2008年8月30日土曜日

[速報]ムババネ(スワジランド王国)いり

昨日の午前中にケープタウンをでて、今朝早くにヨハネスに着き、昼にスワジランドの首都ムババネに着きました。

まち自体は小さいですが、立派なショッピングセンターなどがあり、南アフリカの小さな一都市という感じです。

ここで予定していた宿が予算の2倍と高かったので、明日にはモザンビークに移動します。

では。

2008.8.30 16:08
Mbabane,Kingdom of Swaziland


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2008年8月27日水曜日

【速報】ケープタウンいり

咋晩キンバリーから夜行バスに乗り、今朝(8/26)の8時頃、ケープタウンにつきました。想像以上に近代的なまちで驚きましたね。ここはヨーロッパか?ってかんじ
です。例えば、インフォメーションに行けば、国内各地の観光パンフがこれでもかというくらいあり、街並も英吉利(いぎりす)をホウフツとさせる喫茶店がちょちょこあり(といっても英吉利にはいったことないですが)、安く(といっても300円する)飯を食うところといえばファストフード店(ハンバーガー、フィッシュアンドチップス、ドネルケバブ)くらいしかなく 、ドイツ語の本屋があり、アダルトショップがありとさすがに世界のケープタウンだというかんじですね。あとはこれに安全でととのった公共交通機関ができればほぼヨーロッパですが、生憎これらがあまり整っていません。上記のような状態なので食べるべきものも少ない予算ではみあたらず。地元の人が食べているものを食べるとなると気持ち悪いパテでつくられたハンバーガーなどになってしまうのが、哀しいところです。

ここには木曜まで滞在し、金曜日に夜行バスで再びヨハネスに戻り、ヨハネスに到着後そのままスワジランドにむかいます。その後はモザンビークに往き、がんがん北上する予定です。


では

2008.08.26 17:28
Cape Town,R.South Africa

2008年8月25日月曜日

【速報】キンバリー到着(南アフリカ)

今日、24日、ヨハネから鉄道でキンバリーに来ました。8時間近くの移動で、景色はずっと同じ景色。ちと退屈でしたね。

ヨハネの鉄道駅や電車は危険と歩き方にはありましたが、僕の場合は特に何もなく。電車はケープタウンまで行く寝台列車のファーストクラスに乗ったのですが、たいした警備はないのに安全そのものでした。ちなみにファーストクラスと言っても日本でいうと一番安いB寝台程度です。

キンバリーに着いたのが1時間ほど前の夜19時だったのですが、泊まろうと思っていた宿は満室。すでに外は暗かったものの高いホテルに泊まるしかないなとおそるおそる人気のない街を歩いてやってきた次第。南アフリカは計画的にバスも宿も予約をしながら出ないと高くつきますね。

ちなみに今日の宿のホームページは以下。
http://www.greatbatchguesthouse.co.za/index.htm

明後日にはケープに行きます。バスのチケットがすんなりとれればですが。

では。

2008.08.24
Kimberly,R South Africa

[Sevila:Spain→Tanger:Morrco]セビージャからタンジールへ

08/07/09(水)
[Sevila:Spain→Tanger:Morrco]

・セビージャからバスでアルへシラスへ
・船でモロッコ入国

7時頃起床。すっかり外は明るくなっていて、空も昨日に引き続き真っ青だった。

昨日まではグラナダに行こうかと考えていたのだが、予算のことなどを思い、結局、今日モロッコに入ることにする。

8時に朝食だったので1階のレストランに行くと長蛇の列。学生らしい若い男女らが100人近くいた。どんな朝食か楽しみにしていたのに、カウンターに置かれているものを見てがっくり。メニューはコッペパンのようなパンとチョコレートのかかったドーナツ、2種類のコーフレークのみ。あと飲み物として紅茶のティーバッグと牛乳、オレンジジュースが用意されている。

救われたのはパンなどはいくら食っても良かったこと。なので1日ぶん食いだめしようと頑張る。みんなの食べ方を見ていると、コッペパンは半分に切って開いた形にして備え付けられているトースターで焼き、いい具合に焦げ目がついたら取り出し、オリーブオイルやトマトを細かく刻んでドレッシングのようにしたものをかけて食べている。特にトマトの細かく刻んだものがうまい。トマトの品種が違うのだろうが、甘いトマトではなく、塩気が含まれていてこれがパンに合う。

結局、ドーナツを2個とパンを5個、コーンフレークを2杯食す。パンをいくつかもらっていこうかと思ったが、コッペパン自体に塩気があり、あまり好みではなかったのでやめる。

膨れた腹をかかえて部屋に戻り、しばし休憩。それから、いったん宿をでて、近くのATMでアフリカで使うためのユーロをおろす。セネガルなどではATMが使えるらしいのだが、もしものことを考えると現金で持っておくのが安心。大量の現金を持ち歩くのは危険という話もあるが、結局は運次第。南米ではカードで降ろすよう脅迫されたという話もあったし、結局は持ち歩いていようとなかろうと、悪い奴に出くわしてしまえば同じことだ。

お金の準備ができたところでチェックアウト。昨日歩いたところでは、バスターミナルまでは歩けない距離でないことが判明したので歩いていくことに。

途中の交差点で信号待ちをしている車の窓拭きをして稼いでいる女性が3人ほど。中南米ではどこの首都でも見た光景だったが、まさかスペインでも見るとはと驚く。なお、ホームレスらしき人は見ることなし。

10時過ぎの時点で街角の温度計は30度を示していた。川沿いの道をひたすら歩く。途中、1度休憩して40分かけてバスターミナルに到着。そして颯爽とチケットを買いに行ったら、なんとここからジブラルタルに行くバスは出ていなかった。もう一つのサンセバスチャンという広場にあるターミナルから出ていると言う。位置を教えてもらうと、なんと宿から歩いて15分ほどのところだった。

この暑い中歩いたのにとショックで、また30分近く歩く気力はわかず、バスに乗る。幸いなことにここの前からもう一方のターミナル前まで行くバスがあった。

C4番のバスに乗る。てっきりサンセバスチャンというバス停があるものだと思っていたが、それらしきところには停まらず1周して元のターミナルに戻ってきてしまう。所要時間50分ほど。途中、バスターミナルを示す看板が見えたから、どうもそこで降りないといけなかったよう。

バスは循環バスだったので2周目だからと改めてお金を払う必要はなかったのが幸いだった。今度はきちんとターミナル近くで降りることができる。

ターミナルに着いたのは12時。けっこう頻繁にバスは出ているだろうと思っていたら、ジブラルタル(のLa Linea)に行くバスは次は14時だった。しょうがないので、それを買って待つことにする。運賃20.2ユーロ(約3200円)。マドリッドからのバスと比較すると高い。

ベンチであれこれと考えていたら、どうも予定通りにジブラルタルに行ったりしていたら今日中にモロッコに入れないような気がしてきた。バス会社のおじさんに何時にジブラルタルに着くか聞くと6時だという。ジブラルタルからタンジールに行く船は、確かネットで調べたときは17時台はあったが、18時台は見なかった。イギリス領土のジブラルタルを経由してモロッコに行くつもりだったのだが、もし船がないとなるとジブラルタルで一泊しなければならなくなる。そうするとなんぼ安くても20ユーロは吹っ飛ぶので、そうなると予算的にイタい。

そんなわけで行き先を変更し、Algeciras(アルヘシラス)というスペインの端っこに行くことにする。ガイドブックのロンリープラネットによれば、アルヘシラスからは毎時間船があるとあった。もう一つ手前のTarifa(タリファ)からだと35分ほどでアルヘシラスよりも安く行けるとあったが、こちらは日に5本ほどとあったので、安全をみてアルヘシラスに行くことにする。

アルヘシラス行きのバスは別の会社も出しており、そっちは13時発だった。なので、キャンセルしようかとチケットを買ったバス会社の窓口に行くとキャンセルできないと言われる。ケチくさい。クソッと思いつつ、しょうがないので待つことにする。

バスは14時ちょっと前に入ってきた。例のごとく自分でリュックを荷台に積み込む。

バスはすぐに発車。市街地を抜けると塩を作っているらしい塩田を発見。マドリッドからセビージャまでの道とは違って、けっこうくねくね曲がる。例のごとくしばし休眠。

起きるとバスは放牧地のようなところを走っていた。起伏がわりと大きい地帯で、車窓から見える牛はがっちりとしている。

そのうち風車が現れる。道路の両脇に広がるひまわり畑や放牧場の中に風車が100基ほど。どれも勢いよく回っている。牛は風車の傍らでのんびりしている。風車の音で牛がビビらないのかと思ったが、バスの窓は開けられないため風車の音を聞くことはできず。

この辺りは一大風力発電地帯になっているようで、新たに見えてきた山の際にも風車がドドドンと建てられていた。おそらくこの1帯だけで300基はあるんじゃないか? ひまわりもバイオ燃料対策なのか?

そのうち前方に海が見えてきて、白い砂浜の向こうでウィンドサーフィンをしている人たちがぎょうさん見える。そしてTarifaに到着。意外にもタリファは海岸リゾート地のようなところで、しゃれたホテルがいくつかあり、現在建設中のホテルも数軒あった。ここで何人か客が降りる。

バス停から船乗り場が近いならここで降りて船を確認し、もしなければまたアルヘシラスに行く方法も考えていたのだが、船乗り場は近くに見あたらなかったためおとなしくアルヘシラスまで行くことにする。

タリファから峰を越える。峰にかかると右手に地中海が見え、海上を進むフェリーや貨物船の姿が見えた。アフリカ大陸も見えるのかと期待していたのだが、空は晴れているものの、海上は白く煙っているためまったく見えず。

17時半前、ようやくアルヘシラスに到着。ターミナルを急いで出て、海の方に向かう。緩い下り坂を歩いていくと、船乗り場を示す看板がいくつもあり、それに従っていくと無事船のチケットを売っているオフィスに着いた。しかし、そのオフィスに入ろうとしてみると、なんと閉まっていた。そこへここの社員らしき男性が来て"It's close."と言う。えーっ!と思ったら続けて”You have to go behind the park."とあっちを指さしながら言う。そのオフィスを出てみると、オフィスの裏手(海側)には駐車場があり、その向こうには白い建物が建っていた。どうもそこでチケットは買えるらしい。

早足でそちらの建物に向かう。”チケット売場”とスペイン語と英語で書かれているマークを頼りに歩いていくと、無事、チケット売場を発見。5社ほど船会社の窓口があり、その中から次の便が早い時間にあり、少しでも安いところを選び、チケットを買う。

窓口の女の人にTangerまでのチケットを頼むとパスポートの提示を求められ、それを元に彼女はパソコンに情報を打ち込み、チケットを発券してくれる。料金は44ユーロ(約7000円)。高いなぁ、もう。談合していそうな値段だ。

出発は1時間後の18時半。1時間近く時間がある。船乗り場の場所を聞き、そちらへ向かう。途中の通路にはトラベルエージェントのオフィスがいくつかあった。両替商もあり。

船の搭乗口は通路でつながっている別の建物の2階だった。1階にネット屋があったので、そこでネットを少々。30分1ユーロ。

18時前に搭乗待合室に移動。チェックインするための窓口があり、そこでさっき買ったチケットを見せると、飛行機と同じように搭乗券をくれる。それを持って待合い所のベンチで待つ。

待合い所には50人以上の人が船を待っており、女性の中にはベールをかぶっている人も多い。聞こえてくる言葉はアラビア語。子ども連れの人も多く、きゃっきゃと遊んでいる子たちの声が聞こえてくる。

18時半になって入り口が開き、まずはスペインの出国手続き。モロッコのパスポートを持っている人は、簡単に通っていた。ぼくの番が来て、係官にパスポートを見せると、”Japan!"と言って、スペイン入国のスタンプを確認した後に出国スタンプを押してくれる。そして”アリガトウ”とぎこちない日本語を言いながら手渡してくれる。

そこから通路を歩いて船へ。船の入り口でチケットのチェックあり。船の中はなかなか豪華で、ソファで囲まれた机がいくつもあり、免税品店もある。船に入るとすぐの売店のカウンターのようなところに入国カードが置かれていて、みなそれを取っていたので、ぼくもそれを1枚とる。アラビア語と英語の併記。

ぼくはデッキにあがろうと船内をふらつく。そしたら、なんだか入国手続きをしているらしい部屋を発見。あわててそちらに行き、列に並ぶ。

2001年に富山からウラジオストクに行ったときも船に乗るときにそれらしき手続きをしたことを思い出す。が、そのときは旅行会社の人が一緒だったからそんなことがあったこともすっかり忘れていた。

30分ほど待って、ようやく入国審査終了。特に質問もなく、すんなり終わった。

そうしてからデッキに出て、出発を待つ。しかし、これがまったく出ない。

1時間過ぎても出ないので、デッキのベンチに横になって待つことにする。すると気が付いたときには、いつの間にか船は出ていて、港はだいぶ遠くなっていた。

岸から見たときと同じように海上はあまり見通しは良くない。風にあたっているとだんだん冷えて来たので、正面左のデッキから後部のデッキに移動する。

後部のデッキには30人くらいの客がいて、めいめいのんびりしていた。

右手には太陽。離岸から1時間。ガイドブックによれば1時間ほどでモロッコに着くはずなのだが、岸はまだ見えない。太陽はいよいよ傾いてきて、しばらくすると海の向こうに沈んでしまった。

予定では18時半に出れば20時頃にはモロッコに着き、そうすれば明るいうちに宿を探せると見ていたのだが、完全に予定が狂ってしまった。出発に2時間もかからなければ、ほぼ予定通りだったはずなのだが。

結局船が着いたのは暗くなってしまった後、22時過ぎだった。船がアルヘシラスを出たのは20時半頃だったから1時間半ほどかかってのモロッコ入りだった。

モロッコに着いたもののまた降りるのに30分ほど待たされる。入国手続きは終わっているから何か手続きがあったわけではないのに。

船を下りたところから無料バスが出ていて、船のターミナルまで連れていってくれた。ターミナルでは荷物のチェックがあるが、機械を通すだけで質問も何もなし。

歩いていたら15歳くらい子が”ニーハオ、コンニチハ”と声をかけてくる。そして、”ビューティフル”とここと下を指さしながら言う。一緒にいた姉らしい女の子はぼくに”トウキョウ ビューティフル?”と聞いてくるから、”ノー”と答えると”モロッコ、ビューティフル”と言う。きっとそうなのだろう。

ターミナルの建物から出ると、ぼくを見たタクシーのおやじが遠くから手招きしながら寄ってくるので、無視して逃げる。両替所がタクシー乗り場の裏にあったので、そこで両替。こんなに遅くまで開いているなんてすばらしい。1ユーロ=約11ディラン。

そこで20ユーロほど両替する。さて、次は宿。ロンプラを見る限りでは歩いてでも行ける距離なのだが、まちの雰囲気がどうなのかがわからない。危ないのか危なくないのか。いろいろ考えて、念のためタクシーで行くことにする。若いあんちゃんに声をかけ、宿の住所を見せると5ユーロと言う。日本にしたって相当高いが、いちいちごねるのも面倒だし、小さなユーロがなかったので、それでオッケーする。

走り出してすぐに別の客2人を乗せる。港の入り口を出たら、すぐそこが繁華街でレストランなどはまだ開いていた。人通りも多く、雰囲気もよし。宿がある通りまでは10分足らずで到着。運転手はここだと言うが、泊まる予定のユースホステルのマークがない。しかし、住所ではここだというので、タクシーを降り、その住所の宿に行き、受付のおじさんにスペイン語で聞くと英語でユースホステルは移転したと言う。場所を聞くが、ここにはないと言う。

あいや、と思い、ここの宿の値段を聞くとさっき両替した20ユーロぶん以上の金額だったため却下。別を探す。

歩いていたらすれ違いざまにおっさんが、ホテルを探しているのかと聞いてくる。他にも安いホテルがあるといって言い寄って来る人が数人。面倒くさい。頼んでもないのに、ぼくの前を歩き、こっちこっちと案内するあんちゃんが登場したので、適当に見つけた宿に入って値段を聞く。最初はディランで言われたためなんぼかなと考えていると15ユーロ程度と言うので、予定よりも10ユーロばかし多い出費だが、夜も遅いのでここにする(後に3倍ほどぼられているであろうことに気づく)。

2階の部屋を案内される。ベッドが一つと机、あと洗面所が着いた9畳ほどの部屋。ヨーロッパと比べては悪いが、値段の割にぼろい。中南米で言えば5ドルくらいのところだ。

宿代150ディランを払うと手持ちのディランがなくなったため両替しにまた港に行く。歩いて15分ほど。港までは繁華街だから23時をすぎたこの時間に歩いていても寂しくない。

両替所はまだ開いていたので50ユーロぶん両替する。戻ってきて、広場に出ていた屋台をのぞく。何を食べているのかと思ったら小さな巻き貝だった。小鉢に20個ほどの貝が盛られている。うまそうだったので1つ頼む。レモンに刺されていた安全ピンを右手に持ち、それで中のものをひっかきながら食べる。貝の身自体は小さくなんだかヌルッとしたなめくじのようなものだったが、スープが絶品だった!正直、驚く。香辛料がきいたぴりっとした透明に近いスープで、後味もさっぱりしていてキレが良い。なかにはスープだけを飲んでいく人もいる。値段は3ディラン(約50円)。これはお得だ!

それから雑貨店でバナナと1.5リットルの水を買う。合わせて10ディラン(約150円)。スペインに入って以降、水はすでに3日足らずで4リットル近く飲み干している。

レストランもまだ開いていて、料金を見てもだいたい400円くらいで食えるようだったが、明日の移動に備え、飯は食わず。揚げた魚などがあったから食べてみたかったけれども、また海辺のまちに行くので、それまでお預け。

明日の朝飯のつもりで買ったバナナだったが、腹が減ったので宿で食ってしまう。

そして2時頃就寝。

Fin

[Madrid→Sevila:Spain]スペイン無事入国、マドリッド→セビージャへ

08/07/08(火)
[Madrid→Sevila:Spain]

・スペイン入国
・マドリッドからバスでセビージャへ
・日暮れの遅いセビージャをぶらり

飛行機の中。物音に目が覚めると、ちょうど朝食を配っているところだった。時計を見ると午前0時50分。なんちゅう時間に飯を配るんだと思いながらも、眠い目をこすりつつ体を起こし、テーブルをおろし、朝飯。飯はパンと菓子パンのみのしょぼい朝食。

眼下には大地が広がっていた。すでに夜明けを迎えていたが、太陽はこれから地上に顔を出そうとしていたところ。これがどこかの島なのかそれともスペインなのかはよくわからず。

飛行機は着陸体制に入る。これで眼下のまちがマドリッドだということがわかる。しかし、ただ農地が見えるばかりであまり首都を感じさせるような建物群は見えない。

ブエノス時間の夜中2時前に無事着陸。拍手が沸く。

飛行機を降りるとバスが来ていて、バスで飛行場の建物の入り口まで送られる。

次の難関は入国審査。入国審査場には同じ飛行機に乗ってきた人だけで、他に審査を待つ人はいない。大勢いれば係員は次々とさばかないといけないからチェックが雑になり、ぼくもすんなり入れるだろうというふうな皮算用をしていたのだが・・・。

しょうがないので、適当に列に並ぶ。すぐに順番が回ってくる。ぼくの担当になったのは若い男性。パスポートを見せると”Japan”と言い、ページをめくりながらこの後、どこに行くのだと聞いてくる。なので、モロッコに船で行くとまず伝え、アルヘシラスからタンジールに行くのだと伝えると”OK”と言って、簡単に入国スタンプを押してくれた。正直、ほっとする。

荷物の受け取り場に行き、リュックを待つ。あたりを見回すと中国人が10人ほど。日本人らしき人は一人もいない。30分ほど待ってリュックが出てくる。

リュックを背負い、まずは飛行場内のインフォメーションとATMを探す。見つけたインフォメーションでマドリッドの地図がないか聞いたら、ここは飛行場に関するインフォメーションであって、ここにはないと言う。しかし、すぐ近くにマドリッドに関するインフォメーションがあり、そちらを指さし、あっちがもうすぐ開くからそちらで聞いてと教えてくれる。飛行場のインフォメーションならとATMの場所を聞くと、すんなり丁寧に教えてくれる。

それにしても、これまでと同じスペイン語だから楽でいい。

ATMでユーロをおろし、それから開いたばかりのインフォメーションで地図をもらう。まちの地図をもらうつもりだったのだが、窓口の若い女性がどこに行きたいのかと聞いてくるので、とりあえずセビージャにバスで行きたいというとそのバスが出ているバスターミナル近くの地下鉄の駅を教えてくれる。

飛行場に地下鉄も乗り込んでいるから、ここから地下鉄に乗り、途中1度だけ乗り換えすれば目的のバスターミナルには行けるとのことだった。ただ、飛行場の地下鉄の駅はぼくが到着したところからはけっこう遠かった。

地下鉄への階段を下りると左手に自動改札、右手に自動券売機が見える。自動券売機は”なんで?”ってつぶやいてしまうくらい図体がでかい。日本の一般的な自動発券機の2体分ちょっとくらいある。切符を発券するだけなのになぜこんなにでかいんか、不思議だ。見るとクレジットカードでも買える仕組みになっているよう。

液晶の画面には3つほど選択肢があり、スペイン語で何やらと書いている。一番やすいのが1回券なのだろうと解釈し、2ユーロ(約320円)出して切符を買う。

自動改札に切符を突っ込むと日本と同じように出てくる。が、降りるときには回転バーをまわすだけで切符は必要はなかった。

地下鉄の車両はなかなかよろし。さすがに先進国という感じで清潔で明るく、落書きなどもない(ロスの地下鉄にはあったけど)。車両は5両ほどで、乗客は多くない。これまでと違うのが車内で本を呼んでいる人の率が高いこと。サンパウロでもブエノスでも地下鉄には何度か乗ったが、それらの限られた乗車経験と比較するとそう感じる。たまたまなのかもしれないが、ぼくが乗った車両の人たちは本なり新聞なりを読んでいる人が半分以上いた。

音楽をイヤホンで聴いている若い人の方からはドラムの音が漏れてくる。しかし、おしゃべりしている人はいないので、とにかく静かだった。

1度乗り換えがあり、6番線に乗り換えバスターミナルを目指す。車内に付いているテレビに次にどこに止まるか駅名が映し出されるのでわかりやすい。

目的の駅で降りるとバスターミナルは通路一本でつながっていた。無事、ターミナルに到着。ターミナルには例のごとくいろんなバス会社の窓口があり、どこの会社がどこへ行くのかよくわからず。そのためターミナル内にあるインフォメーションでセビージャに行きたいと伝えると後ろを指さし、早口で何やら言われる。この窓口のおねえさんがまったくもって愛想のない人で、椅子の背もたれにもたれたままで受け答えするから非常に感じが悪い。

言われた会社の窓口に並ぶ。自分の順番が来て、窓口のおじさんに行き先を告げようとすると、そのおじさんは隣の窓口で何やら抗議らしきことをしていた客(おじさん)に横から口を出し、二人で口論を始める。やれやれ。

口論は一方的に打ち切る形で終わる。窓口のおじさんにはセビージャに今晩行きたいと伝え、夜中12時のバスのチケットを購入。18.65ユーロ(約3000円)。移動時間(約7時間)を考えるとアルゼンチンやブラジルよりも安い。

それから荷物を預けようとコインロッカーを探すがこれが見あたらず。しょうがないので、さっきのインフォメーションに行って聞く。例のごとく態度は横柄。

1つ下の階にあるというので、行って見るがよくわからない。なので、近くにいたバス会社のおやじに声をかけたらインフォメーションは上だと言って、まったく人の話を聞こうとしない。中南米では考えられない態度。クソオヤジが!せめて話くらい聞け、といらいらしながら別の人を捜す。

地下鉄の乗り場の方にあるのかと思い、そちらに行くが見あたらない。地下鉄の所にもインフォメーションがあったので、そこで聞くとやはりさっきのところだと言う。また戻って探すとバックのマークを見つけ、そのマークの案内をたどっていくと、そこに預かり所があった。値段表を見ると1日預けると10ユーロほどもするとあった(直接確認していないため違うかも?と後から思う)ので、マドリッドを見る予定は変更。すぐにセビージャに行くことにする。

バス会社の窓口に行き、次のバスに変更してもらう。さっきのおじさんとは違う若い女の人のところで手続きをしてもらったのだが、これがまたインフォメーションと同じように態度が横柄なのだった。

30分後の10時発のバスがとれたので、朝飯代わりにターミナル内でパンと水を買う。水は1.5リットルが1.5ユーロ。パンはいわゆるスペイン風オムレツ(ジャガイモをつぶしたものと卵で作ったやつ)を挟んだものでこれが3.5ユーロ(560円)。量はあるものの高い。

1つ下のバスの発着所に降り、そこでバスを待つ。発着所にはテレビ式の電光掲示板があり、そこに何時発のどこ行きのバスは何番乗り場に入るというのが表示されている。

乗り場は40ほどあり、バスを待っている客も多かった。発車予定の10分ほど前になってバスが入ってくる。

驚いたのが、荷物を客が自分で積み込むこと。バスが停車して、腹の部分の荷物入れのドアが開くと、そこにみんな並び、めいめい荷物をそこに積み込んでいた。

バスは時間通りに発車。長い地下道を出るとすぐに高速道路に出て、信号で止まることなく走り続ける。

郊外に出ると畑が広がっており、人が住んでいるような集落は見当たらない。

そしてとにかく森がない。山らしい山もない。丘のようなところはあるが、そういったところも畑として使われていたり、あるいは植林地になっていたりする。

畑はブドウ畑やみかん畑、オリーブ畑などが目に付く。

すぐに眠くなりひたすら寝る。たまに目が覚めても景色に変わりはない。バスの中の電光掲示板には外の気温が表示されており、さっきから36という数字が表示されている。

14時頃、バスはパーキングエリアのようなところに止まり、昼食休憩。外に出てみると、確かに日差しは強烈だったが、乾燥しているのだろう、あまり暑いとは感じない。あたりは畑ばかり。

さっきパンを食べたばかりだし、料理を見ても5ユーロ以上のものばかりなので、ここで食事はせず。

30分ほど休憩して、またバスに乗り込む。メロンの切り身を買ったおじさんがそれを車内に持ち込もうとしたところ、運転手の40代くらいの男にメロンは外で食べてから乗り込むよう言われる。バスの中にメロンも持ち込めないとは、たいした国だ。

おじさんは不服そうな顔をしていたが、駐車場で食べきり、皮をポイと投げ捨て乗り込んでくる。そのおじさんはアラブ系の顔立ちをしていて、イスラム教徒なのかある時間になったとき、バスの中でお経を読むような声をずっと出していた。ぼくの座席よりも後ろに座っていたので、コーランを読んでいるのかどうかはわからず。

再びバスは畑の中を走る。黄色や茶色っぽいものがたくさん植わった間を走っていくので、何かと思ってよく見てみると、それはひまわりだった。背丈は低い。

すでに枯れ始めていたので、一面黄色というわけではなかったが、数ヘクタールにもわたってひまわりが植えられていた。バイオエタノールに使うのか、それとも食用なのか気になるところだ。

バスは相変わらずなだらかな丘の間を走る。セビリアまであと約140km。

15時半頃、Ecijaというところに停車。外から見る限りなかなか大きなまちだった。

またすっかり寝ていて、目が覚めたらバスターミナルに入ろうとしていた。ようやくセビージャに到着。マドリッドから約7時間。17時前だった。

バスの発着所から階段を上ってバス会社の窓口が並ぶ出入り口に行く。そこでグラナダ行きのバスを聞く。1日2本ほどしかなく、料金はマドリッドからと同じ約19ユーロ。

ターミナル内にはツーリストインフォメーションはなく、バスのインフォメーションのみ。そこの人にツーリストインフォメーションが近くにないか聞くと、表の通りをまっすぐ歩いて3分ほどのところにあると言う。

外にでる。まず驚いたのが太陽の位置。もう夕方だというのにまだ見上げられる位置にある。日本の感覚で言えば14時くらい。まだ当分日は落ちそうにない。これだったらもう少し遅いバスで来ても十分だった。

歩道の隣には自転車道があり、そこを颯爽とチャリに乗った人たちが駆けていく。半袖のTシャツの上に長袖のシャツを着ていたぼくは、歩いているうちに汗がにじみ出てくるが、噴き出すほどにはならず。雲一つない青空は気持ちいいが、街角の温度計は40度を示していたには閉口する。

インフォメーションに着く前にHostalと書いた看板をあげていたところがあったので、そこに行って値段を聞いてみる。40ユーロとのことで当然却下。

そこから5分ほどでインフォメーションに到着。ユースホステルを探しているとカウンターのおじさんに言うと、その住所などが書かれた紙と市内の地図を取り出し、位置を教えてくれる。ちょっと遠いようで、34番のバスに乗って行くよう言われ、その乗り場も教えてくれる。

インフォメーションをでたとき、ふと歩道に貸し自転車があることに気づく。セビージャのマーク入りの自転車が自動駐輪機(?)に止められており、端の方に貸し出しするための機械がある。ATMのような機械で、いくつかメニューがあり、ボタンを押すと画面が切り替わった。スペイン語以外でも英語とフランス語に対応していたので、英語バージョンにして、このシステムについての説明を読むと、これを使うには1週間とか1年の会員料みたいなものを払い、1週間の会員なら15分いくらといった仕組みになっているようだった。

手続きが簡単なら使ってみようかと思ったのだが、ここには1日しかいないし、高くつきそうだったためやめる。

コロンブスらが船を乗り出していったという川沿いの通りを歩き、バス停のあるTeatro lope de vegaを目指す。途中、シティツアーのバス乗り場があり、これからまだバスがでるようだった。

20分ほど歩いてようやく到着。バス停のベンチに座り込み、水を飲む。しばらくして目的のバスがくる。運転手にユースホステルの住所が書かれた紙を見せ、そこでおろしてくれるよう頼むと愛想よく了解してくれた。運賃はカード式もあったが、現金で前払いも可。運転手に1.1ユーロ(約160円)払うとチケットをくれる。バスは低床だから乗りやすく、通路もわりかし広いのでリュックを背負っている者にとっては助かる。

5つ目くらいのバス停に着いたとき、運転手が声をかけてくれる。バスを降りたものの、それらしい建物がないので、近くを歩いていたおじさんにスペイン語で聞くと、建物を指さし、これがそれだと教えてくれる。今、建物の裏手にいるので、ぐるっと回って反対側の入り口に行かないと入れないと教えてくれる。

反対側にまわると確かにユースホステルのマークがあった。なにかの研修所のような白い四角い建物であまり宿という感じがしない。

入り口すぐの受付で泊まれるか聞くと、予約をしてあるか聞かれたが、部屋は空いているとのことで無事チェックインできる。料金は1泊20ユーロ(約3200円)。朝食付きというから許容範囲。

部屋はベッドが川の字に3つ並んでおり、うっすらと冷房が付いていた。貴重品ボックスがないのがいまいち。ベッドの上にリュックを置くと、水をがぶ飲みする。けっこう喉が乾く。これでマドリッドで買った水1.5リットルをすべて飲み干してしまった。

さっそく外にでる。近くのバス乗り場に行くとネット屋があったので、そこに入る。そこはネット専業ではなく、コピーや印刷業などもやっているところで、ネットを使いたいというとまずカードを買えと言われる。しかもカードは買い取りでカード代だけで1ユーロもするという。ネット代は1時間2ユーロ(約320円)するというので、2ユーロ払って30分だけすることに。当然、日本語は読めず書けず。モロッコ情報とグラナダ情報を探す。

それから近所のスーパーで水を新たに購入。2リットルで0.6ユーロ。安い! マドリッドのバスターミナルの店が異常に高かったことに今頃気づく。

バスを待つ間、ちょっとふらついてみると中国料理屋を発見。今は営業時間外だったが、平日の昼間には7ユーロ(約1000円)で食べ放題をしているらしい。

バスに乗って中心部へ向かう。宿に向かうときはわりと遠く感じたのに、こうして逆に向かっているとえらく近いことがわかった。少なくとも最初に着いたバスターミナルからさっき乗ったバスの停留所までの距離よりも近い。

時間は18時をすぎていたが、まだまだ昼のような明るさ。店もそこそこ開いているし、歩いている人たちや自転車に乗っている人も多い。

ここに来たのは中南米に関する文書を保管しているというArchivo de Indiasに行くためだったが、まだ閉館中(数年前から閉館中)とのことで目的は達成できず。しょうがないので中心部をふらつく。

まちなかには車は乗り込めないようになっているが、路面電車が中心部まで乗り込んでいる。カテドラルがあり、広場があり、数百年の歴史がある大学がありと、まったくのヨーロッパの都市だ。などと、当たり前のことを思う。

暑いのでコーンに乗っけるタイプのアイスを買ってみると値段は1.7ユーロ(約300円)。味はいいんだけど、このユーロ高ではすべてが高く感じる。晩飯をどっかの食堂で食べようかと思っていたが、だいたいどこも10ユーロほどはするのであきらめる。

開いているスーパーに入ってみて気づくのが、中南米と違ってレストランなどの料理と比べてお菓子が安いこと。中南米では屋台などで100円とか200円で食事ができる一方で、例えばポテトチップはそれと同じか、それよりも高い値段で売られていた。だから、スペインと、あるいは日本とお菓子の値段はそう変わらない。中南米を回って思ったが、やはりお菓子(きれいにパッケージされているものに限る)も工業製品なのだ。自前の工場で大量生産し、それを買うことのできる消費者がたくさんいなければ、お菓子と言えども安くない。そんなある意味当たり前のことを思い知る。

スペインのガイドブックは持っていなかったが、さっきインフォメーションでもらった地図を見ながらぶらぶらすると、地図通り、セビージャのまちは碁盤状には整理されていない。とにかくず、なんだかくねくねした道が多い。先が見通せない道が多い。

それはそれでおもしろくてよいのだが、露店や屋台などはないから、いまいち歩いていても何かうまいものにぶつかりそうな期待感がない。非常に静かで落ち着いていて、整理されていて、退屈なのだ。

もし、ぼくが初めての外国旅行でここを訪れたなら、きっと印象はまったく違っただろう。実際、1998年に初めてヨーロッパに来たとき(そのときはドイツのフライブルク:Freiburg=ドイツの環境都市と呼ばれているまちがメインだった)は、その街の佇まいというか、醸し出される雰囲気というか、そういうものに驚いたものだ。こんなところが本当に地球上に、同時代にあるのだ、とまで思った。日本の都市と比べて統一観があり、穏やかであり、滑らかであった。

ここと同じく、中心街への車の乗り入れは禁止されており、枕木代わりに路面が緑化されたちんちん電車が市街地を走り、石畳は今も昔の様式のまま修復され、列車の駅には改札もなく、自転車と一緒に乗り込むことができた。

そんなまちを現実に見て、驚いたものだったが、なんだか今はそういう感覚がなくなってしまった。中南米の都市という都市が、ヨーロッパ調だったこともあるだろうし、一度見たら飽きてしまう自分の性分もあるかもしれない。

セビージャの中心部は、周辺部から比べれば人は多いとは言え、人口密度は低く、人とぶつかるようなこともない。

退屈なまちだと思いながらも結局日暮れまで歩き続け、宿に戻ったのは22時半だった。ちなみに日が暮れたのは21時半頃だった。

部屋の鍵を開け、ドアを開けると中にパンツ一丁のおじさんがいて驚く。もう一人若い男も上半身は裸。冷房はかかっているものの、ほとんどきいていない。

シャワーを浴びて寝るが、夜中何度か暑くて目が覚める。

Fin

[Buenos Aires:Argentin]いざスペインへ

08/07/07(月)
[Buenos Aires:Argentin]

徹夜でたまっている日記を書くつもりが4時頃眠くなり、リビングのソファでしばし寝てしまう。結局、大してはかどらず。

今日も夜明けは7時半過ぎ。
8時すぎに寝ている管理人をおこし、宿を出る。歩いて近くの空港バスが出ているターミナルに行く。シェラトンホテルの近くにそれはあるのだが、ただのオフィスのような建物なのであやうく通り越すところだった。

9時のバスがあったのでそれに乗る。運賃は30ペソ(約1100円)。高い。市内バス(1ペソ)でも行けるらしいが、時間が2時間以上かかるというので、こちらにしたがやっぱり高いなぁ。

9時過ぎにバスが入ってくる。荷台にリュックを預けて乗り込む。

今日もブエノスは曇り。冴えない空の下、バスは中心街を抜け、一路空港へ。

国際空港であるEZEIZAには40分ほどで到着。意外と小さかった。バスを降りて自分が乗る航空会社の名前air cometが書かれてある入り口から中に入る。チェックインカウンターにはすでに列ができていた。

蛇行している列の最後尾に並ぶ。いよいよ問題のチェックイン。緊張する。基本的にユーロ圏は往復チケットがないと入れず、搭乗拒否にも遭うことがあるらしい。同じ宿に泊まっていた人は逆ルート(マドリッドーブエノス)で、あやうく乗れなくなるところだったとのことだった。その人も片道のチケットしか持たずに、空港でチェックインしようとしたらアルゼンチンから出るチケットの提示を求められ、いったんは搭乗拒否に遭ったらしい。カウンターを変えたりして(要は担当者次第)30分ほど粘ってやっとのことで乗れたと言っていた。

同じようなことが我が身にも起こるかもしれず、そのためいくつかのシミュレーションをして、ああ言えば、こう言う作戦を立ててはいたが、なんせ外国語でのやりとりだから、うまくいくかは未知数だった。

20分ほど並んでようやくぼくの番になる。カウンターは4つほどあって、男性が担当しているのが1つで、ほかは女性。女性でもメガネをかけたやや年輩の人が一人で、残り二人は20代くらいだった。

こうしたことは結局担当者次第。前の客の対応を見ながらどの担当者がいいかなと見る。一部には長引いているカウンターもあり。狙うべくはあっさりとしてそうな若い女性の窓口と思っていたところ、ビンゴ!でその人のところが空く。

"Adelante(アデランテ)"と言われて、カウンターの前に立つ。エージェントからもらったE-チケットの紙を渡す。彼女はそれにちらっと目をやり、すぐに手続きを始める。

特に帰りのチケットをチェックしている様子はなかったから、この調子であればすんなり終わりそうだ。そんなことを思いながら、リュックを計りの上に置いたりして待つ。

するとそこで彼女はこちらを見て口を開いた。スペイン語で帰りのチケットは持っているか、という質問だった。一瞬、ドキッとしたが、その様子は見せないようにして、泰然として"No"と答える。すると彼女は帰りのチケットが必要だと言い始める。

おおっと、これはちとやばいかな、と思いつつ、そんなこと知らなかったとばかりに、なぜ必要なのかと聞くと、彼女はそれに答えず、ちょっと待っててと上司らしき人の所へ相談し行く。

戻ってきて今度は、どこに住んでいるのかと聞いてくる。日本だと答えると、じゃあ日本までのチケットが必要だと言い始める。

最悪のパターン。日本までのチケットってあんた、いくらすると思ってんの(実際はアフリカ行くのと変わらない。約1500ドル)。などと思いつつ、どう切り替えそうかと頭をぐるぐる回す。

とりあえず自分はスペインに行ったらすぐに船でモロッコに行くのだと英語で伝える。するとマドリッドにはどれくらいいるつもりだと聞いてくる。なので3~4時間いて、セビージャにすぐ移動し、セビージャからジブラルタルに行って、そこからフェリーに乗ってモロッコに行くと伝える。が、フェリーという言葉が伝わっていない模様。彼女は、じゃあモロッコ行きのチケットを見せてという。なので、何度か”By ferry”などと言うがいまいち伝わっていない。

彼女がモロッコから日本に行くのかと聞いてくるので、モロッコからモーリタニアに行ってマリに行って、ガーナに行って、中東に行って、中央アジアに行って、中国に行って、そこから日本に帰ると英語で説明すると、彼女はさっき相談していた上司らしき男性に大きな声でなにやら伝えると、男性は顎をクイっと動かす。どうやらゴーサインが出たよう。彼女はOKと言ってチケットを発券する手続きに入った。

ハハハ、ラッキーなんて思いつつも、気が変わらないうちにさっさとこの場を離れようとチケットをもらったらグラシアスと言ってさっさとカウンターを離れる。

2階の空港税を払う窓口で55ペソ(約2000円)の空港税を払い、まだ出していなかったハガキをターミナル内のポストに投函し、出国手続きに入る。

ポケットに金属の鍵を入れたまま通ったため、セキュリティチェックでひっかかり身体検査。荷物を受け取り、出国手続きへ。メガネをかけたおばさんの窓口がちょうどまわってきたが、一言も言葉を交わすことなく、出国スタンプを押しただけで終了。

待合いのターミナル内にある店は化粧品などばかりでいい店はなし。残っていたペソをドルとユーロに変え、あとはベンチで待つ。

12時半頃から搭乗開始。飛行機に乗り込むとホッとしたのだろうあっという間に眠ってしまい、気づいたらすでに飛行機は雲の上だった。

14時頃、食事が出る。春巻きのような形をしたものがメイン。なんだかいまいち。食後、また寝る。

目が覚めて窓の外を見てみると、大地が見え、家が集まっている集落も見える。

18時頃、シートベルトを締めるよう促すアナウンスが流れ、着陸態勢に入る。眼下にはわりと大きなまちが見える。スペインはこんなに近かったけな、と不思議に思いながら真面目にシートベルトをする。高度が下がるごとに左耳が痛む。

無事、着陸。ちょうど日が落ちようとしているときだった。着陸はしたものの、機体は飛行場の端の方に止まったまま動かない。客も降りる準備などしていない。不思議に思い、乗務員に聞くとブラジルのナタール(?)というところらしい。どうも着陸の目的は燃料の補給のよう。

1時間後に再離陸。

外はもう真っ暗。窓の外を眺めることもできないので、おとなしくフランス語のお勉強。これがなかなか頭に入らない。20時頃には晩飯が出るのかと期待していたが、出ず。

隣の席のおじさんはいつの間にか別の席に移動していたので、二人分の席を使って就寝。飛行機はさすがに狭い。

Fin

[Buenos Aires:Argentin]日系の子らとおでかけ

咳は徐々に快方に向かっている。よく眠れる。

出発が明日ということで、午前中は荷物の整理など。この宿に置いていくにした『ロンプラ』の南アメリカ版、『歩き方』のアルゼンチン等版など数冊を本棚に並べる。

宿のネットで写真のアップロードをする。

午後はアルゼンチン生まれの日系の子らとおでかけ。14時半頃に宿で待ち合わせする。

うちなー文化祭に行ったときに展示の説明をしてくれた子にブエノスを案内してくれないかと頼んだところオッケーが出て、今日のおでかけとなった。

メンツはアルゼンチン側が説明をしてくれた現在大学生の女性と同じく大学生の彼女の弟、それからその弟の友達(イタリア系)。日本人側はぼくのほかに同宿だった男二人。みな九州出身。

まずは宿の中を案内し、それから外に出る。ぼくは彼女らに、ここらに住む20代が週末にでかけるところに行きたい、とリクエストしたのだが、今日(日曜日)はだいたいみんな家にいるとのこと。週末は土曜の夜などはバーやディスコテカのような踊れるところに行って一晩中遊び、日曜は家でのんびりするというのが定番らしい。

弟の友達が車を持っているとのことで、まずは彼の家に行く。ぼくらから見ればヨーロッパ式の天井の高い豪壮な建物(ブエノスでは普通にある)のアパートの一室に彼はきょうだいと住んでいるらしく、車の鍵を取りに行ったついでに部屋を見せてもらう。日本式に行えば3LDKといったところだろうか。きょうだい二人それぞれの部屋と共同で使うリビングと台所などがあり、それぞれの部屋は6~9畳程度。

車はプジョーの中古らしい古い型の車。前に2人、後ろの座席に4人乗り込みいざ出発。ぼくが数日前に行ったプエルトマデーロなどブエノスの港地帯をぐるっとまわって、大学なども見て回る。大学の中も見たかったのだが、あいにく日曜は休みで入れないとのことで外観だけ。大学は街角にあり、外観もほかの建物と変わらないので、言われないとそれが大学とはわからない。

運転手の弟の友達は、ブエノスの建物・歴史が好きなようで、古そうな建物が見える度にいろいろ説明してくれる。彼は日本に数ヶ月いたことがあり、多少の日本語はできるが、建物や歴史を説明できるほどではないので、彼のスペイン語を弟くんが日本語に通訳してくれる。

ちなみに弟君は、日本に行ったときに東京から鹿児島までチャリで行ったらしい。チャリがどんなチャリかは聞きそびれる。今度は北海道から縦断(というか斜断と行った方が地形的に正しいと思うのだが)するつもりらしい。またアルゼンチンでも南の方とかにチャリで行ったことがあるという。なかなかたくましい。

大学の入学方法について聞いたところ、これがなかなか興味深かった。アルゼンチンでは国立の大学に入りたいならば、まず希望する学部の入学試験の科目となっている分野を1年間だったか数ヶ月間だったか学ばないといけないらしい。それ用の公共の教育機関で、例えばソーシャルワーカーになりたいなら、社会学や福祉学を受講し、その後に入学試験を受け、パスすればはれて大学生になれるという。特筆すべきはその予備学校とでも言うべき事前に通う講座も大学も授業料は無料だということ。

そういう仕組みであれば、たとえ入学できなくても、それなりの専門知識を持った人が社会に増えるので、なかなか良いことなのではと思うが、その辺が実際にどうなのかはわからない。

ただし、入学試験も卒業試験も難しく、卒業するのは大変らしい。

なお、私立大学はかなりカネがかかるらしい。日本円で言うと私立大学の授業料は1ヶ月に数万だとか言っていたから、日本の国公立と同じかそれよりちょっと高いくらいのよう。アルゼンチンのレストランなどの従業員の給料は10万円を越えるのは稀(まれ)らしいので、私立大学進学は多くのアルゼンチン人には無縁のものだろう。

ともあれアルゼンチンの教育制度は一度チェックしてみる価値はありそう。

空はおなじみの曇り空。今日は雨も降りそうな天気。

ぐるっと走ったところで、例の世界一綺麗な本屋に再び行く。ぼくはこの間、『らぷらた新報』で仕入れたキューバ関連本を弟君等に協力してもらい、探してみるがなかった。今日もここはお客は多い。

それからブエノスで一番古い町並みが残る地区に行く。ぼくにとっては2回目だったが、骨董屋が並ぶ通りは初めてだった。骨董屋には炭式アイロンや古い電話、タイプライター、ランプ、家具など見ていておもしろい物がいろいろある。

例ののみの市が開催される場所の近くで、今日も市が出ていたようだが、雨が降ってきたこともあり、早々に車に戻る。

それから若者が集うという数年前にオープンしたショッピングセンターに行く。あたりは車やお客で混雑していて、駐車場に入れるまでがなかなか時間がかかる。駐車場の上り坂の部分で車を止め、運転していた彼が車から降りると車がバックし始める。ブレーキをかけ忘れたらしい。ばたばたと手ブレーキ(とぼくが習った教習所のおじさんは言っていた)をひき、車を止める。幸いなことに後ろに車がいなかったから面倒なことにならずに済む。

ショッピングセンターは古い市場だかの建物を改装して造ったらしく、外装は宮殿というか神殿のような厳かで古めかしい雰囲気だが、中に入ればいずこも同じまばゆいばかりの光と物があふれる世界。ぼくでも知っているようなブランドの店もあるが、知らない店が圧倒的。人をかき分けてでないと進めないくらい、客は多い。小さな子どもから中高生くらいの子から中高年まで。年寄りはほとんど見なかったかな。

建物は3階立てで、ファストフード店が並ぶフードコートからゲームセンター、映画館などもある。

中で弟君がブエノス名物らしいチョコ菓子をごちそうしてくれる。豪華なちょこぱいっと感じのもので、なかなかうまい。

一通りショッピングセンターを眺めてまわった後、夕方も6時近くになっていたので、ティータイムにすることにする。いくつかカフェの候補をあげてくれて、その中からほとんど観光客しか行かないというアルゼンチンの有名作家などが愛用していたカフェに行く。が、やはり観光客で長蛇の列。30分から1時間待ちは必至だったので、近くにあった候補にも入っていなかった普通のカフェに行く。

それぞれ飲み物や食べ物を注文。ぼくはパフェを食う。アイスの味はまずまずだが、ジャマイカのデボンハウスには負けている。

ブエノスの若者がレストランで食事などをするときには、いくらくらいを越えると高いと感じるのかと聞くと、だいたい25ペソ(約1000円、1米ドル=3.1ペソ)以上のものは頼まないらしい。だいたい日本人バックパッカーと同じくらいの感覚かな。

アルバイトをしている学生は多く、だいたいレストランなどで働く人が多いという。レストランだと給料のほかにチップがもらえるので、そのぶん手取りがいいとか。肝心のバイト代は聞いたものの忘れる。1ヶ月1万円程度しかもらっていないのかというような印象を受けたように思うのだが、金額は怪しい。

日本人旅行者から聞いた話だが、旅行中に出会ったアルゼンチン人から給料を聞かれたとき、ちょっと少な目に10万円だか15万円だかと答えたら、かなり驚かれたという。聞いたアルゼンチン人も聞かれた日本人も仕事は、IT関係の同じような仕事だったらしいが、アルゼンチン人の反応からは給料の差は数倍ありそうだった模様。その旅行者は日本人らしく相手の給料は気が引けて聞かなかった/聞けなかったと言うから正確にはどの程度の差があるのかはわからないけども、日本料理店の人から聞いた話から想像するに、たぶん2~3倍くらいの差はあるだろう。

7時頃に宿まで送ってもらいお別れ。

あとは宿にて過ごす。

Fin

[Buenos Aires:Argentin]ごろごろ、しゃぶしゃぶ

08/07/05(土)
[Buenos Aires:Argentin]

・終日宿
・しゃぶしゃぶを食す

薄暗い7時過ぎに起床。

出発が近いこともあり、また特にでかけたいところもないので、終日宿にいる。宿のフリーのネットで写真のデータを整理したり、アップロードしたり、本を読んだりなんたり。

6時過ぎ、同室の旅行者と二人でこの間ごちそうになった日本料理店にでかける。彼は明日南アフリカへ、ぼくは明後日スペインへと行くので、最後の晩餐といったところ。

予約していた7時半すぎに店に着き、しゃぶしゃぶの食べ放題を注文。ご飯のお代わりも自由。飲み物を別に頼んで全部で75ペソ(約2500円)ほど。この旅ではご飯にかけるお金としては最高値だが、それだけの価値はある。

満腹になって22時頃、店を出る。土曜の夜ということでか人通りは多い。中南米の首都で深夜近くにこれだけの人通りがあるまちも珍しい。やっぱりここは安全だ。

あるピザ屋なんかは長蛇の列ができていて、若者だけというわけではなく、小さな子どもを連れた家族も多く見かける。こんな時間からピザを食べるなんて・・・と驚く。

張り裂けそうな腹を抱え、ぼちぼち歩きつつ、休みつつ宿に戻る。

Fin

[Buenos Aires:Argentin]韓国人街をぶらり、ゆば農場

08/07/04(金)
[Buenos Aires:Argentin]

・韓国人街、ボリビア人街をぶらり
・ユバ農場に関するNHK番組を見る

夜中、咳やくしゃみで目が覚める。今日はウルグアイのコロニアデルサクラメントに行こうかと思っていたが大事をとって、また往復の船賃が惜しくなり、中止。

11時まで宿で写真のデータのアップやスペインのバスや宿、モロッコ行きの船調べ。スペインのガイドブックがないからちと困る。

11時半頃、宿を出て韓国人街を見に行くことにする。バス乗り場に向けて歩く。川が近い地域にあるビルは、その半分あたりくらいから上が昨日と同じく霧で見えなくなっている。Retiroという電車の中央駅の前から50番のバスに乗る。バス代は1ペソ(約40円)。

右へ左へとバスは中心街を曲がりくねって、30分ほどかけてようやく郊外に出る。そこからさらに30分ほどすると、通り沿いにハングルで書かれた看板がちらほらと見えてくる。

韓国人街の端まで行こうとしばらく乗り過ごし、病院の前で止まったのでそこで降りる。歩いてちと戻り、ハングルの看板が並んでいる通りに行く。情報では韓国人街には焼き肉食べ放題の店があるらしいが、それらしきものが見あたらない。昼過ぎということもあり、飯でも食っていこうかと思っていたものの、開いてるらしい食堂も入りづらい雰囲気があり、結局それは断念。

八百屋でみかんを1kgを買う。2ペソ(約60円)。

韓国人街と呼んでいる一帯には、ハングルで書かれた看板が30ほどあり、職種としては食堂や理髪店、スーパーなどいろいろ。ハングルだけで書かれている看板が多いため何をやっているのかわからない店も多い。

韓国人街の隣はボリビア人街になっており、宿での情報では危険なため行かない方がいいとなっていた。だが、せっかくなのでちらっとふらつく。一帯はコンクリートの平屋の家がずらずらと並んでいて、通りや壁が汚れていて、小便臭いところもあり、あまり良さそうなところではなかったが、それほど危険な感じはなく。と言っても人通りがほとんどないから、悪いことをやろうと企んでいる人にかかれば、辺りに助けを求めるのは難しそう。

家しかないのでさっさと幹線道路に戻り、バスを捕まえる。そして、また片道1時間かけて戻る。

バスに乗って20分もするとブエノスアイレスの商店街の端にかかる。バスからまちを眺めていると、商店が建ち並んでいる地帯の広さでいうと、ブエノスアイレスはこれまで行った中では南米一広いように思える。面積当たり(あるいは人口あたり)の本屋の数は、ここが圧倒的にナンバーワン。これは北から南までのアメリカ大陸全部の中でも一番と言えるのではないかと思う。日本でも本屋の数で言えば、ブエノスアイレスに匹敵するのは東京くらいしかないだろう。

中心部の通りで適当にバスを降りる。外を歩いていると排気ガスが臭いし、タバコの煙もひどい上、咳も出るし、乾燥しているからか鼻の奥もひりひりとするので、さっさと宿に戻る。

いったん戻って晩飯を食う場所を探してもう一度出るが、いいところが見つからず。結局、みかんを晩飯代わりとする。

夜はNHKの特別番組を見る。ブラジルのゆば農場を取り上げた番組でなかなか興味深かった。ゆば農場はブラジルに移住した日本人の数家族が農業をしながら一緒に暮らす共同体で、ユバなんとかという人(故人)が創設者らしい。

互いに助け合いながら生きるという理想はわかるものの、ブラジルにいながら”日本人として”生きることにこだわり、日系人以外との結婚を認めないという共同体(特に年輩者たち)のあり方には首をかしげてしまう。

その共同体ならでは窮屈さ、不自由さから恋人ができたことをきっかけに”やま(と呼んでいた)”を離れていく若者は後を絶たず、このままでは共同体の存続も厳しいとのことだった。

番組では農場にいる若者や農場を離れた若者、日本に出稼ぎに行った若者などにスポットをあて、共同体内の揺れを描いていた。

ゆば農場の近くには、その独裁的な運営方法を批判して袂をわかった人たちのグループである新生農場というのもあって、そこも番組は取り上げていた。

20年ほど前にゆば農場から分離して新しい共同体を作った人たちは、もっと自由な共同体を作ろうと、子どもが農業を離れ、別のことがやりたいと言えば、戻ってくることを信じ、子どもたちが出ていくことを認めたりしていたという。

しかし、出ていった子どもたちのほとんどは帰ってこず、今では70歳以上の人ばかりが暮らす共同体となってしまった。

ゆば農場に生まれた若者で、現在日本に出稼ぎに来ている若者は、ブラジルに帰るつもりはあるものの、日本での自由な生活(さまざまな物が買える自由=ブラジルよりもよい収入)が魅力的なようで、いつ帰るかはわからないと言っていた。また、別の出稼ぎに日本にいる若者(20代前半)は、帰らないと言い切っていた。

番組では、ゆば農場で若者のリーダー的な存在である男性の動向に特にスポットをあてていたのだが、彼は最終的には共同体に戻ることを約束しつつ、サンパウロに出ていく。理由はアクセサリーづくりを本格的にやりたいということらしく、その技術を持ってまた共同体に戻ってくると彼は言っていた。

彼のほかにも近々農場を出ると宣言する若者は多く、番組を見ている限りでは、これまでのようなやり方では10年のうちにほとんどの若者がいなくなるんじゃないかというような印象を受ける。

ブラジルでも一目置かれているゆば農場のバレエ団も今の人数がぎりぎりで、これ以上減るとなると公演活動を縮小
あるいは休止するしかないと言っていた。

創設者のゆば氏を知っているあるいはそれに近い世代は、当時の理想にこだわり、”ゆばさんは、ああ言っていた、こう言っていた”と若い人に諭すらしい。が、諭される若者はゆば氏を知らないし、大人の中にも実際に話したことがあるという人は少なくなっている現状では、説得力がないというようなことをリーダー的存在のある若者が言っていたのが印象的だった。

今後、ゆば農場がどう変わっていくのかが気になるところ。日系人以外の人との結婚を認め、また農場から離れて何かやりたいことがある若者については特に引き留めないという方向に転換しても、外の世界にいったん出ても戻りたくなるほどの魅力を農場が持ち得なければ、おそらくそこで生まれ育った若者を引き留めるのは無理だろう。よそ者をもっと受け入れる(今でも日本人旅行者など一時滞在者を受け入れてはいる)にしても同様の魅力がなければ難しいであろう。

日系以外のブラジル人を上手に受け入れて、日本的なきまじめさとブラジル的のんきさをうまく融合できれば、また別の展開はありえるかもしれない。この場合は、とりあえず創設者の意志や思いは歴史の中に仕舞いこんで、新たな共同体のイメージを模索する必要があるだろう。

また、農場の農産物がゆばブランドとして知られてきているということだったので、そうであれば仕事と生活が混在している現在の共同体のあり方を変え、農場を会社のようなスタイルで経営する方向に持っていくやり方ーつまり、みなが自動的あるいは事実上強制的に農作業をやる現在のスタイルではなく、希望した者だけが会社と契約して働くやり方も考えられるだろうが、そうなったときに共同体の良さが存続するかはよくわからない。

要は農場の人々が何を目指すかだろう。ゆば農場設立の理念の実現を目指すのか、若者=自分たちの子どもたちがずっと住み続けたいと思う農場=共同体をあり方を目指すのか、などなど。

とにかくいろいろ考えることの多い番組であった。数年後に続編をやってくれるとおもしろいのだけどな。

Fin

2008年8月22日金曜日

【速報】ヨハネス入り(南アフリカ共和国)

どうも。

昨日(8/21)の朝7時半頃(ヨハネス時間、ガーナ時間では5時半)に無事、ジョハネスバーグ(と地元では発音する)に着きました。

赤道近辺から移動し、ここは今、冬です。が、日中も20℃台半ばまで気温があがるのでたいして寒くないですね。

ここはまちの中心部は治安の悪さでは世界最悪との評判のため、あまり安く、自由に動くことができません。

泊まっているのは郊外の巨大なショッピングセンターなどが集まっている安全な地区で、この辺りは多少歩けるもののみるべきもの、見たいものがないというつまらないところです。宿は『歩き方』にも載っている安宿で1泊80ランド(約1200円:1ランド=7.5米ドル)。

宿の人が空港に無料で迎えに来てくれるので、空港からここまではなんの問題もなく来れました。

早速、黒人居住区でマンデラ元大統領やツツ大司教が住んでいたことで有名なソウェトに昨日行き、今日はのんびりしているところです。

さすがに南アフリカでも有数の近代都市ということで、道路の整備のされ方、ショッピングセンターの品ぞろえなどはまったく”先進国”と変わらず。中心部の治安さえ良ければ、あるいはここに現地の友達がいれば、もっとおもしろそうなのですが。

明後日の日曜にはジョバーグ(と略されている)を離れ、ダイアモンド鉱山で有名なキンバリーというところに行き、1泊した後、ケープタウンに行く予定です。

次の更新はおそらくケープからです。

では。

2008.08.22(金)13;22
Johannesburg,R.South Africa

[Buenos Aires:Argentin]らぷらた新報のバックナンバーを読む

08/07/03(木)

[Buenos Aires:Argentin]

・らぷらた新報

今日は、なんだか微熱気味。喉の痛みも続いており、席が止まらない。

そういうわけだし、ここは空気が悪いので午前中はずっと宿で過ごす。

午後になってから、うちなー文化祭で知り合った現地の人に教えてもらった外務省の日本広報センター(だったかな?)に行く。住所を見ると意外に近く、宿から歩いて10分ほどだった。

ビルの1~2階(正確には中2階?)を使っており、自動扉にJAPONの文字あり。中に入ると左手に受付があり、警備員の男性がスペイン語で身分証明書を見せるよう言ってくる。パスポートのコピーを渡すと帰りに返すまで預かるとのこと。




1階のフロアはたいして資料もない閲覧室のようなところで2階が図書室になっている。1階から階段を20段ほど上ると上がったところからずっと四角に本棚が続いており、日本に関するスペイン語、英語、日本語の本が並んでいる。冊数はサンパウロの図書館よりも少ない。3000冊ほどだろうか。日本語の本のタイトルを見ていくと2000年以降に出た本がけっこう並んでいる。日本にいるときに読もうかと思っていた日本の近現代史関係の本が何冊かあり、ここで読みたい気分になるが我慢。マンガも手塚治虫など種類も冊数も少ないがあった。

また、日本人が書いたアルゼンチンについての本も30冊ほどあり。日系移民の人のサクセスストーリーを書いた本や定番の『アルゼンチンを知るための●章』もある。

また、ここではアルゼンチンで発行されている日本語の新聞『らぷらた新報』が読めるとのことだったので、図書館のカウンターで作業をしていた男性に頼んでバックナンバーを出してもらう。最新号はその人が個人的に購読しているものを貸してくれた。対応は穏やかでなんとも日本的。

バックナンバーは今年はじめのものからある。前から適当にパラパラめくりながら見ているとけっこうおもしろい記事がある。

例えば、平成20年(と、『らぷらた新報』は元号を使っていた)2月9日版の記事の”モネーダ不足”についての記事。モネーダとはコインのこと。つまり、ペソの紙幣はあるが、コインが不足しているという話。バスに乗るときの例をあげ、日常生活の中でコインしか使えないことがここでは多々あるらしいのだが、それなのにそのコインの流通量が少なく、その結果コインの闇市場ができているという。お釣りや両替などでコインを必要とする人たちがちょっと高いカネを払ってコインを買っているらしい。

また、新垣興一という人についての記事。この人はペルー生まれの日系の人らしいのだが、この人は自分の祖母に移民当時の話を録画し、その映像をYou Tubeにアップしたらしい。これはいつか見てみねばならない。

それからカストロが引退を表明した時期には、社説のようなコーナーで2回にわたりキューバのことを取り上げ、カストロをねぎらいながら、二人の専門家の近著を紹介している。紹介されていた専門家は1人はサンパウロ大学のルイス・モニス・バンディラトという学者で、彼は最近「マルティからフィデルに、キューバ革命とラテンアメリカ」という論文を発表し、その中でキューバのベトナム化の危険を指摘しているらしい。要はアメリカがキューバに介入することが考えられ、そうなるとそれに対する反米闘争あるいは戦争が起こるだろうということらしい。

紹介されているもう一人は、アルゼンチンの学者ホアン・ガブリエル・トカティアンという人で、この人はわりと安定した形でキューバは資本主義を採用して行くであろうというようなことを言っているらしい。

その他、ゲバラ生誕80周年に関連してはゲバラについての記事もあり。CIA秘密メモランダム第2333号は要チェック。

その他、4月15日の「様変わりしたアルゼンチン農村 上」ではトラクター1台、播種機1台で1日に50ヘクタールの種まきが可能になっているという驚愕の事実が書かれてあった。

まだすべて読み終わっていなかったが、閉館時間の17時が来てしまい、後ろ髪をひかれる思いで退館。

あとは宿にいるのでした。




Fin

[Buenos Aires:Argentin]荷物発送、プエルトマデーロ、ボカ地区

08/07/02(水)

[Buenos Aires:Argentin]

・荷物発送
・フェリー下見
・プエルトマデーロ
・ボカ地区


目が覚めるも、外はまだ暗い。まだ夜中かと思って時計を見ると7時過ぎだった。廊下に出ると昨日よりもひんやりしている。気温10℃ちょっとくらいか。

しばらく日記書きしてから昨日結局できなかった荷物の発送をしに外に出る。

Retiroの駅の前を通る。屋台でできあがったばかりのピーナッツ菓子を買う。2ペソ。




国際郵便局に行って番号札を取ると9人待ち。しばらくベンチに座って待つ。9人なんてあっと言う間かと思っていたが、かなり待つ。




ようやく自分の番が来て、2kgタイプの段ボールを二つ出す。まず荷物の中身を聞かれ、本だと言うと中のチェックはされず。




それからその場で窓口の若い兄ちゃんから、2枚の紙を受け取り、ここに送り主と送り先の住所を書けと言う。段ボールにはそれらを買く欄があり、すでに書いていたのでなぜこれが必要なのか不思議に思ったが、とりあえず送り先を書く。




1つできあがるとその宛先の荷物を計る。両方とも3kg越えで合計8kg近くだった。




先ほど記入した紙はシール式になっており、窓口のおにいちゃんは一片15cmほどの段ボール紙を取り出し、そこに宛先を書いたシール紙を貼る。




そしてその横に航空便を意味するスペイン語のスタンプを3つ縦に並べるように押す。3つ縦に並べて押すならそれ用のスタンプを作ればいいのに、などと彼の仕事をぶりを見ながら思う。




それからパソコンになにやら入力し、プリントアウトした紙(何が書かれてあるかは未確認)をまたその段ボール紙に貼る。そうしてからその段ボール紙の上の真ん中あたりにボールペンで穴を開け、そこにひもを通す。




そこで段ボール紙の作業は終わったようで彼は立ち上がってカウンター左のところから身長160cmくらいの人ならすっぽる入るくらいの大きな白いプラスチック製麻袋を取り出してきて、口を開き、その中に段ボールを落とし込む。




そうしてから口を閉じるためのゴムひもらしいものを取り出し、さっきの段ボール紙の穴に通してから袋をねじり、そのくびれのところにゴム製らしいひもを回し、結びとめる。それで作業は完了。ちなみに荷物一つにつき袋は一つのよう。このような一連の作業を一人の窓口の係員がこなしていた。




計っていたわけではないが、おそらく窓口に立ってからすべえて終わるまで30分ほどかかった。代金はそれぞれ5kgぶんのカネを取られたため、予定よりも大幅な出費を強いられる。二つで計7kgの荷物を航空便で送るのに、約13000円ほど。




宿を出たのは11時過ぎだったのに郵便局を出たのは12時半頃。やれやれ。




郵便局前に人だかりができているサンド屋台があったのでそこでブランチ。ハンバーガーとチュラスコ(牛肉の薄いステーキ)のサンドを売っていた。チュラスコの肉は厚さは5mmほどであるもの縦は10cm、横は30cm近くある。サンドするパンは20cmくらいしかないから完全にはみ出している。




注文をするとその場で炭火の鉄板で、生肉やハンバーグのパテを焼き、肉がだいたい焼けると、スペースを作り、そこに生卵を落とす。卵は目玉焼きではなく、両面を焼き、さらに黄身の部分は崩して完全に火が通るまで焼く。




そうして卵ができあがったら、その卵を肉の上に乗せ、それをパンで挟む。屋台にはもやしの炒め物や唐辛子のピクルスなど5種類ほどの具(?)が用意されており、それを適当に乗せて食べるスタイルになっている。




これでチュラスコの値段は6.5ペソ(約300円)。近くの駐車場の縁に座って食べていると、後ろの駐車場を掃除しているおじさんが、後ろから「Amigo , quant bale?」とパンの値段を聞いてくる。6.5ペソと答えるとうんうんとうなづいて去っていく。




それからウルグアイのコロニア・デル・サクラメント行きの船が出ている港に時刻表と値段を見に行く。




途中、たまたま移民博物館があったので立ち寄る。無料ではあったものの、実物の展示はだだっ広い部屋に無造作に当時使われていた鞄などが置かれているだけ。パネル展示も非常に簡単なものばかりであまり力は入れられていないよう。説明はスペイン語のみ。




さっさと後にし、港に行く。船乗り場は古い煉瓦づくりの建物をリニューアル中で、外観と中がまったく雰囲気が違う。




サクラメントへは3時間かかる遅い船で往復約180ペソ(約60米ドル)。けっこう高い。




それから港沿いを歩く。プエルトマデーロ地区と言われるこの辺りはドックとして使われていたところを再開発したところらしく、赤煉瓦倉庫などがレストランなどとして使われている。ちと横浜の赤煉瓦倉庫街?に似ている。




ドックには日本にも立ち寄ったことがあるという練習帆船が2挺、博物館として公開されていたので、サルミエント大統領号博物館の方に入ってみる。船の内部には航海時の写真などが展示されており、その中には日本の船員らと写ったらしい写真もあった。




その後、サッカーチームで有名なボカ地区に行く。あること1時間近く。途中、国立歴史博物館に寄るが、ここも無料で展示はちょっと。民俗博物館の方がおもしろかった。




ボカ地区まで来ると人通りは少なく閑散としている。壁などにスプレーで落書きしている場所多数。サッカースタジアム近くまで行って引き返す。




右の靴のソールがはげてきたため、店でボンドを買い、宿に戻って接着作業。




空気が悪いせいか咳が頻繁に出るため、宿にいて養生するも、夜は腹が減ってしまい、近くの中国系の人がやっている食べ放題の店で晩めし。40種類ほどある料理を眺めていると肉の料理がかなり多いことがよくわかる。代金は飲み物題を加えて24ペソ(約900円)ほど。こうしたところに行かないの野菜が食えないのが、ここのつらいところだ。




腹が膨れたら宿に戻り、あとは宿でのんびり。宿のリビングでは夜中遅くまで笑い声がしていた。




Fin

[Buenos Aires:Argentin]郵便作業、世界で一番綺麗な本屋、日本料理屋

08/07/01(火) くもり

[Buenos Aires:Argentin]


・送りもの準備
・世界で一番綺麗な本屋
・南米一の日本食屋

7時過ぎに起きる。外は薄暗い。

8時くらいになるとリビングに朝飯を食うために宿泊者が集まる。テレビではNHK。物価の高騰のニュースなどが流れる。

10時頃、日本に送り返すものを入れるための段ボールを探しに行く。狭い通りをきつい排気ガスを吐きながらバスが走っていく。どうも昨日あたりからのどの調子が変だ。まちなかを歩き回っていると、バスの排気ガスに加え、歩きタバコの煙を盛んに吸ってしまうため、だんだんとのどの奥がいがらっぽくなってきた。

段ボールなどのゴミは前日の夕方、集めて回っている人たちがいたから、歩き回っていても道ばたにはなかなか落ちていない。中国人が経営している香港などといった名前のスーパーで段ボールがもらえるという話も聞いたが、なかなか好みのものが見あたらない。

結局、30分ほど歩き回ってたまたま落ちていたちょうどよいサイズのものをゲット。




宿に戻り、梱包。梱包しているうちに写真のデータも一緒に送ろうと思いつき、ブエノスの電気街にDVDとUSBメモリースティックを買いに行く。

メインストリートのフロリダ通りに3階建ての吹き抜けの建物があり、そこにだいたい70軒ほどパソコン機器やその他電気製品を売っている小さな店が入っている。

店を見て回った結果、4GBのメモリースティックが90ペソ(約3500円)だったので、それを購入。4GBだとだいたい8000円くらいはするので格安だ。DVDも1枚購入。1.3ペソ。ちなみにこの電気街ではi-Phonを発見。i-Phonを見たのは初めてだ。

宿のPCではDVDが使えないので、DVDが使えるパソコン屋を探す。これがなかなかない。カネを出してコピーしてくれるところはあるが、自分で使えるパソコンを置いているところは少ない。

ようやく見つけてDVDを焼きに行くが、うまくいかず断念。しょうがないので宿に戻って持ってきたメモリースティックにデータを移し、それを送ることにする。

梱包した段ボールを持って近くの郵便局へ行く。歩きながらふと一つの箱で送るより2つに分けて送った方が安全かと思いつく。伝え聞いた話では、アルゼンチンから日本に荷物を送ったところ、荷物が届かなかったとか中が抜かれていたという話があるし、中央郵便局以外では2kgまでしか送ることができない。

最初から中央郵便局に行く方法もあったが、昨日見に行ったときにはものすごい行列ができていたため、できれば近くの郵便局で済ませたかった。

郵便局では送りもの用の段ボールを売っていたので2kg用の段ボールを買う。1つ3ペソ(約110円)。試しに1つの方に詰めるとちょうど2つの箱に収まりそうだったので、もう1つ追加で買う。

郵便局には20人ほど客が待っている。窓口で用事をすませるには番号を書いた紙をとって、番号待ちをしなければならない。あまりに待っている客が多いので、中には番号札を取ったもののすぐに出ていく人もいる。

うまく2kgの箱に収まったので、これで送れるかと思ったら窓口で重さを量ると4kg近くあり、これではここからは送れないといわれ、中央郵便局に行くよう言われる。

なんだかんだしていたため時間はすでに16時半。ここから歩いて行くには30分ほどかかるため、この日は送るのを断念。宿に戻る。

18時過ぎ、同部屋の一人を連れて日本食屋へ向かう。ブラジルで世話になった人の紹介。

途中、どっかの新聞か何かが世界で一番綺麗な本屋として選んだ店に立ち寄る。行ってみてその評判にうなづく。その本屋は劇場を改造して造ったらしい本屋で、内装は大理石のような石張り。1階の入り口から入り、奥に行くと正面奥に低い舞台があり、そこがカフェになっている。舞台の前のスペースは円形をしており、真ん中には地下に降りるエスカレーターがある。そして、その周りを取り囲むように本棚が並んでいる。

天井は3階まで吹き抜けになっており、2階と3階は円形の壁に沿って廊下があり、そこにも本棚が並んでいる。だから、1階からでも2階の本棚の分野別タイトルが見える。

革張りのゆったりした椅子がところどころに置かれており、そこに深く腰をかけて本を読んでいるおじさんがいる。2階では床に座り壁を背もたれ代わりにして本を読んでいる若い女性もあり。またデジカメで写真を撮っている人もいる。

30分ほど見て回り、目的の店に移動。

ブラジルで世話になった人の名刺を見せるとご飯をごちそうしてくれることに。店の内装は純日本風で畳の部屋やついたてなどもある。ずいぶんお客が入っている。日本人らしい人やアルゼンチン人らしい人たちも次々入ってくる。

途中から席を替わり、奥のカウンターで仕事をしているマスターにいろいろ話を聞かせてもらう。なかなかすごい人で26歳のときに南米に来て、はじめにベネズエラ、それからコロンビア、その後、パナマやペルー、ウルグアイなどでマグロの仕事をしてきたらしい。45歳の頃に日本に帰るが、自分ではまだ若いと思っていたものの就職先等がなく、再び南米に行くことを決意。日本の料理屋で数年修行して、大学時代の先輩等のつながりもありアルゼンチンに移住。そして日本料理屋をはじめたらしい。

今では南米一の日本料理屋と言われ、南米各国から日本人などが来るらしい。また、地元でも有名人が通う店で、なんどかテレビなどの撮影現場として使われたことがあるらしい。

おもしろかったのは、テレビなどを取材を受けても、まったく客が増えなかったらしいこと。最初はテレビの広告効果を期待して無料で受け入れていたが、まったくその効果がないため有料にしたらほとんど依頼がなくなったらしい。

夜中の12時前になったところでタンゴに連れていってもらう。

日付が変わった深夜にホテルに戻る。

Fin

[Buenos Aires:Argentin]チケット探し、そんでゲット

08/06/30(月) 晴れ

[Buenos Aires:Argentin]

・チケット探し再び

・5時間後の悲劇

7時過ぎに起床。例のごとくこの時間は暗い。しばし宿にて過ごす。

10時過ぎ、宿を出てチケット探しの続き。宿近くのパン屋でキッシュを買って(7ペソ:約250円)腹ごしらえをしてから行く。

宿の情報ノートでチケットを安く売ってくれるエージェントがあるとあったので、そこのオフィスに行く。ビルの10階だかなのだが、ビルの入り口にはオフィスの名前などが出ていないため見つけるのに一苦労。近くまで来ているはずなのに、あたりの人に聞いてもわからないと言われ、とりあえず片っ端からビルの警備員に聞いて回ってやっとこさ見つける。

このエージェントは、南アフリカやスペインなど片道のチケットでは一般的に入れないとされている国への片道切符を偽の復路航空券を付けて売ってくれるということで、そういったところに飛ぶ旅行者には重宝されているらしい。安いというならマドリッドまで700~800米ドル台もあるかもと期待していったところ、これが大して安くなかった。マドリッド行きが1050米ドルで南アフリカはそれよりさらに高かった(いずれも片道)。

とりあえずパスして、先週一度行って安かったエージェントにもう一度行く。この間とは違う若い男性が対応してくれる。相手も英語は拙いが、対応はとても丁寧。それでマドリッド行きのチケットを聞いたらなんと830米ドルと出た。航空会社はAir Comet。これまでの最安値よりもさらに100米ドルも安い。片道でも売ってくれるようだし、これで決める。

お金は持っていなかったので、とりあえず予約だけしてもらう。そして予約票をもらう。お金は明日までに払えとのこと。

これでブエノスでの大きな問題が一つ片づく。一息ついたので道ばたで売っているピーナッツ菓子のマニグランデを頬張りながら昼飯どころを探して回る。食べ放題の店はけっこうあるのに、普通の安食堂がないのがブエノスの欠点。あってもパスタの類だったりするから食べたいとあまり思わない。

それでも適当に店を決めて昼飯を食う。

その後、飛行機代を今日払ってしまおうと思い、ATMに行きカネをおろし、さっき行ったエージェントに行く。

さっき対応してくれた男性にお金を払うと伝えるとさっそくパソコンをパチパチたたいて準備してくれる。が、その作業の手が止まり、"I'm sorry"と言って値段が変わったと言い出す。聞くとこの5時間ほどの間に燃料代が変更され30ドルも値段が上がったという。しょうがないので、そのぶん上乗せした金額を払う。支払いは米ドルかペソ。ATMでは米ドルがおろせないのでペソで払う。

なお支払いは担当者ではなく、オフィス内に設けられている支払い所で払う。南米ではたまにあるスタイル。担当者がくすねるのを防ぐためなのか?

チケットはE-チケット。あまりありがたみのないプリントアウトされた白い紙を受け取り、宿に戻る。

あとは宿にてあれこれ。

Fin

[Buenos Aires:Argentin]宿変え、映画鑑賞、うちなー文化祭

08/06/29(日) 晴れ

[Buenos Aires:Argentin]


・宿換え
・露店
・ノミの市
・ドキュメンタリー映画鑑賞
・ウチナー文化祭

朝はのんびり起きる。夜はけっこう寒かった。

荷支度をして、宿代を払い、11時前にチェックアウト。歩いて日本人宿に向かう。日本人宿までは歩いて20分ほど。日曜の昼前ということだったが、歩行者天国の店はそこそこ開いており、平日も並んでいる路上の露天商は今日も風呂敷を敷いて商品を売っている。




宿にチェックインする。部屋は二段ベッドが3つあるドミトリー。すべて埋まっている。もちろん日本人ばかり。今日は全部で20人近くが泊まっているよう。




宿代は宿泊日数が長くなればなるほど安くなる仕組みになっている。一泊なら今朝までいた宿とほとんど変わらないが、1週間となると1日あたり200円ほど変わってくる。飛行機のチケットがいつのものになるのかわからない自分にとっては、なかなか都合の良いシステムだ。




昼過ぎに宿を出て、レストランの多いとおりにあった食べ放題の店で昼食。18ペソ+水代で結局22ペソ(約700円)かかったが、分厚い肉から野菜、フルーツ、デザート(ケーキやプリン)まで食べられるから安い。普通の食堂みたいなところでも最低15ペソ(約500円)はするし、そういうところで安いのはパスタやラビオリのようなものばかりで、野菜がまったくと言っていいほど食えないので、野菜不足の解消の点からもこうした店は役立つ。




宿に近くにはこうした食べ放題屋が5軒ほどあり、だいたい店の名前からどこも中国系の人が経営しているらしいことが伺える。値段もおおむね16~20ペソ。ちなみにある旅行者はブエノスアイレスは食べ放題のまちだと言っていた。




歩いて昨日も行った民俗博物館に行く。昨日行ったときに入り口にドキュメンタリー映画の案内があり、それを見に行くことにしたのだ。







映画は16時から。それまでたまたま近くでのみの市をやっているのを発見し、それを見学。若い人から年寄りまでが、さまざまな物を売っている。古本や古着、食器、手作りのアクセサリーや絵、絵はがきなど。食い物がないか探すが見つからず。




映画はアンゴラの独立運動とそれを支援したキューバがテーマ。制作はイギリスのBBCのよう。




30人ほどが入る小さな部屋で映写機を使っての上映会。会場には老若男女30人ほどが集まり、用意されたパイプ椅子ほぼ埋まった。上映に先立ち主催者らしい若い男性(20代)が挨拶をする。もちろんすべてスペイン語なので、ぼくには何を話しているかわからない。




映画は英語のスペイン語字幕でキューバ人が話しをするときはスペイン語なので字幕なし。言葉はわからなかったが、支援に携わったらしいキューバ人の話しぶりなどからアンゴラの現状は一筋縄ではなかったらしいことがわかる。キューバがアフリカの独立運動を支援し、軍隊も派遣していたことはゲバラがアフリカに派遣されたことから知っていた。ある本によれば、キューバに連れてこられた人々のいわば母国を植民地支配から解放するためというのが、キューバがアフリカの独立運動を支援した1つの理由らしい。なお、船戸与一のジンバブエ現代史を描いた小説『蛮族ども』にもキューバ人の助っ人が登場している。




映画を見終わった後、また沖縄文化祭を見に行く。昨日は歌だったが、今日は沖縄の舞踊や音楽をやるというのでそれを見に行くことにしたのだ。沖縄の踊りは日本にいてもなかなか見られないので、この機会に見てみようと思った次第。




昨日と同じように地下鉄で最寄りの駅まで行き、入場料を払って建物の中に入る。




琉球舞踊などを見ていて思ったのが、この旅行の間にたまたま見たこちらの踊りなどと比べると、腰を振ったりする動きがまったくないことに気づく。アフリカ系の踊りとは腰降りとステップの点でまったく違う。動きも基本的にはスロー。こうした違いもなかなかおもしろい。




途中、近くの日本食材店で豆腐と箸を買って食べる。豆腐は400gほどもあるので、それだけで腹が膨れる。味はまぁまぁ。醤油があった方が良い。




この日はあまり遅くならないうちに帰る。21時頃帰途につく。地下鉄はちゃんと動いていた。




あとは宿でごろごろ。




Fin

[Buenos Aires:Argentin]チケット探し、民俗資料館、ウチナー文化祭

08/06/28(土) 晴れ

[Buenos Aires:Argentin]

・チケット探し
・宿の下見
・民俗資料館

・ウチナー文化祭

朝起きてから宿のフリーネットでブエノスにある日本人宿の位置を確認する。もう1泊ここに泊まるが、宿代が28ペソ(約1000円)なので、値段の安い日本人宿に移るのである。

また航空会社のオフィスもネットで調べる。コルドバに行ったときにまちにあった看板でマドリッドまで450米ドル程度からの片道チケットがあるとあった。その看板の主はPlunaというウルグアイの航空会社だったので、ネットでその会社のオフィスを調べてみたのだ。また、その会社のホームページでチケット代を調べてみると、450米ドルはなかったもののマドリッドまでの片道が900米ドル前半とあった。これまで調べた中では最安値。オフィスの位置を確認するとブエノスのアエロパルケという空港にあるらしい。

9時前に宿を出て、まずはアエロパルケに向かう。歩くと1時間ほどかかるので、宿の人にアエロパルケ行きのバス乗り場を聞いてから宿を出る。

土曜日の午前ということでか、人通りはまったくと言っていいほどない。交通量も少ない。

宿の人に教えてもらったとおりに歩いていくとバス停を発見。ちょうどバス停に着こうかというときに一台バスが過ぎ去る。フロントにアエロパルケ行きの番号が書いてあったのに、逃してしまいもったいない。

バス停に白髪のおばさんがやってきたので、念のためアエロパルケ行きのバスにここから乗れるかと聞いてみると、ここではないと言われる。アエロパルケに行くなら、さらに先に歩いたところの交差点を右に行ったところから乗らないといけないらしい。宿の人とおばさんとどっちが本当なのかわからないが、とりあえずおばさんの言うことを信じて、そちらの道に行く。

その通りにも確かに乗る予定の番号のバスが通っていた。しばらく待って到着したバスに乗り込み、一応、運転手に尋ねてみると、これではないと言う。降りて、また待つ。

また同じ番号のバスが来たので、また乗って運転手に確認してみると今度はアエロパルケに行くという。

バス代は行き先によって微妙に違っていて(数十円程度)、運転手に行き先を告げると運賃を教えてくれる。だが、運転手に運賃を渡すのではなく、運転席の後ろに設置されている自動発券機にコインを入れて買う。この発券機はコインにしか対応しておらず、別のときに両替してもらおうと運転手に紙幣を出しても運転手は両替さえしてくれなかったことがあった。紙幣対応の発券機あるいは両替機は大して高度な機械のようには思えないのに、なぜ導入しないのかと思う。

アエロパルケは鉄道駅のさらに北(北東)の川沿いにある。一帯は一面朝靄で高層ビルは10階あたりから上が靄でけむって見えなくなっている。

バスに乗って30分ほどでアエロパルケに到着。アエロパルケ内のPlunaのチケットカウンターに行き、マドリッド行きのチケットの値段をスペイン語で訪ねる。カウンターの女性はぼくのスペイン語がわからなかったらしく、英語で話すよう言われる。

マドリッドまでのチケットは960米ドルほど。安かったエージェントよりもさらにちょっとだけ安い。とりあえず値段だけはわかったので、それでアエロパルケを後にする。

アエロパルケから歩いて、鉄道駅の前を経由し、まちなかに行く。そして、チケットを買うためにエージェントを探して回る。土曜日でも午前中は開いているだろうと思っていたが、かなりの確率で閉まっていた。それでも4軒ほどは開いていたので、それぞれでブエノス・ヨハネスバーグ間とブエノス・マドリッド間のチケット代を聞いて回る。いずれも往復は1300米ドル程度で、片道も1000米ドルちょっと。高い。昨日行ったエージェントはブエノス・マドリッドが960米ドル程度だったから、昨日のエージェントの方が安い。日本人がやっているエージェントにも行ったが、ここはチケット担当が休みということで値段を聞くこともできなかった。

それから日本人宿を探す。何度も行ったり来たりしてやっと見つける。宿はビルの上の方で1階の入り口にある呼び出しボタンを押すと日本語で声が返ってきて、下まで鍵を開けにきてくれる。宿主の女性(40代くらい?)はぼくを見るなり「なんでそんな汚い格好をしているの? そんな格好をしているとね、ここじゃ損をするよ。ブエノスは都会だからね、けっこう格好で人を見るのよ」とのたまふ。もし、それが本当ならブエノスは面倒なまちだ。

とりあえず中を見せてもらい、予約をしてその宿を後にする。今日、移動しようかとも思ったが、すでに今泊まっている宿のチェックアウト時間の12時をまわってしまった。

そんなこんなしているうちに午後になる。チケット探しは今日はやめて、ブエノスで気になっていた民俗博物館に行くことにする。

民俗博物館は古いヨーロッパ調の建築物を改装して作られていた。入り口がちょっと奥まっているのでややわかりにくい。入り口を入ってすぐ左手の受付で入場料を払い、中を見学。展示物は、主に先住民であるインディヘナの人たちの暮らしに関するものが多い。古い石器などから最近まで使われていた生活道具、それぞれで着られている服などなど。展示の解説はもちろんスペイン語のみ。

吹き抜けのようになっているところには机があって、そこにこの博物館が発行している機関誌があった。新聞スタイルのもので表記はもちろんスペイン語。

何気なくそれを見てみると、「Okinawa」という単語が目に入る。「LA OKINAWA PORTENA(※Nの上にはニョロニョロがつく)」という見出しがついたその記事を読むと「Uchina Bunkasai」「Seiko Yagi」といった単語とともに、Bunkasaiが行われているらしい住所も書かれていた。しかも、ちょうど今日もフェスタの開催日になっている。

おお、これは掘り出し物だと思い、博物館のスタッフにこの住所にはどうやっていけるのかを訪ねる。すでに時間は16時を過ぎていたので、もしや終わりかけかもしれないと思いつつも、せっかくなので行くことに。

近くの地下鉄乗り場から地下鉄に乗り、20分ほどで目的の駅に到着。ちょうど日系人らしいおばあちゃんが同じ車両に乗っていた。

地下鉄の駅を出て、住所の番地を標識で確認(各通りを書いた標識・看板には各区画の番地が、たとえば900~1300などと書かれている)し、目的地の方へ向かう。

交差点をわたってすぐ左の店に日本語を発見。どうも日本食材を扱っている店だった。その先、2軒ほど隣が目的地でそこには4階立てほどのきれいなビルがあり、在亜沖縄県人連合会会館(だったっけな?)と名前が書かれていた。

入り口にはハッピを来たスタッフがいて、来場者を中へと案内している。

入場料を払い、パンフレットなどをもらって中に入る。パンフレットには行書体で「沖縄文化祭」とあり、その下にスペイン語で「FESTIVAL CULTURAL DE KINAWA, JAPON」とあり、さらに下の方に「アルゼンチン沖縄県人移民100周年記念」とあった。

中にはいると日系人らしい人ばかりがいるが、言葉はスペイン語ばかり。日本語はほとんど聞こえない。入ってすぐがホールになっていて、そこからは子どもの歌声が聞こえてくる。ホール入り口あたりの踊り場(?)は、記念グッズの販売所兼食事どころになっていて、うどんやおにぎりなどの弁当を販売していた。


人は大勢来ていてホールをのぞくと、300人くらいぶん用意されたパイプ椅子はほぼ満席。子どもがステージで歌っているのを見ると、どうも歌のコンテストをやっているようだった。

博物館で見た「Yagi Seiko」の展示は3階で行われているとのことだったので、階段を上ってあがる。

だだっぴろいフロアでその展示はされていて、半分が「Yagi Seiko」、半分が年寄りの人の展示だった。それぞれがどういう人なのかわからなかったので、どうしたもんかとぶらぶらしていると10~20代のスタッフが話しかけてくる。最初の2人はあまり日本語が得意ではないようで、ぼくの質問がわからいようだった。そこへ代わってやはり20代くらいの女性スタッフがやってきた。

彼女は日本語を解したので、展示物の説明もスペイン語だったため、よくわからなかったので、彼女にちょっと展示のことを説明してもらう。

彼女の説明でわかったが「Yagi Seiko」とは女性ではなく、男性で漢字を見ると「せいこう」と読むのが日本語としては正しそうだった。

彼(故人)もアルゼンチン移民の一人で、画家だったらしい。展示物の絵や親族に宛てた手紙、絵描き道具などはすべて彼のものらしい。彼は日系人としては初めてアルゼンチンで絵の賞をとったりした人らしい。

もう一方の展示は、沖縄からアルゼンチンに移民してきた人で、アルゼンチン唯一の日本語新聞「らぷらた新報」の立ち上げ人でもあった○○(名前を忘れる)の展示だった。アルゼンチンの日本人移民100周年を今年迎えるということで、彼の家族写真などからその歴史を振り返るといった趣向の展示になっている。




一通り展示を見て、1階におり、ちょっと腹ごしらえ。うどんを頼む。15ペソ(約500円)と高い。出てきたものはうどんというよりも沖縄そば。ブラジルはカンポグランジで食べた沖縄そばよりも沖縄のものに近い。味もよろし。




それから子どもたちののど自慢大会を聞く。入り口でもらったパンフレットの中にこののど自慢のプログラムがあって、そこには「第20回幼少年歌祭り」とあった。




ぼくがホールに入ったときは5歳くらいの女の子が歌っていて、歌はみな日本語。演歌が多い。音のはずれている子もいるが、総じてうまい子が多い。沖縄民謡を習っているのか、あの沖縄の歌特有の超高音で歌う子もいる。




しばらくすると小さな子の部は終わり、10代の部になる。10代も演歌を歌う子がいたが、日本で最近はやった歌を歌う子も多い。




歌を聴きながらプログラムに目を通す。プログラムには歌う子の名前と生まれた年、所属している日本人会の名前、それから歌う曲名が書かれている。すべてアルファベットのため、日本語の曲名がパッとはわからないものもある。例えば、「RYOUKA」というのがあり、おそらくは”漁歌”なのだろうが、はっきりとはわからない。「CHIEKKO YOSARE」に至ってはまったくわからない。




以下、子どもたちが歌っていた曲名を記す。アルファベットを適当に漢字などにしているため、実際の曲名と合っているかは未確認。




「先生」「ぞーさん」「おかあさん」「上を向いて歩こう」「夜空ノムコウ」「好きになった人」「島んちゅうの宝」「涙そうそう」「人生二勝一敗」「三人の写真」「BEST FRIEND」「天まで届け」「あなたに逢いたくて」「子どもの世界」「I BELIEVE」「女やんしゅう流れ歌」「河内男節」「時の流れに身をまかせ」「未来へ」「あなたとともに生きていく」「三日月」「タイヨウノウタ(全部カタカナだったっけ?)」「花(喜納唱吉の)」「名前のない空を見上げて」(以上、小学生程度の子が歌ったもの)。




中学生以上は、以下のとおり。




「GOOD BYE DAYS」「きよしのソーラン節」「夢いちびお(?)」「未来へ」「道行き博多発(陸奥のタイプミスか?)」「北の女房」「演歌桜」「恋愛写真」「じょんから女節」「タイヨウノウタ」「壊れかけのラジオ」「漁歌(?)」「冬美のソーラン節」「箱根八里の半次郎」「酒と泪と男と女」「三日月」「伊那の勘太郎(?)」「HERO(ミスチルのではない)」「飢餓海峡」「SAY YES」「ごめんね」。以上。




さすがに小さい頃から歌をやっている子がいるということで、素人の耳判断ではプロ級に聞こえる子が何人もおり、驚く。しかし、演歌は日本とアルゼンチンでは気候が逆なので、なんだかおかしく感じるのもあった。例えば、日本では”北”は寒い場所をイメージさせる言葉だが、アルゼンチンは逆。南の方が寒い。




途中の休憩時間に近くにいた初老の男性に話しかける。100周年というのがブラジルと同じなので、どういうことか聞くと、ブラジルのサントス港に着いた移民の中からアルゼンチンに来た人から数えて100年目ということらしかった。その男性は20代くらいに親族からの呼び寄せの形でアルゼンチンに来たらしい。ブエノスアイレスに住む日系人の奥が携わっていた洗濯業にその人もついたらしい。日本で育ったということで日本語は流暢。




ぼくがずっと旅していると言うと、けっこう驚いていた。南米にはいくらでも日本人旅行者がいるのでたいして珍しいことではないと思うのだが、なかなかそういう旅行者と合う機会がないのだろう。そして、アルゼンチンも最近は治安が悪くなっているから気をつけるようにと言われる。まちの中心部は大丈夫だが、郊外にかけてが悪いらしい。




そのおじさんは近くにいた仲良しらしいおばさんに声をかけ、ぼくを紹介する。そのおばさんは小さいときに家族と一緒にパラグアイに移民し、農業をやった後、アルゼンチンに移ってきたという。パラグアイでは「ずいぶん苦労したよ」と言っていた。ぼくがパラグアイのイグアスに行ってきたことを言うと「ずいぶん寂しいところだったでしょう?」と言われる。そんな感じは受けなかったのだが。




おじさんの親類は、今、ブエノスアイレスで鮨のデリバリーをしているらしいのだが、最近はここの人も鮨の味を覚えてきたので、けっこう儲かっているよう、と言っていた。




会場の壁などにはブエノス生まれの歌手大城クラウディアのポスターやインタビュー記事のコピーが張られていた。日系3世だかで、ここで数年前にブームの「島唄」が大ヒットしたときに宮沢和史と知り合い、彼のプロデュースで今は日本で歌手活動をしているという。




歌祭りは予選と決勝があり、決勝まで聞いたがかなり遅い時間になったため、結果を聞くことなく帰ることにする。23時近くになっていたのだが、近くから地下鉄に乗れるから問題ないだろうと思っていたところ、地下鉄の駅にすでに終電が終わったらしく入り口が閉鎖されていた。




ゲッと思いつつ、しょうがないので歩いて帰ることにする。30分ほど歩いて、どうも方向がおかしいように感じ、地図で確認すると反対方向に歩いていた。引き返す。




幸いなことにこの時間帯でも開いているレストランやファーストフード店がそこそこあるから、少し安心。それでも店の中に人はいても、交通量はかなり少ないし、歩いている人はほとんどいない。




途中からバスに乗り、宿近くまで行く。




宿近くの通りを歩いていると24時を過ぎようとしているのに、パン屋が1軒まだ開いていて客も10人ほどいた。水とちょっと小腹がすいたので菓子パンを買って帰る。




宿に戻ってタダでできるネットをちらっとしてから就寝。




Fin

2008年8月20日水曜日

【速報】明日、南アフリカへ

無事、チケットを買うことができ、明日の夜の便で南アフリカのヨハネスバーグにむかいます。急に思いついてヨハネスバーグから一気にマダガスカルにいこうかと思いチケットを探したのですが、今はハイシーズンということでたったあの距離なのに960米$という信じられない値段だったためマダガスカル行きは延期したところです。

ヨハネスバーグには3日ほどいて、その後、ケープタウンに移動し、そこからナミビア→ザンビア→タンザニアかスワジランド→モザンビーク→マラウイ→タンザニアかを経由して、とりあえずはエチオピアをめざします。

というわけで、次回は南アフリカから。

2008.08.19 19;19
Accra,Ghana

2008年8月13日水曜日

【速報】アクラ(ガーナ)入り

現在、ガーナの首都アクラにいます。今朝の9時にトーゴでガーナビザのはられたパスポートを受取り、それから移動してきました。国境から約5時間でここについたのですが、いやあ、驚きました。アフリカとは思えないくら道がきれい、つまりごみが落ちていないし(他が汚いのですが)、ジャンクションは立派だし、さすが西アフリカで一番に独立し、民主化もすすんでいる国ですね。

それから公用語が英語ということで、これまでのフランス語圏ではまったくわからなかった言葉が突然それなりにわかるようになり、不思議な感覚を覚えましたね。やはり言葉はわかるにこしたことはありません。結局フランス語は数字のほか4つほどのワードを覚えただけでまったく進歩せず。それでもここまでこれたのは、けっこう交通機関やホテル関係者に英語使いがいたからで、その点は中米や南米よりも上かもしれません。


ところで先程南アフリカに行くチケットを探して回ったのですが、予想したほどには高くなくてほっとしました。ここから往復のチケットが665ー680米$。明日は念願のATMを探しに行き、エージェントをもういくつか回って飛行機のチケットを買う予定です。

では

2008.8.12 19;02
Accra,Gahna

2008年8月10日日曜日

ろめ(とーご)いり

けさの9じごろことぬーをでて、たくしーでいどうすること3じかん。

ひがしとなりのくに、とーごにきました。こっきょうで1しゅうかんのびざをとってのにゅうこくです。

ちずでみたかんかくよりもとーごはせまいですね。ここから3kmもひがしにいけばもうがーなです。あしたがーなのびざをしんせいし、そのうけとりに2かほどかかるので、らいしゅうなかごろにがーなにいどうです。

では。

2008.08.08 11;58
Lome,Togo


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2008年8月7日木曜日

ブエノスアイレスに到着

08/06/27(金) 移動中はくもり、ブエノスは晴れ

・真夜中の国境越え
・霧
・1時間超の停車
・日本式の地下鉄
・チケット探し

気持ちよく眠っていたのに、添乗員の声で目が覚める。バスはいつの間にか停車している。みながぞくぞくと降りていくから国境に着いたよう。時計を見ると夜中の2時半。

まずはブラジル側の出国手続きをし、それからアルゼンチン側に行き、入国手続き。特に質問等もなくスムーズだったが、国境を越えるのに1時間近くかかる。

バスに乗ってまた熟睡。

そしてまたバスが停車したのを感じ、目が覚める。どうやら朝飯のよう。外は薄暗いからまだ夜明け間もないのじゃないかと思って時計を見たところ9時を過ぎていた。

バスを降りると一帯は霧に包まれており、道行く車も10mほど手前まで近づかないとわからないほど濃い。朝食もぼくはパス。

30分ほど停車した後、再発車。すっかり目がさめてしまったが、窓の外は霧で沿道に何があるのかすら見えない。

11時頃になるとだいぶ霧は薄くなり、沿道にブエノスアイレスまであと154kmという看板が見える。もう近い。

けっこう早く着くなと思っていたらバスのスピードが落ち、そのまま車道に停車。椅子から身を乗り出し、前を見ると車が連なっていて渋滞している。事故なのかストライキなのか、とにかくバスは止まったまま進まない。

30分たっても進まず。ぼくはしばらく数独をしていたが、バスの扉が開き、みな外でリフレッシュしはじめたので、ぼくもそれに習う。反対車線に出て、連なっている車の前方を見るが、ずっと車がつながっていて先頭は見えない。

同じバスに乗っていた高校生くらいのダンスグループ(ダンス教室の生徒らしかった。指導する先生2人に生徒が男女合わせて6人ほど)の子等も暇つぶしに外に出てきて、遊びでダンスをしたり、ポーズを決めて写真を撮り合ったりしている。う~ん、青春だ。

結局、バスが再度走り出したのは13時過ぎ。1時間半ほど止まっていた。ゆるゆると走り出したバスは、すぐに高速道路のジャンクションのようなところに出る。何が渋滞の原因だったのかと、窓の外をずっと見ていたが、それらしきものは発見できず。

再度走り出してからは順調で、快調にとばす。信号待ちがないからずんずん進む。

14時頃になるとビルが目立ち初め、大きな商業看板も増える。町中は通らずに走り、ブエノスのターミナルに15時頃到着。ターミナルに入る直前に通った通りのあたりは、建物もボロボロで道にはゴミが散乱し、いかにも荒廃しているという地域だった。後にこのあたりの治安が悪いとわかる。

ターミナルは横1列にバスが並ぶタイプのターミナルで、やはり首都らしくそれなりに大きい。

リュックを受け取り、ターミナル内の建物に入る。喫茶店や土産物屋、レストラン、ネットカフェなどがあるが、日本のように蛍光灯を多用していないので、全体的に暗い。

人の流れを見ながらターミナルの出口を目指す。出口までは200mほどあった。出口を出たすぐの歩道には露店が並び、靴下などと並んでパラグアイでよく食べたチーパが売られている。あの歯ごたえが気に入ったぼくは、さっそく小さい袋のものを購入。食いながら歩く。

冬ということで、ブエノスは薄暗い。寒さはたいしたことはない。15度くらいはあるだろう。

ブエノスでは日本人宿に泊まる予定が、その住所を書いた紙等をなくしたため、とりあえず歩き方に載っているユースホステルに向かうことにする。

バスターミナルから100mほど歩いたところに鉄道駅と地下鉄の駅があるのだが、その間は路上の物売りと小売店でいっぱい。ブエノスの鉄道駅は石造りの立派な建物で、前を通るときにはここからゲバラは汽車に乗ったのかと感慨にふける。

地下鉄の駅に降りて切符を買う。ここもチケットは機械化されておらず、窓口販売のため30人くらいの行列が常にできている。

歩き方で路線を確認し、チケットを改札機に通し、回転バーを押してホームに入る。ちょうどいい具合に電車が入ってくる。それに乗り込んでみると、なんとも不思議な感じを受けた。車両の作りが日本の地下鉄と同じなのである。両側の壁に沿って長いシートがあるだけ。車内を見渡すと「禁煙」という文字を発見。そういえば、ブエノスの地下鉄の一部は日本の車両を使っていると歩き方か何かに書いてあったな、と思い出す。なお、ブエノスの地下鉄のどこかの路線は東京の地下鉄銀座線だったかの模範になったものらしい。

20分ほどで宿近くの駅に到着。陸上にあがり、地図を見ながら宿を探す。宿にはすんなり到着。部屋もドミトリーが空いていた。

荷物を下ろしてネットをちょっとやる。

それからブエノスのまちを見に行く。まちはまったくヨーロッパ的で一部には古い石畳もあり。宿から歩いて15分ほどすると、メインストリートのフロリダ通りに出る。途中、インフォメーションがあったので、そこでブエノスの地図をもらい、またトラベルエージェントが集まっている場所を教えてもらう。

フロリダ通りは常時歩行者天国の通りで、通り沿いには服屋や革製品屋、電化製品屋、そして本屋が並ぶ。アルゼンチンではコルドバに行ったときにも本屋が多いのに驚いたが、ここの通りはさらに多い。きちんと数えなかったがおそらく200mほどの通り沿いに少なくとも10店舗はある。どの店もだいたいワンフロアのみだが、店構えは立派。

とりあえず飛行機のチケットのあたりを探るべく、1軒のエージェントに行ってみる。感じのいい男性が対応してくれ、マドリッドとケープタウン、あるいはヨハネスブルグ行きのチケットの値段を聞く。この中で一番安かったのが、マドリッド行きの980ドル(ドル表示だった)。前にネットで調べていたときもほとんどが1000ドル越えだったので、ここはわりと安いのを紹介してくれた。

もしかしたら他ではもっと安いのがあるかもしれないと、この日は値段だけ聞いてエージェントを後にする。

フロリダ通りに戻ってぶらぶら。キオスクにはブラジルに負けないくらいいろんな種類の雑誌がある。目に留まったのは、そのキオスクで売っている地図。アルゼンチンだけでなく、南米版と世界版とがあり、地形などを反映したイラストチックな地図が売られていて、ちょっと惹かれる。また、一部のキオスクにはキューバの3ペソクバーノ紙幣を拡大したポスターみたいなものも売っている。キューバの3ペソ札と言えば、当然柄はチェ・ゲバラ。さすがにゲバラの出身国らしく、本屋でもゲバラの本がけっこうあるし、アメリカの出版社が出した英語版の写真集などもあり。

またフロリダ通りの真ん中には中央分離帯のように地面に風呂敷を広げ物売りしている人たちがずらずらと並んでいる。売っているものは、冬らしく手袋やニット帽、靴下、マフラーなど、身に着けるものが多い。なかにはちょっとしたおもちゃや変な音がする玉などを売っている人もいる。そして、その中に5本指ソックスを発見。1色ものから女の子用らしいボーダーのものまで数種類がある。値段を聞くと1足7ペソ(約300円)ほど。ちと高いのでパス。

この通りは人通りも多い。気をつけてないと人にぶつかるくらい。嫌なのは、とにかく歩きながらたばこを吸っている人が多いこと。割合で言うと2~3割くらいが吸っているように感じる。この通りではどこを歩いていてもたばこの煙が漂ってくる。吸っているのは若い男女から中年の男女まで幅広い。

暗くなってきたので宿に戻る。途中で食事ができるところがあればときょろきょろしながら帰るが、これがなかなかない。高級そうな店はあるが、いわゆる食堂的なところがない。やっとこさ見つけた食堂的なところに入り、一番安い部類の17ペソ(約700円)の料理を頼むとピーマンの肉詰めとジャガイモのペースト、フランスパンが出てきた。なんだかパットしない料理だが、食う。

宿に戻ると日本人らしい旅行客が一人いた。20代前半くらい。ひとりで日本語でなにやらつぶやいているから声をかけると、”日本人ですか?”と聞かれる。彼はこれからここの友達と飲みに行くらしい。ここの友達はオーストラリアに留学かワーキングホリデーで行ったときに一緒だったらしい。その友達は23時頃迎えに来ると言う。

宿にはフリーのインターネットがあったので、宿に戻ってまた飛行機探し。安い会社を探す。

あとは寝る。

Fin

フロリアノポリスからブエノスアイレスへ

08/06/26(木) くもり

今朝も7時過ぎに起床。いつものように旨いご飯をごちそうになる。

その後、荷造り。バスは10時発だったため9時半くらいに着くよう車で送ってもらう。この間まちを案内してくれた彼も一緒。

バスに乗車するまで待っててくれ、バスが入ってきたところで握手をしてお別れ。のんびりできたフロリアノポリスを離れる。

バスは大型のバス。チリとアルゼンチンと比べるとやや見劣りする。

車窓から見える景色は、クリチバーフロリアノポリス間で見た景色と同じ感じ。低い山が続き、沿道にぽつぽつ民家が見え、農地以外は草が生い茂る雑草地。

例のごとく、バスに乗ると就寝。なんでこうバスに乗ると寝てしまうのか不思議だ。

昼はJAPONと看板に入ったレストラン。バスを降りると同じバスに乗っているブラジル人の客が、看板を指さしながらぼくの方を見て”JAPON”とにこにこしながら言う。

日本食のレストランかと思いきやそうではなかった。ポルキロ(por kg)と呼ばれている量り売りのレストランで、メニューはブラジルで一般的なものばかり。ここ数日は、ぜいたくばかりして、かつ腹もまだけっこう膨れていたので、ぼくはパス。アルゼンチンなどのようにバスの乗車券代に食事代込みだったら食ったんだけどな。

30分ほど休憩して、またバスは走り出す。外は曇っていて景色に冴えがない。ぼくは暇つぶしに数独をする。

17時、ポルトアレグレのバスターミナルに到着。なかなか賑やかで整理されたターミナルだった。作りもそうだが、白人が多いからヨーロッパっぽい。15分ほど停車した後、再発車。

21時にはまたレストランで晩飯休憩。ぼくはクッキーでしんぐ。

夜はたいして寒くなく、ゆっくり眠ることができる。

2008年8月4日月曜日

[速報]コトヌー(ベニンまたはベナン)いり

結局、昨日の朝ワガドゥグを出て、24時間の移動時間を経て、ベナンに来ました。ひさびさのうみです。

ここは以前ヨーロッパから奴隷海岸と呼ばれていたところで、当時この地に栄えたダホメー王国は大陸内部へ奴隷刈りに行き、それをヨーロッパ各国に売飛ばしてずいぶん儲けたようです。今回の西アフリカの旅のメインはこの海岸沿いなので、ここからガーナにかけてちょっとのんびり行こうかと思っています。

あとここにはたけし学校という日本語学校があります。一時期テレビに出ていたゾマホンというベナン出身者が作った学校です。そこにもちょっと見学しに行く予定です。

http://www.zomahoun.com/activities/japanese/

ではでは。

2008.8.4 10:35
Cotonou,Benin


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2008年8月2日土曜日

[速報]ワガドゥグ(ブルキナファソ)いり

現在、ブルキナファソの首都ワガドゥグにいます。

例のごとく今朝の2時半に着き、バス会社の待合い所で夜を明かした後、3時間ほど前にホテルにチェックインしたところです。

当初の予定ではマリのバマコから土のモスクがあるジェンネやモプティといったまちに行ってから、こちらに来るつもりですが、気が変わりバマコからセグーというまちに行った後、昨日の朝、そのセグーを出て、こちらにきました。

ここでニジェールなどを含む周辺5カ国のビザを取ろうかと思っていたのですが、あいにく今日、明日と週末のためイミグレが開いておりません。

このまち自体は1日あれば見れる程度の大きさなので、明日国境でビザが取れるベナンに移動するか、それとも月曜までここにいるか迷っているところです。

では。

2008.8.2
Ouagadougou,Burkina Faso

フロリアノポリスの高級住宅街、etc

08/06/25(水)くもり

7時前に起床。

今朝は近くの浜に魚の水揚げ現場を見に行くことになっていたが、この天気では魚はあがっていないだろうと予定より遅れて8時すぎに車に乗せてもらい、家を出る。

Ingeleses(イングレーゼス)という地域にある浜辺に行く。この地の名前はイギリス軍がたどり着いたことに由来するらしい。浜から200mあたりのところに小さな漁船(ボート)が浮かんでいたが、魚を水揚げしている様子は見えなかった。魚がある日は、漁船は浜に乗りあげられないために海の中に停泊したまま、小さな手漕ぎのボートに魚を移してから、浜まで魚を運んでくるらしい。そして、その魚を求めて地元の人が浜に集まってくるという。いろんな魚が見られるかもと楽しみにしていたが、お天道さまが相手じゃしょうがない。

それからF1レーサーも遊びに来るというゴーカート場を見に行く。ここに住む日系人の人がやっているというアイスクリーム屋のところからあがった高台から眺める。この時間だから当然、何も走っていない。あのアイルトン・セナがブラジル人だったなんて、この旅行でガイドブックにあったのを読んで初めて知ったし、現在のF1界のトップレーサーにブラジル人がけっこういるということはKさんの話で初めて知った。

サーキット場を眺めながら、ブラジルという国はまったく不思議な国だと改めて思う。アマゾンでは、昔ながらの狩猟採集の生活を続けている人がいる一方で、F1という自動車技術のある面での先端を集めたスポーツ(?)のトッププロがいる。この人らはお互い同じ国の人間だと思っているのだろうか。もっとも、アマゾンの人たちの中にはブラジルという国の一員にされることを迷惑に思っている人もいるだろうし、ブラジル国民だなんて呼ばれたくもないかもしれない。ただ、国という単位で見たときにはそんな疑問を抱いてしまう。

この後、フロリアノポリスでも高級住宅が並ぶ地域に連れていってもらう。バカみたいにどでかい屋敷などはなかったが、それでも、いやはやご立派なお宅が多いこと。数億円はするらしい。不思議なのは外壁がなく、あまり警備がきつそうではないこと。まあ、ここでなら怪しい人は着ている服や乗っている車でわかるかもしれないけど。

こうした豪邸の中にはコロンビアの麻薬王の家もあったらしい。ちょっと前に捕まったために、その家は接収さが住んでいたたらしいが、その際には壁から札束が出てきたというニュースが流れたらしい。

その後、高級住宅街近くにある要塞へ。大陸側と向かい合う形で要塞は作られており、ここの他にも向かいあっている大陸側や間に浮かぶ島にも要塞はあるらしい。スペイン軍などが侵入するとあらばここから砲撃することになっていたよう。要塞は今は博物館となっていて入場料を払わないと中を見ることはできない。なぜか表の看板にある開館時間を過ぎているのに門は開いておらず、そのため中をみることはできず外から外壁を眺めただけで、そこを去る。

家に帰る途中、バスのチケットを売っている代理店でブエノスアイレス行きのチケットを購入。パスポートの提示を求められ、さらに独身かどうかも聞かれる。バスに乗るのになぜそんな質問が必要なのか謎だ。

バス代は156ヘアル(約11000円)。10時15分発でだいたい27時間の移動らしい。

帰りに魚屋に寄る。牡蠣とボラの砂肝(?)を購入。

家に戻ってお昼ご飯。フェジョン(黒豆と豚肉?の煮込み)は、マンジオカ(キャッサバ)の粉をお湯で溶いたもの(できたてのカライモ餅のようにやわい。葛湯のような感じ)にかけて食べる。なかなかうまい。フェジョンは塩味。牡蠣は生でリモンを絞っていただく。日本で食べる牡蠣よりもなんだか甘みが濃いように感じる。これも美味。

ボラの砂肝は串刺しにして炭火で焼く(ぼくは見ているだけ)。いい具合に焼けたものを食ってみたが、かなり生くさい。歯ごたえは鶏の砂肝に似ていてシャクシャクしている。においを消せればもっといい。夕方に冷えたものを食ったがこっちの方がうまかった。薫製にするといいように思う。

午後は昼寝などでのんびり。

夜は鶏肉のお粥。これもまた美味なり。昼に焼いたボラの砂肝は冷えて一段とよし。食後、南米のサッカークラブのナンバーワンを決める試合を見る。ブラジルのチームは前半で4点も取られまったくだめ。全部みることなく寝る。

Fin

フロリアノポリスで沈没

08/06/24(火) くもり

今日は朝方浜辺を散歩した後、家でのんびり。数独にはまる。

夕方前に朝方行った近くの海岸にあるという動物の岩絵を見に行く。何千年前だったかに書かれたものらしい。それはリゾートホテルのすぐ近くにある。

その他は特に遠出することもなくすごす。

Fin

フロリアーノポリスのまちめぐり

08/06/23(月) 晴れときどきくもり

・湖、湾
・メルカドーボラ、イカ、タコ、牡蠣
・フロリッパショッピング
・ボラの刺身

今朝もうまい朝食をごちそうになり、それからお出かけ。近くに住んでいるという日系の人を紹介してくれ、彼がフロリアノポリスを案内してくれるという。彼の年齢は25歳前後。父親が日系で母親がイタリア系。外見はまったくイタリア系で、一目見たときは今日案内してくれる人だとはわからなかった。Aさんが言うには彼の弟はまったく日本人的な外見をしているらしい。

彼は2年前まで日本で働いていたらしい。最初は滋賀だったかのソニーの工場にいたらしいが、ブラジル人同士の喧嘩が多かったため半年かそこらでそこをやめ、それから島根の太田(だったと思う)の村田製作所の工場に移ったという。ちなみにソニーでは労働時間がかなり長く、けっこう大変だった模様。そのためソニー製品は嫌いになったとか。

島根の生活はずいぶん楽しかったよう。日本人、ブラジル人双方の職場仲間とも楽しくすごせ、サッカーをしたり、小旅行をしたりしたらしい。

彼はここに弟と一緒に住んでいて、車も持っている。その車に乗せてもらい、まちめぐりとなった。

島を1周するような感じでまわる。途中、眺めのいい場所で休憩。

中心部に行き、バスターミナルの駐車場に車を置き、歩いて市街地散策。ターミナルの近くには市場があったので、そこをまず見る。煉瓦づくりの建物2棟の中に店が並んでいて、1棟は靴屋や服屋ばかり、もう1棟は魚や野菜、果物屋ばかりだった。

特に魚屋が多く、イカ、タコ、牡蠣、なまずのような顔をした魚などいろいろ売られている。なかでもボラは大量に売られており、その卵も売られていた。

ここの市場は全長100m程度で一本道の両脇に店がならんでいるだけなので小さい。その店もきれいに整備されているので、市場と言うよりも商店街という感じだ。

そこから陸地川に1本入った通りが歩行者天国になっていたので、そこがメインストリートのよう。基本的にヨーロッパ的。多様な店が立ち並んでいるが、面白味にはかける。見慣れた風景という感じ。

ただ路上で物売りしている人たちはそれなりにいて、靴下やシャツやピーナッツ菓子などを手に持って売り歩いている。5本指ソックスを探すがなし。

中心街はとても小さく商店が集まっている地帯は30分もあれば一通り歩いてまわれる程度。

郵便局で日本人移民100周年の切手を購入。

その後、彼の用事で電気会社と学校に立ち寄る。まちは2時間ほど見ただけで退散。

家に戻る。途中、目に付いたフロリッパショッピングというショッピングモールに行く。吹き抜け2階立てのショッピングでスポーツショップやブランド服の店、本屋、スーパー、携帯電話屋などが入っている。中米各地の首都にあるショッピングモールと比べると小さい。

驚いたのは1階のフロアにアイススケートのリンクがあったこと。ブラジルでアイススケートに出くわすとは思っていなかった。25mプールよりももっと小さいくらいのサイズだが、子どもには十分の広さ。だが、遊んでいるのはそこのスタッフらしき人のみ。そもそもこのショッピングモール自体客が少ない。

それから家に戻る。

戻るとAさんが庭でボラをさばいていた。ボラの刺身が今晩メインらしい。昨日は肉で今日は魚。ボラの刺身の他にも牡蠣が登場。生牡蠣と殻のまま焼いた牡蠣とをたらふく食べる。まさしく至福のひととき。アボガドは醤油で。Bさんはブラジル生まれの人だが、アボガドは砂糖をつけて食べる方が好きらしい。

夜はAさんがブラジルに移住してきてから数年前まで住んでいたという移住地のラーモス移住地の記念誌を読む。ここの人たちも苦労している。やっとものになりそうだったりんご(だったっけ?)が霜害で全滅したりと、厳しい状況に直面しながらも乗り越えつつ、現在まで頑張っているよう。巻末にある名簿を見ると、なんと延岡市山下町出身や北川出身の家族がいた。

Fin