2008年12月30日火曜日

[diary]ハラレの市場をぶらり、ルサカへ

ハラレの市場をぶらり、ルサカへ

08/09/09(火) 晴れ 日中20℃台後半
[Harare:Zimbabwe→Lusaka:Zambia]
※レート(ジンバブエドルはZドルと表記。)
闇:1米ドル=350新Zドル
銀行:1米ドル=45新Zドル

朝は昨日と同じく涼しかった。半袖でちょうどいいくらい。蚊がいないのも助かる。

起床後しばらく日記書き。

チェックアウト時間の9時半前に荷物を整理して、受付にリュックなどを持っていき、夕方まで預かってもらうよう頼む。

それから町中のムバレバスターミナルに向かうバスが出ている乗り場に向かう。ムバレバスターミナルは、ガイドブックによれば中心部から歩いて1時間以上かかる郊外にある。そこからジンバブエ国内各地へのバスが出ており、またターミナル周辺には市場があるとのことだった。目的はその市場を見ること。

トヨタのハイエースなどを改造した大型ワゴンのミニバスを探す。道を歩いていると車の中から「ムバレ、ムバレ」と叫ぶ声がする。ここのミニバスも運転手と客引き兼集金係の2人体制のよう。あるバスに乗る。例のごとく、客席が埋まるまで発車しようとしない。9割方は埋まっているから出てもいいようなものなのだが、運転手よりも客引き係のにいちゃんが車を出させない。

やっと走り出したかと思えば、また止まり後ろから同じようなバスに次々と追い越される。席は1人ぶんくらいしか空いていないし、歩道にバス待ちをしている人もいない。

あまりに進まないのに怒った客が2~3人文句を言いながら降りようと腰を上げる。が、客引きはそれを制止して車を発車させる。しばらく車内で口喧嘩。まぁ、当たり前だ。他に選べる車はいくらでもある。車の持ち主の勝手につきあう必要はない。

線路の下をくぐって向こう側へ出る。しばらくすると左手にでかい空き地が見え、そこを横切って歩く人たちがいた。どうもまちなかからターミナルへと歩いている人たちのよう。空き地の奥には古いコンクリート造りのアパート街が見える。中心部と違って、ごみがあちこちに落ちている。

そこから5分ほどで目的地のムバレバスターミナルに到着。意外に早かった。

運賃は200新ジンバブエドル(約70円)。一緒の車に乗っていた女性2人組は、二人ぶんの運賃を30枚くらいのお札と50枚はありそうなコインで払おうとして拒否されていた。大きい金額の新札で払えと車の人は言っているようだが、彼女らが持っていた新札は1ジンバブエドルの束。帯がされているから銀行ででもおろしたのだろう。1束おそらく100ジンバブエドルの束を3つ持っていたが、それじゃ足りない。最後までやりとりを見ていなかったので、どうなったかはわからない。なおコインはほとんど見ないので、すでに価値がほとんどなくなったのだろう。

ムバレバスターミナルは屋外型のターミナルで、広い駐車場にそれぞれ行き先の買いた看板が立てられているだけだった。物売りの人たちがバスの周りに集まり商売している。ここならまちなかよりもちょっとは飲み物が安いかと思って、300mlのコーラなどを売っている女性に値段を聞いたところ答えは600新ジンバブエドル(約180円)。まちなかと変わらない。高い!

ターミナル横にはジンバブエでよく見るOKスーパーがあった。ここも他の店舗と同じく物がほとんどない。ただムタレでは店頭で見ることがなかった砂糖が売られていた。2kg700ジンバブエドル(約200円)。ちなみに塩はその半額程度。

スーパー以外にもまわりには商店があったので、安い水を探してまわってみる。個人商店にはそこそこ物はあるが、やっぱり高い。750mlの水が700ジンバブエドル(約200円)で売っていたので、思い切って買う。まちなかでは900くらいしたので、ちょっとは安い。

それから近くの市場に行く。コンクリートブロックの塀に囲われた市場は碁盤上に店が並んでいた。どの店も木材で簡単に作っただけのところが多い。買い物客と野菜などを搬入する人でごったがえしている。50m×50mほどの敷地の中に野菜や果物屋、洋服屋、食器屋などが集まっていて、物は十分にある。おそらく平常時と変わらないくらい。

野菜で言うと大きなキャベツがあふれており、トラックの荷台からどんどん店に運ばれてる。トマト、オレンジ、グリーンピース、ジャガイモ、バナナもふんだんにある。ぐるっと一回りして、レモンが安かった店でレモンを買う。6個入りで100ジンバブエドル。まちなかでは1個50ジンバブエドルだったので格安。これでまたレモンジュースを作って飲むのである。

食堂も数軒あって、やはりまちなかよりも安い。サザ&シチューという具に肉が入っているものはまちなかでは700ジンバブエドル以上したが、ここでは400ジンバブエドルで食べられるところがあった。ただ今夜は長距離バスなので食事はせず。

市場のまわりの路上も物売りの人が並び、ビニール袋や砂糖などを売っている。

市場の近くにあったゴミ捨て場には、まだ食べられそうな野菜のかけらを探して、ゴミを漁っている人が2~3人ほどいた。

1時間ほどぶらついて後に歩いてまちなかに戻ることにする。街までの道にもバナナ売りや食器売り、ドーナツ売りの人たちがいる。その中にアイス売りの人もいたので買ってみる。棒アイスではなく、コーンに1リットルサイズのでかいアイスからスプーンで盛るスタイル。意外に買っている人は多い。道ばたで売っているので、冷凍庫や保冷庫を持っているわけではないから、アイスはだいぶとろとろに溶けている。

結局まちなかまでは1時間もかからず到着。ベンチがあって休めるイーストゲートのショッピングセンターに行って一時休憩。

途中、新聞を買おうかと思ったらこの間買ったときには250ジンバブエドルだった同じ新聞が500ジンバブエドルになっていた。週末版ということでこの間買ったのが安かったのか、それとも値上がりしたのかはわからない。ジンバブエドルが少なくなってきていたので、結局新聞は買わず。一面に南アフリカのムベキ大統領とムガベ大統領が話し合いを始めるというような記事があったので気になったのだが。

それから同じくここまでの途中で通ったスーパーにはビールを買う人でごったがえしていたスーパーがあった。瓶ビールを一人何本も持って買い占めている人が数十人。いくらするのかとスーパーをのぞいたがすでに商品はなかった。

それにしても新聞が500ジンバブエドル(約150円)、パンが500ジンバブエドルなんて高すぎる。みんなどうやって生活しているのか不思議だ。いくら金持ちの人でもこのハイパーインフレはここ数年続いているのだから超大金持ち(外貨持ち)でもなければ、そんなに余裕はないはず。もしかしてぼくの両替レートは外国人向けでジンバブエ人同士では1米ドル=500ジンバブエドルくらいでやりとりしているんじゃないかとも推測してしまう。

一方で市場にはきちんと商品がある。地方では飢餓に陥る危険性もあるという報道があったが、市場を見ただけではそんなことが起こっているとは思えないくらい野菜などは豊富だった。

14時前に宿に戻り、宿の庭のベンチでしばらくすごす。なんだか無性に喉が乾いてきて、手持ちの飲み物では足りなくなった。ジンバブエドルもあと少ししかなかったから我慢するつもりだったが、どうしても喉が乾くので近くのショッピングセンターに行く。スパーには瓶入りのサイダー水が売られていて、それは1リットル480ジンバブエドル(約180円)と安かった。炭酸嫌いだし、炭酸水はまずいから普段は飲まないのだが、この際、手持ちのジンバブエドルで買えるのはこれしかないので、炭酸水を購入。店の人に代わりの瓶を置いて行けと言われるが、すぐにペットボトルに入れ替えて持ってくると伝える。

店の近くで炭酸水を飲む。飲んだ後、瓶を見ると水の中にセロハンテープのかけらのようなものが入っていることに気づく。せっかくカネを出して買ったのに水の中にゴミみたいなのが浮いているなんて、ろくでもないな。取り替えようにも一度開けてしまったからどうせ無理だろう。まぁ、炭酸水だし、これで腹を壊すことはなかろうと飲む。

あっと言う間に半分以上飲み干すと、なんだか体が楽になったような感じがした。

残りはペットボトルに詰め替え、瓶を店に返し、宿に戻る。

暗くなる前にと16時過ぎに宿から荷物を受け取り、歩いてロードポートという国際バスのターミナルに向かう。宿から1本道を500mほど歩くだけ。以前は治安が悪かったというこの通りだが、警官や軍人がたまにいるので、少し安心。

無事、ロードポートに着き、あとはベンチに座って出発の時間を待つ。さすがに国際バスのターミナルということで立派な建物があってベンチも屋内。だが、建物の外にもいっぱい人がいた。

ケープタウンで同じ宿だった日本人と交換でもらった馳星周の『虚の王』を読む。現代の渋谷に生きる若者がテーマ。まぁまぁ。

ターミナル内には電光掲示板も案内放送もないので、自分で自分が乗るバスを確認しないといけない。乗り場は1カ所しかないので、確認は楽。19時半頃、そろそろバスの準備ができただろうと思い、乗り場に行ってバスを探すとあった。すでに乗り込んでいる客もいる。

さっそくぼくもリュックを背負って乗り込む。

20時出発予定だったが、20時半頃バスは発車。その後、途中で客を乗せながら行く。

室内の電気が消えるとすぐに眠くなり、眠る。隣には誰も座っていないが、リュックを中に持ち込むよう言われ、それを隣に置いてあるから横にはなれなかった。暖房もなにもついていないが、寒くはない。

Fin

[diary]ハラレのまちをぶらり

ハラレのまちをぶらり

08/09/08(月) 晴れ 日中20℃台後半
[Harare:Zimbabwe]
※レート(ジンバブエドルはZドルと表記)
闇:1米ドル=350新Zドル
銀行:1米ドル=45新Zドル

・宿替えならず
・闇両替
・ルサカ行きバスチケット購入
・ハラレ中心街
・水を探して
・銀行の行列

6時頃起床。小鳥の声が聞こえる。

扇風機も暖房もない部屋だったが、布団をかぶれば気温はちょうどよく、ゆっくり眠れる。

昨日1000ジンバブエドル(約350円)で買った2リットルのペットボトルの水を飲む。やっぱり黴(かび)臭い。高かったのにこれでは念のため買い換えないといけない。

9時くらいまで日記書きをしていて、思い立って宿の人にチェックアウトの時間を聞くと9時半というので、あわてて荷物をまとめチェックアウトする。この宿の左斜め前の宿が、今日はシングルが空くと言っていたからそちらに宿替えするのである。こことそちらとはシングルは同じ値段のため、より施設が整っているそちらの宿に移ろうと思ったのだ。

50mほど歩いてそちらの宿に行き、受付の人にシングルはあるかと聞くと、なんとfullだと言う。昨日は空いていたダブルも同じらしい。受付は昨日とは違う人。昨日シングルが空くと聞いたと伝えても事態が好転するわけがなく、とぼとぼと宿を出る。

しょうがないので、ガイドブックに載っている別の宿に行く。そこも10年前だと10米ドル程度のようだった。300mほど離れたその宿Sable Lodgeに行ってみると、豪邸を改造した宿で水は張られていないけどプール付き。なかなかきれい。受付の女性にシングルはいくらかと尋ねると”Thirty(30)"と言う。これがThirty trillion"なら昨晩泊まった宿と同じ値段。念のため確認してみると単位はなんと"US Dollar"。えっ?と思って再度確認するが、やっぱり30米ドルと言う。んなの泊まれるか!!というわけで、そこもだめ。

近くではもう1軒候補があった。PawPaw Lodgeという宿で一時はアフリカの三大日本人宿と知られ、多くの旅人を沈没させた宿だ。『旅行人』やネット上の情報によれば1泊3米ドル。しかし、ここは泥棒が多く、情報ノートなども昨晩泊まった宿の向かいにあるPalm Rock Villaという宿に移されていた。というわけでセキュリティに不安があるので、ここは直接行くことなく、却下。

結局、元の宿に戻る。受付に行ってもう一晩泊まると言うと"No problem"と言って今朝まで使っていた部屋に通してくれる。だが、この部屋はなんと窓に鍵がなく、鉄格子もないから簡単に侵入できる。今朝これに気づき、これが宿替えの一つの要因でもあったのだが、さすがに気づいてしまうと荷物を置いておくのは不安なので、部屋の変更をお願いする。

最初は、ここしかシングルはないと言っていたが、30秒ほどで33号室に行ってみてと言う。そちらは窓に鉄格子があり、鍵もちゃんとかかる。なので、こちらに荷物を置いてまちに出る。

昨日両替した20米ドルぶんのジンバブエドルは、宿代と水代、ご飯代ですでにほとんどなくなった。よって、両替しなければならない。まちをぶらぶら歩いていれば声をかけられるだろうと思い、とりあえず気になるところを歩いてまわることにする。

まずは宿から近いところにあるFive Ave Shopping Centerへ。ここにはSuperSparというムタレにもあった高級スーパー(カフェを併設)とOKという普通のスーパー、さらに個人商店の八百屋が2軒、酒屋が1軒、中華料理のテイクアウトの店が1軒、さらにブックカフェという文化系イベントをやっている店などがあった。

店のまわりの路上には食パンや生卵、バナナ、テレフォンカード、野菜・果物(トマト、青奈、レモン、リンゴなど)を売っている人たちがいる。

OKスーパーはムタレのそれと同じく、ほとんど商品はなかった。全部合わせても20点ほど。冷蔵庫や冷凍庫はほぼ空っぽ。棚も10本ほどあるうちの1本くらいしか使われていない。一方のSparは、ほとんどの棚に商品がある。これもムタレのそれと同じ。だが、とても買える値段ではない。ペットボトルの水は約4500ジンバブエドルと闇両替のレート(1米ドル=350ジンバブエドル)で換算しても1500円ほどする。アイス1リットルはその2倍ほどの値段。パンなどは500~1000ジンバブエドル。ジンバブエ産のワイン750mlは9万ジンバブエドル。バナナは800Zドル/kg。などなど。日本と同じか物によってははるかに高い。それでもそこそこ客は入っていて、高いペットボトルの水などを買っていく人もいる。が、どの人も買い物かごに入れる商品は10点以下。

個人商店の方が野菜や果物の種類や在庫が多く、値段もちょっと安い。食パン1斤が500ジンバブエドル(約170円)。だが、ペットボトル入りの水は500mlリットルが900ジンバブエドル(約300円)。2リットルは2500ジンバブエドル(約800円)など、飲み物は高い。1泊の宿代と水2リットルがほとんど同じ値段なのに驚く。

それからつらつらと道を歩き、中心部に向かう。車道の両脇に植えられている木々は、わさわさと生い茂っていて、陽にあたると緑がなかなか美しい。あと紫色の花を咲かせている木もあって、これもなかなか美しい。

さすがに首都だけあって、スーツ姿の人が男女とも多い。

一昨日買った新聞にハラレで国際映画祭が開催されているとあったので、その詳しい情報をもらいにインフォメーションに行ってみるが、窓口の人は知らず。

のどが渇いてきたので、町中を歩きながら安い水を探すが、どこも値段はさっきと同じようなもの。水よりもオレンジジュースの方が若干安く2リットルで1700ジンバブエドルというところがあった。

歩いていても場所が悪いのか、両替屋の声がかからないので、これでは宿で両替してもらった方が早いなと思い宿に戻る。途中、昨日水を買ったガソリンスタンド併設の店に行くと、昨日は10本ほどあった2リットルの水はきれいになくなっていた。売れたのかそれとも廃棄されたのか。

その店を出たときにガソリンスタンドのスタッフの男が、両替をもちかけてくる。レートを聞くと1米ドル=250ジンバブエドル。話にならないので断る。

宿に戻って受付で両替をお願いする。昨日と同じように窓口の女性は1人のおじさんを呼び、その人に両替を頼む。今日も昨日と同じように"How much your rate?"と聞かれる。昨日は1米ドル=300ジンバブエドルだったのだが、ムタレの宿の人の話では月曜になるとレートが上がると言っていた。しかも今回は50米ドルぶん両替するので、400と行きたかったがさすがにそれは無理そうだったので350でお願いする。おじさんはすぐ戻ってくるからと宿を出ていく。

宿の前で瓶入りのジュース300mlを売っていたので買う。1本600ジンバブエドルのところを500ジンバブエドルにしてもらう。それでも200円近く。ガーナでは同じ物が30円くらいだったのに。

20分ほどでおじさんが戻ってくる。受付のおばさんにおじさんはお金を渡し、受付のおばさんが確認した後にぼくに回ってくる。札を数えてみると言い値で両替できていた。

やっとお金が手元に入ったので、まずはバスのチケットを買いに行く。宿の横のFifth streetをまっすぐ歩いてRoad portという国際バスの発着ターミナルに行く。この周りで数人両替を誘って来る人あり。しかし、警官も数人あり。

ザンビアの首都ルサカに行くバスのチケットを買う。昨日、聞いたときは午後2時発で5000ジンバブエドルと言っていたのに、今日聞くと夜の8時発で8000ジンバブエドルという。おかしいなと思いつつも見る限り、ルサカに行くバスを出しているのは1社しかないので、8000ジンバブエドル(約2300円)を払う。このとき最初に明日ルサカに行くと言っているのに、今日の乗客名簿にぼくの名前を書くので、わざわざそれを指摘し、明日の名簿を新しく用意してもらい、そこに書き込むのを確認。今日でも空きがあったようなので、宿代を払う前だったら今日出発でも良かったのだが、タイミングが悪かった。

それからまた市街地に行く。さすがに一時はその経済的な成功がアフリカの模範とされた国の首都だけあって、市街地はよく整備されている。内戦があったとはいえモザンビークとは比較にならないくらい。ガーナのアクラよりも都市的。

East Gateという珍しい様式のごついショッピングセンターがあり、その中のファストフード店にはそこそこ客が入っている。一番安くてサザ料理が1500ジンバブエドルほど。

また高層ビルが10棟以上立ち並び、ヨーロッパ風の古い建築もきれいに残され、現在も使われている。

通りにはスーパーが何軒もあり、ファストフード店も目に付く。First Streetは歩行者天国になっており、そこに化粧品店や洋服屋、デパートなどが集まっている。ファーストストリートを中心に半径200~300mほどが中心市街で、そこにギュッと店が集まっている。

スーパーはいわゆるチェーン店には物がない。が、個人商店にはそこそこある。ケンタッキーもあったが、中は厨房もふくめがらがら。ほとんど開店休業状態。食事ができる露店はない。道を歩きながら物を売っている人は多い。売っているのは飴玉、ジュース、新聞、バナナなど。

銀行のATMには行列ができており、ところによっては100人以上が並んでいるところもある。

ストリートチルドレンが10人ほど、ホームレスの男性が3~5人。経済危機下の首都としては少ないように感じる。

絵はがきを探してまわるが、7軒ほどの本屋をまわってあったのが2軒だけでどちらもあまりよくないものばかり。が、選択肢がないので適当に購入。1枚100ジンバブエドル(約30円)。郵便局で買った日本までの切手はなんとはがき代の7倍の700ジンバブエドル(約200円)だった。銀行のレートで言えば1500円ほどもする。

飲み物を探して歩くがなかなか昨日の水のように2リットル1000ジンバブエドルというのがない。すでに3時間ほど歩いていたので、オレンジジュース2リットル1500ジンバブエドル(約450円)を見つけたときにそれを購入。

また、昼も過ぎたので朝飯と兼ねて食事をする。いわゆるファストフード店では1000ジンバブエドルを下ることはないが、個人商店的ファストフード店だとサザ料理が500~800ジンバブエドルほどだった。具によって値段が違っており、肉が入るのはたいて700ジンバブエドル以上。サザ&ビーンズやサザ&ベジタブルが500ジンバブエドル程度。

ぼくは500ジンバブエドルのサザ&ビーンズを食べる。例のごとくみな手づかみで食べるのだが、これまた例のごとくサザは手でつかむには熱すぎる。みな平気な顔をして手でつかんでいるのだが、ぼくにはとても握れない。店の人にフォークを頼むが、ないと一掃され、しょうがないので冷ましながら手づかみで食べることに。

前の人がちょっとだけ食べ残したのを発見したストリートチルドレンの男の子が店の中に入ってきて、その残りを手でつかみ、口に放り込む。レジの女性がオッォオーと注意するが、あまり咎めるような口調ではない。その男の子は数分後、水をもらいに店に来て、水を飲んで行ったからすでになじみの"客”なのだろう。

食事後、またぶらぶら見て回る。首都だけあって人通りは多く、みなの服装もきれい。白人やアジア系、アラブ系の人は道を歩く人の中にはほとんどみない。アラブ系やインド系の人は商店を持っていて、そこに行くといたりする。

中国系の人がけっこう住んでいると聞いていたのだが、中国語の看板は見なかった。

ネット屋は10分150ジンバブエドルというところが多い。20分で100円なんて日本並だ。しかし、不思議なことにこれがけっこう繁盛していて、席はだいたい埋まっている。

16時近くまで歩き、その後、宿に戻る。もう一度ファイブアヴェニューのショッピングセンターに行き、水の値段を確認。やっぱり買える値段ではなかった。道ばたで野菜を売っていたおばちゃんからレモンを買う。レモンが1個50ジンバブエドル(約15円)。トマトを売っていたので、それを買おうかとも迷ったが、ちょっと熟しすぎているようだったので敬遠した。

宿に戻って買ってきたレモン4個を絞ってレモンジュースを作る。これに蜂蜜があれば完璧なのだけどなぁ、と昨日ハラレに来る途中の道で売っていた蜂蜜を思い出す。

新しく移った部屋は黴臭くもなくてなかなかいいのだが、なんとコンセントがあるのに使えなかった。がっくり。廊下でしばらく充電。

その後、部屋で今後のルートについて考える。ザンビアから鉄道に乗って一気にタンザニアに行くか、ザンビアからクロコダイルのステーキやカバを食べにマラウイに行ってからタンザニアに行くか迷う。マラウイはビザ代がかからないのが魅力なのだが、『ロンプラ』を見ていると国境越えがけっこう乗り継ぎをしないとだめでめんどくさそう。そのぶんカネもかかりそう。迷う。

明日は長距離夜行バスに乗ることもあり、夜食はなし。

寝る。

Fin

[diary]ムタレからハラレへ移動

ムタレからハラレへ移動

08/09/07(日) 晴れ:日中20℃台後半

[Mutare→Harare:Zimbabwe]
※レート(ジンバブエドルはZドルと表記)
闇:1米ドル=230新Zドル(旧では2.3trillion)
銀行:1米ドル=42.7新Zドル

・同室のおじさんのはなし
・ハラレへ行くバスの中で
・ハラレ着

6時過ぎに起床。7時前には同じ部屋の他の2人も目を覚ます。

荷造りしているときにもう一人の日本人とジンバブエ人とがしゃべっていたのは、ジンバブエ人の身の上話。彼はハラレに近いあるまちで生まれ育ち、彼の両親は今でもそこに住んでいるという。しかし、年を取ったために何もできず、彼がいろいろと面倒を見ているらしい。しかし、その彼は目の病気を患っているらしく、医者には治療せずにこのまま放置していれば失明するだろうと言われているという。経済危機以前は国から治療費が支給されていたが、その治療費は国際赤十字など外国からの支援でまかなわれていたため、ムガベ大統領が他国からの支援を断って以後、今も治療費はもらっていないらしい。民間の医者にかかって治療する手もあるが、治療に使う道具(特殊な眼球用のガラスなど)を買うためには相当な米ドルが必要らしく、とても払えないとのことだった。いつもはハッピーなのだが、ふと目のことを考えると落ち込むのだと彼は言う。そして、この経済危機はProblemだと言う。

日本人の彼が、経済危機だと言うけれど、まちなかのファストフード店にはけっこう人が入っていた。とても高い(500円以上する)のに、なぜ買えるのだ? と聞いたところ、彼はあれはジンバブエ人じゃなく、ナイジェリアやコンゴ、モザンビークから来た人たちで、それもこの近くにあるダイアモンド鉱山で働いている人たちだからカネを持っているのだと説明する。また中国人もこの辺りには住んでいて、彼らもしばしばファストフード店を使っているという。

宿代をエマに払う。1泊5米ドルを2泊分。

7時半に宿をでる。歩いてバス乗り場まで行く。20分ほどで到着。朝だからということなのか、昨日闇で買った物と同じ砂糖を道ばたで売っている人を何人か見る。

バス乗り場に行くと何台かマイクロバスが止まっていた。歩いていくと運転手らしき人が声をかけてきて、どこに行くのだと聞いてくる。ハラレに行くと伝えると、バスを案内してくれる。日産のマイクロバスで見た目はわりと新しい。

大きな荷物を持っている人はあまり乗せないのか、屋根の上などに荷台はない。リュックはどこに置くのだろうと思っていたら、助手席を案内され、そこに荷物と一緒に座るように言われる。

荷物を置いた後、車外でしばらく待つ。バス乗り場には物売りの人がいたので、朝飯代わりにパンを買う。300ジンバブエドル(約120円)。

パンをかじりながら外で待っていたら若い細身の男がぼくを見つけ、珍しいものに巡り会って嬉しいというような笑顔で寄ってくる。どこから来たのかというので、日本からと言うと中国人より日本人の方が好きだというようなことを言う。理由はよくわからないが、ムガベ政府を中国が支援しているからかもしれない。

パンをかじりながら彼と話していたのだが、彼がそのパンはいくらしたのかと聞いてくる。300ジンバブエドルと言うと、ふ~んという反応。パンをかけらあげる。

するとそれに味を占めたのかタバコを1本買ってくれと言い出す。試しに買ってやるとタバコ1本(1箱ではない)が20ジンバブエドルだった。

1時間近く待ったところでバスが発車しそうだったので、バスに乗り込む。だが、この移動は乗り場内での位置を変えるだけのものだった。20mくらいずれたところでまた止まる。

結局バスが出たのは10時半前。何も早く宿を出てくる必要はなかった。例のごとくまずガソリンスタンドに行き、給油する。それから本格的に走り出す。

登りの坂道は時速10km程度。やっぱり馬力がない。30分ほど走ったら警察の検問があり、10分ほど停車。モザンビークのように乗客が特に調べられるということはなかった。検問のところには、止められる車を狙ってオレンジやバナナを売る人たちが2~3人いた。少年からオレンジを1個買う。20ジンバブエドル(約10円)。

山がちな道をバスは走る。道は舗装された道。曲がりくねりも少ない。こちらも冬枯れ(乾季枯れ)の景色で、山の木々はほとんどが葉を落としている。予想していたよりも沿道に集落は少なく、ほんのたまにしか人が集まって住んでいるところは見ない。広大な畑も見ることがない。乾季で作物を作っていないのか、それとも例の土地改革の影響で放置されたままになっているため草原になってしまったのか?

焼き畑のためか斜面が焼かれて黒くなっているところはしばしば見る。実際に火がもうもうと燃え上がっているところもあった。

たまに見る民家は円形の土壁と藁葺き屋根のものが多い。トタン屋根などはあまり見ない。そうした集落前を通るときには炭を売っているのをしばしば見る。その他、交差点やその地域のバス乗り場になっているところでは野菜や果物を売っているのをしばしば見る。果物ではりんごをよく売っているのだが、りんごがジンバブエで取れるとは思えない。たぶん南アフリカからの輸入品だろう。沿道で見たのは他にじゃがいも、蜂蜜。

警察による検問は多かった。ハラレまで5~6回はあった。

ぼくの右となりに座った男は、このバスの持ち主らしく運転手や客引き担当の男にたまにあれこれと指示をしている。彼はぼくにどこから来たのだと聞いてくる。日本からだというと、このバスは日本の中古車だと教えてくれる。いくらしたのかと聞いたところ10000米ドルもしたという。ぼくは10万円(1000米ドル)くらいかと予想していたので、けっこう高いのには驚いた。また、彼がそれだけのカネを調達できたということにも驚く。

空は晴れているが、それほど暑くはない。

ハラレまでは4時間程度と聞いていたが、4時間たってもハラレは見えてこない。モザンビークではわりとよく見た主要なまちまでの距離を書いた看板もほとんど見ないので、あとどれくらいかかるのかもわからない。

2カ所ほどで大規模なビニールハウス施設を見る。中で何を作っているかは見えず。

また、ハラレに近いあるまちには沿道にゴルフ場があり、そこでゴルフをしている男たちを見る。

結局、ハラレには3時半ごろ到着。ムタレから5時間ほどかかった。バスの運転手に言ってロードポートという国際バスのターミナル近くで降ろしてもらう。

降ろしてもらったところはロードポートがある通りの1本南の通りで人気がなかったのだが、歩いていた男の人にロードポートの場所を聞くと、同じ方向だからと案内してくれた。

ロードポートのまわりには人がぎょうさんいた。敷地を囲っている柵の外側に座り込んでいる人も多く、何をしているのかと不思議に思う。タクシーも20台くらいあたりに止まっていて、さっそく声をかけてくる。

まずはロードポートでザンビアのルサカ行きのバスをチェック。バスは毎日あるという。運賃を尋ねると手持ちのジンバブエドルでは足りなかったので、明日にでもまた来ることにして宿探しに移る。

予定していた宿までは地図を見る限りでは、1本道を歩いていけば着くところにあり、距離も1kmもないくらいだった。だが、その1本道では過去しばしば日本人旅行者が物盗りに遭っているらしいことをネットで調べて知っていた。選挙が終わったとは言え、いまいちハラレの状況がわからないので、逡巡したあげく、タクシーを使うことにする。

運賃は1000ジンバブエドル(約400円)。めちゃくちゃ高いのだが、宿探しで歩いているうちに日が暮れると面倒だし、タクシーも仕事がなかろうと思い、気のよさそうな運転手を選び乗る。

乗ってからその運転手にハラレは危険だと聞いたが本当かと尋ねてみると、今はそうでもないとのこと。選挙が終わったので一時よりは落ち着いているし、ヴァイオレンスは郊外で起こっており、まちなかではあまりないとのこと。

宿には10分くらいで着いたが、おじさんは着いてからもジンバブエの現状をずっとしゃべっていた。

さて、日本人がしばしば泊まるという予定していた宿に行ってみるとまったく予定外のことが起こっていた。外国人が一律米ドル払いになっているのは許せるとしても、その値段が一番安くて15米ドルになっているのには驚く。ムタレの宿は5米ドルだったのに。

受付の人に安いところはないかと聞くと、隣に行って見ろと言われる。隣の宿に行き、受付に張られていた料金表を見るとシングルが1泊3000ジンバブエドルだった。ここはジンバブエドル払い。まだ新しい宿で台所もトイレもきれい。だが、そのシングルは満室。3500ジンバブエドルのダブルしかないという。ちょっとでも安く済ませたかったので、またこの宿の人に安いところはないかと聞くと、斜め向かいのところに行って見ろと言われる。

言われた宿に行ってみるとシングルが1泊3000ジンバブエドルでしかも空きがあった。ここに決める。ジンバブエドルがもうなくなっていたので明日両替して払うと受付の女性に言ったところ、両替してあげるからいくら両替したいのだと聞いてくる。なので20米ドル札を出して両替を頼む。彼女はホテルの玄関の方にいた男性を呼び、20米ドル札を彼に渡して両替してくるよう頼む。彼はぼくにあなたのレートはいくらかと尋ねてくる。タクシーの運転手に聞いたとき今は1米ドルが300ジンバブエドルと言っていたので、ちょっとかまをかけて1米ドル=400ジンバブエドルと言う。すると顔をしかめ、今は300ジンバブエドルだというので、それで損はないかと思い、頼む。

彼はそこで待っておけと言ってからホテルを出ていった。10分くらいで戻ってくるかと思っていたのだが、結局30分以上待つことになった。戻ってきた彼からカネを受け取ると確かに1米ドル=300ジンバブエドルで両替されている。ムタレでは1米ドル=230ジンバブエドルだったからだいぶ良い。

部屋に荷物を置いた後で、腹が減ったので飯を食いにいく。ムタレ同様、屋台などはまったくないので、適当にふらつきながら探す。宿近くの道ばたでオレンジを売っている女性がいたので、その人に飯が食えるところはないか尋ねるとそこの角にあるからと教えてくれる。

その店にはテレビでサッカーを観戦している客が多数いた。店の人に何か食べたいのだがと言うと、魚などがついた定食のようなものが1000ジンバブエドル(約330円)だと言われる。高いけど首都だし、レストランだからしょうがないかと思い、それを頼む。

すぐに料理は出てくる。魚を一匹あげたものとトマト味のスープ、サラダと白米。米はタイ米のよう。魚は泥臭い。スープの味はいい。米も炊き加減はちょうどいいし、量も多い。

腹が膨れたところで飲み物がほしくなったので、飲み物を探しに歩く。まちの中心部に行けばスーパーでもあるかと思ったが、日曜ということでか店はほとんど開いていない。加えて歩いている人もほとんどいない。ファストフード店は開いていたが、水はなかった。

それからガソリンスタンドに併設されていたコンビニに行く。そこで2リットルの水を発見。値段は1000ジンバブエドル(約330円)。他の国なら100~200円で買えるのでやっぱり高い。が、ジュースはもっと高いし、他に選択肢はないのでそれで手を打つ。

道路を挟んでガソリンスタンドの向かいにはHoliday Innという豪華なホテルがあり、その前の通りにはきれい整備された芝生があった。そこに一人の男の子がいて、通りがかりの若い女性2人に唾を垂らそうとしたりして嫌がらせをしている。服は伸びきってぼろぼろ、靴もスリッパも履いていない。格好からストリートチルドレンであろう事がわかる。

暗くなってきたので宿に戻る。歩いていたら向かいから来た女性が"Hello"と挨拶をしてくる。彼女の背にはまだ1歳くらいの子どもがいた。Helloと応えると、彼女は続けてか細い声でなにやら言う。声が小さかったのでなんと言ったのかわからず、聞き返すと彼女は”Help me・・・”と言う。語尾は弱々しくて聞き取れず。

身なりはわりときれいだったので、そんなことを言うとは思わずちょっと驚く。財布から買い物ではほとんど使えない少額のお札を取り出し彼女に渡すと、丁寧に受け取り礼を言った。

宿に戻ってからは部屋で過ごす。暑くもなく寒くもなく、蚊もいない。シャワーを浴びようと思ったら、ポトポトとしか水が出ないので諦める。便所はうまく流れていない。

Fin

[diary]ムタレでのんびり

ムタレでのんびり

08/09/06(土) 晴れ
[Mutare:Zimbabwe]
※レート(ジンバブエドルはZドルと表記)
闇:1米ドル=230新Zドル
銀行:1米ドル=42.7新Zドル

・砂糖を買いに

今日は休息日。当初の予定ではムタレに1泊だけしてハラレに向かう予定だったが、宿代が5米ドルと安かったので今日も泊まることにした。

11時頃まで部屋で過ごし、朝食も兼ねた昼飯を食いに外に出る。宿を出る前に宿主のエマに昨日なくなったと言っていた砂糖をまだ買っていないのか尋ねると、まだ買っていなかったようなので、砂糖をプレゼントすることにする。ついでにパンもないというので、パンも買うことにする。どこで買ったらいいかと尋ねると道ばたのブラックマーケットでと言われる。

今日もなかなかさわやかな天気。

今日もトヨタムタレのショールーム前には隣の銀行からカネを降ろそうとする人が長蛇の列を作っている。

土曜日ということで昨日よりも閉店している店が多い。

道ばたで飯を食える露店がないので、昨日も行った食堂まで行く。その食堂近くにもう1軒、おおぜい人が入っている食堂があったので、今回はそっちで食事。サザ&ビーフを頼む。500ジンバブエドル。みな手づかみで食べているのだが、熱くてとても握れず。店の人に頼みフォークをもらう。口の中で何度もハフハフさせながら食べないといけないくらい熱いのに、周りの人を見ているとあまり熱がっているふうはない。食べ終わる頃には汗がじっとりと出る。

それからハラレ行きのバスを確認しに、バスターミナルに行く。ここのバスターミナルもちょっとしたロータリーがあるだけの小さな駐車場。そこには物売りの人たちもいて、パンなどを売っていた少年からパンを1斤買う。500ジンバブエドル。

スーパーなどのパンコーナーにはやはりパンを求めて人々が行列を作っている。スーパーで売っている砂糖の値段がどの程度なのか見たかったのだが、砂糖を売っていない。お茶のティーバッグなどはなるのだが、砂糖がない。

道ばたで野菜を売っている人たちをまわっても砂糖を持っている人がいないので、野菜を売っているおばちゃんにどこで砂糖が買えるか英語で聞くと、ここと同じような小さな野菜のマーケットがこの先にあるからそこで聞いてみろと言われる。

なのでてくてく歩き、昨日野菜を買った小さな路上マーケットで砂糖がほしいのだがと言うと、その野菜屋の女性は大きな声で誰かの名前を呼ぶ。するとマーケットの端の方でおしゃべりしていたいい体格をした女性がやってくる。彼女に砂糖がほしいのだがというと何袋いるのかと聞かれる。1袋と言うと、道の端の布の下から砂糖を取り出してくる。が、それは袋の一部が破れもれており、おばさんは自ら別の袋を取りに車が止まっている駐車場の方に駆けていった。

すぐにおばさんは戻ってきて砂糖を1袋ぼくに手渡す。袋を見ると2kgとある。値段を聞くと700ジンバブエドル(約300円)。確かに高い。モザンビーク産なのかと尋ねるとジンバブエ産だという。高いからまけてもらえないか聞くと650ジンバブエドルにまけてくれる。それで手打ち。

砂糖とパンを持って宿に戻る。宿では女の子たちが洗濯をしていた。

砂糖とパンを宿主に渡すと"Thank you very much"と言って笑顔で受け取る。

それからエマにどこで両替できるかと聞くと、両替が必要なら息子のタイロン(息子の名前)に頼んでしてもらうがどうだと尋ねてくる。両替しているのを警察に見つかると面倒らしいので、エマの提案に乗る。タイロンに20米ドルの札を渡し、レートを聞くと1米ドル=230ジンバブエドルだと言う。

彼は家を出て、どこかに両替しに行く。20分ほどしてから戻ってくる。手数料は取られず。

1米ドル=230ジンバブエドルということがわかり、あれこれの実際の物価がどの程度かがだいたいわかった。新聞が100円ちょっと。パンが1斤200円以上。バナナが10本で200円近く。砂糖が2kg300円ほど。食堂のサザ料理が200円程度。

闇レートで言えば、日本と同じ程度の物価だろう。しかし、給料は日本並ではないからこれはけっこうつらい。だいたいパンが1斤100円以上もする国などそうはない。南アフリカよりも高い。バナナもモザンビークでは10本程度なら50円以下で買えた。これは相当だ。

エマに聞くと以前はパン1斤が25ジンバブエドルだったらしい。『旅行人ノート② アフリカ 改訂版』は1999年の情報だが、それによると1999年11月のレートが1米ドル=約37ジンバブエドル。彼女の話が10年前とすれば確かに当時は1ドル以下でパンが買えたことになる。それが今や2倍近くになっているからこれはなかなか大変だ。給料が10年で2倍になれば問題ないだろうが、そんなことはありえない。

リビングの机で今後のルートを考えるべくガイドブックを見ていると娘の●●(名前を忘れた)が、さっきプレゼントしたパンを切ってバターを塗ったのを持ってきてくれる。腹はけっこうふくれていたのだが、ありがたくいただく。

その後、部屋で休息。

うとうとしていると、ドアをノックする音が聞こえ、出てみると新たな日本人客がエマと一緒にいた。彼もこの部屋に泊まることになる。

聞くと彼は中国から途中パキスタン、イランは飛んでほぼ陸路でここまで来たらしい。アフリカはエジプトからスーダン(ビザ代100米ドル!)を通ってエチオピア、その後ずっと南下し、今日はモザンビークのシモイオから来たと言う。シモイオではぼくと同じくピンクパパイヤに泊まったらしく、そこの宿泊者名簿を見て、ぼくにここで会うかもしれないと思っていたらしい。

しばらく彼と話す。彼の話ではジンバブエ側でモザンビークの通貨メディカシュを両替したところ、ドルよりも良かったとのこと。ぼくはピンクパパイヤのスタッフに言われたとおりモザンビーク側で両替してしまったのだが、それだとジンバブエ側の半額くらいだった。具体的には100メディカシュ(約4米ドル)ぶんが1200ジンバブエドル(この日の闇レートで約5.5米ドル)程度になったらしい。ぼくの場合は250メディカシュ(約10米ドル)が1000ジンバブエドルだったから大幅に損している。やれやれ。

夕方、お湯をもらいに台所に行ったところ、エマがサザをご馳走してくれるというのでいただく。まぁ、砂糖とパンと野菜とを差し入れしたようなもんだからいいだろう。

今晩の食事は豪勢で、サザに豆の煮込んだものと青葉の炒め物、それにソーセージが一本添えられていた。家族や他の宿泊客もそれを食べる。テーブルに一同に会して食べるという形式ではなく、みんなバラバラ。台所で立ち食いしている人もいれば庭の椅子に座って、あるいはテレビの部屋でという具合。豆はやはり塩気が濃い。遠慮してサザは少なくしてもらったが、豆の塩気がきつくこれではとても足りなかった。

その後は宿にいる。部屋で彼と旅話など。うまかったものの話を聞くとバングラディシュのなんとか市場で食べるなんとかというデザートが抜群にうまかったらしい。日本で言うと高級レアチーズのような味のもので、毎日食べていたという。あと悪名高いエチオピアの主食インジェラも彼は好きだという。

同じ部屋にもう一人客が増える。ジンバブエ人の男性で30代くらい? 地方を回ってジャガイモを買い集め、それを売る仕事をしているらしい。

他にも客は白人夫婦とジンバブエ人らしき女性がいて、けっこう繁盛している。この間みた宿泊客名簿はやっぱり適当なのかもしれない。

Fin

[diary]ジンバブエ入国、ムタレのまち

ジンバブエ入国、ムタレのまち

08/09/05(金) 晴 日中28℃くらい
[Chimoio:Mozambique→Mutare:Zimbabwe]

・ジンバブエ入国
・ジンバブエの物価

シモイオの宿Pink Papaya。
日が昇ってから目が覚める。時間は6時過ぎ。夜は布団をかぶっていないと寒かったが、朝は半袖でも大丈夫。ベッドを覆っている蚊帳をくぐって、ベッドから出る。2段ベッドが3つあるこの部屋には、今朝はぼく一人。宿泊客自体は他にイングランド人カップルがいるだけ。

台所に行って電気ポットのスイッチを入れる。アフリカやアメリカ大陸で使われている電気ポットは日本で一般的なものとは違って、蜷局(とぐろ)を巻いた金属の棒がポットの水を溜める空洞の中心あたりに固定されており、それを電気で加熱することで棒の周りの水を沸かす仕組みになっている。効率が悪そうなのだが、これが意外と早く沸く。

無料のティーバッグを一つ、コップの中に入れ、朝の一杯。

さて、ジンバブエ行きの準備をしないといけない。部屋の中は暗いので、バルコニーのテーブルを使って宿においてあったガイドブックから今日行くムタレの市内地図を書き写す。その地図に宿をいくつか書き込み、またこの宿にあった情報ノート(英語・ドイツ語)から宿情報をもらう。宿主の話ではジンバブエの宿はこの経済危機で観光客が減り、閉鎖している宿も多いとのことだった。情報ノートにあったのは今年5月時点での宿情報だから使える。ただ、その宿は正式な宿ではなく、無認可の宿とあるのが、気になるところ。

それから荷造りをする。

8時になって、ここで雇われている若い男性が出勤。彼が国境の情報などを持っているというので、待っていた。彼に聞くとここから国境までは、鉄道駅前のバス乗り場からバスに乗れ、運賃は65メティで、所要時間は最大2時間。ジンバブエの通貨への両替は国境でできるが、モザンビーク側でやるべき。ジンバブエ側は銀行で両替できるがレートが非常に悪い。モザンビーク側に闇両替(と言ってもみんな札束を握ってあからさまにやっているが)があるからそこで両替すると良いとのことだった。

宿の2泊ぶんの代金540メティ(1泊270メティ=約1200円:ドミ)を払い、ドイツはフライブルク出身の宿主と彼にさよならを告げ、宿を出る。

昨日は朝から雨だったが、今日はうって変わっての快晴。荷物を背負ってなければ涼しいくらいなのだが、歩いているとすぐに汗が出ている。まぁ、冬用の長袖シャツを上に着ていることもあるけど。

8時半頃。
10分程度歩いてバス乗り場に到着。バス乗り場と言っても車道の脇とか小さなロータリーのまわりにバス(大型ワゴンとマイクロバス)が停まっているだけで、どれがどこ行きのバスかはよくわからない。歩いていると声をかけられたので、彼に国境のマチパンダに行きたいとポルトガル語で言ったらバスを案内してくれた。

すでに半分以上座席が埋まっていたので出発は早そう。リュックは屋根の上にあげてもらう。

ジンバブエでは食糧難も起きつつあるとニュースで見たので、待っている間にバナナを2kgぶんほどとペットボトルの水500mlを買う。バナナも水もそれぞれ15メティ(約70円)。水は5リットルの大きいのを買おうかとも考えたのだが、宿探しの時邪魔になりそうなので、当面必要なぶんだけ購入。

9時前。
座席が埋まったところでバスは発車。マイクロバスだからワゴンのように窮屈ではない。快適だ。日本語の文字は書かれていないが、これもおそらく日本からの中古車。

バスは運転手と客ひき&集金担当の二人体制。

中心部を出ると軍の施設があって、塀際には独立戦争時にでも使ったのか、本物の古い戦車が置かれていた。

看板には国境のマチパンダまで83kmとある。

バスは途中で乗客を降ろしながら、乗せながら走る。道路は舗装された片道1車線の道。沿道には集落が並ぶ。

集落の家々は、基本的に土壁あるいはコンクリート壁に藁葺き屋根。トタンはあまり普及していない。感覚的には1割程度。ある集落では、家の敷地の周りに背丈の低い樹木を植え、生け垣を作っていた。

左にも右にも山並みが見える。標高は1000m程度だろうか。景色を見ていてなんだかしっくりくるのは日本と同じように山が近いからかもしれない。ただ、山も平原の草木も冬枯れ(乾季枯れ?)していて、葉を落としているのがほとんど。日本でいえば冬景色のよう。

走り出して30分ほどすると警察の検問。警官が一人乗り込んできて乗客に身分証明書の提示を求めてくる。パスポートを出すと中は確認せず、持っているのを確認したのみ。この後、国境まで同じような検問が3度ほどある。

走り出してから客ひき&集金担当の男性が運賃を集め始める。ここで65メティ払う。集金は男性が車内を移動しながら行うのではなく、客の手渡しで彼に届けるスタイル。アフリカではこのスタイルが多い。

燃料として使うのだろう、2mくらいある木々(直径15cmくらいの丸太含む)を頭に乗せて歩く女性たちを見る。たいていどこでもそうだが、この薪運びは女性や少女、子どもたちがやっている。中南米ではロバや馬による馬車が荷運びに使われていたが、そうしたものを見る機会がアフリカでは非常に少ない。国境までの2時間で見た荷運びの道具は、牛車が2台ほどとトラクター2台のみ。馬車はない。人力車も見ない。自転車は少ないけれど使われているから車輪は手に入ると思うのだが、荷車を使う文化がないのか、車輪自体を買うのが大変なのか、荷車をあまり見ない。例えば集落や近所の数軒で1台でも2台でも荷車を所有すれば、水運びや薪運びはずいぶん楽になると思うのだが。ただここは急ではないけど起伏がそれなりにあるから、その点は大量に運ぼうとすれば頭で運ぶより面倒になるかもしれない。

沿道には植林されているところもあり、木を切り倒した後なのだろう、切り株の周りで一休みしている男たちを見る。

いくつか市が出ていてにぎやかな集落の前を通り、1時間半ほどでManicaというまちに着く。ここは国境へ行く道とモザンビークの北部に行く道が交差する場所。そのためかシモイオよりも活気がある。道ばたに露店が並び大勢の人が売り買いしている。

バスがその露店街というかただの道ばたのバス乗り場に停車すると、客のほとんどが降りてしまう。バスには札束を持った男たちが数人近寄ってきて、ジンバブエのお金に両替しないかと声をかけてくる。

ぼくの左隣に座っていた男性が一人の両替商の男性に英語でレートを聞くが、両替はせず。彼に今のジンバブエドルのレートを聞いてみると、彼は今のレートはわからないという。とりあえず国境で両替するというので、ぼくもここで両替はせずに国境まで待つことにする。

国境ももうすぐという頃になって、なぜか集金担当の男性が声をかけてきて、屋根の上を指さし、荷物代を請求してくる。運賃を回収したときにその請求がなかったから、てっきりないものだと思っていたのだが、今頃やってきた。荷物代は20メティ(約80円)。

そこからさらに30分ほど、客を乗せたり降ろしたりしながらバスは走る。徐々に平野が少なくなり、山がより近くなる。

マチパンダに入る。道路がやや高いところにあるから、周りを見渡すことができるのだが、見渡したところ家が200~300軒ある。予想していたよりもここらに暮らしている人は多そう。

11時頃。
やがて前方にトラックの行列が見え、国境がすぐそこだとわかる。

バスは道路脇の駐車場に停まる。バスを降りるとさっそく両替商のおじさんが寄ってくる。それからムタレまでタクシーで行かないかと言ってくるおじさんもあり。

リュックを受け取ってから、そこで両替する。まずは10米ドルぶんの250メティを両替すると1000ジンバブエドルになる。2日前にネットでレートを調べたときは1米ドル=42.72ジンバブエドルだった。だから500ジンバブエドルもらえればいいかと予想していたが、どうもネットに載っていたのは公定レートだったよう。ただ、このレートがいいのか悪いのかはわからない。ただ、このおじさんは両替商に多い偉そうな態度でもなかったので、ここでモザンビークのお金はすべて両替することにする。

さらに600メティほど両替して3000ちょっとのジンバブエドルになる。

両脇に停まっているトラックの行列の間を歩き、国境まで行く。警備はわりとゆるい。

まずはモザンビーク側で出国手続き。建物内のイミグレの窓口でパスポートを出すと質問も何もなく、出国スタンプを押してくれる。建物を出た後にもう一度チェックがあり、若い男性の係官にパスポートを見せる。すると彼は、「ジャポン」と言って出国スタンプを確認。それから日本は英語なのかと同僚の男性に尋ね、彼が日本語だと答えると、ぼくに人差し指を立てて見せ、これは日本語で何というのだと英語で聞いてくる。1(いち)と言うか、指と言うか迷うが、指だと教える。それを聞くと彼は「ユビ?」と聞き返し、今度は自分の頭を指さしヘッドはなんと言うのかと聞いてくるので「あたま」と教える。彼は同僚らに「ムイト ディファレンテ(ポルトガル語・英語とぜんぜん違う)」と笑顔で言う。

それでチェックは終了。手を振って彼とお別れ。

それから小さな橋を渡り200mほど歩くとジンバブエ側の入国手続きをする建物がある。ジンバブエに入る人、ジンバブエから出る人は多いが、白人、アジア人は見ない。

イミグレの入っている建物内に入ると壁に通貨レートを示す電光掲示板があった。1米ドルは42.7ジンバブエドル。

窓口でビザの申請書をもらい、それを記入する。記入しているとおじさんが寄ってきて手伝おうかと申し出てくれる。2カ所ほど尋ねる。彼は未記入の部分を代筆してくれようとするが、その中には持ち金の申告部分もあったので、それは断りおじさんが去ってから自分で書き込む。

パスポートと申請書を持って窓口に提出。するとビザ代を請求されるが、このときThirty米ドルをTwenty米ドルと聞き間違える。財布に30米ドルちょうどの札はあったのだが、50米ドル札を崩したかったので50米ドル札を出すと窓口の女性は渋い顔をして、引き出しを探した後、周り人に小さな米ドル札がないか聞いてまわる。結局、釣りがないと言われ、外に銀行があるからそこで両替するように言われる。

それで銀行の窓口に言ったものの小さいのはないと言われる。

しょうがないので虎の子の20米ドル札と10米ドル札を使うことにする。さっきは窓口に並んでいる人は少なかったのだが、いつの間にか10人近く並んでいた。さっきの女性がいないため彼女が現れるのを待つ。

隣の窓口で男性が入国手続きをしているのだが、割り込みする男多し。女性はけっこう並んで自分の順番を待っているのだが、並んでいる横から窓口の男性にパスポートを差し出す者がいて、また窓口の人もそれを受け取るから不思議なものだ。並んでいる人からすればいらいらする。実際、文句を言っている女性もいた。ここで白人の5~6人のグループが来る。先頭の女性は15人ぶんくらいのパスポートを持っている。何かのツアーなのだろう。

やっとさっきの女性が窓口に戻ってくる。それで30米ドルを渡すと処理に入る。ビザシールが最後の1枚だったのはラッキー。これでビザシールが切れていたらまた時間がかかるところだった。

特に質問もなく、パスポートを受け取って入国手続きは終了。大きな荷物を持っている人は税関審査を受けていたが、ぼくはそれを横目に颯爽と国境を抜けようとしたところ、服が砂で汚れたおじさんが荷物のチェックを受けないといけないと言ってくる。

それで小さな紙はあるかと言うので、なんのためなのかわからなかったが、さっきパスポートを受け取ったときに挟まれていた紙を見せると、Customとある部分に判子をもらわないといけないと言って、それを渡せば自分がもらってきてやると言う。信頼できるのかわからなかったので、その申し出は断り、自分で荷物のチェックをしている制服を来ている係官にどこでスタンプをもらえるか聞くと、彼は何も言わずにポンとスタンプを押す。

これで抜けられるかと思ったら、さっきのおじさんがやってきて、今度はこれをあそこにいる係官に見せなければならないと言う。それでその係官に見せるとさらさらっとサインをしてくれる。これでやっと抜けられるらしい。

ゲートのところで徒歩入国の人たちをチェックしている女性にこの紙を見せると、紙は回収され、通してくれる。なんとも面倒な仕組みだ。ビザの申請から数えると最低4人からチェックを受けることになる。

ゲートを出るとすぐにタクシーの運転手が寄ってくる。ムタレまでいくらかと聞くと500ジンバブエドルと言う。さっきの計算だと5米ドルぶんになる。それはちと高いと思い、一人目はパス。

次によってきたおじさんは、あと一人で出ると言う。値段を聞くと「フォーティ」と言う。さっきのおじさんより1桁安いから、ガーナのように下数桁を略した古い言い方ではあるまいなと思ったので、念のため乗っている客に運賃を聞き、fortyだよねと確認するとその女性は首を振り「Four Trillion」と言う。えっ? 

Trillionなんて実際に聞くのは初めてだぞと思いながら、頭の中で計算を始める。この8月に100億分の1にデノミをしたというから4trillionは400新ジンバブエドル。ってことは最初のおじさんより100安いだけ。でも、安い方がいい。

ただ問題はどう見てもタクシーである乗用車の座席はすべて埋まっているということ。加えておじさんはぼくの荷物を屋根に乗せただけで、固定もせずにこれでオッケーとか言っているので、いやいや落ちるじゃろとは言わずに、It's not safeとぼくは言って自分でリュックを降ろす。するとおじさんは後部のドアを開け、後ろのトランクに入れる。最初からそうしろよな。

それから運転手のおじさんは助手席のドアを開け、すでに乗っていた女性に奥に詰めるように言う。彼女はぼくを見て「Do you sit here?」と聞いてくる。顔は笑っていたので、拒否されているわけではなさそうなので、プリーズと言って彼女の横に乗り込む。

車の内装ははがれ、ドアの内側ボードもなく、フロントガラスには大きなひび割れがある。エンジンはなかなかかからない。おじさんはいったん外に出て、ちょっと車を前に押す。下り坂だからすぐにゆったりと前方に進み出し、その力を利用してエンジンをかける。

山道を車は走る。坂道になると時速15kmほどまで落ちる。隣の女性はこれからハラレまで行くという。彼女はぼくにどこから来たのかと尋ねてくる。

その後、彼女は運転手のおじさんとおしゃべり。使っている言葉は英語ではない。ショナ語か何かの言葉のよう。

二人のおしゃべりが終わらないうちにタクシーはムタレの中心部に入る。広い通りを横切ったところで停まる。国境からは30分もかかっていない。

タクシーを降りて運賃を払う。降りたところは長距離のバス乗り場にもなっており、おんぼろな大型バスが数台停まっている。周りに3人ほど、バスの客引きが集まってくる。今日はここに泊まると言うと、どこに行くのだというので宿のある4th streetに行きたいと言うと道をおおざっぱに教えてくれる。

メインストリートであるとおりには通り名を書いた看板があったので、自分がHerbert Chieepo通り沿いにいることはわかったのだが、交差している小さい道の名前がわからないために全体のどのあたりかがわからない。道路名を示す看板はモザンビークの方がよく整備されている。とりあえず教えてもらった方向に歩く。

Herbert Chieepo通りには商店が並び、銀行が並んでいる。トヨタのショールームもあり。歩いている人たちも多い。歩道では新聞を売る人、飴玉を売る人、パンを売り歩いている人などがいる。野菜の小さな市場も見える。歩道の整備具合も店舗の状態もモザンビークよりずっといい。

どの銀行にも長蛇の列ができている。数軒ある大型スーパーには1軒をのぞきほとんど品物がない。服屋や薬屋などには商品はそこそこある。物のなさはキューバ並というところ。

目安にしていた宿近くの通りまで来て、もう一度人に尋ねる。それから教会の前を歩いていると、教会の中から声をかけてきて、わざわざ中から出てきて「助けが必要そうだったから」と言って何か手伝うことはないかと尋ねてくる。それで宿の住所を見せ道順を聞くと、その男性は道を歩いていた人に尋ねる。連れていこうかと言ってくれる。人気があまりない地帯に来ていたので、やや治安の心配があったがここからそんなに遠くないというので、自分で行くことにする。

そこからさらに100m歩いたところで宿を発見。閉鎖していなければいいがと思いつつ、呼び出しベルをならす。10代後半くらいの男性が出てきたので、部屋はあるかと聞くとあるという。ほっと安心。

今回の宿も大きな家の何部屋かを客室として使っているいわば民宿タイプの宿。ヨハネスやシモイオで泊まった宿も同じタイプの宿だったが、どちらも宿主はヨーロッパ人だった。一方、ここは地元の家族がやっているようで、彼は部屋を案内した後、ママだと言って宿主の女性を紹介してくれる。彼女のそばには2歳くらいのかわいい女の子がいた。

宿帳に記入し、荷物を部屋に置く。宿代は1泊5米ドル。久々の5ドルの宿。ボリビア以来か? 部屋も台所もトイレもシャワー室もきれいなので5米ドルじゃ安いくらい。

宿帳を見ると旅行客が急減していることが一目瞭然。宿帳には2007年と2008年ぶんの旅行客の名前があったのだが、2007年は1年間で約100人の客がいて、毎月数人ずついたのに2008年に入って以降ぼくを含め客は18人。この調子で行けば去年の半分以下は決定的だ。ちなみに旅行客はアメリカ、イギリス、オーストラリアからが目立つ。韓国人、日本人も数名あり。

まちに出る。飴玉をなめながら下校している制服を着た女の子とすれ違う。

さっきも通ってきた道を中心に見て回る。絵はがきを探したが、白黒や画質の悪いものしかなかった。

「The Herald」という新聞を買う。250ジンバブエドル。公定レートだと1米ドルが約42ジンバブエドルなので、新聞が6米ドルという計算になる。国境の両替で行っても円で言うと250円相当になる。国境では最初に10米ドルぶん両替して確かに1000ジンバブエドルになったのだが、記憶違いかなどとあまりの新聞の高さにだんだん混乱してくる。

闇両替のレートを知りたいところだが、取り締まりが厳しいと聞いていたとおり、歩いていて両替をしないかと声をかけてくる人はいない。

スーパーに行ってみるとあるスーパーは14本ほどある棚のうち商品が並んでいるのは12本だけ。肉も売っていたが600gくらいが1500ジンバブエドルとぼくにとっても高いくらい。

パンやファストフード店などを見て回っても食べ物の基本的な売価の単位は300ジンバブエドル以上。

昼飯を食いに食堂に入る。450ジンバブエドルのSadza&Vegetableを頼む。サザはトウモロコシの粉を練って突いて作ったそばがきみたいなもの。ジンバブエの主食だ。ベジタブルはいろんな野菜がでてくるかと思ったら、ブロッコリーの葉の炒め物だけ。ちとがっかり。サザは盛りだくさん。トウキビの味がしてなかなかうまい。

それから帰り道に野菜を売っている小さな市に立ち寄る。以下を購入。
じゃがいも2kg(7~10個)ほどが200ジンバブエドル。
人参1kgほどが150ジンバブエドル。人参はせいぜい人の指ほどの大きさしかないほど小さい。
レンズ豆(?)500gが300ジンバブエドル、
バナナ2kg(10本)ほどが400ジンバブエドル、
タマネギ2kg(10玉)ほどが300ジンバブエドル。

宿のママが食料が高くて買えないと言っていたが、ぼくも公定レートで両替していれば、とても買える値段ではない。野菜の類はけっこうあるじゃんと思うくらいそれなりにあるが、人口規模を考えれば少ないだ老。輸入されているだろうりんごもあった。

他売られていた野菜・果物はブロッコリー、キャベツ(これはでかい)、リンゴ、パパイヤ、洋なし、柑橘類3種ほど、レモン、キャッサバ、インゲン、グリーンピースなど。

ネット屋を探すが、最初にまわった2軒はダウンしてるということで使えず。立派なホテルのHoliday Innにはあるかと思っていくがここにはなく、ただフロントのおじさんが2軒場所を教えてくれる。1軒は見つけられず、もう1軒は発見し使える。10分80ジンバブエドル。

スピードも速く写真のアップロードができたので、ここでアップする。しめて670ジンバブエドル。高い!

17時半頃、明るいうちに宿に帰る。

宿には昼間いなかったこの家の子どもたちが帰ってきていた。結局ここには男の子1人と女の子3人がいるよう。女の子の一人は16歳と言っていて、もう一人も同じくらい。

テレビの部屋で新聞を見ていたら、テレビを見るかと女の子が聞いてくるのでニュースにチャンネルを合わせてもらうが、ジンバブエのニュースはこの時間はやっていなかった。ちょっと席を離れた間にチャンネルは変えられていて、スパイダーマンになっていた。ママと女の子3人と一緒に見る。一番ちっちゃいこはみんなに合わせてケラケラわらったり、声を上げたりする。

その後、買ってきた野菜でスープを作る。この家の食事も同じ台所で作っていて、女の子の一人が調理をしていた。サザと豆を塩辛く煮たもの、それからブロッコリーの葉の炒め物が今日のメニューらしい。

シャワーはお湯がでた。

夜はけっこう冷えるので布団をきちんとかぶって寝るのであった。

Fin

[diary]ベイラへおでかけ

ベイラへおでかけ

08/09/04(木) 雨→曇り
[Chimoio←→Beira:Mozanbique]

・雨
・ベイラまでの道で
・モザンビーク第2の都市ベイラ
・警察チェック
・海辺の市場、海岸でトマト交易
・路上生活者たち

7時過ぎに起床。外からは雨音がする。今日はここからバスで3時間ほど海側に行ったベイラというまちを見に行こうかと思っていたが、雨はけっこう強い。しばらく様子を見る。

8時頃になって雨が弱まった。ベイラまでは200kmあるからあっちは晴れているかもしれないし、アフリカで一日中強い雨が降り続けることもないから、予定通り出かけることとする。

鉄道駅前のバス乗り場に歩いて行き、ベイラ行きのバス(モザンビークでは近距離のバスをシャパス;Chapasと呼ぶ)を探す。マイクロバスと大型ワゴンの2種類があり、客が集まっている大型ワゴンを選択。一番後部の座席は3人用シートなのに4人詰め込まれる。

座席はすぐに埋まり、バスは発車。

1時間ほどでInchopeの交差点につき、そこで数人客が降りる。車が止まると一斉に物売りの少年等が窓の近くに集まってくる。パンやジュースなどを売る子が多い。南アフリカからそうだったが、ここは缶ジュースをけっこう売っている。銘柄はファンタとコーラとスプライトというお決まりの品。ペットボトルであれば容器を再利用できる(市場で売られていたりもする)のだが、缶だとそれができない。アルミ缶がお金になるということもないようで、缶ジュースを飲んだ人はぽんぽん窓から缶を捨てる。日本ではペットボトルより缶の方がリサイクル率が高かったはずだが、この様子ではこちらでは逆になっているよう。

沿道には集落がときどき現れる。こちらも家は藁葺き屋根に土壁。円形と長方形の家が基本。

市が開かれている集落もあり、そこは人の出も多い。車はそうしたところで人を乗せたり、降ろしたりしながら走る。そして、そのたびに車の周りに物売りの人がぐわっと集まる。ぼくは一つのところでゆで卵を2個買う。値段は1個5メティカシュ(約20円)。ぼくの左となりの窓際に座っていた少年は、ぼくが卵を食べ終わると暗黙の了解のように閉めていた窓をすっと開け、外に捨てるよう指で合図をする。

沿道には小学校や中学校もときどき現れる。50m四方ほどの校庭では、子どもたちが何やら遊んでいる。

1時間くらい走った頃に運賃が集められる。ドアの開閉&客引き&集金担当の人がそれぞれの行き先を聞いてカネを集める。運賃は150メティカシュ(約600円)。

てっきりこのワゴンでベイラまで行けると思っていたら、沿道の比較的大きな集落前で止まり、同乗のおじさんがここで終わりだと教えてくれる。乗るときにベイラに行きたいと言ったし、150メティカシュも払っているのに、なんだなんだと思いながら運転手にベイラまで行くと伝えたはずだがと言うと、前に止まっているワゴン型バスを案内され、これに乗れと言う。

このワゴンもすでに9割ほどの席が埋まっていて、すぐに発車する。運賃を聞くと75メティカシュ(約300円)。さっきの150メティカシュと合わせるとかなり高くなる。おかしいなと思っていたら、結局、追加料金は請求されず、ベイラまで行くことができた。

乗客を降ろすために止まる度に車の周りにはいろんな物売りが集まってくる。ぼくはあるところでオクラを売っていたので一袋ぶん(500gくらい?)を購入。値段は10メティカシュ(約50円)。

そうした途中立ち寄ったりした集落の小さなで売られているものは、トマトがまず多い。今が季節なのかもしれない。それからバナナもぎょうさんある。その他、パイナップルやパパイヤ、赤・青りんご、ゆで卵、ファンタ、スプライト、コカコーラなどなど。

平地が多く、遠くまで見渡せる。

ベイラには12時過ぎに到着。まちの中心部に近い一つの通りの道ばたがバス乗り場になっていて、そこに車は止まった。

あたりには商店や露店などが並んでいる。

地図を持ってきていなかったので、適当に人の流れを見ながら中心部に向けて歩く。人の流れに乗って歩いていると細い道に入り、小さな橋を渡った。どぶ川のような幅2m程度の川にかかる橋で、歩行者専用の橋。橋の幅も3人並んで歩けばいっぱいという程度の幅しかない。その橋に足を踏み入れると、橋の両端に数人の人が座り込んで物乞いしているのが見えた。見ると、どの人も目が見えない人たち(男女半々くらい)。右手や左手の掌を天に向け、何やら言いながら誰かがその手にカネや物を乗せてくれるのを待っている。

その橋を抜けると今度は靴屋の露店街だった。おもしろいのはたいていの人がシートも敷かずに地面の上に商品を並べていること。マプトでもそうだったが、服なども地面に直に並べて売っていることがある。

周りからの視線を感じつつ、そこを歩いていたら警官2人の姿が目に入る。通行人を捕まえて身分証のチェックをしているようだった。目が合わないようにさっさと視線を変え、前を向いてあるいていると後ろから”Hello"との声が聞こえる。さっきの警官らしいことはわかったが、無視していたら見逃してくれるかと思い、聞こえないふりをして歩き続ける。そのうち声は聞こえなくなる。

大きな通りにでて、信号待ちのため立ち止まると、右から声をかけてくる人がいて、振り向くとさっきの警官だった。”Tudo Bem?(直訳するとすべてうまくいっているかというような意味:スペルが違うような?)"と聞いて来るので"Sim,bem,bem"と答える。すると彼はOKと言って回れ右をするように来た道の方向へ体の向きを変える。それを見て、なんだ声をかけただけで終わりかと思って、信号の方にぼくも向き直すと、また後ろから声がかかる。そして、彼は手招きして一緒に来いという仕草をする。

やれやれと思いながら彼と一緒に歩く。彼はさっきぼくが彼らを発見した場所まで戻り、そこで身分証をチェックしていた彼の上司らしい女性の警官に何事かを告げる。その女性はぼくを見て、身分証を出すように言う。ポルトガル語はできるかと聞くので、できないというと拙い英語に切り替わる。パスポートを見せ、どこに行こうとしているのか、ビジネスで来ているのかなどを聞かれる。男の方の警官は、女性よりも英語ができないようだった。その彼は、なぜかビールを飲んだりするかというような話を振ってくる。

5分ほどで解放され、またまち中心部に向かって歩く。マプトと同じく、ここも建物がぼろぼろになっているものが多い。モザンビーク第二の都市とガイドブックにあったので、けっこう大きいのかと想像していたが、そうでもない。人通りもたいして多くなく、また商店街のようなところも少なく、閑散としている印象を受ける。

ここに来たのは少なくなったメティカシュに両替するためということもあり、まずは両替屋を探す。ぶらぶらしていると銀行が4つほど固まってあるところに出て、その1角に両替屋が1軒あった。レートを見ると1米ドル=24.7メティカシュ、1ユーロ=35メティカシュ。他にも見つかるかと思い、とりあえずレートを確認しただけでまた歩き出す。

半分壊れかけた5階立てのビルやどうすればこんなふうに壊れるのだろうと思ってしまう建物の間を歩く。内戦時に破壊されたままの建物が残っていると『旅行人』にはあったが、どれがそうなのかは今一判然としない。

歩いていたら海辺の方に出た。近くにはポルトガル・モザンビークなんとか学校と書かれた学校があり、子どもたちが小さな校庭で遊んでいた。

防波堤のようなものが見えたので、そちらに向かって歩く。防波堤沿いにはパラパラと10人くらい男たちがいて、それぞれ何をするともなく、海を眺めていたり、防波堤にもたれて座り込んでいたりする。

海を眺めると正面に沈没した船の上部が海上に見える。右手は貨物船の港になっているようで、大型船が何隻か止まっていて、左手遠くには砂浜とマングローブの林が見える。砂浜に人だかりが見えたので、取ってきた魚の取引でもしているのかと思ったが、遠くて確認できない。

人々が集まっているところに浜づたいに行こうかと防波堤の下をのぞき込むが、途中がマングローブの沼地のようになっていたので、浜沿いではなく、町の中をいったん通って向こう側の浜に行くことにする。

適当に町の中を通り、浜の方に向かっているとだんだんと道が砂地になり、その先に露店街が現れた。木材で簡単な骨組みを作り、ビニールなどを屋根に張った簡単な店が幅3mほどの砂道を挟んで両脇に並んでいる。売られているものは服が多い。

どうやらこの一帯は市場になっているようで、メインの服屋の通りの裏側にもう1本細い道ができていて、そっちでは野菜などが売られていた。露店沿いに200mほど歩いていき、右手に曲がり海に出る。広い砂浜の1角に100人くらいの人が集まって何かしているので、そこをのぞきに行くと、やっていたのはトマトの売買だった。トマトをいっぱいに詰めた木箱を持っている人が何人もいて、なにやら取引をしている。浜に近い海上にはモーター付きの木造船が止まっていて、船内には大量の荷物が積み込まれているのが見える。海を挟んで左手や右手には島らしい陸地が見えるので、どうもそこをつないでいる船のよう。

てっきり魚が見れると思って来たのにトマトだったので、ややがっくり。

また露店が並ぶ一帯に戻る。蛇行している通りに沿ってとりあえず端の方まで行ってみる。魚を干している場所や網を修理している場所などがあり、端の人は人家のようだった。人家はユニークな作りになっていて、壁は竹らしき材で格子状に編み、それを内側の壁と外側の壁の2重にして2枚の間(数cm)には不定形の石を詰め込んでいる。コンクリートの建物にたとえて言うなら、編んだ格子状のものが型枠で石がコンクリートの役割をしているような感じ。海辺なのでもしろん足下は砂。

端まで行った後、また戻る。服屋などが並ぶメインの通りまで戻ってから、野菜屋や食堂が集まっていた一角に行く。その中の1軒の食堂で昼食とする。ここはコンクリート作りの6畳ほどの小さな建物で大きな窓がない上、電気もないので中は暗い。

腹が膨れてからその市場の一帯から出て町中に行く。市場の賑やかさからすると町中はちと寂しい。店もいくらかあるが、ぽつんぽつんとあって凝縮性が足りない。路上には工具やカシューナッツやジュースなどを売る人たち。人通り自体が少ないからあまり儲かってなさそう。それから両替屋も少ない。

適当にふらついていると、またもや警察に声をかけられ、パスポートの提示を求められる。パスポートを見せればそれで終わり。

それから適当に歩いていると、今度は市場として作られた一角にたどり着く。こっちの市場は売場や通路などがコンクリートで作られているからいわゆる公設市場のよう。果物や野菜、お菓子、服などがいっぱい。あたりにはごみもいっぱい。

そこから近いところにスーパーがあるのが見えたのでそちらに行ってみる。さすがにスーパーは市場と比べるとやや高い。が、お客はけっこう入っている。白人も黒人もいる。

スーパーの駐車場ではストレートチルドレンらしき男の子たちが3人ほど、店から出てきた客などにあれこれと物をねだっている。そこへ警備員がやってきて、あっちに行けと駐車場の外へと追いやろうとする。一人だけはそれを適当にかわし、駐車場を一度出てはまた入りを繰り返す。

もう15時を過ぎようとしていたので、暗くならないうちに帰りつこうとバス乗り場までてくてく歩いていく。

しばらく待てばバスが出るというので、窓辺の席を確保して、水を買ったりしてしばらく出発を待つ。

15時半にバスは出発。車体はいわゆるマイクロバス。着た道と同じ道を走る。

ときどきスピードを落とさせるために凸が作られているポイントがあるのだが、そういうところにさしかかると待ちかまえていた物売りの人たちが窓越しにカシューナッツやジュースなどを売り込んでくる。が、買う人は稀。

今回は乗り換えなしでシモイオまで行く。18時半過ぎに日は暮れ、シモイオのバス乗り場に着いたのは19時過ぎ。昼間は賑やかな市場あたりもすでに商売を終え、人通りは少なくなっている。それに変わってというか、近くの通りには鶏の串焼きを売る人が数人現れた。

宿に戻ると宿主のドイツ人女性が遅いから心配していたと言う。この辺でも夜はあまり治安が良くないらしい。

ベイラに行くときに立ち寄った村で買ったオクラを茹でて食べる。小指程度の大きさの物はなかなかうまいが、それより大きくなると繊維が固くなり過ぎていて食べられない。

夜は明日のジンバブエ行きに備えて荷物の準備などをしておしまい。

Fin

[diary]シモイオ到着

シモイオ到着

08/09/03(水) 晴れ
[Maputo→Chimoio:Mozanbique]

・夜中のトイレ休憩
・円形の家々
・?に到着
・ジンバブエから来た人
・シモイオ到着
・ピンクパパイヤ
・ファストフードのローカル食
・ネット高い!
・市場

トロトロとバスは走り続けている。車内はまったく静かになり、ぼくもしばらく眠っていた。座席は3人掛けで背もたれは倒れないタイプのものだから、そんなに眠れるわけではない。ケツが痛くてしばしば目が覚める。熟睡できているのは、母親に抱えられた子どもくらいだろう。

眠り込んでいたのにバスが停まったのを機に車内ががたがたとうるさくなる。時計をちらっと見ると夜中の2時前。なんだ? と思って目を覚ましてみると、どうもトイレ休憩らしい。もちろんどこかのパーキングエリアの停まってそこのトイレで•••、ってなわけではなく、草むらで各々が用事を済ますだけ。

しばらくしてまたバスは走り出す。次に目が覚めたときには夜が明けようとしていた。南アフリカでは朝方はまだまだ寒かったのに、意外とこちらは寒くない。

車窓からは右手遠くに山脈が見え、沿道には円形(球形)の土壁の家が集まる集落がときおり見える。

6時半頃、バスはまた停まる。今度はお目覚めのトイレタイムらしい。外は気持ちいいくらいに涼しい。

それぞれ用を済ますと、多くの人は歯を磨き出す。持参している水を使って歯磨き粉を付け、歯ブラシでごしごしやっている。バスの運転手がそろそろ出るぞというような合図をしても、その頃になって車内からパラパラと人が降りて歯を磨き出す。みんな歯磨きに熱心だ。

思ったように出発できず運転手はちょっといらついている様子だったが、少しずつバスを動かすことで脅し、なんとか出発する。

バスのスピードは相変わらず遅い。が、たまに現れる主要な町までの距離を表示した看板から、ぼくの目的地にはだいぶ近づいていることがわかった。昨日はバスがあまりにものろいから、今日も一日バスの中かと思ったりもしたが、やはりそれなりには進んでいた。

窓から外を見ているとなんだか日本に近い風景のように感じる。緑の山並みがわりと近くに見え、道路もアップダウンが多い。川をほとんど見ない点は、日本とだいぶ違う。中南米をまわっているときもそうだったが、こうしてあちこち移動していると、日本はなんと川の多いところなのかと感じる。丸一日車で移動していれば日本であれば(沖縄をのぞき?)、たいてい数本の川を見るだろうが、こちらでは一日に一本も見ないこともある。まぁ、どういうルートを走るのかにも依るだろうけど、印象としてはそのように感じる。

食べ物はだいたいみな持参していて、隣の子連れのおばさんもパンを取り出し、子どもと一緒に食べている。

そんなこんなしながら時間が経ち、10時頃、ようやく目的地点にたどり着く。今日の目的地はシモイオだが、このバスはそこを通らない。ただシモイオにつながる道路との交差点は通るので、そこで降りることにしていた。

道ばたの看板から目的地点が近いことがわかったので、周りの人にシモイオに行きたいのだがと言うと、もうすぐだと教えてくれる。そして、バスが休憩で停まったところがそれだった。ぼくは乗り換え地点は小さなまちだろうと思っていたが、ただの道ばただった。しかし、この交差地点はシモイオだけでなく、モザンビーク第二の都市のベイラにもつながる道とも交差しているため、それぞれのまちとをつなぐワゴンタイプのミニバスの停車場にもなっている。そのため、道ばたでバス待ちをしている人や通りがかるバスの乗客をあてにして物売りに来ている人たちがいるので、ちょっとにぎやか。

荷物をおろし、さてと一息ついていると、バス待ちをしていた一人の黒人の若いにいちゃんが英語で話しかけてくる。彼はこれからマプトに行くと言い、そのバスが何時に来るかわかるかと聞いてくる。わからないと答え、英語ができるので彼にどこの人か尋ねるとジンバブエから来たという。ジンバブエは政情不安とハイパーインフレで危ないというような話もあるが、実際に危ないのかと尋ねると、そんなことはないと言う。

バスから降りたところにはシモイオに行く車はなかった。聞くとシモイオに行くバスにはもう少し先のところから乗れるらしい。てくてく歩く。両脇は草むら。

100mほど歩くと道が交差しているところに出た。左に曲がったところにワゴンが停まっていたので聞くと、これがシモイオに行くらしい。なので、荷物を荷台に積んで背を軽くする。まだ出発しそうにないので、道ばたをぶらぶら。ゆで卵を売っている少年がいたので2個買う。1個5メティカシュ(約20円)はマプトと同じ。

それから日本的なパンを買う。10メティカシュ(約40円)。あと水がなくなっていたので、ジュースを買う。これが西アフリカではほとんど見なかった缶ジュース。炭酸飲料しかないのが不満だったが、しょうがないのでファンタを買う。20メティカシュ(約80円)。西アフリカなどでは道ばたで売っているジュースはほとんどが瓶かペットボトルに入ったジュースで瓶もペットボトルもリユース(ペットボトルは商売している人が適当に中身を入れ替えて使っていた)されているものだったが、モザンビークでは缶ジュースをよく見るようになった。

缶はリユースしにくいためか、ぽいぽいとそこらへんに捨てられている。瓶やペットボトルならカネになるから、あるいは使い道があるからと集めている人(子ども含む)がいるが、缶はそういうふうになっていない模様。リサイクル工場をコカコーラが作れば、缶もお金になるとなり、ペットボトル集めのようにそれで生計を立てられる人が出てくるだろうに、こう簡単に捨てられていてはアルミがもったいない。

30分ほど待っただろうか、ようやく満席になったところで車は発車。12人乗りほどのワゴンで、車体は古い。が、スピードはバスよりも出る。運賃は45メティカシュ(約200円)。

さっきまで乗っていたバスに比べればゆったり座れるせいか、しばらくすると眠くなり、寝てしまう。

目が覚めたときにはまだ目的地に着いていなかった。沿道には集落が見える。燃料にするのだろう、薪をかついで歩いている女性たち(少女含む)の姿を見る。ふとなぜここらの人は荷車を使わないのかと不思議に思う。高くて買えないのか。集落でリヤカーを所有すれば薪運びもずいぶん楽になるように思うのだが。また西アフリカもそうだったが、ここも馬車などを使っている人がほとんどいない。馬がそもそもあまりいないとか馬を飼うのにけっこうカネがかかるとかということがあるためなのか。ともあれ車輪を使った道具をほとんど使っていないように感じる。

道路は起伏はあるものの舗装されているので、走りは快調。1時間ほどした頃、左手に新しめのスーパーが見える。ちょっと行くと線路があり、それを越えるとシモイオの中心部。線路を越えて左に車は曲がり、左手に鉄道駅の駅舎が、右手に市場らしい建物が見えたところで車は停まった。

荷物を受け取り、地図を取り出して、宿の位置を確認。歩く。

バスが停まったあたりには路上にも野菜や果物、お菓子などを売る人たちが集まっている。ちょっと見て周りたい気になるが、荷物を置くことが先とまずは宿を目指す。

線路沿いに150mほど歩き、右に曲がって、また100mほど歩くと目的の宿はあった。ピンクパパイヤという名の通り、外観はピンク。敷地の入り口には鉄柵の門があり、鎖で錠がされている。

中をのぞき込みながら、ハローと声をかける。すると中から若い黒人の男が出て来て、中に入れてくれる。彼はここの宿のスタッフのようで英語を解した。

部屋に案内してもらう。ドミトリーの部屋は一泊8米ドル。木製の2段ベッドが4つあり、ぼくの他に一人先客がいるようだった。部屋は9畳ほどあり、バルコニーにもテーブルと椅子があってのんびりできるようになっている。

荷物を置いて、スタッフの男性にローカル食が食べられる店を聞く。彼は市場にある店がいいと教えてくれる。

歩いてさっきバスが停まったところにある市場を目指す。ピンクパパイヤの周りは住宅街で1軒屋が多い。近辺の道はすべて舗装されている。

10分ほどで市場には到着。一つの大きな建物が市場になっており、中に入ると野菜や果物、肉、工具、服などを売る小さな店がところ狭しと並んでいる。トマトの季節なのか、トマトが大量に売られている。大玉はあまりなく、中玉から小玉のものが多い。バナナやキャベツ、タマネギ、じゃがいも、小さな人参などもあり。

目的の店を発見。こざっぱりしたコンクリート作りの小さな店で客は多い。入り口の看板にはFastfoodと書かれている。

メニューはいくつかしかないようで、周りの人が食べていたものを頼む。ベナンやトーゴ、ガーナなどで食べていたような粉を練ってでかい団子状にしたものとカレースープのようなものが出てくる。団子状のものは、ベナンなどのものとは材料が違うようで、イマイチ味がパットしない。後にトウモロコシの粉が材料であるらしいことがわかる。どちらかと言えば、ぼくはベナンなどで食べているフーフーの方がいい。

カレースープのようなものは、よくあるタイプの味。新味はなかった。値段40メディカシュ(約170円)。

食事後、宿のスタッフに教えてもらったネット屋に行く。この町にはネット屋は数軒あるらしいが、ここが一番いいと教えてくれた。ガラス張りのオフィス風のところで、パソコンが何台も並んでいる。壁に値段表が貼られていたので、見てみると1分1メディカシュの計算になっている。なので1時間は60メディカシュ(約240円)。高い。回線速度はたいして速くもないが、いらつくほど遅くもない。まぁまぁ。

値段が高いこともあるからなのだろう、店内には客は少ない。ワードで文書を作ったりしている若い子が数人いるのは、学生か何かなのだろうか。

そんなことしているうちに夕方近くになる。ここも暗くなって以後は、物盗りなどが現れてちと危険らしいので、暗くなる前に帰らなければならない。

晩飯用にと市場に買い出しに行く。するとまた食堂に目移りし、さっきとは違うもっと小さな食堂で一食くらふ。

それから、道ばたで果物を売っている人からバナナとレモン、椰子の実、トマトを買って帰る。

宿に戻ると昼間いたスタッフは帰ったようで、宿主らしい白人の女性が門を開けてくれる。聞くと彼女はドイツ人で、夫婦でこの宿をやっているらしい。どうりで(?)宿の台所から風呂場から何から何までが珍しいほど丁寧に整頓されているのか、と思う。ちなみに会話は英語。

彼女に椰子の実を見せ、これを割りたいのだがなにか道具はないかと尋ねる。すると鉈(なた)をどこからか持ち出してきて、これでと貸してくれる。椰子の実は外皮ははがされ、堅い中心の殻のみの状態で売られていた。西アフリカにいるときには、毎日のように椰子の実のジュースを飲んでいたが、そのときは椰子売りのにいちゃんたちは、そのままの椰子を陳列していて、注文すると鉈でパンパンパンと飲み口を作って飲ませてくれた。

同じ要領で買ってきた椰子の実も割れるかと思ったが、鉈を振り下ろしてみるとまったくわれない。表皮がないため殻が乾燥して固くなっているのか、それともそもそも西アフリカで飲んでいた椰子とは種類が違うものなのか? 

この実が四角だったら平たいところに置いて叩き割ることもできるが、丸いためそれもできない。左手に椰子を持ち、右手に鉈を持ち、何度か振り下ろすがダメ。とにかく割れる気配がない。逆に鉈の刃が悪くなりそうに思う。

これは無理だなと思い、錐(きり)のようなものがないか、また宿主の女性に尋ねる。するとマイナスドライバーを今度は貸してくれた。これで穴を開けられるないな、と思いつつも、ちょっとずつ錐を使うときのようにある1点を中心にくるくる回していると、なんとか穴が開く。

ただ、この小さな穴から直接飲むのは時間がかかりそうなので、器の上に穴を下にして実を置き、中のジュースが出てくるのを待つ。椰子のみジュースはやはりうまかった。

共用スペースのソファに座って、ガイドブックを読んでいると同じ宿に泊まっている人たちも集まってくる。ビールを片手にやってきたのは白人の女性。聞くとドイツ人らしい。見た目40代くらい。一人旅らしい。ドイツでは子どもの福祉施設で働いているらしく、夏の休みでモザンビークに来たという。休みは1ヶ月あり、今回はモザンビークのみという。アフリカでは他にスーダンやケニア(だったかな?)にも同じような形で旅行に行ったことがあるらしい。

彼女にドイツではアフリカ旅行はポピュラーなものなのかと尋ねてみると、そうではないと言う。日本と同じように、一般的にはアフリカは危険なところと思われていて、あまり旅行には行かないらしい。そう言った後で、彼女は、でも、実際は基本的に安全だけどね、と言う。ちなみに彼女が気に入っているのはスーダンらしい。

そんな話をしていたらカップルらしき白人男女もやってきてソファに座る。彼らは自炊しているようで、スパゲティを盛った皿と生野菜のサラダを手に持ってきた。

アフリカで思うのが、よくガイドブックや外務省の危険情報で、生野菜は食べない方がいいと書かれてあるものの、アフリカで見かけるヨーロッパ人はしばしば生野菜を食っているから、彼ら(彼女ら)は、そういうことを気にしていないのか?ということ。かく言う自分も屋台とかでは生野菜食っているのだけれど。

そのカップル(ということにする)は、イギリスの大学生で女性の方は国際関係論を勉強しているらしい。卒業が近いらしいのだが、その前にと旅行に出て来て今アフリカを北上中らしい。しかし、そのスピードはずいぶんゆっくりしていて、今半年くらい経つが、回ったのは3カ国ほどらしい。1カ所に数週間いることもあるよう。

カップルとドイツ人も英語で会話をしているが、ぼくには彼らの会話は速くてほとんど聞き取れない。

どういう流れだったか忘れたが、そのカップルがモザンビークの別のまちで経験したことを話し出した。海に近い観光地のまちでのことだったらしい。その時、同じ宿に泊まっていた別のイギリス人(以後、A君と呼ぶ)がいて、その彼と3人で市場に飯を食いに行ったという。3人で並んで食べていると、後ろを通りがかった現地の若い男が、突然、A君の荷物をひったくり走って逃げた。

ひったくられた瞬間に気づいたA君はすぐに犯人を追いかけて走り出し、カップルの男の方も一緒に走り出した。その様子を見ていた店の人は、すぐに地元の言葉で大声で何事かを叫ぶと、ひったくって逃げていった男の近くにいた人たちがその声をきっかけに一斉にその犯人を捕まえようと動き出した。

犯人はすぐに捕まえられ、A君の荷物も無事手元に戻った。それは良かったが、今度は捕まえるのを手伝った現地の人が、犯の男を次々と蹴ったりしてぼこぼこにしだした。イギリス人らは荷物が戻ればそれでいいと思っていたので、犯人がぼこぼこにされるのを見て驚いてしまったと言う。

またイギリス人は、犯人をそのまま逃がしてやろうと思っていたのだが、手伝ってくれた人たちが”それじゃダメだ。警察に連れていけ”と言って聞かないため、しょうがなく犯人を連れて警察まで行き、警察とのやりとりなどにしばしの時間を使わざるを得なかったと言う。

などともろもろの話をしているうちに夜中近くなったので、三々五々解散。

あとはベッドで寝る。スワジランドを出て以来、この3日ほどは、寝床はテントにバスだったので、こうして広々と眠れるのは久しぶり。

熟睡

Fin

[diary]マプトからシモイオへ

マプトからシモイオへ

08/09/02(火) 晴れ
[Maputo→Chimoio:Mozanbique]

・眠れない夜
・7時過ぎチェックアウト
・ジュンタで出発待ち
・ジュンタの売り物たち
・トロいバス

昨晩に続き、今朝もテント泊。今度は暑くてなかなか眠れない。テントの外側のカバーをちょっと開けて空気を入れる。

6時過ぎには起き、テントを畳んで出発の準備をする。テントを宿の人に返し、6時半頃には宿を出る。

Juntaというバスターミナルに行くバスが走っている幹線道路まで歩いていき、道ばたでバスを捕まえる。リュックを背負っていたが、幸いバスに乗っている客は少なかったのですんなりと乗れる。

Juntaに着いたのは7時過ぎ。まだ朝早いのにすでにターミナルにはパンなどを売る人たちが集まってきている。バスが停まっている方へ歩いていくとどこに行くのかと次々と訪ねてくる。シモイオに行きたいというとバスを案内してくれる。大型バスだが作りは一昔前の古いタイプ。シモイオ直通のバスは朝5時くらいに出るのが1本あるだけで他はないと聞いていたのに、自信満々にこのバスだと案内され、ちょっと不安になる。

ごちゃごちゃしている中からバスの主らしい男が現れ、チケットを切ってくれる。チケットにはバスの行き先の地名がいくつも印字されており、客の行き先を聞いて該当の地名を丸で囲み、運賃を書き込む。チケットをくれた男は、シモイオまでと言ったにもかかわらず、違う地名に丸を付けていた。よく見てみるとそもそも地名の一覧の中にシモイオがない。バスのフロントに書かれている行き先ももっと北のまちの名前。

う~ん、これは怪しいと彼が丸を付けていた地名をガイドブックの地図で確認すると、南北を貫いている幹線道路とシモイオに続く東西の道路が交差するまちの名前だった。早起きするのが面倒なので、近くまで行ければと思っていたところなので、乗り換えが必要だけどかなり近くまで行くようなのでいいかと結局そのままそのバスに乗ることにする。

バスはなかなか出発しないので、外で待つ。突っ立っていると服売りのおばちゃんやフランスパン売りのおばちゃんたちがやってきて、買わないかと聞いてくる。今回の移動も一日がかりなので、あまり腹に食い物はいれたくなかったが、せっかくなのでフランスパンを買う。でかくてなかなかうまい。

客が集まったのか8時50分にバスは発車。車内は正面を見て右手が3人掛けのシートで通路を挟んで左側が2人がけのシート。一応、座席番号が割り当てられていたので、その席に行ってみると、ぼくは3人掛けのシートで他の二人はおばちゃん。窓際に座ったおばちゃんは荷物を足下に大量に置いていてそれをまたぐようにして座っていて、そのとなり真ん中に座ったおばちゃんは5~6歳くらいの男の子を連れているため、二人とも1.3人ぶんほどのスペースを使っている。当然、ぼくの座るスペースは1人分以下。ハンケツ状態。一応、隣のおばちゃんは奥にずってくれるのだが、そのうちこちら側にはみ出してくる。

そんな状態だから座席から落っこちそうで、おちおち寝てもいられない。

走り出してしばらくするとどこかからたばこの臭いがしてくる。誰だ?と思って見回して見ると、通路を挟んで左後ろの席に座っていたおじさんが吸っていた。バスの車内で吸うなよなと思っていたら、隣のおばちゃん(というか見た目はおばあちゃんに近い)がワーっと文句を言って、そのおじさんの口からたばこを取り上げ手で消してしまった。すばらしい!その後、そのおじさんは再びたばこを口にすることはなかった。

ガイドブックには丸一日もかからない程度で目的地に着くようなことが書かれてあったが、走り出してみるとバスがとてつもなく遅い。速度メーターは見えないし、どうせ見えても壊れているのだろうが、体感速度では平たい道でも50km程度も出ていないように感じる。特に登り坂となるとがくんとスピードが落ち、時速20kmも出ていないのではと思えるほど。あまりの遅さにこれは2日くらいかかるのではと呆然となる。

14時頃、サイサイ(XAIXAI)に到着。それから19時20分にマシシに到着。マシシで晩飯休憩があったため、ビスケットを買って晩飯代わり。30分ほど休憩した後、再出発。先は長そう。

Fin

[diary]マプトをぶらり

マプトをぶらり

08/09/01(月)
[Maputo:Mozanbique]

・中国系ビルディング
・革命博物館
・路上の物売り
・ジュンタ
・郵便局、両替

テントの中、寝床がコンクリートの上ということで、体が痛くて何度か目が覚める。よく眠れず。

昨日はバス降り場から宿まで行く間で暗くなってしまい、まったくと言っていいほどまちを見る時間がなかったので、今日はそれがメイン。それから明日移動するため、そのバス乗り場とバス代、発車の時刻のチェックも。

8時頃、宿を出る。歩いてメインストリートを目指す。歩道も車道も舗装されているが、歩道はがたがた。敷かれていたタイルが斜めになっていたりなんたり。

マプトで面白いのは、通りの名前。マルクスにはじまり、エンゲルス、レーニン、さすがにスターリンはないようだけど、ホーチミン、毛沢東、アジェンデといった人(チトーもあったかな)など、錚々(そうそう)たる名前が今も変わらず通り名として使われている。

大きな通り沿いに出ると、朝の通勤や通学でバス待ちしている人たちや、道ばたでカシューナッツやバナナ、ビスケットなどのお菓子を売る人たちの姿を見る。

その通りを渡ってさらに西側(?)の海の方へ向かって下る。歩いていると左手に中国語が書かれた建物を発見。最近建てられたもののようで、まだ外観は新品。1階は中国食品の店で2階は中華レストランのようだったが、まだ開店していなかった。

そこからちょっと歩いたところがメインストリート。片道一車線の大きな通り沿いに銀行や郵便局、公設市場などがある。

モザンビークの通貨がなかったので、通りにあった両替所で両替する。入り口にはもちろん銃を持った警備員がいた。両替のレートは1米ドル=25メティカシュ。

郵便局は外観は立派なものの中は電気がついていないため薄暗く、客がいないことも手伝って、入った瞬間は閉まっているのかと思えるくらいだった。ここでハガキと切手を購入。

市場に行こうかとその通りを引き続き歩いていたら、歩道に時計屋のおじさんがいたので、そこに立ち寄る。アルゼンチンのコルドバで一度取り替えた時計のガラスが、またガーナで割れてしまったので、それを取り替えてもらおうと思いついたのだった。

おじさんに片言ポルトガル語で時計を見せながら修理してほしいというと、すぐに受けてくれる。値段は100メティカシュ(400円)だったかな。高いなと思ったが、ガラスを買わないといけないと言うので、まぁいいかとそれで手を打つ。

おじさんは歩道に小さな机と椅子を置いて、机の上に中古の時計や各種部品を並べていた。ぼくの時計を受け取ると割れた部分にピンセットを差し込み、割れずに残っていたガラスをすべて外す。そして、立ち上がり、ここで待ってろというような仕草をしてとことこと歩いて行った。おじさんは右足を引きづり気味に歩く。どうもガラスを買いに行ったよう。

しばらくすると一人のおじさんがやってきて、時計屋のおじさんはどこにいるのか、というようなことを聞いてくる。おじさんの歩いていった方を指さし、仕草で答える。

それから10分ほどでおじさんはひょこひょこと戻ってきた。手にガラスが入っているらしい小さな箱を持っている。一緒に待っていたおじさんは、時計屋のおじさんになにやら言う。すると時計屋のおじさんは、ごそごそとポケットをまさぐって車のキーを取り出し、それをおじさんに渡す。キーを受け取ったおじさんは、そのキーですぐ近くに止めていた車のロックを開け、車に乗り込みどこかに行ってしまった。なぜ時計屋のおじさんに鍵を預けていたのか、不思議だ。

さて、ガラスを調達してきたおじさんは、ぼくの時計にそれをはめ込もうとするが、わずかにガラスの方が大きく、すんなりとははまらない。そこで、おじさんは紙ヤスリを取り出し、ガラスの縁を磨き始める。少し磨いてははめてみて、を繰り返す。

ガラスを磨きはじめてから20分ほどして、ようやくきれいにはまり、修理終了。カネを払おうとしたら、最初に聞いた値段よりもあがっている。アフリカではこういう後出しじゃんけんみたいなことがよくある。なので、もとの言い値を確認して、その額を払っておじさんと別れる。

古いが10階建てほどのビルが並ぶ通りを歩き、市場に向かう。10分ほど歩くと右手に市場の入り口が見える。公設市場のようできちんとした建物の中に、八百屋や魚屋、肉屋、魚屋、日用品店など小さな店が並んでいた。規模は予想していたよりもずっと小さい。全体の面積は50メートル四方程度くらい。ちらちらっと見ておしまい。

そこから歩いて革命博物館を目指す。途中、ゆで卵を売り歩いている少年がいたので、彼からゆで卵を2個買う。値段は1個5メティカシュ(約20円)。茹で方がうまいようで、するっと殻が剥ける。

大きな通り沿いにあるので、すぐわかりそうなものだが、それらしい建物がなかなか見つからない。地図で位置を確認しながら、ようやく建物を特定できたものの、工事中らしく見学できず。残念。

なので、明日乗るバス乗り場を確認しに行く。バス待ちしている人たちの中に加わり、バスを待つ。Juntaというのが、バスターミナルの名前らしいので、そこに行くバスを探す。バスには番号が振られ、行き先もフロントに書かれてある。バスと言ってもほとんどが大型のワゴン車かマイクロバス。

バス待ちしている人が集まるところには、物売りの人が数人いて、ある人はカシューナッツを殻から取り出す作業を黙々としている。煎ったのだろうか、殻は真っ黒くなっており、ぎんなんのように殻を割っては中のナッツを取り出す。

バスが来たので乗り込む。バス代は1回の乗車につき5メディカシュ(約20円)。

中心部から走ること20分ほどでJuntaに到着。どんなところかと思っていたら、道ばたの駐車場がそれだった。バス乗り場となっているところと道を挟んで向かいには見た目には自然発生的な市場ができていて、これが面白そうな雰囲気を醸し出している。

まずはバスが何台も停まっているところに行く。バスのフロントに行き先が書かれており、どのバスがどこにいくかはわかりやすい。その乗り場に着く前から、ぼくを発見した人たち等がこちらを見て、声をかけてくる。声をかけてきたのはバスの主たちのようで、口々にどこに行くんだと聞いてくる。それでぼくが「シモイオ」と言うと、その中の一人がバスまで案内してくれる。シモイオまで行くバスはあるにはあるが、出発時刻が6時らしい。そのバスの人は、前日に来てバスの中で寝てもいいと言ってくれるが、すでに今晩の分の宿代を払っているので、それはできない。朝5時に起きたとしてもバスが動いているのかどうか不明だし、どうしたものか•••。

バス乗り場にはバス関係以外にもタオルやハンカチ売りのおばさんやパンのおばさん、ジュース売りの少年たちががやがやと行き交う。何人かに商品を買わないかと声をかけられるが、物は買わず。

とにかく、ここからバスが出ていることが確認できたので、とりあえずはそれでよしとする。昼も過ぎたので、向かいの市場に移動し、飯が食えるところを探す。

バス乗り場の向かいのスペースには、服や靴、鞄、化粧品、果物、ジュース、お菓子など、それぞれ専門の露店が立っている。店の数は全部合わせれば100店舗ほどになるだろうか。

露店の裏側には食堂が並んでいて、こちらは屋根付き調理場付き。調理場と言っても水道などがあるわけではなく、食器の洗浄はバケツにためた水でやったりしている。すでに料理はできあがって鍋に入っている状態で、それを盛りつけすればすぐ食べられるようになっている。

いくつもある食堂の中から適当に店を選び、まずは入る。Sopa(スープ)があるというので、それを頼む。これがなんだか懐かしい味。西アフリカ、マリなどでよく食べたような味だ。具はほとんど入っていない。お値段12メティカシュ(約50円)。

あまり腹が膨れなかったので、続いて適当に店探し。店の外壁は竹で編んだようなもの。見るからに涼しそうだが、吹けば飛びそうでもある。

歩いていたら一軒の食堂の中から声をかけられたので、そこに行ってみる。6畳ほどの広さに3人掛け程度の席が3つほど。入って奥が調理場のようになっている。屋根あり。壁あり。

声をかけてきた若い男は客のようで、彼は英語は多少できた。ここの料理はグッドだからと言うので、何があるか聞くとチキンとポテトだと言う。正直、チキンは中米以後、食べたいと思わないもの第一位になっていたので、ゲッと思ったのだが、店にも入ったし、久しぶりに食うかと観念してそれを注文する。

けっこうなサイズのチキンとさめたフライドポテト、キャベツとトマトのサラダがセットでお値段50メティカシュ(約200円)。ちょっと高いね。まぁ、鶏がでかいからね。

とりたてて新しい発見のない食事のため、黙々と食して終了。腹は膨れる。

またバスに乗って中心部に戻る。そしてまだ歩いていない通りをてくてく歩く。

道ばたで瓶ジュースを売っているおにいさんがいたので、買ってみる。かなり久しぶりに飲むファンタ。1本15メティカシュ(約60円)。ガーナなどでは同じ物が30円程度だったから、やっぱりこっちの方が高い。ご飯も西アフリカでは100円も出せば食べられたから、他も含めてすべて高いのだけれど。

てくてく歩いていたらショッピングセンターを発見。外観から判断するとこちらもかなり新品。敷地に入ると左手にファーストフード店が4軒ほど並んでいた。イタリアンやアイスクリーム屋など。建物の中に入ってみる。電化製品店や服屋があり、エスカレーターであがっていった3階には鮨屋もあった。ネット屋もあったが30分で25メティカシュ(約100円)と高い。

また1階には食品スーパーがあり、何から何までそろっている。虫よけスプレーがなくなっていたので、それを一本と1.5リットルのペットボトルの水を2本買う。水は1本20メディカシュ(約80円)。

買い物を終えて敷地を出ると、その出たところ、つまりはショッピングセンターの入り口あたりにパイナップルを売っているおばさんがいた。このおばさんがパイナップルを買わないかと勧めてくるので値段を聞く。一玉30メティカシュ(約120円)。あんまり売れてなさそうだからいいかなと思い、1つ丸ごと買う。丸ごとといってもちょっと小ぶりなので、一人で食べるにはちょうどいいくらい。

それから朝方前を通った中国商品を扱っている店に行く。置いてあるものすべてが中国からのもので、春雨や醤油に似たもの、煎餅のようなものなど食品、菓子から食器などの日用品の類も置いてある。客はいない。店内はとてもきれい。いろいろ値段を見ていくと、やっぱり市場で買うよりも高い物が多いように感じる。

夕方近くになってきたので、宿に向かう。宿近くに来て、バス代分のメティカシュが足りないように思えたので、近くで両替屋を探し両替。

宿の近くを歩いてみると、どの通りも舗装されていて、高級そうな家もときどき見る。

両替屋からの帰り、宿の近くの路上で果物を売っていたおばちゃんからレモンとパパイヤ一玉を買う。レモン3個で10メティカシュ(約40円)、パパイヤ中型1つ30メティカシュ(約120円)。

というわけで、今晩の夕食はレモンを搾った100%のレモンジュースとパパイヤ、パイナップル1玉ずつ。西アフリカから比べれば果物が高いが、それでも日本人からすればわりと安い値段でたっぷり食べられるのがうれしい。だいたい日本では新鮮なこれらの果物はそうは食べられないからなおさら、今ここにいるうちに、なんて思ってしまう。

宿には相変わらずアメリカ人を中心とした大集団がいて、瓶や食事で使った皿をその辺の床に放っておいたりして大迷惑。昨日のような大騒ぎがないだけましだが、居心地は悪い。やれやれ。

この日の晩もあまりよく眠れず。やっぱテントはいまいちだね。

Fin

2008年12月27日土曜日

[速報]バキュ=バクー(アゼルバイジャン)いり

本日、12/27の明朝にアゼルバイジャンの首都バクーにつきました。雪は全然ないですがカスピ海がすぐそこだからか風が冷たいですね。

カフカス三国(アルメニア、グルジア、アゼルバイジャン)では、警官といい商売人といい一番評判の悪い(と思う)アゼルバイジャンですが、その評判通りに昨日グルジアを出たあとからいらつくことばかり。さっさと出たいものです。

バクーはさすがに油田があるからかアルメニア、グルジアの首都と比較するとだんぜん建物の整備が進んでいます。グルジアのトビリシには明らかに耐用年数を超えた建物がゴロゴロありましたが、ここはそこまでひどくないです。中心部周辺は、現在建設ラッシュのようで公共施設から20階建て程度のアパート群までいろんなものが建築作業中です。

そのおかげ?なのか、トビリシでは目立った物乞いの姿がここは少ないですね。一方で中国人らしき人が数人(おそらく家族)子供向けのおもちゃなどをいれたかばんを肩にかけ歩きながら道売りしている姿を見ました。トビリシでもアジア系の顔立ちの人が道で物売りしていましたが、中国系の人が歩きながら物売りしている姿を見たのは初めてです。

ここは宿代が高く、安いドミトリーでも1500円もするのでさっさと出たい気分です。明日イランのビザを申請しに行き、うまく取れれば明後日にはイランに移動します。

では。

2008.12.27 16;26
Baku,Azerbaijan


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2008年12月19日金曜日

[速報]トビリシ(サカルトウ゛ェロ=グルジア)いり

イスタンブールから直通バスでグルジアの首都トビリシに来ました。

完全にイスタンブールからの時間を図り間違って、午前中のバスに乗れば明るいうちについたものを夕方のバスに乗ったものですから今朝の夜中1時にバスターミナルに到着。たまたまバスの運転手が自分たちが飲み会に使っていたつ部屋に入れてくれたので凍死は免れましたが。といっても凍死するほどには寒くはないですけどね。だいたいマイナス1〜5度くらいでしょうか。

さて、グルジアは2002年以来2度目ですが、その間グルジアは革命に始まり、最近のロシアとの戦争といろいろありましたね。トビリシの市内を走っているバスの中には車体に[Stop Russia]と書いた広告を張って走っているものもありました。なお、その広告にはイカのサイトのアドレスが載っていたので参考までに。
http://stoprussia.org/

ここではアゼルバイジャンのビザを取ってから移動予定です。ビザは簡単に取れると思っていたのですが、どうも3回くらい大使館に通わないといけないようで、結局来週いっぱいくらいかかりそうです。というわけで、もしかしたらクリスマスはここでということになるかもしれません。ここはグルジア正教の国なので、街なかのお店もそれなりにクリスマス的に飾っていますね。スウェーデンやアイスランドほどではありませんが。

というわけで、では。

2008.12.19 13:20
Tbilisi,Geogia

2008年12月16日火曜日

[本]『コーラン (下)』

08/12/13 in Keflavik,Iceland

『コーラン (下)』(改版)、井筒俊彦訳

80
「2[3](この)聖典は文句も一々わかりやすく、特にアラビア語のクルアーンとしてものわかりのよい人々に下されたもの。3[4](善人には)喜びの音信を伝え、(悪人には)警告を発するもの。」

97
「5[6]遠い昔の人々のところへも我らは、数えきれぬほど預言者を遣わしたが、6[7]みな、預言者が現れるたび、きまったように●(※わら)いものにした。7[8]かくて我らは今の人々よりもっと腕の強い者どもをたくさん滅ぼして来た。こういう遠い昔の人々の実例がいくらも起っておるではないか。」

103
「よいか、あれ(イエス)は、ただの僕(ただの人間)にすぎぬ。それに我らが特別の恩寵を授けて、イスラエルの子らの鑑としたまでのこと。」

124
「4 さて、お前たち(回教徒)、信仰なき者どもといざ合戦という時は、彼らの首を切り落せ。そして向うを散々殺したら、(生き残った者を捕虜として)枷(※いましめ)かたく縛りつけよ。5[4]それから後は、情をかけて放してやるなり、身代金を取るなりして、戦いがその荷物をすっかり下ろしてしまう(完全に終わる)のを待つがよい。まずこれが(戦いの道というもの)。勿論アッラーの御心次第では、(こんな面倒な道を踏まずとも)一度に彼ら(異教徒)を打って仇を討つこともおできになろう。だが、お前たち(人間)を互いに(ぶつからせて)それを試みとなそうとのおはからい。」

138
「13 これ、すべての人間どもよ、我らはお前たちを男と女に分けて創り、お前たちを多くの種族に分ち、部族に分けた。これはみなお前たちをお互い同士よく識り合うようにしてやりたいと思えばこそ(自分の部族や血筋をやたらに誇示し合っていた異教時代の風習に反対する)。

195
「6 マルヤム(マリア)の子イーサー(イエス)がこう言ったときのこと、「これ、イスラエルの子らよ、わたしはアッラーに遣わされてお前たちのもとに来たもの。わしより前に(啓示された)律法を確証し、かつわしの後に一人の使徒が現れるという嬉しい音信を伝えに来たもの。その(使徒)の名はアフマド(アフマドはマホメットの原名とほぼ同義。この一節はマホメットの出現をキリストが預言していたことを示す有名な箇所)」と。」

289
「9 よいか、孤児は決して苛めてはならぬぞ。
 10 物乞いに決して邪●(※けん)にしてはならぬぞ。」

330 訳者の解説より
キブラ:信者が礼拝するときにぬかずく方向のこと
「メディナに移ってきた当初、マホメットはユダヤ教徒のキブラを採り、エルサレムの方角に向かって礼拝することにきめた。これでユダヤ人に好感を与えるつもりだった、と近代の学者は解釈する。

しかしユダヤ人が俄然攻勢に出て来た今、彼らのキブラに従っていることは彼の面目をつぶすだけで、ほかになんの効果もない。彼はしばらく思いまよったあげく、ついに意を決してメッカの神殿カアバを回教徒の祈りの方向ときめたのである。この事情は『コーラン』第二章「牝牛」の136節以下に、ありのままに記されている。

そして、これを期として、従来異教邪宗の中心であったメッカの神殿が回教の総本山となったのである。」

[本]『コーラン (中)』

08/12/05 in Stockholm

『コーラン (中)』(改版)、井筒俊彦訳

87 蜜蜂
「95[93]アッラーさえその気になり給えば、お前たち全部を一個の宗派にしてしまう(ユダヤ教、キリスト教、回教など分割せずに全部回教徒にしてしまう)こともおできになったはず。だが(実際は)御心のままに或る者は迷いの道に、また御心のままに或る者は正しい道に引き入れ給う。」

98 夜の旅
「35[33]それから、正当な理由なくして人を殺してはならぬ。人殺しはアッラーの御法度。誰か、不当に殺された場合は、その後継ぎの人間に(報復の)権利を認めておいた。と言うて、むやみやたらに殺すことはならぬ(報復にも限度がある)。必ず(神の)御加護がある。」

154 預言者
「21 一体彼ら、(死者を)甦らせるほどの神々を地上で見つけたとでもいうのか。 22 天でも地でも、アッラー以外に神々があるとしたら、天地はその(美しい)秩序を失ってしまうであろう(神々の意見が一致せずに自然界は統一を失う)。」

179 信仰者
「12 我ら(アッラー)人間を創造するには精選した泥を用い、 13 次にその一滴をがっしりした容器の中におさめ、 14 次いでその一滴から凝血を作り、ついでその凝血からぶよぶよの塊を作り、その塊から骨を作り、さらにその骨に肉を着せ、こうしてようやく新しい生き物を産み出した。」

190 光り
「2 姦通を犯した場合は男の方も女の方も各々百回の●[※むち]打ちを科す。」

194
「31 それから女の信仰者にも言っておやり、慎みぶかく目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分はしかたがないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう。胸には蔽いをかぶせるよう。自分の夫、親、舅、自分の息子、夫の息子、自分の兄弟、兄弟の息子、姉妹の息子、自分の(身の廻りの)女達、自分の右手の所有にかかるもの(奴隷)、性欲をもたぬ供廻りの男、女の恥部というものについてまだわけのわからぬ幼児、以上の者以外には決して自分の身の飾り(身体そのものは言うまでもない)を見せたりしないよう。」

207 天啓
「39[37] 次にヌーフ(ノア)の一族のことだが、彼らは使徒(ノアを指す)を嘘つき呼ばわりしたので、我らはこれを溺死させ、全人類にたいする見せしめとなした。すべて不義なす者どもには我らは酷い刑罰を用意しておいた。」

271 ギリシア人
「37[38] また親類縁者にやるべきものは(惜しみなく)やるよう。それから貧者や道の子(旅人)にも。アッラーのお顔を拝したいと(御嘉賞を得たいと)願う人々であれば、その方がどれほど身のためになるかわからない。そういう者は必ずいい目を見ることになろう。」

294 部族同盟
「41 これ、お前たち信徒の者、繰り返し繰り返しアッラーの御名を唱え、 [42]朝な夕な、声高らかに讃えまつれ。」

[本]『コーラン (上)』

08/12/04 in Stockholm

『コーラン (上)』(改版)、井筒俊彦訳

115 女
「38[34]あっラーはもともと男と(女)との間には優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、この点で男の方が女の上に立つべきもの。だから貞淑な女は(男にたいして)ひたすら従順に、またアッラーが大切に守って下さる(夫婦間の)秘めごとを他人に知られぬようそっと守ることが肝要(この一文は色々な解釈の可能性がある)。

反抗的になりそうな心配のある女はよく諭し、(それでも駄目なら)寝床に追いやって(こらしめ、それも効がない場合は、打●[※ちょうちゃく]を加えるもよい。だが、それで言うことをきくようなら、それ以上のことをしようとしてはならぬ。」

116
「40[36]アッラーに仕えまつれ。他の何者をもともに崇めてはならぬぞ。
両親にはやさしくしてやれよ。それから近い親戚や孤児や貧民にも、また縁つづきのものや血縁の遠い被保護者、(僅かな期間でも)一緒に暮した友、道の子(旅人)、自分の右手の所有にかかるもの(奴隷たち)にも。威張りかえった高慢な人はアッラーは好み給わぬぞ。」

133
「128[129]大勢の妻に対して全部に公平にしようというのは、いかにそのつもりになったとてできることではない。しかしそれとて、あまり公平を欠きすぎて、誰か一人をまるで宙づりのように放っておいてはいけない。」

134
「130[131]天にあるものも、地にあるものも、すべては挙げてアッラーに属す。汝らより先に聖典を頂戴した者ども(ユダヤ教徒およびキリスト教徒)にも、それからまた汝ら自身にも、我ら(アッラー自称)は「アッラーを懼れよ」との厳命を下しておいたはず。」

135
「135[136]これ汝ら、信徒の者よ、アッラーと使徒(マホメット)と、使徒に下された聖典と、それ以前に下された聖典とを信仰せよ。アッラーとその諸天使と、聖典と使徒たちと、最後の日を信ぜぬ者は、取り返しのつかぬほど遠く迷いの道に踏みこんでしまった者。」

243 戦利品
「40[39]反逆行為がなくなるまで、そして宗教がすべてアッラーに帰一するまで、彼らと戦い続けよ。もし向こうが(反抗を)やめるなら、アッラーが彼らの行動を監視していて下さるぞ。」

「42[41]汝らによく心得てもらいたいのはどんな戦利品を獲ても、その五分の一だけは、アッラーのもの、そして使徒(マホメット)のもの、それから近親者、孤児、貧民、旅人のものであるということ、もし汝ら、アッラーを信じ、また我ら(アッラー)が、あの救済の日(バドルの合戦の日を指す)すなわち両軍がぶうかったあの日に、我らの僕(マホメット)に啓示したことを信じているならば。」

[本]新渡戸稲造『武士道』

08/11/29 in Aleppo

新渡戸稲造(矢内原忠雄訳)『武士道(改版)』岩波文庫、1974

19-20
「一つしか知らぬ者は一つをも知らぬ」

54 伊達政宗の言葉
「義に過ぐれば固くなる、仁に過ぐれば弱くなる」

72
「モンテスキューは、貴族を商業より遠ざくることは権力者の手への富の集積を予防するものとして、賞賛すべき社会政策たることを明らかにした。権力と富との分離は、富の分配を均等に近からしめる。」

75
「ニイチェの言うごとく、正直は諸徳の中最も若いーー換言すれば、それは近世産業の養児である。」

93
「武士の教育において守るべき第一の点は品性を建つるにあり、思慮、知識、弁論等知的才能は重んぜられなかった。」
「知的優秀はもちろん貴ばれた。しかしながら知性を表現するために用いれたる「知」という語は、主として叡智を意味したのであって、知識にはきわめて付随的地位が与えられたに過ぎない。」

95
「武士道は非経済的である。それは貧困を誇る」

116
「かくして武士道の教うるところはこれであったーー忍耐と正しき良心とをもってすべての災禍困難に抗し、かつこれに耐えよ。」

[本]鷺沢萠『海の鳥・空の魚』

08/10/09 in Addis Ababa

鷺沢萠『海の鳥・空の魚』角川文庫、1992(1990)

228-229 「あとがきにかえて」より
「どんな人にも光を放つ一瞬がある。その一瞬のためだけに、そのあとの長い長い時間をただ過ごしていくこともできるような。一瞬一瞬の堆積こそが人の一生なのだと言われれば、それを否定することはできないけれど、うず高く積まれてゆく時間のひとコマひとコマ、その全てを最高のものに仕立てあげるのはとても難しいことだ。難しいことだから、「うまくいった一瞬」が大切なものになるのではないだろうか。

神様は海には魚を、空には鳥を、それぞれそこにあるべきものとして創られたそうだが、そのとき何かの手違いで、海に放り投げられた鳥、空に飛びたたされた魚がいたかも知れない。エラを持たぬ鳥も羽を持たぬ魚も、間違った場所で喘ぎながらも、結構生きながらえていっただろう。もっとも、そこにあるべくしてある連中に比べれば何倍もやりにくかっただろうけれど。」

[本]高村薫『照柿』

08/10/09 in Addis Ababa

高村薫『照柿 上』講談社文庫、2006

155
「生活とは、自分が幸せだとか不幸せだとか意識しないで過ぎてゆく時間のことなのだ」

[本]『東アフリカ・色と模様の世界』

08/09/30
福井勝義『NHK人間講座 東アフリカ・色と模様の世界 無文字社会の豊かな想像力』

舞台:エチオピアの牧畜民ボディ

99
ボディの子どもたちは石ころ(黒曜石など)を集めてきて色・模様に基づいて分類する遊びをしている。

「彼らがもっとも依存しているウシは、実に多様な毛色を基盤に個体識別され、名付けられる。その毛色の色・模様の認識を共有できなければ、みんなのわだいについていくことは、とてもできない。」

「色・模様を基盤にしたボディの世界観やそれにともなうさまざまな儀礼は、ほとんどすべて色・模様がかかわっているのである」

132
「ボディの子どもたちは、ビーズ以外でそうした人工的な色彩にほとんどふれることなくまさに無限にひろがる自然の色から色彩の認識を習得していくのである。」

ローレンツ『文明化した人間の八つの大罪』思索社から
「合理的に理解できることだけが、あるいは科学的に証明できることだけが、人類の確実な知的財産であるという迷信は、有害である」

[diary]マプト(モザンビーク)へ移動

マプト(モザンビーク)へ移動

08/08/31(日) 曇り

[Mbabane:Swaziland→Maputo:Mozanbique]
1エマランジェニ=1ランド 
1USD=7.5rand=7.5Emalangeni


6時過ぎに起床。寒くもなく、暑くもない快適な夜だった。外では今朝も昨日に引き続き猛烈な風が吹いている。風に吹かれて揺れる木々の葉がすれる音が屋根を叩く雨音かと思うくらい。

この宿に泊まる前は、朝7時くらいには宿を出て、モザンビークに向かう予定が、昨日、ここの宿では朝食が出ると聞いたので、朝食の時間を待ってそれから宿を出ることにした。

食後、すぐに部屋を出られるように、荷造りをして朝食の始まる8時を待つ。

8時ちょっと前に部屋を出て、敷地の入り口近くにある食堂へ移動。ちょうど準備中だった。朝食のメニューはコーンフレークがプレーンとチョコ味の2種類、それから名前を聞いたが覚えられない名前のものが1種類、加えてフランクフルト1本、チーズ一切れ、トマト一切れ、スクランブルエッグがほどほど、焼いた食パン2枚。飲み物やインスタントのコーヒー、ティーバッグの紅茶、ホットミルク、フルーツジュース。

名前を聞いたが覚えられなかったものは、一目見たときはよくあるジャガイモのペーストかと思ったが、味はお粥に限りなく近い。ライスかと聞いたが違うというので、きっと何かのイモなのだろう。味はついていなかったので、テーブルにあった塩をかけて食べる。昼飯ぶんまで食べる。

8時半過ぎに宿をチェックアウト。歩いて中心部のバスターミナルに行く。途中、3人ほどの子どもたちがこちらを見て手を振ってくる。南アフリカに入って以降、まだ一度もチャイナとかチンチョンチャンとかと子どもからも言われていない。西アフリカではいらつくくらいに毎日のように言われていたのに、この違いは何か? 経済の発展の度合いに寄って違うのか? それとも人種がこっちの方が混在しているからか?

ムババネは坂が多い。宿から緩やかな下り坂を下って、警察署を右に曲がり、ちっちゃな川に架かる橋を渡ると急な上り坂になる。荷物は30kg程度とは言え、運動不足の身では歩くスピードが格段に遅くなる。

20分ほどかけてバスターミナルに到着。日曜の朝ということでか、昨日と比べるとターミナルの人出は少ない。路上で果物などを売っていた人たちも今日はほとんどいない。

ターミナルとは言ってもここはジョハネスバーグと違って、ただの駐車場。乗り場がいくつかあるのだが、それぞれには行き先は書いていない。ただ、バスやミニバスの車体に行き先が書かれているため、それを見ながらバスを探す。

ここからモザンビークへは直通のバスが出ていない。スワジランドのほぼ中央に位置するマンジニというところまで行って乗り換えなければならない。

というわけでマンジニ行きのバスを探す。停まっている車はほとんどが大型ワゴンのいわゆるミニバスで大型バスは2台ほどのみ。昨日、下見に来たとき大型バスがマンジニ行きだったので、フロントを見てみるとこれにもManziniと書かれていた。なので、バスに近づくと運転手らしい人が、マンジニかと聞いてくるのでそうだと答える。荷台にリュックを乗せ、自分も車内に乗る。が、車内には客がいない。しばらく座席に座って状況を伺っていたが、どうもこのバスも座席が埋まってからでしか出そうにない。バスは40人くらい乗れる古い型の大型バス。これは1時間待っても埋まりそうにない。

よって、ミニバスでマンジニ行きがないか探す。ターミナル内をぶらぶら歩いているとスワジプラザ近くの方にマンジニ行きがあった。すでに客が乗り込んでいて出発は近そう。なので、そちらに乗り換える。

料金は大型バスが9エマランジェニ(以下、エマと略)でミニバスが10エマ(約150円)。なかなか安い。

ぼくがバスに荷物を取りに行っている間に3人の中国人が乗り込み、またすぐに2人客が来てあっと言う間にミニバスはいっぱいになった。

短い距離だからか大きな荷物を持っているのはぼくだけ。車自体に荷物を載せるスペースがないため、リュックは膝の上に載せる。荷物代は取られず。

9時過ぎにムババネを出発。郊外は昨日と同じような景色。枯れた草原にポツポツ木々が立つ。木々も葉を落としているのが多い。なだらかな山並みがつらつらと見え、ときどき牛が放牧されている。

マンジニには30分足らずで到着。ムババネと同じように中心部にターミナルがあって、近くには大型スーパーがあった。ガイドブックをちゃんと読んでいなかったこともあり、てっきり降りたところからモザンビーク行きのバスが出ていると思っていたが違った。ターミナルを歩いていてもマプト行きと書いたバスがない。声をかけてきたおじさんに聞くと、ここから離れたところにあるという。そこまで案内すると言われるが、これは断る。このターミナルの周りには4枚ほど大きなカラーの看板が立てられていて、それが目に留まる。一つはAIDSに関する啓発看板でこれはアフリカならたいていどこでも見るが、もう1つがなかなかショックなもので子どものレイプ被害についての啓発看板だった。ここまで大々的にやらないといけないほど、状況がひどいのかとふと思ってしまう。どこにでもある程度はある問題であろうが、気になるところだ。

ちょっと歩いて、別のターミナルがあったので、そこの人にもう一度確認のため聞く。ここの人は丁寧にその道をまっすぐ行って、ストップの看板がある交差点を右に行き、1つ目のロボット(信号)を左に行くとケープが見えてくるからそこだと教えてくれる。ケープ? がなんのことかわからなかったが、とりあえず行ってみる。

教えられた通りに行くと中国人の店があり、クーロンという名のファストフード店の向かいがちょっとした野菜マーケットになっており、その駐車場からマプト行きが出ているようだった。見た目はただの駐車場で、マプト行きなどの看板も出ていないから知らなければわからない。駐車場を取り囲むように中国城と書いた服屋やケンタッキーフライドチキン、同じようなチキンのファストフード店、そしてミニケープという名の商店があった。

駐車場にはそれらしき大型ワゴンがあったので、そこに近づいていくと帽子をかぶったおじさんが声をかけてくる。この人が運転手だった。リュックは後から乗せると言うので外の地面に置いて、小さいバッグを座席に置く。客は今のところ2人。時間は10時過ぎ。いつ客席が埋まることやら。

バス代は60エマランジェニ(ランド)+荷物代。手元にはエマランジェニは40しかない。もちろんランドで払っても問題ないのだが、あいにくそのランドが100ランド札しかなく、ランドで払うとお釣りがスワジのお金になってしまう。スワジのお金は他の国では両替できないという話を聞いていたので、ここでバス代ぶんだけスワジのお金にして残りはランドにしておきたいと考えた。

ただ商店や野菜売りの人に両替を頼むのは無理そうなので、商店で買い物をしたときに釣りを必要なぶんはスワジのお金で、残りはランドでもらおうと企んだ。

商店で3ランド程度の小袋のポテトチップス2袋とスワジのオブザーバーという新聞を1紙(2.5ランド)買う。そして、レジのおばさんに釣りの50エマランジェニをランドにしてくれと頼むが、このおばさん、聞こえていて聞こえない降りをしているのか、そもそも聞こえていないのかまったくこちらに気を向けない。後ろには5人ほど並んでいて、おばさんは次の客のレジ打ちにすぐ入ってしまったので両替は諦める。

さて、どうしたものかと地面に置いたリュックの上に座り、新聞を広げる。とそこへ50代ほどの男性がエクスキューズミーと声をかけてきて、50ランド札をひらひらさせながら、両替したかったのではと言ってくる。レジで後ろに並んでいたのか、どうもぼくの様子を見ていたらしく、わざわざ両替を申し出てきたらしい。あまりに親切なので、もしや偽札をつかまされるのかと思ったが、それにしてはタイミングが良すぎるし(スワジでは両替屋を見たことがないし)、例え偽札でも相手がわからなければ本物と同じなので、ありがたく替えてもらう。これで両替問題は解決。さっき買ったポテトチップスをかじる。

11時。ここに来て1時間経過。まだ客は集まらない。車内や外で陽に当たって待つには暑すぎるので、商店の軒先で待つ。車内で待っていた女性が2人商店前に来て、二人で立ち話を始める。一人の女性は「I don't like to wait too much」と言う。英語で話しているからお互いの母語は違うのだろう。

時間があるので、さっき買った新聞をちらちら見る。どうも数日前だかがスワジの何かの記念日だったらしく、その日に行われた伝統行事の様子が詳しく紹介されている。また、獣にも人間にも移るなんとかフィーバーという伝染病がどこかの谷で発生したというニュースやジンバブエの危機についても丸々1面使って報道している。読んでいて一番気になったのがAIDSの記事。スワジランドは国民のAIDS感染率が非常に高いらしいが、その最新の現況調査の結果が報道されていた。


11時半過ぎになって、ようやく荷車が車の後ろに連結される。ヨハネスからムババネに行ったときに乗った車と同じスタイル。日本で言えば小型ボートなどを車で運ぶときに使うような4輪の荷車を車の後部に連結させ、荷物はそこに載せる。荷物を載せながら、荷台が徴収され、大きさや数によってその料金は異なる模様。安くしてもらおうとねばっている人もいた。

そしてようやく12時頃に車は走り出す。走り出すと5分ほどで、例のようにガソリンスタンドに停車。給油を始める。待っている間に給油しろよな!とやっぱり思ってしまう。この辺は西アフリカと共通。

給油が終わってやっと本格的に走り出す。車体はやや古く、側面にはさびて小さな穴があったりするが、走りは快調。道も良い。片道1車線や2車線の舗装された道路を走る。

ぼくは例のごとく、ぽかぽかするのでしばし昼寝。

外の景色は昨日と今朝とあまり変わりはない。空はうっすらと白い。影ができるほどには晴れているのだが、青空ではない。

ときどき大々的に野焼きをしているところを見る。焼いているのは畑として使っているようには見えない土地なので、なぜ焼いているのか気になるところ。

走り出して1時間ほどたった頃、バスは森林地帯に入る。この森林地帯が日本の山とそっくりで植林で作られた森は単種の木から成っているので、一律的で色に変化や深みがなく、見ていて退屈なのです。道ばたには伐採したばかりらしい直径20cmくらいの細い丸木が積み上げられている。

そうしているうちに国境到着。意外と速かった。時間は12時半。

まずはスワジの出国手続き。こちらの建物も木材をふんだんに使ったロッジふうの建物でとても雰囲気が良い。たぶんぼくがこれまで見てきた国境の施設ではスワジが一番暖かみがある。

そんな雰囲気の良い建物なのに、みんなバラバラと並び、というあ窓口に押し掛け、ぼくは後ろの若い男に追い抜かされ、最後から2番目にパスポートを窓口に提出。めがねをかけた女性の担当の人からは、マプトに行くのかとだけ尋ねられただけで、すぐに出国スタンプを押してくれる。

車は先にモザンビーク側に移動している。ぼくたちは歩いて出国ゲートを出る。出る前に椅子に座った女性がそれぞれのパスポートをチェックする。

ポルトガル語と英語でようこそモザンビークへと書かれたゲートを入る。そこには機関銃を持った迷彩服姿の軍人(警官?)がいて、入ってくる人をチェックしている。先に行ってた客が何やら言い合いをしているのを横目にさっさと入ろうとすると呼び止められ、パスポートをチェックされる。

モザンビークの入国審査の建物は白のコンクリートづくり。それなりに立派で大きい。入り口にはなぜかヨーロピアンらしきグループが大挙して座り込んでいる。座り込んでいると言っても政治的なそれではなく、ただ何をするというわけもなく、地面に腰をおろしぺちゃくちゃしゃべったり、何人かは直(じか)に地面に仰向けになって寝ており、また何人かはバレーボールで戯れているという、国境ではなかなかあり得ない状況に何が起こっているのか察しもつかず。

スワジと違ってモザンビークはビザが必要。ケープでも取れたのだが、2日かかると聞いたので往復の交通費をケチって取らず、またスワジでも取れるのだが、あいにく昨日は土曜日で月曜まで待っている金銭的余裕がないので、国境で取ることにしたのであった。

しかし、これが裏目に出る。入国審査をしているおじさんにビザが必要なのだがと言うと、前に座っているヨーロピアンらしき人らを指さし、彼らもビザ待ちしていて今はFULLだと言う。そして申請用紙もくれない。隣の窓口は車や荷物のチェック(税関)をするところで、そこでなにやら紙を記入している人がいたので、そっちで申請用紙をくれるのかと思い、そちらに行くと隣だと言われる。ちょうど運転手がそこにいて、運転手がさっきのおじさんに何やら現地の言葉で言うとビザの申請用紙をくれた。まったく最初から出せよな~

ポルトガル語と英語の併記だったのだが、一部の英語がわからず。INSTITUTEとFIRMがわからず。確か団体とかの意味だと思うのだが、質問の意図がわからずなんと答えていいかがようわからない。しかし、これまでの経験では単語がわからないところを飛ばしても問題になることはなかったので、そこは空欄にして出すことにする。

さっきのおじさんところに行って、パスポートと申請用紙を渡そうとするが、おじさんはさっきと同じようにあそこで待っている人たち43人もビザを申請していて、今はいっぱい(フル)だからあっちに行って待てと言うだけで受け取ろうとさえしない。

順番で言えば確かにそうだが、のんびりと待っている彼・彼女らと違ってこちらは他の客が30人ほどぼくのことを待っているわけであるから、その辺は気をきかせてぼくの1枚のパスポートを先に裁くのが人の道ではないか? と思うが、あまりに杓子定規なので説得を試みて相手が余計に頑なになると、意地悪されそうなので言われたとおりに待つ。

20分ほど待っていると運転手が様子を見に来る。ここは運転手のコネの力でなんとかなるかと期待したものの、やはり窓口のおじさんはぼくに言ったことを同じようにポルトガル語で繰り返すだけ。運転手もあっさりとひく。

これは面倒なことになった。国境でこうやって時間がかかるとき、ひどい運転手は先に行ってしまうということもあると言うのは他ではときどき聞く話だ。ここからマプトに行くバスが頻繁にあるのなら乗り換えれば済む話だが、あいにくこの国境にはそうしたバスもタクシーもいない。両替屋さえもいない。これでは同じ車に乗った人たちには悪いが、つきあってもらうしかない。

それにしても43人が待っているっていうことは、一人ぶんを5分で裁いても200分以上、つまりは3時間半近くかかるということだ。たいていビザの処理はただシール貼って、そこに有効期限や発効した日付、国境の名前と担当者の名前などが記入される。なんぼ速く処理してもやはり3分はかかるだろう。これから3時間待ちなんてなったら、あんた・・・

あとどれくらい待つのか気になり、ビザ待ちしている一団の中の本を読んで待っていた女性にどれくらい待っているのか聞いてみる。彼女の答えは、2時間くらい。それが確かなら待つのはあと1時間ちょっとで済む。少し安堵する。しかしそれにしても、長い。そもそもなんでこの一団は、事前にビザを入手していなかったのか? 40人以上いる集団ならばエージェントが入っているはずで通常ならそのエージェントがビザの入手は代行するはずなのに、なんでこんな大勢で国境で取得するなどという迷惑なことをするのだ!と、だんだんいらいらしてくる。

ちなみにこの団体年齢はおそらく20代前半で男女混合。基本的に白人ばかりで中国系の男性が1人と黒人女性が3人ほど。みんな英語で会話をしているのでアメリカ人かとも思うが、特に確認せず。

さっきの窓口に行ってみるとおじさんがいた窓口には女性の職員がいた。国境の手続きなどは担当者次第なので、この人ならと思って、ちょっとアプローチするが、やはりダメ。

で、諦めて窓口横に立って待っていたら、しばらくしてその女性がぼくの前を通り、ぼくを見て窓口のおじさんに何やら命令口調で言う。そしたらおじさんはご機嫌取りのような笑いをして、ぼくにパスポートと申請書をよこせと合図をしてくる。女性の職員とおじさんとのやりとりは英語ではなかったから何を言ったかはわからない。が、おじさんの変心ぶりを見ると、ぼくのをさっさと処理しろとあの女性は言ったに違いない。

ハハハ、ラッキーと思って窓口にパスポートと申請書を出すが、申請書の見記入の部分を指摘される。単語がわからなかったところはわからないと言うと、これは英語だぞと言われるが、辞書をカバンの中から探しているうちにその部分は見逃してくれた。

やっとパスポートと申請書が奥にある事務室に届けられる。同じ車に乗っている女性がしびれを切らしたのか、窓口に来ておじさんに何やらポルトガル語で言っている。運転手も様子を見に来て、パスポートは渡したのかと言うので、渡したと伝えるとグッドと1段階進んだことを喜んでいる様子だった。

それから15分ほど待った頃、パスポートが返ってくる。すばらしい。急転直下で事態が好転したことがうれしく、つい笑みがこぼれる。あの女性職員に感謝!

車の方に駆け足で行くと運転手が終わったのかと聞いてくる。イエスと答えると外で待っていた乗客に声をかけ、一斉に乗車。そしてすぐに発車。結局、出国手続きも入れれば国境を通過するのに1時間半ほどかかった。

モザンビークに入ってからは下りになる。同じように緑の薄い山を見ながら下る。

変化といえば道が悪くなったこと。舗装はされているのだが、どうも表面がぼこぼこしているらしく、盛んに上下に揺れる。

感覚的には1000m近いところからずっと下っていったという感じだったのだが、そのせいかだんだん空気が熱くなる。こちらでも大々的に野焼きをしていたから、そのせいかとも思うが、煙が見えないところでも空気が熱い。窓から手を出して比較したところであ車内よりも外の方が熱く、しかもおそらく30℃は確実に越えていて35℃くらいはありそう。

南アフリカやスワジではあまり見なかった山羊が沿道に見え、またきれいに作られている畑も見える。トウモロコシやブロッコリー、キャベツ、バナナなどが植わっているのが見え、また植えているのか自生しているのか車道沿いにポツポツと実を垂らしたパパイヤの木が見える。

30分ほどでまちらしいところに入ったが、雰囲気が西アフリカ的。女性は腰に鮮やかな布を巻いている人がそこそこ多く(3割くらいか)、子どもが路上で物売りをしていたりする。そして道ばたにはビニールゴミや紙ゴミが散乱している。道もこの道から横に入れば舗装されていない。家は藁を編んで作った壁のものやレンガ造り、コンクリートブロック造りなどいろいろ。店はタイル張りの簡単な造りのものが多く、道ばたでさまざまなものが売られている。ただ飯を食わせる屋台は通ったところが悪かったのだろうか見られず。だが、まちの雰囲気からはようやく西アフリカのように道ばたでうまいものが食えそうな雰囲気だ。

沿道にはマプトまでの距離を書いた看板がちょくちょく現れる。30分も走るとあと40kmほどとなる。道は相変わらずぼこぼこ。

国境を出てから1時間半ほどした頃、マプトの郊外に入ったのか家が建ち並んでいる地帯に入る。踏み固められた未舗装の細い道に6畳程度の小さな家がひしめき合い、小さな子どもたちがじゃれあってたり、駆け回って遊んでいたりしていて、いかにも郊外の”都市下層民”が住んでいる地帯という雰囲気。

そうしたところをしばらく走っていくと右手遠くに高層ビルの山が見える。

乗客が沿道でポツポツ降り始める。いつの間にか車線は片道2車線になっていて、なかなか立派。

だんだんと背の高いビルが多くなるが、その外装はかなり古ぼけているものが多い。塗装が剥げているだけではなく、建物のあちこちにひびが入っていたり、ある建物では欠けているところがあったり、一瞬、キューバのハバナの旧市街の光景を思い出させるほど。

それから道ばたに落ちているゴミが多い。これだけ汚いのは久しぶりだ。南アフリカはまちなかにはほとんどゴミは落ちていない(ミニバス乗り場は別)し、スワジランドも比較的ゴミは落ちていなかった。ガーナもけっこうきれいだったし、トーゴにしてもベニンしてもここまでは落ちていない。もしかしたら首都の大きな通りでこれだけゴミが落ちているのは、ここが一番かもしれないとさえ思う。

中心部に入ると10分ほど走ったところで別の客が降りる。地図で見る限り予定していた宿に行きやすい場所のようだったので、ぼくも降りる。日曜ということでか、通りの店はほぼすべて閉まっている。人通りも数えられるくらいしかない。

地図で現在地と目的地を確認し、歩き始める。交差点には道路名が書かれているからわりと分かりやすい。

マプトの魅力と言えば、ぼくだったらこの通り名を挙げるかもしれない。通りの名前を見ていくとなんとも面白い。ホーチミン通りやカール・マルクス通り、ウラジミール・レーニン通りがあり、エンゲルス通りまである。そしてぼくの目的地は漢字にすると毛沢東通り。アルファベットで書かれていたからアフリカ人の名前かと思っていたが、上記のような名前を見ていて毛沢東かと気づく。

歩いていて地図で見てイメージしていたよりも地図に載っていない細い通りが多いように感じたので、後ろから来た男性に道を尋ねる。見た目からモロッコなど北アフリカからトルコあたりの人かと思う。

英語で話しかけると英語で返ってくる。ぼくが行きたい場所については彼は知らず、けれど宿を探していると行ったら安いところがあるからと案内してくれることに。

彼は見たところ30代。予想に反して彼はインドはボンベイ出身だった。インドで生まれ、10年前にここに来たという。今、ちょうど家に帰る途中で、その途中だからと案内してくれた。彼はここではファストフードの仕事をしていると言う。ここには家族と一緒ではなく、一人できた。ポルトガル語はここに来てから覚えたらしい。

どこから来たのかと尋ねるので日本からと言うと、OSAKA!と突然言う。大阪に住んでいたのかと尋ねると日本には行ったことがないとのこと。でもいつか行きたいと彼は言う。彼の移住話を根ほり葉ほり聞きたい衝動に駆られるが、まだ会って数分しかたっていないし、信頼できる人かもわからないので、とりあえず口数少なく相手の様子を観察する。

5分ほど歩いてポルトガル語で言うペンション(ペンサン)に到着。だが、満室でダメ。彼は店の人に別のペンションを聞く。ふたつのペンションを教えてもらい、1つが自分の帰り道なのだが、そちらに行ってみるかと言うので、そちらに行ってみる。

そのペンションに着く前に彼はぼくにちょっとコーヒーを飲みたいんだけどいいか? と聞いてくる。てっきりおごってくれという意味かと思い、ぼくはモザンビークのカネを持っていないと事実を伝えると問題ない、自分が払うと言う。

ぼくはその辺の商店で缶コーヒーや紙コップコーヒーでも買うのかと思っていたのだが、彼はファストフード店っぽい喫茶店の入り口で立ち止まり、中に入る。えっ?と思ったが、試しについていく。中にはいると彼に座るよう席を勧められ、彼はぼくのぶんもまとめてさっさと注文する。

すぐにブツは運ばれてきた。彼はカプチーノ(だっけ?小さいのは)で、ぼくにはコカコーラだった。よりによって炭酸嫌いのぼくにコカコーラとは・・・と思うが、飲まないわけにはいかないのでありがたくいただく。面白いのがコーラと一緒に運ばれて来たコップに氷とレモンが入っていること。氷だけならともかくレモンが入っているのは初めて見た。

飲んでいると彼は携帯電話でおしゃべりを始める。数分しゃべった後、今、恋人と話してたんだと言う。一緒に住んでいるのかと聞くと、一緒には住んでいないが、この12月に結婚する予定があるという。

会計は彼が本当に払った。ランドしか持っていなかったが、払おうと財布を出そうとするが、レシートを見せて2ダラーだからとそれを制す。ありがたくごちそうになる。

飲んだらさっさと店を出て宿探しの続き。すんなりとそのペンションには着いたのだが、なんとここも満室。彼は安いからみんなが泊まりに来ると言う。これらの宿は1泊200モザンビーク通貨(約700円)くらいのよう。

そこでまた彼は別のペンションを聞き出す。今度教えてもらったところは彼の帰路にはないそうで、I'm sorry, but I have to go."と言って握手してお別れ。アフリカに来てここまで親切にされたのは初めて。

彼に教えてもらった宿はそこから100mほどまっすぐ行ったところにあった。部屋の秋があるか聞くとシングルは満室だと言われる。開いている部屋の値段を聞くと450モザンビーク通貨というので、そこまでは出せないなと断る。まったくなんてついていないんだ。

さて、結局、ガイドブックに載っているバックパッカー向けの宿探しに戻ってしまった。ロンプラによれば10ドル以下の宿が2軒あるのだが、現在地からは右と左と正反対の距離にある。右の方がやや近いのだが、ロンプラの紹介文にはしばしば満室と書かれている。数分考え、歩くのが面倒だが左の遠い方の宿に行くことにする。中心部から離れるぶん客も少ないだろうと踏んだのが・・・

さっきのインド人にこれから行く宿がある毛沢東通りに行きたいと言ったとき、4kmくらい離れていると言われてそんなに遠いのかと思って一度は諦めたのだが、改めて地図を見ると1km程度しかない。どっちかが間違っている。ぼくはロンプラを信じ、宿に向かってレーニン通りを歩く。

こちらをちらちらと見る人はいるが、チーノなどと言ってくる人はいない。途中、どでかいごみ箱を漁っていたおじさんが、マイフレンドと言ってカネをくれと言ってくる。が、実際にモザンビークのカネを持っていないので、無視して歩く。

けっこう遠いかもしれないと思い始めてすぐの通りが毛沢東通りだった。手前の小さな通りが地図になかったので、もっと向こうかと思っていたのでラッキー。

宿の番地を確認して、それぞれ敷地の門に書かれてある番号を見ながら宿を探す。そして、それらしき場所に着いたのだが、ヨーロピアン4人ほどがちょうど中へ入ろうとしていた。イヤな予感。ここもまた満室なのではと不安がよぎる。

入り口の門を入ると駐車場があり、そこを通ってさらに仕切られている中が受付だった。その仕切を通り過ぎたとき、恐るべき光景が目の前に広がった。

なんと国境で会ったあの迷惑な団体客が、ここにすでに来ているではないか、しかもみんなビールなどを片手にぎゃーぎゃー盛り上がっている。くそうるさい。

ぼくはこれは部屋はないなと呆然としつつも念のため受付の男性に聞く。ドミトリーがあるかと英語で聞くと流暢な英語で満室だと言う。やっぱり。ハァ~やれやれ、このくそガキどもが、もっと高いホテルにでも泊まりやがれと心の中でつぶやく。

だいぶ日が傾いて来たのに、また来た道を戻って宿探しかと思いつつも、今から移動するのは面倒だなと思い、あたりを見渡す。受付は屋外のバーカウンターにあってそこでやりとりしていたのだが、そのカウンターの向かいなどには屋根のついたテーブル席があった。またキッチンの上にはテントの生地のようなもので覆いがされている屋上があった。それを見て、あそこで眠れないかと思い、男性にあそこに泊まれないと指で指しながら聞くとテントは持っているかと尋ねてくる。

持っていないと言うと、テントは貸してくれてそれで1泊200モザンビーク通貨だという。ぼくは椅子の上で寝られれば良かったので、テントは必要ないと言ってもっと安く済まそうとするが、空を指さしながら彼は今晩は雨が振ると言う。荷物の置き場の問題もあるし、まぁいいかとそのテントで決める。

今はモザンビーク通貨を持っていないと言うと、ランドで良いと言う。ランドでいくらか聞くと2泊で120ランド(約1600円)という。まぁまぁいい値段。でも、同じ値段でペンションに泊まれたことを思うとこの日の不運を恨まずにはいられない。

お金を払うと彼はテント一式を持ち出してきて、屋上にあがり、そこにテントを張る。めちゃくちゃ簡単に張れるものだったので驚く。

そこに荷物を置いて晩飯を漁りに行く。ランドで払ったお釣りがモザンビークのお金で戻ってきたので、それで買い物をするのだ。

近くを歩いてみたが、ファストフード店が一軒とフライドチキン屋が一軒、あとコンビニが2軒ほどあるだけで飯を食えるような屋台がない。がっかり。

しょうがないのでコンビニででかいサイズのヨーグルトを買い、道ばたでパンを売っていたおばさんからフランスパン1本と油で揚げた小さなものを5つ買う。あと街角で12歳くらいの少年がやっていたお菓子の露店でブラジル産とUAE産(だったかな)のクッキーを買う。それぞれ100gくらい入って各約50円ほど。

さて帰ろうかとしたら、店の少年の横にいた別の少年が弟らしい横にいた少年と自分を交互に指さし何やら言う。店の少年に何を言っているのかと仕草で聞くと、一度頭を指さし、その指をくるくる回して頭がおかしいんだというような仕草をしたが、改めて聞くとどうも自分らにクッキーか何かを買ってくれないかと言っているらしいことがわかる。

それでどれが安いか聞くと、店の少年が5モザンビーク通貨と1つを手に取り言うので、それを彼らにプレゼント。20円ほどなら安いものだ。

宿に帰ると相変わらずぎゃーぎゃーうるさい。空いているテーブルでもくもくと買ってきたもので夕食。

小耳に挟んだ話では、このグループは南アフリカやヨーロッパなどの混合らしい。

こいつらが飯を食っている間にとシャワーを早めに浴びる。お湯がきちんと出ることに驚く。

それからテントには明かりがないので、屋内の明るいところで今後のルートを検討。宿にあったモザンビークのガイドブックを見ているとあちこち行ってみたくなる。

そこへ通りがかりのヨーロピアンらしい若い女性がふいにどこから来たのかと聞いてくる。日本だと答え、彼女の出身を聞くとオーストリアからだという。彼女はワークキャンプに参加した後、一人でモザンビークを旅しているらしい。彼女は外で騒いでいる人らをさして、今日は人が多くてやかましいというようなことを言う。激しく同意する。

その後、テントにこもって書き物をするが、暑い。しかも蚊がいた。南アフリカに入って以降、しばらく蚊を気にしなくて良かったのに、まただ。

夜は受付の彼が言ったとおり強風が吹き荒れた。

Fin

[diary]スワジランドへ移動

スワジランドへ移動

08/08/30(土) 晴

[Johannesburg:South Africa→Mbabane:Swaziland]

5:30 ジョハネスバーグ着
7:20 ジョハネスバーグ発(ミニバス:パークステーション裏より)
11:20 国境着、スワジランド入国
12:00 ムババネ到着

バス会社の予定到着時間のとおり、バスは朝の5時半にジョハネスバーグのパークステーションに到着。朝に着くバスは多いようで、バスの停車場にはそこそこ人がいる。また、ターミナル内もバスを待つ人でベンチはほぼすべて埋まっている。

ここからスワジランドに行くバスを探す。てっきり大型バスもあるのだろうと思っていたのだが、ターミナル内にある5社ほどのバス会社すべてに聞いて回ったところ、スワジランド行きの大型バスはないとのこと。ミニバスで行くしかない。

ただ、そのミニバス乗り場が問題で、ヨハネスの宿の情報ノートにはここで物取りにあったとか、後ろから紐だかで首を絞められ、気絶している間に荷物を持って行かれたとか、あまり治安がよろしくないという。加えてガイドブックの地図を見ても、今いちこのターミナルからの行き方がわからない。人に聞きながら行くのも手だが、聞いた人が悪ければどうなるかわからない。

幸いなことにあるバス会社でスワジランド行きのバスについて聞いたときに、そこにいた黒人の男性がミニバス乗り場まで連れていってくれるという。ほっとしてその男性の後をついて歩き始めると、彼はこちらを振り向き、これからミニバス乗り場に連れていくが、いくら払うかと尋ねてくる。これかよ・・・。なので10ランド(約150円)と言うと、彼は50ランド(約800円)払えと言い出す。fifteenと最初は思ったのだが、確認すると彼の要求金額はfifty。レストランでの1食分より高い。

彼に50ランド払うくらいだったら、そのぶんをバス代に使った方がいいので、彼の案内は断り、行き先をスワジランドからモザンビークのマプトに変更。それでまたバス会社にバスを聞いて回るのだが、マプト行きのバスを出している3社のうち2社は満席、1社はビザを持っていないと乗せないと言われダメ。国境で取れるからとまだモザンビークのビザを取っていなかったが、ケープタウンでビザを取っておくんだったなとちと後悔。

鉄道でもマプトに行けるので、鉄道のインフォメーションで今日の電車を聞いたら、今日は便がなく、明日と言う。なんとも面倒なことになった。ジンバブエに行くバスなら乗れそうだが、スワジやモザンビークに行くつもりでランドを用意していたから、それを持ってジンバブエに行くのは得策ではないように思われた。ザンビアやタンザニアでランドが両替できるかわからないし。

そんなわけでしばらくどうするか考える。要はミニバス乗り場がはっきりわかれば、天に運を任せ自力で行ってみるのだが、道がわからないのにターミナルを出るのはちと危うい。

と、そのときターミナル構内をさくさく歩いているポーターの人が目に入る。ポーターの人だったら知っているだろうし、荷物を持ってもらえば仕事としてミニバス乗り場まで連れていってもらえるだろう。そう思い、一人の男性にミニバス乗り場を聞くと、荷物を荷車に乗せろという。値段を聞くと20ランド(約300円)。まぁ、いくらかぼっているかもしれないが、さっきの奴よりはましだし、これがこの人の収入になるならいいやと思い、荷車にリュックを乗せ、その人についていく。

思っていたよりもターミナル構内は広く、コンコースを右に左にと200mほど歩いてやっと外に出た。階段があり、頭上には駐車場が見える。ここがミニバス乗り場らしい。30段ほどの階段だったので、ここで案内は終わりかと思ったら、彼はぼくのリュックを背負い、荷車を畳んで階段を上り始める。

階段を上がってみると、ミニバス乗り場は、汚かった。ワゴンタイプのミニバスが何十台、あるいは100台以上停まっており、路面にはビニールゴミや紙ゴミが散乱している。思っていたよりも広く、また乗り場がいくつもあって、どこからどこ行きのバスが出るのかわかりにくい。これは一人で来たら絶対さまようなと思う。

ポーターのにいちゃんはさくさくと車の間をぬって歩く。そして目的地に到着。すでに人が並んでいて、改めて並んでいたおばちゃんに確認すると確かにスワジランドに行く車だという。

バスは乗客が集まったら発車するというスタイルのよう。幸いなことに行列ができるくらい人がいるから客待ちで時間をロスすることはなさそう。

1台は乗れずに見送り、次の車に乗る。やって来た車は大型のワゴン車だったのだが、荷物を屋根に乗せられるような改造をしていない。はて、どこに荷物を載せるのだろうかと思っていたら、なんとリアカーが現れて、それを車の後ろに接続する。荷物はそこに載せることとなる。リアカーを使うなんてやっぱりリッチだななんて思ってしまう。

7時半頃、車は発車。もちろんぼく以外はみな黒人ばかり。発車してすぐにヨハネス市内のガソリンスタンドで給油&トイレ休憩。

車内では英語ではない聞き馴れない言葉が飛び交う。おしゃべり好きのおじさんがいて、ずっと誰か彼かと話しているのだが、その声は車内の人全部に聞こえており、かつそれは笑える話ばかりらしく、ぼくの隣のおばちゃんはそれを聞きながらくすくすと笑っていた。男の人は声をあげて笑っているのに、女性陣は笑うのをこらえるようにして笑っているから、どうも女性にとってはおおっぴらに笑えるような話題ではないらしい。

車は20分足らずで郊外の幹線道路に出る。その途中、中国語の看板や中国人学校のような建物が見える。その後すぐに、この間泊まっていたイーストゲートのショッピングセンター街に出たので、どうもさっきの一帯がぼくが行こうとしていた中国人街だったよう。

片道3車線程度の幹線道路に出るとあとはすいすい走る。沿道から大きな建物が消え、閑散とした風景の中を走る。

信号もほとんどないため、止まることなく車は走り続ける。相変わらず車内はにぎやか。

ヨハネスを出てから約4時間後の11時半前、国境に到着。南アフリカ出国もスワジランド入国もスムーズ。イミグレでスタンプを押してもらって終わり。

車は高地を走っているようで、ときおり眺めのいいところに出る。まわりに見える山は一応緑で覆われているものの鬱蒼とした森というほどではない。

スワジランドに入るとムババネはもうすぐそこ。スワジランドに入ってからも道の整備は通った範囲では行き届いていて、車の走りはなかなか快調。

国境を越えてから1時間足らずで首都のムババネに到着。中心街の中にあるバスターミナルで降ろされる。バスターミナルには建物はなく、何台ものバスやワゴン車が行き先別に止まっているだけ。ターミナルの縁には歩道が敷かれていて、そこでバス待ちをしている人たちがいる。

ターミナルの周辺にはショッピングセンターがあって、また、歩道などには果物やパンを売る人たちの姿がある。こうして歩道で物売りをしている人たちをたくさん見るのは久しぶり。南アフリカではまず見なかったからガーナ以来だ。

リュックを背負ってガイドブックの地図を頼りに宿に向かう。まずはポリスステーションの方に向かう。ムババネは小さな盆地にあるようなところで、起伏が多い。まずは200mほど登り、また下る。警察署の看板が見えるのでそこを左に行き、あとはまっすぐ。

予定していたとおり教会がやっているらしい宿に行く。近くの教会からは歌声が聞こえてくる。受付のおじさんに泊まりたい胸を伝えると、ちょっと待っておけと別の部屋に案内される。リュックを降ろし、ソファに腰をおろして一息ついたら今朝はバス泊だったこともあり、眠くなってしまう。

ちょっと昼寝したりして1時間程度待っていたが、まったく呼びにこない。なので、もう一度受付に行く。こうしてやっと部屋にありつく。部屋は受付などとは別の棟。こちらも最近建てたのかと思うくらいきれい。

荷物を置いたらさっそくまちに出る。来た道を戻り、バスターミナル近くまで行き、その周辺をふらつく。

道ばたでりんごやバナナなど果物を売る人はいるが、飯を食べさせる屋台はない。ネット屋は2軒ほどあり。

マーケットと看板に書かれてある場所に行ってみると、野菜などを売っている人たちや工芸品などを売っている人たちがいる。またある建物の中は食堂街になっていて、通路の両脇にそれぞれ5~6軒ほどの小さな食堂が並んでいた。それぞれの食堂は5人も座れないくらい小さい。お昼時だが客は他にいない。どの店も女性がやっているようで、見回す限りこの建物内にいるのは女性ばかり。

店頭にフライドチキンなどを並べていたので、1軒ずつみて回ってみる。それぞれの店の前で、ここで食べていけと店の人に勧められるが、どこも置いているのはフライドチキンばかり。それを食べる気がせず、それ以外のものをということで、結局鶏モツをゆでたようなものをおいている店で昼食にする。白いご飯にレタスにモツといった感じ。量は十分。味はまぁまぁ。

それから商店などを見て回る。食料雑貨店や服屋などが多い。

バスターミナル隣のショッピングセンターに行ってみると、土曜ということで各店舗はお休み。その隣のミニショッピングモールのようなところに行ってみると、ここにはスーパーマーケットがあって、お客もぎょうさん来ていた。スーパーで買った総菜をベンチに座って食べている家族もいる。スーパーの品ぞろえは南アフリカと変わらない。

小さい町なので2時間もあれば中心街は一通り見終えてしまう。そういうわけで夕方には宿に戻って、宿で過ごす。2泊ぐらいするかと当初は思っていたが、宿代が高かったことに加え、街も歩ける範囲では見てしまったため明日には出ることにする。

同じ棟には宿泊客がほとんどいないため、とても静かだった。なお、部屋もトイレもシャワーもとてもきれいで申し分なし。あともう少し宿賃が安ければ、文句ないんだけど。

Fin

[diary]ケープからヨハネスに向けて移動

ケープからヨハネスに向けて移動

08/08/29(金) 晴

[Cape Town→Johannesburg:South Africa]

・ナッツを食って腹を壊す?
・一日バスさん

例のごとく朝起きてしばらく書き物。9時過ぎに近くの郵便局に行き郵便を出す。途中、開いていた店でパンを買う。11.95ランド(約150円)。通勤の時間帯と思われるのに通りは閑散としている。

すでにジョハネスバーグ行きのチケットは購入済み。11時発。皮肉なことに昨日とうってかわって本日は晴天なり。

10時に宿をチェックアウト。歩いてバスターミナルに向かう。徒歩で10分程度。

ターミナルにある駄菓子屋でピーナッツやカシューナッツなどを少し買って待ち時間の間に食べる。

バスは予定通りに11時に発車。バスが走り出すとさっさと寝てしまう。この癖がこの旅行中にすっかり身についてしまった。

たまに目が覚めて外を眺めるとだだっ広い青っけのない平原が広がるばかり。たまに羊の放牧場を見る。町の中を通ることはまずない。西アフリカだったら道路沿いにしばしば集落が見えて楽しかったのだが、ここでは舗装されている平坦な道同様、風景も代わり映えしないので退屈でしかない。

15時頃、ファーストフード店などが併設されているガソリンスタンドで20分ほど休憩。

再出発してから数分後、なんだか腹の調子がおかしくなる。あいにくバスにはトイレがついていない。なんでこのタイミングで、と神を呪いつつ、運転手にトイレに行きたいと告げると、辺りを見回し適当なところを探し始める。が、なかなかない。

そこからさらに2~3分走った頃、右手にこじんまりとしたおんぼろそうなホテルが現れる。そこでしばし停車。

バスに戻り、やれやれと思いながらまた寝る。本当に割れながらよく寝る。

失敗したなと思ったのは、キンバリーからケープタウンに行ったときと同じ会社のバスに乗ったこと。一度見た景色であることが退屈さを増幅させる。違うバスだったら違うルートを走るからもうちょっとおもしろかったかも知れない。

キンバリーには夜の11時頃だったかに到着。そこで客がやや入れ替わる。車内はけっこう混んでいるため(乗車率8割程度)、二人分の席を使って横になることができない。なのでケツの痛みに耐えながら、あるいは耐えきれず何度も目を覚ましながら早く目的地に着くのを待つ。

Fin

[diary]喜望峰へ

喜望峰へ

08/08/28(木) 雨、曇り、ときどき晴れ間

[Cape Town:South Africa]

・衝撃のニュース
・スレイブロッジ
・ツアーで喜望峰へ
・ブドウ畑、ぺんぎん、喜望峰

今朝も7時頃起床。やや冷える。しばらく書き物。

晴れていれば朝から喜望峰に行くつもりだったが、あいにく雨がぱらついている。明日にはここを出るつもりだったが、一日延長するか、それとも喜望峰はなしにするか、それともツアーで行くか、などと考える。

結局、ツアーで行っても電車とレンタル自転車で行ってもたいして金額的には変わらないし、天候もまったくよめないのでツアーで行くことを決意。宿のフロントに行き、ツアーの手配を頼む。午後1時過ぎ出発のツアーで値段は330ランド(約4500円)。喜望峰だけでなく、ブドウ農園地帯をまわり、ペンギンがいる海岸などにも行くというので、まぁいいかと。

午前中は空くので、ちょっと外に行く。ネット屋でネット。1時間5ランド(約80円)。

このときにネット上のニュースでペシャワール会の人がアフガニスタンで殺害されたことを知る。殺された人が同世代だったこともあり、このニュースにはかなりショックを受ける。ペシャワール会のことは2001年頃から知っていた。きっかけはアメリカによるアフガニスタン攻撃。アフガニスタン現地で井戸掘りなどの活動をしているというこの会の活動を知り、代表の中村哲氏の話(講演会)を聞きに行ったこともあるし、彼の書いた本も1冊だけ読んでいた。それらの情報から地元に根付いた活動をきちんとしていて、かなり信頼できるNGOだと思っていた。だから現地が不安定な情勢になっても、彼らが地元の武装グループのターゲットになることはおそらくないだろうと思っていたのだが。中村哲氏のコメントが印象に残る。

ややぼーっとしたような状態でネット屋を出る。宿に戻る途中、Slave Lodgeと表に書かれた白亜の厳かな建物の前を通りがかる。ここはまだ見ていなかったと思い、立ち寄る。入場料15ランド(約200円)。

中学生くらいの子たちが見学に来ていた。展示は奴隷貿易の歴史やその実体について。ベニン(ベナン)やガーナ、セネガルなどでも奴隷貿易にかかわる施設や博物館を見てきたが、そちらでは見られなかったこととしてここではアジアからの奴隷の運搬などについてもここでは紹介している。今のインドネシアやフィリピン、日本あたりからアフリカに奴隷として連れてこられた人々がいたらしい。

ツアー開始の時間が迫っていたのでじっくり見ることができず、1時間足らずで引き上げる。

13時20分、宿の前にツアー会社の迎えのワゴンが到着。車内にはすでに2人の先客あり。年輩の男性2人でデンマーク人と言う。その後、別のホテルでまた客を拾う。今度の人はオーストラリアから。若いバックパッカー系の人はいない。高いもんなぁ。

運転手兼ガイドのおじさんは、白人系の南アフリカ人。ヘッドマイクを頭に装着し、運転しながらあれこれと話す。せっかく高い金を払ったのに、ぼくはすぐに眠くなり、寝てしまう。気がつくと車は強い雨の中、高原地帯を走っていた。そのうちぶどう畑が見え、ワイナリーの前を通る。

それから大西洋側の海岸沿いに出て、駐車場で停車。ここらがペンギンが住んでいる地帯らしい。ごつごつした岩ばかりの岸辺にペンギンがうろちょろしていて、見えた範囲では20頭ほどいた。人間馴れしているのか、ペンギンとはそういうものなのか、人が近づいていってもほとんど逃げることがない。背丈は1m足らず程度と小さい。強い風が吹き付ける中、5分ほどペンギンを眺める。あとはあたりをふらふら。

20分ほどそこにいて、また車に乗り込む。喜望峰へ。

くねくねした登り坂を車はあがっていく。一帯は火山の噴火跡のような様相を呈していて、樹木や草もたいして生えていない。

しばらく坂をのぼってやっと喜望峰がある国立公園だかの入り口に到着。車でそのまま入っていき、そこからさらに10分ほどまた坂道を上る。右手には大西洋がちらちらと見える。

16時。喜望峰の灯台下のところにある駐車場に車は停車。ガイドのおじさんは他に人に20分後、ここに集合するように言ってから、改めてぼくだけ呼びつけ同じことを言う。ぼくの英語がダメだということを悟ったようで、最初からこのおじさんはこの調子だ。

灯台まではケーブルカーまたは徒歩で行ける。直線距離で200mもないくらいか。ケーブルカーは高いので却下。歩道を歩く。ただ歩道はくねくね曲がっているから意外と時間がかかる。早足で坂道を上り、灯台から海を眺める。ただでさえ狭いところなのに、他にも観光客が10人ほど来ており、写真をパシャパシャ撮っているから邪魔でしょうがない。もっと端っこに寄りなさいよ。フェンスなどには落書き多数。

時間に追われていてはマゼランなどに思いを馳せている余裕もなく、5分程度でその場を去る。戻りの下り坂は駆け足で降りる。それにしてもメインの喜望峰がたった20分なんてダメじゃんと思うのだが、また雨もぱらつき始めたので滞在時間が長かったとしてもこの天気では結局は同じことになったかもしれない。

帰りはインド洋側を通って帰る。途中、通り過ぎたなんとかという町は町並みがきれいだった。

17時にもなると暗くなり始める。

ケープタウンは帰宅の車のためか、渋滞。17時半頃、ケープタウンの中心部に戻ってくる。

スーパーの近くで下車し、ケープタウンでの最後の晩餐用にとダチョウ肉のソーセージを買って帰る。500gで600円程度。

晩飯は宿でソーセージスープを作る。やっぱり500gもあるとけっこうきつい。ソーセージだけならともかくスープも飲むから水腹になってすぐに腹が膨れる。なので、食堂にいた他の日本人旅行者たちにちょっと手伝ってもらう。

食後は重たい腹を抱えて荷造りなど、部屋で過ごす。

Fin

[速報]再びイスタンブール(トルコ)入り

現在、イスタンブールです。夜の8時です。今朝ストックホルムを出て、ラビアのリガを経由し、15時ごろ着きました。

前回シリアからイスタンブールに来た時は、けっこう物価高いなと思いましたが、今回は逆ですね。スウェーデンもアイスランドも日本並みに高かったので(特に外食では安い選択肢がマクドナルドしかない。マクドナルドのハンバーガーは120円くらいだった)、あれよあれよと金がなくなってしまいましたが、イスタンブールでは宿代別で1000円もあれば3食いけるのでうれしい限りですね。

ここには2泊ほどしてまた移動します。移動先はまた後ほど。

では。

2008.12.15 20:00
Istanbul,Turky

2008年12月9日火曜日

[速報]レイキャビク(アイスランド)\いり

昨日、ストックホルムからアイスランドのレイキャビクに来ました。

現在、12月8日の夕方18時20分。外の気温はだいたい0度です。もちろん外は雪化粧で真っ白です。かつスウェーデンよりも日が短く、夜明けは10時前くらい。日暮れは16時前という感じです。

ぼくがアイスランドに興味をもったのは、もう10年近く前に見たアイスランドの映画邦題「精霊の島」というものでした。米軍基地がある町を舞台にした映画でなんだか鬱屈したものを感じたのがずっと残って、いつかいってみたいと思っていたところ、今年の金融危機。アイスランドの通貨が暴落したのでこの機会に行ってみようかとなったわけです。

金融危機なので、いざ来てみてもどこが以前と変わったかなどはわかりませんね。物価はスウェーデンや日本と同程度です。

アイスランドのことについていろいろ知ると面白いことがいっぱいあります。まずその言葉は古いゲルマン語のようなもので、バイキング時代の文書でも現代の人は読めるほど。英語やドイツ語もアイスランド語と同じ系統のようですが、古い英語やドイツ語はいまとはだいぶ違うものらしいです。その点、アイスランド語は言葉が数百年もの間ほとんど変化していないため、古文書が古文書でない、つまり誰でも読める文書でしかないということのようです。

その他、軍備をいっさい持たないという点も興味深いですが、2006年までは米軍がいました。ただ人口が30万人しかいないので軍隊を持つ必要もないというか、それだけのお金もないというような見方もする人がいるようです。

また、アイスランドの男性は世界で唯一日本人男性よりも長生きしている男性だそうです。

ネット上にあれこれ情報があるようなので、もし関心を持たれたらぜひあれこれ調べてみてください。では。


http://c-cross.cside2.com/html/a10se001.htm

2008年12月4日木曜日

[速報]ストックホルム(スウェーデン)いり

一気に北上して今日、スウェーデンの首都ストックホルムに来ました。

イスタンブールから飛行機に乗ってラトビアの首都リガを経由して、一時間ほど前に到着。20時時点の気温は3度でした。1週間ほど前には雪も降ったらしいですが、街には残っていないですね。

ぼくの先入観もあるかもしれませんが、やっぱりここは雰囲気が違いますね。空港のカフェからなんからデザインなんかもけっこう落ち着いたものが多くて、これまで行った国とはまたぜんぜん違うところに来たなという印象です。

ちなみにここに来たのはアイスランドに行くためとキューバで同じ宿だったスウェーデン人家族に会うためです。明日はアイスランド行きのチケットを探し回る予定です。

というわけでちょっとアジアは休憩して北欧というか極北に寄り道します。10日後くらいにはイスタンブールに戻り、またアジアです。

では。

2008.12.4 21:30
Stockholm,Sweden


大きな地図で見る

2008年12月1日月曜日

[速報]イスタンブール(トルコ)いり

先ほどイスタンブールに着きました。

昨日の13時にシリアのアレッポを出てトルコの入国に2時間半ほどかかり、アンタキヤで乗換えで1時間待ちをして、ようやく今日の11時過ぎにイスタンブールのバスターミナルに到着したところです。

シリアのダマスカスなども大きな街だと感じましたが、やはりイスタンブールの比じゃないですね。町並みや家の色などもヨーロッパ色が強くなっている気がします。

ここには中央アジアのガイドブックを入手するために来たのですが、予定通り入手できそうでほっとしています。

数日ここで過ごしてまた次のところに移動する予定です。

では。

2008.12.1 13;40
Istanbul,Turky

2008年11月27日木曜日

[速報]トラブロス/トリポリ(ルブナーン/レバノン)いり

久しぶりの更新です。

現在(2008.11.27、15時半)、通称ルブナーン(レバノン)のトラブロスことトリポリです。ちなみにレバノン(英語読み)の本名はアル=ジュムフーリーヤ・ッ=ルブナーニーヤだそうです。

イスラエルからヨルダンに戻ったのが1週間ほど前。翌日、シリアのダマスカスに移動したのですが、シリアに入って以降、なぜかこのブログのサイトをどこのまちのどのネット屋でもブロックがかかって開くことができませんでした。これがしばらく更新できなかった理由です。

今朝、シリアのハマというところを出て、ここに14時ころ着きました。北部の国境から入ると無料でビザが取れるという話を聞いていたのですが、それが有料(17米ドル程度)だったので、ビザをけちって48時間の無料のビザで入国したところです。さすがにしばらく前にイスラエルと交戦があったということで、ヨルダン、シリアと比べると軍人の警備が厳しいですね。

ぼくもさっそくこのまちに入って乗っていた乗り合いタクシーが信号待ちしていたときにやられました。たまたま隣に軍人のパトロールしているジープが止まり、目が合ったのが運の尽きだったようです。いきなり迷彩服にライフル銃を持った兵士たち5人くらいがタクシーにやってきて、ぼくに降りるよう言い、パスポートを見せろ、リュックの中を見せろと言ってくる始末。車から降りた瞬間腰の周りをチェックされ、中央分離帯で荷物などを開陳させられた次第。まぁ、言われたとおりにしたところ、すぐに解放されたのですが、いちいち疲れますね。

明日には首都のベイルートに行き、明後日にはシリアに戻ります。シリアからは更新できないので、次の更新はトルコになります。ではでは。

2008.11.27 15;40
Tripoli,Lebanon

2008年11月16日日曜日

[転載]イスラエルニュース

記録のためにここ数日報道されているイスラエルニュースを転載します。

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http://www.hokkaido-np.co.jp/news/international/129228.html
ガザの経済封鎖を強化 イスラエル ハマスと交戦激化(11/15 08:33)

 【カイロ14日鄭真】イスラエル軍と、パレスチナ自治区ガザを支配するイスラム原理主義組織ハマスの交戦が激化し、イスラエルはガザの経済封鎖を一段と強化している。物資の供給が途絶え、ガザ住民の日常生活への影響も出てきた。

 イスラエル軍は四日、領内への越境攻撃阻止を目的にガザを空爆。ハマスもイスラエル領へロケット弾を発射するなど交戦を続ける。イスラエル軍は十四日も空爆を続行、これまでにハマス戦闘員十人が死亡している。

 イスラエル政府は軍事行動について「ガザからのロケット弾発射への応戦のため」と説明するが、ハマス幹部は「攻撃が続くなら反撃を強化する」と反発。双方は六月に停戦合意していたが、なし崩し的に停戦が崩壊する可能性も出てきた。

 一方、イスラエルはガザへの主要検問所も閉鎖。ガザは燃料不足で停電が発生するなど日常生活に大きな障害が出た。燃料輸送は十一日に再開されたが、食料など生活物資の不足は続いており、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)はガザの人口の半数に当たる七十五万人分の食料配給ができなくなると警告している。イスラエルは、国連や援助団体のスタッフのガザ入りも制限している。
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http://www.cnn.co.jp/world/CNN200811140018.html
2008.11.14 Web posted at: 17:29 JST Updated - CNN
ワールド
イスラエル、ガザへの国連トラック通行を拒否

エルサレム(CNN) イスラエル軍は13日、パレスチナ自治区ガザからイスラエル領内へのロケット弾攻撃などを理由に、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)がガザに供給している燃料、食料などの搬入を拒否した。この影響で、ガザ唯一の発電所が稼動中止に追い込まれたとみられる。

支援物資を載せたUNRWAのトラック30台は同日朝、ガザに到着する予定だった。イスラエル国防省の報道官は、ガザ境界付近でテロの恐れがあるため、物資の輸送は今後も遅れる可能性があると話している。

イスラエルとガザを実効支配するイスラム原理主義組織ハマスとの間では、今年6月に停戦が成立した。しかしイスラエル軍は今月4日、ガザからイスラエルへ向かう地下トンネルを発見したとしてガザへ侵攻し、トンネルを爆破。ハマス部隊との間で、停戦後初の戦闘となった。ハマスは報復として、イスラエル側にロケット弾を撃ち込んだ。これに対し、イスラエルはガザ境界を封鎖したが、不可欠の人道支援物質については輸送を認めていた。

UNRWAは、ガザ住民が翌日から食料なしの生活を強いられるとして、イスラエルを非難。「物資の供給が止まれば過激派の活動をあおることになる」と警告している。
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http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2008111500291
「オバマ氏の親イスラエル化期待」=父親発言を次期補佐官謝罪-米

 【ワシントン15日時事】米メディアによると、オバマ次期大統領が新政権の首席補佐官に指名したユダヤ系のエマニュエル民主党下院議員は15日までに、自分の父親が息子の補佐官就任でオバマ氏が親イスラエル化することを期待するとの趣旨の発言をしたとして、在米アラブ人団体に謝罪した。
 父親はイスラエル紙マーリブに対し、「息子が首席補佐官に指名されたことはイスラエルにとって好ましい。もちろん彼は大統領が親イスラエルになるよう影響を与えるだろう」と述べた。(2008/11/15-16:18)
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http://mainichi.jp/select/world/news/20081028k0000m030074000c.html?inb=yt
イスラエル:リブニ外相が組閣断念、総選挙前倒し

 【エルサレム前田英司】イスラエルの最大与党カディマを率いるリブニ外相が26日、組閣期限を残しながら新政権の樹立を断念したのは、連立交渉に翻弄(ほんろう)されて政治手腕を問われる前に国会の解散・総選挙へと主導して、次期首相を狙う「指導者」の決断力を示したとの見方が強い。ただ、政治状況は有利でなく、展開は見えない。また、中東和平交渉やイランの核問題などの懸案を抱える中だけに、地域情勢の混迷にも拍車がかかりそうだ。

 「首相になるためにこの国の政治経済を危うくする『取引』には応じない」。リブニ外相は26日、ペレス大統領に組閣断念を報告した後の記者会見で、政争にあらがう強い指導者像を演出した。

 リブニ外相にとって、組閣の「失敗」は避けなければならなかった。組閣期限(来月3日)まで長引いた末に頓挫したり、少数与党政権を目指して「造反」に覆されたりする事態になれば、求心力の低下は必至だ。自ら組閣を「断念」するのが次善の策だった。

 だが、総選挙の前倒しは「賭け」でもある。

 27日付の最大紙イディオト・アハロノトの世論調査によると、現時点で選挙を実施した場合の獲得議席は、中道右派カディマ29(現有29)▽右派リクード26(12)▽中道左派・労働党11(19)▽宗教政党シャス11(12)--など。カディマは第1党を死守するものの、右派への支持は堅調だ。イスラエル紙ハーレツのアキバ・エルダー論説委員は、イランの核開発の脅威などで「世論は(潜在的に)右寄りになっている」と分析している。

 中東和平交渉でリブニ外相は、パレスチナとの「2国共存」を掲げ、聖地エルサレムの帰属を含めて包括的に協議する方針を示してきた。今回の組閣断念は、シャスが政権入りの条件としてエルサレム問題を議題にしないよう確約を求めたためとされる。次期政権の枠組み次第では、交渉がさらに足踏みする可能性も指摘されている。
【関連記事】

* イスラエル:連立断念、総選挙へ…中東和平交渉さらに停滞
* イスラエル:リブニ外相「組閣か選挙か、26日に判断」
* イスラエル:リブニ外相、あす組閣可否を判断 ぎりぎりの調整に

毎日新聞 2008年10月27日 21時31分
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http://mainichi.jp/select/world/stopcluster/news/20081007k0000m030059000c.html?inb=yt
クラスター爆弾:イスラエルが米国製止め自国「改良型」に

 【エルサレム前田英司】イスラエルは、不発弾の被害が国際問題になっているクラスター爆弾の調達・補充について、主に米国製を購入してきた従来の方針を転換し、今後は自国の軍事企業が開発した自爆装置付きの「改良型」に切り替えることを決めた。ロイター通信などが伝えた。

 自爆装置は、クラスター爆弾が着弾時に不発となっても、一定時間がたつと自動的に爆発して不発弾として残るのを防ぐ機能。国営軍事企業イスラエル・ミリタリー・インダストリーズ(IMI)が86年に開発していた。自爆装置のない「旧型」の不発率が30%超とも言われる中、IMI製は不発率1%未満の「改良型」とされ、同社は「不発弾問題の解決策になる」と強調している。

 イスラエルはこれまで、米国からの多額の「軍事援助金」を活用して、米国製のクラスター爆弾を調達してきた。イスラエル国防省筋はロイター通信に対し「(06年夏の第2次レバノン戦争で)不発弾が市民に強いる代償を認識した」と語り、自爆装置付きに切り替える理由を説明した。

 イスラエルは先の戦争で、レバノン南部一帯に大量のクラスター爆弾を使用。100万発ともいわれる不発弾をまき散らし、死傷する市民が相次いで国際的な非難を浴びた。

 戦後、クラスター爆弾の使用実態を精査したイスラエル軍の調査委員会は「使用は国際法にのっとり、軍事的にも必要だった」と正当化したが、今夏になって当時の国防省幹部が「軍は政府への報告なしにクラスター爆弾を使用した」と発言するなど、見解は揺れていた。

 クラスター爆弾を巡っては今年5月、軍縮交渉「オスロ・プロセス」の会議で日本を含む有志国が事実上の全面禁止条約案を採択したが、イスラエルは米国をはじめとする大量保有国の不参加などを理由に、同調していない。しかし、先の戦争を教訓に、自爆装置付きに切り替えることで、人道面に配慮する姿勢を示したい思惑があるようだ。

 ただ、自爆装置つきでも不発率は「10%近い」とのデータがあり、確実性を疑問視する見方も出ている。
【関連記事】

* STOPクラスター:大反響「クラスター爆弾なんてもういらない。」

毎日新聞 2008年10月6日 19時32分
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[diary]ロビン島ツアー、ウォーターフロント

ロビン島ツアー、ウォーターフロント

08/08/27(水) 快晴

[Cape Town:South Africa]

明るくなった7時頃起床。寒い。部屋は15度くらいか。

昨日の変わりやすい天気とは違って、今日は快晴。空泊も一つなく、澄み渡っている。絶好のチャリンコ日和だからできれば今日喜望峡に行きたいものだが、午後にマンデラが収監されていた刑務所跡地があるロビン島のツアーを予約しているから行けない。明日も同じような天気であればと願うばかり。

午前中は部屋で日記書き。

12時に宿をでる。フロントで今晩の宿代80ランド(約1100円)を払い、島に行く船が出ているウォーターフロント地区に行く。今朝はとても天気がよく、テーブルマウンテンが青空に映え、なかなかよろしい。

途中、商店で朝・昼飯用にパンを買う。揚げパンハンバーガーとでも言うべきもので、ハンバーガーに使うような形の揚げパンの間に炒めた挽き肉が挟んである。パンはでかい。ソフトボールよりもでかい。9ランド(約150円)。

ウォーターフロントまでは歩いて15分ほど。よく整備されている通りを歩いていく。途中、学校が終わったのか、制服を着た少年少女等とすれ違う。男の一人はプカプカとたばこを吸いながら歩いていた。

ウォーターフロントには貨物船や漁船が停泊していた。中国の船らしく、船体に漢字が刻まれている船を4隻ほど見る。ドックらしいところを抜け、ウォーターフロントの中心部に行くと、そこは一大商業地だった。レンガ造りの倉庫ふうの建物やガラス張りの近代的な建物にはレストランや土産物屋が並び、3階立てほどのショッピングモールがあり、ちょっとした広場では大道芸人が芸をしたり、音楽の演奏があったり、クルージングしながら食事をするという船があったり、ヘリコプターでの遊覧ツアーがあったりとなかなかすごい。なお、鮨を出しているレストランも数軒あり、うち1軒が日本人が握っている鮨やだった。スーパーでも鮨を売っており、4口ぶんくらいの小さなカリフォルニアロールが400円ほど。おそらく日本でここまでまとまって整備されている港はない。横浜よりも上。

客も多い。地元の人らしい人はもちろん、アラビア系や中国系の人も見る。

ツアーは3時からだったので、それまで一帯をふらつく。ショッピングモールの中にはブランド店がずらりと並ぶ。ナイキの専門ショップなどトレーニングマシンを売るスポーツ店もあり。また、オーガニック専門店や健康食品店もある。

南アフリカに来て登場したのが、ビーフジャーキーの専門店。部位ごとにガラスケースに入っていて量り売りされている。ビーフジャーキーは見慣れていないので、どうしても犬の餌に見えて仕方がない。

本屋も2軒ほどあったので、のぞいてみる。一軒ではディスカウントコーナーでアウサウンスーチーの本やスティグリッツの本が売られていた。ぼくはこれから行く、アラビア半島や中央アジアのガイドブックがないか探して回ったのだが、それだけがなかった。一方の店にはアフリカはもちろんアジアからヨーロッパまでほぼすべての国の『ロンリープラネット』があったのだが、探しているものだけなかった。また、その店の新刊コーナーに行ったところ、"My Life"というタイトルのカストロの自伝が棚の一番上の目立つところに並べられていた。フランスの新聞ル・モンド・ディプロマティークの編集者(だったっけ?)イグナシオ・ラモネがインタビューしたものをまとめたものなので、キューバで売っていた本の英語版かと思い、訳者あとがきを見てみるがスペイン語版のタイトルは違っていた。円換算で約2500円。5cmほどの厚さがある。買うべきか買わざるべきか迷う。

とりあえず本の購入は後回しにしてスーパーに行く。今晩の食料の下見。だちょうの肉を売っていないか探す。ここにはだちょうのいくつかの部位が売られていた。ステーキ用の部位は500g約1000円。もっといいステーキ用の部位は同g約1500円。バーベキュー用の安いのが同じ重さで約500円。帰りに買うことにする。

また、この店内にはTownship(いわゆる黒人居住区)で作製された買い物バッグが売られていた。材料はおそらくジュート(麻)でデザイナーの支援も受けているのだろう、デザインされたタウンシップのロゴも入っており、なかなかセンスのよいバッグに仕上がっている。小さいものから大きなものまであり、小さいのは400円ほど。大きいものは1000円ほどだった。商品のタグにはタウンシップの子どもが笑顔で写っている写真と商品の背景などが書かれていた。これも買うかどうか迷うが、とりあえずパス。

そんなことをしているうちに15時前になったので、とりあえず買い物は後回しにして、船乗り場のマンデラゲートウェイに行く。船乗り場の建物自体がミニ博物館になっており、ロビン島及び刑務所の歴史を写真とパネルを使って紹介している。残念ながら船の乗船が始まっていたので、これらをまじまじと見る時間はなかった。

船には150人まで乗れる。客はヨーロピアンらしき人たちが多い。半分は白髪の年輩者。アジア系は一人もいなかった。

15時ちょっと前に離岸し、一路島を目指す。港には日本の漁船も1隻見えた。船体に幸栄丸と書かれている。

海から眺めるテーブルマウンテンはまたいい。名前の通り頂上がテーブルのように見事に平たい。途中、アザラシかオットセイのような生き物の頭が海面にちらりと見える。

船は高速船のためけっこう揺れる。30分足らずで島に到着。島の港の壁には1片5mほどにひきのばされた当時の写真が描かれていた。

コンクリートで固められている岸を歩き、ゲートの前で乗客は2台のバスに分乗。それぞれのバスにガイドが付いており、島の中をガイドの話を聞きながらバスで回る。

ぼくが乗ったバスのガイドはインド系の50代くらいの男性。映画のナレーターのように強弱をつけて話す。ぼくはこういう形になるとは予想せずに一番後ろの右奥に座ったため、よく聞こえず。ときおり乗客が声を上げて笑うから、気の利いたジョークもけっこうはさんでいるよう。

バスではここで亡くなった人を葬ったらしい墓やペンギンがいる海岸、マンデラ等が強制労働をしていた石灰の採掘現場などを見て回る。もっと荒れ果てているのかと思ったが、住宅やテニスコートもあり、なかなかきれいだった。

最後に刑務所の見学。ここでガイドが変わる。今度のガイドはヨハネスブルグの黒人居住区ソウェト生まれの人で、実際に政治犯としてここに収容されていた男性。身長160cmほどで体格はよく、丸縁のめがねをしている。最初にベッドのある部屋に案内され、そこで彼自身の自己紹介とその部屋などの説明がなされる。毛布は4人に対し2枚しか配られず、しかも窓ガラスはなかったため冬は相当寒かったらしい。見学者の男性の一人が刑務所内で白人と有色人種で差別的な待遇があったのかと質問したところ、白人はカセットレコーダーなど身の回りのものを比較的自由に差し入れしてもらえたらしいが、有色人種にはそれがなかったらしい。しかし、同じ刑務所にいるということで連帯感が生まれたため、白人の方も特権的な振る舞いはせず、結局お互い同じような環境にいたような感じだったらしい。

また、ここに収容されていたのは南アフリカの人間だけでなく、今のナミビア(当時はまだ独立していなかった)やボツワナ、スワジランド、モザンビークなどの人も収容されていたらしい。

その後、Cellと呼ばれる独房を見学。広さは2畳ほどで床から2mくらいのところに換気用程度の小さな窓があるだけ。廊下に面したドアは鉄格子のドアだったため、その隙間を使って隣から隣へと情報交換をしていたという。具体的には情報を書いた紙などを紐にまきつけ、その紐を隣の独房のドアの鉄格子の隙間を狙って投げたりしていたらしい。

とにかく刑務所内にいるときは元気が出る情報を入手できるかどうかがポイントだったらしい。刑務所側からは悪いニュース(反アパルトヘイト運動が弱体化していっているといった話など)ばかりが知らされるため、そればかりを聞いているとだんだんと落ち込んでしまいそうになるらしい。そこで、面会の時などに例えば家族などの写真のアルバムに細工をして、外部からの情報を伝えるというようなことをしていたという。具体的には、写真を貼る台紙を2枚の紙を貼り合わせて作り、その貼り合わせた間に情報を書いた紙を忍ばせ(つまり袋とじのようなスタイル)、それで外部のニュースを知るという事をしていたらしい。

また、刑務所内では"Each one,Teach one"と言葉を合い言葉にお互いいろんなことを教えあうなど、精神的に参らないためにもいろんな工夫をしたらしい。

彼はいろんなことを話していたのだが、ぼくの英語力では3割ほどしかわからず。

夕方18時前に船に乗り、帰る。海上で日没を見て、対岸に着いたのは日が暮れてからだった。

それからスーパーに肉とパンを買いに行き、宿に戻って食事。肉は焼こうかと思っていたのだが、あいにく油がなかった。そのためスープにしたのだが、味はマトンとほぼ同じ。昨日、インドあるいはパキスタン系の人の店で食べたカレーに入っていた肉と同じ味だった。500g食べきるのはなかなか厳しい。

この宿には10人近く日本人が泊まっており、だいたい20代後半から30代前半。数人で今晩どこかに行くらしく女性陣は共同のキッチンがあるテーブルのところでお化粧をしていた。

食事後はベッドで過ごす。

Fin

[diary]ケープタウン到着、ぶらぶら

ケープタウン到着、ぶらぶら

08/08/26(火) 曇り、晴れ、ときどき小雨

[Cape Town:South Africa]

・整然とした町並み
・充実したインフォメーション
・ロビン島ツアー予約
・チェーン店ばかり

朝5時過ぎ。ケープタウンに向かうバスの中。うっすらと目が覚める。まだ外は暗い。

6時頃、ようやく空が明るくなり、周りの様子がわかる。チリやアルゼンチンと比べるとこのバスの寝心地はよくなかった。日は昇ったものの曇天模様。片道2車線の、日本で言えば高速道路の作りに似た通りを快調にバスは走る。

そのうち前方に高層ビル街が、右手に港とカーブのきつい海岸線が見える。高層ビル街が見え始めた頃から、渋滞のためバスはスピードを落とす。

南米であった日本人旅行者の人は、アフリカを来たから南下して南アフリカに行くと、それまでのアフリカとのギャップにびっくりすると言っていた。つまり、ケープタウンをはじめ南アフリカの都市はヨーロッパ並に整備されているから、それまでに想像していたアフリカ像や経験したアフリカとはまったく違って感じると。ここはアフリカなのか?!と思ってしまうと。近づいてくるケープタウンのまちはまさにそう感じさせるものだった。

日本系の企業や韓国系企業の大きな商業看板が見える。道行く人はスーツにコートを羽織っている人が多い。ヨハネス同様、走っている車の中に窓ガラスが割れているものやドアがへこんでいるものなどは見えない。信号がきちんと機能し、クラクションの音はほとんどせず、道ばたで物を売っている人や飯を食べさせる屋台もない。

右に港湾を見ながら幹線道路から左に入ってすぐ左手がバスターミナルだった。

バスから降り、リュックを受け取り、ガイドブックの地図で位置を確認。外はヨハネスよりもやや冷える。まだ朝だからかあたりはわりと静かだった。客引きしにきているタクシーの運転手もいない。

地図を見ながら宿に向けて歩く。どの建物も新しいのか、それともきちんと手入れされているのか、とてもきれい。道ばたにツーリストインフォメーションを示す看板があったので、とりあえずそれに従ってインフォメーションを目指して歩く。

10分足らずでインフォメーションに到着。ちょうど開いたばかり。マンデラ等が収容されていたロビン島へはツアーでしか行けず、かつ人気が高いので予約しておいた方がいいとのことだったため、インフォメーションで予約しようとするが、まだそうしたインフォメーションの予約業務とかは始まっていなかった。

9時くらいから始まるというので、そこではケープタウンの地図だけもらって、宿探しに行く。

バックパッカー向けの宿が集まっているLONGストリートは、英国的なカフェやゲバラカフェ、旅行代理店、本屋などが並ぶ商店街。チップス&フィッシュなどと書かれた看板も目に付く。

Cats&Mooseという日本語情報のある宿は300mほど内陸側で歩いていったところだった。途中、数軒の宿があり、宿泊費を書いた看板を出しているところもあった。だいたいどこも80ランド(約1200円)程度。

宿に着いて一泊いくらか聞くと、ガイドブックを持っているかと聞かれる。適当に持っていると答える。宿代がほんのちょっとだけ安くなる。

ドミとリーを案内してもらい、荷物をおいたらまたインフォメーションに向かう。途中、歩行者天国の通りでジュウジュウと焼き音を立てながらハンバーガーを売っているおばちゃんがいたので、そこで朝飯代わりにハンバーガーでも買うことにする。ハンバーグはパテを焼くだけだったようなので、ビーフというのを頼むとこっちも似たようなようなものだった。残念。西アフリカでは生の材料を調理したものばかり(調味料は市販品っぽかったけど)だったので、なんだかこうした食い物がグロテスクに見える。

それからインフォメーションに行ったが、担当セクションの人はまだ来ていなかった。しばらく待てば来るというので、しばらくインフォメーション内をぶらぶらする。

センター内にはカフェとネットができるパソコン数台も併設されており、全体的なレイアウトもそれなりにしゃれている。南アフリカ各地の多種多様な観光パンフが大量に整然と並べられており、それを見て回るだけでも面白い。レジカウンターのところにはイベント情報などを載せた無料の小さな冊子が置かれていて、最新号ではゲイ・レズビアンのことが大きく取り上げられていた。

しばらく待った後、ようやく担当者が到着。かばんひとつで客と同じように店内に入ってきて、そのままカウンターに座り、仕事を始める。

担当の女性にロビン島のツアーについて聞く。いつ行きたいのかというので、できれば今日か明日と伝える。調べてもらったところ今日はすでに予約がいっぱいでダメ。明日ならOKというわけで明日の午後のツアーを予約。

これで今日は一日空くことになる。まだケープの後のルートが確定していなかったので、バスの値段や所要時間などでルートを考えようとまずは中央バスターミナルに行って、バス会社数社をまわり、ヨハネスやダーバンなどに行くバスの運賃と発車時刻を調べて回る。それから同じ敷地内にある鉄道駅に行って時刻表と運賃を教えてもらう。鉄道は安いものの本数が少ないのがネック。

それからとにかくふらふらと歩く。バスターミナルの近くには地下街があり、たいした規模ではないものの服屋や時計屋などいろんな商店が並んでいる。こうした地下街なんて見るのはいつ以来か? ブエノス以来? ブエノスもたいしたことなかったけども。

テーブルマウンテンを正面にゆるやかな坂道を上っていく。小さな間口の商店がずっと並んでおり、その中にインド料理屋を発見。昼も近かったので、ここで食事。本当にシンプルなカレー。400円ほど。テイクアウトする客も多い。

そのうち右手にユダヤ博物館が現れ、すぐ近くにはユダヤ教と向け(?)らしい学校もあった。生徒を見る限りでは小・中学校っぽい。

そこを右に曲がると自然博物館(だったと思う)の方に出る。博物館の建物の周りは公園になっていて並木道があり、ベンチがあったりしてのんびり過ごせるようになっている。並木道を歩いているとリスを発見。おおっ!と思って近づくと逃げない。かなり人間慣れしているよう。視線を先の方にやるとリスは1~2匹ではなく、うじゃうじゃいる。木の根本や枝の付け根、路上などパッと見ただけでも10匹はいる。

市街地に戻り、歩行者天国などをふらついてみる。カフェはいくらでもあり、どれも内装がきれい。ハンバーガーやコーヒーショップ、チキン屋、ピザ屋などについては名の知れたチェーン店が一通りそろっている。充実した古本屋も2~3軒ある。歩行者天国の一部を除けば路上で物売りをしている人はいない。当然、飯が食える屋台もない。

観光客は多く、カメラをぶら下げてあるいている人もいる。観光客が多い通りのあちこちには警官と民間人なのかどうなのかよくわからないセキュリティの人間が立っている。

日本やヨーロッパのまちと同じように、総じて整然としており、まちを歩いていてもあまり刺激がない。

天気はころころと変わり、青空が見えたかと思えば曇って雨が降り出すというのを数度繰り返す。南アフリカの中でもケープタウンは、他の地域と天気が違うと聞いていたが、確かにその通りのよう。

中心街の規模もたいして広くなく、数時間で歩いて回れる程度。もう少し大きいかと思っていたが、高層ビルで縦に長いぶん面としての広がりはたいしたことないよう。

日が暮れる前に宿に戻ってからは宿にある日本語情報ノートを読んだり、今後のルートを考えたりなどしながら部屋で過ごす。本棚にアラビア語会話帳があったので自分の本と交換。西アフリカでは日本人にはほんの数人しかあわなかったが、ここには今晩だけでも10人ほど泊まっている模様。

Fin

2008年11月15日土曜日

[速報]エルサレム(イスラエル)いり

昨日11月13日にイスラエルいりしました。
現在、エルサレムは夕方6時前。日が落ちるのが早く17時半ですでに星が見えてます。

なにかと問題のイスラエルですが、その名の通りあれこれよくない話を聞きますね。まち自体は落ち着いた雰囲気ですが、イスラエル兵の武装はなかなかがっちりしていますね。

今日はヨルダン川西岸のパレスチナ自治区で行われている金曜定例のデモに行ってみたのですが、催涙弾などがイスラエル軍から撃たれ、初めてそれを味わいました。なかなか強烈なもんで、あんなにすぐに目が痛くなるとは思いませんでしたね。

イスラエルには1週間ほどいる予定です。

では

2008.11.14
エルサレム、イスラエル

2008年11月10日月曜日

[速報]アンマン(ヨルダン)いり

どうも、現在、ヨルダンの首都アンマン、午前9時15分です。
UAEは毎日30度を超える日々でしたが、ここは朝方の気温は10度台とずいぶん寒くなりました。

ここには昨晩の夜中の飛行機でUAEのシャルジャから移動してきました。移動時間は飛行機で3時間半ほど。時差が2時間あって、ここに着いたのはヨルダン時間の夜中の2時くらいでした。なので朝まで空港で寝て、移動してきたしだい。

今、泊まっているホテルはコーダホテルと言い、日本人旅行者が良く使っている宿です。今日は8人ほど日本人旅行者が泊まっているとか。中東以降のガイドブックを持っていないためここで情報を集めようかと来たところ。

コーダと聞いてピンと来た人がいるかもしれませんが、このコーダはイラクで殺害された香田証生さんからとられたものだそうです。ここのスタッフの一人が別のホテルに勤めていたとき(当時、そのホテルを日本人がよく使っていた)、香田さんがそこに来て、イラクへ行きたいとその手配を頼まれ、しぶしぶとその手配をしたところ(そのスタッフはずいぶん引き止めたらしい)、あのようなことが起こってしまい、そのスタッフはそのときの自分の判断をずいぶん後悔したようです。そして、彼の名前を残そうとホテルの名前にしたということです。

関連情報はネットに大量にあるので、関心があれば検索を。

ドバイには結局1週間ちょっといましたが、当初の目的の1つでもあったウズベキスタンのビザが無事取得できました。UAE滞在が長くなったのは、このビザ待ちをしていたからですが、いまやウズベキスタンビザはイスタンブールでも3週間待ちなどがざららしいので、1週間で取れてほっとしているところです。

結局、エジプトは行かず、ここからイスラエル、またヨルダン、そしてシリア、レバノン、トルコと北上します。2日後くらいにはイスラエルに行く予定です。

ではでは。

2008.11.10 9;30
Anman,Jordan

2008年11月1日土曜日

[速報]シャルージャ(アラブ首長国連邦)いり

イエメンでエアアラビアのチケットを買い、今朝までフライト待ちをしてようやくアラブ首長国連邦の一首長国であるシャルージャに入りました。目的のドバイは隣にあり、ここからバスで30分ほどでいけます。

ドバイ行きの飛行機はシャルージャ行きよりも高く、ドバイのユースホステルも相部屋で3000円近くするなど高いので、ドバイの建設労働者の居住地にもなっているシャルージャに来た次第。ちなみに飛行機代はサナアから片道175米ドルほど。宿のユースホステルは、会員証をもっていたおかげで55ディルハム(約1700円)程度に抑えられました。ちなみにサナアではほかの日本人旅行者と相部屋で1泊700リアル(約350円)だったので、一気に宿代は5倍になった計算です。


今いるネット屋は日本語が読めて打てて1時間4ディルハム(約160円)。イエメンの3倍ですが、まぁ思ったより安いですね。

ちかくの通りはパキスタン人街になっているようで、パキスタンスーパーマーケットと名前の書いた店やパキスタンを頭につけたレストランなどが5~6軒あります。インドあるいはパキスタン系の中年のおじさんたちばかりが乗ったマイクロバスが走っているのですが、どうもそれは建設労働者を運ぶためのバスのよう。

なお、ここで出されている英字新聞Gulf News(だったかな)の昨日付けの記事の中には、大阪のあいりん地区の話が載っていました。記者名は日本人でしたが。

ここには1週間ほどいる予定です。明日はちょっとドバイを見学しに行ってきます。

では。

2008.11.1 17;40
Sharjah,UAE


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