2008年7月30日水曜日

[速報]今後のルートについて

7月も終わりになりました。

当初の予定ではニジェール川沿いに東に向かい、ガオというところからニジェールの首都ニアメに行く予定でしたが、なんとここバマコのニジェール領事館は3ヶ月前に閉鎖したとのことで、入国に必要なビザが取れず。国境で取れるかどうかも不明なためここから予定を変更し、まずはブルキナファソに行くことにしました。

明日、ここバマコを出て東のジェンネやモプティに行き、そこからブルキナファソに向かいます。

気をつけてはいるものの蚊にこれまで3回やられました。予防薬は飲んでいるものの、1週間後、熱が出ないことを祈るばかりです。

では。

2008.7.30 11;17
Bamako,Mali

本;『フランス植民地主義の歴史』

平野千果子『フランス植民地主義の歴史』人文書院、2002

68
「フランスがこの北アフリカの奴隷制をやめさせることも「文明化」であり、征服はそれを達成する正当な手段だと位置づけられる」

85
「奴隷制廃止の後にアルジェリアの支配が確定していくのは、きわめて象徴的である。それまでの奴隷貿易では、アフリカ大陸の拠点から人を連れ出して、おもにカリブ海などに送り込んでいた。それに対してアルジェリアは、まさにアフリカ大陸の土地をその住民とともに、いわば面で支配する最初となったからである。」

140
「フランスの場合も1880年に海外領土は100万平方キロ、その人口は540万人であったが、15年後には、それぞれほぼ10倍に膨れ上がった。ー略ー 「フランス植民地帝国」という、日本人にはいささか耳慣れない言葉が使われ始めたのも、1890年頃からだとされる。」

141
「民族自決の原則が謳われていく第一次大戦後、とくに1930年代以降は、「植民地」よりも「海外のフランス」という用語が用いられる場合が増えた」

143
「フランスで歴史的に草の根レベルでの教育を担っていたのは、末端の教会の司祭たちであった。司祭が子供たちに読み書きを教えることは、聖書を読めるようにすることであり、ひいてはカトリックの教義を教え込むことでもある。したがって、革命の系譜を引く世俗共和派にとって、次代を担う子供たちの学びの場からカトリック勢力を排除することは、共和主義的な新しいフランスを建設する第一歩でもあった。」

フェリーの発言
150-151
「くり返し申し上げましょう。優れた民族には権利があるのです。なぜなら優れた民族には義務があるからです。つまり劣った民族を文明化する義務があるのです」。」

153
「対比はあくまで「文明」と「野蛮」であって、奴隷制を廃止しない限り、フランスは真に「文明の国」たりえないとも批判されていた。」

「さらに、フェリーが人権宣言は黒人のために書かれたのではない、と公言していることも見過ごせない。現実の歴史でも、人権宣言は黒人奴隷だけではなく、女性たちにも即座には適用されなかった。それどころか、フランスは人権宣言の国であったがゆえに、奴隷制廃止という大義名分を掲げて植民地拡張にひた走った。」

中国思想がフランス知識人に与えた影響を買いた本
後藤末雄『中国思想のフランス西漸』

182-183
「フランスの植民地帝国はイギリスに次ぐ規模であったとはいえ両者の間には決定的な相違がある。それはイギリスとはちがってフランスが、海外領土に送り出す過剰人口をついに持たなかったことである。」

222-223
「紀元2000年を機に同年三月、ヨハネ・パウロ二世は過去2000年の歴史における教会の過ちを認め、神に許しを求めた。「記憶の浄化」のためで、2000年間の歴史全体について法王が言及するのは初めてだという。法王が示した7つの大罪の中には、魔女狩りや宗教裁判んど、カトリック教会内部での事件もある。他方、十字軍での暴力やユダヤ人に対する暴力など、異教徒への暴力もあげられた。」

235
「「文明化」は、国レベルでの植民地化だけではなく、黒人の私的利益を糊塗するという、二重の役割を果たしていた」

242 クレマンソーの言葉
「フランス人一人が死ぬよりは、二人の黒人の死を」

303-304
フランスの植民地主義への批判がさほど聞かれないのはなぜか?
「革命の理念と植民地主義が、実はフランス人の意識において矛盾していなかったという点。そして掲げた理念の「普遍性」ゆえに、フランスに侵略された側もこの理念に容易に共鳴し得たという点。これらのことが、フランス植民地主義の「免罪符」になり、ひいてはフランスが自身の植民主義の過去を問い直す、大きな壁になっているのではないだろうか。」

317
「21世紀は「遊牧の世紀」になるともいわれるが、人の移動は形を変えて確実に増えるだろう。そうした社会において、ことさらにアイデンティティを一つに固定化するような、旧来の民族自決の意味合いは、急速に薄れていると言っていい。まして経済のグローバル化によって、むしろ貧富の差の拡大が指摘される中で、弱小地域が独立を必ずしも是としないのは、旧フランス領の例にも明らかである。」

フロリアーノポリスで日曜日

08/06/24(日)

・シュハスコ
・ボラの卵の塩から、漬け物

うっすらと外が明るくなってきた頃、目覚める。耳が痛い。どうも一度標高が高いところに上がり、そこから下っているよう。例のごとく道路はまったくの舗装道路で、バスもおそらく80キロくらいだしているから、標高が低くなるのが早い。

耳の痛みで再び寝ることはできず、しばらく外を眺める。民家がときどき現れ、畑も見える。緑が多い。

フロリアノポリスには8時頃到着。サンパウロでは7時くらいに着くと聞いたのに1時間近く遅い。

ここでは、30年ほど前にブラジルに移住してきたというAさんにここでお世話になることになっていた。Aさんがターミナルまで迎えに来てくれていたわけだが、ぼくが昨晩電話で7時頃に着くと伝えていたからだいぶ待ちぼうけを食ったよう。Aさんはここのバス会社に何時に着くかと電話で聞いてもみたらしいがはっきりしなかったよう。

車でAさんの自宅へ移動。大きな橋を渡り、島の方へ行く。

商店がぽつぽつある通りを通る。いったん自宅近くの海まで行く。そこには広く長い浜辺が広がり、近くにはリゾートホテルがあった。このホテルにはサッカーブラジル代表のメンバーやF1レーサー、俳優など有名人も泊まりに来るらしい。

Aさんの自宅近くには現在ホテルのようなマンションのような建物が建設中。その建設現場を囲っている柵には完成予想図と男性テニスプレイヤーの写真が載った看板が張られていた。なんでテニスプレイヤーが看板にあるのだと思っていたら、Aさんがこのテニスプレイヤーが発注主なのだと教えてくれた。ぼくは知らなかったが、世界ランキングでもトップクラスの選手らしい。その建物はAさんの自宅と浜辺の間にあるため、これができると家から見る海の景色が悪くなるとAさんはぼやいていた。

自宅に到着後、シャワーを借りる。それから朝飯をごちそうになる。白米に日本から送られてきたというしそふりかけ、それから自家製の白菜の漬け物。米は日本で食べているのと同じうるち米。どこで作っているのか聞くとパラグアイで作られたものらしい。漬け物も美味。箸がすすむ。F1でも見るかとテレビでF1を見つつ、食事。Aさんから聞いて初めてブラジルではF1の人気が高いということを知る。ぼくはあまり関心がないので、見ていても何が面白いのかわからない。Aさんも初めはそうだったらしいが、知るほどに面白くなったと言う。

その後、Aさんと一緒に暮らしているBさんに促され、家の2階に上がる。ここからの景色がとてもいいんだとバルコニーに案内され、行ってみると確かになかなかの景色だった。

10時過ぎまでゆっくりしてから親類の家でシュハスコ(スペイン語ではシュラスコ=バーベキュー)をするからとまた車に乗って移動。

中心街近くの海岸沿いには遊歩道が整備されており、そこをもくもくと歩いている人たちがいる。それも大勢いる。身なりはみなジャージにスポーツ用のシャツなどそれ用の格好をしている。一人で歩いている人の中にはiPodか何かで音楽(ではないかもしれないが)を聴きながら歩いている人もあり。ブラジルには国内の南北問題があると言われ、南は豊かで北は貧しいらしい。

南は白人が多く、北は黒人多いと聞いていたが、サンパウロと比較しても白人比率はかなり高い。

海岸から幹線道路を挟んで陸地側には高級ホテルや高級マンションが立ち並んでいて、いかにもリゾート地という雰囲気。ぼくが日本にいた頃に持っていたブラジルのイメージにはまったくない光景だった。

車で乗っていて気づいたのが信号のスタイルがユニークなこと。日本で一般的な横に並んでいるのではなく縦にライトが並んでいる。まぁ、それだけならアメリカなどでもよく見たのだが、ここの信号は縦に4つのライトがある。一番上が赤で一番下が青。その間の色は忘れた。赤から青に変わる時は上から順にライトがつき、最後に青いライトが着く。ちょうどF1のスタートのライトと同じ仕組み。

Aさんに信号のことを聞くと、"そうなんだよ、F1と似ているだろ。今日みたいにテレビでF1があった後なんかは、みんなF1のまねして、ほら、あの車なんか絶対そうだ”と、ウィンカーも出さずにキュッキュッとわりと狭い車間を移動しながら、他の車を追い抜いていく車を指さしながら言う。

20分ほどして幹線道路を脇に入り、未舗装の道を行く。左手にはやや高い山があり、その麓が牧場。右手には細い川が見える。この川はブラジルらしくなく、川底が深くなく水も澄んでいる。

Aさんの親類はこの山の麓の牧場で働いているらしい。オーナーの豪邸の向かいの家に暮らしており、今日はここでシュハスコをするとのことだった。

庭に暖炉のようなシュハスコ用の施設があり、そこで肉を焼くらしい。肉は殺したばかりの子豚。肉は内臓までいろんな部位を食らうらしい。肉は焼く前にリモン(緑色の皮のレモンみたいな柑橘)を絞った汁に浸す。肉は一番長いところで50cmはある肉をそのまま炭火で焼く。

テーブルにはポテトサラダやレタスなどが用意され、焼きながら食べながら、おしゃべりしながら過ごす。ポルトガル語の会話が基本なので何をしゃべっているのかはよくわからなかった。

Aさんに聞くと、こうしたことは毎週末のようにしているという。サンパウロ在住の人にブラジルの人の週末の過ごし方を聞いたときも友達の家に集まってシュハスコというのが定番と言っていたし、同じようなことはどこかの本でも読んだ。ブラジルもチリやアルゼンチンのように週末は店などは開いていないため何をするのかと思っていたのが、実際にこうして過ごしているのを見ると、なるほどこれもなかなかいいなと思う。

サンパウロ在住の人の話では、子どもがいる人は子どもも一緒に来るから子どもたちは子どもたちで遊び、大人は大人で楽しむというかたちになるらしい。

すっかり満腹になったあと、昼寝を進められ、しばらく熟睡。

帰る前には牧場主のみかん畑兼鶏の放し飼い場でみかん狩り。それから牧場主の自宅の敷地内にある屠殺兼解体用の小屋に行く。この小屋は肉を売るために作った施設ではなく、オーナーが自分の楽しみのために作った小屋らしい。そこでぶら下がっていた残りの豚肉を大量にもらって帰る。

夜は軽くご飯とつまみ程度。つまみには自家製のボラの卵の塩辛が登場。ボラの卵と言えば、珍味カラスミ。ちなみにぼくは未だにカラスミは食べたことはない。なのでボラの卵は初めて。これが食べ出すと止まらない一品で、なんともご飯と合う。

Aさんの話ではここらではボラをよく食べるらしく、ボラの卵も簡単に手に入るらしい。

食後、Aさんがここのところはまっているという数独をすすめられ、ぼくも何題か挑戦。日本ではしたことがなかったので、ルールを誤って覚えていたらしく、最初はまったく解けず。そのうち慣れるが難題は厳しかった。

夜は涼しく電気の力を使わずともぐっすり眠れる。

Fin

サンパウロからフロリアノポリスへ

08/06/21(土)

・フェイジョアーダの日
・ブラジル話
・5か国語をあやつる(?)日系おじさん


今日は移動日。起床後、リビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。すっかりここでの習慣となった。

これから移動する先はサンパウロから南に数時間いったフロリアノポリス。新聞を読んだ後、ベッドを空けるため荷造りをしてリビングの端に置かせてもらう。バスは夜なので、夕方までここで荷物を預かってもらうのだ。

土曜日は近くの路上で市をやっているというので、ふらふらと行ってみる。テントが張られ、野菜や果物を売っている。売っている人は日系の人が多い。朝飯にパステルを食べる。名前の響きとは違って揚げ物。春巻き系統の食べ物で、20cm四方程度の薄い生地の中に鶏肉や牛肉、エビなどの具が入っている。ブラジルではけっこうあちこちで売っているものだが、食べるのは初めてだった。パステルの露店は3店舗ほどあるが、客は一つの店に集中していて、そこには10人ほどいた。

ぼくは客のいない見た目日系の人の店でエビ入りのを頼む。2.5ヘアル(約200円)。それから客の多い店で牛肉のを頼む。値段同じ。店にはレモン汁のようなものやチリソースが用意されているので、それを好みでかけて食べる。味はどれもよし。

昼にサンパウロ在住の人と会えることになったので、その後昼まで宿で待機。

昼過ぎに待ち合わせの場所である近くの交差点に行き、しばらく待つ。今日は雨模様で、ときおり強く雨が降り出し、しばらくしてあがり、また降り出すといったことを繰り返す。

交差点にあるレストランの軒先で雨宿りをしながら待っていたところ、日本語を話すおばさんたちが続々と集まってくる。例の100周年に関係している人たちらしく、みなお揃いのTシャツを着ている。日本語で挨拶を交わしながら、互いに抱き合って相手の頬の近くで”チュッ”と鳴らす。まったくブラジル式(というかメキシコなどでも同様)の挨拶。見た目はみなまったくの日本人だから、こうして見ていると不思議な感じを覚える。

車の故障でしばらく遅れて待ち人はやってきた。相手方は3人。

車に乗せてもらい、ブラジルの料理が食べられる店に連れていってもらう。

着いた店は食べ放題形式の店で、30種類ほど料理が並んでいる。ブラジル料理もあれば揚げ物やスパゲッティもあり。今日、土曜日はフェジョアーダの日ということで、牛(だったと思う)のテールや何やら臓物系の肉と黒豆を煮込んだ料理が3種類ほどあった。

フェジョアーダは、黒人奴隷たちが肉の余った部分を使って作った料理として知られており、ブラジルの代表的な料理らしい。食べたいと思いつつ、今日まで食べていなかったので3種類とも試してみる。どれもなかなか塩気がきつく、味はとろとろするまで煮込んだ黒豆の味がメイン。白米と併せて食べるとなかなかいける。

ある伝があって会うことになったこの人は、2000年にブラジルに移住してきたという。今は日本企業とブラジルとをつなぐような仕事をしているらしい。

食事をしながらおしゃべり。いろいろおもしろい。たとえばブラジルに駐在している日本人が日本に帰るとき、日本にいる家族には会いたいけど、会社には戻りたくないといったことを言う人がけっこういて、ブラジルの方が居心地がいい=気疲れしないと感じる人は多いといった話。リオではカーニバルが終わった後も数日ほど工場が止まってしまう(二日酔いなどを理由に工場に行かないらしい)ことがけっこうあるといった話。また、ブラジル人は叱って奮起するようなことはまずない(怒るとプイと本当に出ていってしまうらしい)ため、誉めて機嫌よく働いてもらったほうがいいという話。

例の地下鉄の乗り方(けっこう空いているのに、ギュウギュウになるまで乗り込むようなことをしない)については、あれは一人一人が詰めないからだと言う。つまり、まだスペースがあっても誰も動こうとしないため、乗り込もうとする人もどうせ詰めてくれないからと乗るのをあきらめると言う。

3時頃、宿まで送ってもらい別れる。雨はあがっている。バスは20時だったため夕方まで宿で過ごす。あいにく宿にはマンガがいくつかあったため、他にやることがあるだろ、と思いつつ、マンガの魅力に負けて夕方まで読書。マンガを読んでいるとあっと言う間に日本にいる感覚になってしまうから不思議だ。

18時頃、宿を出てチエテのバスターミナルに向かう。地下鉄で1本。心配していた雨は降っていなかったので、濡れずに宿から地下鉄の駅まで移動できる。

ターミナル到着後、ソフトクリームを頬張り息抜き。このソフトがなんとも濃厚でなかなかよろし。ただ値段は150円程度と高い。

ターミナル内のベンチに腰掛け、本でも読むかとしていると背中合わせになっている後ろのベンチに座っていた日系らしいおじさんが話しかけてくる。隣に移動。

おじさんは100周年の細長い風船を持っていた。聞いたらやはり100周年の記念祭に参加してきたとのこと。御年68歳。日系2世らしく、日本語はややたどたどしい。おじさんはポルトガル語は当然として、それ以外に英語、ドイツ語、スペイン語も話せるらしく、それらしい旅行者を見るとこうして話しかけおしゃべりしているらしい。ぼくの旅程を聞いてきて、ブラジルは危ないから気をつけるよう言われる。30分ほどであわただしく、自分のバスが来るからと去っていく。その間際、おじさんの住所を書いた紙をぼくに渡し、手紙を書いてくれと言う。ただ、日本語は読めないから英語で書いてくれと言われる。

ぼくのバスは予定よりやや遅れて出発。晩飯は出ないが、昼にだいぶ食ったため晩飯抜き。外はすでに暗い。

寒さ対策のために今回はブランケットを持ち込んだが、今回のバスはそれほど寒くなかった。

Fin

2008年7月29日火曜日

皇太子の登場、パウリスタ大通り、金曜会

08/06/20(金) 晴れ 26℃

7時過ぎに起き、1階のリビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。相変わらず100周年関係の記事が多い。国内のニュースとしては、リオで警察が若者4人ほどを麻薬組織に引き渡したことで、その若者らが殺されたことに関するニュースの扱いが大きい。北朝鮮が核計画を考えているというニュースもかなり大きな扱いになっている。

リビングには、同室のおじいさんと韓国人の男女各1名とぼく。

今日の午前10時半頃に、ここリベルダーデにある日系人の移民資料館に皇太子が立ち寄り、その後、ガルバンブエノ通りを通るということで、同じ部屋のおじいさんは皇太子に会いに行くいう。

そこへ宿のおばさんが来て、”早く行かないと場所がなくなるよ”とそのおじいさんに言う。

おじいさんと二人で話していたら、韓国人二人が何を話しているのかと気にしていたようなので、でたらめ英語で解説。皇太子は英語でプリンスになるのか? などと思いながら適当な英語で伝える。状況はわかってもらえたよう。

彼らに韓国では、韓国人の移民について勉強するか尋ねたところ、しないとのこと。これは日本と同じだ。

10時前、ぼくも皇太子を見に来ている人たちを見に行こうと思い、外に出る。通りはもういっぱいだろうと思っていたら、それが予想外にがらがら。人でいっぱいだったのは、移民資料館の入り口付近と、大阪橋からリベルダーデ地下鉄駅にかけての100mの区間のみ。あとはパラパラ。

集まっている人たちはやはり日系が多いが、非日系のブラジル人も多く来ている。全体の割合で言うと日系7割:非日系3割という感じ。

平日の午前中という時間帯もあるのだろうが、日系の人は圧倒的に年輩者が多い。たぶん9割程度。非日系のブラジル人は20~40歳代程度と見られる人が多い。

日本とブラジルの小旗が沿道の人々に配られる。小学1年生くらいの子どもたちが40人ほど教員らしき人等に連れてこられていて、沿道で旗を振る練習などをしている。浴衣を着た年寄りたちやおそろいのジャージを着たラジオ体操協会(?)の年寄りたちは横断幕を持って立ったまま待っている。

テレビ局らしきカメラも数台。カメラマンは10人くらい。待っている人たちは互いにデジカメや携帯カメラで写真を撮り合ったりしている。

11時前、先導車に続き、皇太子が乗った白い車が通過。車は止まることなく、去って行く。おそらくほとんどの人が皇太子がどこにいたかわからなかっただろうというスピード。それに1世などの年寄りは背が低いから、最前列にいなければ車もまともに確認できなかったのではと思えるくらい。皇太子の車の後に、マスコミ関係者を乗せたバスが通り過ぎるとき沿道の人は旗を振って声を上げて遊んでいた。

その後、パウリスタ通りという映画館や官庁のある地帯を見に行く。

途中、昼飯を食うため町中でみかけるファーストフード的食堂に入る。よくわからないので、適当に頼んだら鳥の唐揚げの定食だった。ブラジルで鶏の唐揚げなんて失敗だ。

定食は白米、豆を煮たもの、生のレタスとトマトとキャベツ、それに唐揚げ。それぞれ別個の皿に盛られている。各テーブルには、1人の客に1枚の平皿が用意されており、その皿にそれぞれから移しとって食べるらしい。一枚の皿にまとめて出せる量のように思うのだが、なぜこういう習慣になっているのかが不思議だ。

豆はご飯にかける。煮豆はけっこう塩気が強いので、ご飯と混ぜるとちょうどいい具合になる。テーブルにはビネガーと塩、オリーブオイルがあるので、生野菜にはそれらを適当にかけて食べる。

また、爪楊枝(こちらのは両端がとがっている)があるので、食後にそれを使っている人もいる。

これでお代は6.5ヘアル(約400円)。

しばらく歩いていくと幹線道路の交差点で自動車のフロントガラス拭きをしている家族(?)がいた。10歳に満たないであろう男の子と女の子、180cm近い身長がある10代半ばくらいの男の子、そして母親らしい中年の女性が2人。

近くのちょっとした広場の端には洗濯物が干されており、そこで暮らしているらしい人が数人でおしゃべりをしていた。

さらに歩いていくと商店が建ち並んでいる地帯に出る。

ここでようやっと見つけたのは焼きそばの屋台。”Yakisoba"と書かれた歩道の屋台では、中国系の夫婦が中華鍋で調理している。若いヨーロッパ系のブラジル人が3人ほど、屋台の周りで焼きそばを頬張っている。値段は3ヘアル(約250円)。

どうも道を間違えたらしく、なかなか目的の通りに出ない。さまよい込んだ住宅地には立派な邸宅が立ち並んでおり、それらを眺めていると漢字が目に飛び込んできた。5階建てくらいのそのビルの壁には栃木県人会館とある。

他にも宮城県人会館や鹿児島県人会館などあるが、こうしたかたちで建物を所有(借用?)しているのは、日系人くらいじゃないのかと疑問に思う。そもそも県別に建物を持つというところがよくわからない。長期的に見れば、世代交代する度にそれぞれの県と具体的・直接的な縁がある人はどんどんいなくなるだろうに。

まあ、いなくなればなったで誰かに貸すなり、売るなり、返すなりすればいいだけのことだが、このような感覚だと出身者が少ない県の人は肩身が狭い思いをしているのではと思ってしまう。

ぐにゃぐにゃ歩いてようやく目的地近くまでたどりつく。かなり遠回りというか、完全に方向が違っていた。道路名がほとんど書いていない簡単な地図しか持たずに、五叉路や三叉路が多いこのまちを歩くのはなかなか難しい。

のどが渇いたので、道ばたの果物売りの人からスイカの切り身を購入。1ヘアル(約65円)。果物売りのおじさんは、ぼくからコインを受け取った後、ギザギザのパン切りナイフ(アルゼンチンではピザを食べるときに使っていたナイフ)を取り出し、ぼくに渡す。これを使って食べるらしい。

スイカで喉の乾きを潤し、また歩行を再開。パウリスタ通りは、片道3車線くらいの広い車道が真ん中を走り、その両脇にビルが建ち並んでいる。歩道も幅3mほどあり広い。車の交通量は多いものの、排気ガスのにおいはほとんどしない。

歩いている人も多い。また、物乞いしている人を2~3人みかける。セントロの方では路上で寝ている人らをたくさん見たが、物乞いをしている人は見なかった。こちらの方が金持ちが多そうだから、それを当てにしているのかもしれない。路上に座り込んで人が通る度に右手を差し出している一人のおばあちゃんに、適当にポケットのコインをつまんで渡すと、驚いたような顔をしていた。ぼくの外見がそうさせたのか、それともそうしたことがあまりないのか。

しばらく歩いていると「いらっしゃいませ」と日本語で書かれたビニール袋を手首からぶら下げている日系らしいおじさんを発見。両手に箱を抱えて歩道に立っているので、何をしているのかと思ったら、その箱にはイヤリングらしき小さなアクセサリーが20個ほど並べられていた。ここでこうして売っているようだが、10分ほど見ていた間では足を止める人はいなかった。

映画館やパスタ屋、電化製品屋、本屋などの他に美術館のような建物がちらほら。退屈なので、地下鉄の駅に着いたところで地下鉄に乗り、明日のバスのチケットを買いにチエテという駅まで行く。

フロリアノポリスまでの夜行バスのチケットは88ヘアル(約5000円)。12時間ほどの移動でこの値段。まぁ、こんなもんか。

それから宿に戻る。

19時頃、前に雑誌で読んだ宮城県人会館で毎週金曜日に金曜会というビアガーデンのようなものをやっているという記事を思い出し、行ってみることにする。

宿のおばさんに会館の場所を聞くと、すぐ近くだった。教えてもらったとおりに歩いていくと4階建ての立派なビルを発見。入り口には3mほどの高さの格子状(?)の門あり。

ちょうど玄関にけっこう年輩の男性がいたので、声をかけ金曜会のことを聞くと、どうぞどうぞと中に入れてくれる。建物に入るとまず左手に家紋の置物を展示しているショーケースがあった。

へぇっと見ていると、そのおじさんが「面白いでしょう?」と話しかけてくる。聞くと宮城県出身の移民の人で家紋が好きな人がいて、その人が作ったものらしい。おじさん言うには、100周年記念ということで、現在特別セールのようなものをしており、希望者があればその人の名前や出身地などから先祖を探り、その人の家紋を特定し、瓦のような材質の材料で家紋を表した置物を作ってくれるらしい。もちろん有料。

ショーケースの上にはその申込書があり、おじさんはもしよければとその紙を一枚ぼくにくれた。

エレベーターで3階(日本式だと4階)にあがる。エレベーターを出たところに受付のおばちゃんがいて、その後ろで別のおばちゃんたちが2~3人でおにぎりなどをにぎっている。

代金は25ヘアル(約1500円)。たぶんこの旅行で飯にかけるお金としては最大。高い。高い理由はビールが飲み放題で、他いくつかの酒も飲めることのよう。

4階は屋上になっており、そこに運動会で使うようなテントが5棟ほど張られ、七夕飾りのような装飾もされている。おそらく100人はゆっくり座れるくらいのスペースがあり、すでに20人くらいの人が飲んでいた。おじさんが多い。

入るとおじさんが、「何、のむ?」とまったく居酒屋的な調子の日本語で聞いてくる。何があるんですかと聞いたら、「じゃあ、まずはビールでいいか」とビールを中ジョッキよりやや小さいコップについでくれる。

適当に座ってと言うので、空いているところに1人で座る。

直径40cmほどの皿に複数のつまみが盛りつけられ運ばれてくる。おつまみは鯛っぽい白身の刺身が5切れほどと、しいたけの佃煮のような煮物、生セロリ、白菜の漬け物、なすの天ぷらなど。あと肉は適当に焼けたら持ってきてくれるらしい。それから最後にはソッパ(味噌汁)が付くという。

運んできてくれたおばさんは、一人じゃつまらないだろうから、みんなの中に入ったらとすでにできていたおじさんたちの輪の一つに案内してくれる。

せっかくなので、お言葉に甘え混ぜてもらうことにする。見た目みな50代後半から60代半ばくらいのおじさん4人と40代くらいの人が1人という輪の中に入る。

それほど盛り上がっていたわけではなく、わりとみなさん静かに飲んでいる。そのうち1人、2人と人が増え、徐々ににぎやかになる。

ブラジル生まれの人は1人ほどで、ほとんどの人が日本で生まれ移住してきた人らしい。そのためおしゃべりは日本語だし、イントネーションなどもまったく日本で聞くものと同じ。

そのうちぼくと同じ名字の人は、12~13歳のときにブラジル丸(だったかな)で家族とともにブラジルに来たという。船に乗ったらすぐに船員に”暇か?”と聞かれ、暇だと答えたところその日から船の食事作りの手伝いをやらされたらしい。それも45日間ずっと。話している様子からすると楽しかったよう。ロサンゼルスに停泊したときには、移民の中ではただ一人だけ下船を許され、そこで食べた大きなアイスが「それはうまかった」らしい。ロスでは観光客と船員だけが下船できたそうで、移民の人は停泊中ずっと船の中だったらしい。なので、移民の人の中にはロスで下船してみたかったと言う人が多かったらしい。

そうしてリオ・デ・ジャネイロに到着。すると今度は盗難の嵐だったらしい。移民の人たちが持ってきた荷物を、港で待っていた地元の人(おじさんは「くろんぼ」と言った)が船に乗り込んできて親切に荷物を船から降ろす手伝いをするふりして、カメラやラジオなどを盗んでいったらしい。

話題は今回の100周年の話から日本の政治家の話(民主党批判、次の首相は麻生がいいといったこと)、相撲話(モンゴル勢の次はロシア勢か?)、市町村合併の話、秋葉原の殺人事件の話、便所掃除の話など。基本的に日本に関わることが中心。みんなよく知っている。

ある人はぼくに、”あちこち旅行しているみたいだけど、ここが一番暮らしやすそうだと思わない?” と聞いてくる。また、日本がもし大変なことになったら受け入れてくれるのはブラジルくらいしかないよ、とも。それからブラジルには何かやろうと思えば、それができる環境があるという。具体的には例えば日本や欧米では資格が必要だったり、あるいはもろもろの煩雑な手続きを経ないとできないことが、ここではそうしたことが少ないためより早くスムースに実現できるということらしい。

また日本のお菓子や食料品の袋に入っている乾燥材などについて、”あれは食べられるのかどうか外国の人にとってはわかりにくい。もっとドクロのマークにバッテン(×)するなどわかりやすくしないと間違って食べてしまうよ。俺はそれがいっつも心配なんだよ”といったことを言う。

そんなもろもろの話を聞かせてもらっているうちに閉店の22時になる。

切り上げるときに、同じ名前のおじさんは、”あなたは今日はいい話を聞いたよ。今日の話はなかなか聞けないことだから。今日聞いたことを自分の子どもたちなどに聞かせたりしてほしい”というようなことを言う。

ブラジル式に握手して解散。

宿に戻る。カイピリーニャというサトウキビで作った強い酒を飲んだせいで頭がイタい。ダチョウのたたきは美味だった。

寝る。

Fin

移民博物館、日系資料館、図書館

08/06/19(木)

今朝も7時すぎに起きてリビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。昨日の慰霊祭やサントス港であった式典についての記事が大きい。

10時すぎに宿を出てこの間道を間違えて行けなかったブラジルの移民博物館に行く。

地下鉄を乗り継ぎ、最寄りの駅に行き、この間とは反対方向に行く。

線路にまたがる陸橋の階段を上る。この階段が汚く小便くさい。

反対側に降りると道に線路があった。もう使われていない道に埋もれつつある線路。右手には目的の博物館があった。

入り口で入場券を買って、回転バーを押して入る。正面にはレンガ色の建物があった。

それが博物館の本館だった。促されて二階あがる。上がってすぐの踊り場には、幼稚園の演劇にでも出てきそうな布地で作られた人形が数十体あった。思わずビクっとする。どうもこれらの人形はブラジルに移民としてやってきた各国の人を表しているらしい。

廊下の椅子に座っていた女性が、右の部屋から見るよう促す。そこにはブラジル移民に関する総論的な展示がされていた。

奥に進むと特別展をやっていた。テーマは日本人移民100周年。当時のパスポートや持参品、乗船名簿などが展示されている。これ以外も含め展示の説明はすべてポルトガル語だったため、内容はよくわからず。ぼくとしては日本人移民については別に立派な資料館があるため、それ以外の移民について知りたかったのだが、来た時期が悪かった。

一階にも展示あり。移民してきたばかりの人たちを各国別に撮った集団写真があり、それぞれがそれぞれの地域で一般的だった服を着ているのを見て、この100年で本当に世界は大きく変わったんだなと大袈裟にも思ってしまう。今やどこに行ったって、たいがいみな同じような服を着ている。

そうでない人たちの服は民族服や民族衣装、伝統的な“衣装”と呼ばれ、ただ“服”と言ったときに想像する範囲外のものとして扱われる(ように思える)。日本語では洋服と和服という言葉があるが、他の国々の言葉ではどのような表現がされているのか、気になるところ。

などとくだらないことを思いながら、展示を見ていくと、壁にタッチパネルが埋め込まれたコーナーに出る。それはこれまで移民として渡ってきた人たちの名前とブラジルに来た年、そのときの船の名前など検索できるコンピューターだった。

使い方がいまいちわからないので、隣で検索していた日系らしいおじいさんに日本語で聞いてみるが、日本語が通じず、自力で適当にいじってみる。

名簿的なことの他に、各国別に数人の人へのインタビューを見ることができるようになっていた。言葉がわかればなかなか面白そうなのに、残念ながらひとつもわからん。

1時間ほどいて出る。まだ見ていなかった日系人の資料館を見るため歩いてリベルダージに戻る。

1時間ほど歩いて宿近くの資料館に到着。同じ建物の中には集会所や図書館などもあり。

先に図書館に行く。日本の小さなまちの図書室並の図書館で、専門分野別の棚が所狭しと並んでいる。ほんの冊数自体はなかなか充実しているようだったが、本自体はけっこう古いものが多い。

図書館内をみまわしてみると、週刊少年マガジンとジャンプを発見。1年分くらいがずらっと並んでいる。なんとすばらしいと思いながら近寄ってみると、それぞれ2007年の1年分でさすがに2008年のものはなかった。読書用の机ではマガジンを10冊ほど重ねて読みふけっているおじさんがいた。

古くなった本やあまり読まれない本は、入り口近くの本棚に並べられ、格安で販売されている。眺めてみたが、買いたいと思うまでの本はなし。

その後、同じビルの7階だかにある資料館を見学。入場料は意外と高かった。資料館を維持するために日本からの旅行者は一律同じ料金を払ってくれるよう、お願い文が書かれてある。展示は2つのフロア(階)にまたがって展示されている。

展示物は日系人がブラジルに定着させたさまざまな農産物(30種類近くあった)についてや移民当時の暮らしの様子を再現したものなどかなり充実している。さっき行ったブラジル全体の移民博物館の特別展示よりもはるかに詳しい。ま、当たり前だけど。目を引いたのが動物の剥製。アマゾン地帯に入植した人たちは、入植当時、森に住む生き物たちとときに対決しないといけなかったらしい。

ここのフリーペーパー『ピンドラーマ』を読んだときに、日本語-ポーランド語の辞典を作った大武なにがしという人のことを書いた冊子がここで配布されているとあったので、それについてスタッフの人に聞くと、有料だった。が、記念に購入。

あとは宿で本を読んだりなんたり。

Fin

2008年7月27日日曜日

[速報]バマコ(マリ)いり

ほんの数時間前、マリのバマコに着きました。ダカールを出たのが一昨日の午前中だったので、丸2日バスに乗っていました。と言っても待ち時間がかなりありましたが。

バマコではニジェールやブルキナファソのビザを取って、ニジェール側沿いに東に向かう予定です。

2008年7月21日月曜日

[速報]サンルイス(セネガル)いり

明日移動のつもりでしたが、気が変わり今日の昼過ぎにヌアクショットを出て、セネガルに入りました。今は、セネガルの北、大西洋に面したサンルイスにいます。

国境では暇なガキども(といっても10代後半から20代と思われる)が数人はえのようにたかってきて国境を通るのにああだこうだと嘘を並べたてさらには人を馬鹿にした言葉を発するなど、川に沈めてやろうかと思うようなことがあり、すっかり疲れましたね。やれやれ。

ところで、ここはちょっとした観光地のようで、モーリタニアではほとんど見なかった観光客がここにはけっこういます。フランス語を話しているのでフランス人かベルギー人かというところでしょうか。

今日、宿を取ったところにはベッドそれぞれに蚊帳がついており、いよいよマラリア地帯に入ったかと感じた次第。

2日ほどここで休み、明後日にはダカールに向かいます。

ではでは。


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2008年7月20日日曜日

[速報]ヌアクショットいり

一昨日の18日に西サハラを出て、モーリタニアの北の町昨ヌアディブに着き、昨日、ヌアディブから首都のヌアクショットに着きました。気になっていたモーリタニア国境でのビザ取得もすんなりでき、また同じ国境の警察による賄賂請求もなく、時間はかかりましたが順調にここまで移動することができました。

モーリタニアは国土の7割だったかが砂漠の国で、実際西サハラでの移動よりも昨日のヌアディブからヌアクショットへの移動のほうが、砂漠らしい砂漠でした。

モロッコなどの北アフリカは、サッカーフランス代表だったジダンのような人やアラビア系の人が多かったのですが、サハラを超えてここまで来ると、ブラックアフリカと呼ばれているように、肌の色が黒い人たちが大多数になりました。

モーリタニアでは2007年12月だったかにフランス人観光客が殺される事件があり、さらにその影響で今年はダカールラリーが中止になったため、観光客が激減したようです。そのため、ここで観光に携わっている人たちは今年はかなり苦労しているという話がネットの記事にありました。

ここではまたも安宿が見つからず、泊まっている宿は2500円ほどもする宿です。ふろ付便所付なので快適なのではありますが、予算の倍かかっているため、明日にはセネガルに移動しようかと思っています。

では。

2008年7月18日金曜日

[速報]ダクラいり

先程西サハラのダクラにつきました。

予想以上に大きい町でネット屋も数件あり、レストランはもっとあります。気温は30度程度でのように感じますが、風があるためかなり涼しいですね。当てにしていた安宿を見つけることができず、昨日に続いて2000円位する宿に泊まることにしたのですが、そこで聞いたところここからモーリタニアのヌアディブまでタクシーもあるそうです。宿の人が運転手に連絡を取ってくれると言ったので、その値段次第では明日ここを出ます。

ヌアディブまでは400km程度らしいので明日中、遅くても明後日には着く予定です。

では次はモーリタニアから。

2008.7.17. 18/20

2008年7月16日水曜日

[速報]アガディール入り、ダクラ、モーリタニアへ

現在、モロッコは中央部大西洋岸のアガディールというところにいます。昨日、カサブランカを出てマラケシュに向かったのですが、マラケシュのバスターミナルが中心部から遠かったため移動が面倒になり、またバスに乗って昨日の23時ころにここにつきました。ただここもターミナルが中心部から遠く、そのためタクシーを使ったところ、安い宿は軒並み満室でしょうがなく2000円もする中級ホテルに泊まってしまいました。モロッコでこれまで泊まった宿にはコンセントがなかったため日記の入力等が滞っていたのですが、ここで多少リカバリーし、カメラの充電などもできたのはよかったですね。

さて、今晩にはまた移動します。今度はモロッコの南というか帰属問題がまだ解決していない西サハラのダクラDakhlaというところが目的地です。モーリタニアとの国境は開いているのですが、公共交通機関がないためダクラでヨーロピアンの車をヒッチハイクするか、モーリタニアんの商売人のトラックに同乗させてもらうかしないと行けないところのようで、運が悪いとその車を捕まえるのにかなり時間がかかるらしいです。ちなみにこのルートはサハラ砂漠の端をとおるのでサハラ超えのひとつのルートになっているのですが、今やかなりの部分が舗装されたので以前よりはかなり楽に移動できるとか。

ダクラには明日の夜くらいか明後日くらいにつく予定ですが、ダクラにネット屋があるかどうかは不明のため場合によっては1週間ほど音信普通となるやもしれませんが、あしからず。

では
2008.7.16 13/44
Agadir,Morocco


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移民の日、慰霊祭、ぶらぶら

08/06/18(水)

7時過ぎに起床。ちと寒い。1階のリビングでニッケイ新聞、サンパウロ新聞を読む。

今日は移民の日、また100周年の日ということでそういう記事が多い。

10時頃宿を出る。日本週間ということで、いろいろな催し物が行われているアニャンビーという国際展示場などがあるところに行く。

地下鉄に乗り、昨日同日のおじいさんから聞いた乗り換え駅で降りたが、間違って記憶していたことが判明。乗り直しチエテという駅まで行く。

そこから無料のバスが出ていると言っていたのだが、あたりをみてもそれらしきバスがない。行けばわかるかと思っていたが外れ。細かいことを聞いていなかったため探すこともできず。近くの交番で警察に聞く。流ちょうなポルトガル語で教えてくれたが言葉はまったく聞き取れず。幸いジェスチャー付きだったので、それから読みとれたことを元にバス乗り場まで移動。

無料ではないが有料のバス停を発見。日系らしいおじさんとおばさんが1人ずつバスを待っていた。

バスはキングストンで乗ったバスの作りに似ていた。料金を集める人が中におり、その人にカネを払わないと回転バーが回らず降りたりすることができない。料金は2.2ヘアル。

10分ほどすると、体育館のような建物の屋根が見え、その奥に鯉のぼりが見える。

バスは展示場の入り口で停車。降りるとすぐが入り口になっていた。中に入ると若い日系の男女が受付をしていた。はじめポルトガル語で何か言われ、分からない様子をしているとつたない日本語で説明してくれる。プログラムのパンフを販売しているらしく1ヘアルだという。日本語のはないか聞いたところ日本語のものはないとのこと。記念に1冊購入。

入場者を数えるためらしい回転バーを押して中に入る。中は白と赤を基調にした空間になっており、なかなかしゃれた設営がなされている。

ある部屋では折り紙教室が開かれ、ある部屋ではコスプレの衣装が展示されていたり、マンガの人物を描く教室が開かれている。また、音楽に合わせてステップするゲーム機や介護ロボット(?)の展示、キティちゃんのコーナーなどもある。天井にはマンガのページをやぶいて魚の鱗のようにぶら下げられていたり、アニメのポスターなどもあり。

食事コーナーには寿司もあった。基本的に日系人が圧倒的に多く、ゲームやマンガなどに関するところには非日系人の子ども(10代くらい)たちが多かった。

13時からあった慰霊祭をぼくも見学。なんとか会長といった人たちが追悼の文を日本語で読み上げる。坊さんたちによる読経もあった。こういう場合はどの宗派のお経をあげることになっているのだろうか気になる。

夕方、アニャンビーを出てチエテのバスターミナルでフロリアーノポリス行きのバスの値段と時間を調べる。ブラジル最大のターミナルということでどれだけでかいのか期待していたのだが、確かにでかいが想像以上ではなかった。

それから移民博物館に行こうとするが、最寄り駅からの道を間違え、また閉館時間も近かったためそのままセントロまで歩く。

地下鉄駅入り口の広場やいくつもの道路が交差しているところにある緑地帯などにはホームレスらしき人らが多い。

セントロの店でX-Saladaというハンバーガーとアサイのジュースを夕食代わりに食べる。合計5ヘアル(約400円)。

ハンバーガーはなかなかでかく、すばらしい。日本と違うのは会計の仕組みで、カウンターにいる人に適当に注文すると支払う合計金額を書いた紙を渡される。その紙を持って食後なりにレジに行ってお金を払う。入り口も広いからなんだか食い逃げがしやすい仕組みのように思うが、こうしたやり方が定着しているよう。

日がくれて以降は宿で過ごす。

Fin

サントスのまちへ

08/06/17(火)くもり

・あんぱん、ミルクパン
・日本語の本屋
・サントス

7時過ぎに起床。おじいさんはすでに出かけたよう。昨日買ったパンを朝飯代わりに食う。また、やはり昨日かったピーナッツを頬張る。が、これが生だった。やれやれ。

1階に降りてテーブルにあった日本語の新聞2紙を読む。面白かったのが100周年のイベントに関わる記事。

9時過ぎに宿を出て、近くの日本人移民資料館に行く。が、資料館は午後1時過ぎからだと入り口の受付にいた無愛想なおじいさんに言われる。そのおじいさんに100周年のイベントについてまとめたスケジュールパンフのようなものはないか聞くと”さぁ、ここにはないですね”とそっけなく言われる。どこに行けば手に入るかと聞くと、これもやはり”サァ”との返事。この対応! 一大イベントだろうに、この要領と関係団体との連携の悪さ! まさしく日本的。う~ん、素晴らしい。日本的なものがしっかり根付いている。

アホかと思いながら、資料館をあとにし、ネット屋でメールチェック。

今日は昨日行っていないサンパウロ市内をふらつこうかと思っていたが予定を変更。日本人移民が最初に着いたというサントスのまちに行くことにする。

地下鉄に乗って(2.4ヘアル)、終点まで行き、そこからサントス行きのバスに乗る。運賃15ヘアル(約1000円)。

9時45分のバスに乗り、サントスのバスターミナルに着いたが10時前。寝ていたのであっと言う間だった。

バスを降りて、ターミナル内のインフォメーションに行く。地図をもらう。インフォメーションのおじさんは、いわゆる小人病(だっけ?)の人だった。親切なことにポルトガル語と英語とどちらがいいか聞いてくる。てっきり地図のことか思ったが、そうではなくしゃべる方のことを聞いているのだった。

”英語で”とお願いすると、どこに行きたいのかと聞いてくるので、日本人移民の像があるところに行きたいと言うと、地図上に位置を示し、何番のバスに乗れば行けると教えてくれる。さらに明日サントスで日本人移民に関するセレモニーがあると言って、セレモニーの会場の位置と時間を教えてくれ、さらにここに行けばもっと詳しいことがわかるだろうと日本人がやっているらしい店の名前を教えてくれる。その店の人は、おじさん柔道(柔術?)の先生だという。

ここまで情報を持っていることに驚くとともに感謝。そういうわけでバスに乗ってまちの中に入る。

バスは2.2ヘアル。ターミナルから乗るときは、電車の改札のように窓口でチケットを買って改札機を通ってからバスに乗り込む。まちから乗り込むときは前のドアから乗り、運転手に運賃を払うなり、切符を持っていればそれを改札機に通し、回転バー(実際はバーではないのだが)を押して中に入る。

バスはまちの中を通る。想像していた以上に大きいまちで何よりよく整備されている。自転車道が敷かれ、そこをチャリに乗った人らが走っていく。高層マンションの間に古い教会があったりする。

目的地にたどり着く前に銀行があったので、そこで両替。米ドルのトラベラーズチェックを現金化したら1米ドル=1.54ヘアルというレートでがっくり。ため息が出る。ちなみにボリビアとの国境では米ドル現金が1.8ヘアル。

またバスに乗って目的地に向かう。バスは浜辺(ビーチ)に沿って走り、車窓からは砂浜に設置されている遊具で遊ぶ子やサーフィンをしている人たちが見えた。気温15℃程度で、かつ曇りだからさすがにサーフィン意外は海の中で遊んでいる人はいない。天気のせいか海はあまり美しくない。ウグイス色に濁っている。

このビーチ沿いは、公園が整備され、その中にモニュメントがいくつかぽつぽつと建てられている。日本人移民のブラジル上陸記念碑もその中にあった。道路を挟んでビーチと反対側には高層ビル(マンション)が立ち並び、いかにもリゾート地という雰囲気が漂っている。

ビーチを通り越したら、今度はヨットやボート、漁船などが停まっている湾沿いにバスは走る。適当に降りたが、目的地が見あたらず、近くの船着き場の人に聞く。

現在地を教えてもらい、目的地に向かう。インフォメーションの人は、Estrela de Ouroというところに行けば、明日の情報は得られるとのことだった。バスを降りてから15分ほどで、その文字が入った建物を発見。建物の横は魚市場になっていて、10軒ほどの魚屋がいろんな魚を並べて売っている。たこやいか、冷凍もののエビなどもあり。

建物の入り口に行くと、日系人らしい白髪のおじいさんがいたので、日本語で声をかけるとポルトガル語で日本語はわからないというようなことを言われる。

なので、適当に建物の中に入る。なんの建物かと思っていたら日本料理を出すレストランだった。100人以上が入れるくらいの広さで、内装はビアガーデン的。

次に声をかけた人は、見た目60歳くらいのおじさんで、ぼくがしゃべる日本語は解した。ただ、おじさんがしゃべる日本語は、助詞が抜けたりする日本語。明日のことを聞いたら、迷惑そうな顔をすることもなく対応してくれる。が、どこで何時にあるかということは知らなかった。ただ、食事はこの店で食べるということだけは確実な情報らしい。

結局、インフォメーションで聞いた以上の情報はわからず。ビーチの方に向かって歩く。高層マンションが建ち並ぶ住宅街の中を歩く。ゴミ置き場はアルゼンチンと同じように、地上から1mくらいの高さに鉄枠があり、そこに置くスタイル。道ばたにはゴミはほとんど落ちていない。

英会話スクールや英語とスペイン語の会話教室の看板も見える。また、日本の高級スーパーに似た作りのスーパーや、ぼくには一生縁のなさそうな高級そうなレストランも並ぶ。総じて高級住宅街っぽい。

浜辺に出る。さっき通り過ぎた日系人の碑に向けて、公園を歩く。車道沿いには片道1車線の自転車道が伸び、そこをマウンテンバイクやロードレーサー、こちらではママチャリにあたりそうな自転車が走る。また、アルバイトなのか、企業の広告を貼り付けた自転車を漕いでいる人たちもいる。

浜辺をサッカーらしきユニフォームを着た女子(高校生くらい?)がランニングしている。レガッタよりももっと大きなボートをこれから海に出そうとしている男子(大学生?)もいる。

椰子の実ジュースやポップコーンなどを売っている露店や屋台があるが、少ない。面白いなと思ったが、浜辺に図書館があったこと。小さな図書館で、10~20畳のワンフロアのみ。自動ドアを入ってすぐが閲覧席になっており、10人近くの人が本を読んでいた。

日本人移民の上陸を記念したモニュメントにたどり着く。写真を1枚撮る。すぐ近くで日系らしい白髪のおじいさんがポップコーンやチュロスを売る屋台をやっていたので、買いに行ってみる。

日本語で声をかけようかポルトガル語で声をかけようかと迷っていると、おじいさんと目が合い、ポルトガル語でなにやらあれこれと言われる。当然、わからないので、首をひねっていると、”日本人ですか?”と日本語で聞かれる。

”そうです”と応えると、”今、向こうに行っているからちょっと待って”と言われる。意味がわからなかったが、とりあえず待つ。しばらくして浅黒い肌のおばちゃんがやってくる。おじいさんは、おばさんの代わりに店番をしていたらしい。

そのおばちゃんにおじいさんは、何とかとポルトガル語で言い、おばちゃんは、どれがほしいのかとポルトガル語で聞いてくる。ポップコーンをポルトガル語でなんと言うのかわからなかったので、指さしで注文。2ヘアル(約140円)。

立ったまま食べ始めるとおじいさんが、”まぁ、かけてください”と椅子をすすめてくれる。促されるままに座る。おじいさんとおばさんは、ポルトガル語であれこれとしゃべっている。

おばさんとの話が一通り終わってから、おじいさんもチュロスを頬張る。横に座ってしばらくおしゃべり。

おじいさんは、移民の碑を指さし、”明日で1回目の移民が来て100周年になるね”と言う。そして、”あれは橋本(龍太郎元総理)さんが送ってくれたのよ”と続ける。”橋本龍太郎も死んじゃいましたね”と言うと、”ああ、あの人死んじゃったの?”と知らなかったようだった。

それからしばらくおじいさんの移民の話や東京に働きに行ってたときの話などを聞く。

おじいさん(以下、Oさん)は、ブラジルのサンパウロ州生まれで現在73歳。Oさんのおじいさんの代にブラジルに渡ってきたという。Oさんのおじいさんは、”戦争の後、すぐに”ブラジルに来たという。ときは1908年6月18日。つまり、笠戸丸に乗ってやってきた第1回移民だったらしい。

Oさんは、”おじいさんは戦争の後すぐにブラジルに来たと言ってたなぁ。そして、その戦争で何かの勲章をもらってたようだった”と言い、ぼくに”日本はアメリカと戦争したんですよね”と聞いてくる。ぼくは、日本が19世紀末から20世紀半ばまで戦争に明け暮れた歴史をOさんも知っていると思っていたので、この質問にちょっと驚く。質問から察するに、どうもOさんはおじいさんがアメリカとの戦争に従軍したと思っているようだった。

なので、日清戦争からアジア太平洋戦争までの流れを年表形式で少し説明すると、”そんなに日本は戦争してたのかぁ”と驚いたふうだった。

戦争のすぐ後に笠戸丸に乗って来たというなら、Oさんのおじいさんは日露戦争後にブラジルに来たということだろう。

Oさんのお父さんはその頃、まだ1歳くらいだったとか。Oさんのお母さんは熊本の八代出身で1934年頃、ブラジルに来たらしい。Oさんは八代のことを”やっちろ”と言う。この呼び方は本物だ。

現在73歳というので、Oさんの生まれは1935年あたりになる。Oさんの家族は百姓をしていたらしい。何を作っていたのかは聞きそびれる。

第1回の移民船で来た人は、10年くらいブラジルで働いてお金がたまったら日本に帰ろうと考えていた人が多かったらしい。しかし、コーヒーを作ったら、これでずいぶん儲けることができたらしく、”だんだんと日本のことを忘れていった”という。Oさんは、”だから田舎に行くとお金持ちがいっぱいいる”と言う。

”戦争の頃は大変だったよ”と言って話し始めたのは、アジア太平洋戦争時のこと。サントス港近辺にいた日本人やドイツ人は内陸部に送られ、そこで働かされたという。しかし、Oさんの話では賃金も何もない強制労働ではなく、賃金をもらっての仕事だったそうで、しかもこれでけっこうカネを貯めた人がいたらしい。

ぼくは”ブラジルにいて良かったですね”と言うと、”うん、あのころはブラジルの方が良かった。でも、今は日本の方がいいね。”と言う。

Oさんは1945年の日本の敗戦をめぐって、ブラジルの日系社会で繰り広げられた勝ち組・負け組の抗争ことも、小さかったから細かいことはわからないものの、今でもしっかり覚えているという。

1955年にはOさんはブラジルの軍隊に入り(たぶん兵役)、大型のトラックを運転したりしていたという。それを聞いたOさんのおじいさんは、自分の孫が軍隊に入りそのような仕事(?)をしていることを聞き、たいそう喜んだらしい。

ただ軍隊生活は、上下関係から何から厳しくて大変だったらしい。

軍隊にいた期間は1年。父親が亡くなってしまったため、家に帰らねばならないと説明し、辞めたらしい。

軍隊を辞めたOさんは、家業の農業を継いだが、これが余り面白くなく仕事を変える。新たな仕事はトラックでの運送業で、野菜などを内陸の農業地帯から運び出し、都市部に届ける仕事をしていたという。

特に運んだのがスイカで、1玉10kgも20kgもあるスイカを多いときには10トンも積んで走ったらしい。しかも、当時はアスファルトなどなかった。今はサンパウロからバスで40時間足らずで行けるリオ・デ・ジャネイロは、2週間もかかったらしい。

それでも小さい頃からトラックが好きだったらしく30年ほど運送業をして、今はもう引退して年金暮らしらしい。

日本へは1993年に初めて行ったらしい。新幹線ひかりの関係をしていたらしく、5年ほど東京の池尻に住んでいた。日本に行ってなにか変だなと思ったりしたことはなかったかと聞いたところ、そういうのはなかったと言う。

ただ、思い出したように、”新宿に行ったとき、あの紙をこうやって束ねるのは日本語でなんて言うんだっけ。その中で寝たりして”と言うので、”段ボールハウスですか?”と言うと、”そう、あれを新宿に行ったとき見たね”と言う。

それから出たのが川のこと。”ブラジルの川はどこも濁っているけど、日本の川はきれいなんだよね”、”ぶどう狩りに行ったとき、川の中にいる魚まで見えた”と言う。

Oさんは2重国籍取得者で、”ブラジルにいれば日系ブラジル人3世になり、日本に行けば日本人になる”と言う。日本に行ったときは、日本のパスポートを取得してから行ったらしい。ブラジルを出るときはブラジルの”パサポルテ”を出し、日本に入るときは日本の”パサポルテ”を出して入ったという。

二重国籍を持っている人は多いのかと聞いたところ、今はもう100人くらいしかいないらしい。基本的に70歳以上の人ばかり。

孫たちが日本に行きたいと言っているものの、日本に行くにはビザを取得せねばならず、その取得がまた大変らしい。そのためちょっと日本に遊びに行くということは、大変むずかしくなっているという。この扱いは日系人も非日系人も同じ。厳しい理由を”日本でブラジル人が悪いことをしたから、それで厳しくなった”とOさんは説明する。

ちなみに今朝のサンパウロ新聞(日本語)には、投書欄にこのビザの取得の厳しさについて批判する意見が載っていた。投書した人の記事によれば、日本政府は日系人から日本国籍を剥奪した上、日系人が日本に行くときにもビザの取得を義務づけ、かつその手続きは、ほとんど日本に来るなと言っているようなものらしい。記事を読むだけでも投稿者がかなり怒っていることがわかる。

ぼくにブラジルの料理はどうと聞いてくるので、ちょっと塩気がきついですねと応えると、そうなんだよねと言って、日本人の口には合わなかったりすると言う。ぼくが自宅では日本食を食べているのかと聞くと、家ではブラジルの料理を基本的に食べているという。その理由として、”娘たちが、日本の料理をしきらんから”と九州的な言葉で言う。

サントスのまちについては、40年前頃からこんな立派なビルが立ちだしたらしい。また、ブラジルの治安について、ブラジルではピストルを持っている人が多いのが危ないという。聞くとパラグアイやアルゼンチンで買って持ち込むらしい。鈴国との行き来はチェックがかなり甘いから簡単にピストルを手に入れることができるらしい。

すっかり日が暮れたので、おいとまする。サンパウロに戻ることを言うと、そこの道を15分ほど歩いていった通りでサンパウロにダイレクトで行くバスに乗れると教えてくれる。

店の時計をのぞいてみると時間は19時を過ぎていた。店はまだ開いているし、人通りもわりかしある。バス待ちをしている人も多い。

おじいさんの15分とぼくの15分はだいぶ違うと思うんだけど、と思いながら適当に歩いて、適当に待つ。なかなかバスは来ない。30分ほど待ってバスにありつける。

バスはセントロを通ってバスターミナルに入る。ターミナルに入ると乗客のほとんどが降りる。ダイレクトで行くと言っていたからぼくは乗ったまま発車を待っていたのだが、発車前にチケットのチェックがあり、持ってなかったぼくは降りるよう言われる。これで1本逃す。

ターミナルの窓口でチケットを買って、別のバスに乗り込む。また寝る。バスに乗るとどうも寝てしまう。

気がついたらサンパウロの地下鉄駅のターミナル。乗客の少ない地下鉄に乗ってリベルダーデに行く。21時を過ぎていたが、日本食のレストランや居酒屋などは開いていて、客もけっこう入っていた。

ぼくはネット屋でメールをした後、宿に直行。

22時過ぎに同室のおじいさんが帰ってくる。スーツにネクタイ姿。今日はアンニェンビーという日本人移民100周年を記念したイベントが行われている文化施設に行ってきたらしい。昼過ぎに行ってからこの時間までいたという。今日は沖縄の太鼓団の演奏やなんとかという女の演歌歌手か何かのコンサートなどがずっとあっていて、途中で抜けようにも抜けられず、この時間になってしまったという。

今日も新たな客なし。部屋には2人のみ。

Fin

sao paulo

サンパウロに到着、日本人街などをぶらり

08/06/16(月)

・寒いバス
・地下鉄の乗り方
・路上の人々
・ブラジルの物価

夜中の12時、どこかのターミナルに到着。客が数人おり、数人乗り込んでくる。バスに乗ってからあっと言う間に寝込んでいたぼくは添乗員の声などで目が覚める。

15分ほどで出発。先ほどまで寝ていたため、今度は寝られない。外を眺めても星は少ないし、月に照らされて見えるのは、木々の影だけ。

2時頃、また別のターミナルに着き、そこでも新たな客が乗り込んでくる。しかし、それでも車内はがらがらでみな2人ぶんの座席に横になったりしている。

車内は冷房をかけているのかと思うくらい寒い。正面の壁に電光掲示板があり、そこに外気温と車内の気温、現在の時刻がずっと映し出されている。外の気温は9度、車内は16度。時計は8時頃になってり、まったくあっていない。

客の数が少ないせいか、車内は寒い。ブラジルの長距離バスはみた範囲ではどれもアルゼンチンやチリ、メキシコと遜色なかったため、寒ければ暖房がつくだろうし、暑ければれぼうがつくだろうと思い、毛布の類は持ち込んでいなかった。上着を着ている上半身は寒くないが、脚の方が冷える。

ちょっと寝ては起きというのを繰り返す。

いつの間にか寝ていて、6時30分ころ目覚める。外はすでに明るい。足はすっかり冷えている。外からの光で車内の様子が見え、それでみな毛布を持参していたことに気づく。

道端の標識にサンパウロまで50数kmと見える。もうだいぶ近くまで来ている。

道沿いには林が広がり、ときおり民家が見える。しばらくすると工場らしき建物が次々に現れる。

やがてレンガ色の一帯=まちが現れ、乗客のひとりがそこで降りる。道路のすぐ脇には小さいバラック街。壁は板の張り合わせ、屋根はトタン。一見するだけで、その一帯が貧しいことがわかる。

畑などは見えない。

さらに行くと正面奥に高層ビルが見えてくる。あれがサンパウロらしい。車の交通量が増え、道は混雑しだし、バスはスピードを落とす。橋桁や川の堤、敷地を区切っている壁、おんぼろなビルの外壁など、あらゆるところにスプレーで落書きがされてある。

外を歩いている人たちは皆コートを羽織っている。なかにはニットの帽子を深くかぶった女の人も見える。

工場や高層ビルの多さといい、道路の舗装率の高さ、またといくつもの道路が交わるジャンクションの作られ方や、緩衝帯の緑化のされ方などを見ているとさすがに大都市の雰囲気がある。

高層ビルの中にバスは入っていくのだろうと思っていたが、そこまでは行かず、鉄道に接したターミナルでバスは止まった。念のためまわりの人に、サンパウロか訪ねる。

バスを降り、リュックを背負って出口とポルトガル語で書かれている看板を当てにして歩く。ターミナルは1階部分がバスの乗り場や電車の乗り場になっていて、2階がチケット売場になっている。電車の乗り場はバスの乗り場とは金網で仕切られているので、2階を経由しないと行けない。

目的の宿は地下鉄(Metro)の駅近く。階段を上り、ターミナルの建物内に入る。小さなお店がたくさん並んでおり、人通りも多い。チリのサンティアゴの駅と似たような雰囲気だ。バス会社の窓口がずらっとあったので、後日乗ることになるバスを探したが、見あたらなかった。

Metroのチケット売場と書いた看板が天井から釣り下げられていて、その下を見ると蛇行している行列があった。50人以上並んでいる。チケット販売は機械化されていないらしい。これもチリと同じ。

15分ほど並んでチケットを買う。1回券が2.4ヘアル(約200円)。ガイドブックにあった値段より1ヘアルも上がっている。高い。チリよりも高い。

改札の仕組みはサンティアゴと同じで、チケットを機械に通すと回転バーのロックが外れるから、あとは自分でそれを押しながら通る。

改札機の近くに制服を着たおじさんがいたので、行きたい駅を伝え、行き方を聞くが”次の”という言葉がわかったくらいで、ほとんど聞き取れない。どうもポルトガル語の発音は耳にあわないらしい。とりあえずおじさんが指さしていた方の階段から下に降りる。

けっこうな人がいて、やや混雑している。壁などには路線図が書かれているのだが、肝心の現在地がどこなのか、その図からはわからない。

それでまたホームにいたごつい係員の男の人に聞く。親切に教えてくれるが、いまいち聞き取れない。オブリガードと言って、電車を待っていたらその係員が再び声をかけてきて全体の路線図が載っているパンフレットを見せ、今、ここにいるから、これに乗ってここで乗り換えて、こう行くとあなたの目的地に着くと教えてくれる。そうやって説明してくれてようやく現在地がわかった。

電車はそれなりに込んでいるが、ギュウギュウとまではいかない。リュックを背負ったまま乗り込んだが、他の人にぶつかることなく乗り込める程度。

車内を見渡すと14インチくらいのわりと大きな液晶テレビが4カ所ほどにあり、コマーシャルをずっと流している。携帯電話で話している人はいない。

乗り換え駅で降り、階段を上り下りして別の路線のホームに行く。こちらのホームに下るエスカレーターには行列ができていたが、階段はわりと空いていたためそこを下る。ちなみにエスカレーターは故障しているのか動いていなかった。なぜ動いていないエスカレーターに行列を作るのかがわからない。

こちらのホームは、さっきよりも混雑していてどの乗り口にも20人以上の人が並んでいた。乗り換えの中心駅だからか、ホームの乗り口には行列を誘導するためらしい金属の柵であり、それに沿って人が並んでいる。

すぐに電車は来る。降りる人が降りてから乗り込むのは、日本と同じ。わりと空(す)いていたので、この電車に乗れるかなと思っていたら、前に並んでいた人がほどほどに満員になったところで乗り込むのをやめる。隣の人とは充分に隙間があるから、東京で言えばまだまだいけるというくらいの込み具合なのに。それもぼくが並んでいた列だけでなく、他の列もみなある程度までいっぱいになったら乗り込むのを止めているのだった。もちろんドアが閉まるところに走りこんで来る人などいない。

こういう習慣を持っている人たちが東京のあのドアに自らはまりにいく人たちを見たら、何かのジョークかと思うだろう。

次の電車の到着時刻を示す電光掲示板はなかったが、次の電車は5分と待たずに来る。停車位置も正確。

日本人街があるというLiberdade(リベルダージ)という駅で降りる。駅構内のエスカレーター上部の壁には、日系の子どもたちがモデルとなったポスターが貼られ、ポルトガル語で100周年を祝う言葉が書かれている。

地上に上がるといきなりカタカナや漢字が目に飛び込んでくる。適当に宿があると思われる方角へ歩く。道の両脇には刀や漆器など日本の土産物を売る店や布団屋(ローマ字でそのまま書いている)、格子戸の日本食屋などが並んでいる。久しぶりに木製の格子戸を見たが、かなり周りの雰囲気から浮いているように感じる。街並み自体は、日本と大して変わらないから、外国にいるという前提がそう感じさせるのだろうか。

道を歩いている人も日本人っぽい人、韓国系、中国系が多い。日系の人は、時間帯の問題もあるのだろうが、年寄りを多く見る。

ネットで見た情報を思い浮かべながら、この辺にあるはずなのだがと宿を探すが、見あたらない。手帳を取り出し、確認すると一つ前の駅で降りていたのが判明。また駅に戻り、高い電車賃を払って一駅ぶん移動する。

こちらの駅の周りは商店はほとんどなく、アパートのような建物ばかり。今度はすんなりと宿を発見できる。

ブザーを押すと、”はい、いらっしゃい”と中から日系のおばちゃんが出てくる 。日本語はときおり違和感のあるしゃべり方をするが、基本的に問題ない程度。

宿帳に名前を書き、宿のルールを書いた紙を読む。バナナ1本とコーヒーをさっそくいただく。本棚には日本語の本が何冊か並んでいる。

部屋に案内してもらう。今はほとんど人がいないらしい。2段ベッドが2つある部屋に入る。

荷物を起き、日本語のガイドブックを借りて、まちに出る。

リベルダージのまちには、赤提灯のぶら下がった居酒屋もあれば、日本語の本を売る本屋、マンガの貸本屋、寿司や天ぷらなどの弁当も売る食料品店、仏壇屋、風呂桶屋、宝石屋、たこ焼き屋など多種多様。はっきり言って予想外だった。ここまで日本のものがそろっているとは。

さらに驚いたのが日本語の本の値段。どれも一律日本円の価格の2倍以上になっている。こっちで売っているアメリカの本はそんなことないのになんで日本の本が倍もの値段になるのかが不思議。

リベルダージを抜けて、サンパウロの中心部に行く。中心部の広場には路上生活者とおぼしき人たちが植え込みの縁に座り込んでおしゃべりしていたりする。その後も歩いていて感じたが、路上生活者の数がかなり多い。広場という広場にいる。

また歩道などで商売している人の数も多い。串焼きや椰子の実ジュース、ジャックフルーツ、ピーナッツやカシューナッツなどナッツ類、それから靴下とか凧とかほんとに多種多様。なかなかおもしろい。

しかし、一部の歩道などでは商売は認められていないようで、警察が車に乗ってやってくると、みな一斉に屋台を転がし、あるいは荷物を黒ビニールで隠し持って走って逃げる。その逃げ足の早さは見事。今、そこで商売していたのに、あっという間にいなくなる。

それから目に付くのがフルーツジュース屋兼ハンバーガー等のファーストフード店。カウンターの周りに網に入れられたさまざまな果物が天井からぶら下げられ、それらを使ってその場でミキサーで砕き新鮮なジュースを作ってくれる店が、これでもかというくらいにある。日本でも最近話題になったアマゾンの果物アサイもポスターを使ってよく宣伝されている。こうした店はどこも同じような店構えをしている。

また中心部はよく掃除が行き届いており、落ちているごみが少ない。

交通機関としては路面電車はないもののトローリーバスはあり。バイクタクシーなどはなし。

ぼくはもっとアジアチックな雑多な感じのまちかと思っていたが、意外と整理されていたのでなんだか気が抜けた感じだった。

ブラジルに来て気持ちがいいのは、拳を握った形で親指を立ててグー(絵文字を入れたいところだがない)というジェスチャーをいろんな場面でされること。例えばお金を払うと親指でグーとやったり、ぶつかりそうになったときにこっちがうまい具合によけると親指でグーとやったり、なかには目があっただけで親指でグーっとやる。

また例えばぶつかったりして謝るときに軽く相手の背に手をおいて謝る仕草もなんだかやさしい。

カンポグランデで話をした日系の人は、サンパウロは危ない(というよりもブラジルはどこも危ない)と言っていたが、ごく狭い範囲だが、中心街を歩いた感じではそれほど危ないという感覚はなかった。警官の武装の程度もジャマイカのキングストンに比べれば軽装だし。

とはいえ、夜は宿ですごす。

Fin

カンポグランデの郷土料理を食べにいく

08/06/15(日)

・人がいない休日
・柔術大会
・豊富な雑誌
・市場
・そば、やきそばーフェイラ・セントラ
・日系の人とおしゃべり
・サンパウロへバスで移動

すっかり熟睡。寝苦しいかと思いきやそんなこともなかった。洗濯物があまり乾いていなかったのが予定外。

朝飯付きだったので、8時過ぎに1階に降りて朝食。パンやコーンフレーク、すいかなどなかなか豪華。

10時頃、宿を出て、宿とターミナルの間にあるインフォメーションで当地の郷土料理について聞く。スペイン語が通じたのでスペイン語まじりで”SOBA"について聞く。すると、"Feira centra(?)"というところがあって、そこで食べられるということだった。

レアル(ブラジル語ではヘアルと発音する)がなかったため、ATMを探しにまちなかに行く。あるいて10分ほどいったところが中心部だった。商店が並んでいていくつか開いている店もあるが、ほとんど閉まっている。本屋が開いていたのでのぞいてみたら、雑誌の種類の多さに驚く。ファッションものからITものまである。しかも『Made in Japan 日本製』という日本を専門に紹介する雑誌もあった。やはり大国だ。

その通りをまっすぐ歩いていくと、マイクを通した人の声が聞こえてきたので、そちらの方に行ってみると道路脇の半地下の建物の中で柔術の大会が開かれていた。フットサルのコートにマットを敷いて、その上で試合をしている。

観客も多い。試合をしているのは小学生くらいの子から高校生くらいの子までの男ばかり。中には誰でも入れたので、しばらく見学。柔術は初めて見たが、なんだかレスリングぽい印象を受ける。

それからATMを発見したのでそこでカネをおろす。

宿のチェックアウトが12時だったので、いったん宿に戻るする事にする。来た道とは違う道を通っていたらたまたま市場を発見。それほど大きくない建物の中に民芸品から野菜から香辛料からいろんなもんの小さな店が入っている。

12時が近かったためほとんど素通り。沖縄系の名前のついた八百屋があったが来客中だったためしゃべれず。

まずは宿に戻り、荷造り。洗濯物も乾いていた。荷物は宿に預け、バスのチケットを買いに行く。20時発のサンパウロ行きの夜行バスは134ヘアル(約7000円)。

それから昼飯も兼ねてさっきの市場に再度行く。すると市場は入り口にシャッターが降りていて、すでに閉まっていた。どうも午前中だけの営業だったよう。

しょうがないのであたりをふらつき、開いていたスーパーを見学。チーズの種類が豊富。あとピクルスっぽいものも多種類ある。客は多く、レジは長蛇の列。

その後、ソバを食べにフェイラに向かう。途中、中心街を通ったが、見事に店は閉まっていて、人通りもほとんどない。

フェイラは鉄道駅の駅舎か何かを改造したらしい建物の中に飲食店が並んでおり、壁にはYakimeshi,Sobaといったメニューがかかっている。

どうもここの飲食店はすべて日系の人がやっているよう。従業員もハッピを着ている。昼飯がまだだったので、ここでそばを食べる。ソバは沖縄ソバだが、沖縄で食べたことのある沖縄ソバとはまた違っていた。

一目見た感じでは三食丼のような感じで、スープも麺もまったく見えない。味も異なっており、初めての味だがまぁまぁいける。これがここのスタイルのソバらしい。

ここの店の店員3人ほどは日系人だったが、料理の注文などすべてブラジル語だった。

その後、もう一軒寄ってみようと別の店に入る。そちらの店では店主らしい日系の男性がメニューを持って迎えてくれる。見た目40代前半くらいの人で、メニューを手渡しながら、日本人ですかと聞いてくる。そうです、と伝えると、テーブルを案内してくれ、そこに一緒に座り、おしゃべりが始まる。

玉城さんというらしく、ブラジル生まれのブラジル育ち。日本には1995年前後の数年間出稼ぎで住んでいたらしい。そのときはずいぶん稼がせてもらったとのこと。大阪に住んでいたらしく、阪神大震災も経験したらしい。日本語は普段使わないらしく、ちょっとたどたどしい。語尾に”○○な?”とつくのが、大阪っぽい。

ぼくが持っていた会話帳を見せると面白がって見てくれる。ただ、日本語は読む方はほとんどできなくなっているらしい。

ここの店は週休3日でやっていて、今日は夕方6時くらいまで営業しているという。

二人で話していたところへ日系のおばちゃんがやってくる。農産物をここで売っている人だそうで、玉城さんとも取引があるらしい。その取引の関係でノートでなにやらやりとりしているが、すべてブラジル語の筆記体のためまったく読めず。おばさんが書く字も豪快というか雑というか、こちらの人が書くような字と同じような字体。

おばさんもこちらで生まれ育ったらしく、二人のやりとりはもちろんブラジル語。日本語はだいぶ忘れてしまったようで、玉城さんはぼくと何か話すとそのやりとりを彼女にブラジル語で伝えている。

おばさんはぼくに、今、自分は64歳だが、日本に行ったら仕事はあるか、と聞いてくる。その質問には意表を突かれた。白髪交じりだからけっこう年齢は高いだろうと思い、まさかこれから出稼ぎに行こうなんて考えているとは思わなかった。もちろん本気で思っているわけではなさそうだったが、ほんとに条件が良ければ行きそうな迫力はあった。

焼きそばとアセロラジュースを頼んだら焼きめしをサービスしてくれた。焼きそばは中華系のどろっとした感じの焼きそばで具も多く、食べごたえあり。ジュースは500mlほどのビーカーのようなプラスチック容器に入って出てきた。玉城さんがふとした表紙にカップをひっかけ倒してしまう。焼きめしはちょっと不思議な味で、これまで食べたことのないものだった。塩気が足りないのもあるし、何か全体的にしまりがない感じ。

客はけっこう入っていて、どの店も賑やかだった。

まちを見て回っても人もいないし、店も開いていないので、腹が膨れたところで宿に戻る。バスがもっと早いのがあればそちらに変更しようと、バス会社に行くとちょうど17時台のバスがあったので、それに変更。

宿に預けていた荷物を受け取り、ターミナルに行く。ターミナルのカフェのテレビではサッカーブラジル代表とパラグアイ代表の試合をしていたので、店の端の方からテレビをのぞき見。ブラジル人も何人か同じようにして見ている。ドゥンガが監督をしていたのだが、これがパラグアイに2点も取られてしまいずっと劣勢だった。

試合の終了を見届ける前にバスが入ってきたので、結果を見ることなく乗車。

ブラジルのバスもご飯が出るのかと思っていたら、なかった。後予想外だったのが車内の寒さ。エアコンもきいて炒るみたいだったが、えらく冷える。


Fin

サンタクルスからカンポグランデへ その2

08/06/14(土)

・真夜中のトイレ休憩
・たてゆれ、よこゆれの悪路続き
・乗り換え、また乗り換え

バスが止まる。それまでのリズムが変わったことに気づき、目が覚める。時計を見ると真夜中の12時。窓から外を見下ろすと店があり、添乗員がなにやら言っている。客がぼちぼち降りる。どうもトイレ休憩らしい。バスには便所がないから、夜が明ける前の最後のトイレタイムなのだろう。

20分ほどしてバスは走り始める。道は相変わらずの悪路。縦に細かく揺れ、ときおり横にゆらりゆらりと大きく揺れる。これじゃ運転も大変だ。速度はわりと平らな道で、やっと時速40km程度だろう。だから、地図で見た距離感よりもずっと時間がかかる。もちろん沿道に外灯などはなく、ただバスのライトのみが道を照らしている。

2人ぶんの座席が使えていることがせめてもの救いで、これが隣に人が座っていたら、かなり窮屈だ。加えてそれほど寒くもないから、なんとか眠ることはできる。

次に目が覚めたのは、7時すぎ。集落や畑などはいっさい見えず、ただ低い草木が道路脇からずっと奥まで生い茂っているのが見えるだけ。

しばらくするとがたがたの道の横に広い道が見える。現在、整備中の道路のようできれいにローラーで整地されている。サンタクルスまでのこの道路が完成するのはいつのことやら。

整地されている道路は走れないらしく、相変わらずバスがガタゴト揺れながら走る。道自体はだいたいまっすぐに伸びているからいいものの、これが曲がりくねった道だったら酔っていたかもしれない。

8時頃、ようやく人が住んでいる集落に到着。そこで、何人か客が降りる。さらにそこで子ども連れの10人近くが乗ってくる。5歳前後の小さな子はバスを見ると嬉しそうな顔をしてバスに走りより、一番で乗り込もうとする。

集落の家々はコンクリートづくりもあれば、細長い板を縦に並べて、屋根は椰子の葉か何かで葺いているものもある。敷地と敷地は有刺鉄線で区切られ、バスから見える限りではどこの家も20m四方程度の敷地の中に家を建て、数本の木を植えている。いずれの木も大きく、その下にテーブルと椅子を並べのんびりしていたり、また洗濯物をかけるロープを張り、物干し場として使っている家もある。また、一部の家ではバナナも植えられていた。

その集落を出て、また30分ほどすると別の集落に到着。ここでまた客が降りる。あるおばちゃんは商売人なのか、サンタクルスで買い込んだらしいお菓子やみかんなど大荷物と一緒に降りていった。

ボリビア側の国境の町Puerto Quijaroに着いたのは9時半頃。さすがに国境のまちらしく、商店が立ち並び、タクシーがあちらこちらと走り回っている。

駅舎の近くのバスターミナルにバスは停まる。荷物を降ろし、サンタクルスから一緒だったサンパウロに行くおじさんと一緒に行動する。

ターミナルの建物は使っているかどうかもわからないほどおんぼろで、ブラジルに行くバス会社の窓口さえもない。つまりはただの駐車場。

サンタクルスのバス会社のねえちゃんは、ここに着いたらこの会社に行ってとブラジル行きのバスを出している会社名を教えてくれたのだが、それらしきバスはまわりには一切見えないし、バス会社さえも見えない。

おじさんが地元の人にいろいろ聞いたところ、バス会社はどうもここから離れているらしい。おじさんはぼくにタクシーに乗っていくとあっさり言うが、当然、そのタクシー代は別に払わないといけないわけで、ボリビア以外の国の常識から言ってもまったくありえない話だ。なんでバスを乗り換えるためにタクシー代を払わねばならないのだ、とイライラ。

しかも、タクシーの若い運転手は一人10ボリビアーノと言う。1人10ボリビアーノなんてバカに高い値段なのに、おじさんは、ハイハイと乗り込んでしまう。まぁ、10ボリというには相当遠いのだろうなと思っていが、10分足らずでバス会社に着いた。やれやれ。

バス会社のオフィスはなかなかきれいで、同じ通り沿いには食堂や洋服屋、電話兼ネット屋があった。

バス会社のオフィスに入り、窓口のおじさんにチケットを見せると、パスポートの提示を求められる。それで、名前を確認し、パソコンになにやら入力してから返してくれる。

返すときに、そこにボリビアのイミグレがあるからそこで出国のスタンプを押してもらってくるよう言われる。オフィスにでかいリュックは置いて、イミグレに行く。出国税として10ボリビアーノ払う。手続きはスムース1分もかからずに済む。

バス会社に戻ってチケットをもらう。バスは13時だと言われる。時計はまだ11時前。3時間もあると思い、近くのネット屋でメールチェック。

メールを見ていたら後ろから声がして振り向くと、バス会社のおじさんがいた。それで来いというので、店をでると、あのバスだと言って、会社の前に停まっていたバスを指さし乗るように言う。

13時発って言ってたのに、とわけがわからなかったが、バスに乗り込む。

バスはかなり立派。だが、2階立てではない。窓もボリビアのようには開かない。

ボリビアの出国ポイントを抜けると、すぐに舗装されたまちが現れる。国境の向こうは舗装された道なんてほとんどなかったのに。ブラジルでは端っこのまちだろうに、これだけ整備されている点にブラジルの大国ぶりが出ているように感じる。

まちの整備のされ方のみならず、人もがらりと変わる。ボリビアでは基本的にインディヘナ系が多数だったが、こちらに来るとアフリカ系の人がおり、ヨーロッパ系も多い。

バスは1時間もせずにCorumbaのターミナルに着く。ここでまた乗り換えらしい。

ブラジルの入国審査をまだ通ってなかったので、どこでやるのかと不思議に思い、運転手にイミグレの場所を聞くと、指さしてあっちの方と言う。

ターミナルの待合い所に上がると、行列ができている場所があったので、なにをしているのか覗いてみると、そこがイミグレだった。

一緒に来たおじさんは、椅子に座ってのんびりしていたので、おじさんに単語を並べてあそこで入国手続きをしなくてはいけない旨を伝える。

窓口のおじさんは、英語で入国カードのようなものをもらい、それを記入してからまた来るようにと説明してくれる。パスポートは窓口で回収されたまま。

英語が併記されていたその紙を記入し、窓口に行くと名前を呼ばれる。紙を提出し、そこにハンコが押されパスポートと一緒に戻される。質問もなにもなし。

今日は天気がよい。そして、暑い。20℃台半ばくらいか。ボリビアではずっと曇りや雨だったから久しぶりに青空を見た。

13時発というのは、ここを13時に出るということのようだった。まだ1時間近くあったため、待合い所でポルトガル語の会話帳を眺める。周りからポルトガル語の会話が聞こえてくるが、まずどこで言葉が切れているのかがわからない。スペイン語であれば、発音が日本語とほぼ同じであるため、意味はわからずとも言葉の切れ目はわかったが、ポルトガル語はこれがわからない。

音としてはスペイン語よりもフランス語に似ている。ただ、会話帳を眺めると、スペイン語とほぼ同じ言葉を多々見かける。数字なんかは改めて覚えなくても、ほぼわかる。

面白いのが、曜日の呼び方で、これはスペイン語とまったく違う。土曜日(サバド)と日曜日(ドミンゴ)は一緒だが、月曜から金曜は日本語で言えば、2番目(セグンダ)、3番目(テルサ)、4番目(クアルタ)という呼び方をしている。あまり風流ではないなと思いながら、ページをめくる。

日本式に、どちらが標準でどちらが方言か言えないが、見ている限りでは、スペイン語とポルトガル語はそのような関係だ。文字がけっこう違う部分があるが、これは発音にあわせて開発されたのだろう。

日本語でも例えば置賜弁の「い」と「え」、「お」と「う」が混ざった音など、各地の方言の音を文字にしようとすると平仮名では不十分だと感じたりする。それらの音を表す文字がない。

山口仲美という学者によれば、古くは日本語も50音以上の音があり、またそれを表す文字もあった(漢字などで使い分けていた)らしいが、もし、そういう習慣ありそれぞれの地域に定着し、受け継がれていれば、今のスペイン語とポルトガル語のような関係の言語が日本国内に生まれていたかもしれない。

などと、時間つぶしをしていたら、13時前にきっちりバスが入ってきた。ぼくは離れて座っていたおじさんにあれに乗るからととジェスチャーで知らせる。するとおじさんは一緒に乗り込もうとする。

バスはカンポグランデ行きであって、サンパウロ行きではないということを伝えようとするが、おじさんはいまいちわかってくれない。そこへ近くでそれを聞いていたらしいおばさんがやってきて、おじさんに説明してくれる。

チケットに書いてあった番号の席に座ると、イギリスなまりの英語を話す女性2人組が、ぼくの方を見てなんだか嫌な顔をする。ぼくは自分が座席を間違ったかと思い、確認するが間違いはない。彼女らは隣の空いている席に座ったので、こちらは間違っていなかったかと思ったが、さらに乗り込んで来た別の男が、彼女らの席に行き、そこは自分の席だと言う。連鎖して彼女らはぼくに、そこは私らの席だと英語で言ってくる。

聞くとぼくと同じ番号。やれやれ、ボリビアのバス会社ってやつはろくでもないなと思いつつ、争う気もないので、ぼくは空いている席に移る。

そしたら、そこにまた別のカップルが来て、そこは自分らの席だという。この調子じゃ、どうせ全席が埋まるなんてことはないんだから、どこでも適当に座ればいいじゃないかと思うが、そうはいかないらしい。ペルーとか、チリとか、アルゼンチンは番号があってもけっこう適当だったんだけどなぁ。

バスはまちを抜けると、細い一本道に入る。道の両側には湖のような、川のようなところが広がる。あとで確認したところ、これがパンタナール湿原の南端の方を通ったようだった。

水の中から木々が伸び、見たことのない鳥が元気に飛び回っている。一際目を引いたのが、ペリカンに似た格好をした鳥。羽など胴体は白いものの首もとが赤く、そこからくちばしの先までは黒い。あとでガイドブックを見たところ、地元ではトゥユユと呼ばれており、コウノトリの仲間で、パンタナールの象徴的な鳥らしい。

一本道沿いには小さなホテルがあり、そこでヨーロッパ系バックパッカーたちは降りていく。

他の国ではたいてい車内で映画が流されていたりしたが、このバスではテレビはあるものの、そのようなものはなかった。車内は静粛だった。

ずいぶん長い間、湿原の中を走り、ようやく陸地らしいところに入る。

日が落ち、すっかり暗くなる。

19時を過ぎて、遠くにたくさんの明かりが見え、ようやくカンポグランデに入った。空港で1人、乗客が降りる。

道路沿いには開いている店などなく、すっかり夜中のような雰囲気だ。

ターミナルに着いたのが20時すぎ。バスから降りるとタクシーの運転手のおじさんが、サンパウロに行くのかと聞いてくるので、そうだと伝えるとバス会社のオフィスに連れていかれる。そこで片言の日本語がわかる人がサンパウロ行きのバスを照会してくれるが、手持ちのヘアルではまったく払えない金額だったのでヤメにする。

ターミナルのすぐ前に宿が数軒並んでいて、うち1軒がユースホステルだったので、そこに泊まることにする。片言もおぼつかないポルトガル語で泊まりたい旨を伝えると、鍵をくれ、英語で部屋の説明をしてくれる。

ドミトリーの安い部屋をとお願いしたら、ここにはドミトリーはないと言われる。部屋はベッドがひとつと、トイレ、シャワー、洗面所、天井備え付けの扇風機があり、とてもいい。これが一番安い部屋らしい。値段は35ヘアル(約2500円)。ボリビアで泊まっていた宿の5倍。ただ、YHの会員証を持っていると言ったら30ヘアルに割引となった。1割以上も割引するなんて素晴らしい。チリもアルゼンチンも見習ってほしいものだ。

ターミナルのまわりには宿だけでなく、軽食屋や食堂があり、また路上で串焼きを売っていた。たいして腹は減ってなかったため串焼き1本だけ食べる。1.5ヘアル。数分だけ外をふらつき部屋に戻る。

シャワーはお湯が出る。すばらしい。扇風機があったので、サンタクルスでたまった洗濯物を洗い、部屋中に干す。

小さな窓の外からは花火の音が聞こえてくる。小さな窓はガラスの外側に雨戸のような金属製の扉が付いていた。3階で足場もなさそうだから、ここから侵入するにはけっこう大変なようだが、これも防犯に必要なのだろう。

Fin

2008年7月13日日曜日

カサブランカ入り

今日フェズから移動してカサブランカに来ました!

なかなか大きい街でフェズよりも近代的ですね!ヨーロピアンが夏休みに入ったせいか観光客がいっぱいで安い宿がことごとく埋まっているのがつらいところです! ここから首都のラバトまではバスで1時間半ほどと近いのでここにしばらく泊まってからマラケシュに移動する予定です!

ではでは、また

2008.7.12.20/10
Casablanca,Morocco

2008年7月11日金曜日

ふぇずいり

いマ、もろっこのふぇ ずにい ま す! きー ぼ ーどのはいちがち がう ため
、にゅう りょく が めんどうですね!こコハ フル イ まちなみがのこるとこ
ろで、まちかどにかわ をためすばなど もあ りました !あるいているとつぎつ
ぎとにほんごではなしかけられるのが えらくめんどうなのがなんてんですが 、
これ までとはちがうふんにきはおもしろいですね !
きおんは 40どていど とアツイです!ここには2 はくほどして しゅとのらばと
に うかい ます!

2008.7.10 16/49
Fez,Morocco


Agrandir le plan

2008年7月10日木曜日

to Africa

いま、すぺいんのはしっこのまち、あるへしらすというところにいます。これから
1じかんごの18じはつのふねでもろっこにはいります。17じをすぎたとはいえ、た
いようはにほんでいえば、まだごご2じくらいのたかさにあり、きょうもひのいり
は21じごろのもようです。

ここからもろっこのきたはしのまちTangerたんじーる(たんじぇーる?)まではふね
で1じかんほど。りょうきんは44ゆーろとけっこうたかいですね。Tarifaというと
ころからだと35ふんほどでもっとやすいようでしたが、ふねがまだあるかふあん
だったためふねのほんすうがおおいここまできたところでした。

いよいよあふりかです。

では。

2008。17:59
Algeciras,Spain

2008年7月9日水曜日

I arrived at Spain

Ima spain no Sevilla desu.jisaboke de atamaga furafura desune.

nihongo ga dekiru PC ga nai node kuwasikuha mata.

2008.7.8.18:27
Sevilla,Spain

2008年7月7日月曜日

サンタクルスからカンポグランデへ その1

08/06/14(金)

天気が悪いこともあってさすがに一晩では乾かなかった。紙の類は乾いたが、シャツや靴、上着はまだ湿ったまま。

幸い宿のチェックアウト時間が14時だからそれまでは干すことができる。でかける気にもならなかったので、昼過ぎまで宿で読み物と書き物をする。

2時ちょっと前にチェックアウト。靴は濡れたままだが、他はほぼ乾いた。

宿の前の通りの屋台でパンなどを買おうかと思っていたのだが、昼休みなのか、夕方や朝方に立ち並んでいる屋台はきれいになかった。

しょうがないので何も買わずにターミナルに行く。客引きの声を無視しながら、待合いのスペースにある椅子に座り、天井からぶら下がっているテレビを見る。ワールドカップの予選でもやっているのか、ひたすらサッカーのニュースを流している。

3時過ぎにバス会社の窓口に行く。相変わらず窓口の人らはおしゃべりにインターネットに夢中。

どこからバスが出るのか聞いたら迎えに来るからここで待てと言う。当てにならないが待つしかない。

そろそろ屋台が出る頃だろうと荷物をおいたまま宿の前の通りにいく。予想通りバン屋の屋台が出ていた。五種類くらいあるバンを一個ずつ買う。トウキビの粉で作ったパンやユカ(キャッサバ)を練り込んだパン、クッキーのようなパンなど、それぞれ1ボリビアーノ(約20円)。

それから通りを歩きながら売り歩いているおじさんからピーナッツとポテトチップを買う。30gくらいずつで各1ボリビアーノ。あと別のおじさんからチュロスも買う。これは1.5ボリビアーノ。

4時前になってやっと声がかかる。女の人が乗り場に案内するという。客はぼくの他におじさん一人。しかもそのおじさんは毛布を持参している。豪華なバスのはずなんだが・・・

乗り場に行く前にターミナルの使用料を払う場に連れて行かれ、そこで3ボリビアーノ(約50円)も払う。入り口で入場チケットを見せ、乗り場に入る。

そして女の人があのバスと言って指さした方にあったバスを見て我が目を疑った。近くに行き、ため息をひとつ。乗り込んでまたため息をひとつ。

バスのフロントにはブラジルの地名ではなく、国境のボリビアのまちの名があるだけ。車内の後部五列ほどは荷物置き場になっており、便所もない。当然テレビもないし、窓は開くが開けるための取手のようなものもない。

これが10ドルなら、はいはい、そうでしょうよ、で済むのだが、その十倍払っているのだからだんだん頭にくる。クソ、あのオヤジ、嘘ばっかりだと、ぶつくさ言いながら車内で待つ。

そして今頃になって女の人が終点のまちに着いたらこの会社のオフィスに行くようにと会社の名前を書いた封筒をくれる。こっちはてっきり直通で行くと思っていたのに、これだ。

だいたい他の国でも国際バスは直通だし、乗り換えがあるなら発券時に二枚なりのチケットをくれる。それがボリビアに限ってはペルーからの入国のときもなぜか国境でボロいバスに乗り換えだった。一方、パラグアイからのバスは直通だった。まったくわけがわからんし、サービス業としてまったくなっとらん。グアテマラのあのバスといい勝負だ。

さらにわけがわからんのが、次々と待合室では見かけもしなかった人たちが乗り込んで来ること。多分、国境のまちまで行くバスを出している別の会社の窓口でチケットを買った人たちなのだろう。こうしてあちこちから人が乗り込んでくるのを見ていると、ぼくがチケットを買った業者はエージェントのようなただのピンハネ業者でバスを所有している会社ではないらしいように思える。

チケットには4時発とあったが当然それはなんの意味もな
く、5時前になってようやくバスは動き出した。ターミナルを出る際、バスにはターミナルの使用料を払ったかチェックそてまわる係員が乗り込んできて、払ってない人からは3ボリビアーノを徴収していく。ここでこうしてチェックするということは、入場する際のチェックでは不充分ということなのだから、最初からここで徴収することにすれば全乗客を確実にチェックできるのだから、使用料を払う窓口や入口に立っている人には他のことをさせて、ここだけに集中すればいいのに。しかも売り子の人らは、ターミナル内でも、チェックをしている今でもばんばん車内に乗り込んで来ているのだから、防犯もくそもない。

ボリビアのバスのシステムは、他の国と比べてもわけのわからんことが多い。

やっと出発したかと思ったら、バスは1時間も走らないうちに前の車に続いて停まってしまった。そして、エンジンまで切られる。

昨日のような道路封鎖をしているらしい。路上には待ちぼうけをしている人たちを狙って、弁当や飲み物、みかんを売り歩く女性らがちらほら現れる。

乗客の男たちはバスから降り、道ばたで立ち小便を始める。すっかり日は落ちて、辺りには民家と車の明かりが見えるだけ。

30分たっても何も変わらず。乗客らは静かに待っている。乗り合いタクシーやバイクタクシーが路肩を通って先頭の方に行き、しばらくして客を乗せて返ってくる。

やれやれいつ出発するのやら。これだったらパラグアイからブラジルにさっさと行くんだったなぁ、などと今頃思う。

反対車線から大型トラックが来るのが見え、ようやく動き出しそうな気配。外に出てぷらぶらしていたが、車内に戻る。それからしばらくあって、ようやくバスのエンジンがかかる。停車してから1時間近く立とうとしていた。だが、予想よりも早く動き出した。

動き出しても進行速度は時速20km程度。ちょろちょろ走って見えてきたのは簡易な作りの雑貨店や食堂が集まっている地帯。30軒くらいの店が両脇に並んでいる。

後部の席に座っているおじさんが、窓から顔を出し、手にお札をひらひらさせて、店の人に向かって”セニョーラ”と声をかけている。何か買いたいらしい。店からバスまでは20mほど。店の人はその声に気づいたが、椅子に座ったまま動かない。2軒の店から無視された後、3軒目にして店のおねえちゃんがコーラの2リットルペットボトルを抱えて走ってきた。

さてさて、どこが道路封鎖の前線なのだろうと窓から顔を出して前方を見ていたのだが、それらしいところが出てこない。そのうち制服を着た警官が見えたので、警察の検問かとも思ったが、そういうこともなく通り過ぎる。

そうした後、やっと渋滞の犯人が出てきた。なんてことはない、犯人は橋だった。数十メートルの川幅がある川には自動車用の橋がかかっておらず、鉄道の鉄橋に板を敷いて、それが橋になっていた。ちょうどコスタリカとパナマの国境のときと同じかたち。当然、2車線ぶんも幅がないから橋を渡るのは交互通行になっていた。

鉄橋を渡り終えると反対車線には車がずらりと並んでいる。100台以上はある。そして道路沿いには川向こうと同じように雑貨屋と食堂が並んでいた。

進行方向右側には橋を架けている工事現場があったので、2年後くらいには鉄橋を使わずに通れるようになるのだろう。そのときには今通ってきた道路脇の商店なども場所を変えるかしないとやっていけなくなるだろうな、などと思いながら外を眺める。

ずっと舗装された道を通ってきたのに、突然未舗装の道路に入る。

8時を過ぎても、車内では当然晩飯のバの気配もない。隣に座る人がいなかったので、座席に横になる。

縦に横に揺れるから肘掛けに頭を乗せているとその衝動がもろに響く。やれやれ。さすがに南米最貧国というだけあって隣の国とをつなぐ道路も不十分な状態だ。もっともこの道路の整備は今現在進められているらしく、バスが走っている隣には整地された道が見えた。

ちと不安だった夜の寒気はたいしたことはなく、日中の格好で充分しのげた。

Fin

最悪の一日 --道路封鎖、そして雨

08/06/13(木)

・サンファンへ
・無駄な乗り換え
・道路封鎖
・雨に濡れて

曇り。雨は降っていなかった。9時過ぎに宿をチェックアウトし、リュックを背負い向かいのターミナルに行く。

ターミナルの入り口付近には各会社の客引きがいて、”アスンシン、コチャバンバ、スークレ”などと声をかけてくる。一人の若い男の客引きがどこにいくのかと聞いてくるので、サンファンだと言うと、こっちに来いと自分の会社の窓口に連れて行く。そして、壁に貼られている南米の地図を使って、ここだろとアルゼンチンのメンドーサを指さす。メンドーサにサンファンという地域があるらしく、彼はそこだと思ったらしい。危ない危ない。ボリビアのサンファンだと言うと、な~んだ、という顔をする。さっきまでの愛想のいい顔は一気に消えてしまった。

とにかく中南米は同じ名前の都市や地域が多いからこういうことになる。同じ国内でも同じ名前の地区や道路があるから始末が悪い。こうして移動していると、ちっとは他の名前を考えろよなと思ってしまう。

ターミナルの裏側の乗り合いタクシーの乗り場に行くと、そこにも客を待っている運転手がいた。声をかけてきたので、行きたい場所を言うと、このタクシーでも行けるというので、当初の予定とは違う行き先のタクシーだったが、乗ってみる。

運転手の男は30代くらいの人で、日系人に知り合いがいるらしく、Okinawaにいる知っている人の名前をいくつか挙げる。そしてサンファンにも日本人がいっぱいいるというようなことを言う。

乗客がこの間と同じようにぼく一人だったため、また乗り換えかと思っていたら、そのとおりだった。オデッセイタイプの乗用車でリュックが荷台に積めず、屋根にくくられる。乗ってきた車の運転手が、新しい車の運転手にこちらを見ながらいろいろ話していたので、ぼくの行き先を伝えているものと思っていたのだが、のちにこの運転手がモンテーロに就いてから、ぼくにどこに行きたいのかと聞いてきたことで、まったく引き継ぎされていなかったことを知る。よくあることだが、なぜこうしたことが慣習になっているのかが不思議だ。

運転手に改めて行きたいところを告げると、その先にTrufi(乗り合いタクシー)の乗り場があるからと教えてくれる。そこに行くと、若い女性がいて、今は車がないからそこで待っててと言われる。

どうせ何10分も待たされるだろうからと思い、近くに面白そうなところがないか歩いてみる。車が通ってきたところは、工具や携帯電話、薬を売る店が並んでいるだけ。昼も近かったから飯でも食おうかと思ったが、適当な店もない。

他に行く方法がないかとバス停らしきところで、聞くとmototaxi(バイクタクシー)で近くの乗り場に行って、そこから目的地に行く車に乗る方法はあると言う。が、でかいリュックと小さいリュックとウエストバックを抱えてバイクの後ろに乗るのはちと怖い。

別のところでやはり行き方を聞くと、さっき立ち寄ったところから車に乗る方法を教えてくれただけだった。

しょうがないのでぶらぶらして、さっきのTrufi乗り場にいったら、ちょうど車が来ていて客も数人乗り込んでいた。なので、ぼくもそれに乗り込む。運賃5ボリビアーノ(約80円)。

車は快調に舗装された幹線道路を走る。サトウキビを山ほど積んだ大型トラックを追い抜く。サトウキビの山は直方体のように積み上げられており、目測で縦が3m、横が2mちょっと、そして長さが10数mほど。とにかくでかい。

20分ほど走り、左手にガソリンスタンドがある地点で車は止まる。そこから先は一本道になっているのだが、その入り口には10トン級のトラックなどが数台、交互に道路を横切るように止まっていて、車が先に行けないようになっていた。

運転手はハッハと笑いながら、ここでおしまいと客を降ろす。どうやってこの先に行くのだと聞くと、モトタクシー(バイクタクシー)と客まちしているバイクを指さす。バイクの運転手らは15ペソ(たまにボリビアーノではなく、古い通貨名のペソを使う人がいる)などと言ってくる。

とりあえず目の前のトラックの向こうに行こうとリュックを背負って、路肩を歩く。

トラックの向こうにはやはりバイクタクシーが待っていた。見える限り道路が続く先は両脇に畑があるだけ。まだ集落らしきものが見えない。なので、バイクタクシーのおじさんにサンファンに行きたいと伝え、運賃を聞くと10ボリビアーノと言うのでそれに乗ることにした。

バイクは125ccくらいのバイク。リュックを運転手と自分の間に挟み、多少はみ出しつつも乗る。5分ほど走ると路肩に馬の死骸があった。

さらに行くと、道ばたに大型トラックがずらりと停まっている。工場かなんかからの搬出待ちかと思っていたら、その先にまたトラックで封鎖されている箇所が現れた。運転手と思われる男たちが検問をしており、1ボリビアーノを払えなどと言っている。数人は角材を手に持っている。

ただ、雰囲気は別に険悪ではなく、すんなりと通る。しかし、それからが大変だった。もう1カ所検問があり、そこも運転手がカネを払ってすんなり通ることができたが、その後はトラックに邪魔されて道路上にまったく通る隙もない箇所が10カ所近くあり、そういうときにはバイクから降りて、リュックを持って路肩の草地の斜面を歩き、バイクもそこを注意深く通って、また道路に戻ってしばらく走り、そしてまた路肩の下を通りというのを繰り返すのだった。

あまりに封鎖されている箇所が多いので、これは引き返した方がいいかもと思い、運転手に声をかけるがもうすぐそこだからと言うので、そのまま難儀しながら進む。

そこへ最悪なことに雨が降り出す。慌ててリュックカバーを取り出し、でかいリュックにかけるものの、残りの小さいリュックなどにかけるものがない。自分もかぶる雨具がない。

しかし、もうすぐだという運転手の言葉を信じて、乗り降りを繰り返しながら進む。途中、糞尿のにおいがするなと思ったら、牛が10頭ほど荷台に積まれたままのトラックが数台あった。

そしてようやく抜けたと思ったところで、バイクは角材を持った男につつかれて停まる。男の人はどうも活動家らしい。同じようにポンチョタイプの合羽を着て角材を持った中年男が3人ほど見張るように立っている。

たどり着いたところは三叉路になっていて右脇にはBienvenidos Santa Rosaと書かれた看板があり、サンファンではないことは明らかだった。角々に家が数軒あり、多くの人がそうした家や木の下で雨宿りをしていた。三方向からの道路それぞれの路面には廃材などが敷かれ、車が通れないようになっている。どうもここがバイクのおじさんが考えていた終点らしいし、この先も周りを見渡した限りでは行けそうもない。

ぼくは荷物を抱えて雨宿りしている人たちの中に入り込む。そこに立っている人たちは、早くこっちに来いというような雰囲気で迎えてくれる。見張りをしている人にたまに声をかけていたが、そのやりとりを見ている限りでは、活動家の人たちとは一線を画しているしている人たちで、ぼくと同じように先に行けずに待ちぼうけをしているだけのようだった。

ここについたのが13時過ぎ。モンテーロからの車を降りたのが12時過ぎだったから、バイクで1時間近く来たことになる。

雨宿りしている人たちが話しかけて来て、どこから来たのか、どこに行くのかというようなことを聞かれる。サンファンまでここからどれくらいかかるか聞いたら、2時間くらいかかるという。それを聞いて、サンファン行きは諦める。

雨は徐々に強くなる。そのうち落ちてくる滴が頻繁になったので、ほとんどの人が近くの家に移動した。ぼくは木の下で待つ。

1時間待ったものの、雨は弱まる様子はないし、道路封鎖の方は、新たにトラックで廃材が運ばれてきてより強化されている。バイクタクシーに乗ろうかと思ったが、ぼくがここに来てから以後、ぱったりとバイクが来なくなった。

ジャンパーもすっかり濡れ、やや寒くなってきたので戻ることを決める。何台か停まっているバイクがあったから、そこまで行って運転手を捜すがいない。

そのため歩くことにする。が、来たときの感じでは1kmや2kmの距離ではない。歩いていくとなると2~3時間はかかるなと思いつつ、でもほかに歩いている人もいるからと思い、歩き出す。

トラックの下で雨宿りをしている人が数人。トラックの運転手らは車の中でのんびりしている。

降りつける雨の中歩いていると、バイクの音がしてすれ違う。よりよって歩き始めてからバイクが来るとは・・・ああ。

向かいからきた同じように歩いているおじさんから、まだ続いているかと聞かれる。

20分ほど歩いた頃、後ろから来たバイクタクシーの運転手が次の封鎖地点まで行けばバイクタクシーがあるというようなことを追い越しざまに教えてくれる。

それで少し気分的になる。

確かに次の封鎖しているトラックの向こうに行くとバイクタクシーが5台ほど停まっていた。こんなところで待っていずに、向こうまで来いよな、と思いつつ、一台のバイクに乗る。今度のバイクはロープを持っていたので、リュックを最後尾に横にしてくくりつけ、ぼくは運転手の後ろに座る。

やっぱりバイクは早い。ここまで来てやっと雨が弱まる。路肩したのどろどろの斜面を数度通り、検問地点を2つ通過し、やっと入り口の封鎖地点に戻る。

歩いて30分、バイクで30分だった。バイクの代金13ボリビアーノ(約200円)。これだけあれば2食食えるのに、と思いつつ支払う。

入り口地点では、サンタクルスやモンテーロに行く乗合タクシーの運転手がそれぞれ行き先を叫びながら客引きしていた。

サンタクルスまで15ボリビアーノ(約230円)と言われ、高いと思いつつもしょうがないので乗り込む。そして大きくため息を1つつく。

同じように雨に濡れた夫婦が乗り込んでくる。子ども3人、大人4人を乗せ、車は発車。

サンタクルスと言ってもまたこの間のように、わけのわからないところに着くんだろうなと思っていたら、そのとおりだった。しかも途中で降りた夫婦が液体状の食い物をぼくのリュックの上にぶっかけたまま出ていく。

運転手にターミナルまでいくらか聞くが、行く気がないらしく降りるよう言う。

なので、リュックをおろし、別のタクシーをつかまえる。今度の運転手にいくらか聞くと15ボリビアーノなどと言ってくる。あんた1時間以上離れたところから15ボリビアーノで来たのに、15分もかからないところまで行くのにいくらタクシーとは言え、そんなかからないだろと思い、10ボリビアーノにしてと言うと、ちょっと考えてからそれでOKしてくれた。

運転手は幸い気のいい人でいくつか話しかけてくる。ターミナル前の宿に来たが、ここもけっこうな雨が降ったらしく、道路の一部が水没している。

濡れないところで降ろしてもらい、また同じホテルにチェックイン。もう顔なじみになったフロントのにいちゃんは、おおっと笑っていた。

新たな部屋に行き、荷物をベッドや机の上に広げる。ロープを張って、シャツなどを干す。

幸いでかいリュックの中の本は無事。ただ小さい方のリュックに入れていた本が数冊濡れていた。ああ。

夕方屋台で鶏の首とどろどろになった米が入っているスープを食べる。3ボリビアーノ(約50円)。その他、きりたんぽそっくりの焼き方をしていたキャッサバのちくわ的なものを食べる。食感はやわく、味はチーズ味だった。

夜は早々に寝てしまう。

Fin

ブラジルビザ受領、バスのキャンセルできず

08/06/11(水)

・ビザ受領
・バスのキャンセル

涼しい朝。外は雨が降っていた。9時前まで日記書きなど。

9時前に宿をでる。宿の前の露店地帯では、朝飯をそれらの露店で食っている人たちが20~30人ほど。仲間に入ろうかと一瞬考えるが、ビザを取るのが先だと、小走りでバス乗り場に行き、中心部行きのバスに乗る。1.5ボリビアーノ。

中心部は相変わらずの渋滞。30分近くかかって、ブラジル大使館近くの道に出る。

領事部の窓口に行き、申請時にもらった受け取り用の紙を出すと、窓口の女性は後ろに並べられていたパスポートなどの中からぼくのものを取り出し、無言でパチンと置く。

提出していたパスポートと黄熱病の証明書を受け取り、ビザを確認。2002年にとったグルジアのビザには劣るが、ブラジルのビザもなかなかかっこいい。

中心部まで歩く。昨日、移民関係の情報をネットで見ていたら、サンタクルスにOkinawaの共同組合がやっているスーパーがあるというので、それを探して歩く。ホームページに載っていた住所とインフォメーションでもらった地図を頼りに歩く。

それほど迷うことなく到着。表に駐車場があるため、通りの角からは直接見えないが、正面まで行けばでかでかと看板があり、日本語が見えた。隣には”納豆あります”などと日本語で書かれた看板を出している三浦商店がある。

スーパーは予想していたよりも大きかった。売り場面積はイグアスの農協スーパーと同じくらいか。

中にはいると6つほどの店に分かれていて、そのうちの1つは沖縄食堂で、ソーキソバなどが食べれるようだった。ある店に入ると入り口正面にどどんとお茶漬けが売っていて、中に入ってみると日本で売られているお菓子や食材、しょうゆなどの調味料、箸などがあった。箸がほしい気もしていたのだが、300円近くすることもあり、断念。

朝飯代わりにソーキソバを食べようと、店にいた年輩の女性に日本語で声をかけると、まだ準備ができていないとのことで、出直すことにした。

隣の三浦商店に行くと、日本のテレビ番組のDVDや雑誌が売られていた。ジャンプやサンデー、マガジンもあり、しばらく口が開いたままになる。

その近くには韓国人がやっている店があり、こちらには韓国のりからコチュジャンから、また魅力的な商品が並んでいる。

近くが昨日も来た市場になっており、ソーキソバの準備ができるまでその辺りをふらつく。降っていた雨は小雨になっていた。

合羽を買おうかとある店で値段を尋ねると50ボリビアーノ(約700円)。わりとしっかりしているものだったので、どうしようか迷うが、とりあえずパス。

昨日は終わっていた生鮮市場の建物の中に入る。隣の服屋ばかりの建物は見たが、こちらはまだだった。中に入ると生肉のにおいがし、ぶら下げられた豚らしき肉の塊や洗面器のようなプラスチックの桶に山盛りにされた鶏の各部位がずらずらと見える。

売られている鶏を見ていると、売っていないのは鶏冠(とさか)と毛くらい。目をつむった鶏の頭部ばかりを集めた桶もあるし、心臓だけ集めた桶もある。

奥に行くと今度は牛。店の屋根代わりのパイプに釣り針のような形をした大きなひっかけ鉤(固有名がわからない)がかけられており、そこに大きな心臓が4~5つぶら下げられている。心臓から伸びている太い血管にその鉤をひっかけており、血管の強靱さに驚く。

肉屋が集まっている一帯の隣は食堂街。だが、まだ準備中のところばかり。見てまわっていると、東洋系のおばさんがやっている店があり、そのおばさんがスペイン語で話しかけてくる。日本人かと聞いてくるので、そうだというと、サンタクルスに住んでいるのか、それともサンファンか、それとも旅行者かと聞いてくる。おばさんにどこの人か聞くと、”Chino,Taipei"と答える。

何か食べるかというので、せっかくなので食べることに。鶏のスープやワンタンスープもあると言うが、フライパンに焼きそばのようなものがあったので、それを指さすと”ラーメン?”と言う。焼きそばをラーメンと台湾では言うのか、と不思議に思いながらそれを注文する。注文すると”con Arroz? ゴハン(ご飯という日本語を知っていた)?”とゴハンを付けるか聞いてくる。それは断る。

しばらくして平皿に見た目は完全な焼きそばが出てきた。それも箸付き。味付けも日本の中華料理屋で食べる味と変わらない。ただ、麺がこちらの一般的なスパゲッティのようにふにゃふにゃ。これにはなかなか馴染めない。

遅れて小皿に鶏の唐揚げが満載されて出てくる。これもセットらしい。またこの唐揚げの揚げ具合が中華的で、パリパリ。中米でもさんざん鶏の揚げ物を食ったが、そうしたものとは全然違う。あとで揚げている様子を見たが、中華鍋に油を入れてすごい勢いの火にかけて揚げていた。やっぱりこれでなくちゃ、と思ってしまう。

10時半を過ぎたので、さっきのスーパーOkinawaに戻り、ソーキソバを食う。20ボリビアーノ(約300円)は、ボリビアにしてはちょっと高いけど、日本の沖縄で食べるより安いのが不思議だ。味はこれまで食べたことのある味とはちょっと違ってスープの油っぽさが少なかった。天ぷらがのっていたのも初めて。客は他に日系らしい老年の夫婦がいるのみ。

食後、ブラジル行きのチケットをキャンセルしようとバスターミナルに行く。100米ドルはやはり高いし、ビザも取れたので、バスはキャンセルして鉄道で行くことを思いついた。料金は国境まで安い席が10ドル足らず。

ターミナルのバス会社に行ってキャンセルしたい旨を伝えると、そこにいる人は対応してくれずちょっと待ってと言われる。20分ほど待ったらおじさんが来て、対応してくれるが、今は返金できないから16時また来いと言う。

午後はサンファン移住地に行く予定をしていたのに、これでパー。まったくどういう組織になってるんじゃ。

16時になり、その窓口に行くと、また対応してくれる人がいない。そこにいた女の人は、パソコンでディズニーアニメを見て笑っているし、他にいる3人の中年の男女も椅子に座っておしゃべりしているだけ。いらいら。

30分ほどして昼間いたおじさんがやってきて、電話しても売った人につながらないから明日来いなどと言い出す。さらにチケットはキャンセルとすると30%減額になる。つまり返金額は70%になるという。おじさんはチケットにかかれてあるNotoという部分を指さし、ここにそう書いてあるという。

3割もとるなんて、アホか。だいたいあんたらパソコンも使っていないんだから、キャンセルの手続きなんて紙に書いたぼくの名前を消すだけだろうが、といらいら。会社の組織としてはグチャグチャ(のように感じる)のくせに、こういうところだけはちゃっかりしている。

念のためにとおじさんが携帯電話で担当だった人に電話すると、つながった。そして、ここに来いというようなことを言う。しばらくしてぼくがチケットを買ったときに応対したおじさんが来る。

ぼくがキャンセルしたいというと、理由を聞き、そして、キャンセル料が30%かかる、このバスであれば国境もすぐに通れるといったことなどいくつか言う。スペイン語だから当然、言っていることのすべてがわかるわけではない。

たぶん、電車とバスを乗り継いでいけば、半額くらいで済んだのだが、キャンセル料で30米ドルも取られるのはしゃくだし、どうも一番高級な部類のバスということがわかり、結局日付を前倒しにしてもらうだけにした。しかし、ボリビアで高級と言っても、チリやメキシコ、アルゼンチンの2等にも届かないことは容易に想像される。まぁ、当日のお楽しみだ。

というわけで、この日は予定が大いに狂う。やれやれ。同じ宿にもう1泊。

夜になると宿の前の通りには屋台が出て、肉を焼くにおいが漂う。

Fin

コロニアオキナワからサンタクルスへ

08/06/10

・資料館
・スナックタカラ

朝起きてみると2カ所ほどやられているのだった。今でこれだから、移住してきた当初は相当なもんだったろう。ボリビアやペルーではアンデスの高地に多くの人が暮らしているが、蚊だけを考えてもそちらの方がずっと暮らしやすい環境なのではと思う。

8時頃、宿の人が来て宿を出るように言われる。えっ? と思い、12時までいたいんだけどと言うと、しぶしぶOKしてくれる。やはりここは宿ではないらしい。昨日チェックインしたときも宿帳に名前を書いたりしなかったから、こうしてたまに来る人を受け入れているだけのよう。

9時頃、宿を出る。宿は入り口が閉まっていたため、宿の人に言って開けてもらう。

昨日は汗が出るくらい暑かったのに、今日は涼しい。気温は20度前後くらいだろうが風があるから半袖では寒い。曇り。

日本人学校の隣の敷地にある資料館に行く。そこには文化センターと資料館と慰霊碑が建てられていて、文化センターも資料館も想像以上に立派な建物だった。

資料館に行ったものの入り口が開いていない。開館時間などを書いた張り紙を見ると、この時間は開いているはずなのだが、中を覗いても誰もいない。

なので、文化センターに行き、その事務室にいる人に訪ねる。文化センターには日系の人らしい女性が3人ほどいた。窓口に行って資料館を見たいんですが、と言うと、ちょっと待っててくださいと年輩の女性が若い女性に目配せして、その女性が鍵を持って出てきた。

無言で資料館までの30mほどの道を歩き、無言でドアの鍵を開けてくれる。そして、見終わったらまた知らせてくださいと言って文化センターに戻っていった。ちなみに言葉は沖縄のイントネーションだった。

入り口を入ると、正面に移住地の模型と沖縄からの航路を描いた地図があり、脇の柱には当時の沖縄の新聞記事のコピーが貼られていた。

また数年前に入植50周年を迎えたそうで、そのときの記念式典の様子を写した写真などの特別展示もされていた。

展示物は入植当時の写真や日本から持ち込まれた数々の道具などがメイン。

壁には入植当時からの出来事を書いた数メートルにわたるお手製の年表が貼られている。

写真は沖縄からの船上の様子(甲板で赤道祭りなどをしていたよう)を写したものから、ブラジルのサントス港について、サンタクルスまでの汽車での移動の様子、そして開墾の様子など移住のはじまりからの様子がわかるものがあった。きちんと写真が残っていることに驚く。特にサントス港からの汽車での移動の様子は、当時の汽車が薪を燃料としていたため、その薪を乗客も一緒に途中で補給しながら走ったらしい。また途中では脱線もするなど、なかなか大変だった様子。なお、ブラジル沿線ではブラジル移民の人等から熱烈な歓迎を受けたらしい。

その他現物展示については、移住当初大活躍した測量機械や大きなノコギリ、医療道具をはじめ、沖縄から持ち込まれた馬車用の荷車、手巻き式の蓄音機(?)、尾崎きよひこや藤圭子らのレコード、サンシン、重箱などさまざまあり、興味深い。

中でも印象的だったのが、米軍の爆弾の空薬莢(?)を使った味噌入れなど、米軍由来のものがいくつかあったこと。

そもそもこの入植自体が戦争でボロボロになった沖縄の人の力になろうと、すでにボリビアに移民していた沖縄出身者が駆け回って実現したものだった。また当時、沖縄はアメリカの統治下にあったため、移民の手続きはアメリカ政府とボリビア政府が行っており、入植後も重機の提供などはアメリカ政府の支援だったという。

また、南米に移住した元炭鉱労働者のこと書いた上野英信の『出ニッポン記』には、ボリビアに早くに移住していた沖縄出身者は、当時のボリビアよりも沖縄の方がずっと厳しい状況にあることを知って驚いた、という話があった。

そうしたアメリカが絡んだ物などを見ていると、米軍の沖縄上陸がなければ、おそらくここに移住してくる必要はなかった人たちだったのではと思えてくる。

資料館の隣に立つ慰霊碑には、ここで亡くなった数百の人たちの名前と年齢が刻まれている。さすがに沖縄らしく、90歳や100歳まで生きた人がちょこちょこいる。一方で、1歳や3歳、16歳や20歳など若く(幼く)して亡くなった人も相当数いた。

沖縄から来たという来館者の感想には、展示品を見ていて涙が出てきたというものもあった。

一通り展示物を見て、文化センターに戻り、見終わった旨を伝える。それから文化センター内にある図書室を見学。1千冊はあるだろうか、文庫本や単行本などが並んでいる。タイトルを見ているとだいたい10~20年前の本が多い。ビデオの貸し出しもしているらしく、日本の番組のビデオも並んでいた。

また、琉球新報や朝日新聞、サンファン移住地の日本語の広報のようなものもあった。

そんなことをしているうちに12時近くになったため、宿に戻り、荷造りをして出る。大荷物を持って移住地を歩く気力はなかったため、車を拾ってサンタクルスに戻る。結局、ここでも地元の人とは話はせず。

モンテーロまで行き、そこでTrufi(乗り合いタクシー)を乗り換えるために降りる。カネを払うのを忘れたが、車はさっさと行ってしまった。

サンタクルス行きのTrufi乗り場のチケット売場には行列ができていた。ボリビアーノが少なくなっていたこともあったので、近くにあった銀行に両替に行く。

窓口のにいちゃんに20米ドル札を出し、両替を頼むとどこに住んでいるのかとスペイン語で聞かれる。自分としてはサンタクルスのホテルと答えたつもりだったのだが、どうも伝わらず。そのやりとりを見ていた店の若い女性がやってきて、”ニホンジンデスカ?”と聞いてくる。そうです、と答えると、”イエハドコ?”と聞いてくる。なので、サンタクルスのホテルと言うと、彼女はそれを聞いて窓口のにいちゃんにスペイン語でベラベラと伝える。

彼女は外見は日系ではなかったので、日本語を勉強しているのかと日本語で聞くと、”ウン、少しわかる。ここは日本人が多いから”と言う。

銀行に来る前にSnack Takaraという看板を出している食堂があったので、もしかしてあれも日本人がやっている店かと彼女に聞くと”ウン、そう”と答える。”はい”ではなく、”ウン”と言うところが、なんだかいい。

時間も12時だったので、Snack Takaraに行ってみる。店には客が6割方くらい入っていて、なかなか盛況。ぼくが入ると、店のおばさんが”こんにちは”と声をかけてくれる。一発で日本人とわかったらしい。

席に座るとそのおばさんが”何にしますか”と聞いてくる。ありがたいことに壁には料理の写真があったし、他の人が食べているのも見えたので、適当に指さして魚のスープを注文する。料理は日本食ではなく、地元風のものばかり。

料理を待っていると、小学生くらいの女の子が”ただいま”と言って入ってきた。娘さんらしい。見た目はボリビア人とのハーフっぽいが確認はせず。

スープに入っていた魚は身は鯖に似ていたが、川のにおいがした。海のない国だから川か湖のものだろう。

食べ終わってレジに行くと、おばさんが”旅の途中?”と聞いてくる。さっき帰ってきた女の子が横に来て、にこにことこちらを見る。ぼくのリュックを見て”でっかい荷物やなぁ”というので、おばさんに出身を聞くと沖縄と言った。沖縄は沖縄でもボリビアのOkinawaらしい。

宮崎出身の人はいないか聞くが、直接は知らないらしい。サンファン移住地にはいろんなところから来ているから、もしかしたらそこにはいるかもしれないと言う。

ちなみに女の子は、小さい頃は大阪にいたらしい。詳しくは聞かなかったが、大阪にはたくさんの沖縄出身者が住んでいるからその辺りに親戚でもいるのだろう。

この後のことを聞かれたので、”これからブラジルに行くんです”、と言うと、”ブラジルは物価高いよー”とおばさんは言う。

いろいろ聞いてみたいことがあったが、お昼時で忙しそうだったため、20分ほどで辞去する。

乗り合いタクシーに乗る。舗装された広いとおりを走り、1時間ほどでサンタクルスに入る。が、問題発生。この車はサンタクルスには行くが、サンタクルスのバスターミナルには行かないらしい。しょうがないので追加料金を払って、ターミナルまで連れていってもらう。モンテーロからサンタクルスまでの1時間近くが7ボリビアーノ(約120円)なのに、サンタクルス市内の15分ほどの移動で5ボリビアーノも取られる。くそおやじめ、と思いながらも、まぁ、100円くらいだからいいかと払う。

この間泊まった宿に行く。部屋は開いているかと聞くと、15時半になれば開くという。まだ1時間ほどあったが、フロントのソファで本でも読みながら待つことにする。昨晩眠れなかったこともあり、うたた寝。

16時になったが、ホテルの人は何も言ってこない。だいたいこちらの人は待っておけと言いながら、その後のフォローがない。まったく!と思いながら、フロントに行き、部屋のことを聞くと、すぐに"Vamos(バーモス:行こう)"と言って部屋を案内してくれる。親切なことにぼくのリュックを背負ってくれたが、その重さには驚いていた。

今度は3階の部屋。部屋に入ると、まだ前の人が出てから片づけがなされていない。荷物をおくと、ちょっと待っててとすぐにベッドのシートなどを変えてくれる。

16時を過ぎていたが、サンタクルスのマチナカに行ってみる。この間はビザの申請のためにバタバタと通り過ぎただけだったので、少しのんびり見てみる。

中心の広場から見て北北東にあるQuijaroという通り沿いに市場があった。見事な露店街で、それらのお陰で歩道で通れる幅も元の半分くらいになっている。パン(フランスパン、丸形のパンなど10種類くらい)、携帯電話機、時計、服、バナナ、みかん、牛か何かの内臓とジャガイモの炒め物、果汁を絞ったジュースなどごちゃごちゃ。露店と屋台で日常必要なものはなんでもそろい、三食違ったものを食えるくらい。

店舗の方は肉屋がずらっと並んでいたり、工具屋がずらっと並んでいたりと専門店街ができている。市場の建物もあり、3階建てくらいの建物の方には服屋がびっちりと入っている。

30cmくらいのフランスパン1個(1ボリビアーノ=約20円)を買って、かじりながらまちを歩く。

17時過ぎには暗くなってきたので、バス(大型のバン)に乗る。運転手にターミナル行きかを確認したのだが、ぼくが行きたかったターミナルとは違うターミナルのところで降ろされる。雨が強くなり始める。

そこでまたバスを探すが、目の前をいくつも通り過ぎるが乗りたいバスがなかなか来ない。

ようやっと乗ったバスも満席で立たざるを得ず、そうなると外の様子がわからないため(頭は天井につくくらいなので立っていると見えるのは道路の表面だけになる)、いつの間にか降りる場所を逃す。

どうせならこのたくさんの乗客がどこで降りるか見ようと思い、そのままのり続ける。乗客の入れ替わりはあったものの満員のまま1時間過ぎる。運賃の1.5ボリビアーノ(約30円)を考えるとやはり安い。これが日本のようにちょっとした距離でボンボン運賃が上がる仕組みだったら、こうしたこともできないだろう。

バスは舗装された幹線道路をずっと走っていたが、途中、未舗装のでこぼこ道を通る。その辺りが住宅地になっていて、一旦、そうした地帯を抜け、舗装された道路に戻ったものの、また縦に横に揺れる道を走る。そうした未舗装の道を行った先にちょっとした集落があり、バスが通る道沿いには3軒ほどの商店と同数くらいの食堂、屋台、それから1軒のゲームセンターがあった。

時間はすでに20時を過ぎていたが、店も開いていて、食堂で食事をしている人も多い。

予定では終点まで乗ったまま行き、そこでバスは引きかえすだろうから、そのまま乗り続ける形で帰ろうと思っていたのだが、終点らしきところまで来たとき、運転手が降りるように言う。

乗客はぼくの他にもう一人小さい子を抱えた女性がいたので、まだ終点ではないと思っていたのだが、どうもその女性らは運転手の家族だったよう。

運転手ターミナルまで行きたいと答えると、ちょっと座っておけと言って、バスをUターンさせ、さっき通り過ぎた店などがあつまっている通りまで乗せてくれ、そこで降ろされる。そして、別のバスがターミナルに行くからそれを待つように言われる。

そして、バスは家族3人を乗せて走り去ってしまった。

水たまりをよけながら土の道を歩き、道ばたの店を見学。1軒の店に入り、500mlのペットボトルの水を買うが、ペットボトルに商品名などが書いたシールなどが貼られていなかったので、どうも中の水をつめなおしたものらしい。

その店では、10歳前後の男の子が何を探しているのかとすぐに応対してくれる。その子の親らしい人も店内にはいたが、子どもに一部は任せているよう。

他に遊びに来ているのかやはり10歳前後の女の子が2~3人いて、何か話ながらこちらをじろじろと見ていた。

買い物をしていたら、バスが来たので急いで道路に出て、バスを止め、乗り込む。さすがにこれから中心部に向かう人は少ないようで、5人ほどしか乗っていない。

運転手はでこぼこした道を果敢に攻める。ハンドル裁きを見ていたが、右に左に小刻みに動かし、それほどスピードを落とさずに走り抜ける。運転はなかなかうまいが、それでも上下左右の揺れは大きく、時折座席から尻が浮く。

乗客は20分もすると、ぜんぶ降りてしまった。残ったのはぼくと、運転席の横に座っている若い女性だけ。彼女は運転手の恋人らしく、客がいなくなると二人で親しげにおしゃべりを始める。おしゃべりするのはかまわないのだが、さっき攻めていた道よりも走りやすい道に出ているのに、運転手はなぜか車のスピードを落とす。

おそらく時速20km程度。トロトロと運転しながらひたすらしゃべっている。やれやれ。

黙ってみていたら、とりあえず話したいことは話し終えたのか、しばらくして音楽のボリュームを上げ、またスピードを上げて走り出す。幹線道路に出たあとは、まわりのスピードに合わせることもあるからだろう、再び遅くなることはなかった。

おしゃべりを終えた運転手が"Amigo,para donde(どこまで)?"と聞いてくる。ターミナルまでと伝えると、近くに着いたときに教えてくれ、そこで降ろしてくれた。

宿に着いたのは22時頃。だが、露店などは遅くまで開いているから、パラグアイのアスンシオンと違って人気がなくて怖いということはない。

こちらの宿には蚊はいないので、昨晩のような闘いは不要。ゆっくり眠ることができる。

Fin

ブラジルビザ申請、コロニアオキナワへ

08/06/09

・面倒なビザ申請
・コロニアオキナワへ

7時前に起床。蒸し暑くて眠れないかもという予感はどこへやら。けっこうきちんと眠ることができた。干していた洗濯物も一晩で乾いてくれたし。

しばし日記書きと『逝きし世の面影』。

10時前にチェックアウトの時間を確認してから、ブラジル大使館に向かう。チェックアウトは14時。それまでにビザの申請を終わらせなければならない。

宿の前の、つまりはターミナル前の道路で中心街に向かうバスを探す。74番などさまざまな番号を付けているバスが走っていて、どれがどこに行くのかまったくわからない。フロントガラスに行き先を書いているものもあるが、それがどこなのかがわからないから、ぼくにとっては意味をなさない。それにそれさえも書いていないバスもある。

バスと言っても車体はミニバンで10数人が乗れるだけ。ときおり、自動扉とドアに書いたバスが走っているから、ポトシと同じように日本からの輸入ものがけっこうあるようだ。ただ、車体はたいてい改めて塗装がされてあるので、ポトシに比べれば車体に日本語を書いたまま走っているバスは圧倒的に少ない。

同じくバス待ちしているおばさんにどのバスが中心部に行くか訪ね、教えてもらったバスに乗る。運賃は1.5ボリビアーノ(約30円)。パラグアイではバス代は日本でだいたい60円くらいだったから、ボリビアはその半分。改めて安いと感じる。

地図を見ながらバスの走っているルートを追っかけるが、ターミナル周辺の道路が載っていなかったこともあり、どこを走っているのかしばらくわからず。15分ほどして、道ばたの道路名を書いた標識から現在地がわかる。

中心部に入るとバスは渋滞に巻き込まれ、のろのろ運転になる。歩いた方が絶対早い。

ブラジル大使館に近いところで降り、歩いて大使館に向かう。

道すがら朝飯代わりにサルディーニャともちもちしたパンを買う。サルディーニャはカレースープのパイ包みみたいなもので、これがなかなかうまい。4.5ボリビアーノ(約70円)。パンは小さめのものを買い、1ボリビアーノ(約15円)。

チリやアルゼンチン、またパラグアイと比べても、ボリビアは道ばたで買える食べ物が豊富で、かつ安いからカネのない者にとっては非常に助かる。

ブラジルの国旗がはためいていたので、大使館の位置はすぐにわかる。大使館の領事部はドアがあけはなたれていた。中に入るとアフリカ系の若い男性が1人と中国系の夫婦らしいのが1組、あとヨーロッパ系の人が2人ほどいる。

窓口でビザがほしい旨を伝えると、申請用紙をくれ、黄熱病の予防接種証明書やチケットをもっているか聞かれる。やはりチケットはないとだめらしい。ただしバスのチケットでいいよう。それからビザの発給料金の50米ドルをBanco do Brazilで払ってくるよう言われる。窓口のガラス窓にはその住所が書かれている。ここの通り名とは違うので、どこか別の場所にあるらしい。

まずはバスのチケットを買わなければと思い、その前に銀行に行き、60米ドルぶん両替をする。レートは1米ドル=7.1ボリビアーノ。

それからツーリストインフォメーションに行って、Banco do Brazilのある通りを教えてもらう。その際、まちの地図をもらい、そこに書き込んでくれる。これがなかなかの地図で通り名がしっかりと書き込まれ、また広い範囲をカバーしているのでガイドブックのものよりよほど使いやすい。

それからバスターミナルに戻る。どの通りをバスターミナル行きのバスが走っているかわからないため、適当に見当をつけて歩く。途中、道ばたで寝ている人が4人。うち二人は親子のよう。あるとおりの壁にはスプレーでEvo(現在の大統領のこと)がどうのと落書きがされていた。たぶん悪口なのだろう。

何台かのバスに行き先を訪ね、ようやくターミナル行きに乗ることができる。

バスターミナルに行き、ブラジル行きのバスを探す。2社くらいしかないようで、そのうち1社でチケットを買う。ブラジルのカンポグランデまでの料金は100米ドルと言う。距離からすると60米ドルくらいだろうと思っていたのだが、やはりブラジルだからか、高すぎる。しかし、ビザを取らないと行けないので、その場で購入。しかも米ドル払いでもよかったため、さっきの両替の時間が無駄になる。

また、バスに乗って中心部に向かう。今度はBanco do Brazilへ。これはブラジル大使館のまだ向こうだったので、またブラジル大使館近くでバスを降り、歩いて探す。

これがけっこうな距離で、ブラジル大使館からは歩いて20分ほどかかる。この辺りは高級住宅街なのか、豪邸がちらほら。また、Collegeo Aleman=Deutche Shule(ドイツ人学校:スペル要確認)がある。建物だけ見たときは高級なアパート群かと思ったが、それが校舎のようだった。3階建てくらいでよく手入れのされた建物が数棟並んでおり、ボリビア的な雰囲気からはみ出している。

住所はわかっていたものの、それがどこにあるかはわかっていなかった。大使館で教えられた住所はサンマルティン通り1700番地だったが、サンマルティン通りを歩いていたら途中で道路名が変わる。地図を見てもまだサンマルティン通りにいるはずなのだが、標識に書かれてある道路名は別のものになっている。なんなんだ、と思い近くにいた警備員に聞くと、確かにここはサンマルティン通りだと言う。どうも同じ通りに2つ名前があるらしい。

そうして12時過ぎに目的のビルに到着。12時から昼休みに入るのではないかと心配していたのだが、しっかり開いていた。

近代的なビルの1階では大使館と違って身分証明書の提示を求められる。エレベーターで4階に行くと、小さなオフィスがそれだった。中にはブラジリアンらしき人等が10名ちょっと。窓口は一つしかないため、しばらく待つ。その間、備え付けられていたミネラルウォーターで喉をうるおす。

40分ほど待って、やっと順番がまわってくる。片言スペイン語でビザ代を払いたい旨を伝えると、いくら?と聞かれる。ビザ代など相手も知っているだろうと思っていたので、ちとビビる。50米ドルを払うと、領収書を出してくれる。これに自分のサインをし、1枚は銀行の控えになり、1枚が大使館に出すものとなる。

13時前に終えたが、次の心配はブラジル大使館が何時まで申請を受け付けているかだった。不覚にもさっき確認するのを忘れた。多いのは9時から14時だが、場所によっては違ったりする。

早足でブラジル大使館に向かう。無事、まだ開いていた。

まずは記入用紙を英語のものに取り替えてもらう。さっきもらったのはスペイン語とポルトガル語の併記で、しかも辞書を持参していなかったため、さっきの待ち時間で書こうかと思ったら単語がわからず書けずじまいだった。

自分のボールペンで記入用紙を埋める。立ち止まった途端に汗が噴き出してくる。

今回の旅でビザを取るのは中米のベリーズに次いで2度目。あそこもビザ代が60米ドルと高かった。ただ、国境ですんなりとれたので手間はかからなかった。一方のブラジルはこの始末。面倒くさい。記入用紙も両親の名前や国籍、勤め人ならその勤め先名と住所、電話番号まで書く欄がある。

申請用紙を埋めて、パスポートと3cm×4cmの写真1枚、黄熱病の証明書、バスのチケットを添えて窓口に出す。すると、これだけではダメだといい、クレジットカードはないのかと聞かれる。クレジットカードはないがキャッシュカードはあったので、それを渡す。

するとカードとバスのチケットはコピーをとって返してくれる。そして、6月11日に取りに来るよう書いた紙をくれる。

これでようやっとビザの手続きは終わり。次は宿のチェックアウト。14時のチェックアウト時間まであと20分しかない。

またバスを探してターミナルに向かう。さっきのバス代でボリビアーノがすっかりなくなってしまったので、バスターミナルの両替所で両替。

それから宿に戻り、荷造りをする。荷造りをしている途中、泊まっていた部屋の廊下から見える屋根に50ドル札が引っかかっているのが見える。おおっ!と思い、手元にたぐり寄せる。50米ドル札が全部で4枚!ラッキーなんて思う前に、すぐに偽札だとわかる。インクが薄く、紙の質も悪い。どうせ作るならもっと精巧なやつを作れよな、と思いながらゴミ箱に捨てる。

2時半くらいにフロントに行く。すると、もう1泊ぶんの請求はなかった。1泊ぶんの25ボリビアーノ(約400円)を払って、またバスターミナルに行く。

ターミナル内の地下道を通って反対側に乗り合いタクシーの乗り場はあった。まずはMontero行きに乗る。運転手に運賃を聞くと7ボリビアーノ(約120円)だと言う。それを聞いて乗り込むと、他に乗客を乗せることなく、発車する。普通なら満席になるまで待つはずなのだが、おかしい。

走り出してから運転手が、一人で行く場合には35ボリビアーノ(つまり5人ぶん)だと言う。35ボリビアーノも持っていないと言うと、いくら持っているのかと聞かれる。それは無視。すると、運転手はとにかく乗り場に行こうと言う。その言葉の意味がわからなかったが、しばらくして別の場所で車は止まった。

どうもここがその乗り場らしい。他にもタクシーが止まって客引きをしている。運転手は急がないことをぼくに確認し、じゃあ、ここでしばらく待てと、彼は車を降りて、モンテーロ、モンテーロと声を出し、客集めを始める。

15分ほどで客は集まる。普通の乗用車なのだが、後部座席に3人、助手席に2人乗ってやっと出発。

車は舗装された道路を走る。ぼくは寝る。

気がつくと別のまちに入っていた。他の客がところどころで降りていく。モンテーロのまちもなかなかのもんで500mくらいの中心商店街には空きなく店が並んでいて、人通りも多く活気があった。

その通りでぼくは降ろされる。降ろされたところがOkinawa行きの乗り合いタクシーTrufiの乗り場だった。すぐに車を乗り換える。

車はまた他に客を乗せることなく走り出す。が、200mほど行ったところで停まる。運転手が降りてきて、こっちの車がオキナワに行くからと乗り換えるように言う。

乗り換えた車は新車っぽいランドクルーザータイプの車。窓にはタクシーの番号とOKINAWAと書いたシールが貼られていた。

すでに4人の客が乗っていて、ぼくが乗るとすぐに発車する。

車は途中、自動車部品屋でバンパーらしきものを積み込み、また給油をしながらオキナワに向かう。

オキナワに向かう道は一本道。両脇には広大なサトウキビ畑が見える。収穫が終わったあとの畑には牛が放たれていて、また一部の畑は焼かれていた。対向車線から10トンはあろうかというどでかいトラックがサトウキビを満載にして走っていく。

モンテーロを出てから約1時間ほどたった頃、目の前に”めんそーれ オキナワへ”(だったか?)と日本語で書いた看板が見える。

しかし、辺りは畑ばかりでたまに家がポツポツと現れるだけ。椰子葺き屋根の家が多く、中には壁も板を横に並べただけの簡素な家もある。屋外に水道施設があるようで、洗濯や炊事をしている姿が見られる。

5分ほどしてまとまった集落に入る。左手に巨大な工場が見え、日本語もちらほら見える。

道路沿いには不揃いの店構えをした商店が見える。

乗り合いタクシーのターミナルで降ろしてもらう。さて、宿探し。

ターミナル隣にPension Ryukyuと書いたところがあったので、そこに行き泊まれるかとスペイン語で聞くが、何がほしいのかと話が合わない。それでここはホテルじゃないのかと聞いたら違うと言われ思い出した。
ボリビアではPensionと言うと食堂のことで、宿泊施設ではない。

それでどこに宿があるか聞くと向こうにあるというので、そちらに行く。看板も何も見えないので、雑貨店に入り、”Hola(こんにちは)"と店の人に声をかけると、”はい、こんにちは”と日本語で返ってきた。

宿はどこですか、と店の女性に聞くと、その女性は旦那らしい男の人に、どこにするかね?と聞く。男の人は”2軒向こうにあるよ”と教えてくれる。

2軒向こうに行く。看板も何もないが、建物の入り口にいた女性に部屋があるか聞く。すると面倒そうに案内してくれた。案内された部屋は4畳半ほどの広さにベッドがあるだけ。ちとカビ臭い。鍵はない。シャワーとトイレは共同。1泊25ボリビアーノ(約400円)。

荷物をおいて外にでる。すでに日は傾いていた。とりあえず幹線道路沿いを歩く。途中、日本人学校の前に行くと、掲示板に運動会の案内が書かれていた。敷地内を除くとダンスか何かの練習をしている子たちがいる。

ここ第1移住地に加え、さらに第2と第3があるというから、パラグアイのイグアスよりもずっと大きい。歩いてまわるのは数日の滞在じゃほとんど無理。

また、予想以上に日本人比率は低い。歩いていて見かけるのはいわゆるインディヘナ系のボリビア人ばかりだ。この後、ネットで見てわかったが、ここオキナワはボリビアでも模範農村として知られ、ここに仕事を求めて多くの人が流入したらしい。

幹線道路から一本奥に入れば、未舗装の道路。椰子葺きの家がちょこちょこある。道と家の間には底の浅い堀が掘られているが、そこには汚れた水がたまって黒白くなっており、どぶになっている。蚊の絶好の生息地になっていそう。

電気はどの家にもひかれているようだが、排水施設が不十分なように見える。道ばたでは自転車に乗ったり、飛び跳ねたりして子どもたちが遊んでいる。こうして子どもが数人の集団で道ばたで遊んでいる姿は久しぶりに見たような気がする。子どもたちを見る限りでは、ここはけっこう豊かな地域に思える。

その裏通りにネット屋があったので、そこでネットをする。日本語が読める。8歳前後くらいの男のたちが5~6人パソコンでサッカーのゲームをしたりして遊んでいる。ぼくがネットをしていると4~5歳くらいの男の子が横に来てにこにこしながらこっちを見ている。そのこの方を向くとスペイン語でなにやら言うがその仕草で、ぼくの髭を面白がっているようだった。

ネット屋を出たときには外は真っ暗になっていた。幸い外灯はあるから道を歩くのには困らない。

幹線道路に戻り、晩飯屋を探す。串焼きの屋台も含めれば10軒以上食べることができるところはあった。

雨がぱらつき始める。宿近くの店にはいる。メニューなどは書いていないので、何があるかと聞くが、答えを聞いてもよくわからない。適当に頼み、出てきたものを食べる。

出てきたものは平皿の半分に冷えたライス、半分にマカロニがあり、その上からカレーのような汁がかかっている。具は鶏のセセリ(首)とどっかの切れ端、ジャガイモ、ピーマンと人参のかけらが少し。ラパスでもよく見た炭水化物ばかりのボリビアらしい食い物だ。

8時を過ぎるとほとんどの店は閉まった。宿に戻るとNHKの日本語が聞こえてくる。

土まじりの汚い床のシャワールームでシャワーを浴びる。もちろん水シャワー。排水口が詰まっているらしく、足下に水がたまる。やれやれ。

店の女の子がNHKのおしゃれ工房(竹製品)を見ていたので、日本語ができるのか聞いたが、できないとのことだった。

部屋に戻ってからは『逝きし世の影』を読みながら蚊退治。2~3匹始末していなくなったかと思ったら、始末する度に別の蚊が現れる。だいたい部屋は廊下や隣の部屋と壁で隔てられていない(壁はあるが天井までは届いていない)から、壁の上を通ってだろう、蚊が次々と入ってくる。

20匹ほど始末して横になるが、すぐに別のが現れるので、羽音がするたび目が覚め、成敗する。

結局始末した蚊は30は越えただろう。

Fin

サンタクルスに到着

08/06/08

・真夜中の国境越え
・サバンナの風景
・にぎやかな路上

すっかり寝込んでいたのに添乗員の声で目が覚める。こんな夜中になんだなんだと思いながら、体を起こす。前の方に座っている客が座席を立ち、バスから降りようとしていた。座ったままの人が何人かいたので、トイレ休憩かと思い、ぼくはそのまま座っている。

しかし添乗員のにいちゃんが回ってきて、降りるようにいう。イミグレがどうのと言っているから、どうも国境に着いたよう。

時計を見るとちょうど2時。辺りに民家などは見えない。

乗客全員が、バスから降りてイミグレの小さなコンクリートづくりの建物の中に入る。質問もなく、出国手続きは終了。

またバスに乗る。ボリビアの入国手続きがまたすぐにあるだろうと思って起きていたのだが、30分たってもそれらしいところは見えてこない。他の客たちはまたすっかり寝込んでいるようなので、ぼくも寝ることにする。

道路は舗装されているようで揺れもなく、快調。横になっている姿勢が窮屈で何度か目が覚めるもののゆっくり眠ることができる。

次に起きたのは7時前だった。重い瞼を引き上げると、光が射し込んでくる。もう夜は明けたらしい。

日本の山の中ににた風景がしばらく続いた後、今度はパラパラと木々が見えるサバンナの風景になる。人が住んでいる集落は沿道には少なく、ほとんど見ることがない。

昼寝を何度かする。

サンタクルスに着いたのは夕方。まだ明るい。ターミナルはアスンシオンよりも大きい。

久しぶりのボリビア。ターミナルの敷地を出たところにある通りの向こうには屋台がいっぱい。う~ん、すばらしい! パラグアイのようなかごを持ったチーパ売りはいないが、移動式のガラスケースにパンを入れて売っている人がいる。こちらではトウキビの粉入りのパンも多い。

屋台が集まっているところにはホテルも集まっていたので、適当に何軒か料金を聞いて回る。そのうちの1軒に宿泊。1泊25ボリビアーノ(約400円)。

部屋はタイル張りの9畳ほどの広さがある部屋で、ベッドと小さな机、プラスチックの椅子があるだけ。でも、そこそこきれいでカビ臭さもなく、十分。

晩飯は屋台で食す。簡単なスープでちょっと冷め気味。でも値段は4ボリビアーノ(約60円)。安いなぁ。

夜は宿で。

Fin

2008年7月6日日曜日

アスンシオン、サンタクルスへ

08/06/07(土)

7時頃起床。しばらく『なんでも見てやろう』を読む。朝飯はなし。昨日の肉がまだ腹にたまっている。

荷造りをして、宿主に頼まれていた宿への一言を書いた紙を提出。また、借りていた自転車の鍵も返す。

その際、ボリビアのサンタクルスにこれから行く旨を伝えると、ラパスやスークレ、オルーロなどに行くバスは軒並み止まっているということを教えてくれる。この宿に昨日着いた人がアルゼンチンのサルタからボリビアに行こうとしたら、そういう状況だったらしい。

ゲゲッと思い、ルート変更を少し考える。だが、サンタクルス行きのバスについては、知らないようだったし、地図上では、アルゼンチンからラパスなどに行くときに通る国境・道路とサンタクルスに行くときに通るそれとは違う。それに、2日前にアスンシオンのバスターミナルで聞いたときは、毎日、バスは出ているということだったので、きっとぼくが行くルートは大丈夫だろうと思い、予定通りのルートで行くことにする。

10時前に宿を出る。宿では、ちょうど味噌汁のにおいがしていて、他の宿泊者たちが朝飯を食っていた。良い旅を!、いってらっしゃい、などと言われながら、宿を出る。

幹線道路沿いに出て、バスを待つ。アスンシオン行きのバスは1時間に1本はあると言っていたが、それが何分頃に来るのかはわからない。なので、1時間待ちも覚悟していたのだが、15分ほど待ったところでバスが来た。

右腕を横に挙げて、止まるよう合図する。止まったバスは2階建ての立派なバスで、これは運賃が高そうだなと思ったが、とにかく乗り込む。

すると座席はすでに満席だったようで、入り口にもおじさんが大きな荷物を持って立っていた。その中にぼくも加わる。
ぼくの後からもう一人、日本人的な顔立ちをした白髪のおじいさんが乗り込んでくる。なので、入り口の踊り場は満杯。

そのおじいさんはさっさとドアを開け、1階の座席があるところへ入っていた。ぼくは入り口のところに立っていたのだが、しばらくして一緒に立っていたおじさんが中に入ったらというので、ぼくも白髪のおじいさんと同じく中に入る。

さっきのおじいさんは通路に立っていて、それに並んでぼくも立つことになった。座席は満杯。

並ぶとおじいさんが話しかけてくる。イグアスに住んでいるのかとか、日本のどこからなのか、など。聞くとそのおじいさんは普段はラパス(パラグアイの移住地の一つ)に住んでいるらしい。鳥取の倉吉出身で、大工をしていたらしい。それで敗戦後、パラグアイに渡ってきたという。最初の頃は、みんな家を建てないといけないから、ずいぶん仕事が多かったらしい。移住してきたときが20歳頃だというから70歳は越えているよう。

おじいさんが立っていたところ、右奥の座席の40歳くらいのおじさんが、そのおじいさんに座るよう自分の席を譲る。その前にもおじいさんが立っていた横に座っていた30代くらいの女性がおじいさんに関を譲ろうとしたのだが、そのときは断っていた。おじいさんは座席に座る。ぼくとの間に、席をゆずったおじさんが立つことになってしまったのでしばらく話は中断。

その間、ぼくの隣に座っていたおじさんが、ぼくにどこから来たのかと聞いてくる。彼はボリビア人かとまず聞いてきて、頭を振ると、今度はコリアンかと聞いてくる。今、おじさんと日本語で話していたのに、ボリビア人か?はないだろうと思ったが、ボリビアに住んでいる日系かと思ったのだろうか。もっともボリビア人のインディヘナ系の人らは一部の日本人と顔立ちがよく似ているが。

窓の外には広大なトウキビ畑や牛の放牧地が見え、民家の中には敷地内にはみかんの木を植えているのが見える。

1時間ほどして着いたまちで何人か客が降りたので、ぼくも席にあり付ける。その際には、空いた席の横に座っていたおじさんが、"Amigo,toma(アミーゴ、座ったら)"と空いた席を指さし教えてくれた。

おじいさんの近くの位置に座ることになったので、またおしゃべりが始まる。

おじいさんは身長は155cmくらいで小さいが、白髪ではあるものの髪はふさふさしている。歯は見る限り右に1本あるだけ。なかなかの饒舌でアスンシオンに着くまでひっきりなしに話をしてくれたのだが、バスのエアコンの音とタイやの音がうるさく、さらにおじいさんの声が小さいのと、言葉が日本語とスペイン語のちゃんぽんになるため、1~2割ぐらいしか聞き取れなかった。無念である。

日本語で話しかけてきたので、聞こえない言葉も日本語だろうと思っていたのだが、時折”No sabe(知らない)"とか"comprar(買う)"とかいう単語が聞こえるし、数字は軒並みスペイン語だったので、途中でスペイン語と日本語が混ぜこぜになっていることに気づく。

以下、聞き取れたことを少し。戦争が終わったとき、おじいさんは中学生だったらしい。これが旧制中学なのか、今でいう中学かはわからない。倉吉からも広島に原爆が落ちたときの光が見えたという。その光が見えてからは、空を飛ぶアメリカの飛行機の数は少なくなったらしい。

パラグアイへの移住の話は、雑誌『家の光』で見たという。なぜ移住をしようと思ったのかについては、聞き取れず。

おじいさんは、なぜかノーベル賞がどうのという話をする。断片的に聞き取れたことをつなぎあわせて考えると、どうも津波を正確に探知するような技術を開発できればノーベル賞ものだと言っているよう。それについてしゃべるときのおじいさんは、手を動かし、体を動かして、これをこうしてこうしたらこうなるなどと言う(言っているよう)。そして、パンと手を叩いて”そうだろう?”と聞いてくる。

そうだろう?、はわかったので、ぼくはハイと答えるが、実際は何を言っているのかほとんどわかっていなかったのだった。

そうこうしているうちに外の景色が変わり、建物ばかりの地帯に入る。改めてアスンシオンに来てみると、確かにパラグアイでは大都市だなと感じる。

おじいさんは、ターミナルに着く前に街角でそそくさと降りる。

ターミナルに着いたのは2時半ごろ。予想よりも早かった。ボリビアのサンタクルス行きのチケットを探す。この間、20米ドルくらいの安いチケットを売っていた窓口に行ったのだが、どうもぼくの聞き間違いだったようで、実際は55米ドル=22万グアラニーだった。

どこも同じ値段だったので、飯などがついているというバス会社のチケットを買う。ここでは最初から米ドルで値段を言ってくるので、米ドルでカネも支払う。55米ドル。なかなか高い。

バスの発車予定時刻は20時。それまでの間、ターミナル内やまわりをうろうろする。ターミナル内では相変わらずチーパを売っているおばさんや民芸品を売ってるグアラニー族らしいおばさんたちが数名いる。

夕方、ターミナル近くの路上にあった屋台でチョリパン(ホットドッグのようなもの)を買う。3500グアラニー(約90円)。チリやアルゼンチンのホットドッグは、ソーセージがあの化学物質がたくさん入っているような偽物ソーセージだったが、ここのは本物っぽい。

道ばたでそれを頬張っていると、ジュース売りのおばさんが近くに寄ってくる。右手にジュースを入れたプラスチック製の容器、左手にプラスチック製のコップを持っている。そして、独り言のように、ピーニャ(パイナップル)とナランハ(夏みかん系の柑橘)を混ぜたうまいジュースだと言う。

ぼくはこれから長距離バスに乗るから、これを飲んで腹を壊すのを警戒し、しばらく無視していたのだが、おばさんがジリジリとさらに近づいてくるので、とりあえず値段を聞いた。1杯1000グアラニー(約30円)というので、まぁ、一杯くらいいいかと飲む。味はいまいち。ピーニャとナランハは混ぜない方が味がしっかりしていていいと思うなぁ、などと考えながら、ゆっくり味わいたいような味ではなかったので一気飲みする。

それでまたパンの方を食べていると、どっかへ行ったはずのジュース売りのおばさんがまた目の前に現れ、これまた独り言を言うようにさらにもう一杯とすすめてくる。これも一旦断るが、それを気にすることなくコップにジュースを注ぎ始める。

しょうがないなぁ、と思いながら、もう一杯一気に飲み干す。やっぱり好みの味ではない。

その後、ターミナルに戻り、余ったグアラニーを米ドルに変える。このときは1米ドル=4100グアラニーだった。

待合い室のテレビでは音楽番組が流れていた。椅子に座り、しばし『逝きし世の面影』を読む。

19時半頃、バスの乗車場に入る。16か17番乗り場にバスが入ってくるということだったが、これがいつになっても現れない。バスは何台か入ってきたが、どれもぼろい国内用のバスのようだったし、フロントガラスにはサンタクルスの文字はなかった。

ついに20時を過ぎてしまった。なので、もしやアルゼンチンのときのように、フロントガラスには別の行き先が書かれていたりするのかもしれないと思い、止まっているバスにとにかくサンタクルスに行くか聞いてみる。

ヨーロピアンらしいリュックを背負った人が乗り込んだ1台のバスの運転手に聞いたところ、違うという。そうしてふらふらしていると、入り口の警備員が声をかけてくる。チケットを見せると、なんだかんだと言う。たぶんグアラニー語が母語なのだろう、彼のスペイン語はほとんど聞き取れず。ただ、出発するというスペイン語は聞こえた。

そこへもう一人バス会社の人なのか、おじさんがやってきて、何事か聞く。警備員のにいちゃんが事情を伝える。するとおじさんは携帯電話でなにやら電話を始めた。そして、電話の後、そこで待つように言う。

待っていたらすぐにチケットを買った窓口にいたおじさんが現れる。そして、"Vamos"と言って、一緒に来るように言う。車に乗ってバスを追いかけるのかとも思ったが、ターミナルを出ると、通りでバスが停まっていた。おじさんはあのバスだと言う。

チリとアルゼンチンでは国境越えのバスというと立派な2階建てのバスなどだったので、ぼくはアルゼンチンから乗ってきたような2階建てのきれいなバスばかりをチェックしていたのだが、このバスの外観はそのチェック網から見事に外れるような外観をしている。

しかも、車体に書いてある会社名とチケットにある会社名が違うし。

まぁ、とにかく乗り込むことができ、一安心。バスに乗り込むと久しぶりに見る人たちが乗っていて、みな晩飯の弁当というか、バス会社がサービスで出している飯を食っている。

ぼくは適当に後ろの席に座る。

バスはアスンシオンのメインストリートを通る。まだ8時過ぎなのに人通りはほとんどない。この間行ったショッピングモールの駐車場だけはほぼ満車だった。

しばらく待っていてもぼくには弁当が出てこない。もしや最初に乗りこんだ人数ぶんしか用意されていないとか。などと考えていたら、バスが停まる。窓からは交差点で車の窓拭きを仕事にしているらしい10代くらいの子どもたちが4~5人見える。

バスが再び走り始めると、添乗員のにいちゃんがこちらに歩いてきた。晩飯についてちょっと聞いてみようかと思っていたら、にいちゃんがこれと言ってあつあつの食い物をくれる。

紙のトレイに半身の鶏肉とマンジオカ(別名キャッサバ)が乗っている。鶏は今まで焼かれていたようで熱いが、マンジオカは冷えている。どうもさっき停車している間に買ったらしい。意外にしっかりしている。

バスの中では例のごとくDVDの映画が上映されるが、後方のテレビは壊れているらしく画面が上から下へと流れる。

乗客は20人ほどで、隣に人はいなかったので2人ぶんの席を使えた。夜の寒さを心配したが、20度前後でちょうどいいくらいだったので、その心配は杞憂だった。

二つの座席に横になり、星空を見ながら寝る。

Fin

シウダデルエステへお出かけ

08/06/06

・電気街
・飛び交うブラジル語
・アサードパーティ

やや出かけるエネルギーが落ちていた感があったが、今日はおでかけ。

イグアス移住地からバスで1時間ほど行ったところにあるブラジルとの国境のまちCiudad del Este(シウダデルエステ:東のまち。以下エステ)に行く。

幹線道路沿いにあるバス乗り場でバスを待つ。エステ行きのバスは1時間に1本あると聞いていたので、気長に待つ。すると15分程度でバスがやってきた。右手を横に挙げてバスに合図し、バスを止めて乗り込む。

エステに近づくほど沿道に建物が増えてくる。工場らしい大きな施設もいくつか見える。

近くまで行っていったんバスを降ろされ、そこで乗り換え、国境近くまで再度移動。

エステのまちはブラジルとの間に流れるパラナ川に架かる橋のたもとに広がり、橋を渡ればそこはブラジルという位置にある。

バスでまちに入ると驚いた。そこそこ高いビルが建ち並び、いろいろな店が立ち並び、人でごったがえしている。電気屋ばかりが入った5階建てくらいのビルがあったりして、ちょうど秋葉原の裏通りの一角のような雰囲気。

道路は舗装されているものの、あちこちに穴があき、路面が油ぎっているようなところもある。

ここで目に付いたのが釣り具屋。店先に釣り竿がずらずらっとつられている。

ブラジルとの国境ということで歩いている人もアスンシオンとは違い、アフリカ系の人が多い。前を歩いていた女の人がコインを落としたから拾って渡すと”Obligada(オブリガーダ:ありがとう)"と言われる。人混みの中で耳を澄ませているとブラジル語(ポルトガル語)が聞こえてくる。

ガイドブックによれば、エステのまちはブラジルからの買い物客によってここ数年でずいぶん大きくなったらしい。

ブラジルとの間に架かる橋は日本語で言うと友情の橋(Puente de la Amiztad)というらしく、勝手に渡ることができる。100mちょっとの橋で、目下のパラナ川はやはりチョコレート色。大きな買い物袋を抱えてブラジルに戻る人もいるし、ブラジル側から歩いて渡って来る人もいる。車の往来も多い。

橋を降りる右手すぐに入国手続きをする施設があって、ブラジルに入るならここで手続きを入らなければいけない。が、ビザがないから法的には入れない。ただ、イグアスの滝に行くときに通過はできるらしい。

パラグアイ側に戻る。ここからバスで行けるところに世界最大級のダム:イタイプーダムがあり、そこにも行ってみようかと思っていたが、なんだか行く気がうせる。

一部の街角の路上には6人ほどでいっぱいというくらいの規模の屋台が並んでおり、どこも人でいっぱい。空いている屋台を探すもあまり見あたらず、かつ鶏肉料理が多いらしいことがわかり、鶏肉は食傷気味なぼくは量り売りの食堂(por kg/ポルキロ)で昼食。

適当にバスを捕まえて帰途につく。これが目的地とは違う別の集落に入っていった。ヨーロッパ系の人が多い集落で、道路の状況などはイグアスと同じ程度。

幹線道路に戻ったところで降り、そこでバスを乗り換え41km地点まで戻る。

夜は宿で来客300人記念と1ヶ月滞在者記念にアサードパーティ。パーティの前にキャッサバ畑で芋掘り。

ドラム缶を縦に半分に切った炭火焼き器に火をおこす。この火のお越し方が一風変わっていて効率的。新聞紙と空(から)のビール瓶を使うやり方で、まずは新聞紙を大きく広げ、それをネジって小さいわっかにする。それを10近く作って、ビール瓶に通していく。

新聞紙で作ったわっかに包まれたビール瓶をそのままドラム缶の真ん中に置き、その周りに炭を集め山にする。そうしてからビール瓶を抜き取る。すると、火山のように真ん中に穴の空いた山ができる。その穴にマッチで付けた火を落とすとあっと言う間に火がつく。

客と宿の人とあわせて約20人に用意された肉は9kg。焼き方がまた豪快で、2cmくらいの厚さで長さが60cm、幅が30cmほどある肉をそのまま網に乗せて焼く。こうやるのがパラグアイ式らしい。

蒸かしたマンジオカや客が協力して作ったサラダなどと一緒にいただく。いいタイミングにこの宿に泊まった。肉は多少残る。

満腹になってあとは寝るだけ。

Fin

パラグアイにおける大豆不耕起栽培について

関節朗「パラグアイにおける大豆不耕起栽培」『農業及び園芸』第74巻・第10号、11号、1999より

パラグアイでの不耕起栽培の呼称:Siembra directa

1.導入の背景
・大豆への栽培作物の転換
・平均栽培面積200ha

目的:土壌浸食の防止←耕地はテーラロシアという粘土質土壌で、乾くと大型機械でも耕起・砕土できないくらい固くなり、雨が降ると粘着性を増し、流失してしまう。

副次的目的:適期播種、出芽促進、生産費低減

2.可能にした技術など
・播種機の改良
・除草剤の改良
・一人の入植者の実験的導入による成功

3.1999年時点の実績
日系移住地の大豆栽培面積(約5万ha)のうち95%以上、パラグアイ全大豆栽培面積(約95万ha)の40%で導入されている。

コロニアイグアスで沈滞

08/06/05

6時過ぎに朝日で目覚める。イグアス移住地の30年記念誌を読みながらバナナの朝食。

午前中は、本読み。

宿にあった日本語学校の文集『はばたき』の13号(1998年度)と18号(2003年度)を読む。中学2年生が書いた「私の願い」という文章は、パラグアイの問題点とパラグアイが今後いい国になっていくためのいくつかの提案をしていた。それによるとパラグアイの失業率は15%。仕事を増やすために工場を造ればいいと思うが、その時に問題になるのが国の税金。工場を造るのに多額のお金が必要で、それがネックになっていると指摘し「パラグアイの政治をする人が、自分のもうけることだけを考えるので、パラグアイの国は全然よくなりません」と言い切っているのがすごい。

もう一つ17歳の子が書いた「もっと政治に関心を」でも、同じように政治が悪いことを指摘している。(以上、18号)

13号で印象に残ったのは、15歳の男の子が書いた「僕について」という文章。文頭に引用している言葉はエヴァンゲリオンのシンジの言葉。「僕って何だろう?」など。特に気になったのが次の部分。友達同士で話をしている時に、「パラグアイだからしょうがないよ。」という言葉をよく使うらしい。「パラグアイで生まれた僕達にとって、この言葉は、ごく当たり前のような口振りで話されています。きっと、頭のどこかであきらめのようなものがあるかもしれません」と彼は書いている。

「パラグアイだからしょうがないよ」という言葉は、明確にパラグアイ以外の国を想定して言っているように思える。’子どもが’日常的にこうした物言いをすると言うことは、パラグアイと他の国々とを比較し、パラグアイの悪い点について日常的に聞かされているからなのではないか。そして、その比較の対象となっているのはおそらく日本なのだろう。日系以外のパラグアイの子等がこうした言葉を使うのかどうかが気になるところだ。

昼前に宿を出て、散歩。昨日とはうってかわって爽快な青空。昨日と同じように長袖シャツを着て外に出たが、歩いていたらすぐに暑くなってしまったので、薄着に着替えに帰る。昨日見てなかった道路の南側をちらっと歩く。食料品店が3軒ほど、やっているのかわからないカジノ、ディスコ、自動車屋、農業機械屋などの他は家と農地のみ。

人通りも少なく、畑仕事はもっと奥地でやっているのか、近くの畑には人気もない。

地面は多少乾いたために、昨日のように靴底に土がへばりつくようなことはない。ただ、土質を考えると乾燥したら乾燥したで、風が吹けば簡単に飛んでいきそうな感じだ。

昼飯をガソリンスタンドに併設されていた食料雑貨店兼レストラン(と看板にあったが、イメージは食堂)でとる。店内に日系1世らしいおじいさんが一人でビールを飲んでいた。こんにちはと挨拶すると、こんにちはと返してくれるが、会話は特にせず。

隣の席の人と同じものを注文。白米、蒸かしたキャッサバ、レタスとトマトのサラダ、目玉焼き、牛のステーキ、炊いた黒豆などが出る。味付けは基本的に塩のみという感じで、さらに塩気がきつい。毎日、汗を流しているわけではない自分のようなものにとっては、ちときつい。

その後、宿に帰る。午前中、移民資料館などの案内を頼んだところ、16時頃すぎになるというので、それまで宿で過ごす。テレビ、マンガ、持ってきた本などで時間が過ぎる。

テレビで見たのは、NHKの社会シミュレーション学とかいうのをやっている学者と爆笑問題がやりとりする番組と”そのとき歴史が動いたー後藤新平編”。

社会シミュレーション学というのは、異なる専門の人たちが一緒に問題を考えられる材料を提供するという役割を目指しているらしい。この番組で例に挙げられていたのは、感染症のシミュレーションで、感染症のデータや都市計画のデータなどをパソコンに覚えさせ、ある政策を取ったときにどういう結果になりえるのかをシミュレーションし、その結果を材料にしてよりよい解決策を考えていく。そういうようなことが主旨だった。

結局、18時になってもお呼びがかからず、資料館行きはなしに。後でわかったが、こちらが宿の受付までいかないといけなかったよう。宿にいれば呼びに来てくれると勝手に思っていたのが、まずかった。

宿には大挙して新たな客が来た。どっかで出会った7人で来たという。男女7人でだいたい20代っぽい。

18時頃、宿のオーナーらしきおじさんが彼らにちょろっと話をしていたのを途中から聞く。入植当時は、蛍を捕まえてその明かりで勉強していたという人もいたらしい。移住資料館についての説明でJICAの名前が出る。話を聞いていた8人ほどの旅行者にJICAを知っているかと聞く。知らなかったのは1~2人のみ。

パラグアイにいる利点としては、パラグアイでは移住した当時は別として食べ物に困ったことがないし、困ることもこれからなさそうとのこと。日本の食料自給率の低さ、また農業従事者の高齢化を考えると、確かにその点では何かあったとき日本よりもパラグアイの方が安心だろう。またパラグアイには石油がやウランが埋まっているという話もあるらしく、これからのエネルギー争奪戦の中にパラグアイが供給国として入る可能性もあるというようなことを言う。

そんな話を最後に、旅行ばかりしてないでもう少しそういった世界の動向にも関心を持った方がいい、というようなことを言う。

話の後、旅行者の間で若干、JICAの噂話になる。マラウイでは会う日本人はほとんどJICAの人らしかったという話やずいぶん無駄なことをしているらしいという話が出る。

夜は昨日と同じレストランで食べる。今日はpor Kgというバイキング形式の量り売りの方を食べる。バイキングのように20種類ほど料理が並び、それを適当に皿に盛りつけ、種類に関わらずとにかく皿に盛った分量×単価という仕組み。

料理は白米、炊いた黒豆、チャーハン、焼きそば、鶏の唐揚げ、牛肉とじゃがいもの炒め物、キュウリの浅漬け、白菜の漬け物、キャッサバ、味噌汁、パンなど。

その後は、宿に帰ってまじめに日記書きなど。

Fin

アスンシオンからイグアス移住地へ

08/06/04

6時起床。7時頃にカーテンを開けると外はすでに明るかった。

一階のレストランで朝食。日本人ばかり、しかもおじさんおばんが多くなんか違和感がある。テレビNHKにあわされていて、涼宮ハルヒの声優をしているという人がゲストに呼ばれ、インタビューを受けていた。

朝食はセルフだが、内容はもろに日本食でジャポニカ米の白米に味噌汁があり、海苔や生卵があった。洋式のメニューも用意されており、おばさま二人組はそれを食べていた。

8時過ぎに宿を出る。近くの通りからバスに乗る。

8時半頃、ターミナル着。バス会社の窓口が並ぶ二階でチケットを買う。40000グアラニー。

一階の両替屋で両替。やはりレートは悪い。街中では1米ドル=4030~4050グアラニーだったが、ターミナルでは一律4000。

警備員にチケットをみせ乗り場に入る。

バスはすぐに来て、乗り込む。バスはマイクロバス程度の大きさ。乗ったらすぐに寝てしまう。

目的の41km地点(というふうに呼ばれている)には約5時間後の14時前に到着。ここにパラグアイ最大の日本人移住地がある。

幹線道路沿いにはレストランとガソリンスタンドなどいくつかの店があり、ガソリンスタンドで今晩泊まる予定をしているペンション園田の位置を聞く。

教えてもらった方向に歩いていたら日本人らしい顔立ちの年輩の男女3人が商店の前でおしゃべりしていた。目があったのでかるく会釈をすると、おじさんが日本語で声をかけてくる。そして"園田さんのところを探してるの?”と日本語で聞かれる。そうです、と答えると、あそこだと行って教えてくれる。行き過ぎていた。

宿の隣には雑貨店があり、そこも日系の人が経営しているよう。ここで念願の耳かきをゲット。1万グアラニー(約250円)。ずっと探していたのだが、日本で使われているような耳かきはこれまでまったく見つからなかった。

3人部屋に案内され、そこで荷物を下ろし、移住地を見て回る。長袖のシャツを羽織って出たが、暑いので一度宿に戻り、半袖になる。半袖は久しぶり。南米と言ってもエクアドル、ペルーやボリビアの高地では長袖をずっと着ていたし、チリとアルゼンチンはやや寒かったし。

移住地内の主要な通りはアスファルトによる舗装ではなく、石畳と似た造りの道路が敷かれている。それ以外は、未舗装。土は赤茶けた粘土質の強い土。雨が降ったあとらしく、地面が湿っており、歩いているうちに靴底に土が張り付き、だんだん底が高くなる。

イグアス移住地内には両翼90mくらいの野球場も整備されている。90年代のヤクルト黄金期に活躍した岡林はここの出身。当時、選手名鑑を見ていて岡林の出身地がパラグアイとなっていたことに、へぇ、と感心した記憶があるが、まさかその彼の出身地に来ることになるとは不思議なものだ。

1kmほどアスンシオン寄りに行くと鳥居のある広場があり、農協がある。農協の前でがっちりした30~40代くらいの男の人がおしゃべりしていたが、使っている言語は日本語だった。

農協の経営するスーパーを見てみると、日本でなじみのある商品があるわあるわ。米からレトルトものからお菓子から日本製の商品がけっこう入っている。こちらで作られている味噌も売られているし、饅頭も売られている。

あんこの味を試したくて饅頭を購入。豆の品種の違いによるものなのか、それとも造り手の腕によるものなのかはわからないが、一般的な日本の饅頭のあんこよりも甘さがやわらかい感じを受ける。

家はコンクリートづくりの家が多い。

農地に続いているらしい緩い坂道を上っていくと見えてきたのは一面の大豆畑。はぁー、と思わず声が漏れる。どこが端なのかまったく見えない。

粘土質の強い土地でここまでの農地を築くのは相当な労力を要しただろうな、と思いつつ、端の見えない農地を歩いてまわろうという気力は起きなかったので、宿に戻ることにする。

晩飯は幹線道路沿いにある日系の人がやっているレストランに行く。19時頃行き、野菜いためを注文。山盛りはすばらしいが薄味好みのぼくには塩気がきつい。15000グアラニー(約400円)。

夜、イグアス日本語学校の子たちが書いた文集『はばたき』を読む。1999年度第14号。小学生低学年の部、高学年の部、中学生の部、青年の部とあり、計30人の文章が載っていた。最後の学校の教頭が書いた文に、”1号から14号までを読み返したところ、最初の頃の作品は生活感のあふれた力強いものが目立っていたが、最近は自分への問いかけ、悩みを訴える作品が多いようだ”とあったのが印象的。

18歳の女の子が書いたものは、自分の拒食症についてであったし、17歳の男の子は高校を決めるに当たって親とぶつかったこと(本人は商業高校に行きたかったが、親は農業高校へ行けと言い、またその通りにしてしまったよう)、そして卒業した今は何に向かって生きていけばいいかわからなくなっているということなどが書かれていた。

どこでも同じような問題が起こりうるのだと、改めて思う。

日中は半袖で十分なほど暑かったが、夕方以降は涼しく、寝苦しくもなく。

Fin

アスンシオンー路上で稼ぐ人たち、マテ、アサードなどなど

08/06/03(火)

日の光に目が覚め、窓から外を眺めてみるとすっかり景色が変わっていた。なんだか熱帯的な風景。無秩序に木々が生い茂っており、人の手は入っていないように見える。アルゼンチンを移動している間、見えるのはただただだだっ広い平原(パンパ)ばかりだったから、とても新鮮に感じる。

パラグアイとの国境に着いたのは朝の7時頃だった。雨上がりのようであちこちに水たまりがある。

ボリビアとチリの国境、またはチリとアルゼンチンの国境と違うのは、手続きする建物の周りに両替商のおじさんおばさんがうろうろしていたり、パンや菓子などを売っている人たちがいるところだ。

あとパラグアイということもあって、マイカップにマイ水筒を持ってマテ茶を飲んでいる人たちが多いのも新鮮。マテ茶はアルゼンチンも飲むらしいが、ぼくが行った先では飲んでいる姿を見ることはほとんどなかった。

出入国の手続きはスムースで特に問題なく通過。荷物検査もほとんどフリーパスのようなもんだった。

パラグアイ側には町の方へ向かうバスが止まっていた。これが廃車寸前、あるいは廃車にすべき車をまだ走らせているようなバス。パラグアイはボリビアに次いで南米で”貧しい”国らしいから、それがこうしたバスにも見て取れる。

道路はボリビアと違ってしっかりしており、舗装の状態もいい。

ときおり民家が見え、トウキビ畑が見える。

1時間ほどすると沿道に建つ建物の密度が高くなり、商店なども現れる。建物やバスなどの色具合と曇天の空模様が調和して、全体がくすんでいる感じを受ける。

しばらく行くと正面に大きな橋が見えてくる。パラグアイ川のよう。水量豊富で川幅も広いが驚嘆するほどではない。色はチョコレート色。フェリーのような船も見え、いかにも深そうだ。

8時半頃にバスターミナルに到着。ボリビアのラパスと比べればだいぶ小さい。アルゼンチンのコルドバよりも小さい。とは言え、発着所は20台くらいが同時にとまれるからそれなりには大きい。

バスを降りてターミナルの建物内に入ると、なんだか久しぶりだな、と感じられる風景が広がっていた。床に敷物を敷いていわゆる民芸品を並べて売っている女性が数人。皆床に座り込んでいる。床に座り込むスタイルはインディヘナスタイル。顔立ちからパラグアイの先住民と呼ばれているグアラニー族の人らしい。

ターミナルには土産物品店やネット屋などもあったが、一番目についたのが両替所。そんなにたくさん必要なのか?と思うくらいある。他ではたいていあっても1つ2つだが、ここには10ほどもある。

ターミナル前のバス乗り場に行き、中心街に行くバスを探す。いろんな番号のバスがあり、どれに乗ればいいかわからないため、とりあえず一服。バス乗り場がある歩道には串焼きやチョリソ(ソーセージ)を売る屋台が並んでいたので、そこでチョリソを1本買う。肉だけかと思ったらパンが付いてくるようで、ホットドッグのようにしてもらった。1本3000グアラニー(約80円)。意外と高かった。

店のおじさんに乗るべきバスの番号を教えてもらい、それを待つ。20分ほど待ってようやくバスをゲット。客が少なかったのが良かった。バスの料金は前払いで運転手に直接渡す。2400グアラニーほどだった。

建物や店が切れ目なく続く道を走る。道路の状態はあまり良くない。舗装はされているもののがたがた揺れる。バスの質も関係しているかもしれないが。

20分ほどすると両脇に屋台や露店がひしめいている地帯に出る。ここが市場らしい。ごみごみしていて物があふれ、あたりは汚れていてなかなかいい感じだ。うまいものがありそう。

そこからさらに10分ほど乗ったところで目安にしていた通りに着いたので降りる。地図を見ながらホテル内山田という日系人が経営しているホテルに向かう。

迷うことなく到着。近くまで行くと宿の前にいた人がそこそこと指を指して教えてくれた。

ガラスの扉を入ると”いらっしゃいませ”と日本語で迎えられる。見た目はこちらの人。日本語はたどたどしいが、用は足せる。

部屋代を聞くと17米ドル相当だったので、ちょっと躊躇する。割引がないか聞いたが、もちろんない。しばらく考え込むが、ここらは安くても10ドルちょっとはするようだし、ここは朝飯がついているから、まぁいいかと予定通りに泊まることにする。

部屋は12畳ほどもあり、ベッドはダブルででかい。2003年頃の週刊ポストやジャンプが合わせて3冊ほどあり。ありがたいのはJICAが協力して作ったパラグアイ国内の旅行ガイドがあったこと。歩き方よりもよほど詳しいし、日本人移住地の場所なども示されている。

風呂場をのぞくと違和感を感じる。何かおかしいと思っていたら原因は風呂桶だった。これまで泊まってきた宿では風呂桶など見たことなかったから、なぜか新鮮に映る。

もっと良い部屋に泊まっている人はでかい風呂にも無料で入れるらしい。

エレベーターなどに貼られている注意書きは日本語併記。

荷物を置いて外に出る。もし簡単にとれるようだったらここでブラジルビザを取ろうと、まずはブラジル領事館に行くことにする。

宿のすぐ前にはチーパ(キャッサバを使ったパン)を売っているおばちゃんが数人いたので、1つ買う。1個1000グアラニー(約20円)。大きなドーナツ型(直径15cmほど)。見た目はベーグルに似ている。食べてみると食感はちょっと発泡スチロール的。キュッキュッとした歯ごたえ。

ブラジル領事館の入っているビルまでは歩いて15分程度。1階の受付の男性にブラジル領事館について聞くと、エレベーターで階を教えてくれる。

領事館に入ると記入台で白髪の年輩男性が日本語で話しながら申請書に記入していた。窓口でビザがほしい旨を伝えると、申請書をくれ、チケットとか写真(5cm×6cm)などを持ってきてと言われる。写真のサイズが手持ちのものより大きいし、やはりチケットが必要。チケットはバスでも良いと言うが、ここからブラジルに入るつもりはないから、ここで取るのはヤメにする。

領事館のある通りから川までの間が繁華街になっていて、洋服屋やレストランなどが並んでいる。しかし、繁華街には人通りは少ない。

両替できるところはいくつもあったので、レートを見比べ両替。だいたいどこも1米ドル=4050グアラニー。それからまちの北東にあたるパラグアイ川沿いに行く。

川沿いには広場が作られているところがあり、そこから川辺までの間がガイドブックなどでスラム街と呼ばれている地帯になっている。外務省の安全情報によれば、去年だったかにはここに迷い込んだ日本人旅行者が射殺される事件があったらしい。

広場よりも一段低い地帯となっているため、上から眺める形でその様子をうかがうことができる。どの家もさびたトタンで屋根をふき、壁もとってつけたようなものが多い。家と家の間の通路の幅は3人並んで歩くのは難しいくらい。文字通り密集している。

ふらふらしていたら道ばたでおしゃべりしていた10歳くらいの女の子2人が声をかけてきて、ぼくが手に提げていたみかんが入っているビニール袋を指さし、1つくれないかと言う。5~6個買っていたので、1人に1個ずつプレゼント。

しばらく行くとスラム街の方へ降りていく道があり、その下り口には3人の警官が立っていた。ぼくを見つけた一人の男の警官が、寄ってきてぼくのポケットを指さし、中のものを見せろと言ってくる。ポケットには財布の他に手帳や懐中電灯、カメラなどを突っ込んでいたから、何かごついものが入っていると思われたらしい。全部取り出して見せると、警官は懐中電灯などをちょっといじくり返してくれる。そして、カメラなどを取られないよう気をつけろと言われる。

川辺を離れ、店が並んでいる通りに行く。英雄広場の近くなどには路上の物売りが多い。絨毯のようなものを売っている人もいる。途中、マテ茶を飲もうと歩道で商売していたおばちゃんから1杯買う。しかし、これがミルクティーのようなもので、マテ茶ではなかったようだった。

昼飯を食おうと例の市場に行く。バスに乗って近くで下車。チリといいアルゼンチンといい市場はさっぱりしていてあまりおもしろくなかったが、ここは違う。歩道にまで店があふれ、なんだかごちゃごちゃだ。市場としての建物があるのかどうかもわからないくらい。

コピーされたCDやDVDが大量に売られており、服や薬局で売られているようなもん(薬意外)も多い。屋内で肉を売っているコーナーに行くと裁かれたばかりらしい肉の他に白色の細長い風船のようなものが売られている。腸管か何か膨らましたものなのか?

一角に食堂があったのでそこで昼飯。適当に頼むとふかしたキャッサバと鶏のスープが出てくる。

市場は平行する3本の通りにまたがっており、真ん中の通りは歩行者天国でテント屋台がズラズラと並び、店を持っていない人は肩からさまざまな商品をぶらさげ、歩きながら声をあげ商売をしている。さっき行った中心街はあまり活気を感じなかったが、こっちには人がぎょうさんいて活気がある。

野菜や果物などの品ぞろえはボリビアなどとあまり変わりない。

市場のあたりをぶらぶら歩き回る。すると鉄板焼の屋台を見つけたので、こちらにも立ち寄る。メニューはリブや分厚いチョリソ(ソーセージ)などの肉のみ。暑く油をしいた鉄板で豪快に焼かれている肉を注文。小さなまな板のような板の皿に盛られて渡される。マンジオカ(キャッサバ)は無料のサービスのようで、蒸かしただけの短いマンジオカを数本皿に盛ってくれる。肉は1つあたりだいたい3000グアラニー(約70円)くらいのよう。隣で食べていた兄ちゃんは次々と違う肉を注文しては食い、マンジオカがなくなると、それも追加で頼み、がつがつ食べている。アルゼンチンにもこういうところがあれば、もっと楽しかったろうにと思う。

市場の一帯は裏道のような細い道がごちゃごちゃと伸びていて、適当に歩いているとだんだんどの辺りにいるのかわからなくなるほど。しかしこの市場は見応えはあり。

腹が膨れたところでまたバスターミナルに行く。明日、ブラジル国境に近いイグアスに行くから、そこに行くバスの時刻と値段を聞いて回る。どこも1時間おきくらいに出ていて運賃も50000グアラニー(約1200円)程度。

チケットは明日買うことにしてまたまちに戻る。

今は使われていない鉄道駅跡近くを通って新市街とガイドブックにあった地域に向かう。バスに乗ってそちらに向かっていると高級そうなスーパーや服屋などが車窓から見える。一方で交差点で洗剤水と窓拭き棒(固有名わからず)を持って、自動車のフロントガラスを掃除している親子の姿も見る。その親子の子どもの方はまだ10歳にも満たなそうな女の子で、母親の方はおなかの大きくなった妊婦だった。

ショッピングセンターの前で降りる。

立派なショッピングセンターでぼくでも知っているようなブランド洋品店やスポーツ品店が入っている。英語の本のみを扱っている本屋もあり。

すでに夕方を過ぎ、暗くなったので適当にバスに乗って変えることにする。宿近くに行きそうなバスを適当に見定め乗り込んでみる。が、これが外れ。まっすぐ行くべき所を右に曲がり、どこか違うところへ行こうとするので、あわてて降りる。

それからまたバスに乗るが、これがけっこうな満員バス。なので、この人等がどこまで行くのか興味がわいたのでしばらくのり続けることにする。隣の人と体が触れるくらいにぎゅうぎゅう。

バスが走る幹線道路はなかなかにぎやかな通りでときおり日系人っぽい看板を出した店もある。自動車関係の会社では日本製品であることをうちだしている店もある。

でかいスーパーやショッピングセンターも3カ所くらいにあった。

30分立っても客は降りない。1時間ほどたった頃にはさすがに店並は消える。客も最大事の7割程度まで減る。さすがにこれ以上乗り続けるのは面倒だなと思い、適当に降りる。

降りて気づいたが、走っていたのは一方通行の道だった。バスを降りたら反対側に渡って、そこでまたバスを捕まえればいいと思っていたのだが、それができない。しょうがないので串焼き屋で一本買った序でに店のおばさんにバス乗り場を聞く。

幸い近くにあった。そこまで歩いていき、バスを待つ。7時すぎだったが、まだ中心部に向かうバスは多く10分ほど待っただけでバスをゲット。

市場でまた晩飯を食おうかと思って、その近くでバスを降りたところ、これがもぬけの殻。昼間には、物があふれ、人も多く集まっていたのに人っ子ひとりいない。屋台くらい開いているだろうと思っていたが、それさえもきれいに閉まっていた。宿に戻る途中の道でも開いている店は2軒ほど。昼とはうって変わって静かで寂しくなっていた。こんなに早くに店が閉まるとは、ボリビアとは大違いだ。

宿を目指してあるいていたら、道ばたの段ボールを拾って回っている人とすれ違う。

宿には日本料理店が併設されていたが、さすがにそこで食べるお金はない。なので、近くでまだ開いていたキオスクみたいな店でエンパナーダ(炒め物のパイ包み)を2個買って、それを晩飯代わりにする。

あとは宿で過ごす。

Fin

2008年7月4日金曜日

コルドバからアスンシオンへ

08/06/02(月)

暗いうちに起き出し(と言っても7時頃だが)、日記書き。8時半から宿の朝食。コーンフレークにパンにチョコパイ。それから荷造りをして、バス代がなかったためまちに両替に行く。

さすがに平日ということでこの時間にはまちには多くの人があるいている。両替屋が集まっている地帯でレートを見比べてから両替しようかと思ったが、結局ATMで降ろす。

10時半に宿をチェックアウトしてターミナルに向かう。気温は高くないもののターミナルに着く頃にはすっかり汗だく。バス会社の窓口が並ぶ階でアスンシオン行きのチケットを聞いてまわり、13時前発のチケットを購入。お値段145ペソ(約6000円)。

ターミナルの上の階にスーパーがあったので、そこで昼飯代わりのパンを買って、ターミナル内のベンチでかじる。かじっていたら、若い男が目の前に来て、50センターボ(1ペソの半分=15円程度)をくれないかと言ってくる。”Porque(なぜなら)・・”と理由も説明する(その中身はわからなかったが)ので50センターボをプレゼントするが、なんでぼくのところに来たのか不明。

去っていく彼を目で追いかけていると、友達らしき男の方に行き、なにやら相談している。荷物から旅行者あるいは長距離移動者らしいことはわかるが、なぜぼくにという疑問は残る。

12時を過ぎた頃に発着所の中に入り、バスを待つ。12時半にバスが入ってきて、リュックを預け乗り込む。45分には発車。

乗って早々寝てしまう。

出発してから2時間ほどたった15時前、バスが止まる。渋滞か何かかと思っていたら、反対車線の奥の方からトラクターの行列がやってきた。広い布に何か言葉を書いているからデモのよう。結局2時間ほど動かず。

再び走り出し、しばらく線路と併走する。19時半ごろ、そろそろ飯が出ても良い頃だと思うが、20時になっても21時になっても出ない。

おかしいなと思っているところで21時半頃、サンタフェというまちのターミナルに到着。ターミナルに着くと、夜食の弁当が持ち込まれる。飯が出なかったのはこういう仕組みになっていたかららしい。

晩飯はなかなか豪華でワインやシャンパンも希望すれば無料で飲める。すばらしい。

ご飯を食べてしまえばあとは寝るだけ。

Fin

コルドバの郊外、未舗装地区、サッカー観戦?

08/06/01(日)

・コルドバの郊外
・カルフール
・子どもの祭り?
・サッカー場

まだほの暗い7時過ぎに起床。今日は日曜ということでのんびり気分。さて、何をしようかと考える。

10時すぎになってから宿を出る。やっぱり人は少ないし、店は昨日と同じように開いていない。

とりあえず近くのコルドバ大学の図書館を見学。閲覧室だけは見学することができた。四方の壁の本棚には背表紙がぼろぼろになった古い本が多い。何冊か手に取ってみると1950年頃の本だったり、もっと古かったりした。新刊書と思われる本は一見少ない。

それからまた外をふらふらする。ふと適当にバスに乗ってどっか行ってみようと思い、近くのバス停からバスに乗る。

バスは幹線道路を通って郊外へと進む。乗客は10人ほど。途中、通り過ぎた教会ではミサが行われているようで、教会の入り口まで人があふれていた。

幹線道路から右に入り、一軒家が並ぶ地帯に入る。それからさらに行くとこれまでとは違った雰囲気の地域に出る。

この一帯も一軒家が立ち並んでいる一帯だったが、それぞれの家は小さい。コンクリートで簡易に作られただけの家もある。なにより違うのはこの地域を縦断する道路(バスが走る道路など)をのぞいて舗装されていないこと。でこぼこの土の道路で、どこからきたのか水の流れが道のあちこちに見られ、排水設備がないから少しくぼんでいるようなところには大きな水たまりができている。

通りには人が多く、道ばたや家の小さな庭で遊んでいる子どもたちも多い。コルドバのまちなかだけ見ていたときは、こんなところがあるとは想像しにくかったので、多少驚く。

この地域でバスは終点。運転手に促され降りる。歩いていると小さなマウンテンの自転車に2人乗りをして遊んでいる男の子たちとすれ違う。こちらの2人乗りはハンドルとサドルをつなぐバー(?)やハンドル自体にのっかったりするので、見ていてそのバランス感覚には感心する。

歩いていたら数人の人がある方向に向かって歩いていくので、ぼくもそれについて行ってみる。後をついて緩い坂道を上っていくと、右手に大きな建物が見えた。

看板が見え、そこにはカルフールとあった。今日も開店している店は少ないからだろう、買い物客は多い。駐車場は全部で600台は止められるほどの規模があるが、使われているのは入り口近くだけ。駐車場には洗車をする人たちがおり、専用の機械・道具を使って買い物中の客の車を洗っている。そして、ときおり、今入ってきたばかりの車の主に声をかけ、営業をしている。

駐車場の車を眺めると、きれいな新しいタイプの車が大半ではあるものの、その中にときおりキューバ顔負けのものすごく古いタイプの車もある。

カルフールの店内はサッカー場ほどの広さがあり、食品類はもちろんのこと、衣類、電化製品、工具、文房具などありとあらゆるものが売られている。

本屋もあり、そこに行ってみて驚いたのが、池田大作のスペイン語版の著作が平積になっていたこと。日系人が読むのか、それとも非日系の人が読むのか気になるところ。

クリップがほしかったので、ここで購入。値段は150円ほど。

それから来た道を戻り、さっきの地域を歩く。道ばたで大人の男の人たち数人がペタングのような遊びをしているのを見る。この地域には商店が3つほどあり、そこは開いていて、一部の店には何を買うのか行列ができていた。

バスに乗って通ってきた道を戻り、バスを探す。これがなかなか来ない。30分以上待ってようやくバスをゲット。また終点まで行ってみる。

気がついたら寝ていて、また運転手に促され降りる。今度の地域はさっきの地域とはうってかわって、並んでいる建物からすると高級住宅街。こじゃれた外観の家が多く、外壁も立派。建物も2階建てなどが多い。はぁー、と思いながら、家々を観賞しつつまたバスを探す。

適当に大きい道路に出たら、そこでまたカルフールを発見。ここもでかい。

また30分ほど待ってバスをつかまえ、乗り込む。降りる場所を決めずにまた終点まで行こうかと乗っていると30分ほどした頃、大勢人が集まっている広場を発見。ドラム缶を半分に切ったジャマイカ語でいうジャークパンが見え、炭火らしい煙が見えていた。

これは降りなければならないと瞬時に判断。バスの広報のドアの前に立ち、ボタンを押して降りることを伝える。

やや戻ってさっきの広場に行く。広場に行って改めて見てみると、輪投げやサッカー版ストラックアウトのような手作りアトラクションが20ほど用意され、それぞれのアトラクションで3~10歳くらいの子どもたちが遊んでいた。もちろん子どもたちは親同伴。

日本でいえば、子ども会のような団体によるイベントのようで、父兄が作ったらしい安いクッキーやサンドイッチも売られていた。ぼくから見れば、たったそれだけ?というかなり単純なアトラクションも多いが、来ている子がどの子も熱心に遊んでいるのが印象的。このくらいの遊びで、これだけ熱中できるなんて安上がりだななんて思う。

しばらく広場を見学して、またバスをつかまえて乗る。今回もどこに行くかは決めず。

5~6人ほど客がいたが、30分もすると誰もいなくなり、運転手のおじさんがどこで降りるのかと聞いてきた。ちょうどそのとき、左手に警官が道路封鎖しているのが見えたので、これは何かイベントでもやっているなと思い、ここで降りると運転手に伝え、降ろしてもらう。

道路封鎖されている方へ歩いていくと、見えてきたのはサッカーのスタジアムだった。立派なスタンドのある大きなスタジアムで一部の観客はスタンドの最後部(最高部)の壁の上にまたがって熱狂的に応援している。

中に入れないかなと思い、一番近くの入り口の方に行くと何か糞くさい。その入り口には警官らが立っており、中に入ろうとする人たちの持ち物検査をしている。警官らはなかなかの重装備をしておりものものしい。

入り口にいた係員らしい人にチケットはどこで買えるかと聞くが、もうないという反応。入り口を変えてもう一つ奥の方の入り口に行くとそちらの方には馬に乗った警官、つまりは騎馬隊がいた。全部で20ほどもいる。さっきの臭いの原因はこの馬たちらしい。

ここの入り口でまた入れないか聞いてみる。そうしているところへスタジアムの中から、警官に右腕を背中の方にねじりあげられた10代後半から20代くらいの若い男の子4~5人くらいが連れ出されてきた。中で暴れたりでもしたのだろう。

こっちでもやはり入れないと言われる。名ので、今度は反対側の入り口に行く。そちらにも騎馬隊あり。やはり入ることはできなかったが、外からでもグランドが見えたので、そこで観戦しようかと思って立っていたら、入り口付近から離れるよう警官に言われたため、しょうがないので退散することに。

スタジアムのまわりではユニフォームなどチームグッズを売るおじさんたちが20人ほど。警官はおそらく合計70人ほど。コルドバだからまだサッカー観戦はおとなしいかと勝手に予想していたが、そんなことはぜんぜんなかった。

せっかくなので周りを徘徊すると小さめのショッピングモールを発見。その隣にはでかい施設があったので、ちょっと高いところから中をのぞいてみると、そこは競馬場だった。

そこからまたバス停を探して歩き回り、幹線道路からバスに乗る。

今回は宿近くの通りまで行くバスだったので、あとは宿に戻り、明日チェックアウトするため宿代をまとめて払う。宿代は1泊28ペソ(約1000円)だった。

Fin

2008年7月3日木曜日

ゲバラの家へ

08/05/31(土)

目覚めたものの、ガラス窓の外側の雨戸みたいなものも完全に閉められていたため、部屋は真っ暗。何時かわからない。不覚にも手元に懐中電灯を置いておかなかった。この部屋には天井に豆電球が1つあるだけだから、こういうときに不便。他の3人は夜中3時か4時頃に部屋に戻ってきたようだったから、電気をつけたくらいで起きるとは思えないが、それでも気を使う。

廊下は電気がついているので、時計を持って廊下にでる。7時を過ぎている。チリに入って以降、朝日が遅いこともあり、睡眠時間が長くなっている。ボリビアまではたいてい6時台に起きていたのに。

廊下にでてもほとんど声も物音もしない。だいたいみんな朝は遅いから、今のうちにと思い、1階におりパソコンの前に座る。そして、この3日ほどのぶんの写真のデータのバックアップをとる。ネットにもアップする作業をしたのだが、ブラウザーが途中で動かなくなってしまったりして、あまりに時間が
かかるので、途中でやめる。

8時前、すっかり外が明るくなる。朝食を食べにみんな降りてくる。ぼくは昨晩の中華料理が腹に残っていたのでパス。

9時半前に宿を出て、Alta Garcia(アルタガルシア)に行くためにミニバス乗り場に行く。ミニバス乗り場は昨日バスが着いたターミナルとは別の場所にあり、南市場(Mercado Sud)の裏手にあった。

バスに乗る前にこの市場を見てみる。がっしりしたタイル張りの建物だが、面積はとても小さく20m×20m程度。店も20店もないくらい。肉屋がメインで野菜屋は2店舗ほど。土曜だからかやっていない店もある。客もほとんどいないため、中は閑散していて寂しい。

一回りして、バス乗り場の方に出る。ワゴンとマイクロバスの中間くらいの車が10台ほど止まれるようになっていて、常にバス待ちをしている人たちがいる。車体に書かれている会社名がいろいろで、フロントに掲げられている行き先もいろいろだったため、一見しただけではどのバスに乗ればいいのかわからない。

なので、適当に車の運転手に聞いてみると、そこの階段を降りてサーミエントだと言う。サーミエントがなんなのかわからず、また階段を降りてもそこに乗り場はありそうになかったのだが、とりあえず言われたとおりに降りる。

すると階段を降りた地下にバス会社の窓口が10ほど向かい合って並んでいた。間のスペースは喫茶スペースになっていて、同じく並んでいるサンドイッチ屋などで買ったパンを食べている人たちがいた。

そこでやっとサーミエントが会社の名前だということがわかり、それらしき文字を掲げている窓口に行く。窓口には"Alta Garcia 4.75"という張り紙があった。

窓口の女性にチケットを一枚と頼み、100ペソ札を出す。チケットは日本で言うレシートのようなやつで、2枚組。1枚が乗るときに回収するチケットで一枚は控えのようだった。ちなみに釣りとしてもらったお札、特に2ペソ札はボロボロ。紙自体が古くなっており、あちこちが少しずつ破れている。

そのチケットを持ってさっきの乗り場に行く。チケットを買っている間にバスが増えていて、それらの中にSermientoのアルタガルシア行きのバスがあった。

ドアは閉まっていたが、中に人が乗っていたので自分でドアを開けて乗り込む。正面に向かって通路の右側が一人用の座席で左側が2人がけの座席。列は5列ほど。

乗り込んで5分ほどすると、ぞくぞくと人が乗ってくる。見ると入り口に運転手がいて、そこでチケットを回収していた。ぼくはてっきり車内で回収するもんだと思っていたのだが、違った。乗る手順が違ったようだが、チケットは持っているのでそのまま何もせずに乗ったままでいる。

バスは10時15分頃発車。乗り場自体が市街地からややはずれていたので、すぐに郊外に出る。人通りは少ない。また、食堂の類がないか見ていたのだが、2~3軒見ただけだった。

10分も走ると道の両側は広大な草原になる。農地なのか、放牧地なのか、それともただの空き地なのかはよくわからない。というのも、それらの土地には農産物らしきものは何も植わっていないから。一部、小麦か何かを刈った跡はあったが、他は何に使われているかわからなかった。

眺めていると、日があたってポカポカ気持ちよくなったので寝てしまう。

気づくと客のほとんどが降りていて、住宅街らしきところをバスは走っていた。男二人連れが、街角で降りたら残ったのはぼく一人。

運転席の後ろに席を移り、運転手にここがアルタガルシアかと聞く。”Si”と言うので、博物館に行きたいんだけどと言うと、"Museo de Che Guevara?"と聞いてくる。今度はぼくが”Si"と答える。その後で、運転手はぼくに国はどこかと聞いてくる。

ちょうど通り沿いに"Museo del Che"と書いた青色の標識が見え、ここから近いことはそれでわかった。運転手は、この先2区画向こうがそうだからと、近くで降ろしてくれる。

降ろされた通りは住宅街のまっただ中。しかも建っている家はどれも豪勢そうな家ばかり。こんなところにあるとは・・・と思いながら、運転手が教えて方向に歩く。

そろそろあるはずだがと注意して見ていたら、看板を発見。外見は他の家と似たようなものだったから正面に行くまでよくわからなかったが、入り口にそれだと示す看板があった。

小さな子どもを連れた夫婦連れが、車を前に止め、入り口で記念撮影をしている。

入り口のドアが閉まっていたので、一瞬、閉館しているのではと思ったが、入り口入ってすぐの前庭に開館時間が書かれてあり、それを見て開いていることを確認する。えらいことに日曜も開館しているよう。

木製のドアを入ると初老の女性が受け付けにいた。入館料3ペソ(約110円)は安い。女性はスペイン語がわかるかどうか聞いてくる。あまりわからないというと、プラスチックのファイルを取り出し、これに英語で解説が書かれてあるからとぼくに渡す。

先客は20代くらいの若い男3人組のみ。

ゲバラが少年時代を過ごした家が博物館になっており、その頃ゲバラが使っていた机や椅子、読んでいた本などが展示されている。また、3度の大きな旅(自転車でのアルゼンチン旅行、モーターサイクルダイアリーズの旅行、そして結果的にカストロ等と会うことになる最後のアメリカ大陸の縦断旅行)の行程や、その時に使った自転車(小型モーターを積んでいた)、旅先で取材を受けたときの新聞記事などが展示されていた。

最後の旅行の後については、現物の展示はほとんどなく、写真ばかり。もっともそれ以後についてはキューバのサンタクララの霊廟に併設されている博物館の方が詳しい。だから、両者はちょうど補完関係になる。

2006年にはフィデル・カストロやチャベスが一緒にここを訪れており、そのときの写真なども展示されている。また、小さい頃の遊び仲間だった人たちへのインタビューをまとめたビデオも見ることができた。

そのビデオによれば、ゲバラの家は比較的裕福で、父親はアリストクラート層(貴族?)の人間とばかり会っているような人だったらしい。だが、ゲバラは社会階層・階級(social classとあった)にこだわることなく、誰とでも遊んでいたらしい。

ゲバラの家族がアルタガルシアに移ってきた理由は、ゲバラの持病である喘息を治すことにあったらしい。医者からは激しいスポーツなどは止められていたものの、サッカーなどはみんなと混ざってやっていたらしい。また、母親に止められていた水泳も親にだまってシエラホテルでやっていたらしい。

本好きで学校に入る頃には文字をすでに読めるようになっており、中学の頃くらいにはアナトールフランスが出している本なども読んでいたと言う。

とにかく小さい頃はよく本を読み、また外で遊んでいたのだということが印象的で、キューバの子どもたちが同じように遊んでいたことが思い起こされる。

ぼくが入館してから続々と来館者が増える。一度にどかっと増えたので、おかしいなと思ったらコルドバからのツアー客だった。もちろんアルゼンチンの人も多い。

売店ではゲバラに関する本やグッズを売っており、ぼくもいくつかを購入。142ペソ(約4000円)。面白いのが、キューバで売られていたポストカードがここでも売られていたことと、ゲバラの肖像が入っているキューバの3ペソのコインがペンダントに加工されて売られていたこと。本物の硬貨かどうかは確かめなかったが。

2時間ほどでそこを出る。

あたりは豪邸ばかりで、人通りもほとんどない。店も少ないし、あっても開いていない。

次に行ったのは、ゲバラがそのプールで遊んでいたというシエラホテル。宮殿のようなホテルで新装されていて一段と近づきにくくなっていた。

ぷらぷらと歩いていても、整然とした家並みしか見えないのでとりあえずバス乗り場を探す。

そこへパカパカと小気味のいい音がしてきて、音がする方を見ると10歳くらいの男の子がまたがった馬が車道を歩いていた。今でも車道を馬が歩ける、しかも子どもが乗ってまわれるところが面白い。

ふらふらしていたらちょうどバスが来たのでそれに乗り込む。バスは市内をぐるっとまわって郊外に出た。

またもや途中で寝てしまい気づいたらコルドバのバスターミナルだった。

歩いて宿に戻る。途中の開いていたレストランで昼飯を食べる。何かよくわからず頼んだらきしめんのような麺にミートソースがかかったものが出てきた。挽き肉が肉団子のように固まっていて、量も多い。重さだけなら麺と肉と同じくらいなのではと思えるくらい。

さすがに土曜ということで、歩行者天国にある店は8~9割が閉まっている。開いているのは菓子などを売っている雑貨店とアイス屋、ピザやハンバーガーを出しているファーストフード店くらい。

ただ、フリーマーケットのような露店はズラズラっと並んでいた。人通りが多いのはそこくらいで、他は閑散としている。チリもそうだが、土日はみな何しているのかと不思議に思う。

宿に荷物をおいて、またふらふらとまちを見る。夕方18時くらいになると、みな家に帰るのだろう、バス停に行列ができていた。

晩飯は開いている食堂もないので、適当にスナック類でごまかす。

部屋のメンツがかわり、2人いた男が抜け、新たに女2人組が入る。言葉からイスラエルからの旅行者らしいことがわかる。

Fin