宿を出るときに置いた位置から自然に転がり落ちたというには、ちょっと距離がある。

リュックの方は荒らされた形跡はないが、これは誰か入ったなと思い、この部屋を出ることにする。

ただカネを返してもらおうと、ここを紹介してくれた男と最初に会ったホテルに行く。そこには居なかったが、ホテルの人が電話するから表で待つように言う。その間、ホテルを探しているのかと声をかけてくる輩数人。うっとおしい。

20分ほど待ってその男が来た。英語であったことを伝えると、記憶違いではないかと言う。ノーノーと同じことを何度も言うと相手もわかったと言うが、でも誰かが入るなんてことはこれまでなかったというようなことを言う。カネを返してほしいというと、あの家族にもうカネは渡したし、彼らはたぶんもう使ってしまっているだろうと言う。

男の対応は、高圧的ではなく、わりと丁寧だったため嘘ではなさそうだったし、カネも戻ってきそうにないし、これから行こうとしていたモプティ行きのバスは今日はもうないらしいので、部屋に戻り、とりあえず一泊することにする。

気分的に外に出る気もしなかったためあとは部屋でたまっている日記書き。やれやれ。

日記書きをしていたら外から声がして、英語で表の鍵を開けてくれと言う。道路に面した鉄の扉の鍵をかけていたので、どうもそこを開けろとのこと。開けてみると、この部屋の主の家族の息子らしい男だった。物置の隣が彼の部屋らしい。

英語でいろいろ話しかけてくる。ぼくはすぐに部屋に戻りたかったのだが、ちょっと来てと言うのでつきあうことに。何かと思ったらそいつが取り出してきたのはお手製のネックレス。石や木を加工して作っている。彼が言うにはこれを作るのが彼の仕事らしい。アクセサリーになんてまったく興味がないし、どうせ押し売りだろうと思い、適当に話を聞いてやる。

彼は10品ほどを並べ、一つ一つ短い説明をする。そして、この中でぼくの気に入ったものはどれかと聞いてくる。それを押し売りする模様。興味がないから気に入ったも何もないのだが、そう言っては気分を害すだろうとマシなやつを一つ言うと、じゃあ、これを持っていけ(Take thisと言った)と言う。

こいつらがタダでくれるわけないので、念のためこれはあんながぼくにプレゼントしてくれるのかと聞くとそうだという。値段はfreeだな、0CFAだなと聞くとそうだという。それでも信じられない。

案の定、彼は、これはいくらくらいの値段がつくかと聞いてくる。質問の意図がよくわからなかったが、どうもいくらだったら買うかというので、ぼくだったら買わないがと前置きしたかったがせずに、本音では3000CFA(約500円)程度だろうというところを大負けに負けて15000CFAと言う。

そしたら、彼はその程度のものを何か自分にくれないかというようなことを言ってくる。初めはその英語の意味がわからなかったため何度もわからないと言ったところ、どうも何かほしがっている、それも結局はカネをほしがっているらしいことがわかる。

ぼくはカネは払わないし、そうならアクセサリーもいらない(そもそもいらない)から返すと言うと、これはプレゼントでここに泊まった人にはこうしていて、売っているんじゃないと彼も言う。だけども何かくれと言う。その”何か”は結局カネなのだが、それをもらうと自分はハッピーだと言う。

やっぱりこんなところに泊まるんじゃなかったと思いつつ、1時間ほど同じやりとりをくり返す。カネを払えば結局買うことと同じじゃないかとこっちは言うのだが、彼はアクセサリーは売るのではないと繰り返す。

日本式にズバリとは言わずにいたのだが、埒が空かないので単刀直入にいくら欲しいんだというと、それはあなたが決めろと言うようなことを言う。ぼくはシャワーもない、ベッドのシーツも交換されていない、掃除もされていない、シミで浅黒くなっている枕があるような部屋に6000CFA(約1500円)も払っているのだから、これ以上いっさい払うつもりはないと言うが、相手はしつこい。

しょうがないので、持っていたオクスフォードのポケットサイズの仏英・英仏辞書をあげると渡すと不満そうな顔をする。何かくれというからこれをやるというのに、なんだその顔は! と正直思ってしまう。

そして彼は3000CFAでも2000CFAでもいいからカネをくれという。やっと本音が出た。だからそんなカネを払うくらいだったら他のホテルに泊まってるわ。アホか。安いからここを選んだのに、他にまたカネを払ったらここを選んだ意味がないじゃないか、と英語で言いたかったがどう言えばわからず。

んで、カネは払わないとくり返し、アクセサリーも返すと言うと、じゃあTシャツでもズボンでもいいからくれと言い出す。Tシャツは2枚しかないし、ズボンに至っては1枚しかないからやるわけにはいかない。両方とも自分に必要なものだからあげられないというと、じゃあリュックをくれと言い出す。小さいのでもいいからくれと(ぼくはでかいリュックの他にデイパックサイズのリュックと大型のウエストポーチを携帯している)。あんたねぇ、旅行者のリュックが欲しいって何考えてんの? とぼくは思う。グアテマラで買った小型のリュックはもう方のひもも壊れているからやってもいいが、その中の物をいれるものがない。

どれもぼくが必要なものだと繰り返すとじゃあボールペンをくれと言ってくる。しょうがないから、まだ使えるが壊れかけていた三色ボールペンをやる。その後、またカネをくれと言い出すので、やらないと繰り返すと、ようやくあきらめる。まったくなんなんだこいつらは。ダカールのあの宿のガキといい、こいつといい、なんでこんなにカネとかを欲しがる? こんなことは他の国ではなかったぞ。

正確にはドミニカとキューバで宿や道を教えたからカネくれと言ってきたのがいたが、それはいずれもおじさん。20代とか若い人間が、物乞いを除けば、こうして何かくれなんて言ってくることはまずなかった。物のあるなしで言えば、キューバだってここと似たようなもんなのに、どういう精神なんだ? 

だいたい旅行者に寄りついてくるのに、そういう奴が多いのだろうが、それにしてもアフリカは他と違う。こちらが頼んでもないのに、適当に”親切心”と見せかけて何かしてくれるとすぐにカネをくれと言ってくる。それも若い男たちが。これらは特殊事例かもしれないが、各国での特殊事例と比較しても、やっぱり多いように思う。

バマコで同じ宿だった人も西アフリカをまわっていて、そういう奴が多いため、何か絡んできたら事前にカネは絶対払わないと断って、その”親切”にのっかったものの、結局最後にはカネをくれと言われたという。そのとき、最初にカネを払わないと言っただろうと返したところ、あのときは理解していなかったなどと言ってきたという。

何かを探して道を歩いていると、その様子を見て、何を探しているのかと声をかけてくる人はおり、おそらくそれは本当の親切心なのだが、そういう人でもカネを要求してくることがあるため、ぼくはそういう人でも無視して、主には警察や店(屋台を含む)の人ばかりに聞くようになった。おそらく言葉ができれば、また違うのだろうが・・・。

ごく少ない実体験と人から聞いた話を総合すると、少なくとも旅行者に対する”無償の”親切心は、これまでのところ、アフリカがどこよりも薄い。たとえばアフリカの(と大きくくってしまうのは問題かもしれないが)文化として、あるいはイスラームの文化として、親切にしてもらった人にはカネでお返しをするものだというものがあるのなら、それも納得できるのだが、そうとも思えない。

もしかしたらこのあたりを旅行してきた日本人旅行者やヨーロッパの旅行者が彼らの要求に応え、または自ら感謝の気持ちをカネに代えて、カネを渡してきたからそういう輩が増えた(?)または定着したのかもしれないが、それにしたって誰もがそんなこと(たとえば道を教える程度)でいちいちカネを払えるほどカネを持って旅行しているわけではない。この”誰もが払えるわけではない”ということが、こういう輩にはわからない。

もちろん絶対的な数から言えば、カネを要求してくる輩は少ないのだが、旅行者が触れる相手の割合からすると、おそらくその地に暮らしている外国人よりも、そういう奴に巡り会う可能性は高いと思う。

いずれにしても、こうしていらつくのは、結局のところ自分らが金蔓(かねづる)としてしか見られていないと感じるからであろう。それだけ、こっちの人はカネに困っているのかもしれないが、それだったら旅行者を狙うより、もっとまともなことをしろよなと思ってしまう。

案の定、部屋は暑く、汗がしたたり落ちてくる。なかなか眠れないし、寝ても暑くてすぐ目がさめる。

Fin