2008年5月30日金曜日

コルドバ入り

どどんとウシュアイアから移動して、先程、コルドバというまちに着きました。

ここはアルゼンチンでも有数の都市で特に文化都市として知られているまちのようです。

ここから30分ほど行った街が,チェゲバラが子ども時代を過ごした街ということもあり、ゲバラ生誕80周年に関するポスターが街のあちこちに見えます。そのまちにゲバラの博物館もあるので、明日当たり行ってみる予定です。

行当りばったりでルートがごちゃごちゃですが、このあと、ここからパラグアイに行き、そこからもう一度ボリビアに行き、ボリビアからブラジルに入る予定です。ちなみにアマゾンは行かないことにしました。理由はお金と時間と関心ですね。では。

2008.5.30 12:00
Córdoba, Argentina


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2008年5月26日月曜日

海上の一日ープエルトエデンにちょっと

08/05/22(木)

・晴れ
・おっとせい?、海鳥、いるか
・プエルトエデン
・雪山、流氷

起きたのは7時過ぎ。窓から外を見てみるとまだ薄暗い。昨日の夜は、けっこう揺れていたから下手したら酔うなと思っていたのだが、今朝はすっかり落ち着いて穏やか。揺れがなくなったのは、太平洋からまた島々の間に入ったからのようで、湖のようにまったくと言っていいほど波はない。船のエンジン音などの他には何も音がしない。

3階のデッキに上がると進行方向右手にはまだ月が明々と輝いていた。左手からは太陽がやがて昇ろうとしている。

7時半に朝食。昨日と同じくパンに生野菜のサラダにスクランブルエッグとハム、チーズ。もう一人の日本人の一は、うまいうまいと言って食べる。

食事後は、一番上のデッキでひたすら外を眺める。今朝は見事に晴れてくれて、周りの景色がくっきりと見える。

空はすでに明るかったが、太陽が山に隠れていて、ご来光はまだだった。9時過ぎ、ようやくご来光。

それからちょっとして、進行方向右手に船の影が見える。漁船かなと思ってみていたが、動いている気配がない。望遠鏡で見たもう一人の日本人の人は、難破船だという。

果たして近づいてみると、確かに座礁してほったらかしにされている船だった。すっかりさびてしまっている。夏ならともかく冬場にこんなところで難破してしまったら、助かるものも助からないだろうに、この船の人たちは大丈夫だったのかとふと気になる。

左手にちらっと白波がたったと思ったら、イルカの背がちらっと見える。昨日のように飛び跳ねてくれないかとカメラを構えていたが、船が近づくとぴたりと水面には顔を出さなくなる。

船の両サイドには松や杉のような木が茂っている山ばかり。標高はせいぜい数百メートルだが、ほとんどの山の頂上は雪をかぶっている。前後左右がそうした山だけ。

10時過ぎ、English Narrowsという狭い海域(?)に入る。その旨を伝える船長のアナウンスが流れ、デッキには客が勢ぞろいする。狭いと言っても船が悠々と通れるくらいの幅はある。が、山がすぐ近く(目測で50mほど)に見えるのはなかなか見応えがある。

浅瀬になっている地帯もあって、そこには赤い目印が立っていて、それが立ち入り禁止のマークのような役目を果たしているよう。

気温は、昨日と同じ4~5度。風にあたっているとすぐに冷えてしまうが、風があたらないところにいれば、それほど寒くない。ただ、素足にスリッパでは長時間外にいるのはつらいので、さすがに今日は靴を履いた。

太陽が昇るとだんぜん暖かさが変わる。気温も10度ちょっとまで上がった。

11時過ぎ、民家が集まっている島が見える。こんなところに人が住んでいるなんてと思っていたら、そちらの方に船は進む。

やがて、船頭の方で金属同士がぶつかり合う音がし始めた。そちらの甲板をのぞいてみると、錨をおろすような作業を二人の船員がやっていた。船はスピードを落とし、完全に止まる。

島の方から漁船やボートがこちらの船に向かってやってくる。なんだなんだと思っていたら、ここがプエルトエデンというまち/むらで、ここで4人ほどの乗客を降ろし、また客や荷物をここで積むらしい。

船尾の方に漁船などが集まってきて、そこから人がどんどん乗り込んでくる。また、貝の類を詰めた袋がどんどん船に乗っているトラックの荷台に積み込まれる。

30分ほど船は停まっていて、荷物や人を運んだ舟が離れていくと、また船は航海をはじめる。

プエルトエデンで乗り込んできたお客は30人ほどで、子ども連れが多い。子どもはみな10歳以下。一気に船内がにぎやかになる。ぼくの部屋にも誰か入るのかと思っていたのだが、新たに乗ってきた人たちは20人以上が入れる細長い部屋にみな入ったようだった。

部屋のある階から食堂のある階にあがる途中で、いい匂いがする部屋があったのでのぞいてみると、そこが調理室だった。通路に面した窓は開け放たれており、そこからのぞくと中にいた立派な体格のおじさんがぼくを見て、どこから来たのかと聞いてくる。日本からと言うと、日本のどこだと聞いてくる。とりあえず本とのことを言っても話が途切れるので、東京だと言うと今度は"タイヨー”という会社を知っているのかと聞いてくる。下関の会社だと言う。おじさんはそこで働いていたのか、取引があったのか、その会社と関係があったらしい。

そして、船員用の食事らしい準備していた春巻きのようなパイをくれる。チーズ入りでうまい。1本食べるともう1本くれる。なんと気前のいい人だ。

そこへ通りがかった別のおじさんが、調理室のおじさんにどこから来た人間なのかと聞く。それでハポンと言うと、自分も東京、横浜、名古屋などに行ったという。

12時半頃、昼飯。メインはどでかいハンバーグの切り身のようなもの。子どもたちがいてにぎやか。

昼飯の前にロビーの椅子に座って、昼飯が始まるのを待っていたら、隣のソファに座ったメガネをかけた男の子がノートに色鉛筆で絵を描いていた。人間の絵だが小さい子どもにありがちな顔などがあっちこっちいったりしている絵だったので、適当に思いついたままに描いているのだろうと思っていた。

が、しかし、その予想は外れていた。その絵を見たある女の子が、これは何と男の子に聞いたとき、男の子が答えて言った言葉は”Kurilin"だった。それを聞いて、ぼくはその子にドラゴンボールのクリリンかと聞く。すると、そうだとのこと。言われてみると服=胴着がオレンジだからそうなのかとも思えるが、顔はさすがに似ていない。というか、ぐちゃぐちゃ。

男の子がノートをめくるのを見ていたら、スーパーサイヤ人状態の悟空もいて、タイトルにちゃんと”GOKU"と描かれてある。顔だけならぼくの描く悟空の方が似ているなとひそかに思う。ぼくも彼と同じくらいの年頃に、悟空らの絵を描いたものだった。

昼食後もデッキに出て、外を眺める。景色はたいして変わりない。松島のようだと言えば、似ているような気もする景色。針葉樹の木々に覆われた山と、それらと見比べると盆栽のような小さな島がちょろちょろと現れる。

プエルトエデンから乗ってきた人たちは、食堂などでのんびりしているが、プエルトモンから乗ってきた客は、デッキに出たり操縦室にいたりして外をずっと眺めている。

午後になってから、雲の多い地帯に入ったため午前中のような暖かさがなくなる。雪をかぶったごつごつした岩山が多くなる。

スクワットをしたりして体を温めつつ、デッキで外を眺め続ける。

16時頃、左手奥に真っ白な山が見える。そしてそちらの海面には白い流氷も見える。どうも内陸の方がずっと寒そうだ。

17時半、右手の空が赤く染まり出す。昨日はきれいに夕日が見えたが、今日は雲と山々に阻まれて、夕日そのものはよく見えず。

19時半に食事は同じ。この日はベッドで本を読んだりしてから寝る。

Fin

海上の一日

08/05/21(水)

・くもりときどき雨、のち少し晴れ
・いるか、海鳥、
・雪をかぶった山々

まったく揺れを感じることもなく、快眠。7時頃、同室のおじさんの携帯のアラームがなる。

丸い窓から外を見るが、まだ暗い。

7時半に船内に朝食を知らせるアナウンスが流れる。スリッパを履いて食堂室へ向かう。今朝の朝食は昨晩の鮭の切り身の迫力とはうってかわって、パンにコーンフレークにヨーグルト、果物、スクランブルエッグにチーズとハム、オレンジジュースのみ。ホットミルクもあり。

食堂室の窓からは濃い緑色の山々が連なっているのが見える。山の背丈は低いが、頭に雪をかぶっている山もある。空からは雨。

雨に降られると、船の移動の楽しみが半減、いや8割減くらいになる。デッキに出ることができないし、出てもあたりが雲に覆われていてはあまり気持ちいい景色も見られない。

今日は一日食堂室かな。それでもまわりがどんなけ式だったか記録するため定期的に写真を撮る。

もう一人の日本人は、なかなか饒舌でいろいろ旅に関する話題を展開する。アフリカも1周したというので、アフリカのガイドブックを持ってきて、若干の情報収集を行う。シルクロードについても同様。シルクロードについては中国からイスタンブールを目指すのはわりかし楽だが、反対ルートはビザの取得が面倒らしい。ビザを取るのに10日待ちや2週間待ちは普通らしい。

食堂室と同じスペースにあるロビーでは映画が始まる。パイレーツオブカリビアンらしい。

11時頃、ちょっとデッキに出てみる。すると、進行方向左手にイルカの群を発見。10頭近くが海面を飛び跳ねている。が、船が近づくと隠れてしまい、見ることができたのはほんの数秒だった。

12時半、お待ちかねのお昼ご飯。

食事後、もう一人の人と一緒に操縦室を見学。レトロな作りの中に液晶のパソコンが1台あり、現在地を示している。聞くと、この船はフィンランド産で1972年に造船されたという。

飛行機と同じように操縦かんには誰も触れていない。

雨が上がったので操縦室の上のデッキにあがる。雲が深く立ちこめており、遠くを見遙かす事はできない。ただ、両脇に山が見えるだけ。

スリッパのままデッキにあがったが、それほど寒くはなかった。気温計で計っても5度くらいはある。風にあたるとさすがに寒いが、当たらなければずっと外にいてもたいして冷えない。耳や鼻が寒さで痛くなることもない。冬の我が家と同じ程度だ。

夕方前になって、わずかに太陽の光が射してきたが、16時を過ぎた頃からググッと傾き始める。17時半過ぎに日は沈み、あたりはすっかり暗くなる。

これから一時的に太平洋に出るためか、徐々に波が高くなりはじめ、船体が縦に大きく揺れているのが、見た目にもはっきりわかる。これだけ揺れるとちょっと酔ってしまいそうだなとやや不安になる。

19時半に夕食。今晩は肉だった。中南米にいる間、何かと鶏肉だの肉料理を多く食べてきた(そういうメニューが多いのも一因だが)ので、なんだかすっかり肉に飽きてきた。

船の揺れは大きいままで、このままでは酔ってしまいそうだったので、食後はさっさとベッドで寝る。

Fin

プエルトモンで半日、出航

08/05/20(火)

・また雨
・ショッピングモール
・乗船

今朝もトタン屋根をたたく雨音で目が覚める。昨日に続いて少しは晴れるかと思っていたのに、残念。

明るくなったのはやはり7時過ぎ。テレビを付け、チリのニュース番組やCNNのニュースを見る。CNNでは中国四川の大地震のニュースが今日も引き続き大きく取り上げられている。それからミャンマーの洪水被害についても。チリのニュースの方では、サンティアゴで停電があったとか、ここの近くの噴火した火山の続報などをやっていた。

8時過ぎに宿の人に声をかけ、3泊分の宿代15000ペソ(約4000円)を払う。それからチェックアウトの時間を聞く。10時半だというので、それまでに荷物を預けることに。荷物を預けるのはまったく問題ないとのこと。

荷造りをして9時過ぎに宿を出る。まずは船会社のNavimagのオフィスに、船代の残りを払いにいく。外は一昨日と同じように、雨が強くなったり弱くなったりと不安定な天気。弱まったところでバスターミナルまで急いで歩いていく。

バスターミナルの周辺にはハンバーガーなどを売るおばちゃんたちが5人ほどいて、そのうちの一人のおじさんから、今朝はねじりドーナツのようなものを買う。100ペソ。揚げてからだいぶ時間が経っているようで、噛むとモシャモシャと紙を噛んでいるようで、いまいち。ハンバーガーなどはポツポツ売れているよう。

歩いてオフィスに行く。昨日とおなじおばさんがオフィスにはいた。昨日もらった予約券と残りの90米ドルぶんのトラベラーズチェックを渡す。するとA4の紙と横長のチケットをもらう。

A4版の紙にはPASAJE/TICKETとかかれており、そこにTrip Numberやフェリーの名前、ぼくの泊まるキャビンのタイプ、ルート、乗船日、ぼくの名前やパスポート番号、誕生日、支払代金などが書かれている。

もう一方のチケットは、映画のチケットよりちょっと長いくらいのサイズで、頭にTICKET EMBARQUE/TICKET BOARDINGと書かれており、下に今日の日付とキャビンの番号、それから複数あるルートの中のPUERTO MONTT-PUERTO NATALESにチェックが入っている。

それを受け取り、懐の中にしまう。弱まっていた雨がまた強くなり出したので、帰りは適当にバスに乗って、終点まで行くことにする。

バスは弓なりの湾に沿って走る。砂浜にブランコなどの遊具あり。

20分ほどで終点につく。終点は大学のキャンパスの入り口だった。最初は庭園か何かと思ったのだが、それが大学だった。せいぜい3階立ての建物がいくつかあるだけで非常に小さい。にhんであればちょっと大きな小学校くらいの規模。学生がちほらいる。平均年齢は日本と同じくらいか。

またバスに乗って中心街に戻る。雨は一段と強くなり、湾には深く雲が立ちこめている。昨日はきれいに湾の反対側が見えたのに、今日はまったく見えない。

まちでも一番でかいショッピングモールの前で降り、ショッピングモールを見学。4階立てで端から端は100m以上ある。ファッションフロアにはダウンジャケットなどが並び、2階のスポーツ用品売場にはColumbiaのジャケットなども売っていた。電気製品コーナーには薄型のテレビがどかどかと置かれており、その横にはデスクトップとノートパソコン(hpなど)が展示されている。

客はまばらだが、高校生くらいの子たちもちらほら。学校はもう終わったのか?

見てみたところショッピングモールの半分は専門店街で、もう半分はRipley(スペル要確認)というチリではよく見る小売店が締めているよう。こっちはこっちで電化製品や洋服などを売っている。

ショッピングモールに内にあったATMで多少のお金をおろす。

それからまた歩いて中心街へ。銀行が集まっている一角があって、そこの一部の店には長い行列ができている。警官を4人ほど見かける。銀行にはたいていピストルを持った警備員がいるが、中米諸国のように散弾銃のようなでかい銃を持った人はいない。また、銀行にはいるのに身体検査もない。

雨は相変わらず、強い。朝から曇っていて明らかに雨が降りそうだったのにもかかわらず、こちらの人はほとんど傘を持ち歩いていない。風が強くてさす意味がないというよほど、風もないし。だから、みな上着がびしょびしょ。だから、バスの座席もたまにびしょびしょに濡れていたりする。

まだ通っていなかった一帯を歩いてみる。すると、ドイツの地名を冠したカフェが3つほどあった。やはりこれもドイツ系移民が多いということの名残なのか。ちなみ、まちを歩いている人は、あまりゲルマン系という感じはしない。金髪で青眼という人はほとんど見ない。ただ、言葉が同じスペイン語でも北と比べるとカクカクしているような印象を受ける。

それから、またバスに乗り、アンヘルモの市場に昼飯を食いに行く。今回も結局Sopa de mariscos(シーフードスープ)を頼む。どうもそういう時期なのか、なんか壁に書かれているメニューの半分くらいはないよう。魚は基本的にフライ料理になるからあまり食べる気がしない。

ここのスープもひたすら貝。アサリっぽいもの、蛤サイズのもの、牡蠣っぽいもの、それから赤い丸っぽい貝(?)。この赤いもの、どこかで食べた味なんだがなぁと思っていて思い出せなかったが、やっと思い出した。これはホヤの味そのものだ。そう思うと貝には見えないのだが、ただ、格好がホヤとはちょっと違う。

やはり貝の粒が50粒ほど入っていて、すくってもすくっても貝がスプーンにのっかってくる。当然、スープは濃厚。パンが2つ付いていたのだが、パンもすぐになくなる。3000ペソ。

同じ店に入ってきた夫婦はクラントを注文していた。ここのクラントもなかなか量がすごい。

ウニを食べようかと他の食堂を物色するが、3000ペソ(約700円)もするので、結局食べずじまい。ガイドブックによれば出てくる量はすごいらしいが、ウニだけをひたすら食ってもなんだし、店先に並んでいるウニもいまいちうまそうでない。

日本の場合、店頭に並んでいるウニは水を切ったものがふつうだが、ここは海水なのかなんのか、水の中に漬けた状態になっている。だから、ウニの見た目がふやけていて、いまいち新鮮そうでない。もちろん、店の中には目の前でウニをあのトゲトゲの中から取り出しているところもあるのだが。

ある店では量も半分、値段も半分で食べられないか聞いたが、言葉がうまく伝わらなかったのか、それともそれ自体許容できないのか、ダメとのことだった。

それでウニはあきらめたのだが、最後にクラントをもう一度という思いが湧いてきて、もう一軒はしごする。だが、腹がだいぶ膨れているときにクラントを食べるのは、無謀というか、味がしつこい感じがしていまいち最初に食べたときのような感動がなかった。

それからネット屋に行って、これから行く先の宿について調べる。その後、宿に戻り、荷物をピックアップして船乗り場へ。

14時半から搭乗開始とのことだったが、すでに3時をすぎていた。雨は上がっていたもののキトで買ったポンチョスタイルの合羽は、さっき端を踏んづけたときに裂けてしまい使いものにならなくなっているし、突然、また強い雨が降り出すともわからない。ぼくの荷物は雨に濡れると致命的なので、安全をみてバスに乗る。幸い、ここのバスはそう混んでいない。

300ペソ(約90円)払い、バスに乗り、朝も行ったオフィスがある港に行く。海辺からは少し離れている待合室らしいところに行ったのだが、ここがもぬけの殻。誰もいない。勝手に港に入っていいものか逡巡していたら一人のおじさんが用を足しに室内に入ってきたので、その人に聞くと入っていいというような仕草をする。

なので、船の方へ歩いていく。幸い雨は降っていない。船は岸辺に接岸しなおしているところだった。それを待ってトラックなどが乗り込むところから船に乗り込む。入り口でメガネをかけた太っちょのおじさんにチケットを見せるよう言われ、それを見せると、あそこから上に行って、そのさらに上だと仕草で教えてくれる。

急傾斜の階段を上り、教えてもらったように歩いていく。船室らしい入り口があったので、そこを入ると左手が広いロビーのようになっていた。

そこでは女性の職員が客らしき人等に、スクリーンに映したルートマップを指さしながら、スペイン語と英語で、航路を説明している。自分の部屋がどこにあるかわからないので、とりあえずここで一緒にその説明を聞くことにする。何日目にはこの辺りを通り、いつ頃、何が見えるかなどといった説明が20分ほどあり、それが終わるとこの船旅に関するパンフレットが配られた。

説明が終わる頃に、若い男性の職員が来て、部屋の番号を聞く。すると、ちょっと待っていてと言って、しばらくして鍵を持ってやってきた。A bajo(アバッホ:下に)と言って下の階に案内される。ぼくの部屋は2階下ったトラックなどと同じ階だった。細長く狭い廊下沿いにドアがあり、その中の309という番号がついた部屋がぼくの部屋だった。

入ると右手に2段ベットが2つ縦に並んでいる。どのベッドを使うかは決まっていないらしい。小さな丸い窓が進行方向右手にあって、外の景色が見える。その窓に近い下のベッドを使うことにして、リュックをおろしベッドに座る。が、頭を下げないと座れない。低い。一方、上のベッドではまっすぐに座ることができる。う~む。

16時発の船は17時になっても岸を離れず。外はだいぶ暗くなりはじめて、ぽつぽつ電灯が目立ち始める。

ロビーのところが食堂も兼ねていて、50人くらいが同時に食事ができるようになっている。

こうして1泊以上の船に乗るのは、2001年に富山の氷見からウラジオストクに行って以来だ。そのときも2泊3日だった。船のレベルでいうと断然そのときの方が上。この船のように、レストランはどっかの大学の学食のようではなかった。何より天気が良かったから一日中看板の上に出て外を眺めていられた。

が、今回はこの様子だと外に出ることはちょっと難しそう。

レストランの固定された椅子に座って出航を待っていると、メガネをかけた男の人が”日本人ですか”と話しかけていた。ぼくが持っていた文庫本を見て、日本人だと判断したという。

聞くと、その人はもう4年ほど旅をしているそうで、この4年でまわった国の数は130カ国近くらしい。まさかこの船で日本人に会うとは思っていなかった、というのは、この人も同じだった。

船は18時頃、やっと動き出す。プエルトモンのまちを背にしながら走り出すと意外に速い。雨がパラパラと降る中、しばらくプエルトモンのまちのオレンジ色の明かりが遠くなっていくのを眺める。

19時、お待ちかねの夕食。予想通り、メインは鮭だった。赤いかぶのようなやつは、カブや大根とはまた違う味で、みなこれに大量のレモン汁をかけて食べている。ぼくもまねて食べてみるが、味の方はいまいち。ただ、どこかで食べたことのあるような味。

鮭の切り身は日本では考えられないくらいでかい。たぶん鮭一本の半身のその半分。重さで言うと500gはありそう。日本のカレー屋のあの平べったい皿の半分を占めるくらい。魚は焼いて蒸したような感じ。塩気は薄く、油がのっている。

アンヘルモの市場にも大量の鮭が並んでいて、今日の昼には鮭を食べてみるかとも思ったのだが、これを予想してやめといた。結果的にそれは正解だった。

もう一人の日本人の人とおしゃべりしながら飯を食う。観光目的の乗客は他にベルギー人と英語を話す人等が8人ほど。それに加えてトラックの運転手らが6人ほど。

同じ階の人たちが飯を食っている間にと、ぼくはシャワーを浴びに行く。シャワールームはトイレと独立してあり、シャワーが5つほど並んでいる。期待していなかったのだが、予想に反し温かいお湯がたっぷりと出る。

せっかくなので洗濯もして、あとは部屋で過ごす。ベッドに横になってみると、エンジンの振動と波をかき分ける揺れをもろに感じる。

廊下に出ると牛舎のにおいがする。実際、トラックは牛かなにかの家畜を運んだ後らしく、藁のような草を積んでいる。

いつの間にか寝ていた。夜中、目が覚めトイレに行くと、誰かが吐いた跡がグチャッと残っていた。ゲぇッと思いながら用をすます。二人ほどが酔って吐いたようで、小便器の1つと洗面所1つが壊滅状態。やれやれ、なんで大便器で吐かないかなぁと顔をしかめつつ部屋に戻る。

夜中、船はやや強く揺れる。が、寝るのに支障はなかった。

Fin

船のチケット、アンクーをぶらり

08/05/19(月)

・少し晴れ
・ハンバーガー
・チケットの手配
・チロエ島のアンクー

7時頃、目が覚める。部屋の天窓(プラスチックのトタンだけど)からはわずかに光が射している。雨音はしない。

着替えて外に出る。バスターミナル前の通りを挟んで向かい側で揚げ物をしているおじさんがいたので、そこで朝飯代わりに揚げ物を買う。揚げていたのはEmpanadaというもので、チリの国民食とも言うべきパンの一種。パイ生地の中に挽き肉などを炒めたものや海鮮を炒めたものが入っている。ぼくはマリスコスの方を買う。

それからターミナル周辺でサンドイッチを売っていたおばさんからサンドイッチを買う。具が違うサンドイッチが数種類あり、適当に頼むと出てきたのは豚の川とバラ肉(かな)のサンドだった。日本のような形はしておらず、ハンバーガーと同じスタイル。固めのパサパサしたパンに肉と少量のトマトなどが挟まれている。一つで600ペソ(約200円)だからそれほど安くはない。

おばさんはコーヒーも売っており、買う人はだいたいコーヒーとのセットで買うよう。コーヒーはもちろんインスタントコーヒー。発泡スチロール製のコップにコーヒーの粉を入れ、持参しているポットのお湯を入れて完成というわけだ。

ハンバーガーを食べながら船会社のNavimag社のオフィスに向かう。昨日も歩いた湾岸沿いの歩道からは、昨日は雲に隠れて見えなかった山々や対岸の景色がよく見える。

10分ほどでNavimag社に到着。9時前だったため、まだオフィスは開いていなかった。しばらく外で待つ。昨日はそれほど寒いとは感じなかったが、今日は天気がいいこともあってか、風が冷たい。手を外に出しているとアッという間にかじかんでくる。

9時をちょっと過ぎた頃、車に乗ってオフィスの女性が到着。外套を来たまま窓口に座り、仕事を始める。ぼくより先に一人おじさんが来ていたので、ぼくはさらにしばらく待つ。

おじさんの用件が終わってから、こちらの順番になり、トラベラーズチェックが使えるか確認してから、プエルトナタレス行きの船のチケットをお願いする。

ドルのトラベラーズチェックが使えるとのことだったのだが、ドルで釣りも出せないし、両替もできないというので、今日は300米ドルぶんだけ払って残りは明日ということになった。

予約確認書のようなものを受け取り、それと残りの90米ドルを持って明日9時から12時の間に来るよういわれる。これで火曜日以降のルートが決まった。

またバスターミナルに戻る。途中、えらく繁盛しているワゴン車型のサンドイッチ屋さんがあったので、そこでチーズサンドを買う。600ペソ(約160円)。チーズの他には何も挟まれていない非常にシンプルなもの。はっきり言って高い。それに取り立ててうまいということもない。

バスターミナルに行き、チロエ島に行くバスを調べる。ここのターミナルには小さな電光掲示板があり、そこに出発する順にバスの発車時刻とバス会社が載ってるから、調べるのはらく。値段まで書いてくれるともっと楽なのだが。

あいにく往復のバス代を払うだけのペソがなかったので、両替をしなければならなかった。ターミナル内にも両替所はあったが、10時半にならないと開かないという。ATMもあったのだが、なぜかカネを引き落とせない(後に操作ミスだったらしいことがわかる)。

しょうがないので、まちの中心部まで両替所を探しに行く。銀行はいくらでもあるが、銀行で両替をしているところはほとんどないから使えない。ふとFarmasia(薬局)にATMがあることを思いだし、そこを使ってみる。ターミナルのATMはスペイン語オンリーだったので、操作手順がよくわからなかったのだが、こちらは英語だったのでスムーズにおろせる。

さすがに月曜ということで、中心街には人が多い。店もちょうどこれから開けようという店が多かった。

ターミナルに戻り、電光掲示板でバスを確認する。ちょうどこれから出るというバスがあったので、乗り込む。

走り出してから添乗員が、チケットの確認に回ってきたので、そのときに運賃を払う。チロエ島のAncud(アンクー)までは3000ペソ(約800円)。チロエ島独特の家屋が見られるというカストロというところに行きたかったのだが、そこまでは片道5時間以上かかるようだったので諦め、もっと近いアンクーに行くことにした。

バスは大型の40人ほどが乗れるバスで、乗り心地は申し分ない。バスに乗れたことに安心したのか、すぐに寝てしまう。

なんだかバスが横に揺れているような感じがあって、目が覚める。ぼくが座った右側の列の窓のすぐ外にはトレーラーの車体が見える。えらく近いなと思っていたら、何人かがバスを降りていった。バスの正面にもでかいトラックが止まっている。バスは動いていないのに、空は動いているからどういうことになっているのだろう、と改めて背を起こし、辺りを見回す。すると左側の窓の向こうに海が見えた。

どうも海を渡っているらしいことがわかり、ぼくはさっそくバスを降りる。バスは船に載って小さな海峡を渡っているところだった。船の脇のデッキに上り、あたりを見渡す。対岸はよく見えないくらいに遠い。風は冷たいが耐えられないほどではない。

船はそれから30分ほどで、対岸に到着。

道路脇には牧場が広がり、民家もちょこちょこ見える。

プエルトモンのバスターミナルを出てから約2時間後の12時半頃にアンクーのバスターミナルに到着。ターミナルの周りには一軒家の家々と重機の店があるだけで、他には何もない。中心街からは離れているらしい。

ターミナルにインフォメーションがあったので、そこで地図をもらう。

その地図を頼りに中心街に向けて歩く。車道の脇に一段高い歩道があるので、そこを歩く。道は少し起伏のある道で、車は頻繁に通るが歩いている人はいない。

10分ほど歩くと、正面奥の建物の間に海が見える。左手にはスーパーが見え、それをちょっと過ぎたところには木造2階建ての体育館くらいの大きさの建物が現れた。これが市場らしい。建物の感じが、市場というよりも、日本でいうと大きめの道の駅のような感じだ。

なかに入ると、1階部分に野菜や果物、プエルトモンにもあった貝の干し物、魚を売っている店が立ち並び、2階にはセーターや手袋などの毛織物製品や民芸品、喫茶店、食堂があった。木造の建物ということもあり、非常に気持ちのいい建物なのだが、観光シーズンからはずれているからかお客はほとんどいない。

貝の干し物は干し柿を吊すときのように、藁のようなひもに20~30ほどがくくりつけられている。味を見るために貝の干し物を買おうと思ったが、ちょっとだけほしいと言ってるつもりのにわかスペイン語がうまく通じず、結局、すぐに食べられると勧められた湯がいた貝の詰め合わせを買う。1000ペソ(約250円)。

閑散としたその市場を抜けて、まちに出る。ここらから海までが中心市街のようで、八百屋やパン屋、小さなゲームセンター、本屋・文具屋などが立ち並んでいた。

坂を少し上ったところにある広場には下校中らしい高校生くらいの子のたまり場になっていて、広場のあちこちでおしゃべりをしている。

昼飯時だったので、ターミナルのインフォメーションのおじさんが教えてくれた食堂が集まっているところに行く。どの店も小さなところで、看板があまり出ていないし、店内が暗いから、どこの店が食堂で、しかもやっているのかやっていないのかもわかりにくい。

海産物が食べられそうな店に入る。客は4人だけ。大型のテレビは音楽チャンネルになっていて、ずっと英語の歌が流れていた。

メニューを見せられ、いくつかの料理を勧められる。食べようかと思っていたSopa de Mariscosは、ここも貝だらけのようだったのでやめる。クラントがあるというので、プエルトモンで食べてはいたが、ここのクラントがどんなものか興味がわいたので、それを頼む。3000ペソ(約800円)。

20分ほど待ってようやく出てくる。これがまた驚くような盛りつけだった。正確には、盛りつけさえされていないと言ってもいい状態で、日本ではカレーライスに使うような楕円形の平皿に、あのオレンジ色のみかん網に殻付きの牡蠣や蛤のような貝、それから鶏のもも肉にソーセージ、ハムの分厚い切り身、じゃがいもなどがたっぷり入れられた状態で出てきた。

おそらくこのまま鍋の中に入れられていたのだろう。皿に広げようにも、量が多いために網から全部出せば皿からあふれ出ること間違いない。

しょうがないので、網の口を開け、そこにフォークを突っ込み取り出して食べる。網の真ん中あたりにあったジャガイモ(大きなジャガイモ丸ごと1個)は、冷凍されていたものらしく、まったく温かくなっていなかった。やれやれ。

そもそも1人で食べるものではないのかもしれないと思えるくらいに、とにかくすごい量。冷めないうちにと思いながら、せっせと食べる。

一応、完食し、殻の数を数える。牡蠣のような貝がぜんぶで34個、蛤のような貝が20ほどもあった。これに鶏の骨付きもも肉、おそらく200gはあるハムらしい豚肉一枚、太いソーセージ1本、あと冷たくて食べられなかったじゃがいも大1個。ちょっとやりすぎのような木がする。

それから海岸沿いに向かって歩く。ここの湾も漁港になっていて、今日の漁は終わったらしいボートくらいの大きさの漁船が何艇か岸についており、乗っている人が後片付けをしている。

それから適当にぐるっと住宅街をまわる。この辺の民家は壁がうろこのようになっている。それがただの飾りなのか、それとも構造状そういうふうになっているのかはわからないが、見た目だけで判断すると5~10cm幅の野球のホームベースのような5角形(三角形もあるし、頭が丸いものもあり、数種類ある)の木片を、魚の鱗のように張り合わせて壁を作っている。

またチリの北部では家はコンクリートづくりがほとんどだったが、ここはほとんどが木造の家。もっともこれはプエルトモンも含め、南部一般に言えることのように思う。

木造の家のその鱗のような外壁、それに各家の屋根についている煙突。そして牧場と、これで快晴だったら、なんと雰囲気のいいまちだ、と思うだろう。。ちなみに屋根はトタンが圧倒的に多い。

それから最初に言った市場に戻り、そこの2階にある喫茶店でコーヒーブレイク。アップルパイがあったので、それとコーヒーを頼む。合わせて750ペソ(約250円)。

コーヒーはインスタントの粉が入った缶とカップ、砂糖が出てくる。自分で好みの量だけ粉を入れるらしい。適当に粉をカップに入れると、そこにお湯を注いでくれる。

ケーキを頼んだときに一つの発見があった。店の人(20代くらいの女性でこの人も目元を黒く塗る化粧をしていた。ちょっとビジュアル系が入っている)は、ケーキを頼んだときに、"Kuchen(クッヒェン)?”と聞いてきたのだ。

ドイツ系の移民が多いことはガイドブックに載っていたが、ケーキのことをクッヒェンというとは書いていなかった。ドイツ語で書くと正確には"Ku"の"u"には上に点々(・・)2つのウムラウトが付き、発音もカタカナにすると”キュ”に近い音になる(日本ではバウムクーヘンというようにクーヘンと言うのが一般的になっているが)のだが、こんなところにドイツ語が使われているというのが、面白い。

帰りのバスに乗るために、バスターミナルに戻ったときそこの売店でもケーキの隣に"Kuchen"と書いた紙が立てかけられていたので、この辺りではケーキのことを一般的にこう呼んでいるようだった。

ちなみに『ラテン・アメリカを知る事典』によればチリの南部にはドイツ語が使われてる地域もあるという。

14時を過ぎて、中心部も一通り歩き回ったので、今度はバスに乗る。歩いていたらちょうど止まっているバスがあったので、それに乗る。

まちの南部に行くバスかなと期待して乗ったのだが、このバスは北部、つまりは来るときに通った道の方面に行くバスだった。

ずっと乗ったままいると、アンクーのまちに入るときに必ずわたる300mくらいある大きな橋の手前で右に曲がった。海面に近いこの地区はすぐにぬかるんでしまうのか、数10cmほどの高床式になっている家が多い。家も中心部と比べれば小さい。平屋で6畳の部屋が3つもあるかどうかというくらい。ここに来ると道もあまり舗装されていない。

バスはこの地区を一周して、また中心街に向かう。途中、来るときにも通った一本道沿いに建造中の船が見えたので、適当なところでバスを降り、それを見に行く。

一本道からさらに海沿いの道に沿って歩くと、この一帯も漁港というか、船着き場になっているようで貝をいっぱい積んだボートを見る。そのボートが接岸しているところには倉庫のような建物があり、表では貝をせっせと剥いているおじさんがいた。

また北にちょっと歩くと、貝殻が大量に積まれ小山になっているところがあった。そこは策に囲まれ、やはり倉庫のような建物が同じ敷地内にあった。どうも貝殻を加工してカルシウムの粉か何かを作っている工場のようだった。

それからもう少し行ったところが造船中の船があるところだった。長さが30mほどの木造の船で骨組みは出来上がっていた。ボルトであちこちが止められている。今は舳先の方を作っているようで、トンカチの音が一定の間隔で鳴り響いていた。

16時前になったので、またバスに乗ってターミナルに戻る。船に乗るのが夕焼けの時間になるのを狙って、17時前のバスに乗る。

狙ったよりも少し早い時間に海峡につき、バスは船に乗る。ぼくはまたバスを降り、対岸に着くまでデッキにいる。ほぼ狙い通りに、船の上で日が落ちる時間となる。

対岸に上がってしばらく走ると日は完全に落ち、あたりは真っ暗になる。

プエルトモンのターミナルに着いたのは19時頃。昼間のクラントがまだまだ腹の中に残っていたので晩飯は食わずに、宿に戻る。ただ、買ってきたゆで貝の詰め合わせがあったので、それをちびりちびり食べる。ここに来てからはとにかく貝食いばかりしている。

Fin

Osormo,Puerto Octayをまわる

08/05/18(日)

・台風のような天気
・Sopa de Mariscos
・Osormo
・Puerto Octay

昨日から降り続く雨は今朝もやんでいなかった。トタンの屋根を打つ雨音が大きくなったり、小さくなったりを繰り返す。

これだけ降っているし、日曜日だしということで、今日は一日宿にいるかとも考える。

9時前、昨日の雨で濡れてしまった靴を履き、アンヘルモの市場に朝飯を食いに行く。歩いて20分ほど。その間も雨が強く降る。傘がないから宿の人に借りようと聞いてみたのだが、傘がないと言う。

ぼくは雨宿りをしながら、小雨になったところを小走りで移動し、市場に向かう。港は引き潮の時らしく、昨日はあれほどあった水が底が見えるくらいまで減っている。なかなか干満の差が激しい。

9時前というのに、この天気のためか歩いている人はほとんどいない。市場に行くまでに見たのは3人ほどのみ。誰も傘など差していない。

市場はまだ開店準備中だった。食堂はいくつか開いていて、そのうちの1軒に行く。台所で鍋の中を見せてもらい、Sopa de Mariscosを頼む。ここは、魚のマリネなどがサービスで出てきた。あとパン2つ付き。

頼んだスープには牡蠣や赤貝らしい赤い貝、アサリのような貝が30粒ほどつまっていた。ペルーで食べた同名の料理など、スプーンで数度すくわないと具を確認できなかったが、釣りで言えば入れグイ状態。ものすごい量だ。

スープも貝の出汁が効いていてかなり濃厚。ウニを食べているような味がする。レモン汁らしきものがぐい飲みサイズのコップに入って出てきたので、それを入れたら、これが失敗。というか、あとでそれを飲んで見てわかったが、入れたのはレモン汁ではなく、ピスコ(ぶどうの蒸留酒)のレモン汁割り、つまりは食前酒だったようだ。

テーブルにはアヒ(唐辛子ソースの一般名詞)もあり、それはトマト味の利いたコチュジャンのようだった。どちらかというとタバスコに味は近い。

食事後、バスターミナルに行く。雨は上がり、上空を見上げると灰色の雲がものすごい速さで西に移動していた。もしかしたら北の方は晴れるかもしれないと思い、バスで2時間ほどで行けるOsorno(オソルノ)に行ってみることにする。

ターミナル内にある複数のバス会社がオソルノ行きのバスを出していたが、ちょうど出ようとしていたバスに乗り込む。

ほぼ満席。料金は車内で徴収された。1300ペソ(約600円)。走り出すとすぐにDVDの映画が車内のテレビに映る。ハングルの文字が見えたので何かと思ったら、戦時中日本に来て独自の鍛錬で強くなっていく韓国・朝鮮人の武闘家(と書くにはきれいすぎるが)についての映画で、日本人では平山綾が出ていた。タイトルは忘れた。韓国映画をバスで見るのは初めて。

車窓からは牧草地らしいところで草を食む牛や異常な流量の川などが見える。やはり、昨日、今日の雨はかなりの雨量のようだ。

2時間ほどでオソルノに到着。バスターミナルからまちの中心部に向かって歩く。風が強い。雨もときおり降る。きれいに舗装された石畳の歩道には家族連れなどの姿はぽつぽつ見える。が、商店街らしいこの通りで開いている店はスーパーとデパート、薬局くらい。デパートの入り口のマットでは野良犬が丸くなって寝ている。

スーパーの店内などをのぞき、唯一、人が集まっていたのは、中央広場の特設ステージのところだけ。集まっていると言ってもせいぜい20~30人。しかも、やっていたのはどうも健康のためのイベントのようで、ステージの上の人に合わせて集まった人たちも何かのエクスサイズをしていた。格好はみなジャージなどスポーツをする格好。

スポーツをする余裕がある人が多いらしいことも、チリの豊かさを表している。

ぼくは1時間ほどでこのまちを離れ、バスに乗ってプエルトオクタイに向かう。ガイドブックにドイツ人移民の博物館があり、しかも年中無休とあったので、行ってみたのだが・・・。

プエルトオクタイに向かう道は、広大な牧場に挟まれた一本道だった。もちろん舗装されているので、バスはビュンビュン走る。途中のパラパラあった集落で10人ほど乗っていた客のほとんどが降りていった。

牧場に隣接している家は、どこも木造家屋の1軒屋でなかなか立派な大きさの家が多い。牧場で飼われているのは牛がメイン。たまに馬や羊も見るが少ない。リャマやアルパカはもはやいない。

1時間ほどでプエルトオクタイに到着。峠を降りる道からは湖が見える。

プエルトオクタイも閑散としたまちだった。まちと言うよりは村と言うべきか、30分ほど歩いて回った限りでは店は10店ほどしかなく、今日、開いていたのは食料品店が4店ほどと、レストランが3軒ほどだった。

ふらふらしていたら時折強く雨が降る。ぼくのほかにふらふらしている人もいない。村人らしき人たちも20人ほどしか見なかった。

目的の博物館は中心部から5分ほど歩いた下り坂の脇にあった。建物手前100mほどのところに入り口の門があり、鎖で施錠されている。看板にはMuseo de Imigrantとある。午後は15時から開くと看板にあるのだが、15時前から開館を待つものの開く気配がまったくない。建物にも人気がない。

結局、15時まで待つが、一向に開く気配がないし、天気も良くないからあきらめターミナルに戻る。途中、まちの博物館兼図書館もあったが、今日は休みらしい。

プエルトモン行きのバスは16時発だっため、それまで手持ちぶさたにふらふらする。ここらの家はどの家にも煙突が付いていて、一部の家の煙突からは煙が出ている。駐車場に薪を備蓄している家も多く見られるから、きっとどの家も暖炉があるのだろう。

通りの名前などにドイツの名残があるかと思い、注意して見てみるが、中南米の常識に乗っ取り、国内の別のまちの名前が付いている通りやIndependensiaといった名が付いているばかり。日本のように(と言っても市町村合併で相当めちゃくちゃになってきているが)、その地域の歴史を思いはかれるような名が少ないように思う。

16時発のバスは、暖房が効いていた。しばらく寝てしまう。途中通ったPuerto Varasは、なかなか雰囲気のいいまちだった。だが、この大雨のせいで浸水している通りがちらほら。

17時半ごろ、プエルトモンに到着。ターミナル近くの交差点には、昨日見なかった串焼きの屋台があった。1本300ペソの串焼きを買う。豚肉とソーセージ、そしててっぺんにパンのかけらがつく。屋台の周りでは野良犬がうろうろ。

晩飯を食べる店を探すが、ファストフード店のような店しか開いておらず、しかもどの店も満席に近いほど人が入っている。何事かと思ったら、みなそれらの店でビール片手にサッカー観戦しているのだった。

せっかくなので、ぼくも1軒の店に入って、晩飯を食らいながらサッカー観戦。この店には薄型のテレビモニターが7台ほど設置されていて、みなそのテレビに見入っている。

そして、ゴールすると、ウォーという喜びの声とブーという嘆きの声がごちゃ混ぜになって聞こえてくる。

試合が終わるのを待つことなく、ぼくは宿に戻り、あとは部屋で過ごす。

Fin

プエルトモン到着、雨

08/05/17(土)

・遅い夜明け
・牧草地、牛
・木造家屋
・曇り、そして雨
・スーパー
・船便調べ
・市場へーアホ、薫製、ウニ、かき
・豪勢な昼飯
・雨漏り

目が覚めたのは5時頃だった。昨日、バスに乗ってからさっさと寝てしまい、途中、ケツが痛くて、また車内が暑くて目が覚めることもあったが、基本的には寝てばかりだった。

なので、5時にもなると目がパチリ。もっともほんとにパチリだったかというと怪しいのだが、右後ろに座っていたバスの添乗員のいびきがやかましくて、再び寝るのが難しかったことは背景にあったことも確か。ただ、目を開けていても車内は真っ暗だし、外も暗くてうっすらとした木の影とたまに出ている街灯の光しか見えない。

車内が暑く感じたので、温度計を取り出し、気温を計ってみると26~28℃ほどあった。エアコンがついているのかどうかはよくわからないが、そもそも厚着をしているから、これだけの温度があると暑い。ただ、他の客はみんなコートなどを着込んだまま寝込んでいる。

ペットボトルの水を飲む。窓辺がひんやりして気持ちいいので、窓側による。空には星は見えない。路面は濡れている。

そのうち、雨粒が窓ガラスを流れ始める。どうもこちらは天気が悪いよう。

6時もすぎれば明るくなるだろうと思っていたが、そんなことはなかった。6時になっても、6時半になっても、間もなく7時になろうという時間になっても外は一向に明るくならない。

外が明るくなる前に、7時前、車内の電灯がつく。もう着くらしい。ぼくは一昨日、サンティアゴの市場で買い込んだ果物を朝飯代わりに食べる。小型の夏みかんみたいなものと大型のネーブルのような柑橘2種類と柿。小型の柑橘はパサパサしてジューシーさが足りない。大型ネーブルはまずまずうまい。柿はかちこちに固くて、甘みもほとんどない。まだ食べごろではないよう。

食べているとバスのスタッフが朝食のつもりの箱が配られる。アントファガスタからサンティアゴに行くバスの中でも出たやつ。中も同じで紙パックのジュースと飴玉1個、あとはクッキーのような菓子が1個。どうせならペルーのようにサンドイッチくらい出せよなと思うのだが、チリではそこまではできないようだ。

7時過ぎ、まちに入る。木造の家が目立つ。歩いている人はいない。バスターミナルに着き、客の何人かが降りる。どうも目的地のPuerto Monttではないらしい。

バスはそのターミナルに10分ほど停まってまた走り出す。ようやく外は明るくなったが、空は一面分厚い雲に覆われ、小雨も降っているから、明るさも夕暮れ程度。朝が来たぞーって感じではない。

沿道にはときおりホルスタインらしい牛が見える。牧草地らしく草地にぽつぽつ木が生えている。畑などはほとんど見られない。

8時30分、バスは料金所のようなところで一時停車。料金所らしきところにはPuerto Monttという文字が見える。

空は相変わらず曇り空だが、海に近いから若干青みを帯びているように見える。坂を上り、下りにはいると目の前に小さな湾が見える。9時にはバスターミナルに到着。幸い雨は上がっていた。

ターミナルは人でいっぱい。荷物を背負って、バスターミナルを出る。ここではタクシーの客引きも宿の客引きもいない。噴火の件で、みんなばたばたしていないかと思っていたが、雰囲気は落ち着いている。

近くに宿がないかふらふら探すが見あたらない。しょうがないので、ガイドブックを開き、安いらしい宿に行く。1軒目は空いていないと言われ、もう1軒のResidencialと看板が出ていたところは大丈夫だった。宿代5000ペソ(約1200円)は、予定よりも高いけど、どうもこれ以上安いのはなさそうだから、それでお願いする。部屋はプレハブの6畳部屋。テレビ付き、コンセント付きは素晴らしい。トイレとシャワーは共同。最近、増設したばかりなのかとてもきれい。

荷物を置くと、船の下調べとまちをふらふら。

商店街らしき通りをまず行くが、ようやく店が開き始めたというところのよう。時間は10時頃。ネット屋があったので、そこでしばらくネット。1時間400ペソ(約90円)。

それからPlaza Italiaという店で、チリの国民食らしいComplatoというのを買って食べてみる。名前は違うが、要はホットドッグで、細長いコッペパンを軽く焼いて半分に切れ目を入れ、そこにソーセージとトマトのみじん切りが入り、その上からこれでもかというくらいマヨネーズやケチャップが塗られる。ぼくの前にも5人ほど並んでいた。

代金は700ペソ(約200円)だから安くはない。もちろんもっと安い店もあるが。食べてみるとマヨネーズとケチャップだけを食っているような感じ。ソーセージはあの工場で作られたらしい歯ごたえもない人工的な味のやつでうまくもない。こんなものを好んで食べているのかと思いつつ、食べる。しっかりとしたソーセージを作っているんだからそれを使えばいいのにと思うのだが、やはりこの方が安いのだろう。口ひげにケチャップやマヨネーズがくっつく。またちょっと刈り込まなければいけない。

船の会社が今日(土曜日)は13時までとあったので、バスに乗って船会社があるところまで行く。バス代は300ペソ均一(約70円)。小型のバスで、けっこう車体は年季が入っている。

意外と近く10分ほどで着いた。雨が降っていなければ十分歩ける距離。Navimagという会社のオフィスには女性が一人いただけ。彼女にプエルトナタレス行きの船について聞く。次は火曜日の午後4時発らしい。値段は390米ドル。ガイドブックでは300ドルとあったのに値上がりしたのか、米ドルが落ちたからそうなったのか。ハイシーズンは外れたと思ったいたのだが、まだハイシーズンなのか。とにかく予定外に高いので、どうするか考えものだ。

そこのオフィスから西へ行く通りには土産物屋らしい店が並んでいる。セーターや手袋など毛織物品を売っている店もあれば、牡蠣など貝類の乾物を売っている店もある。

アンヘルモという名のこの一帯はちょうど小さな漁港になっていて、海側には小さなボートがいくつも浮いている。さらに歩いていくと道の駅のような施設があった。そこの駐車場ではイチゴやインゲンや肉、キノコ、貝類を売っている人たちがいて、周りの店舗ではチーズや毛織物などを売っている。驚いたのが、ニンニクの大きさ。一見したときはニンニクとはわからなかったほど。イチゴ並みの大きさはある。また、ニンニクをすりつぶしたようなものもパックで売られていて、それに唐辛子なども混ぜたのか、コチュジャンのようなものも売っている。

その奥に行くと、そこが市場になっていて、海産物を中心に多少の野菜なども売られていた。声をかけてきたおばさんについて、食堂に入る。食堂はこの施設の敷地内に30以上もあるよう。

食堂は2階にあって、15人も入れないようなその店に入ってから何がいいか聞かれる。何があるか聞くと、台所で鍋を見せるからというようなことを言われる。

クラントという名前の料理がうまそうだったので、それを頼む。3000ペソ(約800円)というのでかなり高い気がしたが、実際の物を見たら十分元をとれるものだった。

すぐに運ばれてきた幅広の器には、11個の大型のカラスガイ(?)に骨付きの鶏モモが1つ、でかい本格ソーセージが1本、さらに本格ハムのような肉の塊が一つ入っており、平皿にはゆがいた大きなじゃがいもが1つと、小麦を練って作っただんご状のものが1塊盛られていた。とにかく山盛り。想像以上のすごい量。味といい、量といい今回の旅の魚介料理では一番だな。まぁ、それだけの値段だけど。

その他に、このゆで汁らしいスープとパンが2個。スープもなかなか複雑な味でうまい。

後から入ってきた10代くらいの男3人組はこれを3人で2皿頼んでいたから、地元の人にとっても量が多いか、値段が高いらしい。

土曜日のお昼過ぎなのに、客は少ない。この天気が影響しているのか。

食後市場を見て回る。市場は20~30m四方と小さい。とにかく貝類が多く、牡蠣を剥いている人やウニを剥いている店の人たちがいる。魚は鮭のような赤い魚など10種類ほど。貝類のむき身やタコの切り身、カニなどがパック詰めされて2000ペソなどで売られているのだが、なにせ量が多い。一人旅の者にとってはちょっと手が出ない量。惜しい。

ぼくはチーズを100g(250ペソ)とイチゴを1かごぶん(500ペソ)買って帰る。雨が強くなりはじめたので、バスターミナルで近隣行きのバスの時刻表と値段を見て、スーパーの店内を見て回って昼過ぎに宿に戻る。

市内には歩いて20分圏内にスーパーが5軒ほどあり、喫茶店も数店、あまり冴えない洋服屋などがあった。スーパースタイルの店がすっかり定着しているようで、路上の物売りは少ない。

また、物乞いの人もいないし、子どもで働いている子もいない。人口が少ないのか、それとも曜日や天気が原因なのか、非常に閑散とした印象を受ける。晴れていたらぜんぜん印象が違うだろうなとは思うけど。

宿に戻っても雨はやむことなく、強くなったり弱くなったりを繰り返しながら降り続ける。そのうちポタポタと天井から水滴が落ちてくる。作りが簡単なプレハブのようなところだから、どこからか水が伝ってきたよう。

部屋を代えてもらい、あとは夜まで宿で過ごす。

テレビはケーブルテレビなのか40チャンネルほど見られる。うち1チャンネルは日本のアニメをずっとやっていて、ドラゴンボールやNARUTO、ワンピースなどをやっているのを見た。CNNがスペイン語版とアメリカ版の2つ。他、チリのチャンネルらしき番組が4つほどある。それからアメリカ映画のチャンネルが10ほどある。字幕がスペイン語。

チリのニュースでは噴火のニュースやコロンビアからのコカインの密輸を摘発した話、体重が200kgある女の人の話などが流れていた。

Fin

平日とは思えないサンティアゴ、プエルトモンへ

08/05/16(金)

・日系旅行会社
・国立歴史博物館
・大聖堂
・ポップコーン
・地下鉄
・広場の大道芸

朝6時頃、目が覚める。まだ外は暗い。どうもチリは日の出が遅い。

今日、サンティアゴを出るかどうか迷っていたが、プエルトモンからの船がどうも火曜日に出るらしいという情報とサンティアゴは宿代が高いということもあり、今日、プエルトモンに移動することにする。

7時過ぎ、フロントに降りてチェックアウト後も荷物を預けられるか訪ね、それからネットでチリのニュースなどをチェック。ネットを見ていると、もう1台のパソコンでネットをしていた人から話しかけられる。”日本人の方ですか?”と聞かれ、そうだと答えるとそのパソコンでは日本語が読めないらしい。

聞くと、彼女は昨日の夜にサンティアゴに着いたらしいが、乗ったタクシーの運転手にATMでカネをおろすように言われ、おろした瞬間にそのカネを持ち逃げされたらしい。そのショックと時差もあり、昨晩は寝られず、今日もあまり宿を出たくないと言う。

ただ、イースター島に明日行くらしく、その関係で空港行きのバス乗り場を調べたいのと、サンティアゴの新市街にある日系の旅行会社には行きたいと言う。それなら一緒に行ってみるかと伝え、あとで待ち合わせする。

朝食はパンとジャムとバターとコーヒー、牛乳、紅茶のみ。パンを6つほど食らう。大学か何かのグループなのか若い男女の中に一人だけ年輩の男性が混じり、飯を食っているグループがあった。

当初はもう1泊するつもりだったから、昨日安い300円ほどのワインを買っていたのだが、まだ半分ほど残っていた。荷物と一緒に預けるには、割れたりする危険性があるし、同部屋の人にやろうと思ったが、彼は寝ているしで、しょうがないのでとりえず飲み干す。

9時過ぎ、荷物をフロントに預け、チェックアウトし、同宿の日本人の人と外に出る。まずは長距離バスターミナルに行き、ぼくの方の用事を済ませる。いろいろな会社の窓口を聞いてまわることはしなかったが、今晩7時のバスがあるという会社でチケットを買う。12000ペソ(約3000円)。なかなか高い。

それから地下鉄で新市街の方に行く。地下鉄に乗るのは、メキシコシティ以来。かなり久しぶりだ。メキシコシティと同じく、人間がやっている発券所で1回ぶんのチケットを買う。1回380ペソ(約130円)は安くもないし高くもない。紙のチケットを受け取り、それを自動改札に入れる。チケットはそのまま回収されて手ぶらで乗り場に行く。地元の人はスイカのような電子カードを持っているらしく、ピッピッと電子を音を立てて中に入っていく。ちなみに改札の機械は日本のようなものではなく、金属のバーを回して入るタイプ。

地下鉄は人でごったがえしていてさすがに首都の感がある。車内も混んではいるが、隣の人に接触することもないので、東京を知るものにとっては混んでいるうちには入らない程度。

車内も明るく、次に停まる駅のアナウンスもある。メキシコシティでは地下鉄の車内でもCDを売り歩いている人がいたが、ここにはそうした人はいないよう。

新市街の目的の駅で降りる。ここも20階立て以上の近代的なビルが建ち並んでいて、ほ~、と思わず声が漏れる。

”南米ってちょっとバカにしていたんですけど、こんなところだなんて本当に驚きました”と彼女は言う。それはぼくも同感で、サンティアゴがここまでとはまったく想像していなかった。

目的の旅行会社が入っているビルに着き、エレベーターに乗る。8階まで乗ったのだが、エレベーターのスピードが異様に速い。各階の天井が低いのか、本当にスピードが速いのかどうちがうかはわからない。

その旅行会社に行くと、彼女は事前に連絡を取っていたらしく、打ち合わせに入る。ぼくはオフィスにあったもろもろの地図を物色。サンティアゴ市内の日本語版の地図も置いていて、それをもらっていく。日系の会社をこういうふうに使うのもありか、と今更ながら思う。

それから中心部にバスで行こうかと思い、適当にバス乗り場からバスに乗る。が、どうもさっき歩いて戻ってきた道をまた通っているよう。反対方向に向かっているように思い、隣に立っていた人に聞くと、やはり反対方向に向かうバスに乗っていた。

適当に降り、またバスにチャレンジ。今度は、中心部に行くバスかバス停で待っているおじさんに聞いてから乗ることにする。しかし、そのおじさん、親切にもバスの方向だけでなく、バスの乗り方まで教えてくれる。バスに乗るためのカードは持っているかと聞いてきて、持っていないと言うと、それでは乗ることができないから地下鉄に乗るよう勧める。ここでそのカードが買えないか聞いてみたが、近くでは買うことができないらしい。

昨日と同じように乗り方がわからないふりして(昨日は実際に知らなかったが)、バスに乗ろうかと思っていたのに、ここまで教えてくれてはバスに乗れない。地下鉄は外の景色を見ることができないから乗りたくなかったのだが・・・。

それにしてもなぜサンティアゴはこんな面倒なバスシステムを導入したのだろう。ガイドブックによれば2007年1月に個人経営によるバスを廃止し、TransSantiagoという公共交通機関に一元化し、それと同時に現金による乗車をできなくしたらしい。

メキシコシティにも現金が使えない最新の路線バスがあったが、それではみすみす客を逃しているようなもののように思うのだが。特に、観光客のように一時的な滞在者にとってはわざわざカードを作らないと(これにもカネがかかるらしい)乗れないバスなんて、あまり使いやすい交通機関ではない。せめてカードの自動販売機をバス乗り場近くに配置するか、現金も使えるようにするかの追加対策が必要なように思う。

そんなことをぶつぶつ思いながら、地下鉄の駅に行き、地下鉄に乗る。

中心街近くの駅Universidad de Chileで降りる。大都市の中心部に大学があることもまた驚き。市場に行くために、昨日も一度通った通りを東に向かう。今日も平日の昼前というのに歩行者天国のメインストリートには人が多い。ギターやドラムなどを並べて演奏しているバンドもいるし、それに見入っている人たちもいる。これは、日本の平日昼前の通りでは見ることはできない光景だろう。

南米の中心都市にはたいていあるPlaza de Armaz(
アルマス広場)に行くと、広場の北側には昨日と同じように画家たちの屋台(?)兼青空アトリエが並んでいて、さらに占い師も数人いる。南側では男女のペアがラフな格好で、練習なのかオペラっぽいことをしている。その近くではピエロに似た格好をした大道芸人が通行人を捕まえては芸をしている。また、オペラの東では小さな机と椅子が並べられ、チェスに興じているおじさま方が20人ほど。

昨日と同じように観光地化されている中央市場を通り、それから卸市場のベガ市場に行く。

中央市場では、レストランの客引きの人が”ココ、チキュウノアルキカタ二ノッテイル”、”ウニ、アワビ、カニ アル”、"ノー タカクナイ”などと片言日本語で話かけてくる。店の間を通るたびに声をかけられるので、けっこううっとうしい。

ベガ市場近くに串焼きを売っているおじさんがいたので、購入。いわゆる焼き鳥と焼き豚(とん)の2種類が炭火で焼かれていて、1本500ペソ(約150円)。値段もけっこうするが、肉の量は日本の焼き鳥とは比較にならないほど多い。一緒に食べた彼女は小食らしいこともあって、これで腹一杯になったとか。

ベガ市場は昨日よりも買い物客が多い。相変わらず野菜や果物、魚、肉、ピクルスがあふれている。一緒に来た人は、あまりこうした市場には来ないらしく、見ているだけで、なんかもう腹がいっぱいというか、胸がいっぱいになったなどという。その感覚がぼくにはわからない。

昼飯を市場の一角の食堂で食べる。セビチェ(魚の酢の物)と白身魚のフライのセットを頼む。セビチェは味付けはメキシコやペルーと同じ。レモン味がなかなかよろし。1リットルの瓶ジュースなども含め5000ペソ。店の人は、同行者のために白身魚のフライ定食を勧めてくれたようだが、同行者はさっきの串焼きで腹が一杯だとかでほとんど食わず。

それから、またまちをふらふら。

国立歴史博物館は、なぜか今は無料で開放しているからとタダで見ることができる。館内には独立戦争時の物品から、日本で言う黒電話やタイプライターなど昭和の品々も展示されていた。タイプライターがすでに展示物になっているところに、グアテマラやボリビアなどそれらがまだまだ現役で活躍している他の中南米国との違いを感じる。

館内は僕らの他には社会の授業か何かで来ている高校生ばかり。女の子はタイツの上から分厚い靴下を履いていて、同行者の彼女はそれに驚いていた。言われてみると確かに。

アルマス広場に面したサンティアゴ大聖堂は1558年
に建てられたもので、チリ・カトリックの総本山らしい。20mくらいはありそうな天井に細かな装飾がすごい。ガイドブックによれば、ピノチェトによる軍事独裁体制下、この大聖堂前では宗教的な集まりというカモフラージュのもとで軍事独裁に反対する集会も開かれていたらしい。

両替をするが、ドルは昨日よりも下落。『地球の歩き方』でも『ロンリープラネット』でも1米ドル=520ペソで計算されているのだが、この日が1米ドル=460台。そのため米ドル換算で言うとガイドブックに載っている値段を参考にするときには、1~2割増しで考えなければいけない。

歩行者天国の通りはどこも大勢のひと、人、ヒト。チリは失業率も低く、治安もいいとあったが、こうした様子を見ていると、日本よりもずっと豊かな雰囲気が漂っている。

5時過ぎに宿に戻り、預けていたリュックを受け取る。それから地下鉄に乗って、バスターミナルに行く。バスターミナルに直結しているショッピングモールでどでかいポテトチップ(こちらでは一番メジャーなポテチ会社らしいもの)450g入りを魔が差して買う。でかいこともあるが、500円近くするのもなんかすごい。中南米に共通するが、こうしたお菓子は一般的に日本よりも2~3割高いように思う。

あと水を買って、バス乗り場で待つ。バス乗り場も人だかり。次々とバスが入ってきては出ていく。

バスは19時15分発なのだが、19時になっても19時15分になってもバスが入ってこない。Puerto Monttと行き先を書いたバスが19時頃入ってきたから、それかと思い、バスまで行ったが違う会社だった。そのバスも19時15分発だったのだが、予定より5分ほど遅れて
ターミナルを出ていった。

結局、バスは19時半頃ターミナルに入ってくる。そして20時前にバスは発車。発車するとすぐに近くの別のターミナルに入り、しばらく停車。結局サンティアゴを出るのに1時間くらいかかる。

車内はほぼ満員だが、ぼくのような外国人客はいない。外は真っ暗だし、背もたれはよく倒れるので、さっさと寝てしまう。
                                                   

サンティアゴ到着、まちをぷらぶら

08/05/15(木)

・バスでキセル
・面倒なユースホステル
・タバコ
・靴磨き
・働く子どもは皆無
・道ばたでの商売ー靴磨き、靴下・手袋売り、ピーナッツ、チョコレート菓子、
・消えたスカートと三つ編み

目が覚めたときには、まだ外は暗かった。6時をすぎているというのに、まだ暗い。

7時をすぎて明るくなり始めると、沿道に畑が見える。サンティアゴ周辺の中央部がチリの農業地帯であることは、ガイドブックに書いてあった。青い葉が植わっている畑が多いが、それが何なのかはよくわからない。10人くらいで収穫作業をしている人たちも見える。また、ブドウ園も時折見える。棚を作っているタイプとそうでない縦に蔓をはわせるタイプの2種類。

他の国ではたまに見かけた幹線道路沿いの農産物売場のようなものは見ることがなかった。

8時頃、添乗員が各窓のカーテンを開けてまわる。これもなぜ全部のカーテンを開けるのかよくわからない。それから、長さ20cm、高さ5cmほどのボックスが配られる。これが朝飯代わりらしい。昨日の晩も同じものが出た。中を見ると、あめ玉が1個に小さなケーキ菓子が1個、それに紙パックのオレンジジュース。ペルーと比べると、悲しいくらいにしょぼい。

30秒ほどでそれを食べ尽くす。腹の調子はだいぶよくなってきたよう。

片側1車線だった道路が2車線、3車線になり、車の交通量もグッと増える。沿道に10階建て以上の古いアパートが見え、その壁や沿道の壁にスプレーによる落書きを多数見る。

9時45分、バスは2階建ての建物の2階に上り、そこで停まる。立体駐車場のようなところがバスターミナルだった。規模はこちらの方が小さいが、パナマシティのバスターミナルに似ている。

バスから降り、リュックを受け取り、まずはトイレ休憩。バスの中で行っておけば無料だったのに、と思いながら、150ペソ(約40円)を払いトイレに入る。中は見事に掃除されていて、ピカピカ。トイレットペーパーも備え付けられているし、手洗い所には液体石鹸も備え付けられている。小便器の位置が高いのはちょっと調子に乗っているように思ったが、まぁ、白人比率が高い国だから、そのぶん平均身長も高いということか。

トイレの入り口前には大きなソファがあって、そこにリュックを背負ったまま座り込み、現在地と泊まる予定の宿の位置を確認。

ターミナルの1階に降りる。1階は改装なのか、拡張なのか工事中。その工事部分を抜けると、ショッピング街に出た。服や電化製品、チョコレート、スポーツ用品などあらゆるものがある。まだ開店していないところが多いのも南米の先進国っぽい。これまで通った国の店は8時には店が開いていたのに、平日で9時になっても開いていないとは珍しい。

バスターミナルの横が鉄道駅で、その地下には地下鉄の駅があった。ガイドブックには地下鉄が便利とあったが、それではまちの景色を楽しめないので、市内バスに乗ることにする。

バス乗り場には細かな路線図と各番号ごとの行き先が書かれたボードがあったので、それをしばらく眺め、どの番号に乗るべきかを考える。

ガイドブックによれば個人経営のバスは2007年1月に廃止されたとのこと。そのためだろう、他の中南米各国では当たり前だった客引き兼集金担当の人がバスには乗っていない。バス乗り場と言えば、その人たちが行き先を連呼する声でにぎやかだったのだが、ここはしめやかにバスへの乗り降りがなされている。

周りの人たちは真冬を思わせるようなダウンジャケットなどを着ているが、はっきり言って寒くない。たぶん20度前半くらい。こんなに暖かいのに、そんな格好をして本当の真冬は大丈夫なのかなと勝手に心配してしまう。

15分ほどして乗りたいバスがやってきた。2両つなげた長いバス。1000ペソ札を手に持ち、前のドアから乗るが、運転手がお札を受け取らない。というか、ぜんぜんこちらに見向きもせず他の客としゃべっている。お金を入れる機械もなかったので、後払いなのかと思い、とりあえず乗り込む。

バスに乗っていて、みんながどうやってカネを払っているか見ていると、カネを払っている人はいなかった。みなICカードを持っていて、それを前の入り口付近にある読み込む機械にあて、ピッピと読ませて乗り込んでくる。降りるのは適当に後ろのドアから降りている。

そういうわけで、ぼくはカネを払うことなく、目的地で下車。きっと個人経営のバスならこんなことはできないだろうが、そうではないぶん運転手もカネの計算は適当なんだろう。と、自分に都合のいいことを考える。

しばし歩く。歩道には黄色い落ち葉がそこここに落ちていて、秋の雰囲気を醸し出している。中心街からは遠いものの建物はヨーロッパ調。ここも目隠しをして連れてこられて、ここがフランスです、とかと言われても、すんなり納得しそうなほど、街並みがヨーロッパ的
だ。

人通りが少ない通りを宿を目指して歩く。バスから降りてから15分ほど歩いて、ようやく目的の宿に到着。ガイドブックによれば、ここは1泊8ドル程度とあった。2m以上ある木製のドアを開け、フロントに行くと、フロントにはガイドブックがずらり。やはり木製のフロントデスクには若い女性が二人いた。

部屋が空いているか聞くと、予約はしたかと聞かれ、していないと言うと、今は空きがないという。そして、近くにユースホステルがあるからと地図に位置を書き込み、教えてくれる。

とぼとぼと歩き、地図に示された場所に行く。Sienfuegos(シエンフエゴス)というキューバでよく聞いた名前の通りに行くと、ユースホステルのマークを発見。代々木のオリンピックセンターの宿舎のような建物。

フロントにはかっこつけた40代くらいの男の人がいて、聞くと部屋は空いているという。値段を聞くとドミトリーで6500ペソ(約1500円)。ユースホステルの会員証を見せてこの値段。割引は500ペソ(約150円)ぶんしかない。世界組織のくせしてケチくさい。5000ペソ(約1100円)が自分で決めた宿代の上限なのだが、これから探すのも面倒なのでここに泊まることにする。

今、代金を払って欲しいと言われるが、あいにくペソがないと言う。すると何を持っているかと聞くので、米ドルと答えるとそれでいいと言う。20米ドル札を渡すと電卓で1米ドル=410ペソで計算をする。両替所では安くても460ペソなんだから、それはやりすぎだろと思っていたら、結局、お札の一部が破れているからダメと言って、その札をぼくに返し、両替してあとで払ってと言われる。こっちとしては為替の差額で損をするところだったからラッキー。

部屋のキーとシーツ類を渡される。3階の305号がぼくの部屋らしい。部屋は2段ベッドが2つ並んでいる4人部屋。金属製のどでかいロッカーがあるのは、えらい。一人誰かいるらしい。

ぼくはロッカーにリュック類を丸ごと詰め込み、一息してから一階に降りる。1階にあったパソコンでネット。無料なのはいいが、これがめちゃくちゃぼろく
4台あるうちの2台は壊れていて使えない。使える2台は使用中だったので、しばらく空くのを待つ。15分ほどして空いたので、ネットでパタゴニアに行く船のことなどを調べる。

11時過ぎに宿を出て、とりあえず市場を目指して歩く。腹はほぼ回復したようだから久しぶりに飯を食いに行く。

地図で見れば中心部まで歩いて行けるようなので、歩きで行くことにする。宿のドアを出て右に曲がり、薄暗いネット屋などの前を通り、また右に曲がる。

大学が近くにあるのか、20代くらいの男女が50~60人歩道などにたまっていて、ぼくが歩いて行っても友達とのおしゃべりに夢中で道をあけようとしない。しょうがないので、その間を縫うように通り抜ける。

すぐに幹線道路をまたぐ橋に出る。左を見ると陸橋があって、そちらから騒がしい声がしてくる。よく見てみるとどうも学生がデモをやっているよう。周辺に警官が振え始める。官庁街が近いからかと思っていたら、大統領府の前の広場でおばさんやおじさんが抗議集会を開いていた。集まっているのは100人ほど。抗議の言葉を書いた横断幕を持っているが、ぼくには何と書いてあるのかわからない。集まっている人は横断幕を持っている他は、ふつうの格好でヘルメットもかぶってなければ、ゼッケンも付けていない。警官たちはそれを遠巻きながら見ている。

20階建てくらいの高層ビル(高層ビルが何階以上の建物の事を言うか知らないけれど)が、立ち並ぶ通りを歩く。ビルのおかげで一帯は日陰になっていて暗い。

中心部は碁盤状になっているから地図を見ながら歩くのはわりかし簡単。問題があるとすれば地図の方で、特に日本語のガイドブックや地図には通りの名前がきちんと書かれていないので、現在地を把握しようにも地図に自分がいる通りの名前が載っていなかったする。通りには標識がいちいちついているので、その名前を知るのはたやすいのだが。

なんの看板なのかわからないが、日本語で書かれている看板を発見。”デジタル””技術工学”などの文字が書かれている。まともな日本語を使っている看板を見たのは、ロサンゼルスの日本人街を除き初めてだ。

道ばたはここも整然としていて、ぶらぶらと物売りしている人はいない。固定されたキオスクがあるだけ。

両替屋が並ぶ通りで両替をする。レートは1米ドル=462~465ペソ、1ユーロ=710~720ペソ。

それから歩行者天国になっている通りに出る。道幅が10mほどもあり、とても広い。そこではギターなどを持った5人組くらいのおじさんが演奏しながら歌っていたり、靴磨きの人がいたり、靴下などを売っている人がいたりする。

靴磨きは、それほど客が入っていないよう。ボリビアやペルーの靴磨きは、小さな木箱ひとつで移動しながら仕事をしている人たちもいたが、ここはメキシコのグアダラハラなどと同じように客が座るためのそれなりの椅子があって、そこで客を待っているスタイル。

歩行者天国の通りは1つの空きもなく店が続いている。靴屋から服屋、CD屋、電化製品屋、Haitiと名の付いた喫茶店、ファーストフード店などなど。歩行者天国からはずれても各ビルの1階が店になっていて、細いビルの間の通りやビルの通路も商店街になっている。どの店も新品同様の店構えをしていて、これまで行った南米諸国の商店街とはまったく雰囲気が違う。アメリカやヨーロッパとほぼ同じ。

それからこれまで行った中南米各国と決定的に違うのがタバコの喫煙率。これまで行った国では、誰かが吸っているタバコの副流煙を吸わされることは、一日歩いていてもまずなかった。たいていタバコのにおいがするのは、外国人の多い場所(つまりは宿)や現地の大学生らが多い場所で、メキシコで泊まった日本人宿でなど9割方吸っていることもあった。

もっとも、それらの国ではタバコ自体も高いようで、道売りではたいてい1本ずつ売っていた。それがチリに来たら、それもサンティアゴではちょっと歩くと誰かのタバコの臭いが鼻につく。喫茶店を除いてみても、もうもうと煙が立っていたりする。

吸っているのはおばちゃんだったりおじさんだったり、若い男女だったりと年齢性別に関わりない。

正直言ってチリがここまでとは思っていなかった。あまり事前にチリのことを調べていたわけでもなかったし、前から関心があったわけでもなかったから、チリと言えば安いワインとピノチェト元大統領くらいしか知らなかった。

チリも80年代まではピノチェトの軍政でそれほどまともな政治がなされていたとは思えないのに、なぜチリはこれほどまでに”発展”したのか。

『ラテン・アメリカを知る事典』によれば、チリは早くから比較的政治は安定していたらしい。ピノチェトらによるクーデタでつぶされたアジェンデ政権も、世界で初めて”議会制民主主義に基づく”社会主義への移行を試みた政権であったらしい。ちなみにこのアジェンデ政権時代にはアメリカがこれをつぶそうとチリ国内の反対勢力に資金援助をしていたのは、CIA自身も認めていることらしい。

また、これは推測でしかないが、インディヘナの人口がそもそもこの地域に少なかったことも、チリの発展の背景にあったのではないか。チリにはマプチェ(アラウカノ)族などが住んでいたものの、エクアドルやペルー、ボリビアと比べれば”先住民”の人口は少なかった。メキシコやグアテマラも含め、先住民の多い地域は差別的な政策が長くとられていたようで、白人とインディヘナでは大ざっぱに言えばまったく住む世界が違っていた。そうした差別問題が、たまたまチリでは他の国と比べれば小さかったということも、この経済発展の背景にあるのでは。

平日の昼間なのに、歩行者天国を歩く人は多い。それもストリートミュージシャンの音楽を聞き入っている人が20人ほどいたりする。

中心の広場であるアルマス広場に行ったら画家らしい人たちが30人ほど青空アトリエとも言うべき空間を作っていて、販売用の自分の絵を飾っているとともに、その脇でキャンバスや画用紙に絵を描いている。

中央市場に行ってみると、ここの市場もサンホセ(コスタリカ)と同じく、きれいに観光地化されていた。多種類の魚や貝を売っているコーナーの他にレストラン街があって、そちらに行くと次々と客引きが声をかけてくる。他と違うのは自分の店の名刺を手渡してくること。中には”ウニ、アワビ、アル、タカクナイ”などと日本語で話しかけて来る人もいる。また、”トモダーチ”と、ナスカの時のように声をかけてくる人もわずかだがいた。

値段を見てみると、ほとんどが3000ペソ(約700円)以上。なかなか高い。

ガイドブックによれば、この先、川の向こうにもベガという市場があるとあったので、そちらにも行ってみる。

ベガ市場の手前に小さなやはり市場風のところがあって、そこでは花や洋服、日用雑貨などが売られていた。こちらは中央市場と違ってボロボロのトタンづくり。中にはコインゲーム機もあり。そこにもジュース屋と食堂があったが、ここも素通りして、道を挟んで向こう側のベガ市場に行く。

こちらはいかにも市場という雰囲気で、狭い通路(すれ違うときには半身にならないといけない)を挟んでこれでもかと店が並んでいる。食堂街もあって、こちらはどこも客がたくさん入っている。どでかい魚のフライや肉の塊を食べているのは、他の国々と変わらない。

端の店でSopa de mariscosを食べる。具は貝がいくつか入っているだけで、他の肉料理と比べると迫力がかける。が、味はまずまず。料金も1000ペソ(約300円)と安かった。

ベガ市場は文字通り奥が深く、食堂街を出たら、また卸市場があった。そこに入ってみると、チーズ屋やピクルス屋、香辛料屋、野菜屋、果物屋が豪快に商売をしている。ちなみにこちらにも食堂はあった。

ただ、商売のピークは過ぎたようで、わりとのんびりしている。野菜屋が集まっているコーナーに行くと、通路にはセロリの切れっぱしがボタボタ落ちていて、セロリのあの香りが一面に漂っている。

カボチャはバカでかく、中には両手で抱えても持ち上げられないのではというようなものもある。当然、そんなでかいかぼちゃなので、売り方は切り売り。ギザギザしたノコギリのような包丁(?)、いやノコギリそのものがカボチャには刺さっていて、それで客の好みに合わせて切り売りしているようだった。

さすがにバナナやマンゴーは輸入されているようで、それらしい段ボールに入っている。じゃがいもは相変わらず5~6種類ほどあるが、ペルーやボリビアのように白や黒のじゃがいも(チューニョ)はない。

青リンゴ、赤リンゴ、ぶどう、洋なし、みかんなどに混ざり、初めて見たのが栗と柿。柿はどこかにもあった気がしないでもないが、初めての感がする。栗は初めて。いかにも秋という感じだ。

それから目に付いたのが、ゴムチューブのようなもの。輪ゴムのような色をしていて、中は空洞になっているぐにゃぐにゃした細長いものが、多くの店で売られている。名前を聞くとコチャユーヨというらしく、ガイドブックによれば海草の1種らしい。

売られている肉は豚、牛、鶏が中心。もちろん内臓も売られているが、ペルーやボリビアの市場のように、頭がどすんとあったりはしない。肉のみ。1店だけうさぎらしい肉を売っている店があった。

それからぶらりと歩き回る。安い宿に移ろうと日本宿を探していったのだが、この時期はやっていないと言われ断念。ここは1泊10ドルとのことだったから、こちらに移ることができれば4ドル浮かすことができたのに。

結局17時くらいまで歩き続け、宿に帰る。

午後いっぱい歩き回ったわけだが、あまりにボリビア、ペルー、エクアドルなどと雰囲気が違ったので驚いた。物乞いの人も歩行者天国で膝から先がない人がうつ伏せになっていた他には見ることがなかったし、何より子どもが働いているところを見ることがなかった。これだけ見事に子どもが働いていないのは南米では初めて。物価高もなかなかのもんだし。

夜は今後のルートについて考えたりする。調子に乗って買ってきた白ワインとチーズを食べながら。

Fin

アントファガスタからサンティアゴへ

08/05/14(水)

・朝のショッピングセンターで厳重注意?
・工事中
・港のアザラシ、ペリカン、猫と犬
・セビチェ、貝、アワビ、ウニ
・来ないバス

7時過ぎに起床。朝方、チェックアウトの時間を確認し、散歩に出る。

昨日は行かなかった海岸側へ。昨日は気づかなかったが、メイン広場のやや南側の海沿いには、Mall Plazaという、どでかいショッピングモールがあった。9時にもなっていないこの時間にはまだ開いていない。ただ、フィットネスクラブはすでに開いているようで、窓ガラスの向こうでランニングマシンに乗って走っている女性が見える。

ぼくは記念にショッピングモールの全景を撮ろうとしたのだが、そこへ駐車場の警備員かと思っていた制服を着た若い男の人が寄ってきて、"No puede tomar fotos"などと言う。外観すら写真に撮れないなんて、どういうことなのかよくわからなかったが、しょうがないのでさっさとショッピングモールの敷地を出る。

その南側はHotel Antofagastaという、おそらくこのまちで一番高そうなホテルがあった。拡張工事なのかリニューアルなのか、ホテルの周りの道は工事中。その隣には建築中のビルがあった。

湾に沿って南に行くと右手に鉄道駅がある。湾に沿った道路は工事中で、あちこちに立ち入り禁止の立て看板がある。

湾には小型の漁船が停泊していて小さなオレンジ色のボートも数艇見える。漁船が運んでくる魚を当てにしてか、ペリカンが岸壁にずらずらと待機している。船が停まっているところが漁港になっているようで、関係者らしい人たちが帰ってくる船があると岸壁に出て迎えている。

その漁港の東側には立派な建物の魚市場があって、湾に面したところはベンチなどが設置され、人々が憩える場所になっている。だが、そのベンチ周辺はごみだらけ。そして、犬と猫が10頭くらいうろうろ。

一人の初老の女性がそこから湾の中をのぞき込んでいた。ぼくもそれにつられてのぞき込んでみると、岸壁のすぐ下にはアザラシらしい生き物が10頭近くたむろしていた。やはり漁船の魚を当てにしてきているのだろう。

魚市場に入ってみる。建物内は清潔に保たれていて、数軒の食堂と数軒の魚屋が軒を連ねていた。まだ準備段階で店頭は寂しい。

また、あとから来ることにしてその脇を通り、海側に出る。人工湾の外側にはテトラポットが並べられ、外洋と湾を隔てる壁の上に、海を眺める中年のおじさん、おばさんが、ペリカンと並んでいた。

ぼくは岸壁の方からまちを見る。そうしているうちに漁船が1艘湾に帰ってきた。船の動きに合わせて海鳥が動く。魚が入っているらしい網を陸にいる人に渡そうとすると、次々と鳥がそれに寄ってくる。人間の方はそれをタオルのようなもので叩いてはねのける。

そんな光景を見ていたら、漁港の方から左手にだらりとしたものを持っておじさんがこちらにやってきた。何を持っているのかと思ってよく見てみると、手にぶら下げていたのは猫の死体だった。それほど年寄りというわけではない。血を流しているわけでもない。ぶらぶら揺れているから、死んでまだ間がたっているわけでもなさそう。

おじさんは、テトラポットの上を歩いていき、2~3度筆をぶらぶらと振って勢いをつけ、猫を波の中に放り投げた。無事、猫は波間に届き、波に合わせて揺られていた。

ぼくは、壁づたいに元の道に戻る。元の道はあるホテルの裏側に出るようになっていて、そのホテルと海の間には不自然な砂場があった。その砂場の端に黒い寒冷紗(漢字が合っているか不明)のような布地で覆われている小さな四角い一角があった。風に飛ばされて何かにひっかかっているのかと思って、見ていたら中でもごもごと動いているのを感じる。

その動いているものに焦点を絞って見ると、中にいたのは人だった。さっきもこの砂場を通ったし、この黒い布地の前を通ったのだが、そのときはまったく気づかなかった。ハッとして、この砂浜のような砂場を眺めてみると、同じようにこの浜に住んでいるらしい家がもう一軒見える。

さらに北に行くと海水浴場らしいところに出て、そこにはきれいなキャンプ用のテントとやはり同じような黒い家が一軒ずつあった。

昨日、ちらっと町中を歩いた感じでは物乞いの人はいなかったが、こうした人はここにもいるよう。

海辺の道に従って北に歩くと、コンベンションセンターかとも思えるどでかい建物にぶつかる。立体駐車場からは車がどんどん出てくる。建物の入り口の方に回ってみると、ここもショッピングセンターだった。名前はLIDER。よく見ているとバスのフロントにある行き先に、この名前も書かれてある。

中に入ってみると1階がスーパーとホームセンターが合体したようなフロアで、2階にはボーリング場にファストフード店数軒、ゲームセンター、映画館があった。

アントファガスタの人口がどれだけあるか知らないが、スーパーの密集度はこれまで回った南米のどの都市よりも高いように感じる。中米では新市街と呼ばれているところには多く見られたが、それも首都での話。チリの商業の中心地らしいが、首都以外でこれだけの商業施設があるとは驚きだった。

腹の調子を立て直すために、朝飯代わりにヨーグルトを買う。ヨーグルトといっても、こっちにはいわゆるプレーンのヨーグルトが売っていない。すべて何かの果物の味がついた甘いもの。思うに、一部の酪農家をのぞき、プレーンのヨーグルトを食べたことがある南米人はほとんどいないのではないか。

その後、このまちの博物館に行く。入場料は無料。小さな博物館で近海にすむ魚などの紹介から、この地に住んでいたインディヘナの人の生活道具などが展示されている。説明はスペイン語のみ。

それから宿近くに戻り、両替屋で両替。そして、複数あるバス会社のうち比較的安かったPullmanというバス会社の窓口でサンティアゴ行きのバスチケットを買う。代金は18000ペソ(約5000円)。ボリビアではあり得ない金額だ。

バスは13時発。宿に戻って荷物をとり、宿代4000ペソ(約900円)をおばあちゃんに払う。カネを受け取るとおばあちゃんは”サヨナラ”となぜか日本語で別れを言う。これまでは一切日本語を知っている素振りも見せなかったのに、なぜ別れの言葉だけ知っているのか?とも思うが、それはやはり『歩き方』に載っているからなのか。

早めにバスターミナルに行き、バスを待つ。待合室は人でいっぱい。

チリのバスは時間にも厳しく、予定時刻通りに出るとガイドブックにあった。また、昨日乗ったバスも確かにそうだった。だから、早めに来て待っていたのだが、時間になってもまったく案内がないし、ターミナルにそれらしきバスも入ってこない。

2度ほど、案内の放送をしている年輩の社員のおじさんにいつ出るのか聞くが、もうちょっとと言うばかり。そのうちあるおじさんが猛烈に抗議を始める。その人もサンティアゴ行きを待っているよう。

予定から遅れること1時間ほど。14時半になって、Santiagoとフロントに書いたバスが入ってきた。ぼくはそれを見つけ、立ち上げると、アナウンス係のおじさんがぼくのところに寄ってチケットを見せろと言う。それで見せると、あのバスに、とバスまで案内してくれる。

リュックを荷台に預け、バスに乗り込む。バスはきれいでなかなかよろし。特筆すべきは脚起きの台(?)が座席と同じ高さまで上がること。なので、ひざは曲げないといけないが、脚を腰と同じ位置に保てるので寝るのが楽。これならエコノミー症候群の心配もない。

14時45分、バスはアントファガスタのターミナルを出る。車内はがらがら。

アントファガスタのまちを南に行く。建築中のマンションらしいビルがぼこぼこと海沿いの通りに見える。きれいに整備されたミニサッカー場やテニスコート、郊外にはウォータースライダーのある屋外プールも見えた。

アントファガスタのまちは、あちこちで工事をしていたので、もし次に来たなら、また印象が違うまちになっているかもしれない。

バスは30分もしないうちに、海沿いを離れ、ひとつ内陸の道を通る。両サイドとも土漠で、赤茶けた山が見えるばかり。沿道にはちぎれ飛んだタイヤが、次々と現れる。

18時をすぎるとあたりは暗くなり、何も見えなくなる。車内では例によって映画が上映される。車内には枕もブランケットも用意されていて、必要とあらば使えるようになっている。だが、エアコンもちょうどいい具合に調節されていたので、ぼくは特に使う必要を感じることもなく、快適に眠れる。

Fin

antofagasta

サンペドロからアントファガスタへ

08/05/13(火)

同室のスペイン人女3人組がごそごそしている音で目覚める。時計を見ると四時前。彼女らはこれから出かけるらしい。

トイレに行くために部屋を出ると外(部屋の外は中庭になっている)はずいぶん冷えていた。多分10℃以下。

再び寝る。次に目が覚めたのは7時半前。うまく目が覚めれば、7時半発のアントファガスタ行きのバスに乗ろうかと思っていたのだが、これでは間に合わない。確か次のバスが9時半くらいだったから、それまで荷物の整理と、あと両替をしないといけない。宿代を払うと、残りのお金ではバス代が払えないから。

リュックの奥に仕舞いこんでいたアフリカのガイドブックを取り出しやすいところに移動するなど、荷造りをし直す。

8時半過ぎ、近くにあるTurBusというバス会社に行き、アントファガスタ行きのバスの時刻表を確認する。すると、7時半の次は8時50分発で、その次は午後の2時だった。午後2時発のバスは夜7時にアントファガスタに着くよう。宿のチェックアウト時間は12時だから昼までのんびりするというのも一つの手だが、なんと言ってもここは小さくきれいにまとまっている観光地、半日いてもたいして面白くない。

なので、直通バスではなく、どこかで乗り換えて行く方法を採ることにする。宿により近いところにバス会社Frontera del Norteのチケット売場があったので、そちらに行く。商店がバスのチケット売場も兼ねているところで、ぼくがその店に入ると白髪のおばあちゃんと店員のおばちゃんがおしゃべりをしていた。

ぼくは店員のおばちゃんに話しかけたかったが、おばあちゃんは話すのをやめない。店員のおばちゃんの方から、こっちに話を降ってくれたので、アントファガスタに行く途中のまちカラマ(Calama)に行くバスのチケットの値段を聞く。値段は1700ペソ。1700ペソなら両替しなくても払えるし、次のバスは9時半発だから十分間に合う。チケット購入。座席はどこがいいかと聞かれて適当に後ろの方を選ぶ。

宿に戻り、荷物をとって宿代5000ペソ(約1400円)を払い、チェックアウト。チャオと言って宿を出る。

バスは9時半に店の前に来た。リュックを預け、乗り込む。客はぜんぶで20人ほど。車体はメルセデスベンツだが、窓は汚れているし、背もたれは勝手に倒れるし、とけっこう年季が入っている。窓が開かないのが難だが、だからといってエアコンは付かない。その代わり、天井の窓を開け、そこから風を入れている。

1分も立たないうちに、外の景色は赤茶色の土漠。まだ砂漠にはなっていない。サンペドロのまちなかは未舗装だったのに、まちを一歩出るときれいに舗装されたアスファルトの道に変わる。白い車線もきっちり引かれている。振動もなく、快調にバスは走る。

外の景色はずっと土漠だから、そのうち飽きて寝てしまう。

そして気が付くと、まちに入ろうとしているところだった。1階立てのコンクリートづくりの家家が立ち並ぶ通りに入る。ボリビアやペルーでよく見た日干し煉瓦の家はほとんどないようだ。

まちに入って10分ほどで、このバス会社のターミナルに到着。バスを降りると、運転手がリュックを運んで来てくれていた。運転手にアントファガスタ行きのバスがどこから出ているか聞き、教えてもらった方向に歩く。

このまちもそこそこきれいで静かだ。コレクティボは走っていないし、道ばたで物を売っている人もいない。真っ黒な黒煙を上げて走る車もないし、クラクションも聞こえない。

日差しの割には空気はひんやりとしていて、ボリビアでの格好と同じ格好をしていても暑く感じない。

目的のバス会社のところに途中で銀行を見つけたので、そこで両替しようと立ち寄ったが、両替はしていないと言われる。CASA DE CAMBIO(両替所)でないとできないと言われる。銀行で両替をしていないなんて、旅の中では初めて。しかもどこに両替所があるか聞いたら近くにはないと、銀行の窓口のにいちゃんは言う。なんとも面倒くさい。バス会社共同のバスターミナルがない点といい、両替が銀行でできない点といい、なんだかチリは旅行するには面倒そうな国だ。

15分ほどでバス会社が集まっているところに着く。4~5社のバス会社が半径30mほどのところに集まっていた。適当に行ってみると最初の3社ではアントファガスタ行きのバスはない、もしくは今日はもうないという対応。これではここに一泊することになりそうだと思っていたところ、ある会社の人がTur Busから出ているというので、そちらに行く。

客の並んでいない窓口に行くと、そこの女性はチケットについてはそっちだからと人が並んで入る窓口を指さす。しょうがないので、そちらの列に並ぶ。見ていると、彼女の窓口には客はひとりも来ない。チケットの発券なんて、パソコンの画面を見て、キーボードを押すだけなんやからあんたもできるだろうと思うのだが、一人何もせずに窓口に座ったまま。その後、やってくる客を案内するつもりなのか、客が並ぶ列の後方に何をするともなく立つ。

ちなみにこの建物内には時刻表も運賃表も張り出されていないから、それを知るためだけに並ばないといけない。これがまた急いでいる人間にとってはいらだたしい。一枚プリントアウトして張れば、列に並ぶ人も減るだろうに。ちなみに時刻表や運賃表がないのは各社共通。なぜそんな簡単なこともしないのか、不思議だ。

15分ほど並んでやっと自分の番になる。アントファガスタ行きのバスは12時発、12時半発、13時発などがあった。料金は4300ペソ。手元にあるペソで払える金額だったらと期待していたが、ぜんぜん足りなかった。米ドルで払えるか聞いたらダメという。じゃあ、予約だけとお願いしたら、機械が言うことを聞かないようで予約もできず。

窓口の女性は、どうせならTur Busのターミナルでチケットを買った方がいいなどと言う。理由はバスがそこから発車するかららしい。てっきりぼくはここから乗れるもんだと思っていたのに、また移動しないといけないと知り、ややがっくり。彼女がTur Busのターミナルの場所を知っているかと聞いてくるので、知らないと言うと、彼女は紙に通り名とターミナル名を書いてくれる。しかし、筆記体気味に書かれた文字は、”r”なのか”v”なのか、”c”なのか”o”なのか、”a”なのか判読が難しい。

ぼくはそこを後にして、彼女が書いた通りを探して歩き出す。途中、銀行があったので、試しに両替ができるか入ってみる。すると、ここは両替ができるとのことだった。どうも銀行によってできるところとできないところがあるらしい。

店内に入ると長蛇の列ができていたので、ゲッと思ったが、両替はそれとは別の列だった。3人ほどしか並んでいなかったので、すぐに自分の順番がまわってくる。20米ドルぶん両替する。これで昨日とあわせてすでに40米ドル両替した。ボリビアでは40米ドル両替すれば1週間は使えたのに・・・。やっぱり物価がぜんぜん違う。

それから交差点で、書いてもらった紙を見せ、ターミナルの場所を通りがかりのおばさんに聞く。すると、おばさんはあっちと言って、今、来たところを指さす。違うんだけどと思いながらも、まぁ、チケットだけ買っておくかとさっき行った窓口まで戻って、チケットを買う。例の女性はやっぱり突っ立ったまんま。

13時発のチケットを買う。チケットは日本でいうレシートみたいなもので、なんだかチケットとしての威厳がない。確認したが、やはりここからはバスには乗れないとのこと。チケットを売ってるんだから、ここにも寄れよな・・・。

人に聞いてもあまり当てにならないようなので、ガイドブックを取り出し、場所を確認。ターミナルそのものは地図外のようだったが、通りの位置はわかった。

歩行者天国になっている通りを歩き、目的の通りを目指す。道ばたにあるキオスクでは多種多様な雑誌が売ってあり、ある一軒ではマンガ本(電影少女)も売っていた。キオスクでアニメやマンガ関係の雑誌を売っているのはペルーのリマなどで見たけれど、マンガ本自体が売られているのを見たのは初めて。

ちょうど下校時間だったらしく、制服を着た10代の子らがうじゃうじゃ歩いている。あまり意識して見ていたわけではないからはっきり言えないが、ボリビアやペルーなどと比べると、化粧してる女の子が多いように思う。だいたいどの子も目の周りを黒く塗って、目を強調したメイクをしているが、みんな同じようにしているから、外国人のぼくから見ると、どの子も同じような顔に見えてしまう。

ここはヨーロッパ調の建物などはない。まちの雰囲気はアメリカに似ている。

10分ほどで目的の通りに着いたが、そこからが長かった。結局歩いたのは30分ほどだったが、リュックが重いから、途中、休憩をせずにはいられなかった。歩きながら、東京の私鉄や地下鉄と同じようなことしやがって、もうちょっとエクアドルやボリビアを見習えよな、ということばかり考えていた。

ターミナルに着いたのは12時40分ごろ。バスはすでに駐車場に入っている。偉いのはバスのフロントガラスの上が電光掲示板になっており、そこに何時発のどこ行きという案内が流れていること。これだったら、バスを間違えずに難なく乗ることができる。

乗車場にあるベンチで休んでいると、5分ほどで乗車が始まった。リュックを預け、バスに乗り込む。

バスは13時にきっちりと発車。今度のバスは窓ガラスもきれいで背もたれも自分の都合で動かせる。

バスが走り出すとすぐに車内のテレビで映画が始まる。どこかで見た覚えのある映画だなと思っていたら、シンドラーのリストだった。

これまでバスの中で流れる映画と言えば、アクション映画ばかりだったので、シンドラーのリストのような映画を流すとは意外だった。

外はやっぱり土漠・砂漠だから、多くの客がテレビに見入っている。2003年の2月の終わりだったか、ポーランドのクラクフやオシヴィエンチム(アウシュビッツ)に行ったときに見た風景・光景が思い出される。そして、ウユニで一緒だったイスラエル人たち(特に彼/彼女らの祖父母)はどんな思いで、この映画を見るのだろうとも。

通路を挟んでぼくの左前に座っている30代くらいの男性は、自分のノートパソコンを使って別の映画を見ているようだった。ノートパソコンを持った人がいるというだけでも、チリの経済力の片鱗がわかる。物価からしても、たぶんメキシコと同じくらいだろう。

バスは相変わらずきれいに舗装された道を走る。ときおり線路を横断するために一時停車することもあったが、それ以外は停まることもなく、土漠の中を走り続ける。

やがて道ばたに道路標識や建物が多くなる。そして、下り坂になると目の前にまちが見え、その向こうには青い太平洋が見えた。映画はドイツの敗戦の報を聞くシーンになり、こちらもいよいよ終わりに近づいていた。

アントファガスタの住宅街らしきところは、壁という壁に落書きがされていた。アート系の絵もあるが、ただスプレーをぶっぱなしてみたというようなものもある。

チリに入っての印象の一つがこの落書きの多さ。スプレーで落書きするにもスプレーを買うカネがいるから、これもまたチリの経済力を反映しているとも言えるのかもしれない。

まちに入ると10分ほどでこの会社のターミナルに着く。バスから降り、リュックを受け取り、ガイドブックで目的の宿の位置を確認する。

太平洋に近いまちだから30℃はあるかと思っていたが、逆に涼しいくらいだった。ターミナルを出たところには菓子などを売っている露店や段ボールにパンを詰めて売っているおばさんがいる。だが、ボリビアやペルー、エクアドルのように、道ばたで火を使ったものを売っていたり、ゆでたじゃがいもやトウキビを売っている人はいない。

ここもどちらかというとアメリカっぽいまち。久しぶりに大型スーパーを見る。

目的の宿に着く。Residenciaという言葉が頭につくこの宿は、ポトシで泊まった宿と同じように作りが長屋っぽい。ずっとここに住んでるんじゃないかというような人もいる。

部屋があまり開いていないようで、主らしいおばさんは従業員らしい女の人に、あの部屋は空いているかこの部屋は空いているかと聞く。そして、端の部屋に案内される。

2段ベッドが2つにふつうのベッドが1つという部屋で鍵は自前の南京錠が使える。これで5000ペソ(約1400円)らしい。

荷物を置いて、まずはサンティアゴ行きのバスの時間と運賃を調べにバス会社巡り。会社間でも4米ドルくらい値段が違う。

それから歩行者天国や人通りの多い通りを歩いてまわる。ここの高校生くらいの女の子たちも化粧をしている子が多い。例のように目の周りを黒く塗っている。男どもも整髪剤を付けてピンピンさせているのが多い。あと肩まで髪を伸ばしている男も。

メルカド(中央市場)に行ってみたが、規模はとても小さく、まちの飾り物程度の感じだった。食堂が10軒ほどと肉屋や八百屋がやはり10軒に足りないほどずつあるだけ。食堂は1500ペソ(約500円)の定食らしきものが多い。さすがに太平洋に面していることもあり、魚専門の食堂もあり。

大型のスーパーマーケット(スペイン語ではスーパーメルカド)は4軒ほどあり、うち一軒はずいぶん凝ったつくりの高級スーパーのようだった。スーパーの中を見て回る。品ぞろえもやはりメキシコと同じ感じ。ボリビアでは、スーパーマーケットという業態の店は、回った限りでは見なかったし、ペルーでもあまり見かけなかった。

パン売場にはけっこうな人だかりができていて、値段を見てみると700ペソ(約200円)などと書かれている。みんなビニール袋に20個くらい詰めているので、200円もするパンをこんなによく買えるなと驚いたのだが、よく見てみると700というのは1個ではなく、kgあたりの値段だった。

他のスーパーやパン屋に行ってもパンは計り売りをしていて、値札にはいずれもkgあたりと書かれていた。パンを量り売りしているのも、今回の旅では初めて見たような気がする。

それからチリと言えばなんと言ってもワイン。種類が豊富で、安い物は720mlで1000ペソ(約300円)、高くても千円はしない。小さなボトルだともっと安いのもある。

インターネット屋と電話屋もそこここにある。ネット屋はだいたい1時間400ペソ(約150円)。ボリビアと比べれば倍以上。ガイドブックでは1時間1000ペソとあったが、競争の結果だろうその半額になっている。

コロン広場のまわりには銀行がずらずらと立ち並んでおり、ここがチリの経済的な中心地の一つであることがわかる。

日が暮れる手前までまちをプラプラする。その後は宿に戻る。

宿に戻るとよぼよぼの白髪のおばあちゃんがドアのノックし、部屋を移るように言う。この部屋は5人用だから、別の部屋に移れとのこと。案内された部屋はベッドが二つある部屋で、天井の蛍光灯は点かない。

おばあちゃんがデスク灯(固有名が出てこない?)を
代わりに用意してくれたのだが、使えるコンセントが1カ所しかないので、これではカメラのバッテリーの充電ができない。

やれやれと思いながら、充電は明日の朝にすることにして、さっさと寝ることにする。

Fin

ティティカカ湖、水草の上に浮かぶ島

08/05/02

6時頃目が覚める。外はだいぶ明るい。部屋の寒さはクスコほどではない。

7時半前に宿を出て、船着き場に向かう。歩いていると山林自転車のおじさんがクラクションを鳴らしてくるので、値段を聞いて乗る。値段は3ソーレス(約180円)。これまで乗ったタクシーなどの代金とくらベると、距離の割には高い。たぶん現地の相場ではせいぜい1.5ソルくらいだと思うが、タクシーよりも運転手の身体への負担は大きいし、またエコロジカルでもあるので、言い値で乗る。

乗ってみると、これは身体への負担はかなり少ないと感じる。キューバで乗ったチャリタクシーよりもこちらの方が車輪の周り方がかなりスムーズだ。坂もないし、スピードもそこそこ出る。

湖沿いの道を走る。気温は15度くらいか。風にあたると寒い。10分程度で船着き場に到着。船着き場は観光客ばかり。

チャリのおじさんに20ソーレス札を渡すと釣りがないらしく、どこかに両替しにいく。待っている間に、別のおじさんが話しかけてきて島に行くのかと聞いてくる。そうだと伝えると舟代などを説明してくる。どこかの旅行会社の人かと思い、聞き流しつつ聞く。

おじさんが戻ってくる。足し算方式で、額面の違うコインをぼくに手渡しながら、これで15、17、20と言う。ぼくとしては慣れていないから足し算の方がわかりにくい。

船着き場の桟橋入り口にいくつかプレハブのような建物があって、声をかけてきたおじさんにその一つのところに案内される。ウロス島とタキーレ島の2つの島を回る往復チケットの値段は20ソーレス(約1500円)。

7時45分発の舟らしいが、すでに8時近くになっている。桟橋には似たような舟がいくつも接岸しているので、どの舟に乗ったらいいか迷ったが、チケットを持って歩いていたら手招きするおじさんがいたので、そちらに行き、乗り込む。

島に帰るらしい人たちが20人ほど乗っていて、床はその人たちの荷物でいっぱい。その他に外国人観光客が10人ほど。ドイツ語を話す4人組(男1人、女3人)とフランス語を話す女2人組、オランダ人カップル1組、ぼく以外の日本人が1人(30代後半男)など。

船は中型のモーターボートで屋根の上と、屋根のある室内と、後部甲板(?)に座席がある。乗員可能人数は40人くらいか。

ぼくが乗り込むと外国人を優先的に屋根のある室内に座らせようと、数人の地元の人が船長に言われ、船の後部、簡単に言えば外に出る。

ぼくは風にあたっている方が気分がいいので、外でいいと言うが、中に入れと言われる。

ぼくは島への定期船に乗ったつもりでいたのだが、船が発車すると、乗組員の一人の人が英語とスペイン語で挨拶を始める。そして、英語はうまくできないからスペイン語で話をさせてくれと言って、これから船が向かう島について、ティティカカ湖について話をする。

ティティカカ湖の島に住む人々は、地域によってケチュア語とアイマラ語を話す。いろいろ説明をしてくれている男性はタキーレ島の出身らしく、自分のFirst language(母語)は、ケチュア語だと言っていた。彼は20代半ばくらいで、中学の時にか試合をした相手のチームにいた奴に似ている。話し方も客と目を合わせることはあまりなく、視線は上に行ったり下に行ったりと、人前で話すことに慣れていない日本人と似ている。

乗組員らしき人は操縦士も含め、全部で6人ほどいてすべて男。そのうち60代に見える(実際は50代かもしれない)しわの多い細身の人が船長で、他に30~40代の操縦士と20代くらいの人が2人乗っていた。どの人も島のいわゆる民族服と帽子をつけている。

15分ほどすると、船は水草の生えている一帯に入る。この水草はトトラ(実際に聞くとトゥルトゥーラと聞こえる)と呼ばれる草で背丈は2m近くある。日本で言えば葦のようなもので、この湖に住む人たちは、これを建築資材として使って家や船を作ったり、島を作ったりしている。また、これらがティティカカ湖の観光のメインともなっている。

そのトトラの群生の間にできた水路を船はゆき、しばらくすると、日本人の感覚で言えば、全面藁でできた家がいくつも並ぶ島が現れる。ここがいわゆるウロス島という名で知られているところらしい。

稲藁色の色が立ち並ぶ様は確かに美しい。思っていたよりも島はたくさんあり、一つ一つは小さい。そのうちの一つの島に船は接岸する。島もトトラで作られたものなので、島に一歩踏み入れると5cmくらい足下が沈む。

その島には5軒ほどの家があり、どれも10畳ほどと小さい。その島では、この島がどのようにできているのかという説明や何を生業にしているのかといった説明がある。この島はトトラの群生の上に、刈り取ったトトラを束ねて乗せて作った島らしい。今が流されないように湖底に杭を打っているとも言っていた。説明中、どこからかトトラを刈り取ってきて、実際に見せてくれた。手に持って見てみると肌合いが成長途中の長ネギによく似ている。湖面に出ている部分は緑色だが、根本は白く、しかもこれは食べられると言って説明していた人は皮を剥き、食べて見せた。

その人に促されみな食べてみる。ぼくも食べてみたが、やや歯ごたえのあるスポンジを食っている感じで、味は何もしない。ただ水分を大量に含んでいて、噛んだ端から水が滴り落ちる。2口ほど食ってみたが、それ以上食べる気にならず、床に放置する。

ここ草でできた浮き島だから当然土はない。なので、農業はできない。島の人たちは主に湖の魚を取って、それを陸地のまちに持っていき、そこでトウキビやキヌア、各野菜などと交換して食料を得ているらしい。

説明が終わると買い物タイムみたいになり、さっきまでは布をかぶせていた土産物品がお披露目になり、女性が観光客に声をかける。床?の上に敷物を敷き、陳列された土産物品は、刺繍入りの幅色の布地やトトラで作られた船や家のミニチュア、あとアクセサリーが多い。柄は違うのだろうが、あまり個人の旅行客が買いそうなものではない。案の定、誰一人土産物には手をつけなかった。

一人ぐらい何か買わないとと、半ば義務感のようなもので、インカ時代の刺繍を入った小さな壁掛けを買う。値段は20ソーレス(約900円)。不覚にもソルがすでになくなっていたので、残っていた10ソーレスと5ドル札で買う。

着いてから30分ほどすると、船長が"Vamos(バーモス:行きましょう"と言って、観光客に船に乗るように言う。ここではっきりとこれはただの定期船などではなく、観光客を主体にしたツアー船でもあることに気づく。

ガイドブックのロンプラによれば、ツアー会社を使うよりも自力で行った方が、地元の人への貢献は大きい(つまり、より地元にカネが落ちる)とあった。そういうこともあり、また何より安いからこうして来たのだが、この船はツアー会社のではないものの、島の人がツアー会社に対抗してやっている船のようだった。

実際、湖を走る船の多くは観光客だけを乗せた船が多い。中には日本人が7人くらい乗っているだけで走っている船もある。そういう面から言えば、確かにこの船は地元の人の足ではあるのだが、それと同時に島の人が観光客から直接、いわば外貨を得るための船でもあるようなのだ。だから、乗組員の人は民族服を来ているのではないかとも思う。

小さな浮島をでた後、近くの別の大きな島に行く。そこでは15分ほど滞在時間があった。その島には土産物の露店の他に、立派なレストランやジュースやお菓子を売っている雑貨店があり、また見物用なのか、それとも実際に泊まれるのか、内部を見ることができるトルトラでできた家が10棟ほどあった。ただ、その家の中にはただベッドがあるだけで、他は何もない。

時間になると船長等が、"Vamos"と言って出発を告げる。この間も船に乗っていた島の人は、観光客が見て回るのを船の中で待っていた。

また船に乗る。一帯には40近い小さな浮島があり、それぞれに観光船が停まっていたりする。それを見て、もしかしたらこれらの浮島の中には、観光客をより多く受け入れるために作られたものもあるのではないか、という疑念が浮かぶ。

また、これだけの観光客が押し寄せていれば、当然、売り上げの分配問題があるはずだ。おそらくそれぞれの島へは同じだけ観光船がやってくるように調整されているだろうが、ツアー客を受け入れるのと、ぼくらのような個人客を受け入れるのでは売り上げはだいぶ違うだろう。

また、お金が入ってくれば、トルトラで作った家よりも、一時期日本で流行った言葉で言えば、”文化的な”家で暮らしたいと思う人も大勢出てくるだろう。実際に浮島がある一帯には、トルトラの家だけでなく、トタンで作られた家も相当数あった。

例えば10年後や20年後にまたここに来て、どうなっているのかを見るのも面白そうだ。その頃にはもしかするとプーノのまちにみな住んで、朝早くトルトラの島に出勤するといったスタイルになっているかもしれないし、あるいは変わらず同じような暮らしをしているかもしれない。

船はその大きな島を出ると、すぐにトルトラの群生も抜ける。真っ青な空に真っ青な湖。波もない。船はおそらく時速10kmくらいで進んでいる。右手には陸地が見え、左手前方にはボリビア領土にある雪をかぶった山々が見える。

途中、養殖のためらしい生け簀(?)の横を通り過ぎる。漁をしている舟はあまり見かけない。

1時間たっても船は次の島に着く気配はなく、乗客も多くが寝てしまっている。ただ、民族服をかぶったやはり60代くらいに見えるおじさんは、黙々と編み物をしている。首に網糸をかけ、金属製の網帽を忙しく動かす。隣にも同じように編み物をしているおじさんがいたが、そのおじさんの指はあまり動いていない。

ぼくもしばらくおネンネ。

それからさらに1時間ほどたったものの、まだ船は着かない。

結局、タキーレ島に着いたのは、12時すぎ。8時にプーノを出たから実に4時間近くかかっている。

ぼくは帰りは適当に船に乗って帰れるのだろうと思ったら、そうではなかった。帰りまで同じメンツで同じ船で帰るらしい。こうなるともう完全なツアーだ。

帰りの船は着いた場所からではなく、島の反対側の船着き場から出るらしい。島への入島料5ソーレスを払い、船の中でいろいろ説明していたガイド役のにいちゃんの後を着いて島に入る。

乗っけから坂道なので、あっと言う間に息が切れる。なんといっても、ティティカカ湖の標高は富士山並みの3700mなのだ。当然、息も切れる。

石造りの道を歩いていくと両脇には段々畑が現れる。トウキビや空豆、キヌアらしい植物、それにジャガイモなどが植わっている。

息を切らしながら15分ほど登ると島の中央広場に出る。ここには教会や小さな商店、レストラン、織物の共同売場などがあり、広場には観光客がいっぱい。圧倒的にヨーロピアン系の白人が多い。

そこでしばし自由行動。レストランの一つで食事をする。スープとメイン料理、飲み物がついて12ソーレス(約500円)。ペルーの普通のレストランは高くてもせいぜい一桁なので、かなり高い。昨日、食べた店ではスープにメインにマテ茶がついて2ソーレスだったから実に6倍の価格だ。

スープはキヌアのスープでキヌア以外にも野菜が入っている。さすがに観光客が多いからか、スープの量はペルーの普通の量の4分の1程度。つまりは日本では普通の量。

魚は2種類合ったが、ぼくはTrucha(トゥルーチャ)というのを頼む。ものの本によればマスらしい。湖の魚らしく、揚げてはあるが土くさい。他にパンと白米。飲み物はマテ茶。

食後、島をちょっとふらついてみるとレストランは他にもあり、全部で10軒はあるようだった。家は日干し煉瓦で作られているのが多い。道幅は狭く、登り下りの道が多い。

広場に戻ると、地元の女の人たちが、4人くらいで湯がいたチョクロッ(トウキビ)などを食べていた。そのうちの一つが、気になって何かと訪ねると、食べてみてと一つくれた。名前を忘れてしまったが、それは見た目も大きさも赤みを帯びたショウガのようなのだが、食べてみるとサツマイモと同じ味のものだった。市場ではジャガイモなどと並べて売られていたので、そういうわけでジャガイモと一緒に売られていたのかと気づく。

他にも彼女らはゆがいた空豆も食べていた。それも一つくれたので、いただく。どちらかというと編んだ物よりも、こういうものを売ってくれている方がぼくとしてはオカネの使い道があるのだが、彼女らにこれらは売っているか聞いてみたところ、ないとのことだった。

広場にいたら船で同じだった男の人に声をかけられる。食事も同じレストランでしたので、ちょっとだけしゃべったが、彼はリマから来たというペルー人だった。外見はヨーロピアンと変わらないのだが、携帯電話を盛んに使っていたし、CDプレイヤーで音楽を聴いていたので、もしやと思ったが案の上ペルーの人だった。

彼がプーノに戻るんじゃないかと言うので、そうだと言うと、帰りの船着き場に行こうと言われる。ふらふらしている間に、一緒に乗ってきた人はすでに広場から消えていて、もう船着き場に行ってしまったようだった。

広場に残っていたのは、ぼくの他に彼とフランス語を話す女二人組だけ。ガイドの人の案内で島の反対側の船着き場に行く。

途中、道に座り込んだおじさんが物乞いをしていた。3歳くらいの小さな男の子が、お菓子が欲しいのかやはり掌を上にして、何か言ってくる。また、ミサンガを売っている10歳くらいの女の子もいて、僕らを見ると寄ってきてそれらを差し出し買わないかと言ってくる。

船着き場への道も石造り。最後は急傾斜の斜面に作られた階段を降りる。傾斜と階段となっている石が不揃いであることから、年輩のおばさんや体格のいいおばさんは、なかなか足が進まない。

帰りは地元の人がいなくなった分、船は空いていた。他にもプーノに戻る船はあり、観光客だけではまだまだ空いていたのだが、それぞれ乗せてきた来た客を乗せて、14時半頃船は出る。

帰りは屋根の上の席に座る。スピードが遅いから寒くもないし、髪もなびかない。だが、屋根のあるところにいるよりも景色がいいぶん、なんだか速く感じる。

正面右からの太陽の光がなかなか強烈。

しばらくすると、船長が紙を持ってくる。それはスペイン語表記のアンケートで、タキーラ島に来た理由や船の乗り心地やガイド、食事などに対する5段階評価とその理由を書く欄がもうけられていた。

まさかこういうものがあるとは思っていなかったので、ちょっとびっくり。観光客のニーズを把握しようというものだろうが、これが逆にありきたりな観光地になっていくきっかけになってしまうのではないかとも思う。

ぼくはスペイン語では(英語でも)文章はかけないので、5段階評価の部分だけチェックを入れて返す。

船着き場に着く直前に船長は、屋根に乗っていたぼくらに下に降りるよう言い、さらに警察がいるからと救命用具を身につけるよう言う。

3時間の航海(航湖?)の後、プーノに到着。時間は夕方の5時をすぎていた。辺りはすでに暗くなり始めていて、朝には船着き場にいたお菓子売りの人たちもいなくなっていた。

ぼくは歩いてプーノの町中を見に行く。

500mほど歩くと大きいとおりに出る。その通りは露店市場となっており、右も左もずっと露店が並んでいるのだった。

通りの名はAvenida El Sol(太陽通り?)。直線距離にすれば1km以上も露店が並んでいる。ぼくが最初についたところは服屋と靴屋ばかりだったが、歩いていくとお祭りなのか羊や鶏、クイの炭火焼きを売っている屋台があった。

羊はここでは初めてなので、それを食べる。適当に切ってもられた肉は骨も付いているが500gくらいある。付け合わせはジャガイモをゆがいたものとレタスとトマトのサラダ。こえれで12ソーレス。普通の料理からすればかなり高い。

その後、ふらついているとジャガイモと牛の腸のようなもの炒めた料理を売っている人がいたので、そこでまた食事。隣ではほとんど揚げ物のような卵焼きを売っていたので、それもいただく。食べていたら卵焼きのお店の子どもが、生卵を手に持っていじっていたらしく、割れた生卵を持って調理していたお母さんのところに寄ってきた。手は卵でべしょべしょ。それを見た母親はその子をしかり、調理で使った卵の
殻をその子に投げつける。

まだ2歳くらいの子だが、殻を投げつけられて、うっうっと泣き始める。母親は変わらずに調理を続ける。子どもは本泣きするまではいたらず、またケロッとして辺りをうろちょろし出す。

その後、灯りがついているところをとにかくふらふら歩く。肉やチーズ、果物などを路上で売っている人たちがまだいて、ぼくはみかんとポン菓子、ヨーグルトを買う。

ぼくが通った通りではなぜか羊肉を売っているおばさんが多かった。毛のふさふさついた羊の頭も売られている。

暗くもなったので、また三輪自転車に乗って帰る。10代後半くらいのにいちゃんの運転で宿まで行く。料金は1.5ソル。

宿にもどってからいったんネット屋さんに写真のデータのバックアップ等をしにいき、あとは宿にもどって寝る。

Fin

クスコ警察にお世話になる。+プーノへ移動。

08/05/01

・早朝の路上市
・クスコ警察に拉致られる
・ターミナルの変なねえちゃん
・リャマ、アルパカ、流れ星

ケツが痛くて、何度も目が覚める。車内は暖房も冷房もついていないが、それほど寒くない。だが、みんな用意していた毛布をかぶって寝ている。

4時25分、クスコのキヤバンバ行きターミナルに到着。当然、外はまだ暗い。ぞろぞろとバスから降りる人がいる一方で、バスの中に残っている人もいる。ぼくはバスを降り、運転手にここがクスコであることを確認。

ターミナルにはタクシーが待機していて運転手が降りてきた乗客に”Taxi amigo?"と聞いて回る。気温は低く、吐く息が白い。

いったん外で明るくなるのを待とうとバスを降りたが、乗ってきたバスの中でずっと寝ている人がいるので、またバスに戻る。乗るときに聞いたら6時に別のところに行くらしい。そっちに行く人が乗りっぱなしになっているよう。ならばと6時までバスの車内にいることにする。宿に帰るには早すぎるし、だいたいコレクティボ(乗り合いワゴンルートタクシー)もまだ走っていない。

バスの車内で横になって寝る。

明るくなった6時前、バスを降り、幹線道路沿いに出てコレクティボを拾う。それに乗って中心部に向かう。0.6ソル(約30円)。

中心部で降り、朝の市場の様子を見ようと思い、そちらに向け歩く。時間は6時半頃、Mercado Centralは、まだ開いていない。が、周りにはジャガイモとゆで卵のセットを売る人たちやマテ茶を売る人がすでにいる。

ここから近いもう一つのメルカド(市場)に行く。こちらもまだ建物の門が開いていない。が、その周りの道ばたには、ずらっと野菜を持った人たちが並んでいる。インゲンやカボチャ、人参、キャベツ、凍っているらしいじゃがいもなどなど。

野菜を入れた袋や皮を剥いだ羊らしい肉の塊を背に乗せてそれぞれの店まで運んでいる人もいる。野菜の袋は麻袋だったりビニール製の麻袋(?)だったりするのだが、背負っている量はどれも100kgを越えているんじゃないかと思える量。口を縛った袋の真ん中当たりに強靱な紐をかけて、袋を背に乗せ、体の前でその紐を結ぶ。袋の背丈は運んでいる人の背では間に合わないくらい高く、よってみな前傾姿勢になっている。それも上半身が地面と平行になるくらい体を前に屈め、歩いている。

とにかくみんな背に何かを乗せている。男の人は、野菜や肉を背に背負って運び、女の人も同様にいろ鮮やかな風呂敷に葉物の野菜を入れていたり、子どもを背負ってたりする。

一帯を一回りし、さらにもう1回同じところを通ってみると、さっき葉物を売っている人で一杯だった路上から人がいなくなっている。もう商売を終えたのかと思っていたら、なんてことはないその通りの端まで行くと黒に近いネズミ色の制服を着た警官たちが、路上から立ち退くようせっついているところだった。それで、どうもこの朝市は違法らしいということに気づく。

警官の一団の脇をすり抜け、朝飯に何か食える物を探していたら、道ばたでチューニョというインカ時代から食べられている乾燥じゃがいもをゆでたものと魚のフライを売っている人がいた。

道ばたに立って、おばちゃんが"Hay chunyo,pescado"と言っている。だが、その人の足下には風呂敷に包まれた何かがあるだけで中は見ることができない。ただ、その人の周りで皿に盛られたじゃがいもなどを食べている人がいたので、ここですぐ食べられるものを売っているのだとわかった次第。

一皿頼み、食べる。チューニョは相変わらず味のないジャガイモって感じだ。魚のフライは塩気がきいていてちょうどいい。それにレタスとトマトのさらだもついている。フォークなどはないので手で食べる。料金は1ソル(約50円)。

もうすぐ食べ終わろうかという頃に、警官の一団がここにもやってきた。それをちょっと早くに察知していたらしいご飯売りのおばちゃんは、風呂敷で中身が見えないよう、つまりこれは売り物ではなく、ただの荷物だというふうに隠してはいるが、周りでぼくのように皿を抱えて食べている人がいるからすぐにわかってしまう。おばさんも皿を返してもらわずにはすぐには移動できないから、そこから動けない。

なので、警察はそれが売り物だと用意に気づき、持っていくぞって感じで風呂敷をつかまれ、持っていかれそうになったりしている。警察の態度はそれほど強権的ではないが、早く退かせようという意志ははっきりしている。ある警官は、笛をぴっぴと鳴らし、路上の物売りの人にセニョーラ、セニョールと声をかけ、退くように言っている。

ぼくは魚を口に含んだままカメラを取り出し、その様子をパチリと撮る。

食べ終え、警官にせっつかれているおばちゃんに皿を返し、さぁて、もうちょっと見て回るかと思って歩きだそうとしたら、警官に呼び止められる。

そして、警官二人が乗っていたトラックの荷台に乗るように言われる。そのトラックは牛を運ぶときに使われていそうなトラックで、この人等(警官の一団)はこれに乗って移動しているよう。

深刻そうな顔をして乗るように言うので、さっき写真を撮っているところを見られたのかと思う。国によっては警官などを撮ると写真を没収されるところがあるので、もしやそれかもしれないとやや不安になる。

しかし、逃げるようなことはできないので、言われたとおりにトラックの荷台に乗る。路上の物売りに対する”
指導”を終えた警官たちが次々と乗ってきて、年輩の警官がスペイン語でここは危険だと言う。他にも何か言ったがよくわからない。別の女性の警官がそれを訳してか、補足してか、英語でここには”Bad man”がたくさんいると言う。

それから宿はどこかと聞いてくるので、アルマス広場の近くだと言うと、そこまで乗せて行くからというようなことを言う。どうもぼくは危険地帯で保護された外国人という立場になっているよう。

揺られながら荷台に乗っている間も、カメラやリュックなど持ち物にはよく気をつけるように言われる。案じていた写真の没収などはなし。

広場近くの交差点まで行ったら、そこで降ろされRV系のパトカーに乗せられる。早く解放してほしいなと思いつつ、言われたとおりに乗り換える。するとパトカーは宿の方には向かわずに、さっきトラックに乗せられたところにいく。そして、助手席に座っていた年輩の警官はぼくにどこから乗せられたのかというようなことを聞く。その他、どこから来たのか、これからどこに行くのか、ペルーの滞在日数はどれくらいなのかを聞かれる。

広場まで乗せてもらい、そこで降ろされる。そして、その年輩の警官は、十分注意するよう言い、何かあったらこうやって、と空手のマネをする。あまり様(さま)になっていないが、まぁ、いい。

ぼくはとりあえず礼を言い、さてどうしたものかと思う。まだ時間は7時前。これでまた市場に行ってまた警官に見つかったら変なことになるかなとも思い、それは辞め、宿の裏手の高台に行く。

そこからは朝日に照らされた街が一望できる。坂を登っていくと、なぜかこれまでのようには息が切れない。歩くスピードが遅いだけか、それともこの1~2日で体がなれたのか。

8度まで下がっていた気温も徐々に上がりはじめ、気持ちよい冷たさになっている。高台には教会があり、その前は小さな広場になっている。広場まで登ると太極拳をしているヨーロッパ系のおばさんが一人。初心者なのか、姿勢がなっていない。体も固いのか動き全体に柔らかさがなく、キリッとした動きになっていない。

なんて、勝手に評価しながら、ぼくは広場にあった石のベンチにごろりとなる。しばらくボーとする。

広場には観光客らしいヨーロピアンが数人登ってくる。地元の人らしいおじさんがランニングをしたりしている。若い子も景色を見ながらおしゃべりに興じている。

8時前になって宿に戻る。宿の人に今日、出ることを伝え、預けていた荷物を受け取る。出発前に顔なじみになった同じ宿泊客とちょっとおしゃべりし、情報ノートにマチュピチュへの行き方を書く。

そして10時前に1泊7米ドル(または20ソーレス)の代金を払い、宿をチェックアウト。

アルマス広場で声をかけられたタクシーに乗って、バスターミナルへ。運賃は3ソーレス(約140円)。来るときは7ソーレス払ったから、実に倍の運賃を払っていたのだと気づく。

運転手は気のいいおじさんでいろいろ話しかけてくる。どこから来たのか、ペルーにはどのくらいいるのか、ペルーは他にどこに行ったのか、フジモーリを知っているか、サッカーは好きか、サワという日系人らしいサッカー選手を知っているか、日本でもクイ(大型ネズミ)を食べるかなどなど、乗ってから着くまでしゃべりっぱなし。

15分ほどでターミナルに着き、さてどの会社のバスに乗ろうかと各会社の窓口を見回す。入ってきた入り口近くにあった窓口の若い女性が、声をかけてきて半ば強引にチケットを買わせようとする。値段を聞くと15ソーレス(約500円)というので、それならいいかと乗客名簿に名前を書こうとする。

するとそのとき彼女は、運賃は20ソーレスと言い出す。今、15ソーレスと言ったばかりなのにと思い、聞き直すと15ソーレスと言い直す。意図的に20と言ったのか、間違えてそう言ったのかはよくわからない。

彼女は、チケットに行き先や発車時刻、ぼくの名前などを書く。ぼくは12時か13時発のに乗りたかったのだが、発車時刻は11時半となっている。もっと遅いのがないか聞くとないという。どうしようかと迷っていたら、それを見ていた彼女はキャンセルされるかもと思ったのか、チケットの発車時刻を書き換える。書き換えられた時刻を見ると11時45分。これって、11時半のバスの実際の発車時刻ってことじゃないのか、と思うが、まぁ、いいかと妥協。

荷物を窓口に預けて、いったん街に戻る。街に戻るときはターミナル近くの道を走っているコレクティボ(乗り合いワゴンルートタクシー)に乗る。運賃0.6ソル。

今朝、USBメモリースティックがないことに気づき、一昨日行ったネットカフェに行ってみる。万が一の奇跡を期待したが、やはりそこにはなかった。それからソルが少なくなっていたので、路上の両替のおばさんに声をかけ両替。レートは1米ドル=2.82だった。まぁ、悪くはない。

それでまたタクシーを捕まえ、ターミナルに行く。

窓口でリュックを受け取り、乗車場に入る。ここでも入場料のようなものが必要で、そのシールを売っている窓口で1ソル(約50円)を払ってチケットにシールを貼ってもらい、入り口の係員にそのチケットを見せて乗車場に入る。

バスは2階建てのバス。例のごとく、フロントガラスには1~2本縦にひびが入っている。

リュックを預け、バスに乗り込む。乗客は地元の人がほとんどで観光客はぼくの他に5人ほど。エアコンもないし、テレビもあるけど壊れているっぽい。座席の革張りはすれて一部破れているところもある。

窓際の座席を確保できたので、窓を開け、出発を待つ。さっき話しかけてきたおじさんは、今日は”Mucho Carol(とても暑い)”と言うが、気温は23度。暑くはない。

バスは予定通り?11時45分過ぎに発車。南に走る。

ぼくはしばし昼寝。2日連続のバス泊だったが、それほど眠気もなく、疲れもない。昼寝も1時間程度で目が覚める。

バスはまだTiponのあたりだった。一昨日通ったTiponの通り沿いのクイ屋(Quyeria?)さんには、今日は祝日なのか、ずいぶんなお客さんが入っている。

日干し煉瓦を作っている人たちやトウモロコシの収穫をしている人たち、鍬で畑を耕している人たちが車窓から見える。トウモロコシを収穫した跡の畑には牛や馬などが放牧されているから、それで地力を保っているよう。

相変わらず山には木はなく、てっぺんまで牧草地のような様相をしている。

バスは山に挟まれた畑の中の1本道を走る。プーノまで続いている線路が脇を走り、豊かな水量の川も蛇行しながら傍らを流れている。

集落が現れては、また一面畑になりという景色の繰り返し。見える家家は煉瓦造りの赤の強いオレンジ色をしているものが多い。

時折、乗客を降ろしたり乗せたりするために止まるまちでは、バスが止まった途端に窓の下からおばさんたちの声が聞こえてくる。ペットボトルに入ったジュースを売る人やトウキビの粒を売る人、ゼリーを売る人やパンを売る人がバスの周りに来て、それぞれ声を出して買い手を探している。

バスは2階建てのため、2階席に座っている人はおばちゃんたちとは手が届かない。そのため、買うときにはおばちゃんに下から放ってもらい、代金は上からポトンと落とす。

15時頃、ようやく道ばたの看板にPunoの文字が出る。Punoまであと208km。

この辺りになると羊の群れをよく見るようになる。ただ、そこに羊の群れがいるとは、ずっと窓から外を見ていてもすぐにはわからない。というのも、羊の体の白に近い薄い灰色が放牧されている大地の枯れ草(のように見える)の薄い稲藁色と混じって判別がつきにくいのだ。

牛や羊の放牧はしばしば見るが、リャマやアルパカの放牧はこれまでほとんど見ることはなかった。この日も、ずっと窓を開けて外を見ていたが、なかなか現れない。

やっと15時半頃になって、リャマの群れを見るようになる。アルパカはあまりいないが、時より塀の中で飼われているのは見た。ナスカで見たアルパカよりも、なんだかすすけて見える。

それからまたまちにバスは止まる。例のごとく物売りのおばちゃんたちが集まってくる。カップ入りのアイス売りのおばちゃんがいて、ぼくの4つほど前の席の人が一つ頼んだ。代金は50センターボ(0.5ドル)。おばさんは右手にアイスを持ち、下から上へアイスを放り投げる。うまく客のところまで届いたが、ここでバスが動き出した。おばさんは代金を受け取るために、バスと一緒に走り出す。だが、その客は1ソルのコインしか持っていないと言って、代金を払わない。おそらく今、おばさんに1ソルのコインを落としてもお釣りがもらえないと判断したのだろう。それにしても、えーっ!だ。

おばさんは50mほどバスと併走したが、バスのスピードが上がったところで諦めてしまった。代わりにぼくが払って後からその客から徴収する手もあったなと思う頃には、すでにおばさんは遠くなっていた。

17時をすぎると日が傾いてきて、半頃には進行方向右の空が赤くなり始める。そして山の向こうへ沈んでいった。

ちょうどその頃、これまでの中では大きなまちに入る。そこで何人か客を降ろす。そこで久々に見たのが、人を運ぶ3輪自転車。前が2輪で後ろが1輪。前に客を乗せるタイプで、バスはそれらを追い越しながら走る。これだけ普通に走っているのを見たのは、エルサルバドルとニカラグアの国境などの特殊地域を除けば、キューバ以来じゃないかと思う。少なくとも南米に入ってからは見ていない。

3輪のバイクタクシーもたくさん走っているが、これはペルーに入って以後、小さなまちではよく見るものだ。

日が落ちると、外の空気が冷たくなり、風にあたり続けるのがややつらくなる。

18時にはすっかり暗くなり、空に星が見え出す。アンデスでは他で見るよりも星の位置が低いように感じる。上を向いて眺めなくても横を見ると星が輝いている。オリオン座が右手に見え、それをずっと眺めていたとき、突然強い光を持ったものがオリオン座を斜めに横切って消えた。

これまで流れ星は、なんとか流星群が見えるときに数度見たことがあったが、そのとき見た流れ星は本当にほんの一瞬だった。だが、今、見えた流れ星は1~2秒ほども間左上から右下へと流れ、消えた。こんなに長く見えるものもあるのか?

外が暗くなり、風が冷たくもあるので、窓を閉める。バスは盛んに小さく揺れながら走る。舗装はされているものの路面はがたがたのよう。

やがて丘のようなところを登り、下り坂に入ると、突然眼下にたくさんのオレンジ色の光が見える。やっとPunoに着いたよう。沿道にはInternetと書いた看板が10ほど次々と見える。

坂を下り、いくつかの角を曲がり、バスはターミナルに到着。ここもクスコと同じく1カ所に各社合同のバスターミナルを持っているよう。

バスを降りて、リュックを受け取る。ターミナル内にはこれから移動するのか観光客の姿がちらほら見える。すぐに女性が寄ってきてホテルを探しているのかと聞いてくる。値段を聞いてみると20ソーレス(約900円)。その値段では泊まらないと断ると15ソーレス(約700円)の部屋もあると言う。だが、予算は10ソーレスだし、言ってきた宿はどれも市街地なので、断る。

どうせすぐに移動するので宿はターミナル近くがいい。タクシー代もかからないし、一般に宿代も安い。

ターミナル内のバス会社の窓口でボリビアのラパス行きのバスを調べる。運賃はだいたい20ソーレスらしい。

それからターミナルを出て歩いて宿を探す。だが、探すまでもなく、"Hospedaje"という宿の文字を書いた看板がすぐに3つほど見える。そのうちの1軒に行くと、ドアを開けたフロントらしきところには10歳前後の女の子が3人いて、そのうちの一番大きな子がにこっとして"Passe,passe"と中に入るよう言う。

中にはいると母親らしい女の人が外から戻ってくる。一泊の宿代を聞くと10ソーレスと言うので、即決。そのおばさんは、女の子に鍵を持ってくるよう言って、それから302に案内するように言われる。

女の子の後をついて奥の階段を上がる。302号室には2段ベッドが1つと普通のベッドが1つあり、合計3人が泊まれる部屋だった。トイレとシャワーは廊下にある。最近新しくしたのか、とてもきれい。

ぼくは晩飯を食いに外に出る。女の子に近くにレストランがあるか聞き、教えてもらった方に行く。ターミナルの灯りがあるから、だいぶ明るく感じるが、道を一本隔てるとけっこう暗い。

宿の周りで開いている店は10軒ほどで1軒はじゃがいもと鶏の唐揚げを売っている屋台のようなところで、2軒は食料雑貨店兼飲み屋。あとはレストランが4軒ほどとネット屋。

水を買おうかと一軒の食料雑貨店兼飲み屋に行くと、おじさんたちが4人ほどでビールを飲んでいた。店主はどっかに行ってるようでいない。飲み屋と行っても6畳ほどある店舗内の右半分に1つテーブルがあるだけ。

もう1軒もおなじ作りのようだったが、そこにはあふれんばかりに人が集まっていた。といっっても15人くらいだが。

ぼくはドアも何もない開けっぴろげなレストランに入る。メニューは1つしかないようで、入り口付近にいた女性が”Cena(セナ)?"というので、なんだかわからないがうなづいてそれをもらう。

まずはスープが出てくる。米粒の入ったスープでジャガイモを縦に切ったかけらやセロリやカボチャの小さなかけらも入っている。次に出てきたのが、部類で言えばカレーみたいなもので皿の半分に白米が盛られ、半分に小さく切ったジャガイモや人参、それから牛か何かの内臓の一部などを炒めて煮たような汁がかかっている。味はカレー味ではない。塩味が基本で、塩気もちょうどいい。これでお代は1.5ソル(約70円)。安いなぁ。店内には10人ほど客がいて、テレビではドラマをやっていた。

それからネット屋に行く。珍しくおじさんが経営している店で、1時間1ソル(約60円)。パソコン本体は持ち出されないよう、木枠の中に入れられている。日本語を読むことができ、速い。隣では10代くらいの男の子がゲームに興じていた。

21時頃宿に戻る。シャワーを浴びようと思ったが、お湯を使うには3ソーレス払わないといけないらしく、諦める。顔を洗い、タオルで拭くとタオルに黒い跡がつく。マチュピチュに行ったときに乗った砂埃を巻き上げながら走る車の中で窓を開けていたから、そのときにかぶった砂埃などのせいだろう。

部屋にはエアコンも何もない。毛布をかぶっていないとやや寒い。12時前には寝てしまう。

Fin

ウシュアイア(アルゼンチン)いり

昨日のよる、アルゼンチン時間の20時ころにウシュアイアというまちにきました。南極から1000kmしか離れていないこの地は、さすがに雪景色でした。ただ気温はマイナスまではないので、体を動かしていればたいして寒くありません。が、数日前に大雪が降ったらしく、道端には雪や氷がいっぱい。坂道の多い街なので滑らないカキを使います。

観光シーズンを外れたことで休みとなっている宿やレストランもあり、今日は日曜日ということもありほとんど人気がないという感じです。

昨日の晩はユースホステルに泊まりましたが、今日は宿を移動しました。日本人のオバアちゃんがやっている宿でその世界では有名なところです。今日は客は3人、同世代くらいの男ばかりでした。

では。

2008.05.25.12:49
Ushuaia,Argentin


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2008年5月24日土曜日

プンタアレナス入り

2はく3日と思っていた船旅は3はく
4日だったため、今日の午前中にプエルトなタレスにつき 、そこからバスで移動してプンタアレナスというマゼラン海峡に面したまちにきました。
ここから世界最南端らしいアルゼンチンのう主愛兄バスで行こうと思ったらあすの朝発の次が4日後と間が開くため明日出るかしばらくここに滞在するか迷っているところです。宿が安ければしばらくいるのも良いのですが、探し回ったところ安くても15ドルのところしかないため、ちょっと予算的に厳しいなと。明日の朝の目覚めた気分で決めようかと思っています。

フィヨルドの海は思ったほど寒くはなかったですね。ここも10度近くはあるので大して寒くないです。ただ周りの山は雪をかぶった山ばかり。船でも遠くに流氷が見えた次第です。まぁ、まだまだ冬の入り口でしょうからこれからが本番なのでしょう。

では。

2008.5.23 19:55
Punta Arenas,Chile


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2008年5月20日火曜日

プエルトナタレスへ

噴火した火山の影響が気になっていたのですが、船が出ていたので、明日から2泊3日の船旅に入ります。

豪華客船なのかどうかは分かりませんが、予定よりも大きく予算オーバーしつつも、まぁ、どうせ2かいめはないだろうとおもい、のってみることにしたしだい。

ふねのるーとなどはいかのりんくさきをごさんしょうあれ。

http://www.visitchile.com/eng/patagonia-cruises/cruise-details.asp?id-cruise=NAV001

では。

2008年5月17日土曜日

プエルトモンいり

チリの南、Puerto Monttに先程着きました。

ボリビア以降ずっと晴天の日々だったのですが、こちらはあいにくの分厚い雲。
さすがに秋の終わりって感じですね。

しかし、気温はラパスよりもずっと温かく20どだい半ばほどあります。温かいです。

ここからパタゴニアの町に行く船が出ているらしいので、これからその船会社に行ってうまく船が動いていればそれでパタゴニアの海を渡る予定です。噴火したという火山はここからでは見えませんね。曇っているからかもしれませんが。

ではでは。

Puerto Montt,Chile


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2008年5月16日金曜日

サンティアゴ入り

現在、5/15、昼前の11時です。
2時間ほど前にサンティアゴに着きました。それほど寒くはないですが、気温は10度後半から20度前半というところでしょうか。サンティアゴは想像以上に大都会ですね。白人系の人がほとんどということもあり、またまちのつくりもヨーロッパという感じです。ユースホステルに宿を取ったのですが、宿代が15ドル近くとメキシコよりも高いので困りものです。ここのパソコンはぼろぼろだし、もっと安くできそうなものですが。。。

ここには2はくか3ハクして、南に向かいます。

では。

Santiago,Chile

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2008年5月14日水曜日

アントファガスタ(チリ)いり

現在、5月13日夕方5自前です。
先程チリの太平洋側の街アントファガスタに着きました。チリには昨日入り、サンペドロというところで一泊して今日、ここまで移動してきたところです。まわりは砂漠で太平洋側ということで、ちょっとは暑いかと思っていましたが、涼しいですね。たぶん20度ないです。

ここには2泊ほどして、それから首都のサンティアゴに向かいます。

Antofagasta,Chile


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2008年5月10日土曜日

ウユニ入り

先程ウユニに入りました。この間、ツアー客を乗せた車が事故を起こしたところですが、客は今日もいっぱいのようです。

明日からツアーでウユニ塩湖を通って、3日後にチリにはいる予定です。普通のバスで横断できないかと思っていましたが、ツアー以外では湖の中には入れないとのことでこのようなことに。

ちなみにツアー代は2泊3日の宿代、チリまでの交通費、朝と晩だったかの食事付で80米ドルです。高いかどうかは終わってからの判断になりますね。

では

2008.5.9
Uyuni,Bolivia


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2008年5月8日木曜日

ポトシいり

3時間ほど前の朝5時半ころにポトシに着きました。今日は鉱山を見に行って、明日は午前中のバスでウユニに移動します。

予定していたアマゾンはあとまわしにして、ウユニからチリに抜け、そのままアルゼンチンの先っぽのウアシュアシュア(だったっけな)を目指す予定です。真冬にならないうちにパタゴニアに行こうかと。

では。

2008.5.8
Potosi,Bolivia

クスコ到着

08/04/26(土)

•石造りのまち
•観光客の多さに驚く
•ケチュア語を話す人々
•あめ玉を売る少女
•息も絶え絶え

夜中、2時頃、どこかのまちに泊まり、隣の人が降りる。ぼくは窓側に移動。一人で二人ぶんの席を占領できるかと持ったものの入れ替わりに別の人が乗ってくる。

隣に座るなり、にこやかに自己紹介してくるので、怪しいなと思ったが、結局、何もなかった。

外は曇っているようで、星は見えなくなっていた。乗客は寝込んでおり、どこかからいびきも聞こえる。空気が薄くなったせいか、それとも車酔いのせいか、ちょっと気分が悪くなっていることを自覚する。

5時、わりと大きなまちに止まる(たぶんAbancay)。ここで10人くらい客が降りる。そして、また客が乗ってくる。

6時をすぎると当たりは明るくなってくる。7時過ぎ、クスコ県(?)に入る。どうもこの県境(?)には料金所があるのが普通のようで、バスはいったん料金所で止まり、また走り出す。料金所にあった看板には3610mと書いている。富士山より150mほど低いだけだ。

まだまだ曲がりくねりが続くとちょっときついなぁと思っていたが、登りの道もどうもヤマは越したようで、曲がりくねりが少なくなってくる。

やがて山に挟まれた平たく、まっすぐな道に出る。赤茶色の煉瓦造りの家々が沿道に見える。エクアドルのアンデスのように、雲の中なのか朝靄なのかはよくわからないが、真っ白。しかし、すでに人々の一日は始まっているようで、道路の端を牛や馬を数頭連れて歩く人(子どもも含む)や野菜などを運ぶ人、畑に出ている人などが見える。

車内ではトイレに行く人が増える。このトイレのドアがまたなかなか開かないポンコツもので、女の人はまず開けられない。そのたびに、トイレの前の席に座っている男性が気合いを入れてこじ開ける。

しかもちゃんと閉めるにもけっこう力を入れないといけない。たまにちゃんと閉まっていないことがあり、バスがカーブを曲がった拍子にドアが開くということもあった。中にいたおばちゃんは慌てた声で何やら言う。かく言う私も用を足して始末をしているときにカーブにふられ、壁にもたれ掛かったところドアが開いて閉まった。鍵を閉めたつもりでいたが、閉まっていなかったよう。やれやれ。

曲がりくねった道がなくなったことで、気分の悪化は防げたものの、完全に酔った状態にあった。しかも便所のすぐ近くということでくさい。この臭いを嗅いでいると気分が悪くなるので、ぼくは窓を開け、外の空気を求める。

こちらの人は寒がりだから、こういうとき窓が開けられるのは、後ろに人がいない席のみ。つまり、一番後ろの席。それを狙って今回も一番後ろを選んだのだが、これが良かった。外の空気は冷たく、無臭でさわやか。すばらしい。

けれど、冷たさがけっこうきつく、長い間風を浴びていると手などがかじかんでくるから、間をおきながら新鮮な空気を体に取り込む。窓辺に温度計をおいて計ると10度以下になる。雪山も見えているところなので、やはりけっこう寒いよう。

やがて平坦な道から下りに入る。すると眼下にオレンジ色の盆地が見える。キトと同じように取り囲まれている山は木々が少なく、その斜面にまで家が立ち並んでいる。

急に沿道を歩く人たちの数が増える。車が増え、広告看板も増える。

そして、8時半前、クスコのバスターミナルに到着。クスコは一カ所に各社合同のターミナルがあるようで、バスから降り、ターミナルの建物に入るとペルー国内やボリビアに行くバスを走らせているバス会社の窓口がずらりと並んでいた。たぶん20社くらいある。

バスを降りたところからターミナルの建物に入るところにツーリストインフォメーションがあり、感じのいいおにいさんが英語で話しかけてくる。そこでクスコの地図と予定している宿までのタクシー代を聞く。

ターミナル内にはタクシーの客引きが2人いる。行きたいところを告げ、値段を聞くと10ソーレス(約400円)と言う。インフォメーションの人は5ソーレスと言っていたので、断るが近くの広場までで5ソーレスでどうだと言うので、それでOKする。

タクシーに荷物を載せ、走り出す。走り出してすぐに運転手は宿の前までで7ソーレスでどうだと言い出す。こうした後出しじゃんけんはよくあるパターン。が、2ソーレスは100円程度だし、ちゃんと宿の位置も知っているというので、それでOKする。

タクシーはマチュピチュやプーノなどを結んでいる線路をわたり、すぐに石畳のまちなかに入っていく。そして、15分ほどしてなかなかきつい坂を登り、宿前に到着。降りたところには大量の糞がキキキ。足下注意。くさい。

7ソーレス払って、宿に行く。

午前中は、しばらく宿でのんびりする。

午後はまちを見てまわる。う~ん、観光客がめちゃくちゃ多い。基本的にヨーロピアンらしき人ばかり。年輩者も若い人も多い。それからカメラ屋、写真屋が多い。20軒くらいは前を通った気がする。日本と同じようにメモリーカードを持っていけばそこで現像できる機械がある。

道ばたではマテ茶を売っているおばちゃんやパンを売っている人がいる。特に市場周辺は、ゆでたうずらの卵、じゃがいもとゆで卵のセットもの、マテ茶などを売っている人たちが多くいる。

言葉を聞いているとスペイン語で話している人もいるが、明からにスペイン語ではない言葉で話している人もいる。これがどうもケチュア語らしい。

市場はトタン屋根の1階建て。サッカー場くらいの広さがあり、食堂や八百屋、民芸品屋などがある。食堂は20軒ほどあり、肉料理を出す店はえらく繁盛している。その成果なのだろう、店の上には写真入りでメニューと値段を書いた段幕が掲げられてる。値段はどれも5ソーレス以上だから、安くはない。が、食べている人を見ると、なんだこりゃ、というくらいの大盛り。羊か何かの頭がどかんとスープに入っていたり、日本の感覚で言うと三人前くらいある。

ぼくはもっと安そうなセビチェ(魚のマリネ屋)で食事。唐辛子がきいていて痛い。こんなに唐辛子をきかせている店は初めてだ。横では学校帰りなのか、制服を着た男の子がスープを飲んでいる。また、食堂界隈には餌を求めて野良犬がうろうろしている。

腹が一杯になったところで、宿に戻る。

途中、レストランをまわって余りものの食べ物を求めている民族服を着たおじいさんを見る。小さい女の子を抱えて歩道に座り込んでいる女性も2人ほど。

教会の前の歩道を歩いていると路上に小さいものを広げて、座り込んでいる女の子がいた。民族服を着て、顔や手、足は黒くすすけている。アクセサリーか何かを売っているのかと思ったら飴玉だった。いくらか聞くと、弱々しい声で0.1ソルという。3個手に取り、0.5ソルを渡す。

ちょろっと中心街を歩いて見ただけでも路上で物乞いしている人は10人ほどいる。年寄りが多い。おばあさんもいる。

宿までは登り坂。これがなかなか肺に効く。10歩も歩けば、息づかいが早くなり、宿までの200mくらいの坂道を歩き抜いた頃には、息が完全にあがっている。加えて宿に曲がる角には糞が多い。

あとは宿でのんびり。だんだん冷えてくる。

Fin

リマからナスカへ

08/04/24(木)

•進まないバス
•やっぱり砂漠ときどきまち
•ナスカで”トモダーチ”
•ガン ジャ de ナスカ

朝目覚めたのは5時過ぎ。同室の人が目を覚まさないように静かに荷支度をして、フロントに行く。

2泊分の宿代26ソーレス(約1100円)を払う。ターミナルまで歩いていくかバスで行くか、タクシーで行くかまだ迷っていたが、フロントの人がタクシーが必要なら外で待っているのに乗れという。値段を聞くと8ソーレス(約400円)ということで、またこの宿と関係ができているタクシーなら信用できるだろうとタクシーで行くことにする。

結果的にタクシーに乗ったのは正解だった。というのも、まず7時前だというのに、人通りがほとんどない。さらに日中はあふれんばかりに走っているバスやコレクティボがまったくいない。リマの朝が遅いのか、たまたま中心部だからこうなのかよくわからないが、とにかく幹線道路沿いにも人気がほとんどなかった。

朝早くから活動している強盗はあまりいないと思うが、人気のないところを歩いていくのは首締め強盗に会う危険性にさらされるから、タクシーでよかった。ちなみにこの首締め強盗は、数人で後ろから来て、柔道用語で言う「落とす」らしい。例えば、1人が首を絞め、残りの2人が片方ずつの足を持って引っ張る。そうすると”うまい”強盗に会うと一瞬で意識をなくすらしい。そして、気がついたら身につけてた貴重品はすべてなくなっている。外務省の安全情報にもそういう被害があったとあった。

信じられないほど空いている道をタクシーはスイスイ走り、アッという間にターミナルに着く。バスは1日数本あったが、8時のバスに乗ることにした。

ターミナルの入り口には、湯気を立てている飲み物屋やハンバーガー屋などの屋台が10軒近くあって、すでに商売を始めている。ターミナル内には、特別に許可を取っているのか、1軒だけ飲み物屋の屋台があった。

窓口に行ってまずチケットを買う。30ソーレス(約1500円)。これは昨日聞いて回った中では安い方だった。座席を窓際にしてもらう。

8時までは時間があるので、屋台で朝食。ハンバーガーは10種類ほど種類があるが、いずれも挟まれているのは単品だけ。例えば、焼いた肉ならそれが一枚、アボガドが一枚といった感じ。値段は屋台によって若干違うが、0.7ソル~1ソル。

それから湯気を立てている飲み物屋があってそこもけっこう客が入っていた。そのうちの一軒では、店のあんちゃん(まだ20代くらい)が、幅の広いとげとげのついたサボテンの葉のようなものを片手に持ち、その葉の表皮を剥ぐ。そこには薄く白い透明のプルプルしたゼリー状のものがあって、それを、あんちゃんは手に持ったスプーンでかき回し、スプーンを高く上にあげて伸ばす。どこかで見たことのある植物なんだがと目の前の植物の名がなんだったか頭の中をかき回す。

数秒たって、思い出した。これはアロエだ。バスに乗っていたとき、畑にこれと同じ葉を見たので、もしかしたらあれらはアロエ畑だったのかもしれないと、今頃思う。

女の人が注文していたその飲み物をぼくも注文する。値段は1ソル。あんちゃんは、またアロエの葉を取り出し、表皮を剥き、果肉(?)をスプーンでかき回し、伸ばす。そうしてある程度とろとろになると、まずはコップ(瓶製)に屋台の真ん中にあった寸胴に入っている液体を入れ、それをまず飲むよう勧める。受け取って飲んでみると、これが苦い。ウコン茶にドクダミを加えたような味で、クイっとは飲めずちびちびやっとこさ飲み干す。

そしてそのコップをあんちゃんに返すと、そこに溶いたアロエと何が入っているのかわからない瓶から数敵なにかのエキスを入れ、別の寸胴から熱い液体を入れ、飲み物を作る。

それはさっきのとは違って甘みのある飲み物だった。すいすいと飲み、最後にこれは何だというと、屋台に書かれていた文字を指す。ちゃんと見ていなかったが、屋台には”Mediccina Natural"とあり、スペイン語でアロエは何に効くといったことが書かれていた。

もう1軒、繁盛している飲み物屋があったので、そこも行ってみる。そこもコップ1杯1ソル。だが、飲み物の中身はさっきのようなものではなかった。店の人にこれはなにかと言うと、”??de Quinua(キヌア)”といったこと言い、付け加えて"Desayuno(デサユーノ:朝食)と言う。なので、こちらはこちらの人が朝飯として食するものらしい。飲み物は白く濁ったもので、確かにキヌアが入っていた。日本でも一部の店でキヌアという穀物は売られているから、見たことがあったし、食べたこともあった。

その店では例の質素なハンバーガーも売っていたので、ハンバーガーとそのキヌアのスープ(スープというには動物系の出汁の味はいない。どちらかというと粥を飲んでいる感じ)を食べる。

時間までは、持ってきた本を読む。

8時前女の人からA5版よりも小さなチラシをもらう。その人はターミナル内にいる客にそのチラシを配ってまわっていた。チラシを見ると、ターミナル2階にあるレストランの宣伝で、どういうメニューがあるかなどが書かれていた。ターミナル内にはお菓子などを売る売店もあったが、まだ開いていない。全体的に暗いので、レストランがあるとは思っていなかった。こうして宣伝しないと客が入らないのか、それともこうすることが客の増加につながると知ってやっているのか。

こうしたチラシ配りというのも、一つの社会を見るときの目印になる。キューバではもちろんこんなチラシを配っている人はいなかった。グアテマラでも本屋でポストカードを買ったときにチラシがついてきたが、まちで配ってるようなことはなかった。コスタリカのサンホセの歩行者天国で、こうした宣伝チラシ(ぼくが受け取ったのは家庭教師のチラシだった)を配っていたのは印象に残っているが、その他の国ではそういうことはなかった。チラシがこれだから、もちろんティッシュなど配っているわけがない。

出発時間が近づいてきたので、荷物預け場に行き、荷物を預ける。荷物の識別カードをもらい、乗車場に行く。ここでは入場料などはない。この会社だけのターミナルだからだろう。

8時過ぎにバスへの乗車が始まる。10分ほど出発予定時刻を遅れてバスは発車。

バスに乗ると添乗員らしいおじさんが前にたってしゃべり始めた。会社の制服は着ていないし、こんな安いバスでこうしたアナウンスみたいなのがあるのは珍しいなと思っていたら、そのうち数字とソルという言葉が出てくる。窓の外を見ていたぼくはそれを聞いておじさんを見ると、おじさんは手に本みたい名なんかよくわからないものを持っていた。どうもこのおじさんも物売りのためにさっきからしゃべっているようだった。なかなかよくしゃべるおじさんで、発車してから40分くらいずっとしゃべり続けていた。

バスはとにかくトロトロ走る。なんでこんなに遅いんだと思っていたら、走り出して1時間もしない8時50分にバスは道ばたに停まってしまう。なんだなんだと思うも、乗客もあまりバタバタしていないから、そのうち走り出すだろうと待つ。

バスは10分たっても20分経っても発車しない。30分以上経過した9時35分、バスはようやく走り出すが、この会社の郊外にある事務所の前でまた停まる。

新しい客を乗せるだけかと思ったら、またずっと停まっている。えらく長い間停まっているなと思ったら、乗客がみな降り出す。なんだなんだとぼくも手荷物を持って降りる。バスを降りて乗ってたバスのフロントを見ると、出発時には1本しかひびが入ってフロントガラスが、石でもあたったようにある1点を中心に放射線状にひびが入っていた。停車の理由はどうもこれらしい。

バスから降りると、後ろから同じ会社のバスがやってくる。が、グレードは低い。どうもこれに乗り換えらしい。

バスを乗り換える。さっきと同じ窓際の席に座ると、なぜか新しく乗ってきた客にそこは自分の席だと言われる。おかしいなと思って、窓の上の座席の番号を見ると、窓際だったぼくの番号は通路側になっている。バスを乗り換えたことで、座席番号の配列が変わったらしい。

これではターミナルに早く行って窓際をとった意味がない。なので、ぼくは座席番号を無視し、どうせ人は乗ってこないだろうと一番後ろの窓際の座席に座る。これはこれでだ丈夫だった。それにしてもバスのグレードが下がってもいいからせめて同じ配列のバスをよこせよなと強く思う。

結局、バスが走り出したのは10時20分。実にリマで2時間も時間をつぶしたことになる。

乗り換えたバスはおんぼろだけど、きちんと走る。1時間もしないうちに太平洋が見える。

12時過ぎ頃にはPisco(ピスコ)というまちを通過する。この町中を通過するときには、ワインの瓶を店頭に並べている店を多く見た。そして、まちをすぎるとブドウ畑がずらり。ときおり日本で一般的な棚を作ってそこに蔓をはわす栽培方法をとっている畑もあったが、基本はヨーロッパのワイン産地のような縦に張った紐などに蔓をはわす方法が採られていた。

ぶどう畑の他に目に付いたのが、綿花らしい畑。白い綿状のものがそばのような植物の先っぽについていた。

この辺りになると、リマでは見なかった三輪バイクがよく走っている。通り過ぎる家家は日干し煉瓦でできているものが多いが、どこかの遺跡のように最初は角張っていただろうところが風化したように丸みを帯びている。中には人が住んでいるかどうかわからないようなぼろぼろの家もある。砂漠が近いこともあるのだろう、全体的に埃っぽい。

13時35分、Ica(イカ)という地域(県)に入る。14時半前、バスは昼食休憩のためレストランの駐車場に入る。駐車場には2m以上ある鉄の門があり、バスが入るとその門は閉じられた。レストランに行ってみると高かった。どれも10ソーレス(約400円)以上する。

外に出れば安い屋台があるだろうと思って、門のところまで行ったが、完全に閉まっていてでれない。同じ事を考えていたらしい、一緒のバスに乗ってきたおじさん、おばさんがぼくが開けようとしているのを見て、開くか?と聞いてくる。

開かないと答えたが、彼らは自分で試し、やはり開かないことを確認する。なので、休憩が終わるまで駐車場内で待つ。

たいていの客が昼食を終え、バスの周りに集まってきた。しかし、運転手はまだ来ない。数分してバスのドアが開く。席に座り、発車を待つが、なかなか発車しない。

もう一台、バスが駐車場に入ってくる。さっきちょっと話したおばちゃんたちは、こちらのバスから荷物を取り出している。どうもここで乗り換えのよう。

なかなか発車しないバスにいらだった一人の乗客が、大声で"Vamos(行こう:発車しろ)"と叫ぶ。それに促されてか、別の客が早く出ろと口笛をピーッ鳴らし、さらに別の客が床をどんどん蹴って大きな声で"Vamos(行こう:発車しろ)"と言う。みんなのんびりした人たちなのかと思っていたが、そうではなかったらしい。だいたい2時間は確実に遅れているから、みんなもさらに遅れることは嫌なよう。

運転手はなにやら言い返しているが、湯時が終わったところでやっと出発。

砂漠ときどきまちを繰り返し、ナスカには16時45分に到着。ここで降りたのはぼくだけだった。バスの周りにはジュースやハンバーガーを売りに来た子どもやおばちゃんたちが10人ほど群がり、それぞれ声をあげる。客がのっている席は2階席くらい高いところなので、手渡しでは届かない。そのため、ジュース売りの子らは長い木の枝の先に、器になるような形でペットボトルを半分にきったものをくくり付け、その器代わりのペットボトルの器に商品を入れ、窓際まで上げている。

バスを降り、リュックを背負い歩き出す。幹線道路沿いで降ろされたので、宿があるまちなかまでは少し歩かなければならない。

歩いているとおばさんが話かけてきて宿を探しているのかと聞いてくる。手には宿のチラシを持っていた。そのうちの1軒に泊まる予定だったので、そのチラシをもらいおばさんとは別れる。

ちょっと歩くとまた別のおばさんが話しかけてきて宿について聞く。適当にあしらっているとそのうちどっかに行ってしまう。中心街に向かう通りにはバス会社が4つほどあったので、そこで明日乗るクスコ行きのバスの発車時刻と値段を聞いて回る。

それから宿に向けて歩く。その通りには地上絵を見るための飛行機ツアーを扱うエージェントの店がずらずら並んでいて、表にいくらか書いてある。

そのうちの一軒の前を通ると、表に出ていたその店のおじさんが、”トモダーチ、ココ ニホンノガイドブックニノッテル”などと言って、店内に引き込もうとする。うっとうしいし、何より”トモダーチ”という言い方に違和感を感じたので、さっさと無視して通過。

”トモダーチ”ってあんた使い方がおかしいやろ、と思っていたら、続けざまにすれ違う人や道ばたでアクセサリーを売っていたラスタの格好をしているにいちゃん、さらには車で通りすがりの人に”トモダーチ”と言われる。やれやれ、面倒なところに来てしまった。

宿を探して歩いていたら、向かいから来た車が横で止まり、やはり"トモダーチ”とこっちに呼びかける。そして、宿はあっちだからと教えてくれる。その人はアメリカの青春ドラマに出てきそうなヨーロッパ系のにいちゃんでたぶん20代前半。なんで宿のことを知っているんかなと思っていたら、関係者だったようで、宿にチェックインした後、ロビーに彼がいた。

1泊10ソーレス(約400円)のドミトリー(6人部屋)に泊まることにする。ドミトリーは2階の屋上に取って付けたプレハブのような建物だった。2人部屋などは埋まっているようだったが、こちらのドミトリーにはぼくの他に一人しかいなかった。部屋には鍵もないし、貴重品を入れるためのロッカーもない。多少不安はあるが、1泊だけだからと運を天にまかせる。

それからさっき通ってきた通りに戻り、明日の飛行機の手配をする。3軒ほどまわったところ料金は40~45米ドル。いずれも7時過ぎにオフィスに行き、そこから飛行場まで送迎があるとのこと。代金は送迎代も含んでいる。

ぼくはあまり客引きをしていない感じのよさそうなエージェントで手続きをする。英語とスペイン語混じりで窓口の若いあんちゃんとやりとりする。朝は宿まで迎えに来てくれるという。

その後、晩飯を食べにまちを徘徊。もうすぐ日が暮れるということもあってか、店じまいを始めているところが多い。エージェントなどがある道から1本南の通りに屋台などが出ている。鉄板で肉を焼いているところで、まず食べる。焼かれている肉はどれも内臓で、それにじゃがいもなどが付けられる。

量は少なめだったので、もう1軒食堂に行き、適当に料理を頼むと、出てきたのは、卵焼きに白米、ゆでたばななという炭水化物系だけと言ってもいい料理だった。しかも飯の量が多い。

もう少し歩いてみるとえらく繁盛しているパパスフリート(フライドポテト)兼鶏の唐揚げ屋や、スープなどを出している屋台もある。屋台の料理は炭水化物系と肉が多い。魚はまったくない。

中心の広場には人がベンチに座っておしゃべりしている。夜でも外を出歩いている人はけっこう多い。

宿に戻って、自分のベッドでのんびりしようかと思っていたら、さっきのトモダーチのにいちゃんがやってきて、やはりトモダーチと声をかけてきて、こっちに来ないかと言う。

屋上にはドミトリーの堀立小屋の他にベンチや椅子、テーブルなどがおかれており、そこで10人くらい集まってわいわいすることはできる。

ちなみに道路を挟んで向かい側のビルの2階にはトレーニングジムがあって、窓が開いているから中でフンフンと頑張っている人の姿が見える。

そのテーブルなどがあるところに行くと、彼の他にイングランドから来たというやはり20代前半くらいの金髪青眼の男二人組がいた。一人の方はかなりスペイン語ができるようで、ぺらぺらとスペイン語でしゃべっている。下からもう一人女の子(20代前半くらい)が上がってきてテーブルに加わる。

で、何をするかと思ったらポーカーかなんかのトランプゲームだった。それもカネをかけて。5ソーレスや10ソーレスだったが、たまに20ソーレス(約1000円)をかけたりしている。一緒にやるかと言われたが、やったことないゲームだったし、カネがもったいないので、ぼくは脇でずっと見ていた。

そのうちトモダーチのにいちゃんが、乾燥した草と薄い紙を取り出し、草をもみ崩し、たばこのように紙に巻く。イングランド人も同じようにする。吸い出したのはガンじゃ(つまりはマリファナ)で聞くとペルー産のものらしい。イングランド人にどこで吸い方を覚えたのかと聞いたら、イングランドと言う。

スペイン語でしゃべっていたので、詳しくはわからなかったが、このトモダーチのにいちゃんはマリファナの売人をしているか、そういう世界のことをよく知っているようで、リマでマリファナ何kgがいくらだというような話をしていた。

下にいたスタッフらしき人等も上がってきて輪に加わる。賭事用のカネがなくなったところで、イングランド人は抜け、あとは地元の者ばかりでゲームを続けていた。

その間、上がってきたスタッフらしき若い男のうち一人にフジモリ元大統領のことをどう思うかと英語で聞かれる。ぼくはほとんどフジモリについては知らないので、そのように伝えると、彼はフジモリはマフィアだと言った。

ぼくは22時過ぎまで端でつきあい、人数が膨れたので適当にベッドに行った。

Fin

lima-nazca

地上絵を見る、クスコへ

08/04/25(金)

・お迎えされて飛行場へ
・酔いながら地上絵を見る
・バスの遅延のおかげ
・子どもたちに囲まれる

6時すぎ、目覚める。気温は20度ちょっとくらいだろうか。気持ちよい温度だ。あちこち隙間がある部屋だが、蚊もいなかった。

あちこちから鶏の声が聞こえてくる。住宅街なのにみんなどこで鶏を飼っているのだろう。

8時過ぎには飛行機のお迎えが来るので、たまっていた日記書きをちょっとして充電が切れたところでやめる。部屋にはコンセントがないから充電できない。なので、荷造りをする。

7時半過ぎに荷物を持ってフロントに行き、リュックなどを預かってもらうよう頼む。

時間通りに迎えが来るかやや疑っていたのだが、8時5分頃に、迎えの車が宿の前に停まった。9人ほど乗れるワゴン車。だいぶ長く乗っているのか、塗装も剥げ気味で、中もだいぶすれている。

客はぼく一人のようで、運転手のおじさんはぼくだけをまちから乗せて、車を走らす。

幹線道路に出て、南(?)に向かって走る。天気は快晴。暑くもなく、ちょうどいい小春日和。天気もひとつの心配要素だったが、この様子だときれいに絵を見ることができそう。

10分ほどで飛行場に到着。車が止まると車道にいた飛行場の人に案内され、中に入る。Aero Nascaと書かれたオフィスで昨日代金を払ったときにもらったバウチャーの紙を渡す。

しばらく待っててくださいと窓口の女性に英語で言われ、ベンチでしばらく待つ。オフィスの壁にはナスカの地上絵のポスターがあり、英語で解説が書かれてある。

それを見たりしながら待っていたところ、白髪頭の年輩の日本人夫婦が来て”あれ、みんなどこにいるんだろう?”と言ってからどこかに去る。

どうもぼくの他に日本人ツアー客がいて、その人たちと同じになったようだ。

15分ほど待ったころに、オフィスの男性がぼくの名前を呼び、"Let's go!"と言って乗り場の方に案内される。すぐに乗り込むのかと思ったら、さっきオフィスの方に迷い込んだ日本人のおじさんたちがいる待合所で、また待たされる。

日本人旅行者は10人ほどいて、2人の30代くらいのカップルを除いて、あとはみな退職後しばらくたったようなご年輩の方々ばかり。久々に日本語を聞く。

日本から同行しているっぽいツアーコンダクターの女性とペルーの旅行会社に勤めているっぽい日本人女性もいる。ちょっと話しかけてみようかと思ったが、あえて黙ってみんなの様子を見ていることにする。

10分ほどすると、その御一行の仲間で先に飛行機に乗ったグループが帰ってくる。待合い所にいた人たちは”お出迎え、お出迎え”と言って手を振る。そして、どうだったか訪ねる。70歳に近いのではないかと思われる男性は、”いやぁ、すばらしかったですよ。”と上機嫌。”(飛行機は)揺れなかったですか?”という質問にも”ぜんぜん揺れない。上手なもんだよ。グッと飛行機を横に倒したりしてくれてね。”とかなりの高評価だった。

御一行の中の次のグループが呼ばれて飛行機に乗り込んでいく。残ったのは、御一行の中の若いカップルとぼく、あとツアーの添乗員の2人の女性だけ。

ペルーの旅行会社に勤めているらしい女性は、残っているカップルに話しかける。”今日は涼しくていいですよ。暑い日は、ものすごいんですよ。まわりは砂漠だし、山にも木がないでしょ。だから熱がこもって、もう・・・”。

地上絵の話になり、彼女は面白いことを言う。”(地上絵は)右脳で見るものなんです。ほら、左脳と右脳ってあるでしょ。それでたまに(上空から)見てもわからないという人がいるんです。この仕事をしていて10数年になりますけど、一人だけですかね、そういう人がいました。戻ってきて、どうでしたかって聞いたら、見えませんでした、って言うから、エーッと思って。”

カップルの男性は”あ~、うまく焦点を合わすことができないと、浮き上がってこないってやつですか”と相づちを入れる。

彼女はうんうんとうなづきながら話を続ける。”それで、その彼女はね、泣きましたよ。悔しいって言って。まだ30代くらいの人だったんですけどね。そういう方もいるんです。”

”それは泣きますよね。ここまで来て見えなかったとなると。”と男性は応える。

そんなことがあるのかとぼくは興味深く、ちょっと離れたところで聞いていた。

そんなことをしているうちに順番がまわってきたようで、カップルの二人の名前が呼ばれる。そして、彼らと同乗するらしく、ぼくの名前も飛行場の人から呼ばれる。

ぼくの名前が呼ばれた瞬間、前にいたカップルは同時に振り向き、ぼくに向かって驚いたように一言いう。”日本人の方なんですか?”

横にいた添乗員の女性も、小さな声でぼそっと”日本人だったんだ”と言う。

いやいや、二人同時に振り向かなくてもいいし、そんな驚く事じゃないと思うのですが。というより、二人の反応にぼくが驚いたわ!、と思いつつ、”そうですけど、何人(なにじん)だと思いました?”と聞く。その質問には答えず、バックパッカーでまわっているのですか、何か危険なこととかなかったですか、と再び質問がある。

ぺちゃくちゃしゃべりながら、飛行機に行く。小さなプロペラ機で操縦士も含め4人乗り。ぼくは操縦士の右横の席に座り、カップルは後ろに二人並んで座る。

シートベルトをしたところで、白髪交じりの操縦士のおじさんが”コニチワ”と言いながら乗り込んでくる。そして、ナスカの地上絵が書かれた一枚のパンフをそれぞれに配る。

操縦席の正面には紙が貼られ、チップを歓迎しますとヨーロッパ諸語で書かれている。一番下に日本語でも書かれているが、そのひらがなは最初の3文字くらいは読めるものの、残りは判読不能な象形文字になっている。

操縦席のドアが閉まり、パイロットがヘッドホンをつけ、口元のマイクに向かって何やら通信を始める。

9時に飛行機は動きだし、飛行場の端の方へ移動する。そして滑走路に入り、操縦士はあちこちをいじって飛ぶ準備を始める。

やがてOKが出たようで、プロペラ機はプロペラ音とエンジン音をうならせながら走り出す。離陸はスムース。

離陸すると操縦士のおじさんが、それぞれにヘッドホンを渡す。頭に装着すると、エンジン音が小さくなり、操縦士のおじさんの声が聞こえてくる。

おじさんはさっき配ったパンフを指さしながら、これからどの絵を見に行くかを説明する。

一つ目の絵は鯨。おじさんが右手で指さしながら英語で”Whale(ホエール)、Look,look"と言う。窓から探すがどこだかわからない。

地上には無数の水が流れた跡があり、それに加えて車が通ったのかまっすぐな線も無数にある。さっきの旅行会社の人の話もわかるなと思いながら探す。

やがて飛行機は旋回し、おじさんがまたルックルックと言う。

やっと飛行機の羽の下に鯨を発見。予想していたよりもずっと小さい。こりゃ見落とすかもしれんと思っているうちに、次のがくる。

次のはTrapezoidsというもの。これもわかりにくく、なんとかそれらしいものが見えるが、あまり感動はない。

その後、Astronaut, Monkey,Dog,Condorと見てまわる。この辺はわりとわかりやすい。一度どの程度のサイズがわかれば探しだしやすいが、それでも操縦士のガイドがなければ、ほとんど見落とすだろう。

操縦士は右の窓からも左の窓からも見えるよう、絵の上を旋回する。大きな揺れはないものの波に揺れられているような小さな揺れがあり、ぼくはそれにだんだんやられ、気持ちが悪くなり始める。

操縦士は”ハチドリ”と言って、しばしばナスカの地上絵として紹介される大きな絵を指さす。これもオッケー。

結局、全部で12の地上絵を見たのだが、後半はぼくはほとんど乗り物酔いの状態で静かにゲップを連発。いやいやまいった。

飛行機からは絵の他にも周囲の様子がよく見える。一本だけ走るアスファルトの道沿いにはところどころ緑があり、きれいな畑が広がっている。しかし、そのすぐ外側は急に砂漠というか土漠になり、緑の一片もない土地が広がる。

山々もまったくのベージュ色で、緑は一点もない。中には完全に砂漠化している山もあり、その山は周りと比べると一段と白い。

その土漠にはどこにも水の流れた跡があり、これがどうしてできたのかが気になる。どうせこうした飛行サービスがあるなら、この水跡についても説明があるとより満足するんだけどな。

絵は、まぁまぁ、こんなもんでしょという感じであまり感動はないが、それよりも上空から見たまちや畑の様子の方が印象的だった。緑とベージュ色の境がはっきりしていること、無数の水の流れた跡があること。これらを見ることができたことも含めれば、40米ドルはまぁ、適当かな。もっとも今はオフシーズンでピーク時より10数ドル安くなっていることもあるけど。

飛行機から降りた後は、酔ってむかむかしてあまり気分はよろしくない。同乗した人が降りた後、操縦士のおじさんも含め記念写真を撮るというので、ぼくも写る。きっとこの人たちは日本に帰ったら、この写真を使ってクイズをするんだろうなぁ、この人は何人(なにじん)でしょうか、なんて言って。

オフィスに行き、まちまでの帰り方を聞く。迎えの車が来るから、それまで道を挟んで向かいにあるホテルで休んでいてとのこと。

昨日、飛行機のチケットを買うときに、このホテルのことを言われ、待ち時間にこのホテルのプールとかインターネットとかを無料で使えると言われていたが、その待ち時間が、終わった後の待ち時間とは思っていなかった。

ホテルの方に行くと、さっきの日本人旅行者を乗せた豪華なバスがちょうどこれから出ようとしているところだった。カップルの男性に聞いたところツアーは10日間とのこと。飛行機に乗っている時間を考えれば実質1週間もないツアーだろう。う~ん、なんとも忙しい。

そのホテルには20mほどのプールの他、数台だがトレーニングマシンを置いた部屋もあり、なぜかネットが使えるパソコンもそこにあった。ぼくは今晩向かうクスコの宿をネットで調べる。幸い日本語が読めるので助かる。

30分ほどして表に出ると、朝の車のおじさんが来ていた。車に行くと、10分待ってと言われ、加えてあそこにアルパカとリャマがいるから、写真を撮ったらと言われる。

これも観光用なのだろう、ホテルの敷地内の端っこにアルパカとリャマが1頭ずつ飼われていた。思ってたよりもでかいし、横幅がある。暑そうな毛を全身にまとっている。

近くには子ども用のシーソー(だったっけ?)と人力飛行大会に出てきそうな飛行機のモデルが置かれてある。

アルパカ等を眺めていると、クラクションが鳴り迎えが来る。

車に乗って市街地に戻る。

各バス会社のターミナルが集まっているロータリーのところで降ろしてもらい、クスコ行きのバスの運賃を調べる。一番やすいのが70ソル(約3000円)で、高いのは130ソル(5000円)。時間はいずれも夜発で20時発や21時発が多い。どれにしようか迷う。高いバスは朝食付きらしい。朝食と言ってもな、タマーレとかゆでトウキビ、うずらの卵とかじゃがいもが出るわけじゃなくて、どうせサンドイッチとか気取ったものだろうからな。悩む。

それからまちの近辺をぷらぷら。ロータリーのちょっと南に行った右側には、3m四方くらいの簡単な作りの家がぼこぼこ固まって建っている。洗濯物が見えるから誰か住んでいるのだろうが、台風がくれば(来ないだろうけど)簡単に吹っ飛ぶような粗末な家。どういう人が住んでいるのか気になるが、外を歩いている人は見えない。

それから、ロータリー近くの道ばたで料理を出しているところでブランチ。適当にうんうんうなづいて料理を出してもらうと出てきたものは、チキンライスみたいなものにトマトソースのスパゲッティ。炭水化物ばかり。期待外れだが、味はまずまず。客はぼくの他にいなく、ここの店の女の子と小さい子どもを抱えたお母さんがいるだけ。

店のおばさんは仕事をしながら、こちらに質問をしてくる。カスティーリャ語を話せるのか、どこから来たのか、恋人はいるのか、ペルー人の女性はきれいだろ、などなど。スペイン語のことをカスティーリャ語と言うのは、直接には初めて聞いた気がする。他の国ではエスパニョールはしゃべれるかと聞かれていたのだが。

なぜペルーの人は、スペイン語と言わず、カスティーリャ語と呼び続けるのか。そういう言い方をする習慣が残っているというだけかもしれないが、もしそうだとしたら、逆にスペイン語と呼んでいる国々ではいつ、どういうきっかけでカスティーリャ語ではなく、スペイン語と呼ぶようになったのか。

カスティーリャ語は、クリストバル・コロン(ラテン語ではコロンブス)がジパング発見のための航海をするために支援を求めたカスティリャ王国で話されていた言葉。カスティリャ王国は、現在のスペインにあった一王国で、そこのイザベル嬢王がコロンの航海を支援したことが、いわゆる”新大陸の発見”につながることになった。コロンはカスティリャ王国に相談する以前に、ヨーロッパの他の王国などに支援を求めていたが、相手にされず、やっと話に乗ってくれたのがカスティリャ王国だった。

そのため、新大陸へのヨーロッパからの移民もまずはカスティリャ王国に住んでいた人間から始まった。

よって、カスティーリャ語は、当時の侵略してきた人々が話していた言葉を指すものだが、それが500年たった今でも、また国名がスペインになった今でも、使われているというのが、なんとも興味深い。しかも、インカ帝国の中心地だったペルーでのみ(かどうかははっきりとは言えないが)使われているのが、面白い。

これは確認してみないと何とも言えないが、おそらく学校で歴史を教えるときや政府が自国の公用語を言うときには、エスパニョール(スペイン語)と呼んでいるだろうから、もしそうだとすれば、カスティーリャ語はそういうものとは切れた普通の人々の間で使われ続けてきた単語であると言えるかもしれない。

あるいは、近年まで政府もカスティーリャ語と呼び続けてきたのかもしれない。もし、そうだとしても政府がそのように呼び続けてきたこともまた興味深いことだ。

その後、切手を売っている土産物屋で切手を買い、ハガキを投函。ペルーは切手代が高い。1枚当たり5ソーレス(約250円)もする。ハガキは1ソル(約40円)くらいなのに。

それからちょっとまちをぶらぶら。小さいまちだから昨日の夕方の1時間で中心街はたいてい見たが、明るい時間帯のまちを見てまわることに。

広場があるところは一部工事中なのか、コンクリートの破片などが積まれてあって、四方の一片に庁舎がある。日本の感覚からすれば小さい。2階建てではあるが、公民館程度だ。

昨日の夕方開いていた鶏の唐揚げ屋などは閉まっていて、他にも夜は出ていた屋台などは見えない。広場にはぶらぶらしながら”ヤ(ジャ/リャ)ーマダス”と声を出しながら、テレホンカードを手に売り歩いている女の人たちがいる。

広場から一本南に行ったリマという名の通りには、服屋や食堂、銀行、電化製品店が並んでおり、路上にはぶどうやりんご、アボカドを売っている人やパンなどを売っている人がいる。

昨日来たときはは閉まりかけていたメルカド(市場)は開いていて、野菜、果物、肉、魚が売られている。面積は小さくバレーコート程度。店も20店舗ほどあるだけ。客はそれほど多くはない。

もう一軒、食堂に行き、タンパク質などを補給。ここもスープがまず出て、それからメイン、ジュースが出る。ご飯の量が多い。値段は4ソーレス(約200円)。

することもなく、プラプラする。ちょうど小学校などは午前の部が終わったようで、学校前には迎えに来ている親や帰りの子どもを狙ったアイス屋さん、それから家まで子どもを乗せていくタクシーなどが校門前にずらりと並んでいる。

帰る子どもたちと入れ替わりに、午後の部の子どもたちが通学してくる。

タクシーには子どもが我先に乗り込む。タクシーはミニの軽自動車。助手席に2~3人、後部座席に4~5人、後部座席の後ろのわずかな荷台スペースに3人、計10人ほど乗せているタクシーもある。もっとも乗っている子どもたちも低学年の6歳くらいの子たちばかりだから、これだけ乗っていても多少は隙間はある。が、なかなかすごい。

ちょっと中心街から外れたところを歩いていると、学校からの帰りだろう、自転車のハンドル(ハンドルに乗せる!)に子どもを乗せたおじさんが正面からやってくる。そして、目が合うと”トモダーチ”と言ってくる。ぼくはハハッと苦笑いしながら、手を振る。

朝はわりかし涼しかったものの、日中になるとだんだん暑くなってくる。ただ、乾燥しているからかそれほど嫌にはならない暑さ。気温計を見ると温度は32度だった。

ぼくはPlaza Bolognesiという広場のベンチでしばらくお休み。横になり、昼寝。

時間は4時過ぎになり、もう一度バスのターミナルをふらつく。1社だけ直接確認していなかった会社があったので、そこに行き、バスの時間と値段を聞く。値段を聞くと60ソーレス(約2500円)。これまで聞いた中では最安値だった。バスの発車時間を聞くと4時半と言う。

夜までバスを待っているよりも早く出て、車窓から見える眺めを楽しんだほうが得だな、と思い、このバスに乗りたいと思ったものの、4時半まであと15分しかない。

宿に荷物を預けたままだから、一度取りに行かないといけないのだが、往復すると20分はかかる。それで、う~ん、と決めかねていたら、窓口の女性は携帯を取り出し、電話を始める。聞き取れた単語から、乗ろうとしているバスが、何時にここを出るか確認しているようだった。

電話が終わって彼女は、バスは17時発になるようだから、荷物を取ってきたらというようなことを言う。それで急いで宿に戻り、預けていたリュックなどを背負ってターミナルに戻る。ちなみにこの宿では3ソーレス(約150円)で荷物を預かってくれた。

ターミナルに着いたのがちょうど16時半。もちろん、バスはまだ来ていない。チケットを買い、しばらくオフィスの椅子に座って待つ。

ここのオフィスには対応してくれている女性が一人とその人の子どもらしいまだ1歳にも満たないような子が、床に敷物を敷いて寝ているだけ。壁に設置されているテレビではポケットポンスターをやっていた。

17時ちょっと前にバスはターミナルに入ってくる。ここから乗る客はぼくだけのよう。リュックを預け、一番奥の席に座る。乗っている人の中に観光客らしき人はいない。

バスは砂漠の中を走り、30分もしないうちに山岳地帯に入る。緑のない山の一本道をバスはくねくね走る。時折向かいからトレーラーやトラックが来るが、片道1車線は確保されているので、止まることもなく走る。

ひたすらバスは登り続け、出発から2時間たった6時過ぎにはだんだんと暗くなり始める。夕日がみれるかと思ったが、曇っており、あまりきれいに見ることはできず。

暗くなってもひたすらバスは登り続ける。

外が暗くなり、車内も真っ暗なため、いつの間にか寝てしまう。目が覚めるとバスは下りに入っていて、眼下にオレンジの灯りが碁盤状に並んでいるのが見える。どこかのまちに着いたようだ。

バスはそのまちのターミナルらしきところに止まる。ぼくはどうせすぐに発車するだろうと車内にいたが、バスが止まったところには食堂があり、客の何人かがそこで食事を始めたのを見て、夕食休みだということに気づく。

それならとぼくは手荷物を持って、バスを降りる。しかし、バスの乗車口が開かない。どうも安全のために鍵がかけられているらしい。ドアの外にいるおじさんがスペイン語で閉まっていると教えてくれる。

しょうがないので、運転席の方から出る。こちらは内側からは開き、無事外に出ることができた。外は寒い。20度は確実に切っている。

かなり熟睡していたので、てっきり夜中かと思っていたが、時間はまだ20時をすぎたばかりだった。昼飯が多かったため腹は減っていないが、ノリでパパスフリート(フライドポテト)を買って食べる。

バスの乗客を目当てに物売りの子どもやおばちゃん、おばあちゃんがあたりに押し掛けていて、あれはいらないかこれはいらないかと勧めてくる。

売っているのは、Choclo con quezo(チョクロコンケーソ:チョクロは粒の大きいトウキビ、ケーソはチーズ)とQuezo(チーズ)とマテ茶!

チョクロは例の干したか煎ったかしたもので、あまり消化に良くなさそう。一度、10歳くらいの男の子に買わないかと言われるが、断る。

そこに別のバスが同じように入ってくる。乗客が降りてきて、あたりはけっこうな人口密度になる。

そちらのバスに乗っていた40代くらいの夫婦が話しかけてくる。やはりカスティーリャ語はわかるかとか、どこから来たのかとか、ペルーのどこに行くのか、なぜペルーに来たのかと言ったことを聞かれる。

話していると物売りのおばさん、子どもも気になるらしく、ぼくのまわりに数人集まってくる。

話している間もペットボトルに入ったマテ茶を買わないかとおばさんが勧めてくる。ぼくは断ろうとするが、話して夫婦が"Es rico(おいしいよ)"と言うので、1本買う。

これまでバスの停車場でペットボトル(たいてい500ml)の水やジュースを売っているのはいくらでも見てきたが、マテ茶は初めて。

ペットボトルを再利用しているらしく、ボトルと蓋の色が不釣り合いなのもある。最初、バスから降りたときに見たときは紅茶かと思ったのだが、売っている人が”マーテー、マテ、マテ~”と言っているので、マテ茶らしいと気づいた。売っている人はたいてい数本しか持っておらず、しかも冷えないように懐の中に入れて客を探している。

ぼくは買うことにして、おばさんに一本くださいと言う。ぼくに差し出されたペットボトルは、ラベルも何もなく、紅茶の色に似た色の液体の中に、バニラに似た草が茎ごと入っている。受け取るとペットボトルは温かく、空気が膨張しているためだろう蓋がなかなか開かない。値段は1ソル(約60円)。

ぼくはここがどこだか知りたかったので、すぐ近くで話を聞いていた子どもにスペイン語でどこかと聞く。すると、なんとかという地名を言うので、南米の地図を取り出し、指さしてもらう。

地図を取り出そうとすると子どもたちが我先にとよっかかってくる。聞くとここはPuquio(プキーオ)というところだった。女の子がどこに行くのかと聞いてくるので、クスコだと言うと、ここからは11時間かかるという。

何人かと聞くので、ハポネスと答えると、チーノ、チーノと言って、ぼくの目の前にいた子をおばあさんも一緒に指さす。その男の子に聞くと、父親が中国人らしい。彼は旨に手を当てて、自分の名前を名乗る。一回言われただけでは正確に覚えられなかったが、確かに中国式の名前だった。聞き返すと”ジンジャン”と自分の名を言う。

覚えといてと言うような口振りなので、手帳を取り出しカタカナでメモする。するとジンジャンは自分の手のひらにその文字を写し書こうとする。周りにいた男の子や女の子も、文字に興味を持ったらしく、口々に自分の名前を言う。

それで、エリックやイェーニ、アウグスティンといった各人の名前をカタカナで書き、書いた一枚の紙を渡す。それを受け取った子は、自分のところだけ破りとろうとするが、スペースを空けて書いてなかったので苦戦する。もっとスペースを空けて書き直そうかと思ったところで、バスへの乗車が始まり、ジンジャンが急いでと言うようにバスを指さすので、バスに乗り込む。

ここはバスの経由地にはなっているようだが、子どもたちの反応を見るとあまり外国人、特に日本人は来ていないような感じがする。もっとも一番安いバスだからここに止まるのであって、外国人が一般に乗る値段の高いバスは夜食付きやもっと遅い出発だから、あまり外国人を見ないのではないか。

余裕があるなら、そのままこのまちに泊まってみるのも面白そうだったが、この時間でも開いている店は一軒しかなく、ホテルらしき建物は見えなかった。

バスはまた高度を上げながら走る。空には星が満天に輝いている。

バスの中では映画が始まる。またも派手な銃撃戦などがあるハリウッド系の映画。バスの中はだんだんと冷えてきて、みな用意していた毛布を取り出し、かぶっている。しかし、ぼくにすれば毛布をかぶるほどではない。たぶんまだ20度はある感じだったので、長袖シャツにジャンバーで十分だった。

Fin

nasca-cusco

リマで一日

08/04/23(水)

・リマのタマーレ
•ブラジル大使館でビザ申請
•旧市街をぶらぶら
•メルカドセントラル

6時頃起きる。部屋はちょうどいい具合の温度。

昨日の感じからすると、1時間あればブラジル大使館に着くだろうと、8時前に宿を出る。そして、昨日と同じバス乗り場でミラフローレスに行くバスを探す。

バス乗り場付近にはマテ茶や新聞売りに混じってタマーレ(トウキビの粉をトウキビの葉で包んで蒸したもの)を売っているおばさんがいた。

タマーレはメキシコやグアテマラ、それからキューバにもあった。行くとこ行くとこで買って食べ比べている。なので、ここでもおばちゃんから1つ買う。形は長方体の両端を閉じたような格好。要はあくまきの形と一緒。だが、大きさは10cm×3cm×1cm程度と小さい。

食べてみて驚いたのだが、ここのタマーレはかなりパンに近かった。つまり、トウキビよりも小麦の方が勝っている。トウキビの味はほとんどしない。その代わりというか、パウンドケーキのようなうっすらとした甘さがある。昔からこうして作るのか、それとも最近、こうした作り方が開発されたのか。

ちなみにこれまで食べたタマーレでもっともトウキビの味がしたのは、ハバナで食べたものだった。本当にトウキビの粒を食べているような味がした。一方、メキシコのサンクリストバルで食べたタマーレはトウキビだけで作っていることは、その見た目からわかったが、トウキビの味はほとんどしなかった。トウキビの種類が違うのかなんなのか、その理由はよくわからない。一つの想像としては、サンクリストバルで食べたものは、もしかするとアメリカから輸入したトウキビ粉かもしれないということだ。

そのように想像するのは、トルティージャの味が変わってしまったと一部のメキシコ人が嘆いている、というようなことを書いた記事を読んだから。それによれば、アメリカからの安い輸入トウキビが増えたことで、トルティージャを作る業者がそちらを使うようになり、その味が変わってしまったということが書かれてあった。

ただ、市場のおばちゃんから買ったものなので、わざわざ輸入トウキビを買うか、という疑問もある。

ともかくリマで買ったタマーレはほとんどパンであった。そのおばさんは殻を剥いたゆで卵も売っていたから、それも買う。

バスは昨日同様なかなか現れない。20分ほどバスを探して、ようやく乗り込む。料金1ソル。車内は、それほど混んでいない。が、道は大混雑。進み方はいらいらするほど遅い。

昨日と同じルートを走るバスかと思っていたら、途中でいらぬ方向に曲がってしまった。しかし、それでも大使館がある方角からはそれほど外れていないので、もう少し乗ったままでいる。

しばらくして、これはだいぶ外れるなと思ったところでバスを降りる。代わりのバスを探すが見あたらない。歩いてみるが、またもや自分の位置がよくわからない。30分ほどふらついて、見つからないのでタクシーを拾う。良心的な値段で、きっちりブラジル大使館前に付けてくれた。

大使館にはいるときにパスポートチェックなどがあるかと思ったが、そういうものはほとんどなく、するっと中に入れた。中では同じようにビザの取得に来たらしい観光客が二人ほど。

領事部の窓口で対応してくれた人は、昨日話した人とは違う人だった。昨日の人は往復チケットがないとダメと言ったが、もしかしたらこの人だと大丈夫と言ってくれるかも、などという甘い期待を持っていたのだが、あえなく破れる。他の必要なものはそろえていると現物を見せたのだが、往復のチケットがないとダメと言い、翻ることはなかった。

予想していたとおりの展開。出入国の手続きなどは担当者によって対応が変わることがあるので昨日のことがあったものの試してみたが、結果的には時間を無駄にする形になってしまった。

旧市街でまだ見ていないところがあるので、旧市街に戻ることにする。昨日は帰りのバスを捕まえるのにさんざん苦労したおかげで、帰りのバスやコレクティボの乗り場がだいたいわかった。おかげで、今回はスムーズに帰りの車に乗ることができる。

リマのコレクティボ(乗り合いワゴンルートタクシー)も運転手と客引き&料金徴収係の2人体制。ワゴンは4列ある15人乗り。だが、立ち客も乗せるので20人くらい乗せたりする。料金はバスと変わらず1ソル一律。

Plaza San Martinに近いCamanaという通りで降りる。コレクティボから降りて辺りを見回すと車が向かっている方向の先には赤茶色の山肌の小山が見える。中心街に泊まり、建物の多いところばかりを動いていて忘れてしまっていたが、リマは中心部から少し出れば水気のない土漠•砂漠だ。

通りを歩いていると排気ガスの臭いにたまらなくなる。煙ってはいないが、バスなどが発進する度に黒煙を上げるから車の多い通りを歩いていると、すぐに喉が痛くなる。

Plaza San Martinまで歩き、そこから左に曲がり、歩行者天国となっているJiron de la Union通りを歩く。平日の昼の時間だが、人通りは多い。観光客も多い。規制されているのか、この通りには屋台の類はほとんどなく、ときおり交差点付近で菓子などを売っている人がいるだけ。

並んでいる店はファーストフード店、洋服店、スポーツ店、カメラ屋など。基本的にはヨーロッパ調になっているのだが、看板などはあまり規制がかかっていないのか、自己主張が強い印象を受ける。ほとんど素通りするような感じで通りを通過し、一番のメイン広場であるPlaza de Armasに出る。

ここには宮殿などの建物があるが、あまりしげしげと見るような気にはならず、さっさと宿の近くのMercado Central(中央市場)に向かう。

こちら側の通りは立ち売りの人、小さな屋台のようなものを出している人が路上にあふれている。Avancayという大通りをわたって市場までは100mほどだが、その間は10mと開けず立ち売りの人が歩道にいる。

両手に革靴を持って売っている人、一輪車にぶどうを積んで売っている人、ゆがいたうずらの卵売り(これがリマには多い)、アイス売り、菓子•飲み物売りなどなど。食べ物を売っている人はともかく、靴なんか買う人がいるとかねと思うが、こうして商売をしている人がいるということは、そこそこはそれでも売れるのだろう。

市場の建物はなかなかでかかった。入り口には市場の内覧図(?)があり、各区画に番号が振られている。一番大きい番号は360番台だったから、それだけの店がこの1画に集中していることになる。

市場は野菜や肉、魚など食料品の他に服やかばん屋、ペットフードや日用品の店などもある。さすがに海に近いこともあって、魚コーナーが広い。食堂も40軒ほどあって、昼過ぎのこの時間でもにぎわっている。

セビチェという魚の酢の物(マリネ)専門の店で昼飯にする。スープ付きで5ソーレス。ご飯の代わりゆでたトウキビが一本つく。

もう1軒はしごして、宿に戻る。休憩。

それから、今度は明日乗るバスの下調べに行く。バス会社が集まっている通りがあり、そこまでコレクティボで行き、各バス会社をまわってナスカ行きのバスの料金と出発時間を聞く。

帰りは歩いて帰る。宿までは寄り道せずにまっすぐ歩けば30分ほど。ずっとお店が続いているから人と通りも多い。途中、散髪屋•美容室が固まっているところがあった。どこも店のドアなどはない。客がいない店は入り口付近にスタッフが座っていて、店の前を通る人を文字通り手招きする。散髪屋兼お菓子などの雑貨屋兼鍵屋など、一つの店舗の中に複数の業種が混ざっているような店もある。こうした店はどうなっているのか気になる。つまり、一人の店主が3つとも仕切っているのか、それとも場所を貸しているだけで、それぞれ別の経営者がいるのか。

店造りも日本とはだいぶ違うから見ていて面白い。

あと明らかにいわゆるおかま(ニューハーフ)という人がやっている散髪屋もあって、入り口にそういう人が立って客引きしていた。

手元にあるロンプラには"GAY&LESBIAN LIMA"という囲み記事がある。オカマとゲイは違うものだが、セクシュアルマイノリティーということでつなげてみる。その記事によれば、リマにはゲイの人がやっているトラベルエージェントもあるらしい。また、そういう人のためのホームページも4つほど紹介されている。こうした情報は、日本のガイドブックではまったく見られないことだ。

宿に着くまでの間、人通りが切れるようなところはなく、車の通行量も多いので、これだったら明日バスターミナルまで歩いても行けるかと考えたりする。

帰り道宿からやや離れているが、それほど遠くない中華街に行ってみるかとも思ったが、宿に着く頃には日が暮れ始めたので、そのまま夜は宿で過ごす。

リマには博物館や教会なども多いが、そういったものには結局一つも行かなかった。

Fin