2008年6月30日月曜日

リオグランデからプエルトマドリンへ その2

08/05/29

気が付くとバスは止まっていた。辺りは真っ暗。しかし、目的地に着いたようではない。誰も降りようとしないし、乗務員からも何の説明もない。もっともこういうときに説明するなんて習慣はこちらの社会にはないようだが。

曇っている窓をカーテンで拭いて外を見ると、乗用車など数台も周辺に止まっていて、2人くらいの男の人が路上に火を炊いていた。

そのうち走り出すだろうと、また寝る。

しばらくすると、車内の電気が点き、テレビでミュージックビデオが流れ始める。こんな夜更けになんなんだと思ったが、念のため携帯の時計を確認すると時刻は7時半を過ぎていた。もちろん外は真っ暗。

乗務員のあんちゃんが、客に発泡スチロール製のカップ1杯の甘ったるいコーヒーとケーキ菓子を配る。これが朝食らしい。

バスは止まっていた場所からまったく動いていなかった。乗客の一人が乗務員のあんちゃんに何か訪ねる。8時がどうのと答えていたから、どうもこの先の州境のポイントか何かがそれまで開かないようだ。

8時頃になって、バスはようやく発車。8時半近くになってうっすらと辺りが明るくなる。明るくなってわかったが、雪が積もっているのかと思っていた右側は海だった。海の奥、東側の方が赤く染まりはじめ、それから10分もするとすっかり明るくなった。左手は相変わらずの広大な草地。

9:05 Comodoro Rivadaviaのターミナルに着く。ここで乗り換え。バスを降りてリュックを受け取り、ターミナル内に入る。バス会社の窓口がいくつもあり、その中から乗ってきた会社の窓口を探す。そこの女性にチケットを見せると、チケットのバスは別の会社のバスだと言われ、その会社の窓口はあっちだと教えてくれる。

そちらの窓口に行くと、同じバスに乗ってきた人がいた。また同じバスに乗るらしい。窓口には誰もいない。バス乗り場の方を見るとここの会社のバスが止まっていたので、あのバスかもしれないと思い、そちらに行く。バスの入り口にいたおじさんにチケットを見せると何かの文書と突き合わせ確認してくれる。

それでこのバスだと言う。リュックを預け、バスに乗り込む。

9時30分前にバスは発車。スムーズな乗り換えですばらしい。

発車すると朝飯が配られる。ただ朝飯と言ってもチョコパイとジュースのみ。ご丁寧にプラスチックのフォークが付けられているがまったく必要ない。

一軒家が並ぶ住宅街を抜け、しばらく起伏のある丘を走ると左手に風車が見えた。発電用の本格的な風車が数機。数は多くない。

天気はよい。だが、車窓から見える景色はやはり広大な草地。

14時、再度バスの乗り換え。乗り換えてすぐに昼飯が出る。

そして、15時にやっとこさプエルトマドリンに到着。立派なターミナルの建物内には売店が並び、壁には宿の広告ポスターがあり、丁寧にも宿泊費も書いてある。これはありがたい。

インフォメーションもあり、その窓口のガラス壁には宿の名前とそれぞれの宿泊料金を書いた一覧表が張られており、自分の予算に合わせた宿を一発で見つけることができるようになっている。こんなのを見たのははじめて。すばらしい。

とりあえず次の目的地であるコルドバに行くバスの時刻表と料金を調べる。ここもやはり20くらい窓口がある。4つほど聞いたところ1社だけ他よりけっこう安い会社があったが、その会社のバスは今日30分後に出た後は明日も明後日もないという。

しばらく悩む。当初ここで1泊する予定だったが、特に見たいわけでもないし、バスの安さは棄てがたいので結局、チケットを買う。

ちょっとの空き時間のうちにクッキー、パンを買う。クッキーは計り売り。

バスは予定通り16時に出発。18時前には日が暮れる。

Fin

リオグランデからプエルトマドリンへ その1

08/05/28

携帯のアラームで目覚める。6時前。同室の人を起こさぬよう懐中電灯を取り出し、荷造りをして部屋を出る。

宿の玄関が開いていなかったので、明かりがついている受付らしきガラス張りの部屋の人に聞いて開けてもらう。外はもちろん暗い。が、幹線道路沿いだから外灯のおかげでずいぶん明るくは感じる。時間は6時40分ごろ。

人通りはまったくない。宿のすぐ近くにバス停があったが、そこでただ待っているのももったいないので、ターミナル方面に歩いていく。中央分離帯の電光温度計の表示はマイナス2度。まぁまぁ冷える。

10分ほど歩くとバス停でバスを待っている女の人がいたので、ぼくもそこでバスを待つことにする。

15分ほど待った頃にバスが来る。ターミナルまで行くバスか定かでなかったし、運転手にも行き先を聞かずに乗ったため、どこに行くかよくわからなかったが、昨日ターミナル近くでみかけた路線バスのようだったので、乗ってみた。車内はがらがら。おかげで座席に座ることができる。

バスは予想していたルートとは違った。まっすぐ行くだろうと思っていた通りを左に曲がり(後で思えばこのとき降りれば良かった)、さらに細かく左右の角を曲がりながら走る。

乗客は少しずつ増え、工場が集まっているらしい地帯でどさっとおりる。住宅街に入るとまた少しずつ乗客が増える。特に小中高校生らが多くなる。暗いまちを縫うように走り、1時間後には泊まっていた宿の前に戻った。どうもこのルートで一巡らしい。

1周のルートがわかったので、さっき逃した場所で降りようと思っていたら、さっきは左に曲がった角を右に曲がる。え~と思ったが、この頃には車内は満員ですぐに飛び降りることができず、またこの人らがどこに行くのかも気になって乗り続けることに。

まったく通ったことのない通りを走り、学校前で子どもたちがごそっと降りた。

そして車内には誰もいなくなり、一人だけになる。終点でまたバスを乗り換えればいいかと思い、そのまま乗り続け、アパートが建ち並ぶ地帯に入り込んだところで降ろされる。同じ系統のバスがあるが、どうもしばらく出そうにない。あたりは人気はなく、アパートも古めかしいものばかりで落書きが目立つ。

幸いタクシーが停まっていたので、運転手に行きたいところを言うと、この車は予約客がいて乗せることができないという。その代わり無線でタクシーを呼んでくれる。素直に歩いていれば、今頃ターミナルに着いていただろうに余計な出費が増えてしまった。

30分くらい待つことになるかな、と覚悟していたところ、タクシーが通りがかる。呼び寄せたタクシーかどうかはわからなかったが、とりあえず乗る。

運転手は30代位の若いあんちゃんで、いろいろ話しかけてくる。アパート地帯から乗ったからだろう、あんちゃんは友達の家にでも泊まったのかと聞いてくる。わざわざ本当のことをしゃべる必要もなかろうし、またそれを説明できるほどスペイン語ができるわけではないので、そのとおりだということにする。

どれくらいいたのか、どこから来たのか、どこに行くのだといったことを聞いてくるので、適当に答える。

話ながら走ること15分ほどでターミナルに到着。タクシーのメーターは8ペソだったので、10ペソ札を渡すとグラシアスと言ってつりをくれることなく、笑顔で去っていった。

時間は8時。ちょうど日が昇ってきてまちの端の方から光が射しはじめる。8時半にターミナルに来るよう言われていたので、時間には間に合った。

チケットを買ったバス会社の窓口に行くとバスは9時だという。それまでターミナル内にあるベンチで待つことにする。

ターミナルにはレストランと売店が併設されており、客は少ないものの、建物内は明るい。トイレもきれいでかつ無料で使えるのが良い。

売店をのぞくと英語初心者向けの英語・スペイン語併記の薄い物語本があったので買ってみる。1冊5ペソ(約180円)。2冊買う。それを読みながら待つ。

9時過ぎに何も停まっていなかったターミナルにバス2台が入ってくる。1台はウシュアイアからのバスで、1台はリオガジェゴスに行くバス。ウシュアイアからやってきた旅行者の中には、ウシュアイアのまちで見たことある人もいる。一昨日早起きして5時過ぎ発のバスに乗っていれば、昨日の宿代は浮いたのにと今更思う。

9時15分、ほぼ予定通りにバスは出る。車内が暖かいためさっさと眠り込んでしまう。

ウシュアイアに行くときに通った同じ道をバスは走る。景色はだだぴっろい放牧地が見えるばかり。

昼前に再びチリへ入国。質問も何もなくすんなり通過。

国境を越えても広大な草地の風景は変わらず。ときおり羊や牛、リャマに似たグアナコという動物もいる。

13時18分、道が途切れる。マゼラン海峡(スペイン語ではEstrecho de Magallanes:エストレチョ デ マガリャネス)に到着。渡し船が接岸するのをしばらく待って、バスのまま乗船。前回乗ったときよりも風が強く、多少波もある。『ラテン・アメリカを知る事典』によれば大西洋と太平洋をつなぐこの海峡は約600kmもあるらしい。マゼランがここを”発見”したのは1520年。およそ500年前だ。よくもまぁわざわざスペインからこんなところまで来たものだ。

海峡を渡る間はバスから降りて、船の縁の甲板にあがり吹き付ける風を受けながら新鮮な空気を吸う。といきたいところだったが、他の客がタバコを吸っていてその臭いにいらつく。

20分ほどで対岸に到着。陸地に上がればまた同じ景色。

14時20分、チリ側の国境に到着。出国手続きの担当官は前にここを通ったときと同じ人。日本語で”コンニチハ”、”サヨナラ”と言ってくる。手続きはすんなり終了。

しばらく国境地帯をバスで走り、今度はアルゼンチン側の国境に到着。みなバスを降り、入国手続きをする。これもすんなり終わる。

再び草原の中を走る。寝る。

15時半すぎ、住宅などの建物が多くなり、道幅も広くなる。

15時47分、リオ・ガジェゴスのターミナル着。思いのほかターミナルは大きい。バス会社の窓口が20ほど並んでいる。チケットに書いてあったバス会社の窓口に行くとバスは夜19時らしい。まだ3時間もある。まちに行こうかとも思ったが、荷物を預ける代金が10ペソ(約400円)ほどと高かったため、おとなしく待合スペースで待つことにする。

暇なのでターミナル内のアルゼンチンの売店を眺める。日本と違うのは駄菓子屋のように1個単位でお菓子などが売られているところ。しかもチョコレート菓子が多い。値段を聞いてみると1個だいたい50円。高い。

待合いスペースには100人ぶんほどのベンチがあるが、ほぼ満席。屋根からはテレビがぶら下がっている。

近くにでかいスーパーのような建物が見えたので、暇つぶしに行ってみる。幹線道路沿いの道を歩いていくと途中の小さな広場でサッカーをしている4人くらいの子を発見。アルゼンチンで初だ。

スーパーは行ってみるとまたもやカルフールだった。入ると荷物をチェックする係員がいて、止められる。店内を見て回ろうかと思ったが、荷物を預けたりしないといけないようで面倒なのでさっさと出る。

おとなしくターミナルに戻り、本でも読んで待つ。

19時すぎバスが入ってくる。ターミナル内にアナウンスが流れる。驚いたことに英語のアナウンスもあった。

バスに乗り込み、19時25分ごろ発車。発車すると添乗員のお兄さんが客に自己紹介。すぐにテレビでビデオが流れる。

リッキーマーチンのコンサートビデオや尾崎きよひこに似たメキシコの超有名歌手のビデオ、それからディズニーアニメが立て続けに上映される。

20時半ごろ、晩ご飯。添乗員が膝に乗せるためのトレイを配り、それから飛行機の機内食と同じように弁当を配ってまわる。内容は肉、レタス巻き用ご飯、パン、ゼリー、じゃがいもペースト。肉は温かく量もそこそこある。

食後、寝る。

23時40分、売店の前でバスが停まる。休憩らしい。バスを降りて店内に入る。店内にはアルゼンチンらしく革製品やマテ茶セットなども売られている。

0時05分、バスは発車。座席間のスペースは充分あるからゆったりと眠ることができる。

Fin

2008年6月29日日曜日

もう1つの100周年祭

詳細はまた書くとして、昨日の速報を。

昨日(2008.6.28)、ブエノスアイレス市内にある民族博物館に行ったところ、そこで発行している機関紙にOkinawaという文字を発見。スペイン語ではあったものの写真といくつかの単語と日付や住所から沖縄出身の画家に関する展示会が行われるらしいということがわかり、かつその開催期間に今週末も入っていたので、さっそく住所を頼りに行ってみました。

住所の番地の前に来ると立派な建物があり、中には大勢の日系のひとたち 。ポスターには"沖縄アルゼンチン移住100周年"と書かれており、新聞にあった期間中は沖縄文化祭が開かれるとありました。
その建物は在沖縄県人会(だったかな)が運営している建物で日本式でいう2階には沖縄料理店もあり。

here:在アルゼンチン沖縄県人連合会

大ホールでは18歳以下のア子どもらによるル歌のコンクールが行われていました。歌はすべて日本の歌できよしのソーラン節やなんとかじょんから牛節ゼなど多少は聞いたことのある演歌から、シベリア鉄道、博多発なんとかというン聞いたことのない歌、それから最近のヒット曲である三日月(Yuiだっけ?)やタイヨウノウタ、Good bye days、涙そうそう、島んちゅぬ宝、Best Friends、それからぼくには懐かしい壊れかけのラジオンやSay yesといった歌を披露していました。あと松田聖子のあなたに逢いたくて
もあり。

びっくりするほどうまい子もいて、のど自慢よりも見応えあり。

まさかブエノスアイレスでじょんから節などを聞くとは思わず、おそらく歌詞の意味を分かっていないだろう9歳くらいの子が、
女の道を歌っているのはなかなか不思議な感じでしたね。

ちなみに進行表や曲目はすべてアルファベットだったため、なかにはRyoukaとだけあり、歌の内容が想像しにくいものもあり、これまた不思議な感じでした。ちなみにこれは歌を聞いて漁歌であろうということが分かった次第。

ホールの壁にはブエノスアイレス出身の大城クラウディアという人のポスターもあり。それからホールの壁のうえの方には沖縄県内のすべての市町村の旗と名前が
張られていてそれにもびっくり。

聞くと100周年
というのはブラジルのサントス港に笠戸丸できたひとのうちアルゼンチンにさらに移動してきた人から数えて100周年とのことでした。ちなみにアルゼンチンの日系移民の70%は沖縄系の人だそうです。

場内の会話はほとんどがスペイン語で若い子ほど日本語をしゃべるのはむずかしいようでした。

ブエノスアイレスでは今週末と来週末はアルゼンチンで賞をとったりした、日系の画家の展示会などが行われ、8月には大通りで沖縄太鼓を披露するイベントが開かれるようです。

Link
アルゼンチン沖縄県人移民100周年記念website
http://www.okinawaimin.com.ar/home.asp

大城クラウディア 沖縄民謡アルバム発表
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-29152-storytopic-6.html

「アルゼンチン日本人移民史」の紹介
http://fananikkei.exblog.jp/i17/

アルゼンチンに住む日系人について

アルゼンチンの日本人移民の子孫

アルゼンチン日系センター
http://www.angelfire.com/ak5/centronikkeiarg/



2008.6.29 9:50
Buenos Aires,Argentin

本:『出ニッポン記』

上野英信『出ニッポン記』現代教養文庫(1977=1995)

26
「それにしても、いかにも三井鉱山らしい労務政策であるといわなければならない。必要とあれば、手段を選ばず強引に労働力を確保し、いったん不要となれば、また同様にいかなる手段をつくしても廃棄する点、ただすさまじいかぎりである。筑豊の老鉱夫たちはいまも”人買い三井”と呼びならわして、そのあくどさを恐怖している」

33
(炭坑離職者専用の農業訓練所に入所式にあたって)「35名の訓練生のいでたちは、なんの申しあわせもなかったが炭鉱時代の慣例どおり、作業衣に脚絆、地下足袋という坑夫スタイルであった。そして首には、これまた慣例にのっとって、ま新しい白色の手拭いを、きりりと襟状に締めていた。

その純白の手拭いは、暗黒の地底で坑夫の心意気を示す、唯一最高のおしゃれであり、贅沢であると同時に、負傷のさいには包帯ともなり、ガス爆発のばあいは水にひたしてマスクともなる。このうえなく大切な救命用携帯品でもあった。そして坑夫たちは、この一本の手拭いをぴーんと張って首に締めると同時に、身も心もひきしぼった弓の弦のように緊張しきるのがつねであった。

人生の新しい門出の儀式と思えばこその身だしなみも、しかし、官僚あがりの謹厳な訓練所長の眼には、このうえない不作法、不謹慎と映った。彼はただちに首からタオルをはずすよう注意したうえで、おごそかに訓示をはじめた。諸君は本日からすでに南米大陸の開拓地に入った気持で行動してほしい、と彼は要望し、「善良なる移民」になるよう、くり返しくり返し強調した。」

106 ある炭鉱出身者の言葉
「「たしかにパトロンの土地で働くほうが気は楽です。ただ私としては、パトロンの考えひとつで、まるで犬か猫のごと追い払わるる生活が辛抱でけんやったとです。戦前に日本から渡ってきたひとたちの中には、何十年も昔の頭のひとが少のうありまっせん。契約書を見てびっくりしたことがあります。パトロンに口答えをしたら即時退去、と書いてあるとですけん。」

107 日本人の旧移民から新移民に対しての要望事項
「一、俺たちより苦労しろ。
 二、八時間といわず、日の出から日没まで働け。
 三、食物に文句をいうな。
 四、寝る所に文句をいうな。
 五、労働賃金に文句をいうな。
 六、外国人よりも余分に働け。 」

168-169
(農業をやめて商売を始めた人に対し)
「「農業が嫌になったのですか」
 そう私が訪ねると、鈴木青年は次のように答えた。
 「いいえ、そうではありません。ただ、ひろいブラジルを狭く暮らすのが堪えられなくなったからです。もっとみなで力を合わせて団結すればよいと思いますけれども、たった30軒ばかりの人数でありながら、幾派にも分かれて、いつもごたごた、内輪もめばかりしているでしょう。愛想がつきましたよ」

私は彼の話を聴きながら、サンパウロで会った旧移民の苦渋にみちた言葉を思いださずにはおられなかった。ブラジル在住の諸民族の中で、もっとも子弟の教育に熱心なのは日独両民族であるという説をふまえて、そのひとは私にこう念を押した。
「たしかに10家族集まるとすぐ学校を建てるのも日本人です。が、それと同時に、10家族集まるとすぐ派閥を作って同胞相食み、共倒れするのも日本人です。そのことも見落とさないように」と」

196
「私がブラジルに到着して以来、折りにふれて炭鉱離職者たちから聴かされてきたことの一つは、「沖縄県人は羨ましい。新移民が入ると、彼が早く独立できるよう、先輩たちが力を合わせて援助する」ということであった。」

210-211
「「おなじ集団生活でも、なかなか炭鉱のごと仲良ういかんもんですなあ。お互いに陰口ばっかりいい合うて、しょっちゅう仲間われですけん」 ー略ー
「その点では、インディオたちのほうが遙かに立派ですばい。けっして仲間の陰口をいわんですけん。もちろんそのかわり、面倒なこともあります陰口どころか、かならず伝言せよと命じたことさえ、いっさい伝えませんね。それでなにか一つの仕事を命じる時でも、5人なら5人、10人なら10人、一人ずつ呼んでおなじことを指図せんとなりまっせんもんなあ。ばってんそれでも、日本人のように、いいもせんことが伝わるより、ずっとましですばい」

218
「これはブラジルで聴いた話だが、「日本人を一番信用していないのは、どの民族と追もうか。ほかのどの民族でもない。おなじ日本人の海外移住事業団である」という批判もあった。「彼らは日本人を信用しようとせず支配ばかりしたがる」と。」

230 パラグアイのドイツ人コロニアの言葉
「「一世は死 二世は苦しみ 三世はパン」」

271
「「はるばる地球の裏側までやってきながら、まだしょうこりもなしにおなじ日本人を差別する民族ですよ。他民族を差別しないほうが不思議でしょう。常日頃、親兄弟にも葉書一本出さんやつらが、いったんわが子の結婚話となると、書くか書かんか、夜の目も寝らんずく山ほど手紙を書いて、相手の家が未解放部落の出身ではないかとそれだけを血眼になって調べあげる人種ですから」
こう、私を睨み据え、吐いて棄てるようにどなる者もあった。」

「「船に乗る前から、神戸の収容所に入った日からいやになった」という声を、私はどれほど多くの炭鉱離職者から聴かされたことか。」

285-286
「「炭鉱離職者のみなさんはなかなかよく働かれますが、率直に申し上げて、”宵越しの金は持たん”という性格がわざわいしているように思います。うまい米は売って営農資金にまわし、自分は芋を食うて辛抱するのが百姓というものです」
なるほど、「百姓というもの」はそういうものかもしれないと思う。と同時に、炭鉱で長く働いたひとたちにとっては、かなり無理な注文であろうと思う。なぜなら、きょうあってあすない生命という点において、あるいはまたその日暮らしの不安定な流浪生活である点において坑夫と移民はあまりにも共通した部分が多いからである。
彼らは芋しか食えない仲間に米を食わせるためには、みずからは進んで芋をかじるのは好きであるが、金をためるために芋をかじるのは好きではない。」

417
「「ブラジレイロはほんとうにわたしたちを大事にしてくれますね。おなじ移民でも日本にきた朝鮮人のことを考えると、こんなに大事にされいいのかと思いますよ」」

560 1926年の沖縄移民再開にあたって日本政府が付けた条件
「一、15才以上の者は義務教育を終えた者にかぎる。
二、男女とも40才以下で、普通語を解しかつ女子は手の甲にイレズミなきこと。
三、家長夫婦は3年以上同棲したものであること。
四、家族は家長夫婦いずれかの血縁の者で構成し、養子にあらざること。
ー略ー」

本:『1789年ーフランス革命序論』

G.ルフェーヴル(高橋幸八郎ほか訳)『1789年ーフランス革命序論』岩波書店

18
「フランス革命の研究史にいて「農民革命」という範疇が初めて出てきたということは、農業=土地問題こそが市民革命の核心であるという問題意識が初めて歴史家のものになったということであり、ブルジョワ革命史がいわば最高の発展段階に到達した、ということを意味することになろう」

60-61 原因と対策
「当時の人々は、この不健全な財政状態の原因が、大臣と宮廷の恥知らずな浪費や、間接税徴収を請負う金融業者や直接税のあがりを一手に集中している多数の徴税官(これは官職保有者であった)のおそるべき利得にあると考えていた。 ー略ー 

しかしながら、いかに巨額とはいえ、この額は予算の6パーセントを超えていなかった。また、他の一般行政経費は予算の19パーセント、陸海軍・外交の経費は26パーセントであった。国王財政を押し潰していたのは、実は、負債の重圧であった。」

62-63 国庫収入の抜け穴
「実のところ、すべてのフランス人が同等に租税を負担していたわけではなかった。 ー略ー
要するに、アンシャン・レジームにおいては、富んでいればいるほど、租税を少ししか払わない機構になっていた。したがって、技術的見地からみれば、危機の解決は容易であった。すなわち全員に租税を支払わせれば事が足りたのである。」

90
「植民地貿易もまた、無視できぬ富の大きな源泉であった。「諸島(イル)」、すなわちフランス領アンティユ諸島、とくにサン・ドマングからは、砂糖・綿花・藍・煙草が運ばれてきた。他方、輸出の大部分も海路を通じて行われていた。さらんまた、「諸島」に対しては、当時「黒檀材」とよばれたもの、すなわちアフリカでの「取引」で入手された黒人奴隷を供給する必要があった。」

91
「一般に、工業は大商業の附随的存在であった」

94-95
「ブルジョワジーはその生活条件において極端な多様性を示しており、この多様性が彼らの生活態度のなかに反映していた。まず金融や大商業に従事する大ブルジョワジーは、パリや地方大都市の新興地域の華麗な館に住んでおり、上層アリストクラートと違う点とえば、出生だけであった。しかし、ブルジョワジーの大部分の者の生活は、これとは非常にかけはなれていた。ー略ー
とくに注目すべきことは、これらのブルジョワが民衆と密接な関係をまだ保っていたことである。」

97
「さまざまな種類のブルジョワの間に、アリストクラシーに対する共通の憎悪という何者も断ち切ることのできない絆がつくられた。」

138
「1789年の革命とは、なによりも、平等の獲得なのである。」

245
「革命的状況をもたらすうえで経済的危機は二重の効果をもっていた。すなわち、一方で、経済的危機は、農民をいらだたせ、その怒りを何よりもまず十分の一税徴収権者と領主とに向けさせた。これらの貢租徴収者が農民からその糧の一部を収奪していたのであるからには、経済的危機に苦しむ農民の怒りがまずそこに向けられたのは当然のことである。他方で、経済的危機は、貧窮民を激増させることによって、社会不安を全般化したのであり、その社会不安は、結局のところ、アリストクラートの陰謀のせいにされたのである。」

296-297
「人権宣言は、本質的に、アンシャン・レジームの死亡証書なのである。」

08/06/17
サンパウロにて

本:『インディアスの破壊についての簡潔な報告』

ラス•カサス(染田秀藤訳)『インディアスの破壊についての簡潔な報告』岩波文庫

18
「インディオたちは粗衣粗食に甘んじ、ほかの人びとのように財産を所有しておらず、また、所有しようとも思っていない。したがって、彼らが贅沢になったり、野心や欲望を抱いたりすることは決してない」

18-19
「彼らは明晰で物にとらわれない鋭い理解力を具え、あらゆる秀れた教えを理解し、守ることができる。ー略ー彼らは進行に関する事柄を知りはじめると、非常に熱心に、しかも、一層深くそれを知ろうとするし、教会の秘跡や神への信仰を実行しようとする。そのため、彼らの執拗な願いを受け入れるには、事実どうしても堅忍という特別な才能を神から授けられた聖職者たちが必要となるほどである。」

19-20
「スペイン人たちは、創造主によって前述の諸性質を授けられたこれらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日もつづいた飢えのために猛り狂った狼や虎や獅子のようにその中へ突き進んで行った。この40年の間、また、今もなお、スペイン人たちはかつて人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョーラ島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮していたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。」

21
「この40年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無ざんな所業のために男女、子供あわせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである。それどころか、私は、1500万人以上のインディオが犠牲になったと言っても、事実間違いではないと思う。」

22
「キリスト教徒たちがそれほど多くの人びとをあやめ、破滅させることになったその原因はただひとつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れるのを最終目的と考え、できる限り短時日で財を築こうとし、身分不相応な高い地位に就こうとしたことにある。ー略ー また、インディアスが余りにも豊饒で素晴らしい所であり、しかも、そこに暮している人びとが非常に謙虚で辛抱強く、彼らを隷属させるのがわけのないことであったからでもある」

39 サン•フアン島とジャマイカ島について
「1509年、スペイン人たちはサン・フアン島(プエルト・リコ)とジャマイカ島へ侵入したが(その2つの島はまるで実り豊かな果樹園のような所で、そこには巣に群がる蜂のように大勢の人がひしめきあって暮していた)、彼らの考えや目当てはエスパニョーラ島へ渡ったときと同じであった。」

43-44 キューバ島について
「この島に住んでいたインディオたちは、エスパニョーラ島のインディオたちと同じように、全員奴隷にされ、数々の災禍を蒙った。仲間たちがなす術なく死んだり、殺されたりするのを目にして、ほかのインディオたちは山へ逃げたり絶望の余りみずから首をくくって命を断ったりしはじめた。」

53 ニカラグワ地方について
「この地方の素晴らしさ、住民の健やかさと親切心、それに、多くの住民が、密集して暮しているその繁栄ぶりについて充分言いつくせる人はいないであろう。事実、この地方には驚くほど多くの村があった。それぞれの村は距離にして3、4レグワあり、そこには素晴らしい果樹がたくさん茂っており、そのために大勢の人が住むようになっていた。土地は平坦で広々としているため、インディオたちは山へ隠れることができなかった。また、生活が非常に楽しかったので、彼らは簡単にそこを離れられなかった。」

90 ユカタン王国について
「ユカタン王国はこのうえなく素晴らしい気候の土地で、そこには食物や果物がふんだんにあり、しかも、それはメキシコよりはるかに豊富であった。また、とくにこの王国では、これまでに知られているインディアスのどの地方より豊富な蜂蜜と蝋がが採れた。それゆえ、この王国には数限りない人びとが暮していた。」

149 ペルーの数々の広大な王国と地方について
「事実、その当時から今日にいたるまで、スペイン人たちは神父が計算した数の何千倍もの人びとを破滅へ追いやり、絶滅させた。ー略ー 今日にいたる10年の間に、彼らはこれらの王国に暮していた400万人以上のインディオを虐殺したのである(また、今日でも変ることなく殺戮は続けられている)。」

164
「インディアスが発見されてこのかた、どのインディオもキリスト教徒たちから悪事をはたらかれたり、強奪を受けたり、裏切られたりしない限り、彼らからキリスト教徒たちに害を加えたことは一度もなかった。インディオたちは、キリスト教徒たちの所業を見てはじめて、彼らがどのような人間で、何を望んでいるのかを知った。それまでは、彼らはキリスト教徒のことを不死身で、しかも、天から来た人だと思い、また、実際そのように彼らを歓迎していたのである。」

「スペイン人たちがインディアスに渡りはじめてから今日にいたるまでずっっと、彼らがインディオたちをまるで犬かその他の畜生のようにみなし、キリストの教えを説き弘めることに全然関心を示さず、それどころか、聖職者たちに多くの苦しみと迫害を加えて彼らの主な目的である不況を妨害していた」

読んでいてため息が出る本。よくもここまで殺したものだとうんざりする。ラスカサスは1500万人以上のアメリカ大陸の人びとが殺されたという。拙い鉄砲といくつかの武器があっただけだろうに、ここまで殺せるとは狂気の沙汰だ。どっかの論文か何かに当時のスペイン人が特に残虐であったわけではなく、我々と変わりのない普通の人であったというような視点を持ってみることが大切だと書いてあるのがあったが、これだけのことを見せつけられると少なくとも同じような感覚を持っていた人間だとは言えないだろう。

当時の感覚では普通であったというのなら、それもまたすごいことだ。しかし、一方でラスカサスのような人たちがいるわけであるから、やはり一部だろうが、狂った人たちがアメリカ大陸に多く渡ってきたと考えるべきではないか。

ラスカサスに望むのは、もう少し当時のインディオたちの暮らしを描いてほしかったということ。時折、引用したような記述が見られる。

『逝きし世の面影』とあわせて読むと、やはりそこにも一つの文明があり、価値観があり、充足した社会があったのだろうと思える。そして、それは徹底的に破壊され、亡くなってしまったと思うと、なんとも残念である。

もし、コロンブスが発見しなければ、あるいはスペイン人が殺し続けることなく、共存していればどんな世界ができていたのだろうか、と思ってしまう。

08/06/14
サンタクルスにて

本:新訳 君主論』

マキアヴェリ(池田廉訳)『新訳 君主論』中公文庫

112
「まず念頭においてほしいのは、ほかの君主国では、ただただ貴族の野望と民衆の驕りに対決すればいいのだが、ローマ皇帝のばあいは、兵士の乱暴と強欲にも耐えなくてはいけないという、第三の難問を抱えこんでいた。」

224
第3章「決断力のない君主は、多くのばあい中立の道を選ぶ」
第6章「なにかを説得するのは簡単だが、説得のままの状態に民衆を引きつけておくのがむずかしい」
第8章「恩恵はよりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない」
第15章「大事業はすべてけちと見られる人物によってしかなしとげられていない」
第17章「人間は恐れている人より愛情をかけてくれる人を、容赦なく傷つける」
第18章「人間は、手にとって触れるよりも、目で見たことだけで判断してしまう」

書かれてあることは、とりたててすごいこととは思わないが、こうした考え方が生み出されるような時代があったのだということの方が驚きだった。隙あらば他人の地を侵略し、領土を拡大することが各王にとって共通の関心ごとであり、一方領内でも王の地位を狙っている人たちがうごめいているという、荒々しい時代。戦国時代の日本もこのような感じだったのか?

08/06/14
サンタクルスで記

本:辺見庸『もの食う人びと』角川文庫、1994=1997

辺見庸『もの食う人びと』角川文庫、1994=1997

バングラディシュのダッカで残飯の残りを食べる話。ソ連の新兵の栄養失調による死、チェルノブイリの話、択捉のごぼうとふきの話、そして韓国の従軍慰安婦だった人の話。それからエチオピアのコーヒー原産地近くの村での話。どれも印象的だ。


353
辺見が中国人の古老から聞かされた言葉
「見えない像を見なさい。聞こえない音を聞きなさい」

365
船戸与一の解説から
「わたしたちはなぜ意味を欲しがるのか? あらゆる事象に意味を付加しなければならないとどうして考えてしまうのか? おそらくわたしたちは気づいている。意味は秩序を形成する。意味づけを怠れば世界は混沌としてしまうからだ。混沌が怖いのか? そうだ。怖い。それは秩序の崩壊なのだ。憎んでいても軽蔑していても秩序さえ存在していれば、わたしたちの価値観に揺るぎはない。」


2008.5.6 ラパスにて
YOHKOSOに置いていく

2008年6月28日土曜日

ブエノスアイレスいり

サンパウロからフロリアノポリスに21日に移動し、フロリアノポリスでのんびりしたのち、約30時間のバス移動をへて、4時間ほど前にブエノスアイレスに入りました。Buenos Aires(良い空気)という名前とは反対に街の空気はサンパウロより悪いですね。ただ、街並みはこちらの方がいいですね。冬ということでけっこう寒いかと思っていたら15度はあるので気が抜けました。

チケットが安い6月中にスペインか南アフリカに移動してしまおうかと思っていたのですが、土日にかかってしまうこともあり、うまく安いチケットが取れるか怪しくなってきたところです。何日ここにいるかはチケット次第ですね。

では。

池澤夏樹『マシアスギリの失脚』

池澤夏樹『マシアスギリの失脚』新潮文庫、1993=1996



110
「文化は異種の文化との接触によって内容を複雑化し、威力を増す。政治が異物をなにかと排除して統一性の中に力を求めようとするのとは対照的であることを、マスアスは早い段階で悟ることになる。」

224
「酔っぱらいというものは最も進化した平和的な動物である」

256
「進んだ資本主義では製造者でも消費者でもなく、間に立つ者がすべてを決めるという原理を彼はここで学んだ。物資でも思想でも、大事なのはいつも流れの中流あたりに身を置くことだ。」

353
「異国に行って異国の文化を学ぶ者にとって、究極の目的は、あなたはまるでイギリス人そのものだと言ってもらうこと。この自己滅却と変身の願望。これを措いて留学の喜びはない」」

参考文献
矢内原忠雄『南洋諸島の研究』1935
松岡静雄『太平洋民族誌』1941
松岡静雄『ミクロネシア民族誌』1943
高岡熊雄『ドイツ内南洋統治史論』1954

2008.5.6 ラパスにて
YOHKOSOに置いていく

『日本人ペルー移住80周年記念誌ーアンデスへの架け橋』

21
消耗率79%の桜丸

日系移民の受難の事件3つ
1、ペルー初期移民
2、フィリピンで稼ぎ移民:マニラ・バキオ間の250kmのベケット道路建設。消耗率34%程度
3、満蒙開拓移民:消耗率37.2%

22
日系ペルー移民の受難の背景
1、事前調査がなされていなかった。
2、移民たちの賃金、待遇など労働条件が来秘前の宣伝とはまるで違うと問題にした。
3、生活環境が激変して、とうていそれについていけなかった。
4、医療設備が極度に不備、ないのに等しかった。
5、伝染病、風土病の蔓延があげっれ、耕地はもろもろの病菌による万年汚染地帯であった。

山河のイメージが違った:緑がない

移民斡旋会社:盛岡商会

クーリーの歴史を調べる。→中国系移民

高橋是清の銀山開発

第一航海の出身地
山口県、新潟県       

62
日本語とケチュア語は類似している。
ペルー政庁の裏にあるビエドラ橋はミゲル・デ・シルバという日本インディオが参加して架けられたもの
→九州の諸大名はスペインやオランダの商人に奴隷を売っていた。

2008年6月16日月曜日

サンパウロいり

今日、16日(月)朝の8時半すぎにサンパウロに着きました。昨晩、カンポグランデを出たのですが、バスの中が寒く、なかなか眠れなかったのは予想外でしたね。ブラジルのバスは立派だったので、アルゼンチンやチリ同様、寒ければ暖房が入ると思っていたのですが、見事に期待を裏切られました。エアコンが壊れているのか、使えるけど使わない主義なのかよくわかりません。

それにしてもサンパウロはさすがにでかいですね。地下鉄もそこそこのラッシュだし。

地下鉄に乗ってみて面白いなと思ったのが、行列を作って待っているのに、そこそこ車両が埋まったら無理に乗り込まないというところです。東京の感覚からすれば、まだまだ入る(乗車率で言えば8~9割。隣の人ととの間には十分隙間がある)と思えるのですが、みなある程度になると乗り込むのを辞めてしまう。電車は2~3分置きにくるので、見逃してもたいして待たないのですが、それは東京なども同じ。この辺の習慣の違いがなかなか興味深いですね。

ところで、リベルダーデという地区が東洋人の多い地区のなのですが、そこにバックパッカーに有名な宿があり、そこに泊まることにしました。レアル高のせいか1泊20ドル近くとかなり高いのがネックですが、ここに来たのもこのあたりを見るのがひとつの目的なので、試しに泊まることにしたわけです。

いま、ちらっとまちを歩いてみたのですが、ロサンゼルスのリトル東京と比べても規模がでかいですね。スーパーではすしやおにぎりを売っているし、たこ焼き屋もあるし、焼き芋も道端で売っているし。なかなかすごいです。

ここには3~4日ほどいて、また南に向かう予定です。

では。

2008.6.16.11時25分
Sao Paulo,Brazil

2008年6月15日日曜日

カンポグランデ(ブラジル)いり

今ほど、ブラジルのカンポグランデに着きましたに。ボリビアのサンタクルスから約30時間ほどかかりましたかね。ダイレクトだと思っていたバスは4回も乗り継ぎがあり、かなりの金を払っていたので、どうもだまされたようでした。

さて、ブラジルは日本人移民が入ってから100周年ということで明後日16日にはブラジル政府主催のセレモニーがブラジリアであるようです。そのほかサンパウロでも今週は100執念を記念したイベントがもりだくさんのようです。

明日か明後日にはサンパウロに移動します。
では。

参考
ニッケイ新聞
http://www.nikkeyshimbun.com.br/

みんなでつくる移民百年祭
http://www.100nen.com.br/ja/

100周年委員会
http://www.centenario2008.org.br/index.php?option=com_content&task=blogsection&id=6&Itemid=152&lang=ja

2008,6,14 21:40
Campo Grande,Brazil

2008年6月12日木曜日

初雪、インディヘナの博物館

08/05/26(月)

・初雪
・ヤマナ博物館 

目が覚めたのはすでに明るくなってからだった。窓から外が明るくなっているのを見て、すっかり寝過ごしたことを悟る。時計を見ると予想通り9時を過ぎている。夜中に2度ほど目が覚めたけれども、これほどまで寝るとは。

特に遠出する用事もないので、午前中は宿にいることにする。10時頃、屋根をボトボト打つ音が聞こえてくる。窓から外を見ると、雨粒に混ざって白いきらきらしたものが見える。

そのうち屋根を打つ音は消えたが、雪がしんしんと降り始める。この調子で降り続けば1日で1mは積もろうかという勢い。

昼過ぎ、宿をでる。前の通りは新雪のおかげで滑りにくくなったが、そのぶん靴が湿る。例のごとくコレクティーボはすぐには来そうになかったので、雪の中、セントロに向かって歩く。一つ目のカーブを曲がると、それまではなかった風が急に吹いてくる。どうも風の通路になっているよう。真っ正面から雪が吹き付け来るから、目を開けるにも一苦労。

気温計を手に持ち、計っていたら2度まで下がった。手袋をしていないので、あっと言う間に手の感覚がなくなる。

左手に持ってた温度計を右手に持ち変えよう立ち止まっていたところ、脇をコレクティーボが通り過ぎる。ああああ、また30分近く待たねばならない、などと思いながら、とにかく次の停留所まで歩く。停留所まで行くと小屋があるので、そこで風はよけられるからずいぶん寒さもやわらぐ。

10分ほどでコレクティーボが登場。1.5ペソを払って乗り込む。

中心部の入り口で降りる。まずは近くの博物館に行こうと思い、そちらに向けて歩く。が、途中、レストランがあったので、そこに入る。小さいレストランだったので地元の人向けかと思ったが、でてきたメニューには英語が併記されていて、値段もけっこうする。なので、表の看板にあった18ペソのわりかし安いMenu del dia(今日のメニュー:ランチメニューみたいなもの)を頼む。

Menu del diaというメニューは南米では一般的にあり、ボリビアなどではたいていスープとパンとメイン、デザートというセットだった。アルゼンチンもそんなものかと思っていたら、でてきたのは、パンとラザニアみたいな料理だけ。まだでてくるだろうとしばらく待っていたが、何も出てこないので諦めて代金を払って出る。

それから気になっていた博物館に行く。MUSEO YAMANAという博物館で、パタゴニアのいわゆる先住民のことを紹介しているところ。

入場料10ペソ(約400円)。博物館は3室しかなく、最初の部屋はいわゆるグレイトジャーニーの説明。ここに最初に住みついた人々は、ベーリング海峡を渡って南下してきた人と太平洋の島から船で来た人とがいるらしい。

説明文はスペイン語と英語の併記なので、わかりやすい。

次の部屋はヨーロッパ人の進入をテーマにした部屋で、いわゆる大航海時代に使われた船のルート及び、その後の征服の過程などを簡単に図示している。

その部屋の半分と最後の部屋が先住民族の紹介。ここらあたりTierra del Fuegoには3つの民族がいて、ある民族では釣りはもっぱら女性の仕事だったらしい。女性は釣りに海に出て、男は陸地で狩りなどをしていたらしい。

また、衣服はふんどし程度で、家も縦穴式住居に近いような簡単な家に住んでいたという。それでどうやって冬をしのいでいたのか、とても不思議。

この民族の血をひく人たちは、今でもここらに暮らしているらしい。

先住民に関する本が数種類あったので、英語の本を1冊購入。また、ウシュアイアの歴史をまとめた本もあったので、それも買う。いつ読むのやら。また荷物が増えた。

それから郵便局に行く。郵便局に入ってすぐのところにはアルゼンチンの切手が展示されているコーナーがあった。マラドーナが活躍したワールドカップ大会の優勝を記念したものから、アルゼンチンの特徴的な風景や景色の切手、ボデガ(ワイナリーみたいなところ)の風景の切手、それから南極やペンギン、アザラシなどの切手など、コレクションとしても面白そうなものがある。

なので、コレクションとしていくつか買おうかと思い、窓口の人に言うと、ないと言う。3種類しかここでは扱ってしないらしく、博物館に行けばあるというようなことを言う。

じゃあ、またブエノスアイレスででも買えばいいかと思い、必要なぶんだけ買い、出る。

その後、本屋に行く。行ってみたら15時前だというのにお昼休み。午後は15時半からだという。相変わらず雪は降り続いており、メインストリートにはほとんど人通りがない。

そんなメインストリートの角っこで、このまち唯一の屋台が営業していた。チリでもずいぶん見た豆菓子とポップコーンの屋台で、足踏み式(なんのためかはわからない)になっているらしく店のおじさんはずっと足踏み代を踏み続けている。

こんな雪の日に、かつ人のいないところで商売するなんてと感心し、一袋豆菓子を買うことにする。1袋2ペソ(約90円)。

15時半を待って本屋に行く。さすがに観光地の本屋ということで、ロンリープラネットも中南米はほぼそろっている。

本棚を見渡して目をひいたのがチェ・ゲバラの本の多さ。2棚ぶんおそらく20種類ほどあり、写真集から分厚い単行本まで、英語とスペイン語それぞれの本が並んでいる。さすがにゲバラの出身国ということか。英語の本でゲバラの南米旅行について書いた本があったので、つい気になり、買ってしまう。55ペソ(約2000円)。2005年にアルゼンチンで出版された本のよう。

4時も近くなったので、宿に戻る。ここまで雪が降り、風が吹くとさすがにあまり外にはいたくない。

さっさと宿に帰り、あとは宿でのんびり。腹は減らないので晩飯は昨日に続きなし。今日、新たに2人、客が増える。一人はバイクで来たという人。ブエノスアイレスから3000kmほどを8日かけてきたらしい。

Fin

宿替え、人気(ひとけ)のないまち

08/05/25(日)

・晴れ
・上野山荘へ移動
・人気のないまち

7時過ぎに起きる。明るければ湾がきれいに見える窓からは、まだ月といくらかの星が見えるのみ。それにしても、この部屋は暑い。30度近くありそうだ。夜中暑くて何度か目が覚めた。

おかげで洗濯物の方はビシッと乾いている。しばし日記書き。

8時を過ぎてうっすらの海の奥が明るくなり始める。だが、すっかり明るくなったのは9時頃だった。

ここウシュアイアには日本人が経営している宿があり、そちらに宿を移ろうかと考える。宿宛てにはプエルトモンにいるときにメールを出したのだが返事が来てなかった。もしや冬季は休業しているかもしれないという考えもあり、とりあえず開いているかを確認するために宿まで行くことにする。

着替えて外に出る。それほど気温は低くない。5度くらいか。日曜ということもあってか、まったくと言っていいほど人気がない。海岸沿いの通りに行くと、車はそこそこ通るが歩いている人は見渡す限りゼロ。

この辺をバスが走っていないかとバスを探して歩く。駐車場に一台の大型ワゴンが止まっていたので、とりあえずその車に乗っている人に聞く。その女性に宿の住所を見せ、ここに行くかと訪ねると、この車は国立公園に行く車だからここには行かないと言う。そして、そこに行くならコレクティボだとさっき歩いていたMaipu通りの方を指さす。

駐車場近くにコレクティボ乗り場があったので、そこで待つ。これまでの国ではコレクティーボと言うと15人乗りくらいの大型のワゴンが相場だったが、ここでは違った。立派な小型のバスがそれで、もちろん客引きの人などは乗っていない。

運転手に行きたい通りを言うと、これは行かないと言い、2区画向こうの通りで待つよう言われる。それで坂道を2区画分のぼり、Deloqui通りでコレクティーボを待つ。

が、なかなか来ない。10分待っても20分待っても来ないので、これでは宿のチェックアウト時間の11時に戻って来れないこともあり得ると思い、奮発してタクシーに乗ることにする。

幸いタクシーはすぐに見つかる。乗る前にこれまでやってたように、行き先を見せいくらかかるか聞くと、運転手はメーターを指さしてこれで決まるからというようなことを言う。

そうかそうかと思い、タクシーに乗る。昨日は暗くてよく見えなかったが、まちを出るといくつもの山がけっこう近くまでせまっている。どの山もせいぜい1000mほどだが、すっかり雪をかぶっている。

宿までは10分ほどで到着。料金は9ペソ(約400円)。あたりは中心部とは違って木造の1軒屋が立ち並んでいて生活感がある。

宿のベルを鳴らす。しばらくすると白髪のおばあちゃんが出てくる。部屋が空いているか聞くと、大丈夫とのこと。なので、すぐに宿に帰ってチェックアウトすることにする。

さすがに帰りもタクシーとはいかないので、近くのコレクティーボ乗り場でバスを待つ。ここでもなかなか来なくて20分ほど待ってやっと赤いラインの入ったコレクティーボが登場。先払い制で運賃は一律1.5ペソ(約40円)。やっぱり安い。

コレクティーボの乗り場には風や雪をよけることができる立派な小屋がたっているが、その乗り場からではなくても、適当に手を挙げれば止まって客を乗せる。

宿の近くで降り、部屋に行き、荷物をまとめる。11時前にチェックアウトでき、一安心。一泊分の宿代34ペソ(約1200円)を払い、またコレクティーボ乗り場に行く。幸いここのコレクティーボは、チリ同様たいして込んでいない。それだけみんな車を持っているということなのだろう。これが大荷物を持っている者にとってはありがたい。

幸いなことに今度はたいして待つことなく、コレクティーボをゲット。11時半頃には宿に着く。

宿は木造の宿。トイレ、シャワーは共同で部屋は2人部屋を一人で使うことに。荷物をおいて、おばあちゃんの部屋で宿帳に記入。

出身はどこかと聞くので宮崎だというと、珍しいねぇ、と言われる。おばさん曰く、九州と東北の人はほとんど来ないらしい。もっぱら東京や千葉などの関東圏と大阪周辺などが多いらしい。

共同の台所やリビングには、ここに泊まった人たちの写真が何枚も張られている。さらに思い出ノートなるものもあり、そこにはここに泊まった人たちの感想が書かれてある。

また、日本語の本も100冊くらいはあって、中には最近の旅行者が置いていったらしい今年3月に出た女性のファッション雑誌(もちろん日本の)もある。

そうしたものを一通り見てから、昼過ぎに宿を出る。まずはバス会社探し。コレクティーボに乗ってまちの中心部に行く。バス会社にたどり着く前にピザ屋で昼食。アルゼンチンはイタリア系の移民が多く、ここのスペイン語はイタリア訛のスペイン語であるほど。それならピザもうまかろうと思って、入ってみる。

値段は16~40ペソ(約600~1500円)。20種類くらいある。安い19ペソのピザを頼む。店のおじさんは愛想がよい。ここの子どもなのか12~13歳くらいの男の子は、なぜかこちらをちょろちょろと見ている。テレビではサッカー中継。

ピザはでかかった。直径30cmはある。おもしろいのが、木のプレートとフォークとギザギザナイフが付いて出てきたこと。どうもここではピザは、木のプレート(半径15cmくらいの円形)に切り分けられたぶんをとり、フォークナイフで食べやすいサイズに切って食べるらしい。なお、タバスコはなかった。

満腹になったところで、バス会社探しを再開。ガイドブックの地図を見ていたがよくわからないので、インフォメーションに行き、そこで地図をもらい、さらに地図上にバス会社の位置を記してもらう。

それを持ってバス会社へ。バス会社のオフィスは小さいところだったが、表に時刻表が出ており、中に入ると料金表も貼られていた。なので、特に口頭で聞く必要なし。

港の方には船のツアーを出しているエージェントのオフィスが集まっていて、5組くらいの観光客が一部のオフィスに集まっている。ここから船に乗ってビーグル水道を通り、ペンギンやアザラシのいる島を見て回るらしいが、やっぱり値段はある会社なんかは130ペソ(約4000円)もするから冬場でも十分高い。

ぼくはまたふらふらとまちに戻り、コレクティーボに乗って宿に戻る。まだ16時過ぎと明るかったので、宿方面に行くコレクティーボの終点まで行く。一軒家の多い地域だと思ったが、一部には10階建てくらいのアパートが集まっているところもあった。また、郊外型のスーパーがあるかとも思っていたが、少なくともルート上には小さな商店がたまにあるだけでスーパーのような店はなかった。

宿に戻ってからは部屋で過ごす。

Fin

プンタアレナスからウシュアイアへ

08/05/24(土)

夜中の1時になんだか目が覚める。窓の外からは前の通りを走る車の音が頻繁に聞こえる。人の話し声も聞こえる。

ちょっと窓から外を覗いてみる。友達連れやカップルが家にでも向かっているのか足早に歩いているのが見える。金曜日の夜ということでみんな飲み遊んだ帰りなのだろう。

まちの中心のアルマス広場からふた区画のこの宿の周辺は20~30メートル置きに街灯が点いているから明るさは夕方過ぎと変わらない。

ベッドに戻りしばらくすると屋根をうつ雨音が聞こえてきた。

携帯のアラームの音で再び目を覚ます。6時になったらしい。もちろん外は真っ暗。夜中と変わらない。ただ、車の走る音や人の声はしない。

6時半過ぎに起き出し、出る準備をする。暖房は特についている様子はなかったのに部屋は十分暖かい。

そのおかげが昨日の雨で濡れた靴も靴下もほぼ乾いていた。

朝食用の部屋に行き、準備されていたカップにセイロンティのティーバッグを入れ、そこに電気式ポットのお湯を注ぎこむ。猫舌のぼくにはありがたいことにお湯はそれほど熱くなかったからすぐに飲むことができる。

カップの横には透明のビニール袋に入った小さな四角いパンと一口サイズのシフォンケーキがあって、これが朝食らしかった。

今は食べる気がしなかったので袋ごとポケットに入れる。

部屋に戻り、リュックを背負い部屋を出る。廊下や入り口に降りる階段の電気は自動でつくようになっているから宿主の見送りはない。床をきしませながら
勝手にドアを開け、宿を出た。

外はまったく人気がない。歩いてウシュアイア行きのバスを出しているバス会社のオフィスに行く。

気温は5度くらい。わりと暖かい。24時間開いているATMの前を通ったら中で座り込んでおしゃべりしているカップルがいた。そしてその奥には丸まって寝ている野良犬が一匹。あの犬はどうやって中に入ったのだろうなどと思いながら通りすぎる。

アルマス広場を左に曲がる。正面奥200メートルほどはマゼラン海峡。もっと北のまちであればすでに明るくなりはじめ、海峡も見えるのだろうがあいにくまったく見えない。

一区画海側に行った通りに目的のバス会社があるのだが、行ってみたらまだ開いていなかった。ゲゲゲっと思い、宿を早く出てきたことを後悔する。

昨日ここに来たときには、窓口のおじさんはバスは7時半発だが、7時にここに来るように言った。だから6時半過ぎでも開いているだろうと思ってきたのに。

雨がばらつき始める。近くのビルの軒先に座り込んで開くのを待つ。500メートルほど離れたところに工場があり、そこの稼動音が聞こえてくる。信号はパカパカと点滅していりだけで、まだ本格稼動していない。

20分ほど待ってようやくバス会社の入口のドアが開いた。

中に入ると昨日と同じおじさんがいた。身分証の提示を求められ、パスポートのコピーを見せるとそれを元にパソコンに情報を入力し、すぐにチケットを発券してくれる。

チケットとアルゼンチンの入国カードを受け取り、しばらく待合室で待つ。

7時過ぎ、窓口のおじさんに促され表に止まっていたバスに乗り込む。意外に客は多く、43人乗りのバスはほぼ満席。車体はたいして良くないが、テレビは薄型の液晶だった。

7時35分、バスは発車。昨日も通った道をとおる。海の方が少しずつ明るくなりはじめ、8時過ぎにようやく夜が明けた。

バスの中ではスペイン語オンリーの映画が始まる。

しばらくして乗務員のあんちゃんが、客にネッスルのチョコレート菓子と発砲スチロール製のカップ一杯のコーヒーを配る。コーヒーは缶コーヒー並みに甘い。

海沿いの道を外れるとあとは牧場らしい草地の間をひたすら走る。牧場の草は枯れて稲藁色になっていて、放牧されている家畜もいない。

そんな単調な景色が2時間半ほど続いた後、進行方向に海が見える。車窓からささやかな波が打ち寄せる浜が真横すぐ近くに見える。

バスはスピードを落とし、ゆっくりと海の中へと入る。ガタンという音ともに船体の内側が見え、バスごと船に乗ったことがわかる。なんともスムーズ。

すぐに船は浜を離れる。バスの右横には10トンはある巨大なトラックが乗りこんでくる。チロエ島に行ったときと同じように何人かがバスを降りる。ぼくも暑くて脱いでいた上着を羽織り、外に出る。船にはバスの他にどでかいトラックが4台ほどと乗用車が三台ほど載っていた。歩きなどの客はいない。

船の縁にあるデッキにあがり、あたりを見回す。雨は降っていないものの、雲が厚く薄暗い。風は強いけれども耐えられないほどではない。気温計で計った限りでは10度は越えている。

対岸には20分ほどで到着。こちら側に来ても景色は相変わらず草地ばかり。

海を渡り終えてすぐの10時半に、乗務員のあんちゃんが客に発砲スチロールのトレイにサランラップで覆いをしたサンドイッチを配る。あとカップ一杯の炭酸ジュースも。炭酸が苦手なぼくはゲゲゲっと思いながら、これも人生の試練だと言い聞かせ飲み干す。

それから10分ほどした頃、道が突然未舗装の砂利道になる。チリにも町外れに行けば未舗装の道はあったが、長距離バスの移動でこうした道をとおるのは初めて。

13時15分、国境地帯に到着。まずはチリの出国手続き。30分ほどで乗客全員がすんなりと終わる。

そこからバスに乗って15分ほどでアルゼンチン側に到着。こちらも質問も荷物チェックもなくすんなり通過。アルゼンチンはチリより一時間早いため、アルゼンチン入国はチリ時間の14時20分、アルゼンチン時間の15時20分頃となる。

14時45分、バスはターミナルに到着。みなバスを降りる。つられて降りてみるとリュックが荷台から降ろされていた。どうもここでバスを乗り換えるらしい。ついでに昼飯休憩になるのかと思い、聞いてみるとすぐにでると言う。

腹は特に減ってなかったが、昼休みなしで走るかなんて珍しい。もっとも運転手らはこれを機に変わったのだが。

ここリオグランデは、車窓から見た限りではけっこうでかいまちだった。まちはずれには鮭の大きなモニュメントがあり、台にBienvenido A RIOGRANDEと書かれている。

すぐに小さな川にかかる。その川には分厚い氷が浮いていて、いよいよ本格的に寒いところに入ることを感じさせる。

車窓から見えるのは、ただただ、枯れた放牧地ばかり。奥には雪をかぶった山々が見える。そしてときおり羊や牛が現れるが、その数は少ない。

17時頃には、暗くなってしまう。暖房が効いていているので、ボリビアのように車内で寒い思いをすることはない。しばし夕寝。

目が覚めると、窓の向こうが白っぽかった。窓に顔を近づけ、よく見てみるとあたりはすっかり雪。路面にも雪が積もっているし、道の両脇はすっかり白く覆われている。

くねくねしたゆるい坂道をバスは走っていき、しばらくすると、正面にまちの明かりが見えてきた。

下り道をおりると銀行などの店がちらほら見える。そして、海辺の道に出てターミナルらしき建物も何もない駐車場でバスは停まった。

時計を見ると、チリ時間の19時すぎ。アルゼンチン時間では20時過ぎだ。バスを降り、リュックを背負う。バスの周りには宿の客引きが数名。ヨーロピアンらしきバックパッカーには声をかけていたが、ぼくのところには誰も来ず。まぁ、いい。

地図を見て、ユースホステルの位置を確認し、歩き始める。海岸沿いから4本ほど奥の通りにあるようなのだが、そこに行くには坂道を上らねばならなかった。

車道は表面は濡れているものの凍ってはない。が、一方の歩道はきちんと除雪していないようで、雪が固まり、氷になっていた。

幸い車は少なかったので、雪道用の歩き方に変え車道を歩く。

1本奥に入るとそこがメインストリートだった。ここの歩道は狭いながらもきちんと除雪されている。もう20時だというのに、ここも店は開いていた。

通りはいかにも観光地らしく、ヨーロッパ的に街並みが統一され、それぞれの店の照明もむやみと明るくはない。パリジャーダと看板に書いている店では腹から半分に開かれた子豚が炭火にさらされているのが歩道から見える。ピザ屋やパスタ屋、喫茶店、チョコレート屋、防寒着屋、土産物屋などがずらりと並び、落ち着いた雰囲気の感じの良い本屋もあった。

プンタアレナスと同じように高校生ぐらいの子らがぞろぞろ固まっている地帯もあり、そこを通るときにはじろじろ見られる。

にぎやかなとおりは300mほどで、そこを過ぎると閑散としている。適当なところで右に曲がり、宿があるとおりに向かって坂をのぼる。リュックを背負っているから、つい踏ん張ってしまい、滑りそうになる。

宿のある通りの歩道は、雪が完全に凍っていた。このとおりはそこそこ車が通るから、歩道の氷の上をそろそろと歩く。

バスを降りてから20分ほどで、宿に到着。ロッジ風のユースホステルで外観がかっこいい。中に入ると受付にだれもいず。客らしいヨーロピアンが、ちょっと待っててと呼んできてくれる。

値段は会員割引で32ペソ(約1200円)。チリと同じく高い。シーズンオフでもっと安いかと期待していたが、外れた。

2階のドミトリーに案内される。裸電球1つの薄暗い部屋。暖房が異様に効いているから、汗が出てくる。

とりあえず荷物をおいて、アルゼンチンペソを入手するためまちに出る。さっき通った通りを歩き、ATMがありそうな銀行やFarmacia(薬局)を探す。さすがに土曜のこの時間なので、両替屋は軒並み閉まっていて、またFarmaciaはあったもののATMはなかった。

だいぶ端の方に銀行を見つけ、そこでカネをおろす。レストランはどこも高そうなので、開いていたパン屋で安いパン(100円くらい)を買い、宿の人が教えてくれたスーパーで山羊のものらしいチーズと360ml(約300円)くらいの赤ワイン(約100円)を買う。

宿に戻って、ネットをしていたら同宿のヨーロピアンがどこから来たのかと聞いてくる。彼ら(3人組だった)はフランスから来ていて、そのうち一人はル・ピュイから来たという。ぼくにどれくらい旅をしているのかと聞くから4か月目だというと、おおっと驚き、自分らはたったの2週間だと言う。

宿のフリーのネットは日本語不可。なので、写真のバックアップだけとる。

チーズは山羊の顔が包装に書かれていたものの、それほどくせがなく、牛のと変わりなかった。あるいは包装に書かれていたのは牛かもしれない。アルゼンチンは赤ワインがうまいというので、試しに買ってみたが、よくわからん。基本的に酒は飲まないから、こんなときだけ味見しても比較のしようがない。

部屋に行くと、ベッドの上に猫が寝ていた。完全に人慣れしていて、そばに行っても一向に動かない。しょうがないので、猫が乗っている毛布ごと空いている他のベッドに移し、そちらの毛布をこちらにもらう。

シャワーはきちんとお湯が出た。シャワールームで洗濯をし、ベッドの上に持参している細いロープを張って、そこに干す。室内では半袖で十分という暑さだから、洗濯するにはいい宿だ。

部屋からは上ってきた坂のお陰で湾がきれいに見える。

Fin

プエルトナタレス着、そしてプンタアレナスへ

08/05/23(金)

・プエルトナタレス着
・プンタアレナスへ

7時頃起床。同室のおじさんの携帯のアラームがなる。まだ外は暗い。

着替えてデッキに出てみると、今朝も月が出ていた。船はちょうどWhite Narrowと呼ばれている島に挟まれた狭い海路を通っているところだった。これまでの中ではおそらく一番狭いところで島まで5mほどしかない。そんなところを通れるということは、見えている島はそれだけとがっているということだろう。

気温は昨日までと対して変わらないが、風がかなり強い。8時を前にゆっくりと明るくなりはじめる。7時半が朝食の時間だったものの、朝日を拝むまでデッキにいる。

8時過ぎ、ようやく太陽に謁見。

それから朝食。前2日と変わらずパンにコーンフレークにスクランブルエッグにヨーグルト、果物。

違ったのは、アンケートがそのときに配られたことくらい。スペイン語と英語で質問が書かれており、ほとんどが5段階評価で答えるようになっている。船の食事はどうだったか、船員の対応は?、映画などの娯楽は? 船室の居心地は? などなど。最後に意見を書く欄があったので、ぼくは挿し絵入りで2段ベッドの下のベッドと上のベッドとの間が狭いと書いてあげた。

食事後、いつものように外のデッキにいる。遠くに雪をかぶった山々が見える。

9時を過ぎた頃、島に点々と民家らしい建物が見え始める。いよいよ目的地のプエルトナタレスに着くらしい。

やがてまちが見えてくる。ちょうどまちの方に太陽があり、またまちは朝靄に煙っていたため、まちはくっきりとは見えず、ちょっと幻想的な雰囲気を醸し出している。

港にはいくつもの船が見え、中には廃船になったような船も見える。桟橋もいくつか見えるが、プエルトモンのようにコンクリートで固められたいかにもそれとわかる港がない。

船はスピードを落とし、船頭の甲板では錨を降ろすための作業が始まる。これまで客も自由に入れた操縦室は立ち入り禁止になる。

やがて狭いコンクリートの桟橋近くで船はエンジンを切る。エンジンをかけたまま操縦して接岸するには、相当な技術が必要だなと素人でもわかるくらい、桟橋は小さい。

エンジンが止まったところで、はてどうやって接岸するのかと見ていると、直径20cmほどはある黄色いロープが船頭と船尾の甲板から海に放り投げられ、それを岸から来たボートの人が受け取り、桟橋や陸地にある金属のロープかけ(固有名がわからず)にかける。

そうやっておいて、船の方で機械か何かを使いロープを巻き、徐々に船を桟橋に近づけていく。近づいていくスピードは、じっとずっと見ていないと動いているのかどうかもわからないくらい微々たるものだった。

これは接岸するのに1時間くらいかかるなと、最初は思っていたが、意外にもその作業はスムーズで30分ほどで無事に接岸する。

観光客はみなデッキに集まり、その様子を見ていたが、プエルトエデンから乗ってきた人たちは一人もその中にはおらず、すでに船を降りる準備をして船尾の出口が開くのを待っていた。

完全に接岸したのを見て、降りるために部屋に戻る。その際、調理室のところでコックのおじさんに挨拶。

リュックを背負って陸に上がる。

陸地だからか少し暖かく感じたが、実際には道ばたの水たまりはかちこちに凍っていたので、やはりそれなりに寒いところのよう。

饒舌だったもう一人の日本人の人と別れ、ぼくはバス乗り場に向かう。

ゆるい坂道を上っていくと両脇にはレストランやホテル、トラベルエージェントのオフィスなどが出てくる。さすがにパタゴニアの観光地の一つだけある。ただ、今はシーズンから外れているためか、ほとんどの店が閉まっている。

教会と中央広場らしいところを通ったところで、今一度バス乗り場を確認。ここはバスターミナルはなく、各会社ごとに乗り場が分かれているため面倒くさい。

人通りの少ない通りを歩いていたおじさんに話しかけ、道を尋ねる。するとおじさんは観光客だったらしく、それらしきことを言って、別の女の人に聞いてくれる。

その人に教えてもらった道を行き、無事にターミナルに到着。客が2人ほどしかないオフィスに入る。壁にこれから向かうプンタアレナス行きのバスの時刻表が貼られていたが、念のため次のバスの発車時刻と料金を聞く。ちょうど1時間半後の13時にバスがあったので、それに乗ることにする。料金は5000ペソ(約1100円)だから予想していたよりも安かった。

リュックをターミナルに預け、まちを散策。そもそも人口が少ないのか、それともそういう時間帯なのか、まちを歩いている人は少ない。観光客向けのレストランや土産物屋はほとんど閉まっている。ただ、冬用のコートやウィンドブレーカーを売っている店は開いているので、防寒用に何か買おうと思えば十分に買いそろえることはできる。中心街はとても小さく30分もあればすべて見て回れるほど。

人が多かったのは食料品店くらいで、中でもパン売場は20人くらいの人が行列を作っていた。ここでもパンは量り売り。昼飯用にフランスパンのようなパンと菓子パン2個を買う。

菓子パンは日本であれば絶対買わないようなケバい色をしており、かなり甘さがきつそうに見えたが、実際に食べてみると表紙ぬけするくらい甘くなかった。見かけ倒し。フランスパンの方はもちもちしてなかなかよろし。

13時前、ターミナルに戻っていると学校が終わったのか、制服を着た子たちがぞろぞろと歩いていた。その子らの中には、そうした食料品店でちょっとしたお菓子を買って食べながら帰っている子もいる。

バスは予定通り13時に出る。客は半分も座席が埋まらないくらい。あっと言う間にまちを出て、あとはずっと放牧地らしい草地を行く。枯れて黄色くなった草地には、ときおり羊や馬、牛などが見える。基本的には羊が中心で馬や牛はほんのたまにしか見ない。また、リャマにそっくりな生き物もちょっとだけいた。

池のような水たまり(?)はほとんど凍っていたり、川にも氷がゆらゆらしているのが見える。

ときおり海が見えるが、とにかくずっと稲藁色の大地が続く。車内ではアメリカ映画。

海岸に沿いに出て、少し走った頃、添乗員が飛行場がどうのと言う。どうも飛行場に行く人がいないか確認したよう。飛行場で降りるという人はいなかったが、バスは飛行場までまわり、誰も降ろさず、また誰も乗せずに走り続ける。

空には雨雲が広がっているおかげで、まだ15時過ぎだというのに暗い。これでは着いてもマゼラン海峡を見ることはできないかもななどと思っていたら、道路脇にPunta Arenasと書いた標識が見える。

空港から20分ほどでまちに入る。ショッピングセンターらしい建物が左手に見え、右手には大学らしき敷地が見える。最悪なことにまちに入ってから雨粒が窓をポツポツと叩きだし、やや強くなる。

16時ころ、プンタアレナスのこのバス会社のターミナルに到着。ちゃんと駐車場には屋根があったので、待合室までは濡れずに入れる。

リュックを受け取り、待合室の椅子にどかっと乗せる。リュックカバーを取り出し、それでリュックを覆い、あと破れてしまったビニール合羽の切れ端で小型リュックとウエストポーチを覆う。

窓口の人に、次の目的地のウシュアイアに行くバスがないか訪ねる。が、この会社では走らせていないらしい。ウシュアイア行きのバスを出している別の会社とそこのオフィスまでの道順を教えてもらい、やれやれと思いながら歩き始める。

時間は16時になったばかりだが、すっかり暗くなってしまった。雨はそれほど強くはないものの、ずっと降り続けている。

中心部にあるバス会社に向けて歩く。道行く人はウィンドブレーカーなどを着ているが、プエルトモンと同じく、やはり傘をさしていない。

あっと言う間に靴は湿る。15分ほどでその会社に着く。窓口のおじさんに、明後日の日曜に出るウシュアイア行きはあるか聞くと、ないと言う。しかも、次のバスは火曜日だと言う。じゃあ、明日出るバスはないか聞くと、別のバス会社が出しているというので、そこを教えてもらう。

また、雨の中、歩き始める。排水路がちゃんと整備されていないのか、歩道と車道の境や交差点付近には水がたまり、何も考えない車は水しぶきをあげて走っていく。

やれやれと思いながら、また別の会社のオフィスに向け、歩く。各社合同のターミナルがないまちに着たときに雨に降られるなんて、ついてないななどとぶつぶつ思いながら歩く。リュックのパッキングのバランスが悪かったのか、左肩に異様に負荷がかかり気持ち悪い。

今度のオフィスはそれとわかりにくい店構えをして、2人位の人に聞いてやっとたどり着く。そこで聞くと、明日のバスはあるが、明後日のバスはないという。そして、明日(土曜日)を逃せばやはり火曜日になると言う。

日曜にバスを出している会社はないか聞くが、全部終わったと言う。どうも冬になり、観光シーズンが終わったから日曜の便は走っていないよう。

出発時刻を聞くと朝の7時と言う。予定では明日一日まちを見て、うまくあれば夜行バスに乗ってウシュアイアまで行こうと思っていたのだが、朝7時となるとまだ真っ暗だから、もし明日のバスに乗るとしたら、明るいときのこのまちを見ることはできない。

迷う。とりあえず明日の便の席が空いていることを確認し、いったん、宿探しをすることにする。

このバス会社は中心のアルマス広場から2区画ほどのところにあって、バスに乗る選択肢を考えれば、近いところに宿を取る方がいいと思い探すが、高級そうなホテルはあってもResidencialといった安宿が見あたらない。

一軒だけResidencialと掲げた宿があったので、そこに行ってみたら、80歳くらいのおじいさんが出てくる。値段を聞くと7000ペソ(約1600円)と言う。5000ペソがぼくの中での上限なので、候補とはなりえるも一旦は出る。

そして、ロンプラを見ながら安宿のある場所へ向かう。途中、ツーリストインフォメーションがあったので、もしやいい物件を教えてもらえるかもしれないと思い、行ってみる。

女性二人がそこにはいて、客は他になし。先にウシュアイア行きのバスについて聞いてみると、いくつかの会社に電話してくれ、時間と料金を確認してくれる。新たな情報としては乗り継ぎでいいなら、月曜にもバスがあるという。リオグランデまで行って、そこで新たにチケットを買ってウシュアイアに行くという形になるという。

どちらが安いか聞くと、やはり明日のダイレクトで行けるバスの方が安いと言う。

どちらのバスに乗るかは安宿次第ということにして、次に宿について聞く。5000ペソ(約1100円)くらいの宿がないか聞くと、あると言って名前と場所を地図に書き込んでくれる。教えてくれた宿はちょうど今行こうとしていた宿と同じだった。


礼を言ってインフォメーションを出る。宿に向かって歩き、無事、看板を発見。だが、入り口は閉まっているし、電気もついていない。ドアをノックしたりして、誰か出てこないかしばらく待っていたのだが、人の気配はがないため、断念する。

近くにはHostalという看板を出している宿が4つくらいあり、それぞれ料金を聞いてまわったが20000ペソとかで、安いところでも7500ペソだった。

肩もだいぶ痛くなっているし、もう着いてから1時間くらいたっていたので宿探しはこれで止めにして、さっき行った中心部のResidencialに泊まることにする。

あの金額では3泊も泊まれないので、明日のバスに乗ることに決定。

宿に着くと、今度はおばあさんが出てきて、部屋を案内してくれる。通りに面した部屋で6畳ほどのスペースにベッドと机があるだけ。シャワーとトイレは廊下にあるが、他に誰か泊まっているふうでもない。

おじいさんたちは同じ建物内の別の部屋の住んでいるようなので、もともと家だったところを宿にしているようなのだが、家というよりも館という方がふさわしい建物で、もとは貴族だったんじゃないか思えるくらい。

言葉ができれば、昔話でも聞いてみたいところだが、あいにくそこまでできるほど、スペイン語も覚えていない。

荷物をおいて、まちに出る。

さすがに10万人以上の人口を抱えているまちらしく、メインストリートには店がずらりと並び、小さなショッピングモールみたいなところもある。

しゃれた喫茶店があり、ネットカフェもちょこちょこあり、日本でもよく見る登山着(防寒着?)のブランド店もある。ウィンドブレーカーなどを売っている店に入ってみると、値段は日本とほとんど変わらず。ゴアテックスのウィンドブレーカーはさすがに3~5万円もする。それでもどの店にも客が入っていて買い物をしていたので、そういったものを買う層はそれなりにいるよう。ちなみに、まちを歩いていても登山に使うようなウィンドブレーカーを着ている人が多い。マゼラン海峡に面した風の強い地域だからそうなるのだろう。

それから、なぜかチリはチョコレート屋が目に付く。なんでチリでチョコレートなのかよくわからないのだが、試しにばら売りしているチョコを買ってみる。味見してみると、なんとも中途半端な味で日本のチョコレートの味から比べると甘みがほとんどない。とてもうまいとは思えない代物なのだが、こういう店が成り立っているということは、この味が一応定着しているということなのだろう。

またアニメの看板を掲げた店もあり、そこに入ってみると10代半ばくらいの男の子や女の子が10人ほどいて、なにやらがやがやとおしゃべりしていた。店主は年輩の女性で、ぼくを見て何を探しているのかというようなことを聞いてくる。

店内は細長く狭い。ショーケースの中には日本のアニメのDVDや本がいくつかあるだけでマンガ本は見あたらなかった。店内の壁には、ここに集っている子たちが書いたらしいドラゴンボールやエヴァンゲリオンなどのアニメのキャラクターの絵が貼られていた。

路上にある屋台は、豆菓子を売る屋台とドーナツのようなものを売る屋台の2種類のみ。プエルトモンにあった串焼き屋などはない。屋台で買い食いしながら安い宿がないか探していたのだが、結局見つからず。

19時近くになったので、宿のおじいさんに聞いた地元の料理が食える店に行き、晩飯。店の人に地元のものを食べたいと言ったら高い料理を2種類ほどすすめられる。一つはプエルトモンにいるときにさんざん食べたクラントで、もう一つはパリジャーダという料理。さすがにこの時期にここで新鮮な貝類は採れないだろうと、パリジャーダを頼む。1000円以上もするのはイタかったが。

ずいぶん待って出てきたのは、肉の盛り合わせだった。羊肉のステーキと偽物ソーセージと半身の鶏肉など。ソーセージは明らかに手抜き。他の肉は塩で焼いただけ。焼き時間はかかっても料理の手間はかからないであろうものが、なぜ1000円以上もするのか不思議だ。肉なんか1kg200~300円で売っているから、原価は2割もしないだろう。

ちょっと期待はずれの料理にあれこれと文句を付けながら、冷えないうちにと食べる。後半はやや疲れる。

食べ終えてまちに出る。メインストリートは相変わらずにぎやか。10代くらいの子が5~6人で固まって歩いていたり、道ばたにたまっておしゃべりしていたりする。小雨がぱらついているのに、傘を差している人はほとんどいない。

大型のスーパーは客でごった返していて、カートに品物を満載にした人たちでレジは長蛇の列ができていた。店が閉まる週末に備えるためであろうが、それにしても買う量がすごい。金額にするとおそらくみな3000~5000円ぶんくらいは買っているだろう。

そのスーパーにATMがあったので、予想外に高かったバス代を補充するためカネをおろす。

そんで21時前には宿に戻る。

部屋に戻ると、すっかり湿ってしまった靴を脱ぎ、インソールを出して、明日の朝までには乾くよう祈る。

ベッドには薄い毛布が2枚ほどあるだけだったので、夜中冷えるんじゃないかと思ったが、まぁ、そのときはそのときだと思い、携帯電話のアラームをセットし、適当に寝る。

Fin

2008年6月10日火曜日

沖縄いり

パラグアイをあとにして、昨日、再びボリビアに入りました。
昨晩はサンタクルスというまちに泊まり、今日の午前中はブラジルビザを取るためのもろもろの手続きをして、先程30分位前に沖縄に着きました。

参考
http://www.fenaboja.com/Okinawa/ok_tinku2005.html

サンタクルスの町から乗合タクシーで約2時間。予想していたよりもかなりでかい集落だったので驚いています。これもこの集落(というには大きすぎますが)にあるネット屋から書いています。1時間5ボリビアーノ(約90円)。早いです。子供たちが5人ほどいて、サッカーのゲームをしています。

明後日にはサンタクルスにビザを取りに行かないといけないので、ここには今晩だけ泊まり、明日はサンファンという移住地に行く予定です。

ではでは。

2008.6.9 17:55
Okinawa,Bolivia


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2008年6月4日水曜日

アスンシオン入り

パラグアイはアスンシオンに今朝着きました。コルドバからはバスで約19時間。わりと近かったですね。

南米ではボリビアについで貧しいと言われている国ですが、確かにチリやアルゼンチンと較べると、まったく雰囲気が違い、ボリビアやペルーなどに雰囲気は似ています。ただ、民族服を着た人はほとんど見ない点はチリやアルゼンチンと同じですが。

ここはスペイン語とグアラニー語の2言語が公用語となっている国ということで、まちを歩いているとこれまで聞いたことない言葉が聞こえてきます。ちょっとだけ聞いた限りでは中国語っぽく聞こえるのですが、たぶん正確には似てはいないでしょう。

ボリビアと違って宿代が軒並み10ドル前後と高いため、明日にはブラジル国境の日本人移民の入植地に行き、するすると移動して、今週末にはボリビアのサンタクルスに移動予定です。これからしばらくは日本人移民の多い地域を回ります。

では。

2008.6.3. 20:40
Asuncion,Paraguay


大きな地図で見る



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日系パラグアイ移民略史
http://www.discovernikkei.org/wiki/index.php/Migration_Historical_Overview_Paraguay_JA

パラグアイにおける日本人移住の歴史
http://federacion.hp.infoseek.co.jp/inmigracion/inmigracion.html

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パラグアイに対する渡航情報(危険情報)の発出(2008/02/27)
首都アスンシオン市及びその周辺都市、イタプア県エンカルナシオン市
  及びアマンバイ県ペドロ・フアン・カバジェロ市
    :「十分注意してください。」(継続)

(4)アスンシオン市及び周辺都市(フェルナンド・デラ・モラ市、サン・
  ロレンソ市、ルケ市、カピアタ市、ニェエンブ市、ランバレ市、ビジャ
  ・エリサ市)
  :「十分注意してください。」
   同地域の治安は、経済の低迷により地方の貧困層が流入したことか
  ら、急激に悪化の一途をたどっています。
   アスンシオン市及びその周辺では、2001年以降、政治家、農業主等の
  富裕層の子女を対象とした営利目的の誘拐事件が発生しています。特
  に、アスンシオン市のパラグアイ川沿岸のリカルド・ブルガータ地区
  (通称チャカリータと呼ばれる地域)は、貧困層や犯罪者が多く暮らす
  危険地域で、2007年2月5日、同地区に迷い込んだ邦人観光客が強盗に射
  殺される事件が発生しています。
   また、2004年に発生した元大統領の子女の誘拐殺人事件では、その背
  後にコロンビアのゲリラ組織の関与が明らかとなり、周辺国同様、誘拐
  のビジネス化が懸念されています。誘拐の手口は、拳銃等で武装した5、
  6人の犯人グループに拉致されるケースがほとんどです。誘拐の被害を
  未然に防ぐため、「目立たない」、「用心を怠らない」、「行動を予知
  されない」の3原則を守るようにしてください。(詳細は外務省ホーム
  ページ: http://www.anzen.mofa.go.jp/pamph/pamph_04.html を参照
  してください)。また、「短時間誘拐」も発生していますので、派手な
  服装を避ける等の対策を講じ、被害を防止してください。
   最近起きている犯罪としては、路上での携帯電話をねらった強盗、夜
  間に青少年グループが酒代欲しさに街灯の少ない場所で通行料(ペアヘ
  ロ)を要求する一種の脅迫、「トルトレロ」と称する物売りによるひっ
  たくり等があり、パラグアイ人を始めとして日系人や日本人にも被害者
  が出ています。また、路線バスでは、スリのほかに婦女暴行事件も散見
  されます。(「トルトレロ」の特徴としては、自家用車やタクシーが信
  号待ちをしていたり、自宅車庫に車を入れようと一時停止しているとこ
  ろをねらって、物売りを装った犯人が、車の窓ガラスを割り、車内に置
  かれたカバン等をひったくるというものです。)
   つきましては、これらの地域では貴金属を身につけない、貴重品やカ
  バンを持ち歩かないよう心掛けるとともに、夜間、暗い道での一人歩き
  や、乗客が少ないバスには乗車しないようお勧めします。

  特に注意を要する地区
   バニャード・タクンブ地区、サンタ・アナ地区、カテウラ地区、サン
  ・ブラス地区、サン・カジェタノ地区、サン・ヘラルド地区、ビリャ・
  コラダ地区、ミクロ・セントロ地区、クワトロ・ホモネス地区、メルカ
  ード・クワトロ地区、テルミナル地区、テンベタル地区、リカルド・ブ
  ルガーダ地区(通称チャカリータ)、サン・アントニオ地区、タクンブ
  地区、旧市街

   上記の地域は、アルコール中毒者や窃盗、スリ、婦女暴行等多くの犯
  罪者の隠れ家となっている地域であり、また、ストリート・チルドレ
  ン、売春婦、麻薬中毒患者等も数多くたむろしており、夜間は特に危険
  です。